《  み言葉 余滴  》 礼拝説教の中の一滴をあなたへ


《み言葉"余滴"》は礼拝説教の要約ではありません。説教とは別の角度からの視点でお届けするみ言葉を読んで黙想するためのものです。語られた説教は、「礼拝音声メッセージブログ・西大寺の風」にてお聴きになれます。お覚え下さい。古いものについては容量の都合で随時削除しています。


2018年1月7日(日) 年の始めの礼拝堂 献花です
2018年1月7日(日) 年の始めの礼拝堂 献花です

          《  み言葉 余滴  》 136

      2018年1月7  主日礼拝からの"余滴" 

       『  アブラハム その選びの意味  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 25章23節~26節
23 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる。」24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。

 

ヤコブという人物は聖書の民の歴史を考える上で、絶対に欠かすことの出来ない人です。

 

あのモーセが神さまのご用のために召し出される時、神さまはモーセに対する「自己紹介」でこう語られたのです。【わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。】(出エジプト記3:6)と。

 

ヤコブは創世記33章29節で「イスラエル」という名前に神さまによって改名されます。

 

意外かも知れませんが、聖書の中で「イスラエル」という語が出てくるのはその時が最初です。もしかすると史上初かも知れません。そして、ヤコブの名前を知らない現代人でも、〈紛争が続く国・中東のイスラエル〉としてならば、ニュースでしばしばその名を聞いているのです。

 

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さぞかし、ヤコブは立派な人なのだろう、と思って聖書を読み始めると見事に裏切られます。

 

創世記25章に登場するヤコブはずる賢い人です。双子の兄であるエサウの性格を知り尽くしていた彼は、狩りから帰って来た兄の空腹に乗じ、兄に約束されていた〈長子の権利〉を奪い取ります。

 

さらに、それに勝るとも劣らない謀略が、続く創世記27章でも実行されます。母リベカから助言を受けたヤコブは母親の入れ知恵通りに実行します。

 

長兄エサウに約束されていた〈祝福〉を得るために兄になりすまし、目の見えなくなった年老いた父イサクを騙し、まんまと〈祝福〉を奪い取るのです。

 

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そもそも、ヤコブという名前には「足を引っ張る」という意味があります。【その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。】(創世記26:26)とある通りです。

 

ヤコブとは果たして何者なのかを考えてみましょう。神さまは彼のような人間をお選びになるのです。神はヤコブを愛しておられるのです。それは、神さまが〈罪人〉をお選びになり、器として用いられるということです。

 

そんな馬鹿なことがあるのか、と思いますが、それが事実です。ペトロにせよ、パウロにせよ、罪人の中の罪人であることを思い起こします。

 

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もっとも、ヤコブがこれから歩んで行く道はそう簡単なものではありません。

 

ヤコブは逃亡せざるを得なくなりますし、意地悪もされます、神と格闘もします。しかし見方を変えると、それは訓練なのかも知れません。生まれながら、兄の足を引っ張るひどいヤツが変えられて行くのです。

 

神さまは実に自由なお方で、人には計り知れない大きなご計画をお持ちです。ヤコブを愛される神は、私たちと共に在ろうとして下さるお方でもあります。そうです。私たちも愛されている。私たちも何かから逃亡することもありますが、そんな私たちを必要として下さる。これこそ福音です。

  

救い主であるイエスさまは仰いました。【あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。】(ヨハネ福音書15:16)と。end

 

 


2017年12月31日(日) 大晦日の礼拝にて スクリーン投写はジュニアサークルの「モーセ物語」
2017年12月31日(日) 大晦日の礼拝にて スクリーン投写はジュニアサークルの「モーセ物語」

          《  み言葉 余滴  》 135

      2017年12月31  主日礼拝からの"余滴" 

       『  愚か者をおわりまで貫く生き方  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 2章13節~15節
13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 

イエスの母マリアに比べて印象の薄い感のあるのが父ヨセフです。彼は大工さんでした。

 

マタイによる福音書13章55節に【この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。】とあります。

 

私は教会のさまざまな場で、大工さんと出会うとがありましたが、いつもどこかに親しみを覚えて来ました。おそらくヨセフだけではなく、イエスさまが父親の元で成長し、宣教の開始までの間、ナザレの地において、大工さんとして働いていたことが想像できるからかも知れません。

 

ヨセフの発した言葉は聖書には記録されていません。彼は無言を貫くのです。おそらくマタイは、そんなヨセフの姿を通して、メッセージを託しているのです。冗舌は程々に。主の言葉に黙って従ってご覧なさいという促しです。

 

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神さまからのメッセージがヨセフに伝えられるのはいつも夢の中でのことでした。しかも、主の天使が必ず登場します。

 

ヨセフの立場で考え、少し自由に思い巡らしてみるならば、彼は夢にみ使いが現れることを楽しみにしていったのではないだろうかと思います。

 

ヨセフはみ使いが去って行ったのち、「眠りから覚め」「起きる」のですが、マタイはそこで「甦り」「復活」と同じ言葉を敢えて使っています。

 

ヨセフはいつもムクッと起き上がるのです。そこにも福音が秘められています。ヨセフはみ使いの言葉を聴いて、眠りから起き上がるときに、いつも、新しい人として歩み続けていったのです。

 

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エジプトへのマリアと幼子イエスを連れての避難の旅路は、私たちの想像を遥かに超える困難なものだったはずです。移動の手段に車を使うことができる現代とは異なります。しかも、エジプトに出掛けたところで、彼らを守ってくれるという保証があったわけではありません。

 

しかし、ヨセフは黙って従いました。この並大抵ではないほど苦労の多い旅路は、イスラエルの民が40年間さまよった荒野の行軍=出エジプトの記憶に重なるものでした。

 

出エジプトの民はつぶやき嘆きましたが、ヨセフはあることを支えとして、それを忍耐・練達・希望に変えたのです。

 

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ヨセフが頼りにしたのは神さまの約束の言葉でしたが、明確な徴として与えられていたのは、幼子イエスの存在そのものでした。

 

彼らは、幼子をしっかりと胸に抱きしめ、その命と一つになっていったのです。結果的に彼らは、救いのみ言葉=キリストを抱きしめる旅を続けました。

 

み言葉は頼りないものに感じることが多いのです。

 

しかし私たちは、たとえ馬鹿だと言われても信頼し続けましょう。パウロが語ったように、【十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力】(第一コリント書1:18)なのですから。end 

 

 



2017年12月24日(日) クリスマスイブ賛美礼拝でのアドヴェントクランツの灯です。素敵です。
2017年12月24日(日) クリスマスイブ賛美礼拝でのアドヴェントクランツの灯です。素敵です。

          《  み言葉 余滴  》 134

      2017年12月24  主日礼拝からの"余滴" 

       『  無口な男を支えた永遠の言葉  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 1章22節~25節
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

正しい人ヨセフ。聖書はヨセフについてそう伝えます。

 

【正しい人】(マタイ 1:19)というのは、当時の社会では最大級のほめ言葉です。

 

『ケセン語訳聖書』の翻訳で知られる〈山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)先生〉による『ガリラヤのイェシュー』という「福音書」の翻訳ではこう紹介されています。

 

【おっととなるべきヨセフというお人はまことに侠気(おとこぎ)のある心やさしい男でござった】と。

 

少しヘソを曲げて考えるなら、融通がきかない人でもあるかも知れません。

 

でも、神さまはヨセフという人を通して私たちにメッセージを託すのです。

 

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まず、ヨセフはどんな時に神さまからのメッセージを伝えられたのかに注目します。それは深い眠りの中にいる時でした。

 

眠っていたというのは、人がもっとも無防備で、丸裸同然の状態だったことを意味します。

 

眠りの中にあったからでしょうか。ヨセフは言葉を発しません。でも夢にうなされるわけでもないのです。

 

いいえ、それでなくとも、まるで高倉健さんのように、無駄な言葉は口しない。彼は寡黙です。

 

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再び、山浦先生の『ガリラヤのイェシュー』を見てみました。

 

イエスの母マリアがみ使いガブリエルに対して、【わたくしはまだ男の方と枕を交わしたこともござりませぬ。それなのに、なぜそのようなことになるのでござりまするか?】(ルカ福音書 1:34)と語ったりしたのと比べると対照的です。

 

                    **************

 

確かに、人間にはこういう潔さも必要なのだなぁ、と教えられているようにも思えます。

 

あれやこれやの場面で、不平や不満、言葉数が多すぎるのが私たちですから、なおのことです。

 

でも、ちょっと立ち止まってみましょう。我々にとって、ヨセフは立派な人だったのだ、ということを知ることがここで一番大事なことなのでしょうか。

 

理不尽なこと、納得できないこと、苦しみ悩みをもすべて受け入れ抱えながら生きて行く事を見倣うことが、本当に福音に生きることなのでしょうか。

 

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私たち、とりわけクリスチャンの人生。勇気とか、時には思い切ってジャンプする、ということだけで何かを成し遂げられるほど甘いものではありません。

 

どんなことがあっても変わらないものが必要なのです。

 

『ペトロの手紙 一』の1章の終わりにあるみ言葉を思い起こします。

 

【「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。】

 

み使いを通じて約束された【インマヌエル=神我らと共に】の一語。

 

それがヨセフの生涯を支え続けました。

 

永遠、それは変わらないものなのです。end

 

 

 


2017年12月17日(日) アドヴェント第3主日のクランツ 礼拝堂の空調の関係か蜜蝋のローソクがとてもよく燃えます。
2017年12月17日(日) アドヴェント第3主日のクランツ 礼拝堂の空調の関係か蜜蝋のローソクがとてもよく燃えます。

          《  み言葉 余滴  》 133

      2017年12月17  主日礼拝からの"余滴" 

           『  新生の老人  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章67節~80節
67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。・・・・・・76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。・・・・・・80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

ザカリア。

 

その名前の意味は、新約聖書の舞台であるユダヤ地方で使われていたヘブライ語で「主は覚えていたもう」という意味です。

 

ザカリアは老人でした。もちろん、妻のエリサベトも。

 

しかし、神さまは、祭司であるザカリア、そして、妻の祈りを覚えていて下さいました。「わたしたちに祝福を。どうか、子どもを与えたまえ」。

 

当人たちが、そう祈っていたことすら忘れてしまってもなお、神さまはみ心に留めておられたのです。

 

                    **************

 

彼らはついに我が子を腕に抱きます。

 

それが、後に、イエスさまの先駆者として荒れ野に立つ、〈洗礼者・ヨハネ〉でした。祭司の家庭に生まれてくる子どもなのです。本来ならば、〈祭司・ヨハネ〉としてエルサレム神殿で聖職に仕えるようになることが周囲の人々の期待でもありました。

 

しかし、ザカリアは、彼らに与えられた幼子が生まれ来る理由について、み使いガブリエルからこう伝えられていました。

 

【1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。・・・・・・16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。】(ルカ福音書1:14以下)と。そのように伝えられていたザカリアはどうしたのでしょう。

 

                    **************

 

福音書を記したルカは、ザカリアとエリサベトの話を閉じるにあたり、さり気なくこう記しています。

 

【80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。】と。

 

何でもないことのように置かれているこの一節ですが、私はたいへん興味深いものだと思います。なぜならば、ザカリアとエリサベト夫妻は、彼らが胸に抱いたヨハネを、神さまのご用のために実質手放しているからです。

 

ザカリアはアビヤ組と呼ばれる伝統あるグループの祭司です。

 

人間、欲があります。自分勝手なところがあります。我が子を胸に抱いたならば「やっぱり、祭司として跡を継いでほしいなぁ」と考えても不思議ではありません。

 

ところが、ザカリアとエリサベトは、息子がエルサレム神殿の〈祭司・ヨハネ〉となることは望まず、主のみ心のままに育つことを求めていったのです。

 

                    **************

 

神のみ子イエス・キリストのご降誕に備えるアドヴェントの期節を生きる途上で、私たちに神さまが求められていることは何であるか。

 

それは、新しい人として歩み出すことなのです。昔ながらの言葉で言うならば〈悔い改め〉です。しかし、〈悔い改め〉では言葉足らずだな、と思います。

 

生き方の方向転換。人生の目標や目的の転換と言えます。

 

ザカリアとエリサベトにかかわる最後の描写が【80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。】です。

 

二人はヨハネを神さまに捧げ、我が子が荒野に進み出で、そこに立つことをみ心と信じたのです。

 

新しい人として生き始めるお手本がここにあります。新生の老人がここにおります。さぁ、私たちはどうしましょう。end

 


2017年12月14日(木)に開催された、DVDコンサート「メサイア」のチラシです。作者のお人柄ゆえ、目立たないところにこっそり貼られていてご紹介が遅れました。
2017年12月14日(木)に開催された、DVDコンサート「メサイア」のチラシです。作者のお人柄ゆえ、目立たないところにこっそり貼られていてご紹介が遅れました。

          《  み言葉 余滴  》 132

      2017年12月10  主日礼拝からの"余滴" 

        『  太鼓になった人 マリア  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章46節~48節、51節~53節
46 そこで、マリアは言った。47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、・・・51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

 

 

受胎告知の場面に続くのは「マリアの賛歌」です。

 

マリアは親戚のおばさん・エリサベトを訪問します。この時、既にエリサベトは老婦人です。洗礼者ヨハネの母となるために神さまが選ばれたおばあちゃんでした。

 

マリアの訪問。それは「ちょっと遊びに」というような滞在ではなく、【三ヶ月ほど】(ルカ1:56)の長期滞在です。

 

3ヶ月の間に、マリアはわが身に起こった不思議なことをエリサベトに聴いてもらいました。同時に、エリサベトの身に起こっている思いがけない出来事について確かに聴いたのです。

 

二人はその〈時〉を共有することによって、人知を越えた神のみ業が動き始めていることを実感。互いに安心し、感謝して励まし合うことができました。

 

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思いがけない妊娠をしたという点では、似た点のあるマリアとエリサベトですが、二人の生い立ちは全く違います。

 

マリアは無名の人です。出身地ナザレは旧約聖書に一度も出て来ません。エリサベトが【アロン家の娘のひとり】(ルカ1:5)と紹介されているのとは対照的です。

 

マリアがどんな生い立ちの娘であり、同じ村や周囲の人たちからどう評価されていたかについて、聖書はひと言も触れません。そこには意味があります。

 

救いのみ子を宿すその胎が、どこの誰だか分からない娘(=どこの「馬の骨とも知れぬ」ということ)に宿るという不思議。その事実を通して、キリストの福音の始まりを告げようとしているのです。

 

                    **************

 

マリアの賛歌には幾つものメッセージが込められています。

 

【身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったから】(ルカ1:48)という言葉からは、マリアが抱いている自画像が伝わってきます。

 

マリアは、自分が平凡で取るに足らない娘に過ぎないことを知っていましたし、この告白には、神の選びのみ業に対する深い喜びが秘められています。

 

                    **************

 

更に不思議なことがあります。まだ、10代だったであろう田舎の娘マリアが、当時の権力者をも恐れない歌を力強く歌うのです。

 

【主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・・】と。

 

新聞もラジオもない時代です。マリアが社会問題に特別な関心をもって育った娘なのかと言えばそんなことはあり得ません。でも、マリアは歌いました。

 

                      *************

 

マリアは自分の言いたいことを主張しているのではありません。彼女は神さまのお言葉を響き渡らせるための「太鼓」なのです。

 

神さまからの使命を託された器として、マリアは誠実に生き始めています。

 

【わたしの魂は主をあがめ】と歌い始めたマリア。

 

【あがめ】は拡声する為の道具、〈メガフォン〉と語源が同じです。私たちは、「太鼓」となったマリアの姿をただ眺めていてはなりません。

 

これは他人事(ひとごと)ではない。あなたも、神さまのみ心を響き渡らせる「太鼓」となることが求められ

ています。end

 

 


2017年12月3日(日)は待降節・アドヴェント第一主日でした。ロウソクに1本目の灯りがともされました(^^♪
2017年12月3日(日)は待降節・アドヴェント第一主日でした。ロウソクに1本目の灯りがともされました(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 131

      2017年12月3  主日礼拝からの"余滴" 

      『  神のみ業に乗った人 マリア  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章34節~38節 

34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

受胎告知の場面として知られる箇所です。世の多くの画家たちが何とかして描こうとした名場面と言えます。

 

この時のマリアはパニック起こす寸前だったかも知れません。神のみ使いガブリエルがマリアに伝えた内容は、あまりに突拍子もないものだったからです。

 

来たるべき晴れの日に、花嫁として大工のヨセフさんの元に嫁いでいく準備をしていたマリアにとって、み使いが運んで来たその話は、良き知らせどころか、スキャンダル以外のなにものでもありませんでした。

 

**************

 

天使ガブリエルが伝えた数多くの言葉、情報の中で、何としてでもマリアが応答、否、反論しておかなければならなかったことがあります。

 

それが、【どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。】という言葉にあらわれています。

 

これをわたし流に超(ちょう)・意訳するならば、「なんですってぇ。こっ、このわたしが、そんな話を受け入れられるわけないじゃないのよ。いったいあんたは何者。馬鹿も休み休みにしてちょうだい。いい加減にしてよ!」となります。

 

**************

 

そんなマリアに対して、天使ガブリエルは言いました。

 

【聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む】と。

 

マリアは間違いなく、そのひと言を耳にしました。そして受け入れてしまいます。

 

理解できたかといえば、理解できなかったと思います。マリアは納得したわけでもありません。それでもマリアは、神さまが備えられた道があることに気付き、自分自身の力は抜いて、神さまのご計画に身を委ねたのです。

 

【聖霊】はそのような決心を促す不思議な力を持っています。

 

                                                                 **************

 

 

藤木正三先生という牧師が『断想 神の風景』(ヨルダン社)という書の中で、「使命」というエッセイでこう語ります。

 

