2017年2月10日(金) № 102 『 考えさせられた礼拝式順など 』

2017年2月5日(日)のジュニアサークル礼拝にて 大人の礼拝(主日礼拝)でも紙芝居や絵画はしばしば説教で出てくるのが旭東教会です(^^♪
2017年2月5日(日)のジュニアサークル礼拝にて 大人の礼拝(主日礼拝)でも紙芝居や絵画はしばしば説教で出てくるのが旭東教会です(^^♪

こんにちは、旭東教会牧師のもりでございます。

 

わたしが神学校で学んだのは1989年からのことでした。もう四半世紀以上前のことになります。

 

日本聖書神学校という東京山手線の目白駅を降りて、徒歩10分程の今では貴重な夜間の神学校で学びました。

 

もちろん、今もあります。都会なのに、小さな森が残っているのです。寺子屋のような素敵な学校です。

 

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入学願書とか、過去問があるのならば、と思いながら、始めて神学校の庭に足を踏み入れたときのドキドキ感は今でも忘れられません。たぶん、1988年の12月頃の事。

 

今でも思い出せるF先輩から案内された日を忘れられません。神学校=修道院のようなイメージというか先入観を抱いていたうぶな青年でしたから、Fさんも修道士にしか見えませんでした。

 

入学後の現実はだいぶ違いがありましたけれども、決して失望したわけではありません。素晴らしい4年間でした。

 

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今振り返って見ると、当時の神学校の教授陣は、わたしにはもったいないような先生方が大勢居られて、それ以後も、大げさではなく、計り知れない程の影響を受けた先生方ばかりです。

 

全部が理解できた等とは決して言えないですし、厳しい講義も多々ありました。でも、若かったこともあると思いますが、毎日毎日、教えて頂くことが新鮮でした。目から鱗の連続でした。

 

先輩方、同級生、そして後輩の方たちとの切磋琢磨も大いに勉強になったものです。

 

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そんな中、キリスト教教育や、礼拝学、実践神学特講などの講義を担当されたのが今橋朗(あきら)先生でした。今橋先生には、神学校卒業後も、各地の教会にお出で頂き応援して頂いたものです。

 

そして、嘘偽りなく、これほど多くの良き感化を、同じ学び舎の神学生達、いえいえそれどころか、日本の教会に与え続けた方は居られないのでは、と思うのが今橋先生です。

 

つい最近、『アレテイア』(日本キリスト教団出版局)という季刊誌の「牧会者のポートレイト」という欄に、今橋先生のあとを継ぐようにして、横浜・蒔田(まいた)教会の牧師となられ、現在、日本聖書神学校教授をされている古谷正仁先生の書かれた記事がありました。

 

古谷先生、2016年7月末に旭東教会にお出で下さったあの先生です。それに依れば、今橋先生は1931年・昭和6年生まれですから、わたしの亡き母と同じ歳の方でした。

 

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今橋朗先生には、「語録」と呼ばれるものがあると聴いています。それがまとめられたノートも、今橋門下の先生方(昔の神学生)にはあるらしいのです。

 

が、ここでは、礼拝学の講義で教えて頂いたことをご紹介し、最近出席した、とある宣教についての協議会でのお話に触れてみようと思います。

 

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今回、ここでご紹介したい今橋朗先生のことばはこれです。

 

「マルティン・ルターの宗教改革は礼拝改革です。そして、教会は礼拝によってしか変わりません」

 

どのような文脈で語られたのかは、はっきりとした記憶はありません。礼拝学の単位修得後の次年度もモグリで出席させて頂いた、今でも大切にしているノートも含めて見直さなければわかりませんが、今橋先生、間違いなくこういう意味のことばを語られました。

 

或いは、語り続けていたかも知れません。そして、講義でこのことばに触れた時、興奮しながら、「そうかぁ、そういうことだったのかぁ」としみじみ思ったものです。

 

詳細を論じること等もちろんここではできませんが、キリスト教会の根幹にあるのは礼拝。それはいつの時代でも変わりありません。礼拝がないキリスト教会はあり得ないのですから。

 

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2月13日(月)の午後、岡山県内のとある教会の先生の、礼拝と音楽に関する講演がありました。正式題名は違いますが、決して外れていないと思います。

 

とりわけ驚きを覚えたのは、その先生の教会(複数の教職の居られる教会です)での礼拝を巡る誠実な取り組みでした。

 

