週報より その②


『 窓 』

『 週報 』おもて面にある〈コラム〉の加筆版

  旭東教会の日常のあれこれです 

              ※『週報』では350字程のものです


礼拝でだれもが自由に使うことが出来るジャンベというアフリカの太鼓です。
礼拝でだれもが自由に使うことが出来るジャンベというアフリカの太鼓です。

※バックナンバーは容量の都合で削除しています。


2022年11月13日 届く言葉を祈りつつ 子ども祝福礼拝にて 二人の息子の譬え話の紙芝居をつまみ読む 森牧師
2022年11月13日 届く言葉を祈りつつ 子ども祝福礼拝にて 二人の息子の譬え話の紙芝居をつまみ読む 森牧師

             2022年11月20日号

       窓

   『 説教にも通ずるお話でした 』

 

 先週、「30年以上前、旭東教会の礼拝に出席していました」と仰る奥さまとご一緒に初来会された〈Kさん〉との礼拝後のほっとタイムの時間が、とても楽しく有難かった。

 

 Kさんは、大学生の頃から「弁論部」に所属され、国語の教師を中学校でなさりながら、「弁論」という「言葉」に現在も含めて深く関わる世界で尽力されて来たという。

 

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 お話を伺っているうちに、わたし自身が日頃から説教をする時に大切にしたいと薄ぼんやりと思っていたことを、不思議な程幾つも言葉にして下さった。

 

 断片に過ぎないけれど、少しご紹介できればと思う。

 

 何のは話から以下のことを口にされ始めたかはもう思い出せないが、こういう趣旨のことを言われた。

 

 「新しい話は全体の二割でいいんです。後(あと)は、そうそう、うんうん、とうなずける位が調度いい。新しい話ばかりを人は聴けません」。

 

 (胸のあたりを押さえながら)「魂、心からそう思っていることを語らないと、言葉には力はないですし、伝わりませんから」と続けられた。

 

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 「弁論」の世界は何も存じ上げない私だが、お話を聴いていて気持ちが上向きになり、嬉しくなった。

 

 教会の皆さんから「森先生の説教、今日もまた、あの話だね」と思われることがあったとしても、それはそれで、やはり重要なことだと確認できたような気がする。

 

 説教で同じ話(同じ原稿を堂々と読みなさいという意味とは違います)は決して悪いことではない、と以前から思ってはいたのだが、異なる畑の方からの言葉ながら、思いがけない接点があることに気付く。

 

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 また、ご夫妻からの共通しての励ましの言葉として、1分間の分かち合いの時間に筆頭でマイクをもって下さった奥さまが口にされことがある。

 

 それは、私の「説教の際の話し方」についての励ましの言葉だった。

 

 もしも、本当にそうであるならば、なおいっそう努力していこうと思いつつ(手前味噌を自覚しながら)記すが、「たいへん聴きやすかったです」と言われたと思う。

 

 Kさんは弁論の審査を長年なさったかたであるし、奥さまは、ある放送局でのアナウンサーをのキャリアを経て、その後、その後お仕事を続けられたと確か言われたと思う。

 

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 「届く言葉」について、3ヶ月程前のみんなの教会学校の教師研修会で共に学び、整理したつもりだったが、この度は、違う角度から言葉を届ける、という働きが確認できたのかも知れない。

 

 説教の場合、実際は、会衆が聴き慣れた話を新鮮な形で二割に留めることは極めて難しいことだと思う。

 

 見方を変えれば、いつも繰り返して伝え続けていることを、まるで初めて伝えるかのように新鮮な思いで届けることは、どこかで言葉の伝え手としてのprofessionalの自覚が必要な牧師の努めであり、勉めであり、勤めなのだ。

 

 この度の出会いは神さまが備えられたこと。これを切っ掛けに、いよいよ誠実に励んで行きたいと思っております。はい。(森)

 

 


礼拝の終わり、1分間の分かち合いの時間に、教会外の方で交流が始まりつつある60歳後半の男性からのお便りを紹介する森牧師です。絵を描くように手紙を巻きもののような紙に書いてくれるのです。
礼拝の終わり、1分間の分かち合いの時間に、教会外の方で交流が始まりつつある60歳後半の男性からのお便りを紹介する森牧師です。絵を描くように手紙を巻きもののような紙に書いてくれるのです。

   2022年10月30日

   【窓】『 恩返し 』

 

今年の夏の終わり、高二の時からの親友・敏也君の一人娘さん36歳が結婚することになり「げん、瑞穂(みずほ)の結婚式を頼みたい…」との相談を受けた。

 

もちろん快諾した。

 

敏也君ご夫妻は私が20代半ば頃のB型肝炎との闘病中、身の置き場を失い、とある場所からの転居が必要となった時、彼らが暮らしているという、本当にただそれだけで「練馬区桜台」という町に引っ越す切っ掛けを与えてくれた人たちだった。

 

当時のことがわかる文章をたまたま見つけたので貼り付けておこう。2004年に語った説教原稿に記していた言葉である。当時はまだ説教の完全原稿を一応書いていた。

 

        **************

 

20代の中頃、入院生活が続いていた時期がありました。その頃わたしは、東京の練馬、西武池袋線桜台駅の近くのアパートに住んでいました。親しい友人夫妻のアパートが近所で、彼らはよく食事に招いてくれました。

 

バイクで10分も掛からない距離ですので、お言葉に甘えてしばしばお邪魔しました。心のこもったご馳走がテーブルの上に乗るのです。けれども、B型肝炎を患い肝機能の数値が悪くなってくると、どんなに美味しそうなご馳走が並んでいても食欲がわきません。怠くて怠くてたまらないのです。

 

ある日の夕食の席。「さぁー、言。食べようぜ!」と敏也君という友人に言われたのです。けれども、無意識のうちに「ふーーーっ」と溜め息をついてしまった。さすがに料理を作ってくれた奥さんからは(彼女も古い友人ですが)「言さん、溜め息はないじゃない。溜め息は!もう」と言ってプイッとなってしまった。

 

これは気をゆるしている友人の前だからこその本当に無意識のうちについた溜め息でした。悪気があったのではない。すごく調子が悪かったのですね。

 

今になって振り返ってみますと、その時のわたしの心の中には、ただ食欲がない以上の何かがあったのだなあ、と思います。おそらく、予想される何度目かの入院生活、そして、仕事もろくに見つからない状態に対する苛立ち等など・・・。わたしの心を覆っていたのは、様々な思い煩いでした。

 

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金曜日、新幹線で東京へ。

 

挙式は私の母校・日本聖書神学校の礼拝堂を私が提案していた。土曜日、晴れの日を迎えた。一時間半前に礼拝堂に到着。リハーサル前、プロの聖歌隊のお二人とオルガニストに挨拶。手順を確認して行った。

 

挙式の直後、聖歌隊の方に「今日はありがとう。おかげさまで無事にここまでたどり着けました」と挨拶。すると、お一人が涙ぐみながら、「先生の思いが伝わって来て・・・」と言葉にしてくれた。

 

結婚式の前夜、新郎新婦と敏也君夫妻と椿山荘というところの離れの席で夕食を共にしていたときのこと。折々に助けられ、声掛けをしてもらっていたことを懐かしく思い出し、あのときも、この時もと振り返る時間があった。あー、敏也夫妻は恩人なのだ、と。

 

東京から岡山への帰り道、新幹線のぞみ101号が名古屋に近付いた頃、「あー、やっと恩返しできたのかもなぁ」とふと思った。(森)

 

 

 


二年前の6月、受洗された望さんを、さらに、もう一年位前に病室を訪問した時のひとこま。旭東教会の週報には「望さん」の名前がお祈りの欄に載り続けている。一度も礼拝にはお出でになれないが、神の家族としてその存在は、重く貴い。寿子さんの坊ちゃんです。
二年前の6月、受洗された望さんを、さらに、もう一年位前に病室を訪問した時のひとこま。旭東教会の週報には「望さん」の名前がお祈りの欄に載り続けている。一度も礼拝にはお出でになれないが、神の家族としてその存在は、重く貴い。寿子さんの坊ちゃんです。

    2022年8月14日

      【窓】

  『 広島のM君からのメール 』

 

 20年以上前に、私が牧会していた福岡の教会の礼拝に出席されていた49才のMさん(君)からのメールが届いた。

 

なんと、YouTube礼拝にしばしば参加して居られるというではないか。その後、電話でもお話したのだが、YouTubeのカウント数にM君が含まれているとは想像も出来なかったので、驚いたし、嬉しかった。

 

 以下抜粋。M君との電話での会話も少しプラス。

 

▼森先生、毎回礼拝でお世話になっています。毎週ではないのですが、薬剤師の仕事の休日当番の日は、必ずネット配信で旭東教会のYouTube礼拝に参加させて頂いています。

 

▼妻と共に、ちょっと旭東教会に寄らせていただいたのが2年前。息子は中学3年生になりました。当初は広島に帰りたがっていましたが、何とかこのまま高校へ上がってくれそうです。

 

▼ところで、今日(きょう)は仕事の資料を作りながらで申し訳ありませんが、ヘッドホンで説教を拝聴しておりましたら、森先生のお言葉を通して、T雅子さんにお会いすることが出来た気がしているようでした。さらに、福岡玉川教会で過ごした大学生時代のことが次々と甦ってきて、驚きの体験でした。

 

▼森先生の説教の中のT雅子さんの博多弁での「すんましぇん、まだ生きとりました」、「わたしゃ、居るだけの存在やけん」はリアルでした。感謝し、この思いをメールした次第です。当時、教会でお世話になった方々のお顔も出て来て自分でもびっくりです。

 

▼近いうちにまた旭東教会におじゃましてお会いしたいと希望しています。森先生、旭東教会の皆様のご健康をお祈りいたします。森先生、余談ながら、先生から頂いた、自転車の盗難防止用の「鍵」今も現役で使っています。森先生とは不思議な繋がりの中にあります。広島の自宅より。M

 

▼M君とは、私の趣味の自動車の話で幾らでも盛り上がっていたのも懐かしい。日曜日の夜遅く、洗車を手伝うことが好きなM君と一緒に洗車場に出向いて、二人で不思議な汗を流していたことを思い出す。還暦を過ぎた今は、日曜の夜に洗車する元気は少しもない。

 

▼本当ならば、Mさんと申し上げるべきかも知れない。だが、彼も「いいんですよ」と言ってくれるだろう。M君は、周囲に薬局がないような、だいぶ不便な地で薬剤師のお仕事をしているらしい。そのことも知って、私はなぜか、とても誇らしく思ったりしたのだった。ありがとう、M君。(森)

 

 

 

 

 


一年前の夏(2021年8月29日(日))の礼拝後 「むねさん」と奥さまの「あやさん」の後ろ姿 設置されたばかりの玄関の手摺りをとても喜んで下さった日でした。
一年前の夏(2021年8月29日(日))の礼拝後 「むねさん」と奥さまの「あやさん」の後ろ姿 設置されたばかりの玄関の手摺りをとても喜んで下さった日でした。

     2022年7月31日

【窓】『 〈むねたかさん〉の伝道 』

 

▼去年の大晦日、まさに突如、天国へと召されて行ったのは〈むねたかさん〉である。数日前の日曜日には、いつもの席に座って居られたのだ。

 

▼毎日曜日、奥さまの〈文(あや)さん〉と、朝一番に礼拝堂の前から二番目の席に座り、礼拝を心待ちにして居られた。それだけで牧師は支えられ励まされるのだが、説教で資料を準備して歴史に触れたりすると、「今日は学生時代に戻って先生のお話をワクワクしながら聴いておりました。ぜひ本を紹介して下さい」と喜んで下さっていた。

 

▼受洗が言わば人生の晩年で、ご家族の中で一番遅かったこともあってだろう。〈むねたかさん〉は、「自分はクリスチャンとして新米で、小学校に入学したばかりです」と遠慮がちに語られることもあったが、93才のお身体は百㌔近く(90㌔か?)あったと思う、存在感がひときわ大きな方だった。

 

社会人の頃も同僚や後輩から、そして地域にあってもそうだったと思うが、旭東教会でも本当に愛されるお方だった。

 

▼ところで、先週の日曜日、初来会されたご一家は、実に不思議なことに、〈むねたかさん〉のお宅の真横に何十年も暮らして来た方たちだと礼拝後に知った。

 

〈むねたかさん〉は隣のおじちゃん、おじいちゃんとして、子どもさんたちの写真撮影をなさることもあったという。

 

さらに、毎年カナダから一時帰国されるお孫さんたちに、教会の「夏祭りに来なさい」(ミニサマーフェスティバルと呼んでいましたと)誘って下さっていたことがわかった。

 

〈むねたかさん〉は、私が時に口にする、「信徒による伝道の大切さ」を真摯に受け止められて、誰かを礼拝に誘えないか、伝道できないかといつも考えて下さる方でもあった。

 

このたび神さまは、〈むねたかさん〉を不思議な形で用いられた。「全てに時あり」と深く思う。有難いことだ。本当に有り難い。

 

▼今、〈むねたかさん〉がお座りになっていた礼拝堂の席には、三月に初来会し、先日転入会された〈紀子(のりこ)さん〉がお座りになり、〈文さん〉と共に礼拝を穏やかに、感謝をもって捧げておられる。これもまた神のみ業!(森)

 

 


紀子さんの歓迎会の様子 奥が紀子さん。司会の光代さんが丁寧に準備して下さって、本当に素晴らしい会となりました。40分程で終了も、みんなが「1分間の分かち合い」で話し慣れてきたからか、全員参加型の豊かな会でした。少しも、誰も疲れませんでした\(^_^)/
紀子さんの歓迎会の様子 奥が紀子さん。司会の光代さんが丁寧に準備して下さって、本当に素晴らしい会となりました。40分程で終了も、みんなが「1分間の分かち合い」で話し慣れてきたからか、全員参加型の豊かな会でした。少しも、誰も疲れませんでした\(^_^)/

    2022年8月14日

【窓】『転入会準備こぼれ話』

 

▼きょうは○○紀子さんの転入会式の日曜日だ。本当に嬉しい。転入会準備に杓子(しゃくし)定規な形があるわけではない。向き合う私は、頭と心をフル回転させながら、毎回、カスタムメイドの時間を模索して臨んだ。

 

▼準備会最終回の7月13日(水)、旭東教会の今を紹介する時間をもった。その時、「オリジナル教材」として使ったのは、一年前・2021年度の定期教会総会資料の「牧師報告」だった。

 

▼直後に紀子さんが、なぜか「旭東教会の方たちって個性的ですよねぇ」とポロリと言われたのが何とも興味深かった。

 

初来会から4ヶ月弱であるにも関わらず、その言葉には「私、皆さんのことをよくわかってます」という感が溢れていた。どうして紀子さんが旭東教会のみんなが個性的、と思うに至ったのだろうか。

 

▼思い当たることがある。それは礼拝の最後(YouTube配信は現在は今のところ行っていません)「1分間の分かち合い」の効能である。

 

礼拝に集った人がマイクを持って(*競いあって?)話をする時間、おそらくマイクを持つことに皆が慣れていること日本一の旭東教会。あの時間に「みんなの素顔」が自ずと見えてくる(*ばれる?)のだ。

 

▼続く、本当の礼拝後に行う「ほっとタイム」は、さらに効能豊かな温泉なのだと思う。否、ほっとタイムは、実は礼拝の延長線上にある、大事な食卓なのだと思う。(森)

 

 


5月15日(日)この日、週報に「福音くじ」をやがて始めることになりました、のご案内がありました。この美しくて大きな缶に、手を入れて福を持ち帰る、という計画です。楽しみです。
5月15日(日)この日、週報に「福音くじ」をやがて始めることになりました、のご案内がありました。この美しくて大きな缶に、手を入れて福を持ち帰る、という計画です。楽しみです。

    2022年5月22日

      【窓】

  『 うれしい気付き 二題 』

 

先ずはこちら。

 

礼拝に出席したいと思いながらも、足の痛み、コロナの不安、長期欠席の恥ずかしさ(ご本人の言葉)等あって中々それが出来ないでおられる八重子さん宅を久し振りに訪問できた。40分程、たのしい時間を過ごせた。

 

話の後半、みんなの教会学校の始まりの賛美として2018年から3年歌い続けた「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜びを口ずさむことがあります」とぽつりと仰ったのだ。

 

嬉しかった。

 

これ聴いたとき、短いフレーズの賛美歌の繰り返しの力を知らされた。確かに自然に覚えられる。そして、私自身が、八重子さんがその賛美歌をご記憶だと思っても見なかったことだったのだと思う。

 

ある意味、申し訳ない思いだったことを記さずには居られない。

 

**************

 

その後、歌いながら祈った。

 

二つ目。

 

5月15日の礼拝後の「オープン み言葉カフェ」(https://youtu.be/No25x_fP4Ps?t=5)で、そうなんだなぁと教えられたこと。

 

それは雅代さんが、その日私が説教で語った、20代後半頃の銀座教会での早天祈祷会後の朝食の話題に触れ、「先生が説教で祈祷会後の朝ご飯のことをお話されましたが、先日のイースターの食事がとても嬉しかった。日頃、私は孤食ですから、教会の皆さんと頂くことは本当に大きな恵みでした」とお話されたことだ。

 

私たちの教会。単身赴任、大学生、お連れ合いを天に送られた方々も含めて、お独り暮らしの方が決して少なくない。

 

教会生活の中で、聖餐式だけでなく、共に食べることは、大切な鍵、と改めて考え始めている。聖書のお話は忘れても、一緒に食べた記憶は不思議と消えません。(森)

 

 


これは素晴らしい絵本だと思います 教えて頂いて本当によかった
これは素晴らしい絵本だと思います 教えて頂いて本当によかった

                  2022年5月8日

『 -10分間の分かち合い-もあり? 』

 

以下、ホームページで今号をお読みの皆さまの頭の整理になるだろうと思うものを最初に記します。

 

昨年夏、「1分間の分かち合い」というものを旭東教会で始めることになった時、教会の皆さんに(受付でも)お配りしたご案内をコピペします。色を変えていますので(印刷版では「字体」を変更)読み間違いは起こらないはずです。

 

今日の窓は「〈10分間〉の分かち合い」ですが、先ずは、〈1分間〉についてお知りおき頂こうと思います。

 

一定程度の規模の教会であれば、これはとても大きな福音伸展の場となるかも知れないですよ、とお伝えできると最近思っています。少しでも各地の教会の皆さんの参考になれば幸いです。

 

では、先ずは、以下からどうぞ。

 

              *

 

                              2021年8月15日

      喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くための 

 ― 1分間の分かち合い ― が始まります 

                                 旭東教会 牧師 森 言一郎

 

本日より礼拝最後の「報告」(これも重要な礼拝の要素です)の時間に正式に始める会についてご案内します。礼拝の最後の数分間に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くための ―1分間の分かち合い―」を行うのは、教会でもっとも多くの方が身を置いている場所だからです。新来会者の方も居られることも期待します。

 

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く・・・」はローマ書12章15節のみ言葉です。これををやってみようという会です。これまでも報告の時間には色々な出来事や近況を分かち合ってきましたが、これからはよりいっそう、この時間を皆が自覚的に大切にし、少し努力して深めて行くことを役員会で何ヶ月もかけて一致して決定しました。

 

                              *

 

美しく表現するなら、ここでの分かち合いは、「お祈り下さい」「嬉しい・悲しい」「考え、感じ、悩んでます」「ありがとう・ごめんね」です。でも、もう少し本音の言葉で言うなら「少しぼやいていいですか」「苦労を知って下さい」「わたしも、頑張りましたよ」「一緒に怒って下さい」「愚痴なんですけどね」ということです。

 

                              *

 

例えば、「だーれも気付いてくれない、誉めてくれないんで1分間失礼します」という場合もあるでしょう。つまり、少々自慢話になったって構わないじゃないか、ということです。あるいは、誰かが代わりに話してとなって紹介する1分間ということだってあると思います。

 

そうしたら、「皆さん、○○さんに本当に感謝です。拍手を送りましょう」とか、「○○さんが、本当に努力されていることに気付きましたよ」。そして、「牧師先生、よく頑張りました」なんてことも、今の旭東教会では大笑いしながら分かちあえるはず。

                              

                              *

 

話題がない日もあるかも知れませんが、ぜひ、皆さんの一週間の喜怒哀楽を抱えて、ネタを仕込んで!礼拝にご出席下さい。こういう時間は、毎月最終土曜日、この半年ほど続けて来た、内輪での「ちょっと一息 休もう屋」にも重なります。思いの他、いつも顔を合わせているお互いを知らないことが多いものです。

 

この時間が大切にされることによって、「ほっとタイム」の話題が膨らむことも期待しています。何より、こういう時間の積み重ねが、教会の足腰を強くし、新来会者の方があったときに、旭東教会のあたたかな雰囲気に触れて頂ける時間になるはずです。

 

                              *

 

ちょっとしたメモがあれば十分でしょう。互いに聴き、お話しましょう。時間にだけ少し注意したいと思います。腹7分目が肝心です。牧師が皆さんの様子も見守りながら進行係を務めますので、助けて下さい。どうかよろしくお願いいたします。end

 

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以上が「1分間の分かち合い」を始めた時の、牧師からのメッセージです。突然始まったわけではありません。

 

数ヶ月の準備はしたと思いますが、とにかく始めてみて、具合が悪いことがあれば、修正しながらやっていこう、ということで、スタートしたと思います。

 

それを経て、9ヶ月近くを経てからの想い巡らしの言葉が以下になります。

 

5月8日の週報コラム・【窓】に記したものの加筆版です。

 

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▼昨年8月に始まった「1分間の分かち合い」。どんどんよい時間になって来ていることを実感されている方も多いのではないかと思う。

 

感じ方は様々だと思うけれど、嬉しいことに、「1分間の分かち合い」があると礼拝が長くてかなわない、というような声は聞こえてこない。

 

▼お休みしている方も、久し振りに礼拝出席の方も、『週報』を丁寧に見てくだされば、お目に掛かっていない、あの人・この人の近況を知ることが出来る。

 

限界はあるけれど、翌週の〈週報・お知らせ欄〉に、80字~120字程度に話の肝心な所を(わたしもせっせと、いや、大いに努力して、或いは、語った本人に事後確認をして)まとめて載せている。

 

▼1分間の分かち合いを続けて来て気付いたことだが、お互いの祈りへと自然に結び付いて行く恵みもある。心に残る言葉が様々にあって、お一人お一人の暮らしが、平日のひょんな所で、ふいに立ち上がってくるのだ。

 

▼礼拝後のほっとタイムでも、いつしか、1分間の分かち合いでの話題が、その日のことでなくても、「○○さん、その後はどうなの?」と広がっていくから不思議だ。

 

▼新来会者の方も、旭東教会に来ている人たちのことをそこで知り、その言葉は、説教以上に心に深く染み、おみやげを持ち帰ることもあるだろう。

 

やはり、礼拝は教会にとってもっとも共有できる事柄がそこかしこに散りばめられているのだと思う。もちろん、1分間の分かち合いで、礼拝説教の恵みが分かち合われても構わない。自由なのだ。

 

▼私はこの先、YouTubeで「み言葉カフェ」(礼拝の恵みの分かちあい)を配信しているように、「1分間の分かち合い」もYouTubeで聴いて頂いてはどうだろうと思う。

 

もしもインターネットで発信されること差し障りがある場合は、「第二部」を開設しておけば、「私は二部でお願いします」と、ひと声かけて頂いて、デリケートな話題はそちらで心を傾け合えると思う。

 

 

▼さらに、もっとじっくり落ち着いて話をしたい、聴いてもらいたい、と思うことが身辺に起こっている方には、牧師担当の「みんなの教会学校」(*第1,3,5主日です)の時間を「10分間の分かち合い」として差し上げたい。6分、7分、8分でも全く問題なしだろう。数日前迄に教えて頂ければ間に合うことである。

 

これは、言葉を変えれば、原稿なしで語れる〈証し〉となるはずである。協力して頂きたいことがあるとしたら、み言葉を、1節だけで構わないので、必ず選んでおいて頂く必要があることだろうか。

 

▼開かれた教会として、〈みんなの伝道〉の糸口がこんな所にあるのでは、と楽しみであるし、期待している。(森)

 


5月1日講壇の献花です。新緑の美しさが活かされていることに感動します。
5月1日講壇の献花です。新緑の美しさが活かされていることに感動します。

       2022年5月1日

    『 つながっているという事 』

 

二ヵ月に一度の「グリーフケアの集い」を始めてから8年目に入った。4月27日の会は、朝7名・夜9名が参加。次回参加希望の方からは「ペットでも大丈夫ですか」との問い合わせもあった。もちろん歓迎である。

 

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コロナ禍で、集まりは避けたい、とお考えになるお休みの方々も居られる。だとするならば、振り返って見れば、それなりの会になって来ているのかも知れない。

 

今回、私自身、あらためて整理できたことがある。

 

それは、「人間、誰しも孤独な存在であることは否めない」「でも、孤立(「孤独」ではなく)するのは避けよう」「グリーフケアの集いは、孤立しないためのつながりの場でありたい」ということだった。

 

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視力を失い掛かっている私より10才程年上の男性の参加者は、お一人暮らしということもあり、コンビニの店員さんや飲食店の方との会話を等を除くと、誰とも話をしないで過ごす日が幾日も続くことがあると仰った。

 

前回は、「とにかく苦しい」という言葉を繰り返されたと思う。

 

しかしその方が、「自分もここにつながっとるんかなぁ」とたぶん表情明るめで、上向きな声で呟(つぶや)きながらお帰りになった。

 

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私は、そう遠くないところにお住まいの、その男性の家の前を夕方散歩で通り掛かることがある。灯りが見えるとほっとする。

 

私たちにとって、繋がっていること、連なっていることは、この時代の大きな力であり必要なもの、との思いを深くする。

 

グリーフケアの集いで、互いが聴かせて頂き、お話しすることは、インターネットやSNSの時代においてこそ、確かなつながりを確認できる貴重な場となっていると確信する。

 

旭東教会のグリーフケアの集い、大切に育てて行きたい。(森)

 

 


似たような礼拝案内版はどこかの教会にありますでしょうか?
似たような礼拝案内版はどこかの教会にありますでしょうか?

     2022年4月24日

  【窓】『時には無駄話を』

 

▼七週に一度、車で30分近くの床屋さんで散髪する。月曜の昼と決めている。息子さんの結婚式まで旭東教会でされた方は転勤となり、別の方が担当になって一年経つ。

 

▼最初は「もう少しこうしてくれますか」「前回はこの辺りが・・・」というようなことがあった。

 

だが、最近は私の頭の形の特徴や、好みも頭に入ったようで、何も言わなくても願い通りに仕上がる。

 

▼考えてみると、ひげ剃りまで任せる散髪のときほど無防備な時間はない。少しオーバーに言えば、命も任せている不思議な一時間だ。だから同じ方の仕事がいい。

 

▼頭に刺激を受けると、「いいこ、好い子」と撫でられているのと同じ状態になるからなのか、だいたい気持ちが良くなって眠りに落ちる。日曜日の疲れが出る頃でもある。3千円は高くないと思っている。

 

▼私が育ったのは大分県大分市の大在という地区で、昔は大いなる田舎だった。だが今では区画整理が進み、見違える所となってしまった。小学生の頃、自転車で10分弱ほどの所にある江村理容院にお世話になった。今では跡形もなくなっているようだ。

 

▼散髪に行くと、自転車で土佐犬を引いて散歩させていた地域で一番ゴツく見えた江村のおじちゃんから、「言ちゃんは、ワカメを食べんから髪の毛が赤いんで」と叱られていた。おじちゃんの言われたことは正しいと思ったし、みそ汁にワカメが入るとおじちゃんの顔が浮かんだ。

 

もちろん、江村のおじちゃんに抵抗することなど出来るはずがなかった。中学の頃にはいつしか別のお店に行くようになったが。

 

▼50年が経ち、その後も特にワカメを食べたわけでもなく、今ではめったにワカメは食べなくなったけれど、今、私の髪の毛は赤くない。(森)

 

 


旭東教会 2022年のイースターの講壇です
旭東教会 2022年のイースターの講壇です

    2022年4月20日    

      【窓】

『これからも続けたい 説教の努力』

 

年に一度の定期教会総会が近くなった。

 

どうしても必要なのが『総会資料』だが、その中に「役員会評価と展望」というページがある。毎年、書記役員を務める泰さんが記されるが、8年目にして初めて触れられたと思う段落があった。

 

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私の説教についてである。いささか過大評価なとも思うところもあるが、励ましの言葉として素直に受けとめたいと思った。有難かったのだが、慢心はない。

 

私もだいぶ長いこと説教を続けて来たが、日曜日の礼拝説教は少しも簡単にはならず、毎週、毎回、難産である。

 

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ただ、確信をもって言えるのは、私と同じような説教している方は他に居られないということ。その点は自信を持ちたい。

 

さて、どんな説教でしょうか、皆さん!

