2017年7月22日(土)№ 125『 FEBCを聴いてくださった皆さんへ 』

少し前ですが、2017年4月2日(日)洗礼式が行われた日曜日のひとこま 珍しく牧師の写真をupします。
少し前ですが、2017年4月2日(日)洗礼式が行われた日曜日のひとこま 珍しく牧師の写真をupします。

こんにちは 旭東教会のホームページの「Blog・教会日記」をお訪ねくださりありがとうございます。

 

初めましての方も少し居られるかなと思います。そして、いつもお訪ねくださる方にも、感謝を申し上げます。

 

旭東教会のある岡山市東区の西大寺(昔は西大寺市でした)でも恒例の花火大会が7月15日(土)に終わり、いよいよ夏本番です。

 

旭東教会版の夏祭りとも言える、《ミニサマーフェスティバル》が7月23日(日)に予定されています。ご案内が少し遅くなってしまいました。

 

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さてさて、本題に入ります。

 

2017年1月29日(日)の朝、旭東教会の礼拝が収録されました、FEBC・キリスト教放送局の放送が、いよいよ、7月23日(日)の夜9時半からとなりました。

 

この「Blog・教会日記」。一人でもご一緒して頂ける方が居られたり、あるいは、放送後にお聴き下さったが居てくだされば幸いです。

 

ご存じかも知れませんが、FEBCキリスト教放送局はラジオではAM1566 キロヘルツでお聴き頂けます。今はインターネットで聴けますが、昔はラジオ放送だけでした。

 

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インターネット全盛の時代とも言える今、2月10日(金)からのWEBサイトからの放送の時には明確に気付かなかったことがあります。ほんとに鈍感です。

 

それは、日曜日のラジオ放送を心待ちにしてくださっている方々が、全国各地に居られるのだなぁということです。

 

想像ですが、インターネットにアクセスしにくい方というのは、ご高齢の方々がまず考えられます。旭東教会でもインターネットには無縁の方々が半数以上居られますから。

 

それから、病床などでお過ごしの方たちも、そうだろうなと思います。そもそも、ラジオだけが頼りの方には、このホームページご覧頂けませんが、それでも、何かしらのお役に立てればと思い記しています。

 

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わたくし(牧師のもりでございます)も、30数年前、東京都練馬区桜台という町の、6畳ひと間のアパートで、FEBCの電波を頼りに、窓辺で耳と心をを傾けていた頃があります。

 

なかなか電波が安定しなくて苦労しました。でも、ほんとうに楽しみにしていました。身体の調子が悪く、外にも出て行くのが難しい頃でもあったからです。

 

当時はまだカセットテープの時代でしたから、これはと思う番組が収録されたものを購入して聴いたりもしました。大いに支えられました。

 

熊澤義宣先生のヨハネによる福音書のお話には、伝道者になってしばらくの間も、教えられること多く、聴き続けていたものです。

 

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わたし自身が伝道者として歩み出す切っ掛けを与えられたのは、病床にある方々に福音をなんとしても届けたい、そういう思いからだったことを今思い起こします。

 

何をどうしてよいのか分からないままに、不思議な形で教会に導かれていったわたしですが、FEBCはそのようなわたしを側面から支え導いてくれた本当に大切な、神さまの備えられた器なのです。

 

いいえ、目には見えないけれど確かに存在する教会でした。

 

当時はインターネットも当然ない頃でしたから、昔の自分を思いながら、ラジオ放送を心待ちにして居られる方々のことを思うと、この度の放送が、主にあって用いられることの貴さ、重さを思わざるを得ません。

 

 

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以下は、旭東教会の直接の紹介ではありません。

 

でも、牧師として歩み続けておりますわたし自身の自己紹介の一助になるかも知れないと思います。そこで、2014年6月号の『信徒の友 神に呼ばれて』への原稿執筆を依頼されたものの〈編集者の手が入る前のオリジナル〉の一部をアップロードいたします。

 