実は内容的には、まったく始めて聴く話ではありませんでしたが、礼拝順序を説明されるその式順は、おそらく、日本基督教団の1700ほどある教会・伝道所のどこにも見られないような構成だったのです。

 

そちらの教会、この一年で受洗者が6名、さらに二ヵ月後のイースターには2名の洗礼志願者が居られるとのこと。伝道がなかなかむつかしいこの時代において、画期的な素晴らしい話題です。

 

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礼拝では、テゼ共同体の賛美を最初に何曲か繰り返して歌うそうです。歌詞が短く素朴なものとして広く知られているのがテゼの讃美歌です。

 

『聖歌』と名付けて、ご自身で翻訳された薄型の聖歌集を作っているのを歌ったことがわたしもあります。

 

その後、聖書朗読・説教と続きますが説教は15分と決まっているそうです。

 

礼拝の中心はまだ来ていない、と先生は仰いました。何と、教会は祈りが真ん中にあるべきである、ということで、沈黙の祈りが礼拝のど真ん中に置かれていて、確か、5分間の瞑想の時をもつと言われたと思います。

 

そして、その後、我々が使っている『讃美歌21』からの賛美が数曲あり、礼拝は閉じられます。

 

5年近く前からそのような礼拝順序になったそうですが、それまでも準備を重ねられ、そして今に至っているとのこと。

 

今では、礼拝堂で私語が聞こえることは皆無の教会になったそうです。教会は祈りの場であるということが浸透した、ということでしょう。

 

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旭東教会はその対極の方向にあるかも知れません。礼拝開始を告げる鐘が鳴る頃には静まりますが、それまでは、明るい挨拶が元気に交わされます。

 

説教だって、みっちり40分程語ることの多いわたしです。今日からFEBCで放送が始まった、先の礼拝説教ですら、編集作業を経て少し短くなっても、祈りも含めて〈25分37秒〉でした。

 

普段の礼拝で、15分の説教は、余程の事情がなければ今のところわたしたちには考えられません。

 

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真似したいということでもありません。取り入れられる部分が多少はあるかも知れませんが。

 

しかし、一番の驚きは、今橋朗先生の礼拝学の講義で語られたことばと、ぴたっと重なる現実がそこで証しされているからです。

 

「マルティン・ルターの宗教改革は礼拝改革です。そして、教会は礼拝によってしか変わりません」

 

結果的にはこれを実践し始めている教会の礼拝の様子、そして、宣教の一端が語られたのでした。

 

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つい最近地元の本屋さんで立ち読みしたビジネス書がありました。確かその本、以前も気になって読んだものだったと思います。

 

この間の日曜日もいつのまにかその本を手にし、考えていたのです。

 

じぃっと立ち止まったのは、〈企業が生き延びていける道があるとしたら、それはただ一つ、変わり続けることができるかどうかにかかっている〉という意味のことが書かれているページでした。

 

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キリスト教で永遠に変わらないのはイエス・キリストです。そして、もう一つ、聖書ではないでしょうか。

 

賛美歌だって、「主に向かって新しい歌を歌え!」と詩編に出てきます。実際、賛美は変遷があります。そして、礼拝だってそうなのです。

 

無理矢理変わる必要もありません。しかし、変わって行ってもいいのが礼拝、というのは間違いないと思います。

 

アフリカ、台湾、ブラジル等など、元気の良い豊かな礼拝が捧げられていると聞きます。わたしたち、よその国どころか、そう遠くないところにある教会の様子すら、余りに知らなすぎるのかもしれません。

 

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とても刺激を受けた1時間半の講演でした。多分、同席していた同労の仲間たちも、その後、あれこれと考えているのではないかと思います。

 

わたしが岡山に北海道から転任してくる途中、日曜日の礼拝に出席させて頂いた、茨城県の竜ケ崎教会の礼拝も本当に目から鱗の豊かな礼拝でした。

 

わたしたちの礼拝も決して貧弱ではないと思いますが、新しい福音宣教の道を求めるためには、自分好みではなく、主が願われ、良しとされる方向に変わって行くことも大いに必要なのかも知れない。

そんなことを考えるこの頃であります。

 

どうぞ、いつでも、どなたでも、わたしたち旭東教会の日曜日の礼拝にご一緒して下さい。心よりお待ちしています。神さまからの霊に導かれて、真に自由で豊かな礼拝をご一緒に創造してまいりましょう!end