 

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私が旭東教会でしている説教をよその教会でそのまま出来るのかと言うと話は簡単ではない。

 

みんなの教会学校で説教したを前提とする連続性とか、会衆席とのキャッチボールとか様々である。賛美歌を歌い出すことが多いのも事実で、もしかすると日本一の

歌う牧師かも知れないが、それだけでない。

 

何より、常日頃からの関係性があってこその呼吸がある。説教は信頼関係の上で成り立つのだ。おそらくそれは「牧会」と呼ばれるのかも知れない。何より、説教・牧師を育てるのは良い聴き手があってこそなのだ。

 

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おわりに、引き続き努力を続けたいと思うことがある。

 

それは、声の大きさも含め、〈聴き取りやすさ〉や〈間(ま)〉である。牧師として歩む中で、明確に、お二人の方が〈わたしの説教の間〉を誉めて下さったことがある。いや、三度か。よく聴いて下さっていると思った。

 

日曜日の深夜、しばしば、YouTubeで聴き直して鍛錬は続けております。たとえ、マズイ説教だったと後悔していてもです。(森)

 

 


十文字平和教会の庭 花ニラ 4月3日(日)
十文字平和教会の庭 花ニラ 4月3日(日)

    2022年4月3日

【窓】『 今度一杯やりましょう』

(*私は残念ながら飲めませんが、お誘いを頂きました)

 

▼教会員のU子さんが召された1月5日(水)の午後、邑久町の葬儀会社での打ち合わせの帰り道、西大寺の外れにある、とあるスーパーの駐車場で車同士の出会い頭の事故が起きた。

 

バックでかなりアクセルを踏み込んで急発進してぶつかって来られたMさんは、遠くない所にお住まいの方。

 

いや、お近くを通りかかることもよくある距離の方。

 

「私が悪いです。本当に申し訳ありませんでした」とその場で認めて下さり頭を下げられたが、その後は、損害保険会社を通じての事故処理となり、互いに言葉を交わすことはなかった。

 

 

▼そんなMさんから、過日、これ程お心のこもった詫び状はないと思う毛筆の手紙が届いた。弔文を手書きで書き上げる時にしか使わないのでは、と思うような和紙を使っておられる。

 

どうやら、損保会社の担当者から。「完全に自分が悪いです等とは、決して森さんに言うことなどないよう、連絡をしたりしないで下さい」と念押しされていたようだ。私への連絡をこらえるのに、忍耐が要ったそうだ。そして、私に過失が発生する、不可解な事故処理の現実にも納得できなかったご様子。

 

 

▼お手紙を受け取った私。だいぶ考えた末に、夕方の散歩の時に、電話することにした。すると思いがけず話が弾んだのだった。

 

Mさんは○○歳。だいぶ長いこと芸術家として活躍をされていたご様子ながら、東日本大震災の時に仕事場を火災で喪失されたとお聞きした。ガンで、と仰ったと思うが、命に係わる病も経験されたそうだ。

 

さらに、真言宗の方と言われたと思うが、四国八十八箇所巡りのお遍路をテントを張りながら続ける気持ちをもっているそうだ。

 

 

▼つまりMさんは、宗教的な関心の強い方なのだと思う。事故現場でのやり取りの中でも口にされたが、教会にも興味をもっておられ、「礼拝に伺ってもいいですか 何時からですか」とこの度も仰った。

 

私は、人生を、ある意味哲学的に探求されている方なのだ直感した。

 

 

▼7歳ほど年上のMさん。20代半ば頃にはインド放浪の旅をかなり長い間されたと聞き、こちらが飛びついた。

 

「私も21歳の時にリュックを背負ってインドを歩きました。海沿いの町・プーリーをご存知ですか」と伝えると喜ばれた。そして「森さんとは、今度一杯やりたいですね」と誘って下さったのだ。

 

 

▼クリスチャンにはなれないけれど、教会に関心や親しさを抱かれる方が出入りされる風通しのよさは、私たちにはいつも必要だと思う。お寺や神社がそうであるように。

 

 

▼余談か関連の話になるかわからないが、かつて、キリスト教会ウオッチャーで多くの本を記されている八木谷涼子さんという方が岡山に来られた時、「受洗が前提ではない、聖書の勉強会が教会にないのはいかがなもの」という意味のことを言われたことも思い出した。

 

八木谷さん、「礼拝、出入り自由ですと案内すべし。そうでなくちゃ、恐くて入れません」とも言い切られていた。(森)

 


3月27日 十文字平和教会の駐車場 フキノトウ 治生さん撮影
3月27日 十文字平和教会の駐車場 フキノトウ 治生さん撮影

      2022年3月27日

   【窓】『 納骨式の午後に 』

 

「この頃は、なんでもない時に、急に涙がこぼれてくることがあるんですよ」とお話し下さったのは、大晦日、心の準備もなく、突如ご主人を天に送られた〈あやさん〉だった。

 

何しろ12月26日にはご夫妻でいつものように礼拝を守っていたのだった。私も一報を大晦日の昼過ぎに頂いた時にはさすがに驚いた。

 

 

そして、「この頃は、・・・急に涙が」のお話を聴いたのは、春分の日、教会墓地での納骨式を終えた後の食事の席でのことである。

 

旭東教会の、きっとどなたもが認めることだと思うが、しっかり者の〈あやさん〉のはずである。だが、ご自宅で一人涙しておられるのだ。その現実に想いを馳せた。

 

ある方は、〈あやさん〉は、1月9日、つまり葬儀の直後が一番元気でしたね、と言われたのは、その通りかも知れない。

 

納骨式の午後、瀬戸内のエーゲ海と呼ばれる海を見ながらの食事会があった。春の陽射しを受ける海面はきらきらと反射し、レストランの中でもサングラスを掛けたいと思うほどだった。

 

解散の頃には、私は「色々ありましたが(実は当日の朝、ご家族が教会玄関付近で転ばれて病院へという出来事も起こった)、無事に納骨出来て良かったですね」というお声掛けをした。

 

すると今度は、「この頃は、日曜日、教会が本当に楽しみなんですよ。今は他に行くところがありませんでしょ。森先生の大きな声を聴いていると元気が出てくるんです」というお言葉を聴いた。

 

私の説教の声が、ほんの少しでも役に立つことがあるならば有難いこと、と思った瞬間、「そうか」と腑に落ちたことがあった。

 

日曜日、講壇から説教をしている時に見える〈あやさん〉、この一ヶ月半程、皆さんには横顔や後ろ姿しか見えないから気付かれない程ではあるけれど、〈あやさん〉は少し前のめりで説教を聴いておられるのだ。

 

以前は、ご主人に寄り添う人としての礼拝者だったと思う。しかし今は変わった。生きる力を切実に求めてのお姿なのと思う。

 

教会のほっとタイムの時間に、「(食べ物が)ほしくないのよ」とぽそっと言われる声が聞こえて来たことがある。お力が出る教会の交わりを願うばかりである。(森)

 

 


3月20日(日)午後 十文字平和教会の庭 ジンチョウゲ
3月20日(日)午後 十文字平和教会の庭 ジンチョウゲ

     2022年3月20日

【窓】『そもそもの、教会の力』

 

先日の火曜日、大学生のRさんと勉強会を行った。

 

昨年8月、Rさんが初めて教会にお出でになった切っ掛けは、彼が卒業論文で取り組みたいと考えておられた「グリーフケアの取り組み」を旭東教会が行っていたからだった。

 

念のために申し上げるならば、グリーフとは一般に「悲嘆・深い悲しみ」の意味である。

 

私がRさん最初に伝えたことは、「グリーフケアの集いを行っている〈教会〉が最も大事にしている、日曜日の様子を知っておいた方が良いと思いますよ」ということだった。

 

これでも私は遠慮とだいぶ勇気を振り絞って、「しばらく日曜日、礼拝にお出でになってみてはいかが?そのほうが、確実に勉強になると思いますよ」とお誘いしたのである。

 

幸い、Rさんは招きに応えて下さり、ほぼ毎週礼拝にお出でになり、今に至っている。

 

 

先日、彼を誘ったことは、それはそれで確かに良いことだったのだ、と気付く場面があった。

 

端的に言うならば、日曜日の教会の交わりの中には、悲しみや嘆き、苦しみの中にある人間が回復していくための〈グリーフケア的な癒しの力〉があり、「グリーフケアの集い」に参加しなくても大丈夫、ということへの私自身の気付きなのである。

 

だから、あえて胸を張って言おうと思う。

 

旭東教会の「礼拝」や礼拝後の「ほっとタイム」には、そもそも、素晴らしいグリーフケアの力が備えられていますよ、と。

 

 

とは言え、それでも、「グリーフケアの集い」はコツコツ続ける意味があることに変わりがない。

 

悲嘆を抱える、外部の方々との大切な出会いの時間であり、また、日曜日だけでは決して経験できない、奥深い世界がそこにはあることも、事実だから。

 

なかなか取り組めない、世に仕える奉仕の場でもあるのかも知れない。

 

いやいや、教会のメンバーにとっても、貴重なこころの置き場、癒しの場となることも本当のことである。(森)

 

 

 

 


2022年3月13日の献花です 紫陽花が素晴らしいなぁ りょうこさん宅のお庭からのもの
2022年3月13日の献花です 紫陽花が素晴らしいなぁ りょうこさん宅のお庭からのもの

     2022年3月13日

       【窓】

*東中国教区へ報告

『 400字で読む 旭東教会この一年』

※今号、週報の加筆はありません

 

▼献堂が1923年の礼拝堂を2年掛けて改修し、歴史を感じつつも、美しく、あたたかな礼拝空間として整えることが出来ました。

 

▼コロナ関連の事情の中、礼拝を休むことなく歩めたことは感謝です。高齢化は確実にあり、礼拝出席者数の減少もみられますが、「聖書朗読奉仕」を役員以外の方にもお願いする工夫や、礼拝の中の「みんなの教会学校」で手話賛美を取り入れる等、生き生きとした息吹を感じる礼拝となっています。

 

▼夏以降、礼拝の最後に「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」を開始したことも交わりを豊かに出来たことに結び付いています。引き続き皆で深めて行きます。

 

▼礼拝後の「ほっとタイム」の交流の時間を単にお茶の時間とはせず、工夫を重ね、伝道・教会形成の場とする努力をこれからも続けます。

 

▼ある日来会された他教派の引退牧師が、「旭東教会は庶民的な教会ですね」と言われました。今後の教会形成の鍵だと感じます。(森)

 

 


2022年3月6日(日)双子ちゃんがお絵描きした、育子さんの故郷土佐から届いた文旦(ぶんたん)です。食べ頃は皮がブヨブヨし始めてから、だそうです。
2022年3月6日(日)双子ちゃんがお絵描きした、育子さんの故郷土佐から届いた文旦(ぶんたん)です。食べ頃は皮がブヨブヨし始めてから、だそうです。

2022年3月6日

【窓】

『 なるほど 』

 

旧知の、遠方の他教会の方からお便りがあった。

 

**************

 

お一人は90歳代半ばの日本海が見える町にお暮らしの熱心な信徒・Tさん。

 

ご自身がかつては長老を務め、今も所属される教会の講壇で牧師が語る説教要旨を毎回ご自分が受け止められたことをまとめ、月に一度、恵みとしての感想をされている方だ。

 

題して、『主日礼拝参加は、よろこび、そして感謝!』。

 

親しい方に配り伝道しておられるのだ。ご自分の教会を大切にしつつの素晴らしい取り組みだと思う。工夫にくふう重ねられてそこに到ったのだろう。家庭集会も、牧師の指導を受けながら開かれているはず。

 

**************

 

 

 

私はそれに応えて、旭東教会や十文字平和教会の週報・み言葉"余滴"、会報・緑の牧場などを送る。先日は、旭東教会の礼拝案内版の写真をお入れした。奥さまが案内版の取りまとめ役をなさっているようだ。

 

今回が初めてではないが、旭東教会の『週報』をじっくりと読み改めてお誉め下さったのは、「礼拝奉仕する方々の名前が克明に記されていることです」とお便りにある。なる程。

 

ご自身の所属教会の週報がそうではない、ことが残念なご様子でもあるが、工夫されて、『主日礼拝参加は、よろこび、そして感謝!』にお名前を記されてるようになっている。

 

旭東教会の週報は、いつしかTさんが指摘されるようになっていたのだが、3月13日の週報からはTさんのお言葉を受け、さらに一カ所、目立たないけれどお名前が出るようにした箇所がある。

 

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もう一人は、70代半ばの関東地方在住のご婦人・Nさん。

 

Nさんはコロナの事情がなければ百名を超える出席者がある教会のオルガニストであり役員だったシャキシャキの方。

 

稚内で利尻昆布バザーに力を注いでいた頃、教会で窓口として担当されていたことが切っ掛けで交流が始まった。もはや10年のお付き合いだ。だが、お目に掛かって直にお話をしたことは一度もない。

 

**************

 

 

メールやお便りでのやり取りが、細く長く続いている。会報をお送り下さり、近況をお知らせ下さったので久しぶりに電話してみた。

 

すると、「教会はやっぱり小さい方がいいですねぇ。新しい副牧師先生ご夫妻は、マスク越しにしか見えない目の前の信徒が誰だか分からない状態です・・・」と言われた。これもまた、真理かも知れないと思う。なる程である。

 

こちらからの近況をお届けすべく、週報や会報を送った。

 

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メールでの返信には、普通通りにというか、益々いろいろなお働きが増えているご様子、コロナですっかり活動が制約されてる私たちの教会とあまりの違いに考えさせられています・・・・・。

 

とあった。

 

教会はある程度の大きさを超えると、全体が知り合う、交わりを緊密にもつことは不可能なのだ。それがよい場合もあるし、私が受洗し献身へと送り出して頂いた銀座教会など、都心の教会独自の使命を担い続けている。

 

だが、私が育てられた心の置き場所のあった銀座教会の交わりは、その中の、朝食を共にする15名程度の集いの家族的な空気の中だったことは、忘れてはならない事実だと思う。礼拝出席300名の中の、15名の中で、私は育てられたのだった。

 

**************

 

外から見えるものは、内に居続けると気付かなくなったり、当たり前になりすぎていることが多くあるもの。

 

注意したいものだと思うし、だからこそ、外の方たちとの様々な交流や出会い、出かけて行っての見聞は大事になる。

 

恵みに気付かせて頂いたお交わりに心から感謝。(森)

 


2022年2月27日の献花です。ありがたい、本当にありがたいな、と。神さま喜ばれると思います。
2022年2月27日の献花です。ありがたい、本当にありがたいな、と。神さま喜ばれると思います。

    2022年2月27日

      【窓】

『 またご一緒しましょう

    グリーフケアの集いにて 』

 

まもなく8年目を迎える、2ヶ月に一度、偶数月の月末に開催しているグリーフケアの集い、2月の会を開いた。

 

朝の会には、2年半程お姿が見えなかった71歳の方が久しぶりに来会。比較的近くにお住まいの方だ。

 

お役に立てないまま終わってしまったかなぁ、と思っていたので前日にご連絡頂いた上での来会は本当に嬉しかった。

 

以前は、ご家族を天に送られたことも悲しまれていたと思うが、そちらはかなり整理済みのご様子。ある力を徐々に失うご病気と向き合う方が、おそらくご本人は無意識のうちに何度も繰り返されたのは、「苦しい、とにかく苦しい」という言葉だった。

 

聴かせて頂いてよかった。

 

聴かせて頂くしかなかった。

 

そう簡単には、何処ででも口に出来ない言葉だと思うからだ。私たちが、「苦しい、とにかく苦しい」といつ、どこで口にしただろうか。

 

**************

 

夜の会では、この一年ほど、続けて来会されている方の言葉が心に刺さった。終わりの時間帯、パートナーを5年前に失って以降のご自身の「生きる意味や目的」を見いだせない苦しさ、「自分は生きていても良いのか」という心底の思いを言葉にされた。

 

「自分をこんなにも苦しめる、目に見えない存在について」、宗教家・牧師である私に「どうなんでしょう」と問われた。

 

神という言葉は使われないが、わたしには「神とはそのような存在なのですか」とこれもまた無意識に問うて下さっているように感じた。

 

答えは簡単ではない。苦難の意味を、僅かな時間の中で語ることは不可能に近い。

 

**************

 

閉会後、「あぁ、車の中だ」と、その方が駐車場の車に取りに行ってまでして残っていた数人に見せて下さったスマートフォンの映像は、死が目前に迫った病床のパートナーとの婚約式の場面だった。美しくもあり切なくもあり、である。

 

さらにお話としては、パートナーが遺骨になられた後に、火葬場の職員の方が、偶然、左手の薬指を差し出してくださり、その薬指に結婚指輪を・・・・・・というお話まで続いたのだった。

 

そのような話を、誰が、どこで出来るだろうか。聴かせて頂けるだろう。

 

遠慮なくつぶやいて頂ければと願う。グリーフケアの集いの意味は確かにあるのだ。心の架け橋は掛かっている。(森)

 

 


2022年2月20日(日)十文字平和教会の庭〈梅〉です 治生さん撮影
2022年2月20日(日)十文字平和教会の庭〈梅〉です 治生さん撮影

                  2022年2月20日

       【窓】

『 寒いですねぇ 昭和45年頃の冬の話 』

 

一年近く前に毎日新聞の書評欄で紹介されていた『みんなふつうで、みんなへん。』(枡野浩一著/文、内田かずひろ・イラスト、発行:あかね書房)という本がある。

 

ようやく手にして読んでみた。

 

ある小学校の同級生の面々に起こるたわいのない話なのだが、私も自分の小学生の頃を思い出した。しみじみとした世界があり、懐かしくなった。

 

**************

 

例えばそこには、「この子ネコはメスだからね。おしっこしかしないんだよ。でもそっちのネコはオスだから、うんちもするんだ。」というような思い込みや勘違いを皆がしながら普通に大きくなっていくお話が詰まっている。

 

あるいは、お友だちの家を訪ねる機会となっていたお誕生会の日の出来事が記されていたりする。

 

**************

 

半世紀前の大分県大分市の大在村の田舎の冬はそれなりに寒かった。

 

自分の育った部落(の集落)を抜け、田んぼを傍らに見ながら抜ける通学路を歩いて二㎞、30分ほどかけて通う田舎村で育った私の冬はこんな調子だ。

 

実家の井戸端に理由(わけ)もなく放り置かれているバケツの水が厚く凍るような日がわりとしばしばあったと思う。

 

そんな寒い日でも教室に暖房はなかった。もちろんクーラーだってあるはずがない。そもそも、そういうものの存在を知らなかったかも知れない。

 

休み時間になると、男子も女子も輪になって「おしくらまんじゅう、おされて泣くな」と大声で掛け合いながらお尻を合わせた。

 

今の子どもたち、「押し競饅頭」を知っているのだろうか。

 

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もっと幼い頃、母屋のコタツには練炭が入っていて靴下を何度も焦がしてしまった。

 

何とも気まずい感があったものだ。それにしても、今考えるとだいぶ危険なもの。いつの間にか、掘りごたつ用の電熱器が置かれるようになった。

 

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坊主頭ではなかったけれど、「げんちゃんは、ワカメを食べんけん、髪が赤くなるんでぇ。ワカメ食べな」といつも叱られていたゴッツいおじさんがいた江村理容院で刈り上げられた頭は髪が短く、耳に髪が掛からなかったからだろうか。冬になると、決まって耳には霜焼けが出来ていた。

 

かさぶたが出来て、痒(かゆ)くなって、はがれ始める頃、もう春が来ていた。(森)

 

 

 


牧師のもりでございます。今回の礼拝案内。作成(毛筆部分は印刷屋さんで100枚分印刷してあります)というと変ですが、仕上がってみて、かなり満足しています。回心の「心」が、人間が走りだしているように見えます。鈴木竹治さんというフォント作家の「うんすい」という文字です。
牧師のもりでございます。今回の礼拝案内。作成(毛筆部分は印刷屋さんで100枚分印刷してあります)というと変ですが、仕上がってみて、かなり満足しています。回心の「心」が、人間が走りだしているように見えます。鈴木竹治さんというフォント作家の「うんすい」という文字です。

     2022年2月14日

  【窓】『 良薬のどに苦し 』

 

一ヶ月位経っただろうか。

 

薬を飲み忘れないよう、寝る前に朝昼晩の飲み薬を食卓の隅っこに並べる。

 

最近では2月中旬から飛び始めるスギ花粉に備えてのアレルギー薬が増えた。それが切っ掛けだったような気がする。

 

**************

 

他にもドライアイの目薬が年末から加わっている。いやいや正確に言うならば、一年程、眼科の掛かり付けの眼科医から、「ドライアイですね。一日6回の薬、だしておきますから」と言われて、ジグアスという目薬は点眼し続けてきたのである。

 

その後も、診察の度ごとに、「ドライアイですねぇ」とドクターはおっしゃる。

 

わたしはと言えば、心の中で「先生、効いてないんじゃないですか。治らないのですか」と思っていたが、さりとて、さほど困ることは起こらなかったのでそのままにしてきた。

 

**************

 

だが、クリスマス前から(原因はエアコンの風が目に当たることでした)突如、猛烈な痛みが右眼に襲いかかってきて辛抱たまらずというか、恐怖に襲われたのだった。

 

そこで、定期の診察以外の日に眼科を訪れ、処方して下さった新しい眼薬が加わったのである。こちらは朝昼晩の他に寝る前にも点眼。目のゴロゴロ感や、痛みを和らげてくれるのは、何と〈胃薬の仲間というか、そのもの〉と聞いて驚いた。

 

確かに効いている。

 

突如襲って来ていた恐ろしい痛みがほぼなくなって助かった。

 

**************

 

ところがである。調剤薬局のおにいさんがぼそぼそっと言っていたのだが、ムコスタ点眼液という名の白乳濁の薬。目を抜けて鼻に落ち、喉にジワジワと溜まるのですねぇこれが。苦みを超えた違和感ありありの薬なのである。

 

もう少し丁寧に申し上げるならば、わたくし、胃の違和感を覚えた6年位前から、胃薬としてのムコスタ(別名・レパミピド)を飲みつづけている人間である。

 

**************

 

 

昔から「良薬口に苦し」と言うが、これは「〈喉に〉苦し」である。

 

落ち着いて考えて見れば当たり前のことだが、体が温まったり、暖房を目鼻の辺りがキャッチすると、たちまちである。要するに目に入れた薬がとろーんとけて移動し始めるのだ。

 

いやはや、その気持ち悪さには「参りました」「降参です」と言うしかない。

 

**************

 

ただし、よいこともござった。

 

喉に落ちて来た目薬を外に吐き出す手立てはひとつ。うがいなのだ。それも一度や二度では取り除けない。

 

実に頻繁にうがいをせざるを得ない事情が生じたおかげで、聖書のお話をしたり賛美歌を歌うことも務め、という私。日頃から、特に冬場、手放すことができないトローチ(龍角散ダイレクトを愛用)のど飴を、いつの間にか使わなくなっていることに気が付いた。

 

**************

 

そもそも胃に粘膜を作るのがムコスタの本領である。ムコスタ点眼液が通過する喉にいつしか粘膜が出来たのか、賛美の歌声はいたって好調なのであります。

 

もちろん、説教の際の声の張り、力も、手応え十分。これはもう職業柄敏感であるからすぐわかる。トローチを遥かに上回る粘り強さというか、力、と申し上げてよいと思う。

 

アナウンサーやコンサートツアーを続けるような音楽家などにも、「喉に効く、いい薬ありますよ」と合法的に?お伝えしたくなる程である。

 

わたし自身、もしもドライアイが治っても、ずーっと続けた方が喉のためにはよいのでは、と真面目に思っております。(森)

 


2022年1月30日(日)午後3時前 旭東教会でのご奉仕を終えられた関田寛雄先生、そして、森牧師
2022年1月30日(日)午後3時前 旭東教会でのご奉仕を終えられた関田寛雄先生、そして、森牧師

    2022年2月6日

【窓】『 関田寛雄という器 』

 

関田寛雄先生をお迎えした1月29日(土)~30日(日)の二日間はとにかく濃かった。

 

月曜日の午後に投函した、御礼の葉書の冒頭に「オクミロンを突き抜けての西大寺での伝道の旅路、長い準備、祈りの中、みんなで力を合わせて無事に成せましたこと、心から感謝です。余韻があります。終わったというよりも、何かが始まったような・・・」と記した。

 

**************

 

寅さん講演「フーテンの寅さんその自由と愛に学ぶ」(YouTubeにて配信中)の最後、福音の器として何の力みもなく替え歌を手拍子で歌われる恩師の姿に本当に頭が下がった。

 

思わず「皆さん、心からの拍手をお送りしましょう。関田〈寅雄〉先生でした」(「寅雄」はもちろん間違い → 「寛雄」でございます)紹介していた私が居た。

 

**************

 

現役の日本基督教団神奈川教区巡回教師として土曜の夜は川崎のビジネスホテル(私の友人によれば、カプセルホテルではないか、という話を聞いたことがある)に宿泊されているとうかがった。

 

川崎までは、千葉県の大網白里のご自宅から2時間弱は掛かるだろう。そうしないと、日曜朝10時半をめどに始まる礼拝に間に合わないから、と言われた。

 

8つの伝道所、つまり小規模教会を順繰りに訪ね礼拝を守って居られるという。

 

**************

 

礼拝を終えると、寅さんよろしく、大学駅伝で知られる小田原から箱根方面行きの観光バスに乗って富士山を眺め、横須賀市の久里浜港から千葉県の金谷港まで40分フェリーで東京湾を渡って戻られるそうだ。金谷港からだって、ご自宅にはかなり掛かる。

 

そんな関田寛雄先生。

 

私への手土産は、土曜日の夕刻、JR岡山駅から旭東教会のある西大寺に向かう車の助手席で、二号線のバイパスに乗る頃「牧会に成功なんてないんですよ、私もねぇ実は・・・」という、ご自身の古傷だった。

 

なんとかたじけない言葉だろうか。(森)

 

 


左側に見えるのが旧来の照明、そして、真ん中・右側に見えるのが、新型のLED照明です。足場を組まないととても工事はできません。
左側に見えるのが旧来の照明、そして、真ん中・右側に見えるのが、新型のLED照明です。足場を組まないととても工事はできません。

     2022年1月23日

 【窓】『礼拝堂の片隅で』

 

1月14日(金)の朝を前に私は落ち着かなかった。眠れない程ではないけれど「これは失敗した」とか「本当に大丈夫か」「あれしかなかったのだから」等と心はざわついた。

 

14日は礼拝堂の照明工事の日だった。

 

※旧来の礼拝堂照明は、切れてしまうと素人が手を出すには、かなり危険だった。そしてLEDの電灯を入れても、器具そのものが対応しておらず、本来のLEDの力を発揮することも出来なかったのだ。地元のH電機屋さんにこの4年程はお願いして来たが、落下の危険性と器具そのものを落とす可能性もあり、申し訳ない電灯交換を続けて来ていた。当然コストもかかります。

 

3ヶ月前の昼過ぎ、お世話になっている工務店を通じてインテリア照明の専門家が来会。説明を受けながら、三冊の大判カタログを丹念に見せて頂き、「事実上これしかない」と判断。その後、役員会に説明・提案した照明だったが、実物をどこかの店舗や教会で確かめられるわけでもなかった。

 

当日、大型の足場が組まれ、設置工事が始まり安心した。

 

実際、1月16日の「礼拝」「信徒の友を読む会」に参加した方で、天井を見あげて違和感を訴える方は一人も居られなかった。朝、「先生、いいわぁ」の声も聞こえて来た。

 

《あなた》は、まるで昔からそこに居るかのような顔をしてやさしく包み、照らし始めているね。

 

その後の私は、昼に夜に、スイッチを押しては礼拝堂の片隅に立ち、ほっとしている。(森)

 

以下、2022年1月16日の週報お知らせ欄より 関連箇所の抜粋です

○《「礼拝堂の照明」が新しくなりました感謝》

2年前より、様々に工夫を重ね、整備して参りました献堂後99年の歴史ある礼拝堂にふさわしく、清楚なLED照明を設置することが出来ました。感謝です。LEDの寿命は2万時間とされ、週に5時間程の礼拝堂使用を考えますと、計算上は30年以上、電球の交換なしで済みます。もしも交換が必要な時でも、従来の形状に比べると格段に交換しやすく、電力使用も7割減です。

 


2022年1月14日(金)午後 礼拝堂の照明を新たにする工事の様子。移動式の足場にさらに脚立を載せて作業される腕利きの工務店の大工さん。天上左に見えるのは、旧来の蛍光灯型の照明です。新しい光の元での礼拝が始まりました。。
2022年1月14日(金)午後 礼拝堂の照明を新たにする工事の様子。移動式の足場にさらに脚立を載せて作業される腕利きの工務店の大工さん。天上左に見えるのは、旧来の蛍光灯型の照明です。新しい光の元での礼拝が始まりました。。

     2022年1月16日

【窓】『 息抜きも?兼ねた勉強会 』

 

「私は自分が習ったことのないことを神学校で教えています」という言葉から日本聖書神学校同窓会・中国支部のZoomによる研修会でお話を始められたのは「礼拝学」を教えておられる荒瀬牧彦先生だった。

 

 

荒瀬先生、どうやら日本聖書神学校の小さな教室からのお話のご様子。荒瀬牧彦先生は私と同じ年生まれ。父上は故人となられたが、私が1989年に神学校入学時の同級生の荒瀬正彦先生。不思議なご縁というか、導きである。

 

荒瀬先生「各地の教会の現場でのあれこれを聞かせて頂けることは、結果として礼拝学の講義の厚みが増すことになります」という意味の言葉を語って下さった。ありがたい。

 

中盤、「会衆席に届く声・届く言葉」の大切さについて一緒に考える時間帯もあった。これは、説教者のことを話題にしている時ではなく、司式者や聖書朗読者のことを話している時だった。

 

「声というものは、矢印がついて飛んで行くんですよ。聴き手までぴゅーっと飛んで届く声、途中でパタリと失速し落下してしまう声に分かれます」とのこと。

 

会の終わりに近い頃にメモをとった言葉で、その日最も心に深く響いたのは「礼拝で神と出会うんだと、本気で期待する人、本気で思う教会になってほしいのです」と仰ったこと。

 

心から共感しました。

 

それにしても、同窓会の会合や学びが、Web開催で出来ることは、様々な意味でコロナ禍における恵みであることに間違いはない。(森)

 

 


クリスマス愛餐会にて この二年間の恵みをピックアップしたボードが紹介されるところです
クリスマス愛餐会にて この二年間の恵みをピックアップしたボードが紹介されるところです

      2021年12月26日

【窓】『 一年納めの日曜日に 』

 

2021年の一年のあゆみを限られたスペースの中ですが、振り返ってみました。今号、ほぼ、週報への加筆はありません。

 

▼1月  ロールスクリーンを礼拝堂高窓に 

 

▼2月  飛沫飛散防止アクリル板使用開始 

 

▼3月  講壇天井部にLEDライト設ける

 

▼4月  トイレ前に自動手洗い

 

▼5月  ふみえさん受洗!会堂未来献金開始、HPに「旭東教会を3分でご紹介」を開設、聖書朗読奉仕 役員以外の方も始まる 

 

▼6月  絵本コーナー新設置、おむつ交換台を設置(*使用済みオムツゴミ入れも) 

 

▼7月  お掃除当番確認表設置、礼拝堂窓辺の長椅子の向きを調整

 

▼8月  平和聖日礼拝堂停電 *集会室エアコン老朽化漏電が原因

    25年振りの集会室新型エアコン 快適、

    オープンみ言葉カフェ開始 *YouTube配信、

    大学生のりょうたさん礼拝出席始まる、

    「1分間の分かち合い」開始、週報にて翌週要旨報告、

    新しい礼拝案内版にチャレンジ開始、

    玄関スロープ手すり新設、よかったなぁ 

 

▼9月  教会内手すり設置

 

▼10月  礼拝堂照明器具をLEDに刷新決定 1月工事へ *老朽化とメンテナンスが危険なため

 

▼11月  大掃除の仕方変わる

 

▼12月  中型サイズ献花台使用開始(*説教卓上部も幅広に改修)、

     ほっとタイムに美味しいパンが並び始め みな笑顔、

     F家3人がめでたく転入会

 

●ヨハネ福音書21章25節

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」を思い感謝で一杯です。

 

よく祈り、よく笑い、たくさん悩みました。(森)

 

 