【使命というものは、自ら買って出て担うものではありません。・・・それは何かをするというよりは、担わされる受け身のことであり、避けてはならないとする誠実のことです。簡単にいえば、今あるさまを誠実に引き受けて逃げないことです。】と。

 

マリアはこの誠実さを生き抜こうとし始めたのです。

 

                                                                  **************

 

神さまは、聖霊の力をマリアだけに注いでいたのではありません。

 

聖霊は、マリアの親戚筋にあたる老婦人・エリサベトおばさんにも既に降り、洗礼者ヨハネとして生まれ来る命が宿っていました。マリアの知っているエリサベトは、もう、白髪もシワも隠せない年齢のおばあさんでした。

 

幼子イエスを通して明らかにされようとしている神さまの救いの出来事は、人の常識を越えた聖霊によって導かれます。

 

人の努力や計画、人生設計とは異なる力が世には存在するのです。乗るか降りるか。マリアは乗りました。end

 

 

 

 


2017年の旭東教会の聖霊降臨日・ペンテコステの飾り付けです(^^♪
2017年の旭東教会の聖霊降臨日・ペンテコステの飾り付けです(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 130

      2017年11月19  主日礼拝からの"余滴" 

           『  聖霊 ゆたかに  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 2章1節~4節 

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

使徒言行録の著者である〈ルカ〉という人は、イエスさまの生涯を独自の視点で書き記した『ルカによる福音書』の冒頭の1章~2章でも、「聖霊」による救いの導きを徹底して描いています。

 

イエスさまの先駈けとなる洗礼者ヨハネは【母の胎にいるときから聖霊に満たされて】(ルカ1:15)います。

 

イエスの母となるマリアは【聖霊があなたに降り、・・・・・・あなたを包む】(ルカ1:35)とみ使いからお告げを受けます。

 

                    **************

 

マリアの挨拶を受けたエリサベトおばさんは【聖霊に満たされ】ます(ルカ1:41)。洗礼者ヨハネの父・祭司ザカリアはイエスさまの誕生直前に【聖霊に満たされ】預言したのです(ルカ1:67)。

 

幼子イエスを神殿で抱き上げることになる老シメオン。彼は【イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまって】(ルカ2:25)いたと紹介されます。

 

さらに、シメオンは、【メシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて】(ルカ2:26)いました。

 

                    **************

 

ルカによる福音書に続いて記された『使徒言行録』では、イエスさまが【使徒たちに聖霊を通して指図を与え】られたという序言があります(使徒1:1-2)。

 

そして、【あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる】(使徒1:5)とのイエスさまのお言葉が続きます。

 

その後、弟子たちに対して、イエスさまが昇天の直前に語りかけた言葉として【あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。・・・・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる】(使徒1:8)と記録されているのです。

 

                    **************

 

それらに続いて起きたのが、使徒言行録2章に記される「聖霊降臨」の出来事でした。私たちはそれを「ペンテコステ」と呼びます。

 

主イエス・キリストが復活されてから50日目に、イエスさまが約束された不思議な風が吹き降りてきました。神さまの息が風となって降ったのです。

 

                    **************

 

しかし、今度の聖霊の降り方は、その規模が違いました。弟子たちだけという限定はなく、その広がりが大きいのです。

 

なぜでしょう。何が「聖霊降臨」の目的なのでしょう。

 

それは〈教会を産み出すため〉でした。炎のような風を受け、燃える力を受け着火された人々は大胆に語り始めます。そして動きだす。聖霊によって新しくされた人々を用いて福音を宣べ伝えることこそが目的であり、世界の各地での教会づくりが、神さまのみ心なのです。

 

                    **************

 

聖霊は今も吹き続けています。私たちがその聖霊を見失うことがないようにするためにはどうしたらよいでしょうか。

 

答えは身近な所にあります。それは「賛美と祈り」です。「賛美と祈り」には、神さまとの密接な〈あうんの呼吸〉がいつもあります。「賛美と祈り」はキリスト者にとっての命綱なのです。

 

だからこそ、私たちは、教会のひと枝として、これからも、いつまでも、歌い、祈り続けるのです。end

 

 


2017年11月12日(日)こども祝福礼拝の中で、一歳の女の子への祝福のひとこま。
2017年11月12日(日)こども祝福礼拝の中で、一歳の女の子への祝福のひとこま。

          《  み言葉 余滴  》 129

      2017年11月12  主日礼拝からの"余滴" 

    『  イエスさまに見えているもの 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 2章1節~5節 

1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

 

4人の人と、一人の【中風】で苦しんでいる人、合計5人の熱心を切っ掛けとする〈信仰の物語〉が展開します。

 

「中風」は〈脳卒中発作の後で現われる半身不随のこと〉と言われます。詳細はわかりませんが、病気の性格上、中風の人は若者ではなかったのは確かだと思います。

 

ただし、この人は重い病気で苦しんではいましたが、孤独ではありませんでした。4人の人が担いでくれる担架に乗る彼には仲間が居たからです。

 

イエスさまの元へ、4人の仲間によって担架に乗せてもらい、運ばれることになった時から、彼の内側にはぬくもりがありました。彼らは教会のひな型です。

 

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すし詰め状態の家の入口は群衆に阻まれますが彼らは諦めません。一人ではないからです。

 

直後に彼らは屋上に上り、力を合わせて屋根を引っ剥がし、そこから担架を吊り降ろします。

 

当時の社会にも警察があったならば、直ちに通報されてもおかしくありません。

 

     **************

 

イエスさまはこの〈暴挙〉をどんな気持ちでご覧になったのでしょう。

 

玄関付近に近づいていた彼らが、家の内側の人々の壁に阻まれ、立ち往生していたことは当然ご存知だったでしょう。イエスさまには全てが見えるからです。

 

天上から〈みしみし〉と音がし、ホコリが舞い始め、人々が唖(あ)然(ぜん)とする中、担架が吊り降ろされ始めた時。

 

イエスさまは心の内で仰ったのではないでしょうか。「よくやったぞ。あとは私に任せなさい」と。

 

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どうやら、救い主であるイエスさまがご覧になるものは、私たちの常識や物事を判断する尺度と、まったく違うようです。

 

聖書にはイエスさまが【彼らの信仰】を見たとあります。

 

一人の信仰ではありません。イエスさまは5人の信仰をそこに見いだしてくださったのです。

 

しかも、イエスさまは、神さま以外には語り得ない言葉を口にされます。【子よ、いまあなたの罪は赦された】(塚本虎二訳)と。

 

一見すると〈いやし〉が中心主題に見える場面ですが、イエスさまが見て居られたのはその先にある問題でした。まさに、神の領域にあることに、イエスさまは真正面から向き合われるお方なのです。その宣言がここにあります。

 

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中風の人は起き上がり、仲間たちと共に直ぐに担架を担いで皆の前を出ていきます。

 

病人はいやされました。喜びと共に賛美をします。

 

しかし5人の人たちの頭の中では、一つの問いが、グルグルと回り始めていたはずです。

 

【子よ、いまあなたの罪は赦された】という宣言のお言葉は、果たして「何だったのだろう。どうしてだろう」と。

 

5人の存在。それは教会のひな型です。

 

だからこそこの宣言は、聖書を飛び出し、今を生きる我々が受けるべき、主の救いのお言葉なのだと気付きます。主イエスは、私たちのひたむきで一途な熱心さを待っておられるのです。end

 

 

 


2017年11月5日(日) 聖徒の日・召天者記念礼拝の日曜日の献花です。
2017年11月5日(日) 聖徒の日・召天者記念礼拝の日曜日の献花です。

          《  み言葉 余滴  》 128

      2017年11月5  主日礼拝からの"余滴" 

       『  常識破りの愛 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 10章30節、33節~34節

 30 ・・・・・・ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。・・・・・・33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。・・・・・・37 イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

常識って何なのでしょう。

 

ある国語辞典では、まず【一般の人が持つべき知識や思慮分別】とあります。

 

驚かれるかも知れませんが、実はイエスさまという方は、【常識破りの教えをされ、行動を取るお方】なのです。そんなイエスさまの真似をしても大丈夫でしょうか。心配になります。

 

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月に一度、木曜日の祈祷会で、イエスさまによる〈譬え話〉を丁寧に学び始めてわかってきたことがあります。

 

イエスさまが〈譬え話〉の中でしばしば非常識なことを語られるお方なのだ、ということです。

 

「そんな馬鹿なことがあるものですか」「幾らなんでも、気前よすぎ」と感じるようなことを、特に、〈譬え話〉の中で語られるのです。

 

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ここでご紹介する「善きサマリア人(じん)」の〈譬え話〉も例外ではありません。

 

半殺しの目にあって倒れている人がいます。倒れている人の正体はわかりません。敢えて言えば〈どこの馬の骨〉かもわからないのです。

 

まず通り掛かるのは、律法をしっかりと学び、イエスさまの時代の良識人であり、常識を弁(わきま)えていたはずの【祭司】と【レビ人】です。

 

彼らは倒れている人を放ったまま通り過ぎていきます。 彼らはこの譬え話をイエスさまが話し始める切っ掛けとなる質問をした【律法の専門家】に近い人たちです。

 

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一方、そのあとに通り掛かった【サマリア人(じん)】が大胆な行動を取り始めます。

 

当時の社会では、そもそも、その存在自体が〈非常識なやつら〉と思われていた人です。でも【サマリア人(じん)】は道端に倒れていた瀕死の状態の人を見捨てたりしませんでした。

 

これ以上の手当はないだろうと思われることが連続しています。

 

【見て】【憐れに思い】【近寄って】【注ぎ】【包帯をし】【ろばに乗せ】【宿屋に連れて行って】【介抱した】とあるのです。

 

これこそ非常識とも言える行動です。

 

そんなことをしている間に、【サマリア人(じん)】も、追い剥ぎに命を狙われるかも知れませんし、〈穢(けが)れ〉を身に負う可能性だって十分あったのです。けれども、誰に何と言われようと、この人はそれでも構わなかった。

 

そうです。この【サマリア人(じん)】こそ、イエスさまのお姿に他なりません。

 

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救われた人は誰であるのか。

 

聖書には記されていません。なぜなら、身動きできなくなって死にそうだったこの人は、特定の誰かではなく、この譬え話にふれた〈あなた〉であり〈私〉だからです。

 

主イエス・キリストの十字架の愛によって私は救われたと確信し、信じている人は、自分を愛するようになります。そして、隣り人を愛する力を得ます。

 

「あなたは非常識だ」と言われようとも、誰に何と言われようとも、自信を持って、キリストに倣う生き方を始める人に変えられていくのです。end

 


2017年10月29日(日)の献花より。礼拝堂の講壇のあれことお花が調和して美しいです。
2017年10月29日(日)の献花より。礼拝堂の講壇のあれことお花が調和して美しいです。

          《  み言葉 余滴  》 127

      2017年10月29  主日礼拝からの"余滴" 

     『  神さまは大ウソつき? 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 23章1節~4節、19節

1 サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。2 サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。3 アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。4 「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」・・・・・・19 その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。

 

恥ずかしながら、わたくし、少し前まで書けなかったし読めなかった漢字があります。

 

「人」という字の右側に「夢」と書いてみますと、「儚(はかない)」という文字になることを知らなかったのです。

 

「信仰の父」とまで言われるアブラハム。妻サラが127歳で召されて逝ったとき、彼ら一族にはまだ墓がありませんでした。アブラハムは〈はかない人〉だったわけです。

 

だからでしょうか。

 

彼は妻のサラを埋葬するための墓を懸命になって探します。そして、一族がしばしば天幕を張っていた「マムレ」という町のはずれにある【マクペラの畑の洞穴】を買い取り、妻を埋葬するのです。

 

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嘘のような本当の話ですが、実はアブラハム。ユーフラテス川が流れる故郷を出発して以来、この時はじめて、自分の土地を所有するのです。

 

創世記15章18節に、アブラハムに対する神さまの壮大な土地授与の約束の言葉があります。

 

【主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、・・・・・・土地を与える。」】

 

というものです。

 

アブラハムはこの神さまのお言葉が実現する日を待ち望んでいたはずです。妻の墓の為に必要な土地はひと坪もあれば十分でした。

 

でもこの時まで、その土地すら持っていなかったのです。神さまは大嘘つきだったのでしょうか。

 

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新約聖書のヘブライ人(じん)への手紙(ヘブル書)の11章。そこには、アブラハムとサラの人生を別の視点から見つめ直すための大切なみ言葉があります。それは、直前にご紹介した創世記15章の神さまの壮大さを遥かに凌駕するような大きなご計画です。

 

ヘブル書11章16節以下に、【彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。・・・・・・神は、彼らのために都を準備されていた】とあるのです。

 

わかって頂けるでしょうか。ここに隠されている神さまのご計画の意味を。その広さ、高さ、深さを。示されているのは「天国」です。

 

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人生の最終目的地が何処(どこ)にあるかを知っている人の生き方は変わります。使徒パウロは【我らの国籍は天に在り】(ピリピ書3章20節・文語訳)と言い切りました。

 

アブラハムは、寄留者としての旅を重ね行く中で、墓は通過点に過ぎないと気付きました。天国に於いてこそ、約束されている全てのことが成就する。そのことを信じる人に変えられたのです。

 

イエスさまにとっても墓は通過点でした。復活され空っぽになった墓は虚しいものの象徴ではなく、永遠の御国への希望の扉です。

 

だからこそ私たちも、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ人生を深めていくのです。end

 

 

 


2017年10月22日(日)の献花。生け花用の柿?でしょうか。秋深まります。雅代さんのご奉仕に感謝。
2017年10月22日(日)の献花。生け花用の柿?でしょうか。秋深まります。雅代さんのご奉仕に感謝。

          《  み言葉 余滴  》 126

      2017年10月22  主日礼拝からの"余滴" 

     『  油断大敵 ガス欠注意 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 25章1節~4節、10節 1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。・・・・・・10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

 

婚礼の席に遅れてやって来る【花婿】を巡る譬え話が語られています。

 

遅れてやって来る【花婿】とは〈イエスさま〉のことですが、「花嫁」のために大切な役割を担っている10人のおとめのうち、5人は賢く、5人は愚かだった、というのです。

 

「花嫁」の姿がハッキリと示されていないのもこの譬え話の特徴です。ここでの花嫁とは〈教会〉だと考えるのがよいと思います。

 

おとめたちは灯りをともし続けるためのランプを準備し、花嫁に寄り添ってお世話する奉仕者です。それなのに愚かなおとめたち5人は、肝心の婚宴の席には入れないという大失敗をしでかします。扉が閉じられてしまうのです。

 

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賢いおとめ5人と、愚かなおとめたち5人の違いは何だったのか。それを知ることが、この譬え話を読む上での肝心な点です。

 

両者ともに到着の遅れている【花婿】を待ちくたびれてしまって、居眠りをしていますから、居眠りをしてしまったこと自体は何の問題もありません。

 

愚かなおとめたち5人は、小さな壺、つまり、携行できる程度の大きさのものですが、その壺に入れて備えておくべき油の準備が全く出来ていませんでした。気が緩んでいたのでしょうか、油断していたのです。

 

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この譬え話を読む上で【婚宴】とは何を意味しているのかをしっかりと考えておく必要があります。勘違いしてはならないこと。イエスさまは、単に〈結婚式の披露宴〉のことを言おうとして、この天の国の譬え話を始められたのではありません。

 

読者が譬え話を通じて考えるように促されているのは、【婚宴】から始まる〈信仰生活〉なのです。それは、いっときで終わるようなものではありません。一生涯のもの。

 

イエスさまと共に歩み、イエスさまに仕え続けて行く末永い〈人生という名の旅路〉を意味しているのです。

 

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携行できる大きさの油壺は、持っているのか持っていないのか、端(はた)から見る限りはわかりません。

 

しかし、信仰の灯火を燃やしつづけるためには、見えない所に抱えている小さな油壺への給油を怠らないことです。

 

日毎の糧を求めること、日曜日毎の礼拝でみ言葉に聴くこと、聖霊の風を受けながら、絶えず慰めを受け、聖(きよ)められ、進むべき方向を整えて行く習慣を身につけること。それこそが、私たちの人生の旅路を強めるための源です。

 

イエスさまと共に旅を続ける備えを、もう一度、心して始めてみましょう。信仰生活にはそのための少しばかりの努力と忍耐、修錬も必要なのです。end

 

 

 


2017年10月15日(日)の礼拝堂献花です。雅代さんありがとうございました。なんとも素朴に今週も美しい!あっ、講壇の位置が変わり、お花の撮影の角度も変わってます。
2017年10月15日(日)の礼拝堂献花です。雅代さんありがとうございました。なんとも素朴に今週も美しい!あっ、講壇の位置が変わり、お花の撮影の角度も変わってます。

          《  み言葉 余滴  》 125

      2017年10月15  主日礼拝からの"余滴" 

       『  ユダを忘れない 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 1章14節~16節 14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。

 

イスカリオテのユダ。

 

その名は一般の人たちにも知られています。国語辞典のひとつ『広辞苑』では、さいごに【裏切者。背教者の意味で使われる。】と説明される人です。

 

当然ユダは、イエスさまが約束された聖霊降臨を待つ人々の中には居ません。でも、私はユダのことがすごく気になります。イスカリオテのユダは、過去の人として終わってよいのだろうか、と。ご一緒に考えてみましょう。

 

                    **************

 

約束された聖霊の降臨を待つ11人の弟子たち。

 

彼らはこの先、エルサレムで教会の土台を築いて行くことになる大切なメンバーです。彼らはイエスの母マリアや婦人たち、イエスの兄弟たちと共に、熱心に一つになって祈っていました。

 

以前の私は、彼らの心の中には将来の希望が満ち溢れ、熱狂しているのだろうなと感じていました。でも、実情は違うのではないかと考え始めたのです。

 

     **************

 

ルカによる福音書の22章32節で、イエスさまから【シモン、シモン・・・・・・あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい】と言われていたペトロ。

 

彼は大勢の人々の前で立ち上がって説教し始めます。

 

その説教の内容は決して恵みあふれるメッセージではありません。むしろ、居合わせた人たちからすると思いがけない内容でした。イエスを裏切り、最期は自ら命を絶ってしまったユダをめぐっての説教だったからです。

 

                    **************

 

弟子たちのリーダーペトロ。

 

彼は聖霊の降臨を待つ祈りの中で、ユダの死を〈無駄死〉にしてしまってはならないことに気付いたのです。

 

イエスさまを敵対する者たちに売ってしまったユダが、自らの愚かさに気付いたのちに、仲間の11人のところへ帰って来る前に自ら命を絶ってしまったことに責任を感じていたのです。

 

取り返しのつかないことをしてしまった者を迎えてあげられない空気が、弟子たちの中にあったからです。

 

だからこそペトロは、イスカリオテのユダとはいったい何者であったのかについて『聖書』をひもとき求めました。

 

そしてわかったのです。ユダは己の罪深さを自覚し、本当は、悔い改めてやり直したかったのだということが。

 

                    **************

 

イエスさまの宣教の第一声は【悔い改めて福音を信じなさい】(マルコ福音書1章15節)でした。

 

11人の弟子たち、そして聖霊を待ち望む人々にも〈悔い改め〉が必要でした。彼らの〈悔い改め〉は、まだまだ不十分であったかも知れません。

 

でも、初めの一歩は誰でも大差ないのです。

 

私たちもイスカリオテのユダのことを忘れません。聖霊はどこに降り、キリスト教会はどのようにして誕生するのかを知っているからです。

 

〈悔い改めて福音を信じる〉ことの大切は、昔も今も変わっていないのです。end

 

 


2017年10月8日(日)の礼拝堂献花です。なんとも美しい。本格的な秋の始まりだなぁと感動です!
2017年10月8日(日)の礼拝堂献花です。なんとも美しい。本格的な秋の始まりだなぁと感動です!

