2016年8月12日(金) № 77 『 戦争と平和を語り伝えるということ ~91歳光子さんと共に~ 』

2016年8月7日(日)は平和聖日でした。礼拝報告時、光子さんを真ん中にお迎えし、戦争の時代についてインタビューをしました。
2016年8月7日(日)は平和聖日でした。礼拝報告時、光子さんを真ん中にお迎えし、戦争の時代についてインタビューをしました。

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戦争と平和を語り伝えるということ ~91歳光子さんと共に~


 旭東教会では8月7日(日)《平和聖日礼拝》の報告の時間に、〈〇〇光子姉に戦時下のインタビュー〉を計画。

 

光子さんは、1925年・大正14年9月1日生まれですから間もなく91歳。この時点では90歳でいらっしゃいますが、少しおまけ?です。大東亜戦争・太平洋戦争の時代、東洋一の軍港広島県呉市で女学校時代を過ごされた光子さんからお話をお聴きしたインタビューアーは、わたくし牧師の森でした。

 

この日の準備のために、前週の半ばの朝、2時間程かけて事前にお話を伺い、少なくともわたしの頭の中には光子さんの〈あの頃〉の歩みはおぼろに浮かぶ状態ではありました。

 

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インタビューを行った光子さんの写真を教会の女性カメラマンさんが幾枚も撮っていてくれました。その日の夜、教会ホームページにアップロードする準備の作業を兼ねて一日を振り返ってる時に、はた、と気づいたことがありました。そして少し心配になりました。

 

光子さんにとって、皆さんの前で言葉を紡ぎ出すことって、大仕事だったのだなぁ、と。

 

インタビューのさいごの方には光子さんの笑顔があります。ほっとタイムでも、笑顔が見えます。でも、写真を見るまで気がつきませんでした。少し心苦しくなりました。翌朝、お嬢さんの安佐子さんにメールを送りました。

 

「お母さま、お疲れになっているのではと心配しています」
「大丈夫、母は守られています」

 

ほっとしました。

 

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光子さんのお隣に座らせて頂きマイクを差し出す時にも、微妙に、いえいえ、はっきりと感じていたのは、光子さんが会衆席の方にお顔を上げられないことでした。

 

光子さんご自身でピンマイクを持っておられましたが、そのマイクも口元からすーっと離れがち。

 

慎み深いお人柄。もちろん、それも本当です。でも、その光子さんたちにしか分からない感覚がどうやらあるのです。経験された方でなければわからないことが・・・。

 

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わたくし、昭和35年生まれ、西暦で言うと1960年の11月生まれです。戦争が終わったのは昭和20年8月15日。

戦後15年経過して生まれたわたしが育ったのは大分市の大在というのどかな村でした。

 

よく遊びに行ったのは仲良しの、たかゆきちゃん、あだち君の家がある平野(ひらの)地区でした。自転車を息を弾ませて10数分。毎日のように遊びに行ったものです。

 

缶蹴りをしたり、鬼ごっこ、パッチン(めんこ)、ビーロン(ビー玉)で遊んだり、キャッチボールをしたりと遊びも盛りだくさん。

 

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ただ、平野(ひらの)地区には、通りがかると、世界が変わる空間がありました。そこには防空壕が何本か掘られていたのです。ただそれだけのことです。

 

でも、こども心には、そこに身を寄せ合って空襲を逃れる人たちが居たとか、B29からの爆弾を逃れるための穴だった、などと考えることは出来ませんでした。入口付近には草が茂っていました。足を踏み入れることも、踏み入れたいとも思いませんでした。

 

「ボウクウゴウ」だと思いながら前を自転車で通り過ぎていました。

 

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今現在からさかのぼって15年前の自分は何をしていただろうか。このブログをお読みになっている皆さんは数分もあれば思い出せますか?2001年頃のことです。

 

主人が定年を前にして、息子が、娘が結婚して、初めての孫が生まれて・・・・・・でしょうか。いずれにしても、ついこの間のはずです。わたくしも、あー、あの頃はあの教会で仕え、乗っていた車がよく故障したとか、直ぐに思い起こせます。

 