2021年12月19日(日)午後6時頃 兼務する十文字平和教会のクリスマス礼拝を終えて、下の県道に降りると見えた丘の上の十文字平和教会の風物詩。車外に出て、撮影に挑戦。
2021年12月19日(日)午後6時頃 兼務する十文字平和教会のクリスマス礼拝を終えて、下の県道に降りると見えた丘の上の十文字平和教会の風物詩。車外に出て、撮影に挑戦。

          2021年12月19日

  『 数では計れない豊かさ 』

 

▼礼拝出席者数の増減がすごく気になっていた40代の頃、いや、30代のころもそうかも知れないが、受付簿に書き漏らしがないか、目を皿のようにしていたものだ。

 

 

 

▼これは、どうがんばっても数の増えようがないな、と違う形で悟ったある教会での牧会の頃は、いつの間にか、数字はどうでもよくなった。

 

同労の仲間たちが、そんなこと気にしていてもしょうがないんだよ、という風に淡々として過ごしているように見えたこともよい意味で影響していたと思う。

 

 

▼その地区では、地区の全教会が週報を当番(私もやってました)に2ヶ月に一度まとめて送って来て、交流ファイルという名の表紙をつけ、週報がひらかれた読み物として各教会に届けられていた。

 

今考えれば、実に地道な支え合いだと思うし、素晴らしいと取り組みだと思う。今はどうなっているかは不明であるが。

 

 

 

▼最近の旭東教会の礼拝。

 

なぜか出席者数が少なくてもさほど寂しさを感じない。

 

もちろん多ければ嬉しいに決まっているが、それでもさまざまな要因で昨年度よりも平均値がなだらかに右下下がりでも、不思議な感じがしている。

 

日曜の夜、受付簿を眺めていると、あれ、もう少したくさん居られたのではと勘違いすることがあるのだ。

 

 

▼勘違いの理由、答えがわかった。自分なりに腑に落ちたことがある。

 

今の旭東教会の礼拝。動きがあり、メリハリがあるからだと思う。まだまだ完成形というわけではないと思うが、私たちなりの筋を通して、変化のわけも説明したり、試行錯誤を繰り返しながら、今の礼拝形式にたどり着いているのだった。

 

 

▼ある時期は、賛美歌の歌詞が写し出されるスクリーンの位置が毎週のように変わった。説教卓の位置もいろいろだったと思う。

 

長いすの並びだって、窓辺の椅子の向きを数ヶ月前に微修正した。しばらくこれで様子を見ます、として。

 

いやそうだ、数日前には、YouTube配信のためのノートパソコンやカメラが置かれている「テーブルの位置」を60㌢ほど下げた。礼拝堂後方が狭くて動きがとりにくかったのが、スムースになったはずである。

 

学ぶに終わりなしというのか、目標に向かうとき、常に変化が生まれてくるのは当然のことなのだと思う。

 

 

▼YouTube配信で礼拝の最初から最後まで(と言っても、実は配信終了後も、「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」という時間や、「今でかけよう」の賛美が続いている。

 

※その内容ご紹介を最後に週報よりほぼそのまま抜粋してご紹介します。

 

最新の礼拝配信の時間は、始めの数分間は礼拝開始前の様子も映っているが、1時間47分09秒である。はっきりと長い。でも、決して飽きないし、長さをさほど感じないはずである。

 

もちろん、さまざまに配慮が必要なこともあることを承知しているが、今は、この礼拝でしばらくは歩み続けたいと願っているし、教会の合意なのだ。

 

 

▼1年と少し前から、わけあって旭東教会の礼拝に出席されるようになり、この度転入会された方は、「礼拝ってこれだよ、これ。全て流れに明確な理由や意図があると初来会の時に感じました」という意味の言葉にして下さったことがある。

 

大いに励まされ、大事にした来たことを、我々の礼拝が何を目指しているかを見抜いて下さっているお言葉に深く感謝したものだった。

 

 

▼みんなの教会学校の始まりの賛美は手拍子が普通にある。私はアフリカの生まれの小太鼓を講壇でたたいていることが多い。

 

オルガニストも途中で入れ替わる。リーダーに導かれて手話賛美を一同でまるで体操をするかのように楽しみながら行うのも日常である。1ヶ月前から新しい手話賛美のリーダーがご奉仕を始められた。

 

そして気が付くと司式者に代わって聖書朗読者が講壇に立ち、静まってみ言葉に心傾ける。聖書朗読の奉仕も、今年の5月からは、司式者ではなく、司式以外のお当番を募りして下さるようになったのだった。

 

 

▼最終盤、1分間の分かち合いでは毎週5人程の方がマイクの奪い合いをしながら(嘘です)お話を始める。

 

実は、「ほっとタイム」も礼拝の延長と言えるだろう。恩師がおられた東京のある教会では、昼ご飯を礼拝と正式に位置付けて、毎週昼に何かを食して、そして、さらに礼拝が続いていたはずである。

 

他の、関西以東のある教会のT牧師が、同様のことを仰って、礼拝後の食卓を大事にされていたことを思い出す。山間部にある小さな町の教会だが、台所に力があり、素晴らしく活気があった。

 

 

▼日本でただ一つの、真に豊かな旭東教会オリジナルの礼拝がここにある。まぁ、もちろん説教という私のつとめも一所懸命であるが、それ以外にもたのしみがあり、いささかの驚きがある礼拝が毎週展開している。

 

つまり出来事が起こるのだ。

 

ほこりに思うし、素晴らしいじゃないか!と敢えて自分たちに言ってあげたいと思う。(森)

 

  **************

 

○《「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」を皆で形作って行きましょう》気軽に最近の出来事をお話下さい、お聴かせさい(*失敗しました、美味しかった、嬉しかった等)。先週の話題は以下でした。

 

①Gさん

 初めて伝道しました。50年来の親友をクリスマス礼拝に誘いましたが失敗。また挑戦します!

 

②Kさん

 知り合いに手作りのクリスマスカードを送ります。クリスマスは伝道の良い機会だと感じてます。

 

③Uさん

 〇〇牧師の訃報に驚きました。〇〇教会では前任の牧師も50代で現役中に難病で亡くなっています。残念で言葉がありません。

 

④Rさん

 アメリカのLGBT関連のニュースを聴き、森牧師の羊飼いの説教を思い出しました。帽子は去年友人にプレゼントし(*森牧師にカッコイイと言われたこの)てもらったものです。

 

⑤Kさん

(私が)おでんを作りましたが、稚内教会の利尻昆布を入れたら(旭東教会でも販売される)美味しかった!

 

⑥Mさん

 家内に頼んで携帯をスマホに変えようとした所、お店の人に断られました(従来型をすすめられ)。理由は93歳という年齢のようです。(私もガラケーですよ!の声)

 

⑦もり牧師

 故・〇〇さんのご子息がお父さまの召天記念日献金を送って下さいました。以前、ホームページに父上のお写真を残してあることを喜んでくださっていることを伺ったことがあります。

(完)


2021年12月12日 礼拝後のほっとタイムに〈50円〉で準備されていたパンです。三倍のお値段がついてもおかしくないもの。寿子さんのご奉仕で、ほっとタイムが充実し始めています(^^♪
2021年12月12日 礼拝後のほっとタイムに〈50円〉で準備されていたパンです。三倍のお値段がついてもおかしくないもの。寿子さんのご奉仕で、ほっとタイムが充実し始めています(^^♪

           2021年12月12日

         『 涙した木曜日 』

          ※今週は週報を削り、一部加筆。

 

同労の友であるM牧師が天国へ凱旋された。私よりお若い方。

 

ある時期、同じ教区・同じ地区でご一緒させて頂いた。

 

当時はまだ、各教会でのホームページというものが普及していない頃。しかし、既にM先生は説教音声を公開するなど、最前線に居られたと思う。

 

ホームページ作成について電話で相談したことがあったが、「やる気になれば森先生にも出来ますよ」という意味の言葉を下さり、私もホームページ作りを始めた。

 

あの一言は大きかった。

 

また、伝道のための教団の枠組みを超えた研修会に参加したとき、M牧師もそこにおられた。

 

どこかに相通ずるところがあるのだな、と確信した。

 

彼は群れることを好まれない方で、いつもひょうひょうとしていた。

 

侍のような潔さを身にまとわれている方だった。

 

ひと言で言えば、尊敬していたのだ。

 

水曜日、ご逝去の報が届いた。

 

そして、翌・木曜日は「アドヴェントの賛美歌を歌おう」の日だったが、賛美歌を歌い始める前に、朝に夕に、ある新聞に載っていたM牧師の闘病記とも言える説教を読むことが出来たので紹介。

 

忍ぶお話をさせて頂いた。

 

その際私は、言葉に詰まり、涙をこらえきれなかった。

 

泣かせてもらえる場所があることは、人として本当に有り難いことだと思う。

 

感謝しています。(森)

 


2021年 旭東教会のクリスマス ポスターです
2021年 旭東教会のクリスマス ポスターです

           2021年12月5日

 『 たのしい礼拝・庶民的な教会』

 ― 旭東教会を こんな風に感じたそうです ―

 

先週は有り難い新来会者が与えられた。

 

隠退牧師であり旭東教会の会員であるUさんが出席されている「岡山朝祷会」のお仲間で、長年の伝道牧会を終え一線を退かれた他教派の牧師ご夫妻が礼拝に出席して下さったのだ。

 

Uさんがどのような声掛けをされたのかはハッキリは分からないが、「うちの教会も、なかなか、いい教会ですよ。一度、ぜひいらしてください」みたいなことを伝えて下さったのだろうか。

 

                *

 

私は初めてお目に掛かったけれども、80歳になられるO先生、H子先生共に、かなりやわらかな感性で旭東教会を様々に感じいて下さったことを知った。

 

奥さまも牧師先生であることには、その時は気付かなかった。それはそれで、とても素晴らしいことだと思う。

 

                *

 

新来会のお二人。

 

礼拝最後の報告後に行っている、「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」の時にも、礼拝出席の喜びを率直に語って下さっていた印象はあったのだが、私は礼拝後に近づいて行って、先ずH子さんに感謝のお声掛けをした。

 

                *

 

H子さん、満面の笑顔で感想をこうお話された。

 

「本当にたのしい礼拝でした」と。聖歌隊、そして私の賛美の声と説教についても励ましの言葉を下さった。

 

この日はアドヴェント入りしたこともあり、偶然、聖歌隊・コール ホサナの賛美もあった礼拝だった。

 

そして、肝心のひと言、こう仰った。

 

「本当に、たのしい礼拝」でした、と。「あかるくて」とも言われたかも知れない。

 

厳粛さとはちょっと違う方向にある礼拝。それが旭東教会の礼拝かも知れないけれど、これは、現在の旭東教会全員への最高のほめ言葉だと思う。

 

「たのしい礼拝」の反対語があるとしたら「退屈で、堅苦しく、眠くなる礼拝」なのかも知れない。そして、当然、明るいの反対は「暗い礼拝」である。

 

                *

 

わたしたちの礼拝。本気でご一緒して下さる方ならば、時間の長さをそう感じないはずである。

 

                *

 

現在、礼拝学を教えておられる先生と最近どうしてもの必要があってやりとりをし、神学校の卒業生研修のことについて相談していた。

 

その際、こんな言葉が、届いていたことを思い出した。一部ご紹介したい。

 

「卒業生を各地の教会に送り出すにあたって、礼拝計画者・礼拝司式者・礼拝教育者としての役割を学ぶことはとても重要だと、礼拝学担当者のわたしは考えています。ひと通りの知識は教授しているつもりではありますが、結局、良い礼拝を形成していく上ではセンスや視野の広さ、共に生きている人たちを理解する力やチームワークの能力も求められることなので・・・・・・」

 

と、いうもの。

 

                *

 

興味深いのは、各地の教会で、礼拝をつくりだす営みの中で重要なことは何かに触れられていることだ。

 

最先端の礼拝学を講じておられる先生が感じておられることを改めて知っただけでなく、当然、わが身を振り返ることになった。

 

特に立ち止まりたいのは、次の言葉だろう。

 

今、礼拝を豊かにする上で必要なのは、教会の風土・みんなの《センスや視野の広さ、共に生きている人たちを理解する力やチームワークの能力》だということである。

 

それがはっきりと伝わって来たのである。

 

                *

 

もしかして、旭東教会、イイセン行ってるのでは、と思ってしまった。

 

「シマッタ」「あー勘違い」

 

にならないと信じたい。

 

                *

 

一方、O先生の方は開口一番、「旭東教会は、庶民的な教会ですねぇ」と仰った。

 

これは、家族的とか家庭的とは明確に異なる言葉だと思う。

 

「庶民的な教会」のお言葉を頂いたのは牧師になってから初めてである。

 

いやいや、頂くどころか、聴いたことがないと思う。

 

                *

 

今日(こんにち)において、その書名にいささか引っかかりがあるけれど、紹介したい本がある。

 

救世軍の山室軍平先生のご著書で、『平民の福音』(明治32年・1899年初版)というもの。

 

それを思い出し、書棚から引っぱり出した。

 

表紙の袖裏には、渡辺善太先生のひと言がある。

 

「今度この新版を、私はもう一度読み返してみた。そしてそこには、当時の日本の大衆に、わからないような用語も表現も見出すことはできなかった。実にこの書は、明治・大正時代の最高の大衆伝道書」なりということを感じさせられた。」

 

とある。

 

「庶民的」にだいぶ近いかな、と思うところの「大衆」が使われていた。

 

                *

 

人間、様々なことにすぐ慣れてしまうもの。

 

旭東教会のあたりまえは、もはや、よその教会では当たり前ではないことが多々ある。

 

内輪では、日常となっていることが、お客さまには新鮮だったのだ。

 

                *

 

「よそ行きでなく、お高くない教会」と感じられた識者のひと言。

 

「旭東教会は、庶民的な教会ですねぇ」これは「花丸!」じゃないかと思う。

 

わたしの心は弾んだ。マリアの賛歌・マニフィカートを歌いだしそうになっていた。(森)

 

 


2021年12月12日 待降節・アドヴェント第3 みんなの教会学校にて あさこさんからの皆さんへの贈り物
2021年12月12日 待降節・アドヴェント第3 みんなの教会学校にて あさこさんからの皆さんへの贈り物

    《 み言葉 余滴 》   NO.338

            2021年12月12日

        『 荒れ野での備え方 』

            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 1章2節~4節

 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

 

新約聖書には、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書があります。そのいずれの福音書にも登場するのが「洗礼者ヨハネ」です。

 

4つの福音書のいずれにも「洗礼者ヨハネ」が描かれるということは、彼のことに触れないでは「福音書」というものを世に送り出せなかった、ということです。

 

4つの福音書のいずれにも記録されるお話というのは意外に少ないものです。クリスマスの出来事ですら、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。もう少し言葉を添えるならば、主イエスの十字架と復活の出来事は4つの福音書におさめられています。

 

この事実も心に留める意味があります。

 

**************

 

私が聖書や讃美歌を初めて自分で買って読み始めた25歳の頃です。

 

当時、よくわからなかったのは「洗礼者ヨハネ」と「イエスさま」の関係でした。聖書辞典という便利な本があることも知りませんでした。ましてや、1980年代の中頃には、インターネットで「洗礼者ヨハネ」を検索して調べる、等というすべもありません。

 

**************

 

実はヨハネとイエスさまがそっくりなところがあるのです。

 

それは二人共に、「悔い改めよ」「神の国を信じなさい」ということを、その時代の人たちに命がけで明らかにしようとしたことです。

 

**************

 

先ず、「洗礼者ヨハネ」について申し上げるならば、彼は祭司の家系に生まれた人であったにかかわらず、エルサレム神殿での祭儀を仕える働きには進まなかったのです。

 

ヨハネは預言者イザヤが指し示した「救いの道」を、ユダヤの荒涼とした地としての「荒れ野」に求めたのです。

 

**************

 

イザヤ書40章8節に「主のために、荒れ野に道を備え 私たちの神のために荒れ地に広い道を通せ」とあることを、そのまま実践しようとしました。

 

禁欲的な生活をし、この世と距離をおきます。預言者としての自分に出来ることに限りはあることは承知していました。

 

だから、「私は自分のあとから来られる方の靴紐を解く値打ちもない人間だ」と言います。しかし、なお人々は、ヨハネの元に救いがあることを期待し、ユダヤの全土から押し寄せました。

 

**************

 

では、イエスさまはどうだったのか。

 

イエスさまはヨハネがしようとしていたことに対して深い敬意をあらわされます。その象徴として、イエスさまご自身、彼から洗礼を受けられたのです。罪人のひとりになられ、そこから、公の生涯を始められました。

 

**************

 

しかし、イエスさまは殺伐として乾ききった「荒れ野」が、別の所にあることをご存知でした。

 

「荒れ野」が険しい山の中、谷底にあるとはお考えにならない。律法厳守の誇りや、善い行いの先に「慰めの道」は見いだし得ないからです。

 

やがて、救いの御子としてこの世に送られたイエスさまの元に集まり始めたのは、中心に生きる人ではなく、周縁(しゅうへん)に追いやられ軽んじられていた人、罪人たちでした。

 

「洗礼者ヨハネ」。彼は旧約の終りを告げる預言者でした。end

 

 


2021年11月28日の献花です りょうこさんの生き生きとした感性が感じられて素晴らしい!
2021年11月28日の献花です りょうこさんの生き生きとした感性が感じられて素晴らしい!

        2021年11月28日

        『 ぼくの慰め 』

 

10月の終りの土曜日、『教会報 緑の牧場 46号』が刷り上がった。

 

外部の方が見ると、外の印刷屋さんにあれこれして頂いているように見えるかも知れないが、すべて、旭東教会のメンバーのご奉仕。というか、長年、編集をして下さっているのは泰さんである。

 

最新号をにした時、青色インクのペンを手に取ってすぐにお便りしたのは、長崎県の松浦市にお暮らしの犬養光博先生だった。

 

巻頭メッセージの他に、『 神学校 卒業生研修会に参加して 「 ―筑豊に生きる人― 犬養光博牧師から問われていること」』を投稿しているので是非読んで頂きたいと思った。

 

いや、それだけではない部分も実はあるのだが、ここでは省略する。

 

かなり長くなるが、その全文を、ここに貼り付けておく。

 

    **************

 

 

ひと言添えておくならば、お送りしたのは、最新の教会報だけではなかった。昨年秋に記した、望さんの洗礼式についての詳細が記されている号も入れた。

 

さらには、犬養先生が大事にされていると知った詩編の学びに関連して、教会の「賛美と聖書とお祈りの会」(祈祷会)で参加者に配布している講義資料の中から、詩編116篇を放り込んだ。教会の週報も入れた。

 

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※以下、しばらく、教会報 緑の牧場 46号からの抜粋です   

 

卒業生研修会に参加して

「 ―筑豊に生きる人―

 犬養光博牧師から問われていること」

                   牧師 森 言一郎

 

母校・日本聖書神学校の「卒業生研修会」にZoomという媒体でインターネットを使用して参加した。早起きしての移動の必要もなく楽な面もある。

 

だが、それだけでよしなのかというと、いささか複雑な思いを抱かざるを得ない。雑談も出来ないし、片隅での話も、無駄話もなし、駅弁の楽しみもない。Zoomには独特の疲れがいつも伴う。

 

                    *

 

今年の主題講演は10年程前までの半世紀近く、福岡県の筑豊地方の炭鉱があった地域に根差した歩みをされた犬養光博先生、81歳だった。かつて私は九州教区にも居たのだが、じっくりと先生のお話を聴かせて頂くのは始めてだった。

 

犬養先生。現在は開拓伝道された福吉伝道所を閉じ、一線を引かれて長崎県松浦市にお住まいだが、まるで今も、筑豊の炭田地帯での宣教に生きておられるかのような、力溢れるお話をして下さった。

 

犬養光博という方が初めて筑豊に出会われたのは、1961年・昭和36年だという。私が生まれた翌年のことである。切っ掛けは、「筑豊の子供を守る会」のキャラバンに加わったことだと伺った。

 

「ぼくは、筑豊との出会いが自分のあり方を決定した、と思っている」という言葉が、犬養光博という人を貫いている。果たして、これに類比する言葉を私は自分の人生の中に見いだせているだろうか。

 

                    *

 

日本の復興を支えて来た石炭から石油へという流れの中、石炭産業の行き詰まりによって炭鉱閉山後の筑豊の民衆の困窮、窮乏が起こり始めていた。若き日の犬養先生は、人々の苦しみの根っこに何があるのかを考えないでは居られなかった。

 

見て見ぬ振りは出来ない誠実さが先生にはあったし、もはや、そこから逃げ出すことは出来ないことを悟られたのだろう。キリスト教会はどこに立つべきであるのか、約半世紀にわたって、誠実に向き合い続けることになる。

 

                    *

 

戦後の高度成長期の時代を生き抜かれた「社会的宣教活動者」のおひとりとして、その生き方、霊性について、時に、涙をハンカチで拭いながら語り続けられた。犬養先生は、ご自身の歩みを本当に謙虚に語られたと思う。

 

わかっているつもりでいても、何もわかっていなかったこと。見えていなかったことも率直にお話された。先生の最初のご著書は筑豊に入られて6年目『筑豊に生きて』だった。1971年のことである。

 

『筑豊に生きて』が発行されたときに、お世話になってきたという先輩に当たる小柳伸顕牧師から「犬養、これおかしいやろ。なんで筑豊のお前の教会での話に、大阪弁が出てくるや。」と指摘され、最初はその意味がわからなかった、と言われたのだった。

 

筑豊に住まわれて5年。「教会は確かに筑豊に立っていたが、教会の中に筑豊はあったのだろうか」「教会はどこに立っているのか」という問いとの明確な出会いだったと語られた。

 

当然、その問いは私たちにも向かう。突きつめて言うならば、「あなたの教会(私で言うなら旭東教会となる)は孤独と格差と差別に苦しむ市井の人との関わりをどこに見いだしているだろう。教会の中に、その方は、今、共に居られるだろうか」ということになる。

 

                    *

 

深く共感し、教えられたことは他にもある。福吉伝道所を拠点としての宣教活動の「土台」に関わるお話を、犬養先生は、講演の冒頭10分程語られた。その内容は次のようなことだった。

 

ご自身、長年、無教会派のリーダー・故 高橋三郎先生の2時間にわたる聖書講義のテープを取り寄せては、同労者や仲間たちと、背筋を伸ばして聴き続けたと語られたのだ。

 

そして、高橋三郎先生の聖書講義を、初めて、じかに聴きに行った時に、稲妻が落ちるかのように「聖書の権威を教えられた」とも言われた。「あぐらをかいて、高橋先生の聖書講義を一番後で聞いていたら、講義の最後に、手厳しく叱られた」そうだ。おそらく、「聖書の学び抜きに、筑豊での現場の歩みはあり得なかった」ということを表現されようとしたのだ。

 

                    *

 

神学校を通じて、事前に犬養先生の略歴と講演のレジュメが配布されていた。そこで目に止まったのはキリスト教雑誌『福音と世界 1991年3月号』だった。

 

探して読んでみた。そこには「詩篇が好きで学びを続けて来た」と書かれている。特集、『日本基督教団の50年』の中の「関わりの中で問われた教会」の終盤の言葉である。

 

                    *

 

先生は、呪いの祈りが含まれる、詩編の120篇2節を引用しながらこう記された。「偽って語る唇から欺(あざむ)いて語る舌から助け出してください」という呻(うめ)きのある所に教会は存在しなければならない。イエス様に出会うために」と。

 

犬養牧師が詩編を愛されるのには理由(わけ)があるのだ。詩編詩人の呪いの祈りは、どこから、誰に向けて、どのように発せられたかを、ずっと求められていたのではないか。犬養光博先生は決して社会活動家などではなかった。

 

ただ、ナザレのイエスに従おうとされた結果、聖書に学ぶこと抜きに、聖書の権威に従うこと抜きに、筑豊で信実な言葉を語り得ない、ことに気付いておられたのだと思う。

 

                    *

 

私たちも教会で詩編を学び続けているが、犬養先生の言葉に触れると、はっとすることがある。既に学んだ呪いの祈りが含まれる詩編もあるが、全く気付かなかった読み方・文脈ががあることを知らされたように思う。

 

今、116篇を学んでいるから、最も長い詩編119篇を読み終えると、冬には、旭東教会でも120篇を学ぶ予定だ。そこにはどのような世界が見えて来るのか。何が聞こえて来るのだろうか。

 

                    *

 

研修会のさいごに、御礼を兼ねて、ひと言、言葉にさせて頂いた。「かつての筑豊と同じ状況に重なる何かを、コロナ禍に生きる私たちはどこに見いだせるか、引きよせて考えました」と。

 

コロナ禍ということもあるし、そうでなくとも、今、決して遠くない所に呻きや嘆きはある。そこから目を背けることなく、耳を閉ざすことなく歩んで行きたい。(森)

 

             * * * * *

             * * * * *

             * * * * *

 

過日、忘れ掛かっていた頃に、犬養先生から返信のお便りを頂いた。嬉しく、何度も読み返した。部屋を移動する先に持ち運ぶようにしていた。有り難かった。

 

犬養光博先生、冒頭、こう記されていた。

 

    **************

 

「お手紙と「緑の牧場」、「詩編116篇」等々いただいたのは11月1日でした。とても嬉しく感動して読ませて頂き、すぐにお返事をと思いつつ・・・」

 

「ぼくの話を自分のこととして受け止めて頂き、とても感謝です。そして関連するものにも直ぐに目を通して下さり、『福音と世界』に書いたものを引用までして下さって驚きました。」

 

とあった。

 

さらに、「そして詩編116篇の刷り物を読ませて頂き・・・」に続けて、「ぼくはもっともっと荒っぽい読み方しか出来ていません。でも詩編が大好きです。熊本の「恵楓園」(けいふうえん)というハンセン氏病の療養所で2ヶ月に一度、詩編150篇全部を学んだことがぼくの慰めです。ずいぶん長い間かかりましたが、本当に多くのことを教えられました」

 

とあった。

 

    **************

 

実は、私はこのコラムを書き始める前に、犬養先生に電話を入れた。お便りの中の一つの言葉をどうしても直(じか)に確かめたかったのだ。

 

それは、「恵楓園(けいふうえん)というハンセン氏病の療養所で2ヶ月に一度、詩編150篇全部を学んだことがぼくの慰めです」の中の、「ぼくの慰め」についてだった。

 

私は電話で、「犬養先生、ここでの〈ぼくの慰め〉の〈慰め〉というのは、他の言葉にするとどんな言葉になるのですか?」と尋ねた。

 

「いやぁ、そんなに意識して記した言葉ではないんです・・・、もし他に言い換えるならば「誇り」かなぁ」と応えて下さった。

 

    **************

 

その時、ふと思った。

 

あー、「ぼくの慰めです」の〈慰め〉は、受け手である私が自由に想像して良いのだ、と。

 

説教も私の口から発せられた後は、聴き手がどう受け止めようと構わないのと同じではないかと。愚問だったかも知れない。でも、本当によい言葉だ、と思った。自分もいつか使うことが出来るようになるだろうか、とおもった。

 

    **************

 

さらに、犬養先生が続けられた言葉が私には迫ってくるものだった。

 

「元・ハンセン氏病の方が、「これはぼくの詩編だ」というような気持ちでいる所で詩編を読むことが(解き明かすことが)恐かったんです」と。

 

これは本当に深い言葉だと思う。

 

私などには簡単には想像できない苦しみ、呻き、絶望を抱え、聖書に救いを求めておられたハンセン氏病で苦しまれた方々が、どんな思いでみ言葉に期待し、詩編で祈ることをなさりながら生きて来られたかを考えるならば、上っ面で本から学んだことなど通じるはずがない。

 

私など、その部分はじょうずに見て見ぬ振りというのか、考えないでおきましょう、となってしまったであろうことを認めざるを得ない。

 

だから、「恐かったんです」という言葉の重みは計り知れず、真実な言葉だと悟った。

 

    **************

 

さらに、私からすると驚くべきことを犬養光博先生は口にされた。いや、いつの頃からか詩編を愛し、学んで来られた犬養先生としては必然だったのかも知れないが、こう仰った。

 

「恵楓園での詩編の学びは65篇から始めたんです。64篇までは、教会外で奉仕を依頼された時に、ぼくは特別な事情がない限りは詩編から説教すると決めていたんです。だから、恵楓園では65篇~150篇と読んで行き、1篇~64篇と進みました」と。

 

比較することなどまったく無意味ではあるけれど、詩編への思い入れの深さ、大きさのいったんに触れておそれいった。それ程までに深い思いで、果たして私は、聖書の一書をを読み込んで来たことがあっただろうか。

 

犬養先生は、「116篇の刷り物を読ませて頂き、旭東教会でどんなに詳しく丁寧に読んでおられるかを知り、恥ずかしい限りです」と記して下さっていた。

 

    **************

 

 

だが、先生の厚みのあるお言葉に触れて、こちらこそ、恥ずかしさを覚えた。

 

そして、詩編に対する思い入れの深さも含めて、犬養光博先生は、やはり並大抵の方ではなかった、との思いを深くすることになった。

 

    **************

 

旭東教会の祈祷会(「賛美と聖書とお祈りの会」)で詩編を読み始めて7年目に入っている。いったい犬養先生は、2ヶ月一度のペースで何年掛けて学ばれたのだろう。いや、それ位ゆっくり読む価値のあるのが詩編なのだ。

 

旭東教会の学びはあと少し、半年もあれば終わるだろう。

 

やがて何年もの歳月を経てから、「旭東教会で詩編をみんなで一緒に学べたことは、ぼくの慰めです」と言い切れるような思いを抱き、温もりを得て、誇りの断片でも持ちうるならば、牧師としてどんなに幸せだろうか。

 

なお精進したい。そして、共に学ぶ教会の方々との真摯な向き合いをあらためて始めたいものだと思う。(森)

 

 


2021年11月21日の礼拝堂・献花
2021年11月21日の礼拝堂・献花

         2021年11月21日

     『 私も捜し続けます』

 

NHK教育テレビで放映された《こころの時代 宗教・人生》の「遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる」を録画していた。先日、ようやく観ることが出来た。

 

映像をstopしてはメモをし、あるいは、巻き戻しすることを繰り返す程に面白かった。

 

私はまだ『深い河』(ディープ リバー)自体を読んでいないのだが、番組の中で対談されているお二人がよかった。読まなくても、十分に『深い河』の骨格が見えて来た。

 

                *

 

対談されていたお二人のうちのひとりは、地元岡山にある、ノートルダム清心女子大学  キリスト教文化研究所の山根道公さんだった。なんと身近な所に居られるのだろう。

 

そして、もう一人は、詩人で評論もなさり、かつては薬草商もなさっていた若松栄輔さんである。いつの頃からか、東京工業大学リベラルアーツ研究院教授もなさっている。

 