          《  み言葉 余滴  》 124

      2017年10月8  主日礼拝からの"余滴" 

     『  神の秘儀によって 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 1章6節~9節 6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

 

ゴルゴタの丘の十字架の上で無残な死を遂げられたイエスさま。人々は「これですべてがおわった」と思ったはずです。

 

逃げ出した11人の弟子たちも「万事休す」と覚悟したのではないでしょうか。

 

一方、イエスさまに敵対していた人々は「一安心」と考えたのだろうと思います。

 

     **************

 

ところが、思いがけないことが展開し始めます。

 

まず第一に起こったのはイエスさまの復活でした。主イエスは死を打ち破り甦られます。

 

しかも、復活の主は「先生、それだけは、やめておいた方がよろしいのでは」と忠告したくなるようなことを、弟子たちに命じられたのです。

 

                    **************

 

かつては、腰巾着のようにイエスさまに張りついて過ごしていた弟子たち。「オレたちには、イエスさまという凄い親分が居られるんだぜ」というような顔をしていた弟子たち。

 

何とイエスさまは、弟子たちもびっくりの大胆なことを命じられたのです。イスカリオテのユダ亡き後の11人を〈使徒〉と認め、重要な使命のために遣わすというものです。

 

この世の言葉で言えば驚くべき大胆な〈人事案〉です。だって、彼らは裏切り者です。信用して大丈夫なのでしょうか。大事なことを託せる人たちでしょうか。

 

                    **************

 

使徒言行録1章8節には、今日に至るまでのキリスト教の歴史を決定づけるイエスさまの重要なお言葉があります。

 

それが【あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」でした。

 

イエスさまがこのお言葉を弟子たちに向けてハッキリと語られなかったら、日本はおろか、米国にも英国にもキリスト教会は生まれなかったのです。

 

大切なつとめを任ぜられた11人の弟子たち。一人前の〈使徒〉になったわけでもないのです。それなのに、イエスさまは彼らを用いられました。

 

                    **************

 

 

果たして、彼らに信仰があったのでしょうか。伝道者として用いられるに値する器だと言えるのでしょうか。

 

私は思います。弟子たちには、彼らがまだ自覚していない信仰の〈かけら〉があったのだと。彼らの信仰は、まだ〈断片〉に過ぎないほどのものだったはずです。

 

でも、イエスさまは、彼らの魂の奥深くに在る信仰の〈かけら〉に気付かせようとされた。ここには、神さまが聖霊降臨を通じてなさろうとしている〈神の秘儀〉があります。

 

思い巡らして見ましょう。『使徒言行録』の始まりにある希望の〈かけら〉は、私たちの生きる力だということを。未熟で不完全な〈使徒〉たちの新しい旅が始まろうとしています。end

 

 


2017年10月1日(日)は世界聖餐日でした。備前焼の作家である明美さんの作品にパンが置かれています。
2017年10月1日(日)は世界聖餐日でした。備前焼の作家である明美さんの作品にパンが置かれています。

          《  み言葉 余滴  》 123

      2017年10月1  主日礼拝からの"余滴" 

     『  愛されているのだから 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 22章1節~3節 1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

 

世の中、耳を疑うような知らせを受けることがあります。多くの場合は悪い知らせが届いた時に言うものであって、「娘が目標にしていた会社の内定を受け、耳を疑いました」というような使い方は稀です。

 

だいたいは、非常に大きな驚きを伴うものですし、その知らせが自分自身に関係することであるとしたら・・・・・・心穏やかではありません。

 

聞き違いではないかと思ったり、聞き違いであって欲しい、ということが多いものです。

 

                    **************

 

創世記12章から始まった「アブラハム物語」の終盤の頂点と言えるのが22章のこの箇所です。アブラハムが110歳位の頃と思われます。

 

75歳の時、神さまから召し出された時に聴いた【あなたは生まれ故郷父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい】(創世記12:1)というお言葉にも、彼は驚いたかも知れませんが、さらに驚くべきお言葉を耳にするのです。

 

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行け」というだけなら何でもありません。

 

神さまは「わたしが命じる山の一つに登り、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげよ」と言われたのです。

 

【神はアブラハムを試され】たのです。いいえ、神さまはアブラハムだけを試されるのではありません。ここに居る私たちも、時に神さまからの信仰のチャレンジ=試練を受けることがあります。思い巡らしてみましょう。

 

                    **************

 

アブラハムはどうしたのかが気になります。のちの時代に「信仰の父」「全ての人の父」と呼ばれるようになるアブラハムです。

 

新約聖書のヤコブの手紙の2章21節以下に、アブラハムの信仰がこう表現されます。

 

【21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された・・・】

 

アブラハムは、もっとも大切な跡取り息子のイサクを自らの手から手放すのです。イサクは全世界の祝福の基として子孫を増やしていくべき存在です。

 

その独り子を、「行って、こうしなさい」と命じられた山の上で、アブラハムが覚悟を決めて屠ろうとしたその時に、身代わりの雄羊が姿を現しました。

 

                    **************

 

神さまからのチャレンジを受けたアブラハム。

 

彼は黙して従いました。アブラハムは昔のアブラハムではありません。そのことを神さまは〈よし〉とされました。それは「義(よし)」であり、「善(よ)し」でもあり、さらには「吉(よし)」でした。そして「very good(よし)」だったのです。

 

                   **************

 

口数ばかり多い自分に気が付くことがあります。つぶやきも、ため息も多い私たちです。

 

だからこそ、アブラハムの姿勢から学び直しましょう。

 

神さまの呼びかけに対して「はい、ここにおります」と逃げないで応えたい。

 

神さまはご計画をお持ちです。あなたを必要として居られるのです。end

 

 


2017年9月24日(日)の献花 備前焼きの花器に、白色、ほのかなピンク色が美しいです。雅代さんのご奉仕に感謝。
2017年9月24日(日)の献花 備前焼きの花器に、白色、ほのかなピンク色が美しいです。雅代さんのご奉仕に感謝。

          《  み言葉 余滴  》 122

       2017年9月24  主日礼拝からの"余滴" 

     『  分かってない〈わたし〉を 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 18章23節~27節 

23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。・・・・・26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 

借りたものは返す。それが世の常識です。親からも、学校の先生からも、当たり前のこととして教えられました。

 

ところが、聖書の教えは何だか変です。【一万タラントン】という大変な額の借金が免除される、というのです。この額、他の聖書では「1兆円」(本多哲郎神父訳・新世社)と訳すものもあるほどです。

 

                    **************

 

イエスさまが語られたこの譬え話。私たちが読む新共同訳の小見出しは「仲間をゆるさない家来のたとえ」となっています。

 

でも、フランシスコ会訳聖書では、たったひと言「赦し」という小見出しなのです。私はこの小見出しの方が適切だと思います。

 

何しろ、この譬え話が語られ始めるきっかけは、筆頭の弟子であるペトロがイエスさまのところにやって来て【主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか】と先ず尋ねるところからでした。

 

つまり、ここでの本題は〈赦し〉の問題なのです。

 

                    **************

 

ここで【借金】と約されている言葉。訳し方によって印象が随分変わります。

 

マタイによる福音書で【借金】と訳されたのと同じ言葉が最初に出てくるのは、イエスさまが「主の祈り」を教えて下さった場面です。

 

6章12節に【わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように】とあります。

 

【借金】は【負い目】と訳されています。

 

更に同じ言葉が、かつて慣れ親しんだ口語訳聖書では【わたしたちの負債をおゆるしください】となっています。

 

極めつけは塚本虎二先生の訳語です。【罪をゆるしてください】となっています。実に興味深いことです。

 

     **************

 

最も重大な問題。

 

それは〈主君〉の姿で登場している〈神〉による「罪の赦し」です。計り知れないほど膨大な「罪」を背負っていた人が〈無償=ただ〉で赦されている。

 

天の国では、そのような思いがけない事態が生じるのです。

 

                    **************

 

私は思います。

 

借金を免除されたこの人は、〈自分のことが分かってい口から出任せを言うそぶりなど、これっぽっちもありません。ない人〉だったということを。

 

しかもこの人は、罪の大きさが1兆円という膨大な借金で表現されているのに、待ってくれるなら、【全部お返しします】と語っています。口から出任せを言うそぶりなど、これっぽっちもありません。

 

                    **************

 

不思議なことに神さまは分かっていない罪人を憐れまれます。

 

それにとどまらず、罪を帳消しにすると教えて下さるのです。世にも不思議なこの赦しの愛は、キリストの十字架と復活を抜きにしては理解できません。

 

今、私たちの生き方が問われています。み恵みを受けた人として、長い眠りからそろそろ目覚めるようにと。

 

だから、『わかってない〈わたし〉』も、赦しと復活の命を生き始めるのです。end

 


2017年9月18日(月・休日)親しい交わりがあり、森牧師が礼拝応援に定期的に伺う十文字平和教会での野外バーベキュー開始の挨拶場面。
2017年9月18日(月・休日)親しい交わりがあり、森牧師が礼拝応援に定期的に伺う十文字平和教会での野外バーベキュー開始の挨拶場面。

          《  み言葉 余滴  》 121

       2017年9月17  主日礼拝からの"余滴" 

       『  罪人の烙印 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 18章15節~17節

15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 

30年近く前、私が神学校で卒論のテーマに選んだのは「パウロの教会論 ―キリストの体―」をめぐるものでした。

 

当時の私にとって〈教会〉の存在は、〈み言葉〉そのものよりも大きな意味があるもので、教会の現場に出る前に、一度はじっくり考えてみたい。そう思っていました。

 

マタイによる福音書を書いたマタイという人は、〈教会〉について深く考えていた人のようです。実は、新約聖書の中に4つある福音書の中で、〈教会〉という言葉を明確に書き記しているのはマタイだけなのです。

 

                    **************

 

イエスさまがここで語られた、【17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】というお言葉。

 

かなり長い間、私にとって躓き(つまずき)となるみ言葉でした。

 

心からの忠告を受けたにもかかわらず、その言葉を受け容れようとしない人に対してのイエスさまの態度。

 

ずいぶん冷たいじゃないか。そんな風に感じていたのです。何度読んでも、最後通告のようにしか聴き取れません。説教するときには深入りせず、見て見ぬ振りをして通り過ぎる箇所でした。

 

                    **************

 

使徒パウロが〈教会〉とはどういうところなのかを語っている手紙のひとつ『エフェソの信徒への手紙』があります。

 

4章では「キリストの体」である〈教会〉がどのように立ち上げられて行くべきかが記されます。

 

私の特愛の箇所である4章15節にこうあります。【むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。】と。

 

自分もこのみ言葉のように生きる者になりたい。そう願い、微力ながら努力もしてきたました。けれどもムツカシイのです。

 

でも、ただ一人のお方、主イエス・キリストこそが「愛に根ざして真理を語る」ことが出来るお方なのだと気付いた時に、私は少し安心しました。

 

                    **************

 

福音書記者マタイが紹介するイエスさまのお言葉。【それでも聞き入れなければ、・・・・・・その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】。

 

このお言葉。言う事を聞かない者は罪人と定めなさい、という内容です。果たしてこのお言葉のどこに福音があるのでしょうか。

 

       **************

 

ハッとしたのは正にこの箇所です。

 

間違いなくここには、イエスさまの「愛に根ざして真理を語る」お姿があります。

 

なぜそう言えるのか。救いを必要とするのは《罪人》以外にないからです。イエスさまは「私は罪人の頭です」と認めることが出来ない私たちのために罪人の烙印を押して下さるのです。

 

ここには、思いも寄らぬ逆説の愛、罪人であることを喜べる〈教会〉の不思議があります。神がみ子イエス・キリストを世に遣わされたのは、み子によって私たちが救われるためだからです。end

 

 


2017年9月10日(日)は恵老祝福礼拝でした。礼拝後、80歳以上の方々で礼拝に出席された皆さんと記念撮影です。
2017年9月10日(日)は恵老祝福礼拝でした。礼拝後、80歳以上の方々で礼拝に出席された皆さんと記念撮影です。

          《  み言葉 余滴  》 120

       2017年9月10  主日礼拝からの"余滴" 

     『  彼女は井戸を見つけた 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 21章17節~19節 17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。

 

ハガル。彼女は族長アブラハムの側女(そばめ)でした。

 

ハガルという名前の語源には「捨てる、退く、移住する」という意味があります。彼女の人生に不思議と重なってくる名前なのです。

 

もともとハガルは、エジプト出身の女で、アブラハムの妻サラに仕える女奴隷でした。子どもが与えられなかった女主人サラの命令で、アブラハムの二番目の妻になった人です。

 

程なく、サラの希望通りハガルは子を宿しました。

 

                    **************

 

女主人サラは、ハガルが夫アブラハムの子を宿すと同時にハガルに辛くあたり始めます。

 

いじめでした。耐えきれなくなったハガルは、お腹の中の子どもと共に死を覚悟し、荒野に逃げ出したのです。

 

ところが、故郷のエジプトに向かう街道沿いの泉に身を置いていたハガルは、「女主人の元へ帰り仕えなさい」という主のみ使いの声を聴くのです。

 

ハガルはその声に従い子どもを産みます。その子がイシュマエルでした。

 

      **************

 

時が流れました。

 

石女(うまずめ)だったアブラハムとサラの間に「イサク」が生まれます。

 

しかし、イサクの誕生によって、女奴隷ハガルとイシュマエルは、サラにとって再び邪魔な存在となりました。

 

居場所を失った結果、ハガルとイシュマエルは、荒れ野をさまよいます。程なく革袋の水も尽きたハガルは、死に瀕した息子を木の木陰に休ませました。

 

自らの死も覚悟していたハガルでしたが、それ以上に、我が子が目の前で死んでいくのを見ることができません。彼女は息子を置いて逃げ出します。

 

                    **************

 

不思議なことがここでも起こります。

 

人生の行き詰まりは神さまの出番です。神さまは再びみ使いを通して、荒れ野で涙を流していたハガルに対して語るのです。「立ち上がれ、そして、あの子を腕に抱きなさい」と。

 

み声を聴いたハガルに変化が起こります。目が開かれたのです。

 

そして、その目に見出したのが〈井戸〉でした。ハガルは立ち上がり、行って革袋に水を満たし、息子に飲ませたのです。二人は救われました。

 

                    **************

 

息子を潅木(かんぼく)の元に置き去りにした時点で、ハガルは逃げ出した人でした。ところが、神さまはそれをゆるさず連れ戻されました。

 

神さまはハガルに対して、「あそこに井戸がある」とは言われません。

 

語りかけ、目を開いて下さっただけです。

 

生けるいのちの水が湧きでる井戸がすぐそこにあるのを見つけたのは、ハガルが神の声を聴き、従ったからです。

 

      **************

 

私たちも生ける水の湧き出る井戸を見いだす旅を始めましょう。

 

たとえ苦難の中、絶望のただ中であっても、み声に聴き従う。それこそが信仰です。end

 

 


2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。
2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。

          《  み言葉 余滴  》 119

       2017年9月3  主日礼拝からの"余滴" 

     『  毒麦も大切な理由(わけ) 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 13章28節~30節 
28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 

 

芸能界には〈毒舌タレント〉と呼ばれる方たちがいます。最近ではマツコ・デラックスさん、松本人志さんなどがそうかも知れません。

 

番組を見ている人たちが、「いやぁねぇ」「まったく」等と思いながらも、彼らの〈毒舌〉は“視聴者が言いたいことをズバリ言ってくれる”から人気なのです。

 

でも、少なくともわたしは、彼らの言葉に隠された愛を感じます。

 

                    **************

 

イエスさまはここで「毒麦」の譬えを語られます。

 

