2017年7月1日(土)№ 123『 こんな〈祈祷会〉もいいんだね 』

ブログでご紹介する本がこちらです。残念ながら絶版です。
ブログでご紹介する本がこちらです。残念ながら絶版です。

 各地の教会での祈祷会。

 

いろいろな学びの仕方を工夫していることと思います。

 

聖書を学ぶ場合、牧師先生の講義がまず一般的でしょうか。

 

他には、信徒さんの持ち回りでの発表形式、あるいは、幾つかの聖書の翻訳をみんなで味読し、感じたことを分かちあうスタイルもあります。

 

勉強熱心な信徒さんが、牧師になりかわり、毎週の聖書研究を担当、という話も耳にすることがありました。

 

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神学生時代に厳しいご指導を下さったO先生。

 

信徒さんに聖書研究を委ねる際、注解書の類いは読まないこと。新共同訳以外の他の翻訳と読み較べだけを約束事としている、と仰いました。

 

そして、自分は、解説をしないぶん、それ以上に丁寧に学んでいると言われたこと、忘れられません。

 

とにかく、ご自身にも厳しい姿勢をさいごまで持ち続けた先生です。

 

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その他、ときどき見かけるのは、ある先生の説教集をみんなで読み進めるというパターンです。

 

親しい同級生の友人牧師が『風に吹かれて散らされて―使徒言行録からの宣教―』(星野正興著)を祈祷会か幼稚園の先生方との学びで読んで好評だった、と話していたことがあります。

 

それから、関東教区のある先輩は、日本基督教会の蓮見和男先生の「聖書の使信 私訳注釈・説教」シリーズを祈祷会で順番に読んでいる、と言われていたのを記憶しています。

 

また、関西以西のとある教会では、松本敏之牧師の『マタイ福音書を読もう1・2・3』を祈祷会で学んでいるとお聞きしたことがあります。

 

他には、『信徒の友』を読む会を月に一度行うとか、分かち合いのしやすい本を探してきて、さまざまな語らいと交わりを大事にする、という形もときどき耳にします。

 

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上の写真の本。

 

ご覧の通り、故・清水恵三先生が1982年に書き上げられた『イエスさまのたとえ話』(日本YMCA同盟出版部・絶版、出版社そのものが消滅)という本です。

 

清水先生のご本、『手さぐり信仰入門』『手さぐり聖書入門―マルコ福音書による黙想―』『辺境の教会』など、一見すると小さな書のように見えますが、わたくし(牧師のもりでございます)神学生時代から大切にして来たものです。

 

新潟県妙高市にある新井教会(兼務教会)在任中に、清水先生の奥さま、お嬢さん、そのお子さん方が礼拝に出席して下さって、とても楽しいひとときを過ごしたことを思い出します。

 

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旭東教会の祈祷会では、普段は詩編の学びをコツコツと続けております。現在64篇まで進みました。

 

が、この5月からは『イエスさまのたとえ話』に取りあげられている〈譬え話〉を順番に読み始めたのです。全部で18話あります。詩編ばかりでは少しバランスも悪いかな、と思ったりもしました。

 

そして、入門間もない方にとって、福音書はやはり親しんで頂きたい大切なもの。

 

そこで、名づけてという程ではございませんが、「福音書を読む祈祷会」を毎月最初の木曜日に行うことに致しました。

 

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これまで「羊飼いのよろこび」(ルカ福音書15:1~7)「種まきの結実」(マルコ福音書4:2~20)と私なりに準備をし皆で聖書を味読しました。

 

ところが、今週は十分な準備ができない状態が勃発。しどろもどろで薄っぺらい何かを語るよりも、思いきって、清水恵三先生のご本そのものを皆さんにコピーして配り、少しずつ解説、という仕方をとったのです。

 

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蓋を開けてみて気付いたことがありました。

 

清水恵三先生のご本の内容。実に素晴らしい!