二人共に私と同世代の方であることも身構えなくてよい理由の一つだったかも知れない。とにかく、お二人による遠藤周作への関心の持ち方は私にとって実に興味深く、グイグイと引き込まれていった。

 

                *

 

ひとさまに勧められるかどうかは分からないのだが、お二人の対談の面白さは、長年、わたし自身が無意識で捜してきた事柄に深く触れるからだったと思う。

 

そして、私は心のどこかで、相当に深く自覚してはいるけれど、誰とも十分に語り合うことがなかった事柄について、明確に切り込んで下さっていたからだと後で気付いた。

 

                *

 

お二人とも、カトリックの信者さんである。

 

そして、井上洋治神父さまの元で、40年近く前に出会い、求道し、学んで居られたというバックグラウンドがある。

 

井上洋治神父さまについては、一番下にご自身が生み出した風の家のホームページトップの言葉を貼り付けさせて頂きます。お身内の紹介の言葉ではあるけれど、分かる情報も多いと思う。

 

                *

 

対談の中で、遠藤周作という方が作家として・文学者として、日本の風土に根付くキリストの福音を何としても言葉に紡いで本にと願い、そこに人生を賭けておられたことを遅ればせながら知った。

 

その切っ掛けを生み出したのは、「親友」を超えて「戦友」だとの自覚を互いにもっていた司祭・井上洋治の存在だった。だから、『深い河』の主人公は井上神父さまが投影されていると聞いた。

 

井上洋治神父さまについては、幾つかの本を手元にもち、少しは知っているつもりだったが、作家である遠藤周作と共に、ある意味、それぞれの立ち位置で切磋琢磨を重ねていたことを知らなかったので、なおのこと引き込まれた。

 

                *

 

番組の映像では二つの河が映し出された。

 

遠藤にとって、河とは「永遠、歴史、無意識 流れ行くものの象徴」と解説される。

 

河のひとつはフランスのセーヌであり、もう一つが私が21歳の時にリュックと寝袋を担いで旅をしたインド・ガンジスだった。

 

そして、ガンジス川のほとりの町・バラナシ(ベナレスとも言います)が映し出されたことは私にとって本当に嬉しいことだった。

 

                *

 

40年前、沐浴(もくよく)する人々の傍らでは、材木が積み重ねられた所に遺体が運び込まれ、その遺体が静かに焼かれて炭となって崩れゆく日常に触れ、私は衝撃で立ち尽くしたものだ。

 

生きているうちにこんな幸せな瞬間はない、という表情で沐浴する人の本当にすぐ横で、遺体が焼かれていった。まさにその時と同じ光景が番組の画面に広がった。

 

何かを捜し、何かを考え、歩き始めていた頃の私にとって、その光景は人生の中で忘れ難いひとこまとなっている。

 

「くみこの家」だったとおもうが、民宿風の安宿に泊まって雑魚寝したことも忘れられない。

 

                *

 

遠藤が捜していたのは日本人にピタリと合う信じ方、伝わる言葉だったことが番組の中ではひもとかれていった。

 

そして、遺作となった『深い河』では、大胆にも「神」を「タマネギ」にたとえて描いているのだった。遠藤にとってタマネギは、愛の働きの塊なのである。

 

                *

 

フランスではタマネギスープがおいしい、と表現されるのに対して、インドでは、酢漬けにした玉葱がおいしい、と遠藤は表現した。

 

どの文化の中でも、オニオンスープでなければならない、という押しつけは出来ないことを遠藤は知っていた。戦友・井上洋治神父さまと共に到達していた地点がそこにあるのだった。

 

                *

 

画面に映った、『深い河』発行当時の、東京新聞のインタビュー記事の遠藤周作さんの写真の下の文字を、私は画面をストップさせてメモした。

 

深い河の中では語っていないけれど、作品が仕上がった頃に新聞記者に伝えた遠藤の言葉はこうだった。東京都目黒区中町の自宅でとあり、こうある。

 

「人生体験で一番重要なことしか興味がありません」

 

そう記されていた。

 

                *

 

遠藤周作による福音書とも言える『深い河』での「タマネギ」は人の心を閉じない象徴としているのだった。

 

とても多くのことを考えさせて頂く時間となった。

 

「神は日本ではあまりに軽い言葉として土着していますね」という意味のことも対談の中で語られていた。

 

そうか、そうかも知れない。しかし、それならば、他に語る言葉が見いだせるのだろうか。

 

私も、出会う人、向き合う人、共に道を歩んでいる方たちのこころをひらく言葉を探求し、語る者であり続けたい。

 

                *

 

なお、若松栄輔さんは、以前から近しい思いを抱く方だったが、番組の中でこう言われた。

 

それは、師として仰ぎ、信頼し、人生を導いて下さった井上洋治神父さまと交わした言葉だった。

 

聖書の中に、あるいは、信仰者としての生き方の中に、事実を探し求めていた若松さんは井上洋治神父さまによって目から鱗が落ちる瞬間のことだ。

 

「若松君、いいお話を聴かせてもらったよ。でもね、信仰ってのは、知ることではなく生きることなんだ」と。

 

若松さんは

 

「私にとって、深く知ることが信仰を深く生きることだと思っていたのです。でも、あの日を境に、私にとって信仰とは本当の意味で生きることに変わった」

 

と語る。

 

「人間は、弱かったり、だめだったり、罪深かったりすればするほど、その人を神さまは大切にして下さる。善悪で分け隔てせず、すべてを包み込む神。それが、日本には必要」

 

という言葉も、いずれかの文脈の中で語られた。

 

                *

 

番組の底力も深く感じる、時間となった。ありがとうございました。(森)

 

 

**************

**************

 

※井上洋治神父さま 創設「風の家」機関紙ホームページの表紙の言葉は以下の通りです。

 

井上洋治は、1928年3月28日に神奈川県で生まれ、1950年東京大学哲学科を卒業後、フランスに渡り、カルメル会修道院に入り、7年半に及ぶ厳しい修行と共にリヨン、ローマ、リールの大学で勉学に励みます。

 

その末に、西欧には西欧の、東方には東方のそれぞれの文化に根ざしたキリスト教の捉え方があることを学び、日本には日本の文化に根ざしたキリスト教の捉え方が必要であり、そのテーマに生涯を賭ける覚悟で帰国します。

 

そして、渡仏の船で偶然出会って以来の友人であったカトリック作家遠藤周作と、同じテーマを背負っていることを二人で語り合い、自分たちが先人のいないこのテーマの開拓者になって、それは長い年月のかかる仕事ゆえに、次の世代への踏石になろうと二人は決意します。

 

1960年にカトリック司祭に叙階され、それからほぼ半世紀、井上神父は日本の人たちにイエスの福音の喜びを伝えるためにイエスの福音の原点に立ち帰ってキリスト教を捉えなおし、それを日本人の心に響く日本語に凝結させることに生涯をささげ、20数冊の著作を発表しました。

 

2014年3月8日、井上神父は86年の生涯を閉じて帰天し、命日は「野の花命日祭」と命名され、井上神父を偲ぶ会が行われています。〔完〕

 

 


聖徒の日の礼拝を終えて 午後は「墓前の祈り」へ 文中のりょうたさんも居られます(^^♪
聖徒の日の礼拝を終えて 午後は「墓前の祈り」へ 文中のりょうたさんも居られます(^^♪

         2021年11月14日

           『 愛の告白 』

 

先週、11月7日は年に一度の「聖徒の日・召天者記念礼拝」だった。

 

この度、冷静に考えてみたのだが、教会の一年の中で、教会員以外の方がもっとも多く礼拝、そして、旭東教会にお出でになる日だと気付く。

 

                *

 

今年は14名(内こども3名)が「この日だから」のお客さまがあった。

 

説教の仕方も普段と違って来る。

 

いつもと変わらんかったよ、という感じ方をする方が居られるならば、それはそれで、良いことなのかも知れない。

 

私の心の中には、その日、新来会者と呼ばれるような方がもしも居て下さるのであれば、基本、その方に伝わらない言葉は避けたいという気持ちがいつもある。半年続けて来られている求道者にも標準を合わせることもある。

 

こども向けのお話が、幼稚であるとか、つまらない、ということは、本質的にはないはずだと確信があるからだ。

 

                *

 

もちろん、「贖い(あがない)」とか、「悔い改め(くいあらため)」というような言葉をどうしても使わなければらなないこともある。

 

けれども、それでも、会衆席の方々との出会いという文脈の中では、言葉の置き換え作業を繰り返すことになる。

 

                *

 

このような日には、当然、礼拝後も、この日でなければお話が出来ない方が優先となる。

 

いやいや、このこととて、毎月の教会役員会で毎回口を酸っぱくしながら伝え続けていることなのだ。

 

それどころか、週報にも、ほっとタイムという礼拝後の時間帯の過ごし方について、記し続けていることもほぼ同質のことである。

 

いつでもお話できる人との礼拝後の会話は後回しにしましょう。そして、優先順位を考えて、このときでなければ、の方とのお交わりをたいせつに。

 

これは、教会という場では、あってしかるべき自然の流れなのである。

 

                *

 

この日は、13時15分開始の「墓前の祈り(墓前礼拝)」が予定されていた。

 

教会墓地の駐車場まで車に乗って10分、降りて5分、車に乗るまで5分。その前に、牧師館に戻って身支度するのに4分を考えると30分前には、(教会に残る方たちには)「それでは、これで皆さま、ご機嫌よう」を伝えなければいけない。

 

                *

 

あっという間にギリギリの時刻になったので、ほっとタイムを行っている集会室から駆けて出ようとした私。

 

8月末から礼拝やグリーフケアの学びでご一緒している大学3年生のりょうたさんに、自分でも思いも寄らぬ声掛けをしたのだった。

 

                *

 

「あぁーっ、りょうたさん、今日は話ができなかったなぁ」

 

「あっ、あのねぇ、愛してるよーっ!」

 

だったと思う。

 

                *

 

彼と私。確かに目と目はパチッと合ったと思う。目撃者も居る。

 

しかし、彼は沈黙だった?

 

牧師から突如、「愛してるよーっ!」と言われた青年は困惑したのかどうだか、確かめてはいない。

 

教会だから大丈夫か。教会だからこその言葉じゃないか「愛」という言葉は。

 

だが、わが60年と11ヶ月余りの人生で、「愛してるよーっ!」と告白した男どもは居ないのも事実なのである。

 

                *

 

りょうたさん。

 

その後の「墓前の祈り」の場に、まったく思いがけなく教会の方々と共に居られ、お変わりなく、皆さんと気持ちよさそうに、元気に、賛美歌を歌っておりました。

 

アーメン・真実であります。

 

りょうたさん、日曜日、また会おうね。(森)

 

 

【補筆時 追伸】

翌週にあたる、11月14日(日)の朝、いつもならば、教会には余裕をもって、早めに姿を見せ、礼拝堂のしかるべきお席に座っているりょうたさん。

 

礼拝が始まっても姿はありませんでした。あー、ついに、彼は躓いてしまったか、無理もないかな、と思ったぼくしのもりでございます。

 

子ども祝福礼拝で、ちびっ子たちに心奪われていてその後の、礼拝堂の様子はみていませんでした。

 

              *

 

が、説教のときに、顔を上向きに、前提を見渡すような感じになったとき、彼は居たのでした。何事もなかったかのように。

 

礼拝後、どうしたのかな、と思いつつ、ほっとタイムの席であいまみえました。

 

目覚ましも全く聞こえなかった。

 

完全なる寝ぼうだったそうです。一時間遅れで目覚めた彼は、猛烈ダッシュで、教会に来た模様。

 

なんと嬉しいことでありましょうか。

 

だって、普通なら、「今日、一日くらい、しょうがない。やすむかぁ」と思っても不思議ではございませんから。〔完〕

 


2021年11月7日 聖徒の日の献花です。ふだんと位置が違います。様々に考えて下さって花籠を使われたのかなo(^-^)o
2021年11月7日 聖徒の日の献花です。ふだんと位置が違います。様々に考えて下さって花籠を使われたのかなo(^-^)o

           2021年11月7日

       『 リセットボタン 』

                     

礼拝堂後方2階バルコニーの奥に牧師の書斎がある。人はそこを牧師室とも言う。が、意外なほど皆さん、その存在を知らない。

 

戦後間もない頃のことだろうか。英会話教室が行われたり、子どもたちが卓球に興じたことがある部屋だときいたことがある。

 

                *

 

私はその部屋のパソコンであれこれ仕事をしている。もちろん、他の場所でもすることがあるが、集中しての教務は、ほぼそこで行っている。

 

何より、説教準備で〈うなっている〉のもその部屋であるし、『週報』作りなど集中することが必要な時もそこに居る。ホームページの更新も行う。

 

                *

 

先日の火曜日の夕方(11月2日(火))、困ったことが起こった。聖徒の日・召天者記念礼拝に備えて、早めにプログラムの作成・印刷をと思い、仕事に取り組んだときのことである。

 

出来上がったので、確認のためのプリントの指示を書斎のパソコンから送る。Wi-Fiと呼ばれる無線機を使い礼拝堂前方奥の部屋に置かれているコピー機に向けて書類のプリントの指示が届いているのである。

 

ところが、何度やっても「印刷失敗です」の状態が続いた。保留状態の印刷指示がたまっていった。

 

朝は、プリントも指示通りにいっていたはずなのに、と思いながら、同じ動作を繰り返す。何も間違っていないはずなのに、と。何が悪いのか簡単にはわからない。

 

はて、電波の具合突然悪くなるものか、と疑念が生じる。もしや悪意を持った第三者が、妨害電波でも飛ばしているのではないか、と真面目に考えた。

 

                *

 

引き続き、火曜日の夜遅くまで、素人なりにやれることはやってみた。

 

あちらを立てればこちらが立たず、という状態が続いた。パソコン自体がうまくWi-Fiをキャッチできない状態も起こったりした。

 

マイッタ。

 

                *

 

果報は寝て待てではないが、ひと晩経つと、不思議に回復ということが、これまでもあったような気がする。

 

きっとそうかも知れない。たぶん今回もそうだろう、と思いながら、寝た。

 

                *

 

朝が来た。しかしながら、翌朝からなんどもやって、だめだ。

 

しばらく放り出し、またやってみる、ということが続いた。そして、ほぼ24時間が経過しても復旧出来ず、疲れ果ててしまった。諦めようと思った。

 

                *

 

でも気を取り直して、最後はここしかないと思い、バッファローという無線機のメーカーの相談窓口に電話をすることにした。

 

外は、晴天率が一番高い、のどかな〈文化の日〉である。有り難いことにバッファローさん、仕事をして居られた。私と同じように。

 

とても気が利いているサービスがあり、自動応答の声で、「ただいま、あと何人お待ちです」という声が聞こえる。5人、4人、3人、とみるみるうちに減り、番が回ってきた。すごいぞバッファロー!

 

                *

 

解決の鍵は電話口の方が言われた「中継機を無線機の側にもってきて、見えにくいですが、リセットボタンをつま楊枝か何かの尖ったもので押してみましょう」の指示だった。

 

正味30分程のご指導の元、書斎とコピー機の部屋を階段の上り下りしながら駆けた。無事復旧。さすがプロ、助かった。

 

                *

 

「リセットボタン」

 

私たちの人生や暮らしの中で、そうは簡単に押せないものだし、ふだんは見当たらないところにあるように思う。

 

でも、あるんですなぇ、そういうスイッチが私たちのあゆみの中には。

 

                *

 

イエスというお方は、人生のリセットボタンの役割もして下さり、これまで、幾度も救出して下さったことがあったのではないか。

 

あなたを、私を救出するために、確かにそこにいつも気が付けばそこに居られたのだ。

 

ありがとう、リセットボタン。これからも時々、お世話になりそうである。(森)

 

 


来年一月・さいごの日曜日に、再びお迎えする予定の、七年前の、関田寛雄(せきた ひろお)先生です。コロナの終息状態が続けばご一緒できるのでは、と期待しております。旭東教会での一枚。準備が始まりました。。
来年一月・さいごの日曜日に、再びお迎えする予定の、七年前の、関田寛雄(せきた ひろお)先生です。コロナの終息状態が続けばご一緒できるのでは、と期待しております。旭東教会での一枚。準備が始まりました。。

         2021年10月31日

            『 同伴者 』

                     

7年目に入った「グリーフケアの集い」

 

                *

 

講義や授業形式で「グリーフケア」を学ぶ時間とは違う。それゆえ、毎回、初対面の方や久し振りの方も含め、参加のメンバーによってどのような展開になるか分からない会だ。

 

聴くこと、話をしてお伝えすることにも集中力が要る。

 

                *

 

シェークスピアは「口に出して嘆きなさい」と語ったと聞いたことがある。しかしそれを聴く人が必要なのだ。

 

いろいろと考えさせられるが多い集いだが、「人は集まることで癒され、人に話を聴いてもらって癒され、人の話を聴いて苦しんでいるのは自分だけではないと知って癒される存在」だとの思いは深まる。

 

                *

 

無力な会のようでありながら、継続はやがて力にもなるとも感じる。

 

とは言え、とうぜん、失敗もあるし、どうしたらよいのかわからない、行き詰まりを感じることもしばしばである。

 

だから、私や私たちの会に出来ることは限界がありとの〈わきまえ〉が常に必要だ。

 

                *

 

が、それでも、毎回、こころを尽くしてベストをと当然考えるのも生身の人間である。

 

なかなか、良い意味での適当にとか、よい塩梅で、という割り切りは凡人にはむつかしい。

 

                *

 

ここ5回ほど連続参加の、キリスト教とは基本的に無縁のYさんに、

 

「今の心の状態はどうですかYさん?」

 

と問いかけた。

 

「地面の下の地球の核あたりに居るのは変わらないです」と仰る。

 

これまでも表現を微妙に変えながらも、繰り返し口にされてきた言葉だったと思う。

 

だが、愛する人を喪失(死別)してから5年ほどが過ぎてもなお、〈どつぼ〉にハマったままの状態に置かれているのは全く変わらないにもかかわらず、この度は、ほんの数㌢は変化ありではないか、と感じるお話をされた。

 

                *

 

それはある喪失に直面し混乱の中にある遠方のご家族への寄り添いを、自分は経験者だからこそ出来るかも知れないと「気付き、出向いて、病院へと同伴し、一緒に悩み、なおこれからも共に歩もうとする人」の姿だった。

 

少しオーバーに言うなら、自分が生きて行く意味を新しく見いだされたな、と感じる時間となった。

 

そして、そのことを私は言葉にしてお伝えした。

 

                *

 

ピアカウンセリングというものがある。

 

同じ背景を持つ人同士が同じ地平にたって等しい立場で話を聴き合うこと。そして、障がいについて誰よりよく知っているのは障がいをもったその人自身である、という考え方、そして、その働きだ。

 

Yさん、そのようなピアカウセラー的な役割をいつしか担われているように見えた。

 

                *

 

今までになく、しっかりとした足取りで、教会をあとにされたように見えたのは私の気のせいだろうか。

 

見えないけれど共に居られ、同伴し、支えて下さる、主イエスの愛に包まれての歩みを、と祈りたい。(森)

 

 

 


2021年10月24日(日)礼拝最後の時間 1分間の分かち合いにて 7年前まで暮らしていた日本最北の町・稚内(わっかない)の新聞 日刊宗谷を手にする森牧師にする森牧師
2021年10月24日(日)礼拝最後の時間 1分間の分かち合いにて 7年前まで暮らしていた日本最北の町・稚内(わっかない)の新聞 日刊宗谷を手にする森牧師にする森牧師

          2021年10月24日

   『 車の窓を拭いていたら』

 

ひと月ほど前のこの欄に、「私は子どもの頃からの車好きです」と記した。

 

何も特別な車に乗りたいというようなことはない。ただ窓拭きや洗車をしているだけでも嬉しい人間なのである。

 

ところが、昨年5月の礼拝堂の改修工事が始まった頃から、洗車はおろか窓拭きもしなくなっていった。

 

 

数日前、毎日新聞の付録・『私のまいちに』(2021年11月号 №742)にあった私より10歳年下のお医者さまの言葉にほっとした。

 

東北大学の脳医学の先生・瀧靖之さんがこう記されていた。「学び直しのすすめ」という特集の中のものである。

 

 

 

「私は昆虫が好きでしたが、忙しく働くうちにすっかり忘れていました。ところが、30代のある日、森の中で美しいチョウに遭って、突然、思い出したんです。それから昆虫採集や観察を再開。「童心に戻る」幸せな時間を過ごせるようになりました。」

 

 

 

編集部の助けもあると思うが、関連の写真のところにはこうある。

 

「昆虫が大好きだったことを30代で思い出した時、脳の中をビビビッと何かが走ったような気がしました。いまは昆虫図鑑を手元に置き、昆虫の観察を再開してときめています。」

 

と。

 

 

 

 

念のため記すと、瀧先生という方のことは全く知らなかったが、その道では相当に知られている方のご様子。ご著書も多いが、肩書きから想像できる世界もある。

 

東北大学スマート・エイジング学際重点研究センターおよび東北大学加齢医学研究所 臨床加齢医学研究分野教授。医師。医学博士というのが現在の大学関係の肩書きのようだ。長いですなぁこれは。おそらく、外部の要職も多々引き受けておられると思う。

 

 

 

瀧先生の記された特集で、一番目に付くページのど真ん中あたりに、こういうキャッチの言葉が置かれている。

 

☆過去を振り返るとポジティブな気持ちになり、自分のやりたいことがわかる

 

☆私がワクワクすることはなんだろう?

 

☆昔のアルバムを見たり、Googleマップのストリートビューの機能で、懐かしい場所をバーチャル訪問

 

☆「回想は幸せの自家発電です」

 

ほー、ナルホドなる程、と思うことが多い。

 

「回想は幸せの自家発電です」とは名言ではなかろうか、と思う。心当たりがあるし、聖書の民も、実は、こういうことを繰り返し続けて来たのでは、と思うのだ。

 

 

 

さらに、次の言葉も大いに慰められた。これは福音の真理に通じることでは、とすら感じる。

 

「面白かったら続けて、自分に合わなければやめればいい。苦行のようにムリする必要はありません。三日坊主でも大丈夫。3日も何かを試したことが大切で、ゼロとイチの差はとても大きいのです。途中でやめた経験も、どこかで役に立ちます。」

 

素晴らしい!

 

新聞付録の特集は「学び直しのすすめ」なのに、なぜか違うスイッチが入ってしまった。

 

 

 

私の歩みを、ほんの、ちょびっとだけ振り返るならば、

 

小学校5年生頃に、夏のプールの特訓の一員になぜか選ばれてしまって、当時の平山校長先生の期待?を裏切ったこととか、高1の時、大分県下では大学受験で知られていたいわゆる進学校から逃げ出して父親のコネで東京の私立高校に転校したこと。

 

あるいは、二十歳の頃、ヤマト運輸の夏の配達のアルバイトを、2日目くらいに投げ出したこと(そこは、プロでも道に迷い込む地域として知られていたことに後で気付きましたが、ツーサイクルエンジンの臭いが自分には合わず耐えられなかったことも一因)。

 

さらには、流通大手のSEIYUの社員として採用され、20代半ば頃、東京郊外の小手指店で働き出して三日目には辞めてしまったこと・・・・・・等など。

 

書き始めたら枚挙に暇(いとま)がない、とは自分のことだと気付く。いやはや、ほんとうに。

 

幼い頃に、父親からも、「げん坊は、すーぐ投げ出してしまう」というようなことを言われていたのも、どこかに記憶がある。ダメ印バッチを自分で背負い込んだのは間違いない。

 

 

 

今の私、いつしか、安心して逃げ出しましょう。いつでも逃げ出すことオッケーです、と確信し、それを、様々な場面で、ハッキリと言えるようになった。

 

人生90年として、折り返しを過ぎてからの明確な自覚である。いや、旭東教会に仕え始めた頃からだろうか。

 

 

 

以下、わたくしごとですが・・・・・

 

このところ数回、車の窓でも拭くかぁ、という気になってバケツに水を汲むことがあった。

 

もうすぐ61歳のおっさん(おじいちゃん?)が、呑気に窓拭きなどしておりましたら、「うちの牧師も元気でよかった、良かった」と思ってやって下さい。(森)

 

 


このたび購入できた冷蔵庫が到着の様子
このたび購入できた冷蔵庫が到着の様子

           2021年10月17日

        『 パトロール終了 』

 

教会の冷蔵庫が新しくなった。

 

とても見栄えのよいチャコールグレイ系の色の東芝製。現行のカタログにも載っていることも嬉しい。

 

とは言え、11月にほんの小さな変更があるようで、型落ちになる直前のものだったらしい。

 

従来の1998年製ナショナル冷蔵庫が動かなくなったわけではなし。おそらく、放ってけば、あと10年でも動き続けるのではないかと思う。

 

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けれども、1998年製では、どんなに頑張っても省エネ機能が弱いのである。ナショナルあらためパナソニックのお客さま相談窓口に丁寧に質問してみると、23年前の製品を使い続けると、1年間でおおよそ12,000円程の電気代ロスが発生するのだった。

 

これは聞き捨てならない金額である。

 

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メーカー側も手慣れたもの。

 

「担当の者から、資料を準備しましたら、こちらから折り返しお電話いたします」と言われた私。

 

Panasonicの同等品の情報をお聞きしたり、東芝のカタログとも照らし合わせてみて冷蔵庫の事情がだいぶよくわかった。実に丁寧に数字を教えてくれる。

 

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余談だが、冷蔵庫は、ほぼどちらのご家庭でも必要とするもの。そして、メーカーからすると白物家電の中の稼ぎ頭らしい。

 

確かに今回お世話になった、教会から車で15分程の所にある邑久(おく)町の家電量販店も、お店の広さからするとかなりの台数の冷蔵庫が陳列されている。

 

場所を取るからという単純な理由ではなく、それくらいの広さをとっておいて、大いに販売したいのだと思う。なんせ、冷蔵庫ほど存在感がある家電品はないし、必要な時は、待ったなしのご家庭が多いのである。

 

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冷静に考えればわかることだが、陳列されているものと同型のものが、一年以上並び続けることは絶対にないだろう。いつか、何らかの形で販売店は処分をし続けているのだ。

 

電気代の節約は、このたび旭東教会が購入したような300㍑台のものでも大丈夫だが、大きければ大きいほど、各メーカーは競争力のある電気代節約の夜間モードなどをきめ細かく設定している。皆さんも知っていても損はないと思います。

 

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実は、2年程前、邑久町の家電量販店で、だいぶ顔なじみになっていた店員さんのMさんの話を聞いていて、「冷蔵庫には必ず展示処分の掘り出し物が出る」ことを学習した私。

 

店員さんもそのような買い物の仕方でご自分のお宅の冷蔵庫を購入したことを教えもらっていた。

 

以来、私は、「邑久町パトロール」を続けたのだった。

 

そして、ついに時が満ちて、冷蔵庫さんと出会ってしまったのだった。一目惚れである。

 

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今回の冷蔵庫購入には、旧・女性たちの会である「ハンナの会」が小さなバザーなどを続ける中で残してくれた〈89,167円〉が新しい冷蔵庫の購入に用いられた。有り難いことだと思う。

 

性的少数者の方々への配慮だけでなく、教会の活動の現状に鑑みて、「性別の集会はもう終わりましょう」となった時、その〈89,167円〉は、新しい冷蔵庫購入時に活用しましょう、という話題も出ていたのだが、眠ったままになっていたのだった。

 

店員さんからは、リサイクル料金も含めてお値段ほぼピタリが提示され、内金も不要という有り難いお話にのって先ずは仮予約をお願いした。

 

そして、先の役員会で相談、全員一致で購入に至った次第である。

 

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それにしても、家電品の中で冷蔵庫ほど働き者はないことに、改めて今回気がついた。そもそも冷蔵庫にはスイッチが無い。コンセントを差したら、冷蔵庫は働き続けてくれるのだ。

 

時々おもってはいたが、生涯無休のエアコンのようなものが冷蔵庫なのだ。

 

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私たち、新型コロナに耐える今の時期だからこそ、冷蔵庫が新しくなったことを通じて夢を持ちたいものだと思う。

 

新しい冷蔵庫さんと共に、ほっとタイムや愛餐会をじわりジワリと盛りあげて行きたいものである。食卓に明るく前向きな空気がある教会は様々な意味で生きている、と思う。(森)

 

 


3ヶ月程前から始めた、礼拝案内版の新しいこころみです。
3ヶ月程前から始めた、礼拝案内版の新しいこころみです。

          2021年10月10日

 『 ささやかだけど確かな幸せ 』

 

▼「冥利(みょうり)」という言葉がある。国語辞典を幾冊か確認してみた。

 

秀逸な解説だなと思うのは、刊行間もない2020年版・新明解国語辞典である。現代的な意味合いをしっかり押さえていて簡潔だ。

 

「それ以外のものでは決して味わうことのない、人としての最高の充足感や幸福感」の意味にたどり着く。

 

「役者冥利に尽きる」「料理人冥利に尽きる」というのが今日的な使い方だとわかる。ただ、「男冥利」という言葉があるのには驚いた。

 

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▼精選版日本国語大辞典などには、元来は仏教の言葉で、「仏菩薩が知らず知らずの間に与える利益。」ときちっと記されている。

 

なるほど、このあたりが原点らしい。

 

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▼数年前、ある方の葬儀の司式を教会で執り行った際、列席されていた先輩牧師が声掛け下さり、「森先生、牧師冥利に尽きますね」と笑顔で近づいて来て下さったことがあった。

 

出棺のときだったので、それ以上の会話は何もないのだが、伝えて下さろうとしたことは明確に感じたのを記憶している。

 

「本当にいい葬儀でしたよ」という思いだった。

 

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▼旭東教会では主日礼拝の中に位置付けて行っている「みんなの教会学校」の時などに、私はカメラを構えて、シャッターを押すことがある。

 

礼拝中、牧師がカメラをもって〈ちょろちょろするのを見守ってくれる〉のは冷静に考えてみると、旭東教会くらいではないかと思う。

 

有り難い。

 

もちろん、教会のホームページの働きのためであることを承知してくださっているからである。

 

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▼手にしている一眼レフカメラには、程ほどのズームが効く望遠レンズをつけている。便利なレンズで、ほぼ取り外して交換することがない。

 

だからこそなのだが、私の老眼と緑内障で弱り始めた眼には見えないものを、ぴたりとピント合わせをし、きっちりと写しだしてくれていることがあるのだ。

 

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▼数ヶ月に一度くらいの割合だろうか。教会生活を生き生きとお過ごしの方の表情が記録されるのだ。

 

そんな時に私は、おそらく牧師冥利と表現しても間違いないであろう、じわーっとした喜びを感じる。

 

最近では「1分間の分かち合いの一枚」にそのような心持ちになった一枚があった。

 