譬え話とはいえ〈毒〉が出てくるなんて穏やかではありません。「毒水」「毒米」だったら少しは緊張するかも知れません。

 

イエスさまのお言葉それ自体に〈毒〉はなく、むしろ〈毒〉に触れつつ、おわりまでの愛を語ろうとされるのです。

 

聖書の中で「毒麦」はサタン=悪魔の働きによるもの。反対に「良い麦」はイエスさまが蒔かれた種から育ったものとして読むべきものです。

 

                    **************

 

実は、わたしたちキリスト者も、時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。

 

神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

イエスさまによる「毒麦」の譬え話とは、そのような〈この世〉の実情が前提になって語られる〈天の国〉の譬え話であることを心にとめましょう。

 

肉の思いに満ちた〈この世〉と、イエスさまが指し示したいと願っておられる〈天の国〉とは違うのです。

 

ですから、ここで示される譬えの真理というものは、世間一般に通用する倫理的な教えではありません。

 

                    **************

 

わたしたちは「善は急げ」という言葉を知っています。

 

「よいことをするのに躊躇するな、機会を逃さず直ちに実行すべし」ということです。いかがでしょう。

 

「善は急げ」に反対する方は稀ではないでしょうか。

 

譬え話の中の僕(しもべ)たちも「善は急げ」と考え、直ぐに行動に移そうとします。

 

【行って毒麦を抜き集めておきましょうか】と。しかし主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。

 

                    **************

 

人が生きて行く途上で起こる〈人生=畑〉での難題、課題というもの。

 

その根の深さに驚くことがあります。実に複雑に絡み合っています。表面的なことだけを片付けても、根本的な解決策にならないことばかりです。

 

イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。

 

なぜなら、わたしたちが育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が絡みついているからです。

 

       **************

 

ここでの良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていことを認めざるをえません。

 

だからこそイエスさまは仰います。

 

「あなたが慌てて解決しようとするのではなく、信じる者として、わたしにさいごまで任せよ」と。

 

謙遜と柔和、悔い改めの心をもって、その時に備える生き方を始めましょう。明日からでありません。

 

今、直ぐにです。end

 

 


2017年8月27日(日) 礼拝後、メロディーベルのお稽古を見ていたら、静かにたたずんでいるオルガンが美しくそこに居ました。時にはこんな一枚も。
2017年8月27日(日) 礼拝後、メロディーベルのお稽古を見ていたら、静かにたたずんでいるオルガンが美しくそこに居ました。時にはこんな一枚も。

          《  み言葉 余滴  》 118

       2017年8月27  主日礼拝からの"余滴" 

     『  キリスト者の焼き印 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ガラテヤの信徒への手紙 6章15節~17節 
15 ・・・・・・ 大切なのは、新しく創造されることです。16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 

 

九州・博多には、肉も魚も野菜もこれ一本で大丈夫という〈博多包丁〉があります。

 

先端がかなり鋭角に尖った三角形をしている無骨な包丁。使い込んだ〈博多包丁〉は短くなるまで研いで使える優れものです。

 

島根県・安来(やすぎ)産の鉄を打っては焼き、打っては焼いて包丁の形にたたき伸ばし、最後は柄の部分に、太く堂々と刻まれた〈博多包丁〉と〈四菱〉の「焼き印」が押されて出来上がり。

 

「焼き印」というもの。名刀や木工製品などにも押されているのは、皆さんご存じの通りです。

 

                    **************

 

パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」と語ります。彼は信仰者に押されるべき「焼き印」があると言うのです。

 

第2コリント書11章には「使徒としてのパウロの苦労」(聖書・新共同訳の小見出し)の記事があります。そこから想像するならば、パウロの体には鞭打たれた傷や、石を投げつけられた傷があったと思われます。

 

パウロの体に目に見えるような「イエスの焼き印」が本当に押されていたのか、と言えば決してそんなことはなかったはずです。

 

でも、パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」と強く語らざるを得なかったのです。

 

                    **************

 

ここでパウロが語る「イエスの焼き印」というのは、自分は逃げも隠れもしないキリストの僕だ、という宣言です。わたしたちは「イエスの焼き印」を押されている、という自覚をもつことがあったでしょうか。

 

わたし自身のことを考えました。

 

神学校への入学、つまり、献身を志した時に、「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒言行録20章24節)の決心をし、み言葉を生きて来たつもりです。

 

しかし正直に申し上げるならば、「イエスの焼き印」を押されているという信仰の自覚が足りませんでした。

 

                    **************

 

ガラテヤの人々に向けた手紙の最後でパウロはイエスさまの〈十字架〉を語ります。

 

「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」(6章14節)と。

 

パウロがどんな時にも消してはならない印として一生涯身に帯びて生きていくという覚悟をもったのは、救い主イエス・キリストの十字架なのです。

 

それを彼は「イエスの焼き印」という言葉に力を込めて記しました。

 

       **************

 

わたしたちも「イエスの焼き印」を身に帯びている者であるはずです。

 

信仰をもってこの世に遣わされ生きる者として、「イエスの焼き印」に対する自覚、すなわち、十字架の福音を証しする人生は実に意義深いものです。

 

目には見えないけれど、確かに押されている「イエスの焼き印」を身に帯びる者として目覚めを促されています。

 

急場しのぎの〈付け焼き刃〉とは違う覚悟をもって、新しく創造された人生を歩み始める。今がその時です。end

 

 


2017年8月20日(日)の献花 雅代姉が祈りつつ 夏から秋への季節の変化を届けてくれています。虫の音が聞こえて来ませんか?
2017年8月20日(日)の献花 雅代姉が祈りつつ 夏から秋への季節の変化を届けてくれています。虫の音が聞こえて来ませんか?

          《  み言葉 余滴  》 117

       2017年8月20  主日礼拝からの"余滴" 

   『 〈コンパッシヨン〉そして〈ミッション〉 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 9章35節~38節 35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

ここで特に心をとめたいのは「憐れまれた」と記されているイエスさまの〈心情〉です。

 

〈心情〉は『新明解国語辞典』(第七版)によればこう解説されます。

 

「人が何か出来事にあった時に起こる喜怒哀楽の情が、まだ言葉になって表出されていないもの。特に、抑えきれない悲しみや苦しみなど。ある人の心中の葛藤に対し、他の人が同情・共感・理解する場面で使われることが多い。」

 

と。

 

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上と同じマタイによる福音書9章36節を、原文に忠実に訳すことよりも、読みやすさ理解のしやすさを大切にする『リビングバイブル』は次のように訳します。

 

わたしは名訳だと思っています。

 

「・・・ご自分のところにやって来る群衆をごらんになって、イエスの心は深く痛みました。彼らは、抱えている問題が非常に大きいのに、どうしたらよいか、どこへ助けを求めたら良いかわからないのです。ちょうど、羊飼いのいない羊のようでした。」

 

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ルカによる福音書6章36節に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。

 

イエスさまは、わたしたちにご自身の心を自分の心として生きる生き方を願われます。

 

福音書記者マタイもルカと同様、それに気が付いていました。

 

だから12人の弟子たちをお立てになり、苦悩も経験するであろう宣教の旅の始まりの前に、どうしても、イエスさまの〈心情〉を伝えたかったのです。

 

                    **************

 

わたしたち「皆さんの声をお聴かせ下さい」と案内を聞くことがあります。最近では、テレビやラジオの生番組の中で、「ツイッターでの投稿お願いします」とか、「テレビのリモコン操作であなたのお声が届きます」という場合すらあります。今、即時に声を聞きたいというのです。

 

わたしも、牧師として仕える日々の中で、〈声を聴かせてほしい〉と思うことがあります。感じていることを、魂の叫びを聴かせてほしいと感じることがあります。

 

しかし、そう簡単には人の思いを聴き受けることは出来ません。

 

       **************

 

人間というもの。抱えている〈心情〉を直ちに表現することが出来ないことの方が多いものです。

 

イエスさまは、言葉に出来ない切なる祈りを抱えている人の心を、その人の存在を、まるごと受けとめることが出来るお方でした。

 

そのことが、「憐れまれた」という言葉によって表現されています。

 

                    **************

 

ペルーの民衆と共に聖書を読み、人々の救いのために生涯を賭けたグスダボ・グティエレスという神父さまが居られます。

 

グティエレス神父さまは「憐れみ」を「コンパシオン」(ペルー語)と表現しました。

 

「コンパシオンはただ気の毒に思うことではない。…それは、わかちあうこと、他者の苦しみと切望を、自分の苦しみと切望にすること。共に苦しむことは、ひとつになって生きることである」(『み国のわかちあい』より・一部もりが意訳)。

 

共に黙想してみましょう、わたしたちが生涯を賭けられるミッション(宣教・伝道・使命)について。end

 

 


2017年8月13日(日)主日礼拝にて 神戸からの里帰りのご家族と最年少のぼく スクリーンに写し出される出エジプトの紅海の奇跡の紙芝居に身を乗り出した
2017年8月13日(日)主日礼拝にて 神戸からの里帰りのご家族と最年少のぼく スクリーンに写し出される出エジプトの紅海の奇跡の紙芝居に身を乗り出した

          《  み言葉 余滴  》 116

       2017年8月13  主日礼拝からの"余滴" 

    『  信仰のないわたしを ロトの場合 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 19章16節~18節

16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」18 ロトは言った。「主よ、できません。・・・・・・

 

愛読書のひとつに『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(千代崎秀雄)があります。

 

「アブラハム」「メルキゼデク」「サラ」「ハガル」の次に、創世記19章でスポットライトがあたる「ロト」が登場します。一部をご紹介します。

 

【ロトはソドムの町の豊かさに魅かれて、罪深い町と知りつつ、あえてその近くに天幕を張り、・・・その後もソドムに住み続けて、19章の出来事の頃には町の門に座るほどの有力者になっていた。】

**************

 

当時のロトは、もはや若者ではありません。

 

ソドムの滅亡後、二人の娘と山の中に暮らしていた頃には、長女が「父も年老いてきました・・・」というような言葉を口にするような年代に入っているのです。

 

よそ者ではあったけれども、様々な努力を続け、おそらくソドムの長老格として認められるような立場になって町の門に座っていたロト。果たして、神さまを信じる人としての、信仰の深まり具合はどうだったのでしょうか。

 

**************

 

旅人の姿をした二人のみ使いがやって来てロトに告げたのは、神さまによる裁きがソドムに襲いかかる、という恐ろしい内容でした。

 

しかし、知らせを受けた直後にとったロトの態度はチグハグでした。

 

娘の婿たちに対しては「さあ早くここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされる」と促します。

 

しかし、主からロトに対して語られた「命がけで逃れよ」「後ろを振り返るな」「山へ逃げよ」というお言葉に対しては、「主よ、できません」と言ってしまうのです。

 

そもそもロトは「ためらって」いました。

 

この場面で露わになっていることがあります。それは信じきれていないロトの姿です。肝心なときに、主のお言葉どおりに従えない人間の弱さです。

 

**************

 

あー、ロトは何と愚かしく情けない人間なのか。これ程まで神さまがあなたを心に留めて下さっているのに。

 

少なくとも我々は、ロトのような人にだけはならないようにしましょう、という教訓が創世記19章の主題でしょうか。

 

私は違うと思います。

 

ロトは私自身であり、あなたではないか。胸に手を当てて、目を閉じて沈黙し、考えてご覧なさい。そう言われているのです。

 

*************

 

実は、ロトの不信仰以上に浮き彫りになっていることがあります。

 

それは、〈ためらい〉〈できません〉と言ってしまうロトを、深い憐れみをもって導き出そうとしておられる、微動だにしない主の愛に他なりません。

 

堅い信仰を持つ自分を誇ることよりもたいせつなことがあります。

 

それは、「できません。どうかこのような私を、憐れみ=愛をもってお支え下さい」と認めることです。この告白が出来るとほんとうに楽になります。

 

「主よ憐れみたまえ」と祈る時にこそ、主が弱く愚かな私と共に居られ、祈り支えて下さっていることに気付かされる恵みの時となるはずです。end

 

 


2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで
2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで

          《  み言葉 余滴  》 115

       2017年8月6  主日礼拝からの"余滴" 

    『  立ち上がって従った人 マタイ 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 9章1節~2節、13節後半
9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。13・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 

人間、複雑な存在だなぁと思うことがあります。いろいろとややこしいのです。

 

好きなのに嫌い、嫌いなのに好き、ということだってあります。最近、「面従腹背」という言葉を語った、元・高級官僚も居られました。

 

その一方で、誰しも不思議なほど単純な心をもっているのも事実です。あれやこれや気を遣っていたのが馬鹿みたいだった、ということが起こります。

 

ここに登場する、徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。

 

                    **************

 

世の中に溢れているものがります。新聞にも様々な〈声〉があります。テレビやラジオからも様々な〈声〉が聞こえて来ます。今ではインターネットの時代になって、興味あることを調べようとすると、それはそれは驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

しかし、わたしたちに必要なのは〈情報〉ではありません。真実な人生を生きていくために、クリスチャンが大切にすべきは、ただひと言の、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉なのだと示されています。

 

                    **************

 

マタイによる福音書の著者マタイは、ここで、立ち上がってイエスさまに従った人ではないか、と言われることがあります。そうかも知れません。もしも違っていたとしても、それでも構いません。

 

わたしたちは、今、これからを、果たして誰の〈言葉〉に従って生きて行こうとしているのかが〈み言葉〉から問われます。

 

     **************

 

徴税人マタイは、イエスさまのことについて多少の〈情報〉はもっていたかも知れません。けれども、知り尽くしていたわけでも何でもないのです。

 

しかし、マタイはこの呼びかけの〈お言葉〉が真実なものだ、と直感しました。

 

そして程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、彼の心は熱くなったはずです。人知れず涙したかも知れません。

 

「イエスさま、あなたの仰る通り、わたしは罪深いものです」とこれまた正直に認めることが出来たのです。

 

                    **************

 

罪の問題はわたしたちの人生のもっとも解決のむつかしい課題です。

 

しかし、聖書はわたしたちに告げています。イエスさまは、あなたの人生のいっさいを新しくして下さるお方なのですよ、全てを委ねて、決して後悔することなどないお方ですよ、と。

 

ここに福音があります。

 

もう、これ以上迷ったり、他のどこかに捜し求める必要もありません。ただ〈ひと言〉を語って下さるお方が、このわたしのために呼びかけて下さっている、と信じて立ち上がりましょう。そして、従うのです。

 

わたしたちは、決して後悔することのない人生を歩み通せます。end
 


2017年7月30日(日)7月の最終日曜日 雅代さんのご奉仕による献花 格調高いなと思います
2017年7月30日(日)7月の最終日曜日 雅代さんのご奉仕による献花 格調高いなと思います

          《  み言葉 余滴  》 114

       2017年7月30  主日礼拝からの"余滴" 

          『  愛ゆえに重荷を 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~2節
6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 

わたくし、結婚式場やホテルでの結婚式の司式の仕事をたいへん数多くさせて頂いて来た者です。

大変でしたが、光栄なことでもあります。そして鍛えられました。その数、千組を超えると思います。

実際のお式の時には、ご家族や来賓の方々も〈結婚式〉という名の〈礼拝〉にお出でになるのですから、結婚式の日の夜、食卓でお式のメッセージが話題になるようなことを語りたいなぁ、と願っていたものです。

      **************

つも、どんなお話をしようかと、少しの緊張と共に楽しみに考えていました。

そして、時に「愛」という文字の成り立ちについて、自分流にたどり着いた解釈を語ることがありました。

まず「〈愛〉という文字が二つの漢字に見える」と語るのです。「一つは、〈愛〉の真ん中に〈心〉という字がありますね」とお話します。

続いて、「〈心〉を包んでいる文字があるはずです。それは、〈受ける〉という字です。

つまり〈愛する〉ということは、共に生きていこうとするその人の〈心=存在〉を〈そのまんまに受けとめる、包み込む〉ということなのです」と展開して行くのです。

      **************

イエスさまは、「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか」という問いに対して、二つの掟が大切だとして、こうお答えになります。

ここではマルコ福音書12章29節以下のお言葉を引用します。

第一の掟についてはこうお答えになります。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と。そして、第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい」と言われるのです。

第一の掟、第二の掟に共通することがあります。

二つとも【愛】に触れられていることです。

      **************

パウロという偉大な伝道者がガラテヤの教会の人々に向けて語ったこと。それは、わたし流に申し上げるならば、「人を愛するとはどういうことなのか」ということだと受けとめました。

わたしたち「こういう態度って悲しいなぁ、寂しいよなぁ」と直感することがあります。それは、自分の存在が〈軽く〉扱われていると感じる瞬間です。

しかしパウロは、愛するということを、頭で理解するのではなく、実際に行動しながら、生きて行く中で実践してほしいと願うのです。それが「互いに重荷を負い合いなさい」という勧めでした。

      **************

【互いに重荷を担い】合うこと。それは愛する人の確かな〈重み〉を感じながら、どんな苦労があろうとも、共に歩んで行くことではないでしょうか。

【わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している】(イザヤ書43:4・新改訳)というイザヤの預言は主イエスを通して成就しました。

私たちも、愛する者の重荷を尊びながら担うよう促されています。end

 

 

 


2017年7月23日(日)のファミリー礼拝でのひとこま 5つのパンをイエスさまが祝して割いて という場面を紙芝居と共に実演
2017年7月23日(日)のファミリー礼拝でのひとこま 5つのパンをイエスさまが祝して割いて という場面を紙芝居と共に実演

          《  み言葉 余滴  》 113

       2017年7月23  主日礼拝からの"余滴" 

        『  尽きぬパンの出どころ 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)


 ◎ヨハネによる福音書 6章8節~11節a
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。

 