でも、たった15年前に終わったばかりのはずの戦争。そのきな臭さとか、敗戦を通しての悲しみや呻きというものを、両親や祖父母からも真っ正面から聴くことはなかったのです。

 

おやじもおふくろも、おじいちゃん、おばあちゃんは、なぜ、なにも語らなかったのだろうか、と思うのです。思い出したくなかったのかも知れません。いいえ、少し話をしてくれても、わたしの心には残らなかったのか。

 

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光子さん。昭和2年4月1日生まれのわたくしの父よりほんの少しお姉さんです。母は昭和6年生まれですから少し大きなお姉さん。

 

小さなお身体が、初めて出会った頃より、一層ちいさくなってきのではと思います。が、日曜毎の礼拝、そして祈祷会に来るのを楽しみにして居られます。教会では一番小さいけれど、重くてたいせつな存在です。

 

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光子さんの人生91年。折り返し地点は二で割れば45歳頃になるのです。光子さん仰いました。中心点はどの辺りか。

 

「戦争の頃、呉の女学校時代です」と。

 

以下、少し、光子さんのお話をご紹介。

■戦艦大和をはじめ、多くの戦争関連の船舶が造船された呉港。男の人の姿ばかりだった。日本の各地から集められた、或いは、働きに来た方々がいっぱいでした。

 

■朝方、山の手から一斉に港の造船所に向かって降りて行く靴音で目が覚めました。

 

■ぞうすいを皆でよく食べました。雑炊がおいしかった。

 

■港には女学生たちが揃って戦禍から遺骨となって帰って来られた方々を迎えました。

■父親代わりのおじさんが、息子さんの出征の折りに呉にやって来て、戦地に送り出し、代わりに京都に連れて行ってくれました。そこでは、もんぺ作りに女学生たちは励んでいました。

 

■疎開先の京都から呉に向かう途中、空襲警報がなり始めると汽車が何度も停まりました。そして、飛び降りては身を隠すことを繰り返しました。

 

■やなぎごうり(柳行李)に、父と母の写真を入れて逃げたのです。そのおかげで、今でもその写真を見ることが出来ます。※【柳行李】を調べて見ました
 行李(=こうり)とは、柳(やなぎ)や竹で編(あ)んだ箱形(はこがた)の入れ物のこと。昔はおもに旅行や引っ越しの時に、荷物を入れて運搬するのに用いられた。今でも衣類の保管などに使われる。

どれも、明るいお顔で、朗らかにお話できるような話であるはずがありません。

 

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ただ、そんな中で、イエスさまとの出会いがあったのです。

 

前述の、京都在住の父親代わりのおじさまが、素晴らしい宣教師との出会いを経てクリスチャンだった。そのことゆえに、光子さんの一番多感な頃に、京都で、聖書、イエスさまに出会う機会を準備して下さったことも語られました。

 

あの経験があるから、あの苦労があるから、どんなことがあっても大丈夫。そう仰る光子さんでした。

 

戦後、おばさまを頼りにして岡山は旭東教会が立つ西大寺に移り住まれた光子さん。ご結婚され、その後、三人のお嬢さん、二人のご子息に恵まれます。妻として、母として、クリスチャンとして懸命に歩み続けられた光子さん。

 

そのお顔が笑顔に変わったのは一つのエピソードを語られる時でした。戦争、特に、空襲を経験されたがゆえなのですが、こう語られました。

 

        ―  ご自身、笑い出すのをこらえるように、お顔を、ふたつの 小さな 手のひらで隠し、しばらくうつむいたのち ―

 

「いつでも逃げ出せるように、荷物を一つまとめていました」

 

ご家族とのたくさんのご苦労はあっても、主の慈しみにゆえの恵みの日々があったのですね。そして、わたしたち旭東教会の一員として、この時代を生き抜いて来られた。

 

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光子さん。この度は、貴重なお話を聴かせて頂き、本当にありがとうございました。

 

聴かせて頂いたわたしたち、心から感謝です。そしてまた、このブログを通して、そのひとかけらでも、伝わる何かがあることと思います。お元気でいらして下さい。

 

これからもイエスさまに従う平和をつくり出す道をご一緒いたしましょう。end