 

私が1989年に神学校入学を目指し、東京銀座の教文館の書棚で見つけたのがこの本でした。

 

過去問題に、「イエスの譬え話について あなたの知る所を述べなさい」という一見するとやさしそうに見える問題があったのです。

 

おそらくこれ、川島貞雄先生という新約学の大家がつくられた問題です。川島貞雄先生は、わたしの入学直前まで、日本聖書神学校で教鞭をとって居られた方です。

 

あまりに出来の悪い受験生たちに頭を抱え、何とかお情けででも入学出来るように、少しでも答えられそうな問題を、と考えて下さったのだろうと想像します。

 

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この度は、素晴らしい!と感じた本に違いありません。

 

でも、初めて、清水恵三先生の『イエスさまのたとえ話』を買ってきて、東京は練馬区桜台の6畳ひと間のアパートで読みはじめてしばらくすると、わたしはひどく落ち込みました。

 

この本。教文館のあの膨大な本棚の中で、一番わかりやすいと思って買ってきたはずなのに、「俺にはどれも、ようわからん」と音を上げてしまったのです。

 

その中でも、一番易しそうにみえた譬え話を頭にたたき込み、もしも譬え話の問題が出たら、自分なりに答案書きすることが出来るようにして入試に臨んだのです。

 

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アパートで落ち込んでからおよそ30年が経過。牧師になってからもだいぶ時間が過ぎました。

 

この度、あらためて読んでみたのですが、感触としては、やっぱり一読してわかるものではない、と思ってしまいました。

 

うーん、これは、信徒の皆さんにはだいぶハードルが高いのではと心配になりました。でも、時間がない。

 

木曜日の朝、コピー機の前にたち、10時からの祈祷会に臨んだ、という次第です。

 

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わたくしも、だいぶ図々しくなったのかも知れませんが、清水恵三先生のご本を、少し読んでは解説。少し寄り道、気付いたことを語る、ということをしながら学びの時を持ちました。

 

結果、これがよかったのです。わたしも楽しいし(牧師がたのしんでないと皆さんも退屈になります)、好評でした。

 

わたしにとっても発見することが多かったのはもちろんの事、信徒の皆さんも、たぶんお宅でひとりで読んでも、ほとんど頭に残らなかったのではないか、と思います。

 

ですので、わたしの付け焼き刃の解説でも、少しはお役にたったかも知れません。

 

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何より感銘を受けたのは、清水恵三先生の存在の分厚さというのか、奥行きの深い解説、論述です。

 

本当にこの本、並大抵の内容ではございません。

 

清水恵三先生は、農村伝道神学校の教師もなさった方ですので、農業に造詣が深いというのか、「麦と毒麦」のみ言葉を読み解くにしても、農作業のご経験からの言葉が、いちいち深いのです。

 

お勉強しましたよ、ではないのが直ぐに分かる。マイリマシタ、はい。

 

そして有難かった。

 

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教会に限らずですが、読書会というのを耳にすることがあります。そうです、この度の祈祷会、もしかするとその読書会に近い感じの時間になったかも知れません。

 

あるいは、大学などの聖書学のゼミナールの雰囲気もありました。

 

何しろ、単なる信仰の書のレベルを超えて、様々なコンテキスト(一般に文脈とも言います)と呼ばれるものにやさしく触れていたり、福音書記者やわれわれの生活の座そのものも、ごく自然に考えさせて下さる。

 

こういうことが自然に出来るのは珍しいことだと思います。だいたい、何かしら鼻につくものがあったり、心には何も届かない研究書というものが多いのです。

 

でも、このご本。違います。太鼓判を押せるなと思います。

 

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と言うことで、わたくし、次回からはもう無駄な抵抗は止めて、清水恵三先生の『イエスさまのたとえ話』を毎回みなさんで読み進めることに致します。

 

だいたい、月初めに行うのですが、感想を語って下さった教会のメンバーも、「教会のこの時間に皆で読むのなら、このほかの箇所も読んでみたい」という主旨の言葉を口にしておられたと思います。

 

信仰生活の長い方でも、「もしも自宅で、独りで読んでいたら、自分にはわからなかったと思います」と言われていました。

 

たぶんそうだろうと思います。

 

先生役のわたしですら、全くその通り、アーメンと感じます。

 

やっぱり、教会という場で、ふさわしい状況をつくって皆で学ぶって、あらためて楽しいなと実感いたしました。

 

しかも、あちらこちらへの寄り道を皆でできるのも心地よいものです。結果的にそのほうが、大切なことも心に残るのです。

 

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この度の経験。これもまた、神さまからのお導きに違いありません。

 

こういう学び方もあるのだよ、力むことなく、良書を用い、みんなで楽しく学びを深めるのもよいもの。そう気付かせて頂き心から感謝しています。

 

あなたも、ぜひ一度、旭東教会の木曜日の朝10時、夕方は19時半からの祈祷会。ご一緒して下さい。心よりお待ちしています。end