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▼もちろん、カメラマンをしている時以外にも、忘れた頃に、そのような冥利を覚えるようなことがこぼれ落ちてくることがあるのは、言うまでもない。

 

それがなければ、おそらく、牧師を続けてくることはできなかったと思う。(森)

 

 


10月3日 兼務する十文字平和教会の庭 オシロイバナ 治生さん撮影
10月3日 兼務する十文字平和教会の庭 オシロイバナ 治生さん撮影

         2021年10月3日

          『 仲間と共に 』

 

▼9月28日(火)の夕方、母校・日本聖書神学校の同窓会・中国支部会をインターネットによるZoomを利用して開催した。部屋に居ながらにしての会をもてることは、やはり有り難いことと思う。

 

 

▼私は支部長として進行係を務め近況を分かち合った。その時に聞こえた言葉を少し紹介したい。色々と考えさせられる。そして、勇気づけられもする。

 


 

▼旭東教会と同じ位の規模の教会を牧会されている方はこういうことにも触れられた。

 

「教会を活動の拠点として下さっている外部の方々の出入りが多いことに感謝している。それはそれで忙しいのだが、外部の方たちが、教会という場を必要として下さっているから、うちの教会は地域に必要とされているから絶対に倒れません。今夜もアルコール依存症の方たちの自助グループの集いがあります。」

 


 

 

▼また、陪席されていた方であるがこんなやり取りがあった。

 

「コロナ前は礼拝出席は10数名、今は5名位です」と。

 

私はとっさに、「○○先生、それで食べていけますか」と声を掛けるた。

 

すると、「それがですね、天からマナが降ってくるんです。思いがけない献金が届きます。」と言われた。出エジプト記16章を礼拝で共に読んだばかりの私は、いささかどころか、大いに驚いた。

 


 

▼お父さまの介護に明け暮れる仲間も居られた。30分に一度、夜中にも声が掛かる、と言われる。

 


 

▼友だちでもなく、知り合いでもなく、同労者である仲間が生きていることが伝わってくる。

 

苦労もあり、不安もあることが十分伝わって来た。

 

だが、そこには大切な何かがあった。集まってよかった。(森)

 

 


おにぎりが美味しい時間でした 長島愛生園の奥の方の空き地にて ひだりが〈たかひろさん〉右が〈りょうたさん〉。りょうたさん、さりげなくく、お洒落な青年です。
おにぎりが美味しい時間でした 長島愛生園の奥の方の空き地にて ひだりが〈たかひろさん〉右が〈りょうたさん〉。りょうたさん、さりげなくく、お洒落な青年です。

            2021年9月26日

         『 地べた座りの午後 』

 

9月21日(火)、6年ぶり位だと思うが、かつて、ハンセン病で苦しまれた方々がお暮らしになっている長島愛生園を訪ねた。

 

とは言え、元・患者さんたちとお話をする機会があるわけではなかったし、単立長島曙教会をお訪ねする、ということでもなかった。出かけてよかったことが多かったな、と思っている

 

幾つかの契機はあるけれど、直接の切っ掛けは、旭東教会で七年目を迎えている「グリーフケアの集い(*悲嘆からの回復の集いとでも言いましょうか)」に関心を持たれ、ホームページを通じて問い合わせて下さり、この一ヶ月、礼拝にも出席しておられる岡山県内の大学生三年生の〈りょうたさん〉をご案内することだった。

 

 

りょうたさんは、来年の秋には提出されるであろう『卒業論文』で「グリーフケア」ということについて深めて考えてみたい、という希望をお持ちの方。

 

私にとってはグリーフケアはライフワークでもあるし、旭東教会としてもじっくりと取り組みながら、世に仕える働きとしてこれからも継続して行こうとしているもの。

 

りょうたさんには、最初、少し厳しめに志を確認したのち、少しでもお役に立つならばと願い、その後、あれこれとお話しする機会をもっている。

 

 

 

そもそも、なぜ、グリーフケアが教会で行われているのか、ということにも素朴な疑問をりょうたさんは抱かれていたので、それならば、「キリスト教の根幹部分にあたる礼拝も経験してみてほしい」とお伝えし、快く理解してくれて、今に至っている。

 

たぶん、こちらの思い込みではないと思うが、不思議なほど、嫌な顔を一つなさらずりょうたさんはご一緒して下さっていて嬉しいことである。教会のみんなも喜んでいる。私たちがりょうたさんと初めてお目にかかってから早くも一ヶ月半が過ぎている。

 

 

 

グリーフケア=ハンセン病で苦しまれた方々、ということでは決してないけれど、わたしは繋がりがあるな、と読み取ったので、彼に、とにかく行ってみようと伝えた。何しろ、旭東教会から車で30分足らずでもう一つの療園である光明園まで行けるし、さらに、数分車を走らせれば、ハンセン病の療園としてはかなりの歴史がある長島愛生園があるというのは、日本でも極めて珍しい立地だと思う。

 

 

 

東日本大震災を東北のとある地で小学五年生の頃に経験したことを私たちに教えてくれているりょうたさん。それから10年という時間を生きてきたりょうたさんには、当然、悲嘆があるに違いないのだ。

 

グリーフケア関連の何冊かの本をお貸ししたり、これからも、少しでも私のような者の立場で手助けできることがあれば、と考えていたところに、ふと、日曜日の朝、顔が見えたのは、〈たかひろさん〉の姿だった。

 

 

 

私とりょうたさんは、最初の頃、日曜日の朝9時15分から打ち合わせをしたり、語らう時間を設けていた。そこへ、日曜日は教会にお出でになるのが早めの習慣をもっておられる〈たかひろさん〉の姿を見かけた時に、「そうだ、りょうたさんが、岡山に来て、グリーフケアに関心をもって学んでいて、ハンセン病のことについて知らないままでいるのはもったいないこと」と気付いたのだった。

 

 

 

「かくかくしかじかで・・・・・・たかひろさん、りょうたさんを、長島愛生園に案内して頂くことをご検討願えないでしょうか」とお話したところ、話がとんとん、と進みだした。ことが動くときはこういうものだ。

 

下の方に貼り付けているように、長島愛生園との関わりが人生を変えた、と考えておられる〈たかひろさん〉は、かつて福祉関連の学校で教鞭をとっておられた方でもあるので、感性豊かな時代を生きる学生さんのためならば、とあれやこれやを丁寧かつ進んで準備し始めて下さったのだった。

 

 

 

わたしは私で、「ハンセン病国家賠償請求訴訟」の〈原告番号15番〉と呼ばれた、『宇佐美治「陳述録取書」』の原本コピーをたかひろさんから借りて作成した冊子をりょうたさんに手渡し、「とにかくこれを読んで。大事なことは全部わかるから」と伝え、長島愛生園訪問の第一歩を踏み出したのだった。

 

 

 

フィールドワーク当日、私はりょうたさんをJR西大寺駅に11時過ぎに迎えに行った。そして、長島愛生園の駐車場で12時前にたかひろさんと落ちあった。

 

最初、愛生園の一番奥に位置し、その歴史を感じる、邑久高等学校新良田教室の跡地を見学。昼食をはさんで、段取りは全てたかひろさんがして下さったのだが、午後からのフィールドワークの前に、長島愛生園歴史館学芸員の田村朋久さんのレクチャーを受けることが出来たのは幸いだった。

 

田村さんについては、以下のアドレスでかなりを知ることが出来るので、ぜひ、開いてみて頂きたい。

https://leprosy.jp/people/tamura/

 

 

 

愛生園の事務棟の中の学芸員室に落ち着いた私たち、田村さんと向き合い、たかひろさん、りょうたさん、私の4人で一時間程度はあれこれ話し込んだと思う。

 

田村さんからの第一声は、「今回は、何がきっかけでこちらにお出でになりましたか」という意味の言葉だった。そこで、りょうたさんの関心事も伝えることが出来たし、田村さんのお話から、お聴きしたいと思うような事柄が私にも出てきた。

 

 

今回特に印象深く、新鮮だったのは、療養所でお暮らしの方々の考え方に相当幅がある、ということだった。ハンセン病患者ささんとしての苦悶の日々をつよく世に、国に訴えたい方々ばかりでなく、半数近くは、長島愛生園での暮らしによって助けられた、有り難い、と感じておられる方々もいるのだ、ということだった。

 

そのような話題は、学芸員室での一時間の中でも最初から出てきたわけではない。後半になって出てきた話題である。

 

 

 

とりわけ、日本の病理学者、皮膚科医にして、生涯をハンセン病の撲滅に捧げ、国立長島愛生園初代園長等を歴任したとされる(Wikipedia・ウィキペディアより)光田健輔氏(みつだ けんすけ)・1876年(明治9年)1月12日 - 1964年(昭和39年)5月14日についての理解について、大きな幅がある、ということを知ることが出来たことは、私には大きな意味があった。

 

言われてみればそのとおりだが、光田氏に対して批判的な情報を多く聴いているのが現実だったからである。

 

 

今回「万霊山」と命名されている納骨堂を訪ね、足を踏み入れることが出来たのも収穫だった。

 

そこには、元・ハンセン病患者の方々のお骨だけが、ガラスケースの中に美しく収められていたのではなかった。

 

今回、ちょうど、扉が開いていた(お参りに来られた、とお見受けするレンタカー利用のお二人が出てきたところで、その方たちのために開いていたようにも私には見えた)ため、入ることが出来たようにも感じたが、入り口近くには、元・職員の方たち、看護婦さん方、そして、前述の、光田健輔氏や奥さまのお名前のついた骨壺が置かれていたのだった。

 

 

 

3年前になると思う。母校・日本聖書神学校の卒業生研修会が東京で行われた際、靖国神社のフィールドワークがあった。そのとき、本当に印象深く、よくわかったことがあった。軍人さんとして戦地に赴き亡くなられた方たちが祀られ、鎮座している部屋だった。

 

そこは、英霊たちの写真で埋め尽くされている部屋で、英語で英霊はヒーローと紹介されている。実は今回、納骨堂に足を踏み入れた時に思い起こしたのは、その、靖国の英霊と名付けられた人々が記念されている部屋だった。わたし的には、ほぼ同じ空気を万霊山で感じたのだ。

 

この日は9月とは言え、かなり陽射しが強く感じられる午後で、扉の上には、大きな大きなエアコンが設置されていて、かなり強力に、納骨堂を冷やし続けていたことも心に残った。

 

 

 

ところで、実はこの日、私には久し振りのことが起こった。そして何とも心地よい時間だった。

 

それは、タイトルに掲げた「地べた座り」である。

 

いや、この「地べた座り」というのは、私の思いつきの造語であるけれど、実際その他に言いようが無い。

 

「お握りを持参して昼ご飯に」と三人で約束していて、愛生園の一番奥の木陰に座り込んでお握りを頬張った。うまかった。静かな瀬戸内の海辺の音、職員の方が昼休みに散歩する姿、ゴルフの練習をしているこれまた職員の方だろうか、そんな姿も見えた。

 

たかひろさんの言葉によれば、二つの放送が流され続けているはずです、というラジオの音が、各所にぶら下げられたスピーカーから聞こえて来る。私たちが昼食をとった側のスピーカーからは、NHKラジオ第一の放送が流れていた。

 

 

 

 

もしも、ハンセン病の方々と無縁な空間であるとしたら、そこは、のどかで、おだやかで、安らぎすら感じるところだった。

 

いや、道案内して下さり、学芸員さんとのお話のあとは、勘所にりょうたさんと私を連れて行っては簡潔に解説されるたかひろさんは、「ここに来ると、気持ちが落ち着くんですよ」という意味の言葉を口にされた、と思う。療園には、このようなのどかさが必要でもあるのだろう。りょうたさんも、それに近いことを話されたと思う。小豆島を海の中に見ながら。

 

 

お握りを頬張ったところは、よくみると、数メートル先には鹿の糞がころころと転がっていた。私は稚内に居た頃に見慣れていたので、すぐに、それだ、とわかった。

 

だが、誰一人として、声を出して場所を変えようなどとは思わず、やさしい陽のひかりに包まれて私たちは平安だった。三人だからだろうか、鹿の糞のことは、何も気にもならなかった。

 

 

 

たかひろさんと駐車場でお別れしたあと、我々二人は帰路についたのだが、もう一度地べた座りする時間があった。休憩タイムを持ちたかったのだ。

 

帰り道、虫明のブルーラインの上がり口の近くにあるコンビニで、「アイス休憩しよう」とりょうたさんを誘った。入り口で、「アイスと飲み物と、ごちそうするから、何でも好きなものを籠にいれて」と声掛けした。

 

そして、時々、町中で見かけるような気がするのだが、中学生か高校生たちが部活の帰りにやっているように?建物の陰に二人して足を伸ばして座り込んだ。

 

8月ではないから、それも出来たのかも知れない。何とも解放された気分の我々二人は、そこで、30分は駄弁(だべ)り続けた。

 

「教会に来るの大変じゃない?」と小声で聴いてみると、「今が、僕の、キャパのいっぱいいっぱいです」と笑顔でこたえてくれた。

 

 

 

さらに、稲穂が垂れ始めている下道を走り抜け、邑久町の農協の農産物直売所に立ち寄った。料理好き、とお聞きしているりょうたさんに、近くの農家が作られたマッシュルームをふた袋、大きなぶどうの一種、瀬戸ジャイアントのおこぼれパッケージを手渡した。

 

岡山を好きになってくれたら嬉しい。そして、この日の余韻を、食卓でも味わってくれればと思った。(森)

 

* * * * *

 

 

 

 

以下は、たかひろさんが、ご自身と長島愛生園との出会い、関わりを紹介された短文です。少し文体を整えさせて頂き、2021年2月14日 旭東教会で配布しました。

 

 

原告番号15番 宇佐美 治「 陳述録取書(ちんじゅつろくしゅしょ) 」と 私の出会い

 

                                                N.たかひろ

 

 2001年、「ハンセン病国家賠償請求訴訟」の判決について、国は控訴を断念しました。判決は、90年間にも及んだ日本のハンセン病に関する絶対隔離絶滅政策の誤りを断罪し、この隔離政策を継続してきた厚生労働省と法律を廃止しなかった国会の行為を違法として国家賠償責任を認めたものです。

 

 その裁判には、多くの元患者の方が原告として差別の実態を証言しました。私は、さっそく、長島愛生園入所者自治会に電話をかけ、これまでの差別の実態とその闘いを知りたい旨を相談しました。

 

 そして、宇佐美 治氏(1926年・大正15年生まれ ~ 2018年・平成30年 91歳でご逝去)を入所者自治会から紹介され、2001年に長島愛生園を訪れ、差別の実態などを詳細に聞き取ることができました。それ以来、約20年間、私は長島愛生園の宇佐美治氏を訪ねる日々が続きました。

 

 その年、私はハンセン病について、もっと多くの方に事実を正しく知ってもらいたいと思い、当時住んでいた岡山県のひる蒜ぜん山地域で地元の高校生と実行委員会を組織して、「ハンセン病の歴史と課題を考える」ための〈講演会・写真展〉を開催しました。

 

 また、島根県安来市の専門学校教員在職中には、毎年長島愛生園で視察研修を行い、講師には宇佐美 治氏、池谷謙二郎氏をお招きしました。学生にとっては、当事者の方々との交流は、将来介護福祉士として働くうえで大きな財産となったことでしょう。 

 

 判決後20年が過ぎます。確かに約1世紀におよぶ暗くて長いトンネルをようやく抜け出た感がありますが、まだ、人間回復への道には重い扉が立ちふさがります。療養所内における堕胎・嬰児殺、遺体解剖など、明らかにされなければならない問題があります。

 

 私たちは、二度とこのような差別偏見が起きないように過去に目を閉ざすのではなく、しっかりとその検証を行い未来へと語り継ぐことが求められていると思うのです。

 

 私は、宇佐美 治氏から、人間の尊厳とは何か、またその大切さについて学び取らせていただきました。そして、氏がよく語られていた、元・西ドイツ大統領 ヴァイツゼッカー氏の演説の中の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」※(欄外註 参照)をよく思い起こします。その言葉によって私は感化を受け、その後の人生に大きな力を与えられているのです。

 

 宇佐美 治氏は、生前、原告として法廷に提出した「陳述録取書」を私に託されました。これは、宇佐美治氏の真相究明と再発防止のためのゆるぎない努力を私たちに課せられたのだと思うのです。

 

 B4版125ページに及ぶものを、日本キリスト教団旭東教会の森 言一郎牧師が、読みやすいようにと冊子にしてくださいました。ひとりでも多くの方に、この「陳述録取書」を手に取ってお読みいただければ幸いに思います。(終)

 

※森 追記 註

 ヴァイツゼッカー大統領の在任は1984~1994年。この言葉は、1985年5月8日の連邦議会における演説からのものです。『 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領 ドイツ終戦40周年記念演説 』(岩波ブックレット)で全文を読むことができます。

 

 


2021年9月21日(火)長島愛生園(元・ハンセン病患者さんの療園施設)にフィールドワークで出かけました。
2021年9月21日(火)長島愛生園(元・ハンセン病患者さんの療園施設)にフィールドワークで出かけました。

           2021年9月19日

『 夏休みに本屋で気がついたこと 』

 

遅めの夏休みを頂いた。コロナもあり遠出する気にもなれない。だが、どこにも出掛けないのはもったいないと思い、岡山では本が揃っているなあと思う、大きな本屋さんに出かけた。

 

                *

 

宗教書のコーナーもあり、そちらものぞいてみた。今回は、キリスト教書の紹介の冊子などでも取り上げられそうにもない、一冊を見つけて購入。

 

『旧約聖書の政治史 預言者たちの過酷なサバイバル』(春秋社・古田博司著 筑波大名誉教授)という本の帯には、「聖書で行う社会科学の実験!」と大きく記される。

 

そして、帯には小文字で「モーセからエレミヤ、出エジプトからバビロン捕囚までの預言者の叫び、怒り、嘆きに耳を傾け、社会科学の目で聖書を読み解いて、大国に挟まれ、非情な国際政治に翻弄される回廊国家・古代イスラエルの奮闘と悲哀を明らかにする。」とも記されている。

 

                *

 

神学者でもなく、クリスチャンでも無いはずの古田さんの、他に類を見ない切り口の書を簡単には理解できないし、明らかに何かの偏りがある。

 

でも、不思議な面白さがある。古田さんは自由なのだと思う。感じたことを、遠慮なく記していく。決して教会の皆さんに薦めたりは出来ない。でも、神学者でなくても、これほど、深く聖書を読むのか、と驚かされたのは本当だ。

 

                *

 

さて、この日の一番のお楽しみは自動車コーナーだった。

 

小学4年の頃の愛読書が『世界の名車100台』だった私。嘘偽りなく毎日同じ本を眺めていても少しも飽きない少年だった。それが今も身体(からだ)のどこかに刻まれている。

 

おそらく、父に運転免許が無く、我が家は自動車と縁遠い暮らしだったこともあって憧れとなっていたのだろう。なにしろ、父は自転車に乗って国鉄の駅に向かい、汽車で通勤していたことも無縁では無いと思う。

 

そんな父の最初の愛車は、原付で乗れるソフィアローレンが宣伝した名車「ラッタッタ・ホンダのロードパル 49CC」だった。

 

                *

 

私は小学校の先生方の駐車場の車を飽きずに眺め続ける少年でもあった。

 

マツダファミリア・プレスト・ロータリークーペに乗る宮崎先生に、子ども心に一目置いた(尊敬の念です)ものだ。それを伝えられればよかったと今は思う。

 

クラウンハードトップクーペに乗っていたある先生は、大分から別府に向かう道を、誰の話だったか、「○○先生は、時速100キロに感じるようなスピードでぶっ飛ばしたんよ」と聞いたのが頭にこびりついて、空飛ぶクラウンが夢に出てきた。

 

                *

 

父の従兄弟にあたる、紀男(のりお)兄ちゃん(後に、おじさんに昇格)が、パブリカを買って我が家にやって来て以来、紀男兄ちゃんは急に恰好いい憧れの人に変わった。数ヶ月に一度遊びに来る紀男兄ちゃんに対して、「助手席に乗せてほしいビーム」を、送り続けたものだった。

 

 

 

佐賀関(さがのせき・関サバで今は知られます)という隣町の坂道を、パブリカはスピードを落としながら上っていた記憶がある。おじさんは、パブリカに「のぼれ、走れ、ほらガンバレ」と声を掛けながらハンドルを握っていた。

 

                *

 

このたび書店で目に止まったのは、昭和40年代頃の「旧車」と呼ばれる自動車を愛する人たちの様子が紹介されている雑誌だ。

 

日産サニーの初期型、同じく日産(ダットサン)ブルーバードSSSを愛するオッチャンたちが丁寧に取材されていて立ち読みして飽きない。ボロボロの車がゆっくりゆっくり甦っていく。

 

この日は上でふれた『旧約聖書の政治史』を既に購入してしまったので、旧車たちの雑誌は、立ち読みで我慢することにした。

 

                *

 

50年前、私をワクワクさせてくれた車たちは確かに懐かしい。こころがあたたかくなるし、幸せな気持ちになる。

 

だが、どうやら、私が探しているものはこういう世界だったのかもなぁ、とふと気付いたことがある。

 

それは、電子部品から縁遠いところで、〈はんだごて王子〉などと呼ばれながら、楽しんでいる人たちの人間味溢れる暮らしぶりや、あくせくしない空気らしい。

 

「ぼけ防止にいいよ」という80歳の父とその息子さん、というような家族の物語や歴史も垣間見える。人間がそこに描かれているのが面白く楽しい。

 

そして、どうやら私は、自分という人間の土台を育んでくれた「昭和」がたいそう懐かしいらしい。昭和40年代の車たちと共に、私は成長してきた人間なのだ。(森)

 

 

 


2021年9月12日の献花です。久しぶりに、礼拝の際に、花台を低い位置に下ろしてみました。
2021年9月12日の献花です。久しぶりに、礼拝の際に、花台を低い位置に下ろしてみました。

                  2021年9月12日

                 『 1時間15分 』

 

9月6日の月曜夜、久しぶりに友人のN牧師と電話で話をした。N先生は私の五割増し位の真面目人間だと思う。

 

とは言え、彼は横浜ベイスターズ・私は阪神タイガースの応援を楽しむ野球ファンであり、両チームが対戦している最中に、携帯で「お手柔らかにお願いします」とか「今日はもう参りました」等とやりあうことがある。

 

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N牧師、牧師の休日の月曜日なのに、なかなか噛み応えがありそうな〈神学書の読書会〉があるという。さらには、翌日には、同志による研鑽の時を持つ、と言うではないか。

 

そういうわけで?N先生との息抜きの電話が始まったのは月曜の夜9時半頃となった。

 

こういう時間に一番慰められるのは、互いがぼやきを気兼ねなく口にすることだ。

 

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あるキリスト教の女子中高で、週一で旧約聖書を教える彼は、一学期末の試験の答案の裏の書き込みが心に染みている様子。

 

「N先生の授業はサラリーマンの頃の話が聞けて楽しいです」

 

「目の前で名刺を破り捨てられたというお話、忘れられません」

 

「採点頑張って下さい」

 

とある一方、さすが優秀な学生さんがいるらしく、

 

「授業改善計画」が綿密に記され、妙に納得する内容だったそうだ。

 

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8月末頃、奥さまが、何かしら浮かない顔しながら、「あー、始まるなぁ」とぼやく夫に対して、「私は、無理に外で働いて来てなんて、ひと言も言っていないのよ」と言われたそうだ。

 

それに続けての話だが、二学期の授業の冒頭、つまり、9月の始め、彼は学生たちにこう語ったという。

 

「神は耐えられない試練に遭わせることはなさらず、逃れる道も備えて下さるお方です、と第一コリント書 10章13節にありますね。もしも、自分が進む道が〈これじゃない〉という時は、神さま、その逃げ道を少しでも早く教えて下さい、とお祈りしましょう」と。

 

              **************

 

「おいおい、それって、Nさんの願いそのままじゃないか」と私。

 

「ワハハはは、そうなんですよ」と彼。二人で大笑いし、最後はいつものように、祈り合って電話を置いた。

 

携帯の記録を見ると、1時間15分13秒と出ていた。

 

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彼と最初に語らい始めたのは、牧師研修会の際の、温泉の脱衣場の片隅だった。あれも、9時過ぎだったかも知れない。

 

裸の付き合い、とても大切です。(森)

 


2021年9月5日 誕生日を迎えられた光子さん96歳に、秋には101歳の寿先生が声掛けして、帰宅される前の様子。
2021年9月5日 誕生日を迎えられた光子さん96歳に、秋には101歳の寿先生が声掛けして、帰宅される前の様子。

                2021年9月5日

              『 教会と敷居 』

 

「あそこに行くのはちょっと敷居が高いなぁ」という言葉がある。めったに使わないけれど、時に心の中に抱く言葉が「敷居が高い」であることに気付く。

 

 

気になって調べてみると、「不義理なことなど重ねてばかりいるので、その人の家に行きにくい」という解説がある。そうか、これが自分がたまーにう抱く気持ちなのだなぁ、となと思う。

 

 

 

「明解さん」という人格を持つ不思議な国語辞典として頼りにされる『新明解国語辞典・第8版』で「敷居」を引いてみた。

 

明解さんによると「近年、俗に値段や格式の高い店のことについていう場合もある」とある。さすが、編者の感覚は鋭い。

 

言葉の意味や使い方は時代の中でゆっくりと変わるもの、という話を聞くのでこれまた納得である。

 

 

 

 

さらに、説教を考える時に、時に大きな力を発揮してくれる類語辞典系のものをぱらぱら見ると、「敷居」という語の周辺には「境目」「交差点」「十字路」「分岐点」「分け目」という言葉が出てくる。「クロスロード」とも言うらしい。

 

 

 

旭東教会の「敷居」の高さはどんな具合だろうか。格式は高くない。ホームページもかなりオープンかなと思う。

 

では、一人ひとりの「心の敷居」はどうだろうか。

 

 

 

先頃、礼拝の最後の報告時に始めた「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」。

 

これは「教会の敷居を低くする」大事な場ではないかと感じている次第である。

 

久しぶりにお二人の新来会者があった8月29日、私の説教よりも、実は、お二人にとって心に残っているのは、信徒の方々の、素朴な声や思いだったりしたのでは、と想像する。

 

生身の人間として、もちろん、どんな先生なんだろう、いいお話聴けるかなぁ、と漠然と思われていただろうが、一体、旭東教会には、どんな人たちがきているのあかなぁ、という期待もあったに違いないからだ。(森)

 

 

 

追伸

ちなみに、9月5日発行の『週報』お知らせ欄には、以下が、記されていた。

 

○《「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」を皆で形作って行きましょう 一緒に喜んで下さいの話題あり》先週・8月22日の話題は以下でした。ご記憶ですか?