旭東教会の近くにあるスーパーのレジ近くに〈アンパンマン〉関連のドリンクの自動販売機があります。近くを通ると何やら歌が始まったり、お誘いの声が聞こえますのでいつも気になります。

 

〈アンパンマン〉の作者〈やなせたかしさん〉は相当骨のあるクリスチャンでした。やなせさんが69歳の時、1988年からTVのアニメで大人気になった〈アンパンマン〉ですが、実はそのモデルはイエス・キリストなのです。

 

〈バイキンマン〉を「あんパーンチ」と言いながらやっつける場面等が知られています。

 

も、原作では、〈アンパンマン〉は悲しんでいる人、苦しんでいる人、涙している人を見つけると、自分の顔をちぎって差し出すのです。

 

「さぁ、僕の顔をお食べ、元気出して」と。

 

**************

 

男の数だけでも5000人という給食の奇跡の場面として知られるお話。

 

イエスさまの元に人々が押し寄せる切っ掛けとなったのは、【大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである】(ヨハネ福音書6:2)と記録されています。

 

イエスさまの元に集まって来たのは、いつも満腹するまで食べることが出来たり、健康で心配事もない、という人たちではありません。

 

悩みに押し潰され、食べることにも事欠いている状況の人たちが押し寄せて来たのです。

 

**************

 

多くの人々に笑顔が広がり、お腹も心も満腹し、安心して家路に就く切っ掛けをつくったのは何によってだったのか。それは数にも入らない、一人の〈ちいさな少年〉が差し出した「5つのパンと2匹の魚」でした。

 

5000人を遥かに越える人々が、苛立ちや不安を抱えていました。お腹を空かしているときにイエスさまの前に届けられたものは、「たったこれぽっちのパンと魚で、一体、何の足しになるの!」と考えるのが世の常識です。

 

ところがイエスさまは、少年からのパンを祝福して祈り、ちぎって分け始めたときに、神のみ業が起こりました。配

 

られたパンによって、みんなが満腹したのです。人々はこの出来事を生涯忘れることがなかったはずです。

 

**************

 

イエスは永遠に渇くことのない〈水〉を求める者に私の元に来なさいと言われます。(ヨハネ福音書4章 サマリアの女の物語)

 

また、朽ちることのない永遠の命に至る〈パン〉を求める者に、「私が命のパン。私の元に来る者は決して飢えず、私を信じる者は決して渇かない」(ヨハネ福音書6:26~27)ことを教えようとされました。

 

**************

 

なぜ、命のパンは分けてもわけても尽きないのか。

 

なぜ、イエスさまがちぎり分けて下さったパンによって、人は、心も体も満たされるのでしょう。

 

実に、イエスさまはここで、ご自身の命を、生きていくための命の言葉を、すべての人に分けてあげようとされたのです。私から受けよと言われている。

 

神のみ子のみ体は十字架の上で、切り刻まれることになります。

 

さあ、共に生きよう。

主は飢えた者に

その身をパンとして

与えてくださる。

アーメン

『讃美歌21-419 4節より』

 

ともに歌い、祈りましょう。end

 

 

 


2017年7月16日(日)の礼拝報告時、ご覧のポスターをもとに、楽しみな会のご案内がありました。素敵なポスターが出来上がってます。説明中の寿子さんが挑戦してくれました(^^♪
2017年7月16日(日)の礼拝報告時、ご覧のポスターをもとに、楽しみな会のご案内がありました。素敵なポスターが出来上がってます。説明中の寿子さんが挑戦してくれました(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 112

       2017年7月16  主日礼拝からの"余滴" 

        『  わたしを執り成してくれる人  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 18章27節、32節~33節
27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。・・・・32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

 

手元の大きな国語辞典(『精選版 日本国語大辞典 』・小学館)で〈執り成し」について引いてみました。

 

5項目にわたって記されていますが、5番目にこうあります。【特に、キリスト教で、他者のために神に対して懇願したり許しを求めたりすること。また、その祈り。】と。

 

つまり、キリスト教信仰をもって生きようとする者にとって、欠かすことの出来ない「つとめ」が〈執り成し〉だと考えられているのです。

 

                    **************

 

創世記18章の後半で〈執り成し〉をしている人、それはアブラハムです。甥っ子のロトがその家族と共に暮らしているソドムが、主によって裁かれ、滅ぼされることになりそうだということに気付いたアブラハム。

 

彼がその時に主のみ前で始めたのが〈執り成し〉の祈りと言われるものだったのです。

 

       **************

 

我々、しつこい人はあまり好まないものです。

 

しかし、ここでのアブラハム。主に対して執拗(しつよう)に迫ります。「義人が50人居れば」から始まり、「義人は10人しかいないかも知れませんが」という所にまで至ったのです。

 

ところが、アブラハムの〈執り成し〉の祈りは失敗に終わるのです。

 

決して良い結果を生み出してはいない。それは創世記19章において、ソドムが硫黄(いおう)の火に呑み込まれて行く場面から分かります。

 

ソドムに義人は一人も居なかった(ローマ書3:10参照)。アブラハムの執り成しでは、とても足りない不義がソドムには蔓延していたのです。

 

                    **************

 

我々は立ち止まって考える必要があります。ソドムとは一体何か。我々とは無縁の地、遠い過去の事だろうか。私たちはどうすべきなのかと。

 

ラジオでニュースを聴いていても、酷い話、聴かなければよかったなと思うこが耳に飛び込んで来ます。このままで本当に良いのか、と絶望しそうになることが続く。ため息をつき、あんまりじゃないか、と考えてしまうのです。

 

こういうことは、今の時代だけなのでしょうか。

 

だからといって、耳を塞ぎ、目を背けているだけでは、人として、クリスチャンとして無責任ではないか、と悩むのです。

 

                    **************

 

イエスさまは【あなた方は地の塩・世の光である】(マタイ5章)と語って下さいました。

 

私たちは足りない者なのに、承知して居られるはずなのに、そう言い切って下さるのです。

 

アブラハムに必要だったのは、彼のために〈執り成してくれる〉一人の人の存在でした。アブラハムも誰かに見えない所で祈って貰う必要がある。突き詰めて言うならば、彼にもイエスさまの〈執り成し〉が必要だったのです。

 

     **************

 

不十分な祈りしか出来ないのが私たちです。まずそれを認めましょう。

 

でも、それでも大丈夫。イエスさまが共に居られます。十字架と復活のイエスさまに祈って頂くのです。

 

今もこれからもずっと、力みを捨て、委ねて祈って頂く。キリスト者の安心の源がここにあります。end

 

 


2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。
2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。

          《  み言葉 余滴  》 111

       2017年7月9  主日礼拝からの"余滴" 

        『  丸太はどこへ行ったのか  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 6章41節~42節前半
41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

 

私が二歳の頃から小学校6年生の頃まで「わが家」として暮らしていた家は、〈梁・はり〉がむき出しの〈納屋〉を改造したものでした。

 

『新明解国語辞典』で〈梁・はり〉という語を調べてみました。「

 

屋根をささえるために横に渡した、太くて長い材木」とあります。まさに剥き出しの〈梁〉が、わたしの育った家の一階にも二階にもあった記憶は鮮明です。

 

                    **************

 

このみ言葉が語られている箇所を注意深く読んでみると、このお話はイエスさまに依る〈譬え話〉として語られています。

 

そもそも、人の目の中にある「おが屑」を見つけることすら普通はできません。それなのに、イエスさまはここで、深く、切実な祈りのこころをもって、【まず自分の目から丸太を取り除け】とおっしゃるのです。

 

我が子や教え子が〈可愛くて、かわいくて、たまらないさま、溺愛するさま〉を言う時に、「目に入れても痛くない」と言うことを思い出します。

 

                    **************

 

自分の目の中にある〈丸太〉とは何なのだろうかと、私たちは考える必要があります。

 

他の聖書の多くで、〈丸太〉は〈梁・はり〉と訳されています。日本の昔ながらの家には〈大黒柱〉と呼ばれる特別な柱がありましたが、〈大黒柱〉は象徴的な意味合いをもたせている柱に過ぎません。

 

それに比べると、〈丸太〉や〈梁・はり〉というものは、実質的に私たちが雨風をしのぎ、何があっても安心して暮らしていけるようにするための骨格です。人生の骨組みをなすものと言えます。

 

この〈譬え話〉を読む時、〈丸太〉や〈梁〉には、そのような意味が隠されていることを知りたいのです。

 

                    **************

 

パウロという人が回心し、キリスト教の伝道者として歩み出すその直前に、あるものが目から落ちた、と記録されています。

 

それは【うろこ】です。使徒言行録9章18節に【すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち】とあります。

 

正確には【うろこのようなもの】とあります。

 

人間の目にはうろこがあるはずがありません。

 

                    **************

 

では、【のようなもの】とは何だったのか。

 

英語の聖書では「うろこ」は「scales」が使われることがあります。「scales」にはもちろん「うろこ」の意味もありますが、それ以外に、「物差し・定規」という意味があります。

 

パウロは、彼のこれまでの「価値観」「人生の尺度」を神さまによって振るい落とされ、新しい人に変えられ、伝道者として用いられていったのです。

 

                    **************

 

イエスさまは【まず自分の目から丸太を取り除け】と語られますが、丸太を自力で動かすことなど、私たちはどう頑張っても出来ません。

 

唯一それが可能な道。それは、イエスさまによって〈丸太〉を取り去って頂く方法です。イエスさまが磔(はりつけ)にされた十字架を思い起こしましょう。

 

あの十字架は、私たちの目の中の〈丸太〉。

 

いえ、私たち罪人の人生の骨格をなしていた〈丸太〉であり〈梁・はり〉だったからです。end

 

 


2017年7月2(日)昼過ぎに撮影した、旭東教会の玄関ホールにあるレンブラントの「放蕩息子」のコピーです。Wさんご夫妻からの献げもの。この日のメッセージに合わせて撮影しました。兄の姿は後ろにボンヤリと見える人ではないかと思いますが。
2017年7月2(日)昼過ぎに撮影した、旭東教会の玄関ホールにあるレンブラントの「放蕩息子」のコピーです。Wさんご夫妻からの献げもの。この日のメッセージに合わせて撮影しました。兄の姿は後ろにボンヤリと見える人ではないかと思いますが。

          《  み言葉 余滴  》 110

       2017年7月2  主日礼拝からの"余滴" 

       『  もう一人の放蕩息子  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 15章28節~29節、31節~32節
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。・・・31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』

 

私の無二の親友T君が九州のとある町に暮らしています。

 

小学校の教諭ですが、教頭・校長先生の道は選ばす、日本サッカー協会の働きの中で、九州の小学生レベルでの普及に心血を注ぎながら長年仕えて来ました。もちろん、一人の教師としても当たり前以上に頑張っている男です。

 

90歳になろうかという母親の苦労を知っているT君。

 

彼は、16歳で出逢った頃からずーっと、いつも弟や妹に気を遣いながら、孝行息子として生きて来ました。

 

私などとは違って、決定的に踏み外すことのないヤツなのです。ここに登場するお兄ちゃんを思うとき、ふと、T君のことがよぎります。

 

                    **************

 

イエスさまを通してあきらかにされる福音は非常識です。

 

なぜならば、罪人が〈ただで赦される〉からです。そんなことがあってよいのか。おかしいじゃないか。そう思う人が居ても少しもおかしくありません。


怒りを抑えきれず、憤りをそのまま父親にぶつける兄が居ます。

 

彼のように、真面目に、誠実に、キッチリと生きて来た者にとって、この父親の気前の良さは受け入れがたいことなのです。

 

実は、この兄とは、譬え話をイエスさまが語り出す切っ掛けをつくった〈徴税人と律法学者〉の分身です

 

神の国の祝宴は常識を越えた形で展開していきます。福音の物語というものが、お兄ちゃん息子を通しても明らかにされようとしているのです。

 

                    **************

 

いつも頑張り続けて来たお兄ちゃん。

 

腹が立ちました。ヘソも曲げます。何しろ、先に財産分与を受け、勇んで異邦の国へ身勝手に旅立った弟です。

 

放蕩の限りを尽くし、娼婦に身を持ち崩してしまった弟が戻って来た。それだけでも本当ならば立派なスキャンダルです。

 

ところが父親は、そのとんでもない弟を大喜びで迎え、一緒に祝おうじゃないかと言う。兄にとってこれは信じがたいこと、ゆるせないことでした。

 

私は兄がこれ程までに激しく父親にぶつかっていったことは、彼の人生の中で、一度も無かったのでは、と想像します。いかがでしょう。

 

                    **************

 

兄をなだめようとしている父親は、宴席を離れ外に出ます。そしてお兄ちゃん息子と向き合うのです。

 

父は兄に対して、お説教しているのでしょうか。叱っているのでしょうか。

 

いいえ、そうではありません。

 

お兄ちゃん息子は、久しぶりに、本当に思い出せないくらい久しぶりに、父親の胸に抱きしめられていたのです。「お父さん、お前の気持ちも、よーくわかっているぞ。お前もたいせつな私の息子だ」と伝えていた。

 

父からすれば、久しぶりにその腕に、その胸に抱かれるべく帰って来た、もう一人の愛する息子に他ならない。ここに神の国の不思議があります。end

 


2017年6月11日(日)は三位一体主日でした。雅代さんの献花、生きているなぁと感動です。
2017年6月11日(日)は三位一体主日でした。雅代さんの献花、生きているなぁと感動です。

          《  み言葉 余滴  》 107

       2017年6月11 主日礼拝からの"余滴" 

       『  すきまスイッチを入れよう  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 3章4節~5節、8節
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。・・・8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 

聖書をひとりで読んで「最初からよくわかりました」という人は果たしてどれ程おられるでしょう。

 

たとえば、新約聖書の一番初めにあるマタイによる福音書の1章。聞いたことも見たこともない人たちの名前が延々と続くのです。多くの方が途方に暮れます。「この本、私にはわからない」と背を向けたくなります。

 

神の言葉は、いったいどうしたら、心の奥深くに達するのでしょう。ヨハネによる福音書3章に登場する一人の男に、み言葉は届くのでしょうか。

 

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ここに登場するニコデモという人。

 

彼は当時の聖書の舞台であるユダヤ人の社会の中で常に一目置かれる人だったはずです。真面目で誠実で徳もある人。

 

福音書記者ヨハネが伝える「ファリサイ派でユダヤ人たちの議員であった」という言葉は、そうしたニコデモの人間像をも指し示しています。

 

                    **************


興味深いのは、ニコデモがイエスさまの前に姿を現したのが「夜」だったということです。

 

これは、ニコデモがイエスの元を訪ね、教えを乞う姿を他の人たちに絶対に見られたくなかったことを示しています。と同時に、彼の心が長いこと闇の中をさまよっていたことを告げているのです。

 

                    **************

 

頭のいいニコデモ。人生経験豊かなニコデモ。彼は生きて行くための知恵ならば十分すぎる程に身に付けていたはずです。

 

でも、彼はそれでも何かが足りなくて、この夜、イエスに教えを乞おうとしたのです。

 

ところが、ニコデモが聞いたイエスさまのお言葉は腑(ふ)に落ちないものばかりでした。

 

【だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない】

 

【風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない】

 

結局ニコデモは、この場面ではいつの間にか闇夜に姿を消してしまいます。納得できなかったのでしょう。

 

そんなニコデモがイエスさまと再会するのは、十字架の死を遂げられた後の、主イエスのご遺体を引き取る時でした。ニコデモが決定的な転機を迎えるのは、主の十字架を仰いだ後だったのです。

 

                    **************

 

イエスさまは言われます。「風に吹かれよ、聖霊を受けよ、神の息を吹き込まれよ」と。

 

でも、この時のニコデモの姿勢では、神さまからの風は心に届きません。風を跳ね返してしまう固さが彼をおおっていました。

 

上からの風が吹き抜ける隙間をつくりましょう。聖霊の通り道を我が心の内につくるのです。

 

ニコデモに必要だったのは、自分という人間がなんと不完全で、こころもとない存在であることを認める心。そして、告白でした。

 

      **************

 

ニコデモは過去の人物ではありません。私たちこそ風に吹かれたい。

 

主の前にひざまずき、自分がいかに不完全な者であるのかを認めるのです。破れを素直に認める心を、主は慈(いつく)しんで下さいます。end

 

 


2017年6月4日(日)はペンテコステでした。今年の礼拝堂前方にはこのような聖霊が降って来ました(^^♪
2017年6月4日(日)はペンテコステでした。今年の礼拝堂前方にはこのような聖霊が降って来ました(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 106

       2017年6月4 主日礼拝からの"余滴" 

        『  愛の言葉をとどけよう  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 2章1節~4節
1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

口は災いの元と申します。

 

そして「舌」にも似た所があります。「舌の根も乾かぬうち」という言葉があります。「舌を鳴らす」「舌を出す」などは、悪いことを指摘する場合に使われます。ヤコブの手紙3章8節では【舌は疲れを知らない悪で、毒に満ちている】と注意を促す程です。

 

しかしここで【炎のような《舌》が一人一人の上にとどまった】とあるのは、明らかに、善いものとしての「聖霊」が降ってきた時の様子を表現しています。

 

果たしてこの《舌》は何のために用いられるべきものなのでしょう。

 

                    **************

 

旧約聖書に登場する偉大な指導者モーセ。

 

ちょっと意外なことですが、彼は指導者でありながら、弁が立つ方でもなく、口が重く《舌が重い者なのです》(出エジプト記3:10)と自ら語っています。

 

そうです。舌というのは、言葉を語るためになくてはならない大切なものなのです。聖霊降臨の出来事とは、実は、一人一人が大胆に、自分らしくイエスさまのことを証しするためにどうしても必要なものなのです。

 

では、「聖霊」に包まれた《炎のような舌》を用いて語るべき言葉とは、一体、誰に、どこで、どのように向けられるべきなのでしょう。

 