あー、旭東教会には、こんな牧師が居るのだなぁ、と思って頂ければそれだけでも幸いです。今でも、「神に呼ばれて」に記したことは、伝道・牧会の原点としてたいせつにしております。

 

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      『信徒の友 〈神に呼ばれて〉 2014年6月号』より
                                                               前半部抜粋

      「 力は弱さの中でこそ 人生の転機となった病床洗礼 」

 

 私の故郷は大分県大分市の大在という浜辺の村です。父が毎朝食卓でブツブツと祈る姿を見たり、祖父が母屋の縁側で讃美歌をひとり歌い、家族で現在の大分東教会の開拓伝道に協力する環境の中で育ちました。

 

 「言一郎」(げんいちろう)という名がヨハネ福音書の「初めに言があった」によるものと教えられていましたので、自分の立ち帰るべき所は幼い頃から心に刻まれていたようです。

 

 30年前、23歳で就職した会社のオフィスは東京駅八重洲口の真ん前にありました。1年目の秋、営業マンとして勤め先から有楽町方面を歩いていると、カラーンカラーンと鳴り響く鐘の音が聞こえて来ました。

 

 銀座教会の正午礼拝の始まりを告げる「銀座の鐘」でした。最初は教会が行っていた福音会英語学校ビジネス英会話のクラスに入学しました。クリスマス会などを経て、いつしか礼拝に通い始めたのです。

 

 時期を同じくして、私は著しい体調不良を覚えるようになります。母子感染による慢性型肝炎を既に発症していたのです。今では特効薬として知られる薬(インターフェロン)が、まだ入院先の大学病院で試しに使われる時代でした。

 

 2ヶ月の入院、職場への復帰、また入院を繰り返す生活が3年ほど続きました。その後も病のコントロールが難しい状態は続きました。体力もなく、仕事も失い、身を置く場所は教会だけと感じる日々でした。しかし当時の私にとって、教会の存在そのものが救いとなっていたのです。

 

 1987年4月のイースターに私は洗礼を受ける準備をしていましたが、入院の為かなわず、後日、東京の下町にある病室のベッドの上で受洗しました。この病床洗礼が私の人生を方向付ける転機となります。

 

 そこで与えられたのは視座の変化で、言い換えるならば方向転換であり悔い改めでした。主治医がベッドの傍らに腰掛け同じ目線で語りかけて下さる時、主イエスの眼差しに通じる何かを感じ始めていたのです。

 

 あまりに単純な考え方かも知れませんが、やがて私は死を迎えたとしても悔いのない人生を送りたいと願うようになります。「主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。」(使徒言行録20:24)。そんな熱い思いを抱き始めていました。

 

 ある日、勇気を出して牧師に相談しました。すると牧師は「それは召命です」と言われました。しかし、帰り道に私の頭の中に思い浮かんでいたのは「照明」という文字でした。恥ずかしながらその頃の私は「召命」という言葉を知らなかったのです。

 

 やがて私は神学校に入学します。病を抱えていた私の献身は、客観的に見れば無謀なものだったかも知れません。

 

 しかし、神学校を卒業してから既に20年以上が経過した今も、私は牧師として仕え続けています。10数年前に肝炎完治の宣言を受け、今では定期検診だけで十分となりました。

 

 私は病床伝道を志して歩みだした者です。それゆえでしょうか。折々に召命の原点に立ち帰るようにと促されることが起こりました。寄る辺ない病の方との出会いも多くありました。

 

 8年程前、私はストレス障害からの不眠とうつを経験し、苦悩の中、現場を離れました。回り道、挫折としか思えないような全ての道が、今の伝道牧会の日々へと繋がっているのを感じています。(以下略)

 

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いつもとは違う「Blog・教会日記」となりましたが、よろしければ、どうぞ、いつでも、わたしたち旭東教会にお気軽にお越しください。

 

一同、心よりお待ちいたしております。きっと、安心して居場所を見つけることが出来るのではないか、と思いますし、いつも、そのような教会になれるようにと願い、教会の『週報』に掲げてお祈りいたしております。

 

ごきげんよう。end