①Mさん「Fさんの前奏の賛美歌に触れて 中越での地震を思い起こす」

②Uさん「毎週月曜朝9時に変更 朝祷会の恵み」

③Sさん「教会学校教師研修会 久しぶりの森カフェ美味しかった」

④Kさん「大切な補聴器がなくなってしまいました」でした。 なんと、④Kさんより8/24(火)に教会へ電話があり「先生、補聴器が見つかりました!」と。

end

 

 

 


2021年8月23日(月)に行われたZoomによる神学校の卒業生研修会で講師を務められた犬養光博先生です。PCの画面越しなので写真が粗いです。
2021年8月23日(月)に行われたZoomによる神学校の卒業生研修会で講師を務められた犬養光博先生です。PCの画面越しなので写真が粗いです。

                  2021年8月29日

『 神学校の卒業生研修会の講師をされた ― 犬養光博先生からの問い ―』

 

母校・日本聖書神学校の「卒業生研修会」にZoomという媒体でインターネットを使用して参加した。二年続けて、Zoom利用による神学校の卒業生研修会となる。

 

Zoomは、早起きしての移動の必要もなく、楽な面もある。だが、さて、それだけでよしなのかというといささか複雑な思いを抱かざるを得ない。

 

雑談も出来ないし、片隅での話もない、無駄話もなし、駅弁の楽しみもない。Zoomには独特の疲れがいつも伴う。

 

                            *

 

今年の主題講演は10年程前までの半世紀近く、福岡県の筑豊地方の炭鉱があった地域に根差した歩みをされた犬養光博先生、81歳だった。とてもそのようなお年には見えない。

 

かつて九州教区に私も居たので、講演の数日前に電話をしてご挨拶した。考えて見るとじっくりと先生のお話を聴かせて頂くのは始めてだった。今回は「講演 その1」だったので、来年は、現地研修を持つことが出来るようになることが待たれる。

 

                            *

 

犬養先生。現在は一線を引かれて、ご子息が居られる長崎県松浦市にお住まいだが、まるで今も、筑豊の炭田地帯での宣教に生きておられるかのような、力溢れるお話をして下さった。

 

犬養光博という方が初めて筑豊に出会われたのは、1961年・昭和36年だという。私が生まれた翌年のことである。切っ掛けは、「筑豊の子供を守る会」のキャラバンに加わったことだと伺った。

 

                            *

 

本格的に筑豊にお住まいになる前に、大学の神学部を一年休学され、福吉公民館に暮らされた経験もお持ちだ。

 

「ぼくは、筑豊との出会いが自分のあり方を決定した、と思っている」という言葉が、犬養光博という人を貫いている。

 

果たして、これに類比する言葉を私は自分の人生の中に見いだせているだろうか。

 

                            *

 

日本の復興を支えて来た石炭から石油へという流れの中、石炭産業の行き詰まりによって、炭鉱閉山後の筑豊の民衆の困窮、窮乏が起こり始めていた。

 

若き日の犬養先生は、人々の苦しみの根っこに何があるのかを考えないでは居られない方だった。見て見ぬ振りは出来ない誠実さが先生にはあったし、もはや、そこから逃げ出すことは出来ないことを悟られたのだろう。

 

キリスト教会はどこに立つべきであるのか、約半世紀にわたって、誠実に向き合い続けることになる。

 

                            *

 

とは言え、犬養先生は、ご自身の歩みを本当に謙虚に語られたと思う。わかっているつもりでいても、何もわかっていなかったこと。見えていなかったことも率直にお話された。

 

先生の最初のご著書は筑豊に入られて6年目『筑豊に生きて』だった。1971年のことである。

 

『筑豊に生きて』が発行されたときに、お世話になった先輩の小柳伸顕牧師から「犬養、これおかしいやろ。なんでお前の教会での話に、大阪弁が出てくるや。」と指摘され、最初はその意味がわからなかった、と言われたのだった。

 

筑豊に住まわれて5年。「教会は確かに筑豊に立っていたが、教会の中に筑豊はあったのだろうか」「教会はどこに立っているのか」という問いとの明確な出会いだったと語られたと思う。

 

                            *

 

当然、その問いは私たちにも向かう。突きつめて言うならば、「あなたの教会(私で言うなら旭東教会となる)は孤独と格差と差別に苦しむ市井の人との関わりをどこに見いだしているだろう。教会の中に、その方は、今、共に居られるだろうか」ということになる。

 

戦後の高度成長期の時代を生き抜かれた「社会的宣教活動者」(大倉一郎先生の言葉)のおひとりとして、その生き方、霊性について、時に、涙をハンカチで拭いながら語り続けられた。

 

                            *

 

深く共感し、教えられたことは他にもある。

 

福吉伝道所を拠点としての宣教活動の「土台」に関わるお話を、犬養先生は、講演の冒頭10分程語られた。その内容は次のようなことだった。

 

ご自身、長年、無教会派のリーダー・故 高橋三郎先生の2時間にわたる聖書講義のテープを取り寄せては、同労者や仲間たちと、背筋を伸ばして聴き続けたと語られたのだ。

 

そして、高橋三郎先生の聖書講義を、初めて、じかに聴きに行った時に、稲妻が落ちるかのように「聖書の権威を教えられた」とも言われた。

 

「あぐらをかいて、高橋三郎先生の聖書講義を一番後で聞いていたら、講義の最後に、手厳しく叱られた」そうだ。

 

おそらく、「聖書の学び抜きに、筑豊での現場の歩みはあり得なかった」ということを表現されようとしたのだ。

 

                            *

 

神学校を通じて、事前に犬養先生の略歴と講演のレジュメが配布されていた。

 

そこで目に止まったのはキリスト教雑誌『福音と世界 1991年3月号』だった。探して読んでみた。そこには「詩篇が好きで学びを続けて来た」と書かれている。

 

特集、『日本基督教団の50年』の中の「関わりの中で問われた教会」の終盤の言葉である。

 

                            *

 

先生は、呪いの祈りが含まれる、詩編の120篇2節を引用しながらこう記された。

 

「偽って語る唇から欺(あざむ)いて語る舌から助け出してください」という呻(うめ)きのある所に教会は存在しなければならない。イエス様に出会うために」と。

 

犬養牧師が詩編を愛されるのには理由(わけ)があるのだ。詩編詩人の呪いの祈りは、どこから、誰に向けて、どのように発せられたかを、ずっと求められていたのではないか。

 

犬養光博先生は決して社会活動家などではなかった。ただ、ナザレのイエスに従おうとされた結果、聖書に学ぶこと抜きに、聖書の権威に従うこと抜きに、筑豊で信実な言葉を語り得ない、ことに気付いておられたのだと思う。

 

                            *

 

私たちも教会で詩編を学び続けているが、犬養先生の言葉に触れると、はっとすることがある。

 

既に学んだ呪いの祈りが含まれる詩編もあるが、全く気付かなかった読み方・文脈ががあることを知らされたように思う。

 

今、116篇を学んでいるから、最も長い詩編119篇を読み終えると、冬には、旭東教会でも120篇を学ぶ予定だ。そこにはどのような世界が見えて来るのか。何が聞こえて来るのだろうか。

 

                            *

 

犬養先生の講演への応答として、研修会のさいごに、御礼を兼ねて、ひと言、言葉にさせて頂いた。「かつての筑豊と同じ状況に重なる何かを、コロナ禍に生きる私たちはどこに見いだせるか、引きよせて考えました」と。

 

コロナ禍ということもあるし、そうでなくとも、今、決して遠くない所に呻きや嘆きはある。

 

そこから目を背けることなく、耳を閉ざすことなく歩んで行きたい。(森)

 

 


十文字平和教会の治生さんが下さった「千日紅 ドライフラワー」の写真です
十文字平和教会の治生さんが下さった「千日紅 ドライフラワー」の写真です

                  2021年8月22日

                『五感に触れる言葉』

 

私にしては珍しく、新聞の日曜版の連載を楽しみに待つようになった。山田詠美(えいみ)さんの『わたしのことだま漂流記』という自伝的小説である。

 

毎日新聞の連載で、8月22日の最新号は12回目となった。

 

                            *

 

これまで、山田詠美さんについては、1985年のデビュー作『ベッドタイムアイズ』からの断片的な情報に勝手に影響されて近づかなかった私。

 

もったいないことをしていた、と今頃気がついた。

 

                            *

 

食わず嫌いや、新聞などの限られた情報から判断する愚かさを思わずにはおれない。人の見方は人の見方。

 

やはり、自分自身が出会って感じること、考えること怠っていては、本物はわからないと知らされた。

 

人の感じ方、視点は人のものに過ぎない。

 

幼い頃から自動車好きな私。自分がよければそれでよい、と今まで何度も経験してきたことでもある。

 

                            *

 

幼い頃からこましゃくれたところがある山田さん。

 

子どもの時分、読むためではなく、なぜ家にあったのか分からないという『聖書』を持ち歩いては大人の目を引く子どもになって喜んでいたという。

 

いやいや、ただ『聖書』を持ち歩く人は大人にも多いかも知れない。

 

                            *

 

中学生の頃、クラスでラブレターの代筆屋をし始め、言葉の持つ力に取りつかれる切っ掛けを得たという山田さん。

 

詳細は省かざるをえないが(引用は著作権にひっかかると思う)、美しいことばを並べ、さもありなんというような恋文の虚しさに直ぐに気付かれた。

 

                            *

 

そぎ落とし、そぎ落とし、さらには、私の尊敬する影山讓牧師のような(長野県 信濃村教会で最後に牧会。阪田寛夫さんの『バルトと蕎麦の花』一麦出版社刊)、縄文風の無骨で飾り気のない「言の葉」こそが、実は人の心に響くことを、何と中学生時分に気付いたというのだ。

 

そして、とうとうラブレター代筆を極めた彼女は、手紙から遠く離れて、僅かばかりの言葉しか記していない覚え書きのようなものを記すようになったそうだ。

 

そして、千(せん)の言葉よりも、万(まん)の一見巧みなコトバよりも、たった一度の口づけのほうが、遥かに効き目があるのではという、その眞実にたどり着いたという。

 

本当に面白い。

 

                            *

 

そしてまた、やはり、プロの作家は違うと思わされるのは、彼女の記す言葉は五感に訴える力があるからだと気付いた。

 

そりゃあそうなのです。直木賞受賞者でありながら、芥川賞の選考委員を2003年から続けて居られるのだから。

 

                            *

 

読んでいるうちに、いつしか読み手のワタシは視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚がフル稼働させられる。それが心地よい。痛みを感じさせないうちに内面に入り込んでくる業(わざ)をお持ちなのである。

 

もう少し加えるならば、人間の欲望や本能と結びつけて、上っ面なことでは、私は済ませるわけにはいかないよ、という出来事を切り結んでこられる。

 

どうでもいいことはどうでもいい、と山田さんは知って居られる。

 

                            *

 

さて、それならば、私はどうなのか。

 

山田さんの小説を読みながら、聖書を物語ることについての精進をあらためて思い始めている。

 

書き綴ることは、私の説教と無関係ではないことを最近強く思っているのは事実だ。毎週、このようなブログを記すことによって鍛錬しているのだという気持ちもある。

 

                            *

 

だが、やはり、私は書くこと以上に、言葉を語る器として淡々と力をつくして生きたいと思う。

 

あるお知り合いの後輩筋の牧師が、毎週のご自分の説教をジョギングしながら聴き直すということなさっているそうだが、なかなか真似は出来ないのも本当である。(森)

 

追伸

山田詠美さん、最新号では、〈こんなようなこと〉も記されていた。

 

「私はどんな嫌なことがあったとしても、一日眠れば、きれいさっぱり忘れて、大丈夫」というような方がおられるけれど、私には考えられないことだ。そのような人は文学の道に進むことは無理ではないかと思う。

 

私はどんな人間なのか、と言えばこうなると思う。

 

人生の途上に起こった出来事を、一つとして忘れずに、人として持っているあらゆる感情と共に、持ち続けている。深く、深く、心の奥底に、魂に刻んでいる人間だ。

 

※以上、すべて、こんな風なこと、に書き換えてます。もりは深く共感いたしました。

 


2021年8月15日(日)礼拝後 ほっとタイム 12時半から「オープンみ言葉カフェ」が始まる直前、旭東教会青年会メンバー?です 右はじには97歳の正さん。そう言えば、飲み物が、ホットコーヒー、紅茶類の他に、生姜湯などを正式に採用した日でした(^^♪
2021年8月15日(日)礼拝後 ほっとタイム 12時半から「オープンみ言葉カフェ」が始まる直前、旭東教会青年会メンバー?です 右はじには97歳の正さん。そう言えば、飲み物が、ホットコーヒー、紅茶類の他に、生姜湯などを正式に採用した日でした(^^♪

                2021年8月15日

          『 互いに元気が出た話 』

 

深刻ではないけれど、ちょっと助けてもらいたいことがあり、西日本在のある男性信徒さんと電話で話す機会があった。

 

A教会役員のSさんは役員会最年少の75歳!A教会では他の役員さんは全員80歳以上とのこと。

 

 

Sさんは大手メーカーの営業マンで腕を鳴らした方で、自他共に認める有言実行型の方。

 

旭東教会の礼拝出席者の平均年齢よりも少し高い教会の現状・今後を憂い、出来ることはないかと真摯に考え続けられたようだ。

 

その結果、信仰継承、それも、既に洗礼を受けているけれど教会生活から離れている方々を呼び起こすことがA教会の危機打開策と分析され、具体案を提示し、実行に移し始められたと言われた。

 

 

 

その具体案とは、3年計画くらいで始めたんですが、ということが前提で、第5日曜日まである月は「受付・奏楽・司式をかつて受洗し少し遠方にいる若手に全部任せることにしたんです」と教えてくださった。

 

すると「○○のオッチャンがそこまで言うなら」と第5主日に1時間以上の距離を奏楽に来られる方も起こされ始めたと言う。

 

さらに続けて、「若手と言っても、もう60歳になっている人も居ります」とのこと。また、ご自身のご子息には「教会のピンチを訴えるハガキをせっせと書いてもらいました」と言われた。

 

 

牧師先生の控えめなお人柄も考えながら、自分がここは先頭に立ってやらねばというところが実に逞しいと思った。

 

私はわたしで、それならばと思い、今年の5月から開始した旭東教会の礼拝の聖書朗読の分担をお伝えした所、「それは素晴らしいですねぇ。そういう話を聞くと元気が出ます」と喜んでくださった。

 

 

他にも、コロナの事情で短めの礼拝を心掛けている上に、礼拝後には直ちに解散・帰宅していることで、教会内のコミュニケーション不足が顕著であることに気付かれ、これはマズイ、何とかしなければということでまた知恵を振り絞られたようだ。

 

その結果、私が電話でお話をしたあと直ぐにやってくる8月15日の日曜日からは、礼拝後15分間は「麦茶の会」を始めることにしたんです、と意気込まれた。素晴らしい考えだと思う。

 

そして共感できる話題ではないか。私たち旭東教会が、まさに、8月15日から始めようとしていた、「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」と本質的にはぴたりと重なる内容であることは間違いないと思う。

 

 

伝道・牧会の喜びや苦労を分かちあえるひとときを頂き、本当に有難かった。信徒さんの頑張りがそこに見られることも素晴らしいと思う。

 

旭東教会には旭東教会の仕方があるのだが、大いに、元気を頂いた次第です。end

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以下、ホームページをご覧の教会外の方に、教会で配布した「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」の案内文をご紹介しておきます。

 

 

 2021年8月15日 「―喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く― 1分間の分かち合い」が始まります 

                                  旭東教会 牧師 森 言一郎

 

本日より礼拝最後の「報告」(これも重要な礼拝の要素です)の時間に正式に始める会についてご案内します。礼拝の最後の数分間に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くための ―1分間の分かち合い―」を行うのは、教会でもっとも多くの方が身を置いている場所だからです。新来会者の方も居られることも期待します。

 

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く・・・」はローマ書12章15節のみ言葉です。これををやってみようようという会です。これまでも報告の時間には色々な出来事や近況を分かち合ってきましたが、これからはよりいっそう、この時間を皆が自覚的に大切にし、少し努力して深めて行くことを役員会で何ヶ月もかけて一致して決定しました。

 

                              *

 

美しく表現するなら、ここでの分かち合いは、「お祈り下さい」「嬉しい・悲しい」「考え、感じ、悩んでます」「ありがとう・ごめんね」です。でも、もう少し本音の言葉で言うなら「少しぼやいていいですか」「苦労を知って下さい」「わたしも、頑張りましたよ」「一緒に怒って下さい」「愚痴なんですけどね」ということです。

 

                              *

 

例えば、「だーれも気付いてくれない、誉めてくれないんで1分間失礼します」という場合もあるでしょう。少々自慢話になったって構わないじゃないか、ということです。あるいは、誰かが代わりに話してとなって紹介する1分間ということもあります。

 

そうしたら、「皆さん、○○さんに本当に感謝です。拍手を送りましょう」とか、「○○さんが、本当に努力されていることに気付きましたよ」。そして、「牧師先生、よく頑張りました」なんてことも、今の旭東教会では大笑いしながら分かちあえるはず。

                              

                              *

 

話題がない日もあるかも知れませんが、ぜひ、皆さんの一週間の喜怒哀楽を抱えて、ネタを仕込んで!礼拝にご出席下さい。こういう時間は、毎月最終土曜日、この半年ほど続けて来た、内輪での「ちょっと一息 休もう屋」にも重なります。思いの他、いつも顔を合わせているお互いを知らないことが多いものです。

 

この時間が大切にされることによって、「ほっとタイム」の話題が膨らむことも期待しています。何より、こういう時間の積み重ねが、教会の足腰を強くし、新来会者の方があったときに、旭東教会のあたたかな雰囲気に触れて頂ける時間になるはずです。

 

                *

 

ちょっとしたメモがあれば十分でしょう。互いに聴き、お話しましょう。時間にだけ少し注意したいと思います。腹7分か8分目くらいが肝心です。牧師が、皆さんの様子も見守りながら進行係を務めますので、助けて下さい。どうかよろしくお願いいたします。end(森)

 

 


日傘をさして、スーツケース(後に追っかけてあるかれるKさん「日本のお父さん」のものかも知れません)ベトナム人のGさんがJR西大寺駅へ急ぐ姿です。教会から100㍍既に行かれてるかな、と思います。この景色を見ると、なんだか大きな町に見えるから不思議です。ちがいますよー(笑)
日傘をさして、スーツケース(後に追っかけてあるかれるKさん「日本のお父さん」のものかも知れません)ベトナム人のGさんがJR西大寺駅へ急ぐ姿です。教会から100㍍既に行かれてるかな、と思います。この景色を見ると、なんだか大きな町に見えるから不思議です。ちがいますよー(笑)

                     2021年8月8日

       『 口内炎がいたむ 金曜の午後に 』

                            

森牧師ブログの土台になる『週報のコラム 窓』は、普段は木曜日の夕方までに、できるだけ原案を書き上げるようにしている。

 

だが、今週はそうもいかなかった。金曜日の夕刻になっても、自問自答というのか、頭の中であれこれ考えてはいるのだが、一向にはかどらない。

 

「早く、仕事、進めなきゃ」「説教はだいじょうぶか」と。だが、分かっていながら、電話したくなった所があったりするのだった。

 

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一件目の電話は、8月4日(水)に旭東教会をお訪ね下さった中部圏にお暮らしの日本語教師のKさんを「日本のお父さん」と慕い、小型のトランクを荷物持ちとしてもってお出でになったGさんだった。

 

彼女は既に日本で生活を始めてから10年だと言う。ベトナムのサイゴン教会のクリスチャンと言われたと思う。

 

Gさん、ベトナムの人材派遣の会社からの依頼を受けて、外国人技能実習制度を利用して来日している、中国地方・四国地方や近畿方面の同胞(ベトナム人の方々)の為の通訳がお仕事のようだった。

 

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私は、どうしてもGさんに電話を入れておきたいと思うことがあった。

 

ちなみに、Gさんを連れて来られたKさんは77歳。郷里・○○市出身で明治末期に旭東を兼牧された安部清蔵牧師の足跡を追って来会されたのだった。Kさんとも、何やらゆるやかに交流が始まりそうな気がするのだが、ここではGさんのことに絞ろう。

 

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私はGさんに、「ベトナム人の仲間たちがきっとGさんを頼りにして色々とご相談になると思います。でも、Kさんは遠くにおられるし、お世話になっている先生も90歳近いご高齢ですね。もしも、仲間たちの困りごと発生の時は、僕を〈日本のお兄さん〉だと思っていつでも電話下さい。結婚式を挙げたい人もいるだろうし、葬儀・納骨・お墓探し、ということだってあるでしょう。遠くても出掛けますよ。」と伝えた。

 

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私は、ただ、いい人になろう、という気持ちで電話を入れたわけではなかった。

 

もちろん、福音に生きるということにおいて、寄留の人々に対する愛ある行動が出来る者でありたいと思っている。

 

2カ月程前だっただろうか。7月21日(水)のNHKのクローズアップ現代というテレビ番組を偶然みていた時、イスラム教徒の方たちが火葬が出来ない宗教上の問題を、どのようにして日本で乗り越えようとしておられるのかを紹介していたのだった。

 

「お墓に入れない・・・・・・日本で最期を迎える外国人たち」が調べてみるとその日のタイトルだった。

 

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火葬が駄目となると、土葬しかない。

 

驚いたことに、現在の日本の法律ではご遺体を必ず火葬すること、という文言はないらしい。つまり、土葬は認められているのだ。

 

しかし、現代の日本社会で、そう簡単に土葬が出来る場所が見つかるはずがなかった。地域住民の理解と同意がないと適わないことが番組で紹介されていた。

 

その時、手を差し述べていたのが、カトリックの修道会が、期間限定で、お庭に土葬の場所を提供される様子が紹介されたのだった。イスラムの方たちのためにである!

 

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旭東教会には、ノンクリスチャンの方々が殆どの利用権利者という墓苑がある。さらに、「10万円でどなたでもご利用下さい」という納骨堂もあることが、実は今回の電話と無縁ではない。

 

少なくとも、私の心の中では、ある部分において繋がり、ぴたりと重なる何かがあったのだった。

 

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番組では、他にも、海外で相当に苦労されたご経験をお持ちの方が、開かれた墓地をオープンされたご様子が番組の最後のに紹介されていた。

 

NHKのホームページの情報をみると、そこにまだ、写真と共にお声が記されていた。その人とは、林隆春さんだとわかった。以下、森の責任でここで必要な箇所だけを抜粋。

 

「みなさん言うんですよ。『死んだら私はゴミだな』って。これ、聞くほうも結構つらいんですよ。・・・・・・今、せめて自分にできることはないかと、彼らの墓を作ることにしたのです。」

 

 

          **************

 

仕事もしないで、電話をしたくなった二件目の人は、神学校の同級生のW君だった。

 

目的はただの〈息ぬき、無駄話〉である。言葉を変えれば、互いに「どうしてる?」「こんな苦労してるんだよなぁ」の分かち合いだ。

 

世間語(セケンゴ)で言うと「ただのおしゃべり」だと思う。

 

コロナの事情から、オンラインによる会議が相当な勢いで広がった。だが、さみしい事に、Zoomなどでは、無駄話や、ついでの、あの話、この話が、久しぶりに見かけた方であってもできない。ちょっと片隅でが消えたのだった。

 

何ということだろう。どんな人であっても、おしゃべりも無駄話も内緒話も大いに必要なのだ。

 

私など、信徒の方たちに電話を入れるのは、もちろん必要な連絡でするのだが、どこかで、話をすることによる解放感を感じていることがある。それはメールよりも健康的な部分がかなりあるからかも知れない。何より、声を聞けば表情が瞬時に見える。

 

          **************

 

W君は、電話のおわりにこう言った。

 

「こっちからは中々電話できんが、また掛けてな」と。午後4時15分からの35分の無駄話を経て、私も元気にコラムを書き終えることが出来たのだった。何だか急に頭がすーっとして、筆が進み、キーボード入力のスピードが見違えるほど上がった。

 

          **************

 

驚いたことがあった。メールを読み直すことはしないが、W君に電話を入れる前に、私は、2週分の週報を添付して送っておいたのだが、それに目を通してくれた彼は、翌日、メールでこう記して来た。

 

「昨日は、問安してくれてありがとう」と。

 

「問安」とは、思いがけない言葉だったが、なるほど、そうかと思ったし、息抜きの無駄話をした私の方も、結果的に「問安」を受けていたのかも知れないと思う。

 

          **************

 

電話好きの私は? こんな風にしながら、どこかで息を抜いているのかも知れない。

 

ごめんあそばせ。end(森)

 


2021年8月1日(日) 礼拝開始間もなく、思いがけない旭東教会だけの停電事故発生。講壇下に常備する、電池式拡声器を使用しての礼拝が始まった。30分遅れ。
2021年8月1日(日) 礼拝開始間もなく、思いがけない旭東教会だけの停電事故発生。講壇下に常備する、電池式拡声器を使用しての礼拝が始まった。30分遅れ。

                  2021年8月1日

 『 おやじギャグの 島田先輩 逝く』

                                                  

2018年8月、母校・日本聖書神学校の大先輩にあたる、茨城県日立市にある日本キリスト教団・日立教会島田進牧師に電話を入れた。

 

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何ゆえの電話かというと、旭東教会でYouTubeで礼拝配信を始めたいと思いあれこれ試案を始めていた頃で、既に、日立教会がYouTubeに取り組んでおられることに気付き、お話を聴いてみたかった。少しでも情報が欲しかったのである。

 

島田先生とは、日本キリスト教団・関東教区の新潟地区で、私が高田教会・新井教会という上越地方の教会で仕えていた頃に出会った。島田先生は、郷里でもある、中越地方の見附教会で奥さまと伝道・牧会に励んでおられた。見附市は新潟県内で一番ちいさな〈市〉であり、あの巨大な日本有数の花火で知られる長岡市にも近いところである。

 

 

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電話口の島田先生、昔ながらの良い意味での軽い口調でこう仰った。

 

以下の言葉は、旭東教会でYouTubeによる礼拝配信を始める、十分な後押しとなったのだが、「僕は何もしてないけど、信者さんに任せて〈とにかく試しにやってみよう〉って言いながら始めたよ」と仰った。

 

※録音ではなく、私の心に勝手に刻まれた音声ですので念のため。日立教会の方は、「あれ、ちょっとちがいますよ」と言われる可能性もあります(笑)

 

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その頃の島田進牧師。既に、悪性リンパ腫と闘っておられたことを先頃知った。

 

島田牧師の話題は、日本聖書神学校卒業生の支部長会議でちょっとした消息をお聴きし、そうか、心配だなぁ、と思っていた。

 

そこで、じゃあ、礼拝どうしているのだろう、と思って、7月18日(日)の礼拝の様子を、先行していた日立教会のYouTube配信で確認したのだった。

 

 

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説教の冒頭、島田先生は確かに、「久しぶりにこうやって講壇に立ちました・・・」という趣旨の言葉を口にされたが、普通に、穏やかに、しかもお孫さん(後で知りました)の信仰告白式の司式もなさる元気振りである。

 

何となく、説教後に、「ふーっ」というような息をつかれたようにも見えたが、昔から存じ上げている島田先生とそんなに変わらなく見えた。

 

ところが、それは、余命一ヶ月の宣言を受けてなおの講壇での説教だったのである。島田先生、数日後に、帰省先の見附市で天に帰られた。

 

 

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7月25日(日)は、ご主人である進牧師を看取られたばかりの奥さまの信子先生が淡々と説教。

 

「家族は、好きなこと、やりたいことを全部済ませて天国に行った「進牧師」に、〈してやられた〉と言う気持ちでいっぱいでした」と語られた。

 

礼拝の司式をされた役員さんも、覚悟があったとは言え、本当に取り乱すことも無く、お祈りをされ、礼拝を進められた。礼拝直後、あらためて役員会の立場で、召天までの教会としての経緯を説明された。

 

 

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そしてその後、3人の島田先生の娘さんたちが、教会の皆さんにかわりばんこに少しずつバトンをつないで挨拶された。召されるまでの経緯が、全部、伝わってくる挨拶で感銘を受けた。娘さん方は、確か、一番上は47歳と仰ったと思う。

 

翌8月26日(木)の「家族葬・出棺式」のいずれもYouTubeで配信されており、今でも、どなたでも自由に見ることが出来るはずである。

 

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島田先生、「葬儀はクリスチャンの最高の伝道の機会だから」と常々仰っていたらしい。信子先生は、7月25日(日)の礼拝説教か葬儀どちらかで確かに語られていたと思う。

 

全体で30分掛からない形で、ご家族だけでの葬儀(教会員は別室でテレビ越しで列席のはず)は進んだ。

 

ご遺族には、ノンクリスチャンも何名も居られるご様子で中で説明があった。

その時に信子先生、いつも進牧師もそうされたであろう言い方をで案内された。

 

「お祈りの最後に、アーメンと言います。「本当にそうです」と思われた方は、アーメンと最後に言って下さい」と言われた。

 

単にアーメンの意味を解説するではない仕方に触れて新たに教えて頂いたと感じた。

 

 

 

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島田進牧師

 

「おやじギャグをよく口にされた」と信子牧師も言われたし、私も「そうだ、その通り」と思い起こす方だった。あんなギャグを飛ばすおじさん牧師は他に出会ったことがない。

 

頑固でもあったそうだ。

 

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でも、少しも憎めないお人柄で、最期まで伝道に身を捧げ、72歳で見事に人生を全うされた。

 

いやいや、YouTube配信を通じて、召されてもなお、これからも伝道が続きそうだ。

 

ありがとうございました、島田先生。本当にお疲れさまでした。(森)

 

 

 

 


伝道ってなんだろう 双子ちゃんが5歳の誕生日を迎えて カードをプレゼント
伝道ってなんだろう 双子ちゃんが5歳の誕生日を迎えて カードをプレゼント

                2021年7月25日

           『 伝道って何だろう 』

 

旭東教会では、日曜日の新来会者ゼロ行進が半年程続いている。

 

コロナ関連の事情もあるだろう。そして、これは、地方の(地域の)教会の現実でもあると思う。

 

 

とは言え、いつどなたがお出でになっても良いよう、少しも大げさではなく、たゆまぬ努力を内に外に続けている。

 

現代のチラシ配りと考えている教会のホームページは日々更新し、最新情報を発信中だ。

 

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〈Jimdo・ジンドゥー〉という会社のシステムを利用してのホームページだが、毎日、ホームページを更新する私たちにはわかるサービスがあり、一定の来会者が確認できて、手応えはいつも感じている。

 

しかし、礼拝への来会者はなかなか与えられない。教会役員会では、「新来会者ゼロへの〈慣れ〉には気をつけてほしいんですよ」と幾度も伝えている。

 

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そんな中、来月は2つのことを新たにYouTube配信で行うことにした。

 

毎年8月、旭東教会では、「賛美と聖書とお祈りの会」は休会しているが、今年は、伝道と我々の修養のために、開かれた会をやってみようという企画である。いや、修養的な性格の方が強いかも知れない。それでも、旭東教会発の何かは証し出来るはずである。

 

おそらく、この取り組みの鍵は、「つながる」ということ。

 

そして、「分かち合う」ということが重要なことだと思う。

 

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先ず一つ目は、「ミニミニみんなの修養会 ― 賛美歌の歌詞を最初から交読し、信仰の言葉を学ぶ会 ―」である。8月5日(木)、8月26日(木)午後7時半からYouTube配信を行いながら実施する。

 

「みんな」とは決して教会全体の参加ということではなく、YouTube配信での皆さん、ということも念頭にある。

 

本としての『讃美歌』。これを歌うのではなく、世々の聖徒たちが紡ぎ出した言葉を交読の形で味わい、美しい信仰の言葉への気付きを求めたい。それを、ただ、一人ひとりの心の内側に留めるのではなく、立ち止まっては分かち合い、何かを引きだせるようになる時間にしたいと願うのだ。

 

当然そこには、何かに繋がる出来事が起こるだろうし、分かち合いが生まれると信じている。

 

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また、『讃美歌』は「歌の本」であるという概念を、少なくとも旭東教会では取っ払いたいと思うし、打ち破りたい。

 

私たちは『讃美歌』を「信仰と祈りの書」として身近にしたいと思うのだ。

 

この取り組みは、思いがけない楽しさを経験したり、新しい信仰の言葉を自分のものにしていくチャンスになるのではないだろうか。

 

三年前になるが、旭東教会が葬儀専用ホームページを、おそらく日本で初めて開設したときと同じように、近くにも遠くにも、よその教会で、〈賛美歌交読マラソン〉のようなことをしているのは見たことも聞いたこともない。

 

もしかすると、世界でも初めてかも知れない。いやいや、さすがにそんなことは無いだろうか。

 

振り返ってみれば、私たちも、元旦祈祷会の中で、時に、賛美歌の交読はして来たのだが、本腰で、それだけやってみようよ、というのは初めてのことである。

 

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2021年夏の二つ目のチャレンジは「オープン み言葉カフェ」である。

 

8月15日(日)、8月29日(日)いずれも、午後0時30分開始で30分で終了する。進行係は牧師が務める。

 

旭東教会では、毎月第3主日の礼拝説教の恵みを、礼拝後しばらくしてから、集会室で分かち合ってきた。以前は礼拝堂の前方に輪になって座って行ったりしてきた。参加者は毎回10名ほどである。

 

語られるのは、礼拝説教だけでなく、みんなの教会学校の時間の恵みでも構わない。賛美歌との出会いでもいい。あるいはまた、日曜日に教会に集ったことで感じた小さな喜びを、ひとり数分かひと言、自由に、感じたままに言葉にするものである。

 

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実はこの日頃から月に一度行って来た「み言葉カフェ」。楽しみな方にとっては、この上ない楽しみな時間であり、毎回必ず出席される方も居られる。

 

説教者としての私自身にとっても、会衆席に投げ込んだボールがどんなふうに受け止められているのかについて、聴かせて頂けることは楽しみでもある。月に一度位は程よいことだなと思う。

 

その分かち合いの様子も、インターネット越しに、皆さまにオープンにしてしまいましょうよ、という企画である。YouTube配信で礼拝をお届けしているわけだから、「み言葉カフェ」に興味をもって下さる方も、一人、二人、あるいは、三人四人は必ずや居られるだろう。おひとりでも、本当に喜んで下されば、それでよかったと思えるのである。

 

「み言葉カフェ」では討論しないのが大切なルールである。

 

あくまでもその日の礼拝メッセージ、礼拝に出席して、「私はこう感じたよ」と気楽に口にし、参加者は、それを聴かせて頂く会だ。時々、私が方向修正をして会を整えている。おっと、何も発言しないで、座っていて下さるだけでも歓迎、というのも、開始当初からのお約束である。