                    **************

 

使徒言行録1章8節に、わたしたちに語られていると感じる言葉があります。

 

【あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。】

 

ここでの「地の果てに至るまで」の《地の果て》という言葉。距離的な意味での果てしなく遠く、を意味しているとものとは思えません。

 

「世界の果て」とか「地の果て」というのは、これから先、わたしたちの大切な人、愛する人になっていく人が、苦しみ悩んでいる。その絶望の淵や深い悲嘆の中にある場のことを指し示している、と考えるべきでしょう。

 

誰もがパスポートを手にし、「あなたも勇気を出して、見知らぬ遠くの国へ出て行ってごらんなさい」と言われているわけではないのです。

 

                    **************

 

正直に申しますと、わたしは、今年=2017年のペンテコステを迎えるまで、ここでの《炎のような舌》ということについて、立ち止まってじっくり考えることが出来ませんでした。他のことを考えていたのです。

 

でも、今年のペンテコステを通して、そうか、《舌》って大切なんだなぁとようやく考えることが出来るようになりました。本当に嬉しいことです。

 

                    **************

 

わたしたちの発する言葉は、主をほめ讃(たた)えるために用いると同時に、出逢っている人を高め、勇気が出てくるような言葉を語るために用いたいものです。

 

人を生かすのも殺すのも言葉。神さまはわたしたちにも、愛の言葉を語らせて下さろうとしています。ペンテコステを豊かに生きるためにも、愛を届ける言葉を携えて参りましょう。end

 


2017年5月21日(日)亮子さんによる生き生きとした献花に感謝。
2017年5月21日(日)亮子さんによる生き生きとした献花に感謝。

          《  み言葉 余滴  》 104

       2017年5月21 主日礼拝からの"余滴" 

        『  心の包皮を切り捨てよ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 17章11節~12節
11 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。12 いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。

 

アウシュビッツの強制収容所に連行され、アドルフ・ヒットラー率いるナチスによって命を奪われたのは旧約聖書の主人公であるユダヤ人でした。

 

誰がユダヤ人であるのかを見分けるための確実な方法があります。それは「割礼」を受けているかどうかを調べることだったのです。

 

ユダヤ人はユダヤ人であることを誇りとし、自分がユダヤ人であることを隠そうとはしません。その結果、なんと600万人もの人たちが殺害されるのです。

 

実は、創世記17章は、聖書の中で初めて「割礼」のことが語られる箇所であることを心に留めましょう。

 

**************

 

現代のキリスト教徒にとって、もはや「割礼」は必要ないものです。

 

ただし、忘れてはならないことがあります。イエスさまは、ベツレヘムの飼い葉桶にお生まれになりましたが、羊飼いたちの訪問を受けたすぐ後に、割礼を受けておられるのです。

 

ルカによる福音書2章21節に【八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた】と記されている通りです。

 

**************

 

信仰の父となって行くアブラハムに対して命じられた「割礼」。

 

これは、神の民に対しての祝福が永遠に続く契約を意味しています。その祝福が、後(のち)の世代にも引き継がれて行くことを明確にするのが「割礼」でした。

 

ところが、十字架と復活のイエス・キリストの福音によって、もはや契約のしるしとしての「割礼」は意味を持たなくなりました。それは、使徒パウロが『ガラテヤ書』の中で徹底して語っていることです。

 

では、クリスチャンであるわたしたちにとって「割礼」は、もはや 何の〈意味〉も持たないのか。

 

いいえ、そんなことはありません。「割礼」は重要なことを告げる先駈けとなっているのです。

 

**************

 

申命記(しんめいき)10章に「神が求められること」という小見出しのある箇所があります。

 

次のみ言葉がモーセを通して示されます。【15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。】(申命記10:15-16)

 

「心の包皮を切り捨てよ」というお言葉。

 

これには、ユダヤ人もクリスチャンも、男も女も、子どもも大人もありません。神さまが求められた「割礼」の行き着くところはこれでした。

 

**************

 

わたしたちが、心の奥底に包皮で覆い隠したままでは出逢うことが出来ないものを打ち破るために、主イエスは来臨され、思いも寄らぬ仕方で心の包皮を切り開いてくださったのです。

 

それは何の恐れも抱かなくてよい仕方でした。

 

主の愛に心を向け、「心の包皮を切り捨て」て頂く生き方を始めましょう。end

 

 

 

 


2017年5月7日(日)先週に続いて礼拝応援に伺った十文字平和教会の竹林の筍。これ程の巨大な筍、やはり珍しいようです。勝さんが掘り起こされたのです。
2017年5月7日(日)先週に続いて礼拝応援に伺った十文字平和教会の竹林の筍。これ程の巨大な筍、やはり珍しいようです。勝さんが掘り起こされたのです。

          《  み言葉 余滴  》 102

       2017年5月7 主日礼拝からの"余滴" 

      『  神さまに知られているあなたへ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ガラテヤの信徒への手紙 4章9節、19節~20節
9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。・・・・・・19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

皆さん、「もとの木阿弥(もくあみ)」という言葉をご存知かと思います。

 

代表的な国語辞典のひとつ『広辞苑』を開いてみました。

 

そこには、「いったん良い状態になったものが、再びもとのつまらないさまにかえること。苦心や努力も水泡に帰して、もとの状態にもどってしまうこと。」と解説されています。

 

ガラテヤ地方の人々は、ひたすら律法を守り抜くことを通して得られる正しさから離れ、一度は、パウロが伝えたイエス・キリストの福音を信じていたのです。それなのに、「もとの木阿弥」になってしまったようです。

 

                    **************

 

ガラテヤの信徒への手紙の著者パウロは【なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのか】と言って叱り始めるのですが、わざわざ、【語調を変えて】語ろうとしていたことが記されています。

 

実はわたくし、長年この箇所の【語調を変えて】は〈この先は少し厳しい口調〉で語らせてもらいますよ、と言っているのだと思い込んでいました。

 

でも、どうやら間違っていたようです。逆なのです。

 

パウロは、【わたしの子供たち】という呼びかけも含めて、様々に配慮をしながら、やさしい口調でメッセージを伝えようとしているのです。

 

                    **************

 

この箇所で読み落としてはならない大切な前提とも言うべき言葉が、9節にそっと置かれています。

 

それは、【いや、むしろ神から知られているのに・・・】という言葉です。

 

かつてのガラテヤの人々は、〈神を知るために〉〈神のみ心を学ぶために〉様々な努力をし、鍛錬をして来たのです。

 

しかし、クリスチャンにとって重要なのは、「努力と頑張りで神を知る」ことではないのです。

 

それならば、どんな風に神を知るべきなのか。

 

むしろ「神さまは、わたしたちのことを知り尽くして下さっているお方なのだ」という信仰の事実に対して、こころから「アーメン」することが求められています。

 

                    **************

 

あなたがたは、イエス・キリストの愛に触れ、これからの人生をイエス・キリストで生きて行く、という自由な生き方を見いだして一度は決心したのだから、もう昔に戻ってはいけない。

 

パウロはそう語っています。

 

「神さまって、やっぱりわたしの思っていた通りのお方だった」ということを確認したり安心することが、わたしたちの信仰の目標ではありません。

 

【大切なのは、新しく創造されること】(ガラテヤ書6:15)です。

 

その希望に生きる途上においてこそ、わたしたちの人生の深い喜びを発見できるはずです。end

 

 


2017年4月30日(日)礼拝応援に伺った、岡山空港に近い十文字平和教会の竹林の筍です。前日、土曜日の夕刻、新鮮な筍を勝さんが大きな籠に二つ、届けて下さったのがこれです。心から感謝。
2017年4月30日(日)礼拝応援に伺った、岡山空港に近い十文字平和教会の竹林の筍です。前日、土曜日の夕刻、新鮮な筍を勝さんが大きな籠に二つ、届けて下さったのがこれです。心から感謝。

          《  み言葉 余滴  》 101

      2017年4月30 主日礼拝からの"余滴" 

       『  どこから来て、どこへ行くのか  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 16章6節~9節 

6 アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。7 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、8 言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、9 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」

 

逃げ出した女奴隷ハガル。お腹に宿した新しい命を感じたのもつかの間。この時、既に、死を覚悟していました。まだ見ぬわが子と共に。

 

主人のもとから逃げ出した彼女を追いかけてくる人は居ません。探す人も居ない。つまり、「お前は、居てもいなくてもどちらでも構わない」ということが暗に語られているのです。なんと心傷む状況でしょう。

 

**************

 

故郷であるエジプトの方に向かって飛び出しはしたものの、彼女は既に疲れ果てていました。

 

生きる望みは絶たれ、力も、支えもない。頑張ろうにも、もはやその力を振り絞ることなど不可能な事態の中に身を置いていました。

 

**************

 

ところが、渇ききった魂のハガルが、荒れ野の泉に身を寄せたその時、思いも寄らなかった出遭いを経験するのです。

 

現れたのは、神のみ使いでした。

 

これまで、ハガルが神の助けを求めて祈っていたような気配はありません。けれども、神さまは信仰のないハガルを独りにはしませんでした。み使いを通して語りかけます。神は人間の側の準備とは無関係にことを進めます。

 

**************

 

み使いを通してハガルが聴いた最初の言葉。

 

それは、【あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか】という問いかけでした。

 

「お前はこの先、身を寄せて生きて行くことが出来る当てがあるのか?」。一見、そんな風に尋ねられているようにも見えます。

 

しかし私はこう受け止めました。

 

これは、人が人として生きて行こうとするのならば、誰もが、いつも心のどこかで祈り求めるべき言葉ではないかと。

 

**************

 

逃げるしかない。それが彼女の現実でした。ハガルはそれしか道がないと思っていた。

 

にもかかわらず、救いの神は、ハガルがどんな状況に置かれようとも、生きて行くことが出来るお言葉を下さるのです。

 

先ずは、「帰りなさい、そして、仕えなさい」と言われます。神さまは、ハガルの荷を軽くしようとは言われません。

 

しかし、彼女は気付いたのです。もう私は独りではない。私を顧みて下さる方が居られる。わたしのすべてをご存知のお方が、これからの人生を共にして下さることを知ったのです。

 

**************

 

私たちも【あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか】というお言葉を聴きました。

 

素直な心で答えましょう。そうすることが出来るならば、「さらに」「また」という形で、次なる約束の言葉を聴く時が来るのです。

 

逃げることはすべてが悪ではありません。そこにもまた必ず道が備えられます。だから、私たちは生きて行けます。end

 

 


2017年4月24日(月)旭東教会から歩いて10分。サイの像がある公園をお散歩。新緑と青空が眩しかった。西大寺の公会堂が後方にあります。
2017年4月24日(月)旭東教会から歩いて10分。サイの像がある公園をお散歩。新緑と青空が眩しかった。西大寺の公会堂が後方にあります。

         《  み言葉 余滴  》 100

      2017年4月23 主日礼拝からの"余滴" 

       『  わたしも疑っていました  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 ◎マタイによる福音書 28章16節~20節
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

新約聖書のいちばん初めに置かれているのが『マタイによる福音書』です。福音書の中では一番長い28章。60㌻に及ぶ長編です。

 

この福音書が書き上げられ、各地の教会で読まれるようになったのはいつ頃か。諸説ありますが、完成はどんなに早くても西暦70年過ぎと言われます。

 

イエスさまの活動舞台であるユダヤ近隣以外にも、現代のトルコとかヨーロッパやアフリカの各地の異邦人の地に教会が誕生しました。

 

しかし福音が広がり始める一方で、困難な課題に直面し、元気を失いそうになっていた教会の人々を勇気づけようとした内容がここにはある。

 

わたしはそう読みました。

 

                    **************

 

マタイ福音書の最後にはイエスさまの約束のお言葉があります。何と書かれているのか。見過ごしてはもったいない。

 

【いつもあなたがたと共にいる】。

 

イエスさまはこのひと言をどうしても伝えたかったのです。

 

初代キリスト教会の人々はこの言葉をみんなで聴きました。何かしらの疑いや不安を持ち始めていた各地の教会の人たちは、最後のこの言葉をかみ締めます。

 

もう一度、ひとりのクリスチャンとして、信じる者たちの群れとしての姿勢を整えていきました。頑張れると感じたのです。

 

                    **************

 

あれ? これってどこかで聴いたことがあるような気がする。そう思われる方が居られるかも知れません。

 

実は、クリスマス物語として知られるマタイ福音書1章で、イエスさまのお父さんになるヨセフに対して、み使いが語り伝えている言葉にそっくりです。

 

【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(1:23)とあります。

 

福音書記者マタイは、初めにもおわりにも、【いつもあなたがたと共にいる】と記して、念押ししているのです。

 

これこそわたしたちへのメッセージです。

 

                    **************

 

疑いを持っている弟子たちがその時にいたと記されています。

 

【イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。】とある通りです。

 

ある英語の聖書では「疑いに満ちていた」をあらわす語が使われています。約束されていたガリラヤでイエスさまと再会した11人の弟子たちのうち、複数名がひれ伏しながら疑っていたのです。

 

      **************

 

これは、けしからんことでしょうか。

 

いいえ、ここにこそ福音があります。信じ切れない者を、信仰がすぐに萎(な)えてしまうような者を、イエスさまは信頼して下さる。不思議です。あり得ません。

 

でもこれこそが、神さまのなさり方。ここに神の愛があります。

 

キリストの愛に応えたい。その心が伝道の第一歩です。end

 

 


2017年4月16日、イースター・復活祭の朝 旭東教会の礼拝堂の卵の樹です。下の方にはうさぎさん。卵はいろんな仕方で染められています。美樹さんのご奉仕に感謝!
2017年4月16日、イースター・復活祭の朝 旭東教会の礼拝堂の卵の樹です。下の方にはうさぎさん。卵はいろんな仕方で染められています。美樹さんのご奉仕に感謝!

         《  み言葉 余滴  》 99

      2017年4月16 主日礼拝からの"余滴" 

    『 〈だいじょうぶ〉のイエス  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 28章1節、8節~10節
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。・・・8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

わたしが大切にしている絵本のひとつに『だいじょうぶ だいじょうぶ』(いとうひろし作・絵)があります。

 

教会で行う「グリーフケアの集いで、読むか読まないかは別にしても、必ず持参します。こんな言葉から始まる絵本です。

 

          ぼくが いまより ずっと あかちゃんに ちかく、
      おじいちゃんが いまより ずっと げんきだった ころ、
                      ぼくと おじいちゃんは、
        まいにちのように、おさんぽを たのしんでいました。

 

お散歩の途中に経験する出来事の中に、困ったこと、恐いことがたくさんあることを知った〈ぼく〉に対して、おじいちゃんは「だいじょうぶ   だいじょうぶ」をくり返す。ただそれだけの絵本です。

 

やがて、召され行くおじいちゃんの枕辺で〈ぼく〉は「だいじょうぶ   だいじょうぶ」と語りかけてあげるのでした。

 

                    **************

 

復活の証人、いえそれどころか、キリスト教の成立に無くてはならない女性たちの中で特に名が記録される人。

 

それがマグダラのマリアです。

 

イエスさまの復活を最初に告げたのは主の天使でした。開口一番に告げているのは【恐れることはない】という言葉でした。そのあとで、幾つかのことを語りますが、わたしはこの言葉は決定的に重要だと思っています。

 

そして、この言葉を柔らかな言葉に換えるならば、わたし流ですが、「だいじょうぶだよ」ということが出来ると信じています。

 

この「だいじょうぶだよ」を抜きにしては、あとの言葉はあり得ません。

 

                    **************

 

天使からの促しを受けたマリアたちの心模様について、福音書記者マタイ。

 

そっと、こう記しています。

 

【婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り・・・走って行った】と。

 

そうです。

 

マリアは間違いなく恐れていました。緊張、そして不安があった。いったいどうなるのかと心配だった。

 

と、そこに、遠くから近づいて来られるイエスがあらわれます。傷ついた肉体をもつイエスさま。傷ついたこころをお持ちのはずのイエスさまが。

 

                    **************

 

足下にひれ伏し、イエスさまの足を抱きしめる女たち。

 

その存在を、ひたすらに愛おしく確かめるマリアたちは、主のみ顔を見ているわけではありません。そんな二人のこころに届いた言葉があったのです。

 

それが【恐れることはない】でした。

 

そうです。「だいじょうぶだよ」が語られるのです。

 

これこそが、この場面でどうしても必要な、神さまのみ心を示すお言葉でした。

 

                       **************

 

大丈夫のイエスさまが居られます。

 

それが愛の主であり、救いのイエスです。

 

あなたにも、み使いが、復活のイエスさまがそのお言葉を下さいます。end


 


2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪
2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪

         《  み言葉 余滴  》 97

      2017年4月2 主日礼拝からの"余滴" 

       『  ごめんね ユダ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 27章3節~5節
3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

 

北島三郎さんが歌った『帰ろかな』という歌があります。永六輔さん作詞、中村八大さん作曲です。久しぶりに聴いてみました。

 

昭和40年・1965年の歌ですから、私が幼稚園児の頃です。

 

そんな私ですら、「帰ろかな 帰るのよそうかな」の繰り返しの部分をハッキリ覚えています。

 

                    **************

 

イスカリオテのユダ。裏切り者の代名詞です。

 

この人さえいなければ、イエスさまのご受難の頂点、十字架の死はなかったのでしょうか。

 

私は、「ユダさん、あなたは確かにイエスを引き渡した張本人だよね。サタンがあなたに狙いを定めて入りこんだんだ。でも、でも、でもね、あんただけが悪者じゃないよ」と言いたくなってしまいます。

 

蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げて行ったほかの弟子たちはどうなのよ。奴らは何をしていたんだ、と思わないではいられません。

 

                    **************

 

パウロは〈神の家族〉という言葉を『エフェソの信徒への手紙』で語っています。

 

【あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり・・・そのかなめ石はキリスト・イエスご自身】(エフェソ書 2:19-20)

 

〈神の家族〉。教会生活を続ける私たちにとって鍵になる語の一つです。

 

                    **************

 

ユダの裏切りやイエスさまのご受難に直面した時、共に歩んできた弟子たちの心には、〈神の家族〉としての〈アイデンティティー〉は無かったのでしょうか。

 

〈アイデンティティー〉という言葉。

 

少しむつかしいですが、たとえば『新明解国語辞典』では、「自分という存在の独自性についての自覚」と説明されています。

 

                    **************

 

神に選ばれ、イエスさまに召し出され、世にはない特別な恵みとあわれみに生かされて来た弟子としての自覚はどこに?

 

助け合い、赦し合い、認め合いながら生きるのが主の僕だったのでは? と問いたくなります。

 

ユダは祭司長たちの処(ところ)ではなく、まず、労苦を共にしてきた〈神の家族〉である弟子たちの処(ところ)に戻ることは出来なかったのでしょうか。

 

                    **************

 

悲しいかな、弟子たちは世にある生身の人間でした。

 

彼らにはまだ〈神の家族〉の自覚を持てず、自分のことだけしか考えられなかった。取り返しの付かないことをしたユダが、帰る場所をつくり出せなかったのです。

 

**************

 

でも、そんな彼らが、主イエス・キリストの十字架と復活、そして約束の聖霊の出来事を経て、初めて「お帰り、ユダ」「つらかったな。本当にごめんな」と言える人に変えられて行く。

 

そこに〈神の家族〉は誕生するのです。

 

私たちも〈神の家族〉としてゆっくりと深まって行きたい。

 

そのためには、互いの弱さと罪人としての自覚、告白が求められるのです。end

 

 


2017年3月26日(日)の亮子さんによる献花。JC礼拝後のもの。いつもと違う角度からのお届けです。奥の椅子は礼拝のとき牧師が座る席です。
2017年3月26日(日)の亮子さんによる献花。JC礼拝後のもの。いつもと違う角度からのお届けです。奥の椅子は礼拝のとき牧師が座る席です。

         《  み言葉 余滴  》 96

      2017年3月26 主日礼拝からの"余滴" 

    『  くずれ落ちて  出会うもの  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 26章74節~75節
74そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。

 

数時間前、イエスさまは、通いなれたオリーブ山に向かう途中で弟子たちに語られます。「あなた方は、皆わたしにつまずく」と。

 

それだけではありません。

 

「わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く」と言われました。

 

復活が語られるということは〈死〉が前提です。

 

                    **************

 

即座に、ペトロは胸を張って言いました。

 

「ほかの者たちが、もしも先生につまずくことがあっても、わたしだけは大丈夫」と。

 

他の弟子たちも居合わせた時の言葉ですから、彼の自信の程がうかがえます。

 

ところが、イエスさまは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と預言されたのです。

 

この時もペトロは、何の迷いもなく誓います。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らない等とは、決して申しません」と。

 

                    **************

 

結果はどうだったか。

 

大祭司カイアファの中庭で「お前さん、ヤツの仲間だろ」「いつも一緒にいたよね」という言葉にふれたペトロは、心臓が口から飛び出しそうになります。

 

一度は、平静を装って「何のことを言っているんだい、俺にはさっぱりわからんよ」と答えました。

 

そしてその後、身を震わせながら、ガリラヤ弁丸出しで、二度、三度繰り返したのです。「そんなヤツは知らねぇ!」と。

 

すると「鶏」が鳴いたと聖書は告げています。

 

「鶏が鳴く」とは夜明けを告げる意味もありますが、同時に、闇がもっとも深いことも意味しています。

 

ペトロはその後も、朝毎に鶏の声を聴き続けるのです。

 

                    **************

 

元々は〈シモン〉という名だったガリラヤ湖の漁師に、〈岩〉という意味の〈ペトロ〉と名付けられたのはイエスさまでした。

 

ペトロは使徒言行録4章13節で「無学な、普通の人」と紹介されています。

 

だからこそ、〈律法も知らない、勉強の足りないヤツだ〉なんて言われないように、気合いと熱意でこれまでイエスさまに従って来たことでしょう。

 

人は一見強そうに見えても、自分でも気づかないひび割れを抱えている存在です。

 

岩は崩れ落ちました。ペトロは独り激しく泣いた。自分の愚かさ、罪深さに初めて真正面から向き合ったのです。

 

                    **************

 

神の愛は、砕け落ちたわたしたちを決して見捨てません。

 

わたしたちには復活のイエスの愛がある。待ちましょう 主の復活を。もう一度聴きましょう 主の愛の言葉を。受けましょう、キリスト・イエスの聖霊を。

 

       きのうも今日も かわりなく  血しお滴(したた)る み手をのべ、
      「友よかえれ」と 招きつつ  待てるは誰(たれ)ぞ、主ならずや。
                                                 (讃美歌21-197④節より)end

 

 


2017年3月12日(日)の献花。亮子さんが正面からでは見えないところに生けておられたのがこの〈紫色〉のお花。「そして、イエスに紫色の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王、万歳と言って敬礼し始めた」(マルコ福音書14:17)に通じるレント・受難節の色です。
2017年3月12日(日)の献花。亮子さんが正面からでは見えないところに生けておられたのがこの〈紫色〉のお花。「そして、イエスに紫色の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王、万歳と言って敬礼し始めた」(マルコ福音書14:17)に通じるレント・受難節の色です。

         《  み言葉 余滴  》 94

      2017年3月12 主日礼拝からの"余滴" 

    『 〈最初(さいしょ)〉の晩餐 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 26章26節~28節
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 

食べることを大切にされていた大先輩牧師の思い出があります。

 

残念ながら70歳そこそこで天国へ召された、藤原亨(とおる)先生という方です。

 

**************

 

私が神学生になる前は鹿児島加治屋町(かじやちょう)教会の牧師でした。奄美大島のハンセン病の療園教会訪問の中継点として銀座教会の先輩方と共に伺った折り、礼拝で証しの機会を頂きました。

 

その後、神学生時代に、転任された富山県砺波(となみ)市にある出町(でまち)教会で再会します。夏期伝道実習生としてお世話になったのです。牧師館で食卓の祈りもご一緒したのは懐かしい思い出です。

 

**************

 

藤原先生。私が新潟県上越市の高田教会に着任したことを知ると「これ、日本一のお焼きだよ」と言いながら、信州名産のお焼きを、袋いっぱいに抱えて来て下さいました。

 

そんなこともあって、隠退後は、私が兼務していた妙高市・新井教会の礼拝応援に二ヵ月に1度は、富山県から改造した車に寝泊まりして駆けつけて下さるなどして、本当に熱いこころをもってご指導下さった方でした。

 

**************

 

そんな藤原先生がこう言われたのです。「人は、他のことは忘れても、誰とどこで、何を食べたかを忘れないもの。食べることは大切なんだよ」と。

 

私の場合、幼い頃の朝食は忘れられません。味噌汁は豆腐と油揚、ワカメ、ナス、キャベツ等。魚系では、目刺し、アジのみりん干し、焼きたらこ等。他には、鯖の味噌漬けがよく出たことを直ぐに思い出せます。

 

**************

 

世界の多くの画家たちが、聖書から何かを描こうとする時に欠かせないのが「最後の晩餐」という名で知られるようになったこの場面です。正式には「過越の食事」というものです。

 

聖書の中に登場する古い人々は、過去の恵みを振り返り、苦難から救いだして下さった神さまの愛を忘れないようにするために、様々な工夫をしました。

 

それが春先の「過越の食事」です。

 

出エジプト記12章24節 に【あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。】と教えられている通りにです

 

**************

 

ところが、イエスさまは、当時の人々からすると「えっ、何?ちがうよ」と思うような仕方で「過越(すぎこし)の食事」を終えられるのです。

 

実にこの晩餐は〈最後〉ではなく〈始まり〉の合図でした。イエスさまは新しい道を、深い祈りをもって踏みだされたのです。

 

**************

 

 

主が裂いて分かたれたパンを食べること。イエスさまが祝福されたぶどう酒を飲むことの意味に気付いた最初のクリスチャンたち。

 

彼らは「過越(すぎこし)の食事」はもうやめにしました。そして、新しい道へと踏みだすのです。

 

そして私たちも、イエスさまがこの時になさった「最初(さいしょ)の晩餐」の仕方を、日曜日の礼拝で大切にしています。ずーっと、これからも、とこしえに。end

 


2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。
2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。

        《  み言葉 余滴  》 93

     2017年3月5 主日礼拝からの"余滴" 

      『  誰がユダでないのか

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 ◎マタイによる福音書 26章20節~22節、25節
20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。・・・・・・25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 

幾つもの国語辞典で「裏切り者の意味の代名詞」とまで解説される人がイエスさまによって召し出された12人の弟子の中に居ました。

 

イスカリオテのユダです。

 

〈イスカリオテ〉は旧約聖書に3度出てくるケリヨトという地名と関係しているようです。〈ユダ〉という名前は聖書の中の中心的な民であるユダ族、そして、ユダヤ人とも深い繋がりがあります。皮肉なものです。

 

**************

 

ガリラヤで漁師をしていたペトロら4人や、徴税人だったマタイなどに比べると、イスカリオテのユダは、12人の中でも異質の人だったと想像できます。

 

ヨハネによる福音書12章6節では【彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた】とまで言われているのです。

 

会計係を仰せつかるという位に12弟子たちの中では信頼の厚い存在だった。

 

そのユダが、イエスを抹殺しようと策略を練っていた祭司長たちに対して、僅か銀貨30枚で掛け替えのないお方を売り渡すのです。サタンの働きです。魔がさすとはこのことでしょう。

 

**************

 

なるほど、裏切り者の代名詞、と言われるのも無理もないかも知れません。言い換えれば、罪人なのです。

 

更にユダの印象が悪いのは、彼の最期と無関係ではありません。マタイによる福音書では27章にこうあります。

 

【3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。】

 

**************

 

わたしは、イスカリオテのユダのことを、自分とは縁遠い人物とどうしても思えません。聖書の文面には出てこない、ユダにはユダの言い知れない悲しみがある。そう思えてならないからです。

 

ただ一点、ユダの悲劇と結び付くのではと感じるイエスさまの宣教の第一声があります。マタイ福音書4章17節です。主イエスは【悔い改めよ。天の国は近づいた】と言って、私たちも含むこの世への宣教を開始されました。


ユダに必要だったのは、単に「後悔する」ことではなく、「帰るべき場所に立ち帰ること=悔い改め」だったのです。

 

彼は帰る場所、方向を間違っていた。

 

わたしたちは本当に大丈夫でしょうか。end

 

 

 

 


2017年1月29日(日)雅代さんのお人柄がそのまま表れている、と言うのが本当のところ。献花って本当に素晴らしい(^^♪
2017年1月29日(日)雅代さんのお人柄がそのまま表れている、と言うのが本当のところ。献花って本当に素晴らしい(^^♪

 

      《  み言葉 余滴  》 89

    2017年1月29 主日礼拝からの"余滴" 

   『 スクラップ  そして  新生 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 21章12節~14節
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

 

子ろばに乗ってゆっくりと都エルサレムに続く緩やかな坂道を進むイエスさまのお姿。

 

それは、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に預言される〈柔和な王〉そのものでした。弟子たちはその傍らを歩きながら、誇らしげな気分でいたのかも知れません、

 

【ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ】という群衆の叫び声は、弟子たちを高揚させたことでしょう。

 

**************

 

エルサレム入場の直前、12人の弟子たちだけを呼んで語られたイエスさまのお言葉があります。それは受難予告でした。

 

【今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。】(マタイ福音書20:18-19)

 

これは初めての受難予告ではなく、もう3度目でした。しかし弟子たちは、つい少し前の主のお言葉を、群衆の叫びの中、すっかり忘れ去ります。

 

**************

 

場面は変わり、神殿の境内に進まれたイエスさま。

 

犠牲の献げ物を通じての商売をしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されます。神殿を取りまく人々に対する怒りを露(あら)わにしているように見えます。

 

大暴れするイエスさまのお姿に触れた弟子たちも驚いたことでしょう。そして、弟子たちの緊張は急激に高まったのではないでしょうか。

 

なぜなら、こんなことをしたら、祭司長や律法学者たちに捕らえられて先生は殺される。それどころか、我々こそ危ないぞ、と。

 

**************

 

過激にも見えるイエスさまの行動。

 

これはある種の破壊行為であることは明確です。

 

ヨハネ福音書2章19節では【この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる】とまで語っておられます。

 

そうです。イエスさまは間違いなく壊そうとされているのです。その怒りとは、単にエルサレムの神殿の周辺に居る人々に向けてのものではありません。それ以上に、イエスさまが壊されなければならないものがあるのです。

 

**************

 

自己中心のせせこましい考え方、異なる考え方を受け入れようとしない頑なさ・・・・・・。今を生きるわたしたちに直結する何かがそこにはあります。

 

極みまでわたしたちを愛して下さるのが救い主イエス・キリストです。破壊の先には、新生の道が備えられています。主に砕かれることを恐れてはなりません。

 

新しい出来事の始まりは、古いわたしたちの終わりとセットなのです。end

 

 


2017年1月15日(日)教会玄関ホールで、カナの婚礼の場面を見つめるひつじさん。感動で動けなくなってます?
2017年1月15日(日)教会玄関ホールで、カナの婚礼の場面を見つめるひつじさん。感動で動けなくなってます?

         《  み言葉 余滴  》 87

        2017年1月15 主日礼拝からの"余滴" 

      『 ボトル一本では足りない 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 2章7節~11節
7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった・・・・・・11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

聖書が「婚礼や婚宴」の場面を通して明らかにしようとするもの。

 

それは、神さまによる「救いへの招き」であり、その救いにあずかる「わたしたちの喜び」です。

 

**************

 

ところが、せっかくの喜びの日に、祝福の徴である〈ぶどう酒〉が足りなくなってしまう。ヨハネ福音書2章の「カナの婚礼」はそんな場面です。

 

肝心な時に何と間の抜けたことでしょう。

 

しかし、ここぞという時に大切なものの欠乏が生じてしまう。それこそが、我々の人生なのかも知れません。

 

**************

 

ここで必要なのはぶどう酒でした。それなのにイエスさまは召し使いたちに、【水がめに水をいっぱい入れなさい】と命じられます。

 

召し使いたちはどうしたでしょう。彼らは不平不満を口にすることも、疑うこともなく、黙々と六つ置かれていた水がめに水を満たしました。

 

主に命じられた単純な仕事を完了することこそ、水がぶどう酒に変わる最初のしるしの大前提です。

 

母マリアの【この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください】(ヨハネ福音書2:5)という言葉も重しになっていたのでしょう。

 

*************

 

イエスさまはこの場面の導入部分で、【わたしの時はまだ来ていません】(ヨハネ福音書2:4)という謎めいた言葉を口にします。

 

これは偶然出てきた言葉なんかではありません。確かに「時」はまだ来ていないのです。

 

しかし「時」はまだ来ていなくても、ぶどう酒の奇跡は起こされます。起こさなければならない理由があるからです。

 

なぜなら、「わたしの時」とは、やがて主イエスご自身の身に起こる〈十字架の出来事〉を指していたからです。準備が必要なのです。

 

*************

 

『 讃美歌21 』513番 ④節を思い起こします。

   

     主は命を 惜しまず捨て
     その身を裂き 血を流した
     この犠牲こそが 人を生かす。
     その主に私は どう応えよう。

 

「主イエスが流される血潮などわたしには必要ない」と誰が言えるでしょう。イエスさまの血潮は一滴は愚か、数滴でも、ボトル一本でも足りません。

 

世の救いのための確かな備えが、宣教の初めに完了していることを、カナの婚礼の奇跡は知らせてくれています。

 

み子イエス・キリストの血潮による救いという、神さまの計り知れない憐れみに心から感謝です。end

 

 


2016年12月18(日)アドヴェント第4主日。雅代さんにの献花に天使ガブリエルの姿?も見えますよ。
2016年12月18(日)アドヴェント第4主日。雅代さんにの献花に天使ガブリエルの姿?も見えますよ。

        《  み言葉 余滴  》 83号

        2016年12月18 主日礼拝からの"余滴" 

        『 土の器としてのマリア 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 1章34節~38節
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

受胎告知がなされた舞台は「ナザレ」という寒村です。

 

英語では寒村を「poor village」と言いますが、「ナザレ」には目立った産業もなく、人家もまばらな村だったと思われます。旧約聖書にも「ナザレ」は一度も出てきません。

 

神さまはそこで平凡に暮らしていたマリアという名もない娘を、救いの福音を宿す〈器〉として選ばれました。マリアとて〈土の器〉に過ぎないことをご承知の上でのことです。

 

彼女の前に姿を現したのは天使ガブリエルでした。旧約に登場する「み使い」がそうであったように、旅人の姿をしていたのかも知れません。

 

**************

 

夫婦というものは、往々にして性格や個性の違いがみられることが多いものです。

 

似たもの同士という言葉もよく耳にしますが、互いの違いを賜物として認め合い、バランスを取り合っているのが夫婦だとすると、ヨセフとマリアの〈押したり引いたり〉を想像してみるのは楽しいものですし、ゆるされると思います。

 

*************

 

神さまは、マリアがマリアとして、より深く生きて行くための扉のありかを、天使ガブリエルを通して知らされたのです。マリアはその扉に、彼女自身の全体重・全存在を委ねます。

 

それが【お言葉どおりこの身に成りますように】という言葉でした。

 

「年若い娘マリアが、よく言えたなぁ」と思わずにおれない程の、聞き逃してはならない厳しさへの覚悟も伴う信仰の言葉です。

 