 

既に、6年間続けて来たのに、考えてみると旭東教会にお出でになってみないとわからないのが「み言葉カフェ」であり、しかも第3週に来会されて案内に触れないと知られない、〈世に隠された集い〉になっていたというわけだ。

 

夏限定ではなく、やっていけるような応答が届くと嬉しいと思う。

 

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そういうわけで、こんな形での「伝道」の取り組みを進めようとしているのが、2021年夏の旭東教会なのである。

 

だから、教会の中でも普段参加していない方たちにも参加する切っ掛けとしてほしいし、YouTubeで礼拝に出席している方々にも、ぜひ、積極的にパソコンの前にお座り頂いてご覧頂ければと思う。

 

多方面で用いられている「Zoom」のような、双方向の会は今のところ実施できないけれど、限りはあるのだが、教会外の方たちにもお分かちし、繋がって頂こう、という企画である。

 

これが来会の後押しになれば、こんな嬉しいことはない。

 

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ところで。

 

実は、今回の森牧師ブログで一番お伝えしたいのは、ここまで、記して来た内容ではない。

 

冒頭に「日曜日の新来会者ゼロ行進が半年程続いている」と旭東教会の切なる祈りも背後にある事実をお伝えした。

 

けれども、本当は、来会者は目立たないところであるのだ、ということを、お分かちしたいのであります。

 

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過日、2週程前に、私が朝のスロージョギングに出掛ける前の〈ちょっと思いがけない時間〉に、「グリーフケアの集いについて知りたいのですが・・・・・・」というお電話を下さった方が居られた。

 

助言はしたけれど、数日前に改めてご連絡下さって、お互いの都合の合う約束の時間を決めて、お話をお聴きすることになったのだった。

 

疲れ果て、消沈し、どこにも持って行きようのない心の内を、2時間を超える時間、細い声で聴かせて下さった。私も気付いたこと、感じたことは率直にお伝えした。

 

お話に区切りがつき、お帰りになる少し前に、その方はこう仰った。

 

「旭東教会にグリーフケアがあるのをインターネットで息子が見つけてくれました。本当にきょうは、ワラにもすがる思いで来たのです」と。

 

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心を落ち着けて考えてみるとわかることがある。

 

新来会者は旭東教会に居られるのである。

 

          **************

 

私はその方が少し早めにお出でになったこともあり、礼拝堂にちょっとだけご案内した。

 

そうでないと、こういう形で来会された方は、教会にお出でになった、というより、お話を聴かせて頂いたお部屋(集会室には最後の晩餐のステンドグラスがありますが)の印象や玄関だけしか思い出せない、ということになりかねないと、私は常々思っているからである。

 

すると来会された方は、「私、生まれて初めて教会っていう所に来ました」と笑顔で語られたのだった。

 

          **************

 

「グリーフケアの集い」は、旭東教会において、もはや端っこに置いておく働きではなくなっていることを牧師として役員会に伝え始めている。そして、春の定期教会総会の資料にもそういう意味のことを記したのだった。

 

悲嘆の中、助けを求め、どうしたらよいのかわからなくなっている方々のために、「グリーフケアの集い」がある。

 

そこでは、み言葉を語ることも、賛美歌を歌うことも、お祈りをすることもないけれど、主イエス・キリストのみ足跡に従うことと違(たが)わないはずだ。

 

それが「伝道」と呼ばれることがなくても、私たちは確信をもって続けて行きたい。

 

          **************

 

グリーフケアの集いを始めて7年目の夏を迎えている。

 

「伝道って何だろう」

 

私たちは、主にあって、希望も、勇気も、元気も失っていない。(森)


2021年7月18日(日)十文字平和教会のお庭 キウイです 治生さん撮影
2021年7月18日(日)十文字平和教会のお庭 キウイです 治生さん撮影

                  2021年7月18日

          『魔法の言葉はないけれど』

 

「ファシリテーター」という役割がある。英和辞典を引いて出てくる解説や一般に知られるニュアンスとは少し異なる言葉でご紹介したいと思う。

 

ちなみに、親戚の言葉にあたる「ファシリテーション」についてスーパー大辞林はこう解説している。

 

「〔容易にすることの意〕グループによる活動が円滑に行われるように支援すること。特に,組織が目標を達成するために,問題解決・合意形成・学習などを支援し促進すること。また,そのための方法。」

 

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北海道の道北地区でご一緒した日本語も達者なカナダ人の宣教師の方(現在、国内のある神学校の校長をされています)がこう仰った。

 

集まって相談しているみんなが、ファシリテーターについて、共通したイメージを抱けない時だった。

 

「あのねぇ、引き出しの中から、こうやって(手を引っぱるような仕草で)、何かを引っぱり出してあげる人だよ」と言われた鮮明な記憶がある。

 

妙に腑に落ちて、本当に忘れられない。ここでの引き出しとは「心の中の引き出し」であり、「閉じられている胸の内」ということでもある。

 

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その時は、私が強く推薦した、こころから敬愛する「金 香百合(きむ かゆり)さん」という方を北海教区恒例の年頭修養会に講師としてお迎えするための準備会でのことだった。

 

確か、旭川で行った修養会だったと思う。私にとっては、様々に思いで深い会となった。金 香百合さんはクリスチャンであるけれど、教会の枠組みをとっくに超えて、お働きの方。ただし、私は金さんの今を追いかけ続けているわけではありません。

 

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先週(7/13・火曜日)、岡山県東部地区の教会協議会に参加した際に、「ファシリテーター」について考え直すスイッチが入った。

 

なにも主題が「ファシリテーター」だったお話を聴いたり学習会があったわけではない。

 

ある先生が、〈コーチングの基礎5訓〉について開会の礼拝の中で語られた言葉の中に、ファシリテーターが出てきたのだった。その方は、目標設定が自分自身で出来るように伴走することが、ファシリテーターの大切な役割、と確か言われたと思う。

 

さらに、コントロールや管理する役割の人、というような説明をされたと思うが、私は、少し違和感を感じていた。

 

そこで私は「ファシリテーターは、他の言葉で説明する場合がありませんか?」「こういう意味もあるのではないですか」と先ずお聴きしてみた。ただ、そこではファシリテーターを異なる言葉で説明することはなさらなかった。

 

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その後の私。

 

朝に夕に、散歩したりスロージョギングしながら、想い巡らしては、わたしなりに考え続けていた。

 

というのは、ファシリテーターというのは、ここの所の、私自身のかなりおおきな関心事であるからで、もう少し深めて、教会の歩み、教会形成のために生かして行きたいと思っているからだった。

 

技術とかテクニックの問題でもないのだが、私は、教会の風土作りや交わりの形成に於いて、少し、努力すれば、かなりの変化が生まれる可能性があると感じているからである。

 

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グリーフケアの集いの進行係の働きをする時にかなり意識していることだが、人の心の奥底にある思い、仕舞われているもの、あるいは行動を引き出してあげる務めは確かに牧師にもある。

 

だが、このファシリテーターの働きや役割。

 

実は教会の皆さん一人ひとりにも託されていることではないだろうか、というのが私の現時点でのひとつの到達点なのである。

 

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もう少し、日常的な言葉に置き換えるならば、こういうことになる。

 

それは、〈聴き上手になる質問・尋ねる言葉〉を届けて「あー、それはなぁ」と、前のめりに話し始めるようになりたい、ということなのだ。

 

お互いの心の扉が開かれ、新しい何かに挑戦する力が生まれるような交わりを創ろう。注意が必要なのは、お喋りが弾むようになることが目的なのではない。

 

オーバーに言うなら、気付いた時には新しい自分になっていた、というような行動、自己改革が始まる生き方が最終目標なのである。

 

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そのためには、おそらく、本当の意味での話し上手である、聴き上手になることから始めることが鍵であると確信している。

 

聴き上手になるのは、熟練というか、それなりの高い意識が必要だと思う。「そんなことばかり気にしていたら、疲れてしまいますよ」と言われるかも知れないが、気配りの少し先にあるもの、とも言えると思う。

 

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さらにこれは、もっと簡単に言えば、「うん、うん」という、肯き(うなずき)上手な人が必要だということなのである。

 

あるいはまた、「そうね、そうだよね」「それで?」と、よい間(ま)をもって、次を促してあげられる人とも言える。

 

教会の交わりの中で、「うんうん」、「そうね」、「そうそう」、という類いの言葉が、もっともっとほしいと思う。

 

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かく言う私だが、説教や聖書のお話することも努力していますが、ファシリテーターの役割を担っている牧師として、自分なりに、これまでも精進し、これからもそうして行きたいと思っているところです。end(森)

 

 


M子さんが入院される週の日曜日の朝、教会の花壇に植えて下さったひまわりの苗です
M子さんが入院される週の日曜日の朝、教会の花壇に植えて下さったひまわりの苗です

2021年7月11日

『続けたいと思うこと』

 

 

6月の役員会から、牧師の私がたたき台をつくって相談し始めたことがある。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くための ―1分間のわかちあい―」という取り組みである。

 

たたき台の中では、週報の「本日の予定」に載せる時も、その取り組みのタイトルが長く見えても、ロマ書12章15節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」からの言葉を添えての表現にしましょうよ、と伝えている。

 

 

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旭東教会では、礼拝が始まって10分程のみんなの教会学校の時間の直前にも2年ほど前から報告の時間をもっている。

 

そこでは、今、私たちが取り組んでいる宣教、教会の交わりなどについて、牧師が週報を辿りながらお話しする時間にしている。英語では、「Our concern(アワ コンサーン)・訳すなら 私たちの関心事」と表現している『週報』を見たことがある。

 

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私たちが検討を始めた、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くための ―1分間のわかちあい―」は礼拝最後の報告時の方でこんなことを互いに明確に意識して聴かせて頂こう、お話し頂こうというもの。

 

一応、原案では、三人までの制限を設けている。

 

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美しく表現するなら、「お祈り下さい」「嬉しい・悲しい」「考え、感じ、悩んでます」「ありがとう・ごめんなさい」となる。

 

もう少し、本音の言葉で言うなら「少しぼやいていいですか」「私の苦労を知って下さい」「僕、頑張りましたよ」「一緒に怒って下さいますか」「正直言って愚痴なんですが」ということだろうか。

 

あるいは、「誰も誉めてくれないんで1分間失礼します」とか、「誰か拍手して下さいよ」「お願いです、よしよしして下さい」となるかも知れない。

 

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さらには、自分ではとても偉そうに言えないし、自慢話になるので、というようなことだってあるはず。

 

そうとなれば、誰かが代わりに1分間ということだってあるだろう。執り成しは教会の美しい伝統である。

 

そうしたら、「皆さん、○○さんに本当に感謝です。拍手を送りましょう」とか、「○○さんが、本当に努力されていることに気付きましたよ」。そして、「牧師先生、ホントによく頑張りました」なんてことも楽しく、大笑いしながら分かちあえるはず。

 

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こんなことが出来るようになったら、ますます〈うちの教会って本当にいいよなぁ〉と感じながら祈り合える教会になるのではないだろうか。

 

ちなみに、1分というのはひとまず掲げている時間で、様子を見ながら、アディショナルタイム(延長)を差し上げることも最初から考えている。

 

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いつもの礼拝の時でも、「何か報告のある方はおられますか?」「アピールがありますか」という声掛けはしている。実際、ごく普通に何かしらのお知らせがある。

 

例えば、久しぶりの礼拝の方、退院間もない方のこと、お休みされた方の消息をお伝えしたり、差入れが届いているので皆さん頂きましょう、とか、今日のほっとタイムの珈琲豆は特別ですよ、というような感じである。

 

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しかし、もう半歩でも、一歩でも踏みだして、教会の交わりの深まり、祈りの輪ができる切っ掛けを創り出したいのである。

 

あるいは、これが切っ掛けで、礼拝後の、歓談やお茶の時にもさらに話題になることを期待している。やがてこういうことが、教会の足腰を強くし、新来会者の方があったときに、ごく自然に教会の空気に触れて頂ける時間になるだろう。

 

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7月4日の礼拝の終わり、そろそろ、みんなが礼拝堂から出て行く直前に賛美する「今でかけよう」(今のところYouTubeではこの時間はライブでも配信していません)を歌う頃かなと思っていた時のことである。

 

昨年の8月に受洗されたM子さんの手があがった。

 

「検査で7月7日に入院します。お祈りをお願いします」という声が聞こえた。M子さん、少し前には、今年度から始まった、礼拝の聖書朗読奉仕も始められて、様々に教会にご自分の居場所を見いだし始めていることも関係していると思う。

 

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無事に検査が終わられた日、M子さんからのメールに「あの手をあげた時、旭東教会の皆さまが家族のような不思議な気持ちになりました」とあった。本当に嬉しいことだ。

 

7月の役員会では、M子さんをめぐる、小さな教会のこの小さな出来事を、信仰のまなこをもってしっかりと受け止め、準備を進めたいと思っている。(森)

 

追伸:7月11日(日)の午後に行った7月の定例役員会で、確実に前進して準備が進んでいます。「月に2度くらいから、とにかく、始めてみましょうよ」と声を上げました。(^^♪

 

 


2021年7月4日 旭東教会の礼拝堂献花です
2021年7月4日 旭東教会の礼拝堂献花です

2021年7月4日

 『 おやじとおふくろ 』

 

時々説教に登場する「父さんはなぁ、弱いんだ」「神、導きたもう ワッハハー」の父・誠太郎は昭和2年4月1日生まれだった。

 

あらためて思い巡らしてみると、私は父が33歳の時の子である。

 

肋膜炎(ろくまくえん)で片肺となったことも含め、「父さんはなぁ・・・」が口癖だったのだと思う。父が生きていてくれたら94歳だが70歳で召された。

 

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父は倫理・哲学を志した教育者だった。哲学者の下村寅太郎先生のもとで学んだ頃は、シュライエルマッハーを研究したと聞いたことがある。

 

だが、その頃はまだクリスチャンではなかったのも不思議だ。

 

背丈は160㌢に届かず、小柄。180㌢ある私が父から受け継いだのは、良く似ている声である。いやいや他にも父の名誉のために言えばあるに違いないが。

 

今となっては父の声の録音の一つもないのが残念だが、電話口で、母の姉(伯母)から「あらっ、誠太郎さん」とか「おにいさん」と言われて間違えられていたのが懐かしい。声帯というのは不思議なほど似ているところがあるようだ。

 

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母・和子は昭和6年9月生まれ。

 

こちらは元気で居てくれれば今秋には90歳ということになるが、52歳で亡くなった。45歳で食道静脈瘤破裂で倒れ、その後は苦しい日々を送ったと思う。最後の数ヶ月、私も可能な限り病室で寝泊まりしながら看病したのだが、無念だったと思う。

 

父は、お世話になっていた病院の個室から灰皿を手にしてしばらく姿を消すことが多かったが、煙草でも吸わずにはおれなかったのだろう。

 

私が母に似たのは顔立ちで、いつだったか、教会のホームページに載せた自分の写真が母の顔に見えて驚いた。

 

母は扇風機が苦手で頭痛持ちだったことも今思えば同じだ。B型肝炎も母からのもの。昭和一桁の女性としてはかなり大柄で164㌢あった。父と母は蚤の夫婦だった。母の父、つまり祖父が大柄だったのだろうか。実は母方の祖父は写真すら見たことがない。

 

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今週のブログは、先週、誕生日をお迎えになる教会員のWさんに、礼拝のおわりの時間の報告時に「お幾つになられますか」とお聴きしたら「きゅうじゅうさんさいになります」のお声が聞こえたことが切っ掛けだった。

 

今の私、ただ牧師としてということを超えて、神の家族に対して、またひとつ違うおもいがある、とどこかで感じている。(森)

 

 


2021年6月27日(日)森牧師が兼務する十文字平和教会 庭のアガパンサス(紫君子蘭)
2021年6月27日(日)森牧師が兼務する十文字平和教会 庭のアガパンサス(紫君子蘭)

2021年6月27日

『 牧師のつとめ 』

 

先日の水曜日、2ヶ月に一度の「グリーフケアの集い」を行った。「生と死を見つめ」「生と死を語り合う」ことができる場としてゆっくりではあるけれど、深まりを感じている。

 

旭東教会では今年で7年目に入ったが、私自身にとってはライフワークとも言えるもの。とは言え、自分がやりたいことを旭東教会の場をかりてやろう、等とは少しも思っていない。

 

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これまでもどのような宗教的な立場の方でも歓迎だったし、大きな会にしようという気持ちがない。心の置き場を探し続けている方は本当に世の中におられるもので、教会という場が、クリスチャン以外の方にお出で頂いて用いられることは、幸いな事だと思う。

 

朝夕それぞれに集う方が違うし、どのような出会いが起こるかも時間になるまでわからない。つまり、どんな展開になるかは読めない会であるため、グリーフケアの集いは、良い意味で行き当たりばったりとなる。

 

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まったく初めての方がおいでになれば、グリーフケアの初歩的な理解を深めるための入門的な時間を当然もつことになるし、自己紹介的な時間をもつことはどうしても必要になる。

 

お馴染みの顔ぶればかりであれば、近況を語らうことからぐぐっと深い話が始まることもある。

 

世に「ファシリテーター」という言葉があるけれど、私もグリーフケアの集いのファシリテーターとして、単に司会をするのではなく、心の奥底にある何かを引き出してあげる切っ掛けの言葉を投げかけることもあるし、みんなが一緒に紡いでいくことができる、つなぎ役に徹することもある。あるいは、まとめたり、区切ったり、ストップを掛けるということもしばしばである。

 

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ただ、今回は少し思う所もあって、海原純子さんという心療内科医が毎日新聞の日曜版に連載しているエッセイ・『新・心のサプリ』より・「故郷を持つ」を朝夕共に私が朗読した。

 

そしてその後、自己紹介を兼ねて「故郷」について語って頂いたのだった。

 

故郷が目を向けたくない、あるいは、足も向けたくもないような負の遺産である場合も考えられたけれども、生まれた場所や育った場所がない方は居られないわけで、どなたであれ、一定程度は語ることができる可能性があるお題が「故郷」だった。

 

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海原さんはそのエッセイの中で、(決してご本人が一番語りたいことなどではないのだが)「ただ、育っただけの場所は生育地に過ぎない」と記しておられる。それだけでも深い言葉だと思う。

 

「じゃあ、何があれば、故郷と言えるのだろうか」ということは、おそらく、誰にとっても大きな問い掛けになるのである。

 

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参加者のおひとりが、7年程前に就職したお子さんとのやり取りで、「あなたはここを守って下さいと言われたんです」とお話しになった。

 

親がしっかりと家を守ってくれないと、自分は故郷を失ってしまう、ということも含まれているようにも感じるし、あなたはここでしっかり生きることが大事でしょ、というメッセージにも感じる。

 

            **************

 

ところで、教会というところがどなたかの「故郷」であるために必要な「つとめ」がある。

 

「つとめ」をひとまず平仮名にしたのは読みやすさのためではない。「務め」も「努め」も「勤め」も「勉め」も「つとめ」と読める。

 

いずれも、教会がイエス・キリストの教会であろうとするためには、どこかで意識している必要があると思う。

 

            **************

 

私は表向きには、何より聖書を読み、祈り、語り、聴く働きをしている。最近では礼拝をみんなで創っていくつとめも大きな喜びだと感じている。

 

しかし、同時並行的に、いやそれ以上に、日々、管理人だったり、小遣いさんでもあるし、素人の大工さんのこともあるし、掃除人も毎月曜日にはしている。あるいは、毎晩の宿直当番もしているのである。

 

世間では時にそれを「住職」と呼ぶ。牧師のつとめとして「住職的な役割」は、いつもどこかで求められている。大切にしたいと思っている。(森)

 

 

 

 


ちょうど一年前の〈のぞむ さん〉の洗礼式 病院のお庭での一枚です。お生まれになってから、ひと言も言葉を発せられたことはありませんが、私たちは彼の信仰と共に生きる努力を続けています (^^♪  旭東教会の20代の青年です。
ちょうど一年前の〈のぞむ さん〉の洗礼式 病院のお庭での一枚です。お生まれになってから、ひと言も言葉を発せられたことはありませんが、私たちは彼の信仰と共に生きる努力を続けています (^^♪ 旭東教会の20代の青年です。

     2021年6月20日

   『 教会奉仕に定年なし 』

 

毎日新聞 2021年6月16日(水)・『特集・論点「70歳定年に向けて」』という記事を興味深く読んだ。3名の記者が3人のかたにインタビューをしてまとめたもの。一㌻を割いているのでかなり大きな分量だ。

 

特集の切っ掛けは、70歳まで働く機会を確保する努力義務を企業に課す「改正高年齢者雇用安定法」が4月に施行されたこととあった。

 

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少し寄り道をして話を深めたい。

 

私の恩師のおひとりO先生が現役から隠退されたのは65歳の時だった。日本基督教団では正式には「隠退」が用いられ「引退」は使わない。O先生は1933年・昭和8年生まれで、1998年に隠退された。

 

教会の方々からすれば青天の霹靂で、周囲からは惜しまれてのことだった。つまり、まだまだ余力を残しておられたのである。隠退後の先生のご苦労や葛藤もご本人がある処に記しておられる。

 

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牧師の引き際は、いつでも、どこでも難しいもの。「まだまだ」と思っても、「そろそろねぇ」となり、「まだやっているのか」ということになりかねないのである。O先生、先日も電話でしっかりとお話をしたばかりで、幸い元気にお過ごしであり、今、88歳ということになる。

 

最新の〈日本基督教団 年金局〉発行の新聞によれば、最近の年金受給開始年齢、つまり、隠退された先生方の平均年齢は76.8歳とある。教団が年金を満額で支給するのは、だいぶ昔に、70歳からになっている。

 

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回り道しました。

 

最初にご紹介した特集だが、そこに登場されていた方のお一人に、世界のブランドとも言える〈ソニー〉で取締役など歴任された昭和10年・1935年生まれの郡山史郎さんが居られた。

 

郡山さんはご自身のことをこのように紹介されていた。

 

「私は現役の会社員時代、ソニーで大きな事業の責任者をしたり、会社の買収をしたりといった大きな仕事を経験した。今は社員10人足らずの会社を経営しているが、どちらが幸せかと言えば、今の方が100倍ぐらい幸せだ。・・・・・・だが、道のりは平坦ではなかった」

 

さらに、かいつまむと、「役員定年の70歳になり新たな道を求めた時、再就職した人材紹介会社で、自分は役に立たない新入社員であることに気づいた。パソコンの使い方から必死に覚えた。」とも語っておられた。

 

もう一点、「人生の後半戦は共存と協力を重んじること。地位や肩書きなど、過去は何の価値もなく大事なのは現在と将来だと発想を切り替えよう」と続いていた。

 

 

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この郡山さんの言葉、実は、母校の日本聖書神学校の最新の同窓会報で、私自身が色々とご指導を受け、励ましを下さっている大先輩が、『後輩に語る』というコラムに記された結論の言葉に通じているのだった。

 

「どこの教会で奉仕したかは相対的で過ぎ去っていく。今、仕えているところで最善を尽くすことが大事なことと受けとめている。」とあったのだ。

 

牧師としても挫折の多かった私にとって大きな慰めの言葉だと感じるだけでなく、真理だ、というのが率直な思いだった。

 

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いつかも、教会の奉仕年齢に関連して何かを記した記憶があるし、もはやどんなことを書いたかは忘れてしまったが、私が教会の皆さんの奉仕について常日頃思う事がある。それは、世の定年の枠組みは、教会では一つとして当てはまらない、ということである。

 

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社会学者の上野千鶴子さんという方が居られる。時代を読み解く眼力が並大抵ではない、と感じる方だが、先頃、NHKBSプレミアムで放映された「最後の講義」と題するテレビ番組の講演ですごい言葉を語られた。

 

途中まで聴いていて、これは聞き流してはもったいない事ばかりだと気付き、大慌てで一眼レフカメラを持ってきて画面を撮影した言葉の一つだ。

 

「弱者が弱者のままで尊重される社会をバトンタッチしたい」という意味の言葉を最終盤で語られたのだった。

 

ここでの「社会」。私は「教会」に読み替えて考えてみたいと思った。

 

たとえご病気があろうとも、力を失い始めても、年齢制限なしで賜物を活かし続けられるのがイエス・キリストの教会であるはずだからだ。

 

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私たちクリスチャンにとっての最大の奉仕はどのような形であれ、主日礼拝に繋がり続けることを思わないではいられない。

 

当番をすること、委員会や役員会の奉仕をすること以上に大切なのは、礼拝者として生き抜くこと、共に在り続けることだからである。

 

何をおいてでも、弱さや欠けをも捧げつつ、真摯(しんし)な礼拝者であり続けられるように、敢えて言うならば「頑張り続けよう」。

※すでに頑張っている人にガンバレと言うのは、禁句だと存じております。

 

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もう一つ、これもまた付け加えようと思う。信仰の道を生きるためには、「やせ我慢だって必要」なのである。自らに何かを課さずして、主イエスのみ足跡に従い続けられるはずがないではないか。

 

実のところ、個々人の努力以上に、教会や牧師のほうにこそ、そのための努力が必要なのだと思う。

 

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平均年齢70歳の教会である私たちの力の尽くしどころは、今、思いがけない形で明確になりつつあることをおもう。

 

新型コロナウイルスによって対峙している現実は、実に、礼拝共同体としての方向転換を促す切っ掛けとなっているのではないだろうか。(森)

 

 


6月6日・みんなの教会学校の説教のひとこま 賀川豊彦先生の本と旭東教会年史
6月6日・みんなの教会学校の説教のひとこま 賀川豊彦先生の本と旭東教会年史

2021年6月13日

『 続 賀川豊彦 』

 

6月6日の「みんなの教会学校」(ご存知の方が多いと思いますが、礼拝の中の20数分のことです)で「賀川豊彦先生」(明治21年・1888年 ~ 昭和35年・1960年)について語った。

 

私がはじめて賀川豊彦の存在を知ったのは、映画・『死線を越えて 賀川豊彦物語』が1988年(昭和63年)に公開され、当時JR有楽町駅前にあった読売ホールで観たことにさかのぼる。

 

神学校入学一年前のことで、心底感動し、いよいよ献身の覚悟・おもいが深められる切っ掛けとなったことを思い出す。

 

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『日本基督教団 旭東教会 100年史』という一冊がある。そこに賀川豊彦先生の名前が出てくるのは記憶していたが、あらためて調べてみた。

 

何と、旭東教会は賀川豊彦先生を三度お迎えしかなりの規模の伝道集会を開催しているのである。そして、旭東教会の現会堂の献堂(1923年・大正12年)を後押ししてくださったのが賀川豊彦先生であった、と記録されている。

 

以下、『日本基督教団 旭東教会 100年史』から抜粋。

 

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1921年(大正10年)には、大挙伝道が行われ、この時、教会堂建設の議が具体化し機が熟した。会堂建築基金造成の一歩として賀川豊彦先生を迎えて大講演会を開くことを計画した。

 

1921年(大正10年)12月神戸をたずね講演を依頼。当時賀川先生は貧民窟(ママ、差別語と認識しますが、様々に考えそのまま写します)この件を快諾され、翌1922年1月24日いよいよ大講演会を開くことになった。少なくとも2千7百、8百人はあつまり、高島座の講演会場には立錐の余地がなかった。

 

賀川先生にお礼をというと、三十円でよい、それ以上は貰わぬといわれ、九百六十余円が手元に残り、これが教会堂設立の土台となった。講演会翌日は日曜日で、朝礼拝と夕礼拝は賀川先生が説教された。(旭東教会年史・28~29頁)

 

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小説教では、その日の、主日礼拝説教ともLinkさせ、出エジプト記13章の「雲の柱」のみ言葉に触れることにした。

 

賀川先生を信仰的に支え続けたのが神の臨在を示し続けた「雲柱(うんちゅう)」であったことを語りたかったのだ。

 

※「雲柱社」をWebで検索されると更に皆さんもよく分かると思います。

 

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通常、教会学校の教師会でも、説教は10分以内厳守を申し合わせている中、外の先生方には恐縮だったが、20分を掛けるという異例の時間の掛け方をした。

 

教会の過去・現在・これからの宣教・教会形成を考える上で、賀川豊彦先生のことは思いのほか意味深いことを包含していることに気づき、こういう機会はたぶんそうそう無いだろう、と思ったのだった。さらに当日は、コロナ関連の事情から、幼子の来会はないことを見込んでいた。

 

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あらためて短く賀川豊彦先生をご紹介すると次のようになる。

 

社会活動家として労働運動、農民運動、生協運動、平和運動の先駆者であり、キリスト教信仰に基づく社会事業の指導者でもあった。いや、そもそも日本基督教団(当時は日本基督教会の伝道師)の教師であり、ことに「神の国運動」の指導者、そして、再軍備反対を掲げるキリスト新聞社の創立者でもある。

 

ただし、戦後、ノーベル平和賞の最終候補者でもあったという賀川豊彦先生に学び、倣いたいのは、その多才さ等ではない。

 

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むしろ、キリスト者として21歳で極めて過酷な状況の地域に居住し始め、病を抱えつつも、神に信頼し、人を恐れず神を畏れ、生涯、献身を貫き通した実直さ・愚かさである。

 

パウロの第一コリント書1章18節「 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」を思わずにはおれない。

 

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賀川先生は、関東大震災直後(旭東教会のために初めてお出でくださった翌年である)には東京入り、支援活動を開始した方でもあるのだ。

 

そして、何より私自身が、賀川豊彦先生によって伝道者として押し出された者であったのだ、ということに実はこの度、明確に気づかされた。賀川先生、私の献身の原点なのです。感謝いたします。(森)

 

*念のための追伸

 タイトルに「続」とあるのは、ブログに前編あるということではありません。みんなの教会学校の説教に続く、という意味です。

 


2021年6月 礼拝堂奥の小部屋の献花
2021年6月 礼拝堂奥の小部屋の献花

              2021年6月6日

『 相槌(あいづち)と間 』

 

精神科医として長年相談を聴く仕事をされている高塚直裕先生の言葉を、私が信頼する辻中明子牧師(北海道恵庭市・島松伝道所)が教会報『島松だより №46』で紹介しておられた。

 

私は高塚先生のことを初めて知ったが、辻中明子先生は、長年、信頼をおいてこられた方とのこと。

 

以下の話題、明子先生が一番伝えたいこととは少し方向が違っていると思うが、気付きを記してみたい。

 

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高塚先生が『相槌の打ち方』という講演をされた時のことが紹介されている。

 

相談を聴く者の大前提として「来談者は解決方法を必ず持っています。まだそれに気付いていないだけ」「こちらの価値判断は後回しに」「時間はかかっても相談者が決めた解決策が一番いいのです」等とお話されたそうだ。

 

心から同意したい。

 

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辻中明子先生は謙遜に「さて、私の日常はどうか。答えや助言を先に言いたくなる。受け止める前に否定したり質問したり、話をさえぎったりする。相談者も解決法に気づいていないので、早くさっさと教えてほしいと望む。」と記されている。

 

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私自身の経験でも、カウンセリング的な場に身を置くとき、同様のことを心にとめながら過ごしていることが多い。

 

そして、クライアント(相談者)との〈沈黙の時間に耐える〉ということを大切にしたいと思いながら向き合うようにしている。これには、相当の覚悟が要る。

 

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「相槌」の語源は鍛冶(かじ)職人のわざにあるらしい。確かに広辞苑を引くと「鍛冶で弟子と師が向かい合って鍛冶を打つこと」とある。

 

もちろん、人の話に応じてうなずいたり「ええ」「うん」などの言葉を入れたりすることも意味することも広辞苑にはある。

 

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日頃から、教会の様々な場面で互いの「相槌と間(ま)」が大事だと思っている私。何げない会話や交わり、説教も、牧師と皆さん相互の「相槌と間」が、よいものを生み出すのだと気付く。

 

息が合う、呼吸が合ってこそ本物が生まれるということか。(森)

 


2021年5月30日(日)・兼務する十文字平和教会花壇の「オルレア」はるおさん撮影
2021年5月30日(日)・兼務する十文字平和教会花壇の「オルレア」はるおさん撮影

    森牧師ブログ 2021年5月30日

          『 51年目の洗礼式 』

 

お目にかかったことは一度もないのに、前任地での「利尻昆布バザー」が切っ掛けで交流が続くNさんよりお葉書を頂いた。

 

東日本に在住のご婦人である。

 

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「夫は一年余り守られて来ましたが、新しい抗がん剤治療のため入院することになりました。「受洗したい」と言い出し、先生方のご配慮で先日、5月16日に受洗させて頂きました。結婚して51年の時と病気の時が必要だったと申してます。平安が与えられますように願っています。16日は私自身、一年ぶりに奏楽をさせて頂きました。」と。

 

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「おめでとう」の言葉をメールで贈りたいと思った。

 

○○さんの、忍耐、日々の祈り、すべてをご存知の主がなされた、まさに、御業だと思います。ご主人さまのご受洗は、多くの方に、希望を与えられていると思います。

 

ぜひ、ご主人さまが証しを記されたりした印刷物ができたら、送って下さい。

 

後に続く方が、御教会だけでなく、こちらでも、起こされることを夢見ます。よろしくお伝え下さい。

 

    **************

 

すると、返信が来た。

 

「お連れ合いが未信者の仲間から励みになったと言葉をもらいました・・・夫の書いた文を読みますと、結婚51年それぞれに悩んで(私だけでなく)、ようやく辿(たど)り着いたのだとありました。」

 

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他にも大事なメッセージがあった。

 

「ペンテコステは不遇だと毎年思います!私達が信ずることができるのは聖霊の力ですのに。今年は特に思います。来週の礼拝が祝福されますように!お働きとご健康が支えられますように。それにしても、森先生のYouTubeのお働きは先行していたと改めて感じています」と。

 

有難い励ましの言葉だ。

 

 

主にあるお交わりに感謝である。福音はきっとここから広がっていくだろう。(森)

 

 

【追伸】

ここでご紹介させて頂いたNさん

 

去年の11月8日のブログ・『真夜中の教会墓地へ』の最後に、

 

紙のハードカバーの時代の 『新約聖書 詩編付き NI 344』(新共同訳)を古本屋さんなどで見つけられたかた、教えて下さいませ。すみません。

 

と記していたら、去年のクリスマスイヴにメールを下さった。

 

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「ご無沙汰いたしております。久し振りにホームページを見ましたら、11月8日の記事に新約聖書詩編付き聖書の事が出ていました、NI344版でしょうか、古本屋さんにありましたか? 私の手元にあります。最後にサインはありますし、少し線が引いてあるところはありますが、旅行やお見舞いの時に使っていました。今は字が小さいので使いません。お役に立てるのであればお送りします。外側の紙は傷んでいますが。」

 

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〈信仰の友〉に不思議な形で支えられている。あらためて感謝である。end

 

 


2021年5月23日 午後三時半頃 森牧師が兼務する十文字平和教会では、愛の鐘ロッジで野外礼拝を守りました。真ん中に見える小型カメラは、YouTube録画配信のためのものです。ライブは出来ません。
2021年5月23日 午後三時半頃 森牧師が兼務する十文字平和教会では、愛の鐘ロッジで野外礼拝を守りました。真ん中に見える小型カメラは、YouTube録画配信のためのものです。ライブは出来ません。

2021年5月23日

『 十字架と映画の記憶 』

 

礼拝に来たいと思っても足の痛みがあってかなわない状況が続いている八重子さんのお宅を訪問。

 

八重子さんは、7年前に私が旭東教会の牧師として初めて礼拝を捧げた日曜日の新来会者として来会された同級生である。お互いに、そのことを忘れ難い宝としている。

 

その日も、ご自身のこと、ご家族のこと、旭東教会への親しい思いなど、あれやこれやをお聴き出来た。

 

                          *

 

私はと言うと、少しでも教会の話題を提供し、元気づけが出来ればと思って持参したのが、出来たてホヤホヤの、ホームページの冒頭に新たに設けた『旭東教会を3分間でご紹介』の「プリント版」だった。

 

プリントを八重子さんにお見せすると、写真の部分をじいっとご覧になり「十字架はこの白い壁の処(ところ)じゃなく、前はここでしたね。きれいになりました」と礼拝堂正面木部をすぐに指差された。会堂の改装工事を行った一年前までの十字架の位置をはっきり記憶しておられた。「観音院はこんなにキレイですか」とこれまた笑顔だった。

 

                          *

 

コタツ机から立ち上がって失礼しようとすると、八重子さんは、急に思い出したようで映画の話をされた。私も録画した『ベン・ハー』だった。

 

先にブログの読者でご存じない方のために記しておくと、『ベン・ハー』は1959年製作のアメリカの映画である。

 

久し振りに名前を見たが、チャールトン・ヘストン主演、同年アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞をはじめ11部門のオスカーを受賞。この記録は史上最多記録でその後長く続き、現在もアカデミー賞の史上最多受賞という文句なしの名作である。

 

                          *

 

元々口数の少ない八重子さん。かすれるような声でこうおっしゃった。ゆっくりとした口調だが嬉しそうに。

 

「あのー、この間、NHKのBSで『ベン・ハー』を観ることが出来ました。最後、重い皮膚病の人たちのイエスさまによる癒しの場面があって感動しました」と笑顔で語られたのだ。

 

その時の私の理解は、コロナ関連の事情もあるし、足の痛みも重なり、なかなか教会にお出でになれない中、キリスト教に深く関係するものを映画を通してみることが出来て喜んでおられる、というものだった。

 

                          *

 

しかし、その後、しばらくしてから、映画に関連して、ふと思い出したことがあったのだ。

 

8年前に先立たれた八重子さんのご主人さまの正光さんは、旭東教会が立つ西大寺がまだまだ賑わい、華やかだった昭和の時代に、この街の映画館の映写技師だったはずである。いや、八重子さんご一家四人は、西大寺に暮らしておられた。

 

熱心なキリスト者であるご長女が闘病中のお父さまにクリスチャンになることを勧められ、即座にそれを受け入れられ、二人でご一緒に受洗されたのは、ご主人さまが召される少し前のことだった。私が旭東教会に着任する2年程前である。神戸から娘さんが所属されていた教会の先生が駆けつけて下さり、無事に洗礼式が執り行われたのだった。

 

                          *

 

映画の話に戻るが、八重子さんのお宅では、日頃から映画の話をご主人と共に、食卓でなさっていたのは当然のことだろう。

 

そして、正光さんは、昭和34年製作のアカデミー賞を11部門受賞して日本で公開された『ベン・ハー』も映写技師として上映されたのではないか、と思う。

 

一筋の道が備えられていたと思わずには居れない。

 

それは、主イエスの備えられた道である。『ベン・ハー』は八重子さんにとって、単なるキリスト教の名画ではなく、様々に心をあたため、力を生み出すことが出来る映画だったのである。

 

笑顔の瞳の奥底には、ご苦労を共にされたご主人の姿があり、救い主イエス・キリストの愛があった。お訪ね出来て、本当によかったと、感謝している。(森)

 

 


5月16日(日)の午後 森牧師が兼務する十文字平和教会の花壇にて ジャーマンアイリス 治生さん撮影
5月16日(日)の午後 森牧師が兼務する十文字平和教会の花壇にて ジャーマンアイリス 治生さん撮影

 2021年5月16日

 『  声に出すめぐみ 』

 

いつの頃からか、毎月の役員会の牧師報告資料(「教務報告」というものです)に「トピック」という題を掲げあれこれメモをしている。

 

直ぐには取り組めないけれど、今、自分が気になっていることなどを記すことが多い。その項目も、一つやふたつではない。

 

一年以上前から記していて、具体的に進展していないトピックのひとつに「よかったことは、どんどん声に出そう」というものがある。議論するという処にまでは至っていないので、正確には、継続議題でもない。

 

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松尾貴史さんという放送タレントが居られる。あるいは、放送作家なのだろうか。ちらっと調べてみると、舞台に立っているようだし、コラムニストでもある。私と同じ1960年生まれだったことも親近感を増す。

 

視点や筆も並大抵でなく鋭い方で『松尾貴史のちょっと違和感』という毎日新聞の日曜版に載るコラムを楽しみにしている。かなり痛烈な政権批判を、皮肉も交えながら日頃からされている方だ。

 

先日は、おそらく、松尾さんが主題として語りたかったことは、私が以下で触れることとは違うと思うが、面白いことを記しておられた。(以下、毎日新聞・2021年5月9日・日曜版より引用)

 

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最初は禁煙にかかわることを記していた。

 

先ず、もう30年以上前、禁煙しようとしては失敗していた時、一計を案じて「たばこを吸いたくない、欲しくない」と無理矢理につぶやき続けたら、いともやすやすと成功してしまった。」と書かれていた。

 

さらに、傑作な言葉として読んだのは、「歩きたい歩きたい」「食べきれるかな」「胃が小さくなったなぁ」とつぶやき続けていたら、全く頑張ることなしに体重を10㌔減量できたとあった。

 

松尾さん、ある本からヒントを得て、「俺は天才だ」と独り言を続けて、目論み通りに、大学受験にも成功したらしい。

 

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私は一年位前から、あるいはもう少し前からかも知れないが、かなり意識して「旭東教会って本当にいい教会でしょ。自信をもちましょう」という〈類い(たぐい)〉の言葉を発信するようにしている。

 

そうなると、がぜん、松尾さんの言葉に大いに勇気をもらうことになる。

 

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以下、今号で一番分かち合いたいことを記してみる。

 

私がなぜ、「よかったことは、どんどん声に出そう」という言葉を、役員会の協議に至る前の資料に記し続けているのか。

 

突きつめて言うならば、教会でご一緒している方たちの喜怒哀楽をどんな形でならば、聴かせていただいたり、触れていくことができるのか。それが、旭東教会の宣教の大きな力になると思うから、真剣に取り組んで生きたい宿題、と考えているからだろう。

 

教会の皆さんも、日々の暮らしの中で、福音の出来事に出会っていないハズがないのである。

 

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美しいものに触れ、嬉しくなり、主の顧みに支えられていること。あるいは、涙をこらえ、歯を食いしばって頑張っているなかで、み言葉が支えてくれている、という福音。

 

さらには、ほんとうに思いも寄らない出来事が起こった、という喜びや、そのことにようやく目が開かれて、今、気づきました、という類いのことである。そこには悔い改めだって自然と含まれていく。

 

小さくても、分かちあえるならば、それによって、また、何かが引き出されて、いつしか、新たな福音を生み出していくのではないか。

 

教会の証しとはまさにそのような事である、と信じている。決して決して、「私が初めて教会に行ったのは」という昔の話ではないのである。

 

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真実に生き生きとしている教会。

 

それは、互いの何かを引き出しあっていくことにおいて、不思議な調和がとれた瞬間を、いかに、多くの人が目撃者となれるか、共有できるか、ということに掛かっていると思うのだ。

 

「よかったことは、どんどん声に出していくこと」に慣れることは、さらにまた、ぼやき上手になることであり、人生の途上において、一人で重荷を負い続けることから遠ざけてくれることになるのではないか。

 

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福音を証しすることは、人生の喜怒哀楽をどのように発信するかということでもあるはずだ。

 

声に出していると、いつしか、感謝も喜びも悲しみも、祈りとなって天に届いているはずである。

 

きっとそうに違いない。(森)

 

 


最新の教会玄関付近の看板です。いろいろと工夫しております。ペンテコステの一週前の礼拝案内となります。
最新の教会玄関付近の看板です。いろいろと工夫しております。ペンテコステの一週前の礼拝案内となります。

2021年5月9日

 『 3分に祈りを込めて 』

 

カップ麺を時々口にする。当然、健康のことも考えているので、そうしばしばではない。

 

熱湯を注いで3分待つ。当たり前か。そう長いとは思わない。

 

私見だが、本家本元、日清食品のカップヌードルシリーズはどれも本当に美味しい。生協でも、OEMで製造を依頼しているようで、そちらを手にすることが多い。

 

他のメーカーのものを何度か購入したが、ほぼ、どれも何かが足りなかったり、最後まで食べるのが辛かった。だからもう手を出さない。迷うことなく、日清食品のカップを手にする。

 

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カップヌードルは、日清食品が1971年9月18日から発売しているらしい。私が小学6年生の秋だ。

 

どうりで中学に行くようになって、深夜放送を聴き、中間考査だ、学期末の試験だというと空腹に耐えかねて、カップヌードルを手にしたくなったのだな、と気づく。

 

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どうやら、現代の様々な技術をもってすれば、カップ?は〈2分〉でも〈1分半〉でも口に出来るものは容易につくり出せるようだ。

 

しかし、人間とは何とも繊細な存在で、〈1分〉では気分が盛り上がらないどころか気持ちも落ち着かない。かと言って、〈5分〉では忘れてしまいそうだし、気持ちもそがれ長すぎる。

 

じゃあ〈2分〉はどうかと言えば、何やら中途半端に感じるのだから不思議だ。

 

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ホテルや結婚式場のチャペルで結婚式の司式の仕事(ちょっとしたアルバイトを超えて)をしていた頃、『話は3分にまとめなさい』というビジネス書から学んだことがある。

 

結婚式のためでなく、説教者として、話し方について少しでも深めたい、ということが切っ掛けだったかも知れない。

 

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余談ながら、ビジネスとしてのキリスト教結婚式の場は様々に求められることがあり、全体を入場から退場、ご家族への挨拶も含めて23分で終え、30分刻みで、次々と結婚式、という会場もあったことも懐かしい。チャペルが二つ左右に並んでいる式場もあった。

 

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『話は3分にまとめなさい』に戻るが、これを身につけると、その応用で、理論的には、3分の話を10個つないで行くと30分の説教が生まれることになる。15分でお願いしますと言われれば5個をつなぎ合わせばよいし、45分であれば15個ということになる。

 

3分刻みで、いつしか話が展開していくと、聴き手も飽きることがない。

 

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さて、さいごになったが、ようやく今回のブログの主題である。

 

実は、ゴールデンウィーク、教会ホームページの改装に着手した。

 

しばしば小さな手は入れているのだが、ちょっとしたことが切っ掛けで、一気にだいぶ大掛かりな作業を進めてみた。やりたいことは、どこかで温めていたことだったので、微修正は何度も繰り返したが、中心はぶれなかった。

 

タイトルは、かなり目立つ文字で、「旭東教会を3分でご紹介」と銘打って、勝負?に出た次第である。

 

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もう一つのキャッチコピーは「岡山市の風情ある町・西大寺のキリスト教会」です!としたが、はたと気が付いて二枚の写真を入れた。そして、みやすく大きく三段落につくり分けた。

 

さらにさいご、「岡山市の」を「岡山市東区の」と修正をして完成となった。

 

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どんな形であれ、応答があるともちろん嬉しい。そして、福音宣教のあらたな切っ掛けになることをもちろん願っている。

 

このブログを読んでおられて、近くにお住まいのノンクリスチャンや放浪中の方。

 

どうぞ、旭東教会へ一度お出かけを。ほんとに、ほっとする素晴らしい教会ですよ。あなたの居場所も見つかります。(森)

 

 


2021年5月2日の献花 洗礼式が行われた嬉しい日曜日でした。
2021年5月2日の献花 洗礼式が行われた嬉しい日曜日でした。

               2021年5月2日

               『 あしあと 』

 

ここ数年の旭東教会の歩みを振り返ることができて、この一年程の間に教会に繋がり始めた方々に、教会の少し前を紹介するのにとても便利だなと思うものを〈再発見〉することが出来た。

 

年3回、きちっと発行され続けている教会報・『緑の牧場(みどりのまきば)』のバックナンバーである。

 

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この1年半程の間に「転入会」されたり「受洗」された方たちに差し上げるのにぴったりだということに遅ればせながら気付いたのだった。

 

『週報』はとても準備できないし、基本的に写真は載っていない。時々のホームページの再現もあり得ないこと。ホームページの写真集・「今週の3枚!」もどんどん入れ替わっていく。

 

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『緑の牧場』の編集実務を長年して下さっている泰さんにお願いして手元に届いた『緑の牧場』をコピーする前にパラパラとみていた。

 

すると、葬儀の司式をさせて頂いた方たちの想い出が記された文章や顔写真もたくさんあるし、貴重な記録だなと思う。考えてみれば、もっと昔の『緑の牧場』に助けを求めることが葬儀の時にはしばしばあったことに気付く。

 

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他にも、信徒伝道週間などに講壇で証しされた皆さんの言葉も綴(つづ)られている。8月の第1主日の平和聖日にご自身の戦争体験をお話された方々の「遺言」とも言えるような真実で重みのある言葉も読むことができる。

 

ホームページにも公開していない私自身の巻頭言=書くメッセージも、久し振りに見ると、何かしらの必然があることに気付く。

 

ミニサマーフェスティバルで行っていた珈琲を豆から挽いてハンドドリップする「森カフェ」もコロナのこともあり、ほぼ忘れ掛かっていた。

 

そしてまた、何が切っ掛けで始めたのか忘れてしまったが、「夕涼み映画会」の様子も目に留まった。

 

久し振りの顔に、ほろ苦さも甦ったりした。

 

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「深淵はそのすぐそばにある」とは最近見かけた直木賞作家の島本理生(しまもと りお)さんの言葉だ。

 

旭東教会の〈まきば〉は、思いの外深く、ゆたかだった。感謝である。(森)

                        


2021年4月25日 礼拝堂前方の様子です(^^♪
2021年4月25日 礼拝堂前方の様子です(^^♪

2021年4月25日

『 神による労いを生きる 』

 

女子競泳の池江璃花子(りかこ)さん。

 

急性リンパ性白血病との闘いを乗り越えられ、見事、東京オリンピックの幾つかの種目での出場資格を勝ち取られたというニュースに触れた。

 

五輪に出場出来ることになった際の、「努力は必ず報われると思いました」というインタビュアーへの涙ながらの言葉は、彼女にとっては真実だと思う。私も心からの拍手を送った。

 

それにしても、2024年のパリオリンピックを目指す、と言われていたはずの方である。あまりの快進撃に、そんなに頑張って大丈夫なのか、とおいちゃんは思った。

 

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そしてさらに、心のどこかに、小さなわだかまりのような思いもあったのだった。

 

どんなに努力をしても、病であれケガであれ、乗り越えられずに苦悶し、良い結果を出せない人生もあるのが、私も含め、多くの凡人が直面する現実である。

 

いや、むしろ、ほとんどの場合はそうではないか、と考えていたからだと思う。

 

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心療内科医でエッセイスト、そして、シャンソンもプロ級という海原(うみはら)純子さんという方がおられる。

 

海原さん、池江選手の驚異的な回復と見事な活躍を讃えつつも、「努力が報われる」ということについて考えてみたいというエッセイの中で、本質を見抜いた言葉を記されている。

 

以下、毎日新聞 2020年4月18日(日)・日曜版・『新・心のサプリ』「自分らしく生きる」より抜粋して紹介します。

 

海原さんが一番伝えたいことかどうかはわかりません。その点は悪しからず。

 

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「病気が寛解(かんかい)しないことは周囲から見ると一見「気の毒」な状態に見えたりもするが、じつはそのように自分の生き方を見付ける努力をした方たちは気の毒でもかわいそうでもなく、むしろ心豊かに充実した人生を歩んでいたりする。・・・・・・日常の中でできることを続ける人生の中に幸せを見いだせることも努力が報われたことではないか」(

以上、引用おわり)

 

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まさに慧眼(けいがん)である。

 

海原さんは、たぶんクリスチャンではないと思うが、そんなことはどうでもいいこと。

 

日頃から、読み手が心のうちに気付きをもちながらも、明確におかしい、と言えないことや、世の常識を疑い、主流派への否をわかりやすい言葉で、時に勇気をもち、記す努力をされている方で教えられることが多い。

 

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今回のエッセイを読んで、み言葉を探してみた。

 

聖書は私たちに、「いつも喜び、感謝する生き方」を(*第1テサロニケ書5章16節以下)教えてくれているなぁ、と思った次第である。(森)

 


2021年4月18日の講壇 献花です
2021年4月18日の講壇 献花です

      2021年4月18日

『 牛丼吉野家から学ぶこと 』

 

高校2年になった16歳の春。私は逃げるようにして故郷大分から東京に向かった。

 

2歳の頃、東京の東村山市から父の故郷大分市の大在村に(たぶん、祖父の願いもあり)、引っ越してきてから初めての県外での暮らしだった。大在は今でこそ子どもたちの溢れる大分市のベッドタウンだが、50年前は本当に田舎の村だった。

 

余談ながら、両親は大分育ちでもないので、森家では大分弁というものが使われず、いつしか、家庭での話し方と同級生との話し方は区別する、オーバーに言えばバイリンガルを身につけることになった。

 

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大分からの脱出は、県内のかなりの名門校だった大分上野丘高校でのお勉強にまったくついていけないことが表面的にはきっかけだった。当時の私は、サッカーはするけれど、とにかく全く勉強をしない生徒になっていた。

 

見るに見かねた父親は、おそらく相当に悩んだすえ、かつての勤務先であった東京都内の私立高校への転入学の道を探したのだった。春3月、独りだけ受験という無理矢理の編入学試験を受け、既に、大学生として都内に暮らしていた姉と二人暮らしが始まったのだった。

 

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かたじけないことに、学生時代から父を慕う気持ちイッパイの教え子のOさん(当時40歳位)が豊島区巣鴨という町に居られて、「森先生(オヤジのことです)。それならば、旧家がまるごと空いていますから、そこに暮らせばいいですよ」と、10LDK位の味わい深く、広く、便利な家での姉との二人暮らしが始まったのだ。

 

想像するに、戦後間もなく建てられた大邸宅だったと思う。

 

後に私は、Oさんのお子さんの家庭教師をさせて頂いたり、仕事・暮らしの面でも大いにお支え頂くことになる。

 

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巣鴨は、おばあちゃんの原宿として知られるが、JR山手線で東京駅まで30分、池袋7分、新宿まで18分程の本当に便利で暮らしやすい地域。山手線の内側に暮らすということは、だいぶ贅沢なことに、当時の私は気付いていなかった。

 

今考えれば奇跡である。普通に考えれば、家賃30万円位かなと思うけれど、電気代程度しかいらない有難い暮らしだった。何より、私が通うようになった、本郷学園高校まで、教室まででも徒歩10分で着くという不思議な導きがあったのだった。

 

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大学生の姉は、毎朝弁当をもたせてくれて、一生懸命に支えてくれたけれど、当然、部活などで忙しければ、「今日は外で何か食べて」と言われることもあった。

 

すると、待ってましたとばかり、弾むようにして300円を握りしめて駈けて行ったのが牛丼の吉野家だった。

 

当時、すき家とか松屋とかの牛丼チェーンがあったのかどうかは知らないが、吉野家があることは心強かったし助かった。印象としては今とほとんど変わらない店構えの吉野家が、駒込寄りの巣鴨の端っこにあった。

 

ちなみに、他にも、「今日は外で食べて」と言われると楽しみに出掛けるお店はあったが、一番お財布にやさしいのが当然吉野家だった。

 

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吉野家の牛丼はある意味に於いてソウルフードで、今でも無性に食べたくなり出掛けることがあるのだが、先日、Webサイトの中での新聞記事が目に止まった。

 

吉野家では100年の歴史を捨て、長年使い続けて来た接客マニュアルを改めて、「いらっしゃいませ。ご注文は・・・」の使用をやめたという。

 

その代わりに始めたのは「おはようございます」「こんにちは」なのだそうだ。

 

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きっかけは、岡山市内でも見かけるようになった新しいタイプの店舗を展開し始めることだったとのこと。やがて、全店舗で「おはようございます」「こんにちは」に切り替えていったという。以来、1年半が過ぎたそうだ。

 

何がきっかけで変えて行かれたのですか?、と問われたのは改訂を発案した吉野家ホールディングスの河村泰貴社長だった。

 

「『いらっしゃいませ』はお客さんが返事のしようがないが、『こんにちは』だと返事をしやすい。そこで会話が生まれることもある」と狙いを語られていた。

 

社長さんは、「従業員も慣れるまで時間が必要だったし、気が付く人は少ないかも知れないが・・・・・・、でも、こういうところから変えているのです」と言われたそうだ。

 

生き残りの競争が激しい外食産業の中にあって、「こんなところからでも変わって行かなければ、先はない」という危機感がひしひしと伝わってきた。

 

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最近、私が30年前に学んだ日本聖書神学校の入試問題をみる機会があった。どなたでも簡単にホームページからアクセス出来る。

 

新約聖書、旧約聖書とも、私からすると、俺は落とされるかも、と思う内容。さらに、英語の問題も、「これ、出来なくても牧師を30年近くなんとかやってこれたよ」と余計なことを思ったりした。

 

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興味深かったのは、小論文の問題である。「牧師とは教会においてどのような役割を担っているのでしょう」という言葉を含む問い掛けがあるのを知ったのだった。うーん、これは、教会の信徒の方々、そして役員会で本当に聴いてみたい、と思うことでもある。

 

恩師のお一人、故・今橋朗先生は、確か「雑用係です」と言われたことがあったようにも思う。その真意は、言葉の上っ面を受け止めるのではなく、想像力を発揮させる必要がもちろんある。けれども、その言葉通りですよね、という部分が多々あると思う。

 

正論で言うならば、牧師に託されていることは、み言葉に仕えること、説教であることは間違いない。だがしかし、それはもう、当然のことなのではあるまいか。信仰の指導はみ言葉のときあかしだけではすまないのだから。様々な形でのセンスが問われ、お世話をすることが多い。

 

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教会生活の中で聖書を学ぶのはこれからも大いに大切にしていきたい。楽しみたい。力を入れたいと思う。

 

しかし、吉野家の取り組みが、マニュアルを変更して、人と人との出会いが再びそのお客さまをお店に迎えることになる、という気付きにあるとするならば、私たちも1世紀の歴史をさらっと変える位のこころが必要かも知れない。

 

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先にお名前を出した今橋朗先生。元々は旧約学を志された方。だが、神学校で教鞭をとるころには、キリスト教教育、そして礼拝学の分野=実践神学を担当された方であった。

 

先生は時にこう仰っていた。「宗教改革は礼拝改革だった」と。

 

礼拝が新たにされ続けることなくして、おそらく、宣教第2世紀の中にある私たちの教会の霊的な意味での刷新もありえないだろう。

 

だから、私たちは、やわらかな心で、チャレンジを続けている。(森)

 

 


2021年4月4日 復活祭・イースター 礼拝後の「紙芝居¥ムネアカ鳥」を観る双子ちゃんとおばあちゃま
2021年4月4日 復活祭・イースター 礼拝後の「紙芝居¥ムネアカ鳥」を観る双子ちゃんとおばあちゃま

  2021年4月11日

『神の国の聖書朗読者』

 

私たちの教会では、そう遠くないうちに、礼拝の聖書朗読を司式者に限定せずに始めようとしている。

 

いや、2ヶ月ほど前から案内を始め、週報でも、同様の趣旨のことを大なり小なり掲げているのである。

 

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たとえば、4月11日の週報・お知らせ欄にはこうある。

 

○《礼拝の「聖書朗読者」を募っています》礼拝に多くの方が積極的に参与することによって、私たちの教会の礼拝・宣教を豊かにして行こうとするものです。聖書朗読は大切な務めですが、お子さんや、求道中の方も歓迎いたします。現在、5名の方々の朗読が内定しています。ぜひ、ご協力下さい。

 

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そんな矢先『みことばの力を考える ―聖書朗読を考える―』という論考を、同志社大学のキリスト教文化センター教員であり、牧師の越川弘英先生が『礼拝と音楽』という季刊誌の2005年・春号でされているのを見付けた。

 

「みんなで出来ることを一人でやる必要はないでしょ」という言葉を語られた聖公会の司祭との出会いを紹介される。そちらの聖公会の教会では、三名が3つの箇所を分担朗読しているそうだ。

 

越川先生はこう記される。

 

【効率重視の現代人の感覚からすれば、むしろ逆に、「一人でできることみんなでやるなんて無駄だ」と感じるかもしれない。

 

たしかに礼拝のスムーズな進行だけをかんがえるなら牧師が司式も朗読も説教も担当するリーダーシップを発揮したほうが便利だろう。

 

しかし・・・・・・私たちは効率や便利とは異なる価値観のもとで私たちの「業」(神の民の)や「集い」(神の民の)を見つめ、その視点のもとで聖書朗読者の役割分担という課題も検討していく必要があるのではないだろうか。】

 

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「礼拝学」の研究者でもある越川先生は、その取り組みを「個々人の個性と賜物を活かし、より多くの奉仕者が共に礼拝形成に参与する形」と高く評価されている。

 

4歳の双子ちゃんが礼拝出席する時、じいじ、ばあばと共に、献金当番のお手伝いをするのは旭東教会ではいつの間にか見慣れた光景となっている。

 

教会のみんなが嬉しいし、誰一人として目くじらを立てることもない。神の国は遠くにあるのではない、と思う。

 

見方を変えるならば、彼女たち姉妹は、無自覚ではあるけれど、立派な礼拝奉仕者として礼拝を豊かにしてくれている。それだっていいではないか。

 

そう、5年後には講壇での聖書朗読だって夢ではない。会衆は誰の朗読よりも真剣に心傾けると思う。(森)