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誰に対しても寛容で、善人であり続けることがキリスト者の生き方ではありません。

 

わたしたちにとって肝心なのは、神さまがどのようにご覧になっているのか。ただそれだけです。

 

マリアの姿からこの時代を生きるキリスト者としての覚悟を学びましょう。

 

「天使はいなくなり、その瞬間、マリアのよい評判も一緒に消えた」(『エッサイの木 クリスマスまでの24のお話』・日本キリスト教団出版局・マコックラン著)という言葉を思い起こします。

 

神さまのはかり、神さまの評価こそが、わたしたちが第一に心を向けるべきことなのです。世の評判や視線に振りまわされる生き方から自由になりましょう。end

 

 


2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。
2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。

        《  み言葉 余滴  》 80号

        2016年11月27 主日礼拝からの"余滴" 

      『 スキャンダラスな人々 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 1章1節~3節、6節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、・・・・・・6 エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、

 

新約聖書の冒頭にあるマタイによる福音書の系図。聖書を手にする多くの人が、なんてつまらない話だろう。読み飛ばしたいと思う箇所です。

 

「悪魔が、私たちに神の言葉を読ませないように、眠くならせるための仕業なんですよ」というジョークがある程です。

 

 **************

 

イエスさまの生涯が描かれている4つの福音書の中でも、マタイ福音書は旧約聖書からの引用が飛び抜けて多いのです。ここには福音書記者マタイの明確な意図があります。

 

彼はある人々に狙いを定めてこの福音書を書き始めたのです。それは系図から話を始めるスタイルに慣れているユダヤの人々です。

 

「ほぅー、系図から始まるのか。こりゃ面白そうだ」と感じるタイプの人たちでした。

 

聖書の舞台であるユダヤの人たちは、自分たちこそ神に選ばれた特別な民なのだ、ということが系図で確認されると嬉しくなるのです。

 

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マタイによる福音書が読まれ始めた西暦70年~80年頃は、もちろん印刷技術などありません。聖書は朗読されるものでした。

 

やがてこの福音書も多くのユダヤ教徒の耳に届くようになります。

 

そこから、波紋が広がり始めるのです。波紋はすぐに大波に変わります。確かにこの系図には、イスラエルの民としての誇り高い歴史を築いて来た人々の名前もありますが、見過ごすことが出来ない人たちのことが含まれているからです。

 

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見過ごすことが出来ない人々とは、恥や破れをさらけ出した人たちのことです。ソロモン以降には、主の目に適(かな)わないことを繰り返したユダヤの王たちの名も続きます。

 

さらに、当時の常識では考えられないことですが、系図にはタマル、ラハブ、ルツなど女性の名があるのです。ダビデと姦淫の関係を持つバト・シェバのことも記録されています。

 

無名の人たちも、後半には多数記されています。もちろん、イエスの母となるマリアもです。

 

この系図に救い主であるイエスさまが繋がっている!躓(つまず)きに満ちたあの人この人。世にあって小さくされた人々が、イエス・キリストの先祖なのです。

 

しかしこのような系図は、選ばれた民としての誇り高きユダヤ人には、スキャンダルに満ちた価値のないものであり腹立たしいものでした。

 

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後ろ指を指されても仕方ない何かを抱えながら私たちは生きています。穴があっても隠れようがない、破れかぶれな過去や現在もあります。

 

そのことを神のみ前で正直に認めることが出来る時、マタイによる福音書1章の系図は、決して読み飛ばすことが出来ない宝物に変わり始めます。

 

だって、私たちの名前も行間から浮かび上がって来るのですから。end

 


2016年11月13日(日)の講壇です。子ども祝福礼拝が守られた日曜日。雅代さんが祈りを込めて献げてくださいました。
2016年11月13日(日)の講壇です。子ども祝福礼拝が守られた日曜日。雅代さんが祈りを込めて献げてくださいました。

        《  み言葉 余滴  》 78号

        2016年11月13 主日礼拝からの"余滴" 

      『 エゴイストにさよなら 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 6章9節~11節
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 

イエスさまは様々な形で祈りを教えてくださいました。

 

ここではキリスト教会が生まれた頃から、「主の祈り」と呼ばれるようになった祈りが伝えられています。

 

当時、お祈りの先生となるべき人々の祈る姿にイエスさまは心を痛めて居られました。

 

イエスさまの目に、彼らは偽善者にしか見えなかったのです。

 

そのような人々を模範とすることのないように、と願われたイエスさまの教えがここにあります。

 

**************

 

わたしが神学校に入学して新約聖書の原文を読むために学ぶことになったのがギリシア語でした。

 

現在、東京の信濃町教会の牧師を務めておられる笠原義久先生がギリシア語を担当されていました。

 

単語を少し読めるようになった頃に、笠原先生がみんなに暗記してくるようにという宿題を出されました。

 

「 パテール ヘーモン ホー エン トイス ウーラノイス 」という出だしの言葉から、必死になって暗記したものです。

 

これが「天にまします我らの父よ」と始まる「主の祈り」の原語です。

 

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「主の祈り」の原文を丁寧に読むと、何と9度も繰り返されて強調されている言葉があることに気付きます。

 

それは「我ら・私たち」という複数形の語の「ヘーモン」です。

 

もしも、単数形の「天にまします〈私〉の父よ」と書かれていたら、「エゴー」という語が使われるはずです。

 

でも、そうではなく「我ら・私たち」という複数形が9回続くのです。

 

**************

 

身近な言葉で考えてみましょう。

 

「それは君の〈エゴ〉だよ」という時に出てくる「エゴ」という語を思い出してください。

 

日本語の大辞典で〈エゴ〉を引いてみると、「自分本位の考え方や態度。また、そういう考え方の人」という解説があります。

 

「自分本位」に通じる〈エゴ〉は「主の祈り」に出て来ません。

 

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自分の事ばかりが優先し、情けなくなる暮らしを送っていることが多いのが私たちです。

 

しかし、そんな私たちのために、信仰者として確たるものを身に着けて欲しいとお考えになった主イエスが、口伝えで語られたのがこの祈りでした。

 

礼拝で「主の祈り」という呼びかけがなされる時に、ただ、自動再生機のスイッチを入れるのではなく、心の奥底から、共に生きるための祈りとして「天にまします我らの父よ」と心を合わせる姿勢を整えましょう。end

 

 


2016年10月9日(日)の旭東教会礼拝堂の献花です。雅代さんの祈りと共に。
2016年10月9日(日)の旭東教会礼拝堂の献花です。雅代さんの祈りと共に。

        《  み言葉 余滴  》 74号

        2016年10月9 主日礼拝からの"余滴" 

        『   出 発 信 仰  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 11章30節、12章1節~2節、4節
11:30 サライは不妊の女で、子供ができなかった。・・・・・・ 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。・・・・・・4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 

アブラハム(この時点では「アブラム」)・イサク・ヤコブを通じての「族長物語」がここから始まります。

 

以前のわたしは、「アブラハム物語」は創世記12章から始まると思い込んでいました。

 

でも、それでは読み方が足りなかったことにようやく気付きました。

 

アブラハムが175歳で死に、25章11節で埋葬されるまで続く「アブラハム物語」は、11章の最後にとても重要な言葉をさり気なく置いているのです。

 

妻サライ(後(のち)の「サラ」)の紹介の言葉です。

 

【サライは不妊の女で、子供ができなかった】とあります。ある聖書では【石女(うまずめ)】と表しています。

 

**************

 

子孫の繁栄。

 

これは族長であるアブラハムにとって非常に大きな課題でした。それどころか、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」は創世記の初めから語られている中心主題のひとつ。

 

祝福の徴(しるし)です。

 

主のお言葉に従って旅立つアブラハムは75歳。妻のサラは10歳年下。彼らは年若いカップルなどではありません。物事に対しての思慮分別がある年齢に達しています。

 

【わたしが示す地に行け】【祝福の源となるように】という言葉はアブラハムに向けて語られましたが、彼はどのような気持ちでこれを受け止め、旅立ったのでしょう。

 

**************

 

永六輔(えい ろくすけ)さんが先頃亡くなられました。タレント、随筆家、放送作家、作詞家としても知られた方でわたし自身、感化を受けた方です。

 

永さんは言葉を大事にされる方でした。旅を愛され、全国各地の市(し)井(せい)の人々との出会いの中で学び、自らを整えながら生きた方でした。

 

そんな永さんの語録の一つをご紹介します。

 

【20代の夫婦は愛で結ばれる夫婦、30代の夫婦は努力して夫婦、40代の夫婦は我慢の夫婦、50代の夫婦はあきらめの夫婦、60代の夫婦は感謝しあう夫婦】

 

75歳で旅立つアブラハム。そして寄り添う65歳の妻サラ。彼らは永さんにどんな夫婦と呼ばれるでしょう。

 

新約聖書・『ヘブライ人(じん)への手紙』の著者は11章8節以下でアブラハムについてこう記します。

 

【信仰によって、アブラハムは、・・・・・・出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した】

 

**************

 

旭東教会の玄関にある傘立てには、なぜか数本の〈杖〉が残ったままになっています。

 

〈杖〉をつきながら教会にお出でになった方のものだと思います。でも、嬉しいことに、教会からお帰りの頃には〈杖〉を手にするのを忘れてしまうほど元気になられたようです!

 

讃美歌の《信仰こそ旅路を、みちびく杖》(21-458)を歌いながら人生の旅を続けましょう。

 

わたしたちも祝福の源になって行けるはずです。end

 

 


2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場
2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場

           《  み言葉 余滴  》 73号

         2016年10月2 主日礼拝からの"余滴" 

         『   待ち続けた人 ラザロ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 11章43節~44節
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

ラザロの復活の物語。

 

ヨハネによる福音書のひとつのクライマックスを迎える場面です。

 

続く12章から、イエスさまはエルサレムに入場され、弟子たちの裏切り、裁判、十字架刑、そして復活と続くのです。

 

ラザロはエルサレムまで3㎞程のところにあるベタニアに暮らしていました。マルタとマリアという姉妹がいます。

 

ラザロの復活が語られる場面であるにもかかわらず、物語はマルタとマリア、そして弟子たち、さらには群衆を中心に展開します。

**************

 

イエスさまとラザロ、そしてその姉妹との関係について福音書記者ヨハネはこう伝えています。

 

【イエスは、マルタとその姉妹(=マリア)とラザロのことを愛しておられた】(11:5)。

 

【わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。】(11:12)。

 

主に〈愛され〉、〈友と呼ばれる〉親しい交わりの中にあることがハッキリと伝えられているのです。

 

ところが、イエスさまは【主よ、あなたの愛しておられる者(=ラザロ)が病気なのです】(11:3)と伝えられても直ぐに行動なさいません。その理由は不明です。

 

とにかく、神の時が来るまで待たせるのです。時間にして96時間。丸4日でした。

 

**************

 

聖書が伝えるラザロという人は、ひと言も口を開かない人です。

 

ラザロの役割は、徹頭徹尾、受け身です。彼は登場した時に、既に重病で床にあり、自分では何もできず、マルタとマリアの看護、あるいは介護を受けるだけでした。

 

死んでしまった後はなおさらです。布に包まれ葬られます。そしてラザロは、復活の時にも何も言葉を発しない。彼の体をグルグル巻きにしていた布をほどいたのも周囲の人たちでした。

 

つまりラザロは完全に受け身の人なのです。もっと言うならば、彼は受け身であるところから出発する以外にはない、無力な存在でした。

 

よくよく考えてみると、彼は信じて待ち続け、任せて委ねるしかないのです。

 

**************

 

自らの力や思いから弱さゆえに自由になり、イエスさまに信頼し、待ち続けるところから信仰を持つ人になった。

 

それがラザロでした。神さまはラザロのような存在を通して復活の出来事を起こされたのです。

 

これこそ神さまのご計画です。

 

わたしたちにもラザロに倣う道があります。力を抜いてラザロに学びましょう。

 

やがてラザロはイエスに敵対する人々から命をねらわれる程に、その存在を通して証しを始めるのです(12:10)。end

 


2016 年8月21日の献花 会衆席の多くの方はこの角度からお花を見るのかな。雅代さん作
2016 年8月21日の献花 会衆席の多くの方はこの角度からお花を見るのかな。雅代さん作

 

         2016年8月21 主日礼拝からの"余滴" 

          『   愛にひれ伏して  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 8章29節~30節
29・・・この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。

 

エスさまが「わたしに従って来なさい」と召し出された弟子たちを連れて向かわれたのはガリラヤ湖の向こう岸。

 

そこは、異邦人(いほうじん)の地であるデカポリス地方の岸辺でした。

 

弟子たちにとって気の進まない地です。

 

**************

 

悪霊(あくれい)に取り憑(つ)かれた人との出会いはこれまでにも無かったわけではありません。

 

しかし、本当の名前でもない「レギオン」と名乗った人が置かれている状況は痛ましいものです。
*【レギオン】ローマの部隊5,6千人の軍団のこと。

 

〈衣服を身に着けず、墓場を住まいとし、鎖(くさり)でつながれ、足枷(あしかせ)をはめられ、監視を受けている〉とあります。弟子たちは固唾(かたず)をのんで見守ります。

 

**************

 

人間には〈二つの栄養〉が必要だということを15年ほど前に参加した講座で学びました。心底「アーメン」と思い、以来、わたしなりに大事にしていることがあります。

 

二つの栄養のまず一つ目は〈からだの栄養〉です。

 

十分に食べること、安心して寝ること。思いっきり全身を動かすことなどがあります。なるほど、と思います。

 

**************

 

もう一つは〈こころの栄養〉です。

 

どこに居ても暴力やイジメがないという安心と安全。「あなたは大切だよ」という思いが伝わってくる環境。辛(つら)いことも嬉しいことも受け止めてくれる人が存在すること。

 

さらに、誉められたり認められたりの関係があること。「いつもありがとう」と言ってくれる人の存在。「失敗もある。欠点もある。でも、大丈夫だよ」という心が感じられることです。

 

墓場を住まいとしていたこの人が、いのちの危機に直面していたことは明らかです。

 

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主イエス・キリストは、世の救いを十字架に担ってこの世にお出でになりました。

 

その〈十字架のミッション〉を、弟子たち、教会に託されるのです。

 

息切れすることなく、燃えつき症候群になることもなく、託された使命に関わり続けて行くためには瞬発力だけでは長持ちしません。

 

わたしたちは自分が〈栄養不足〉になっていないか、自己吟味が求められます。愛という名の栄養が不足したままでは隣人を愛する力は持てません。

 

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愛し続ける力に自信はありますか?

 

イエスさまの前に進み出た人は〈愛〉の前にひれ伏し、そこから本物の自分を取り戻します。

 

これは礼拝でした。これはわたしたちの復活の物語なのです。end

 


2016 年8月7 日の雅代さんによる献花 枯れているのではない。いのちを感じます。ほれぼれ。
2016 年8月7 日の雅代さんによる献花 枯れているのではない。いのちを感じます。ほれぼれ。

 

         2016年8月7 主日礼拝からの"余滴" 

          『   神は忘れたりしない   』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 8章1節
神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御(み)心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。

 

ノアは無口な人なのでしょうか。

 

箱舟の物語の中で彼は口を開きません。

 

礼拝でご紹介した「絵本」や「紙芝居」では、動物や鳥たちが舟に乗り込んでいく時に、交通整理をしながら何やら話しかけているノアの様子が描かれています。

 

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実は、聖書はわたしたちの心や目を、ノアの〈言葉〉に向けさせようとはしません。

 

もちろんノアのとった行動は忘れてはなりませんが、聖書が伝えようとしていることは何でしょうか。

 

ノアの箱舟の物語の主人公はノアではなく神さまなのです。神さまの言葉と行動はどうだったか。そこに注目しましょう。

 

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150日にも及ぶ大洪水の中漂流を続けた巨大な箱舟は【アラトト山の上に止まった】(創世記8:4)とあります。

 

「アラトト」という地名は現在の〈トルコ共和国〉と〈アルメニア共和国〉の高原地帯のことです。そして「アラトト山」は標高5千㍍級の山です。

 

先日の説教で、かつてわたしが暮らしていた日本最北の町・稚内の日本海側の海に浮かんでいるように見える〈利尻山(りしりざん)〉を紹介しました。

 

〈利尻富士〉と呼ばれるあの山の標高は1721㍍あります。

 

「アラトト山」の高さを知ると、ノアの箱舟が巻き込まれた大洪水が、いかに凄まじい勢いだったのかが分かります。

 

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水が減り始める切っ掛けはこのみ言葉でした。

 

【神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御(み)心に留め、地の上に風を吹かせられた】(創世記8:1)

 

これを境にして水が減り始めます。箱舟に乗り込んだものたちは助かったのです。

 

ここで鍵になる語は【御(み)心に留める】という言葉です。

 

ある英語の聖書では【God had not forgotten Noah ・・・】(NKJV)。別の英訳は、【God remembered Noah・・・】(TEV)です。

 

神さまはノア、そして箱舟の乗員たちと動物たちを「忘れていない」「憶えている」。

 

それが【御(み)心に留める】ということなのです。

 

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かつて、わたしが牧会の現場を離れて1年余りの間、休養をしていた時に知ったことがあります。

 

睡眠障害がひどくなりやせこけました。そんな時、自分が精神的にも肉体的にも限界だということを受け入れられる、腑にストンと落ちる言葉に触れました。

 

「頑張り続けているけれど、ダムから水が溢れそうになっているよ。崩壊寸前。もう穴があいて・・・」というものでした。

 

その時は既に漂流が始まっていたのかも知れません。

 

にもかかわらず、天地創造の神は、ずっと御心に留め続けて下さるお方でした。わたしはその後、再び牧会の現場に立ち、歩き始めました。今も、確かに生きています。end