《  み言葉 余滴  》 礼拝説教の中の一滴をあなたへ


《み言葉"余滴"》は礼拝説教の要約ではありません。説教とは別の角度からの視点でお届けするみ言葉を読んで黙想するためのものです。語られた説教は、「礼拝音声メッセージブログ・西大寺の風」「旭東教会YouTube配信」でお聴きになれます。お覚え下さい。古いものについては容量の都合で随時削除しています。牧師は「読みもの」と「語るもの」とは本質的に異なるものと考えています。


2019年11月10日は子ども祝福礼拝・秋のファミリー礼拝でした。「神さまに感謝しましょう・・・」を歌いながら出席の子どもたちを森牧師が祝福ですo(^-^)o
2019年11月10日は子ども祝福礼拝・秋のファミリー礼拝でした。「神さまに感謝しましょう・・・」を歌いながら出席の子どもたちを森牧師が祝福ですo(^-^)o

    《 み言葉 余滴 》   NO.231
             2019年11月10日
   『賛美歌が大好きな あなたへ』
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)


◎ルカによる福音書 19章6節~10節 6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。・・・・・・」 

 

エリコに暮らすザアカイは徴税人の頭(かしら)です。エリコはエルサレムまで30㎞程の距離にある、かなり賑(にぎ)わいのある町でした。

 

ザアカイは聖書の舞台であるユダヤの社会でも、それなりに知られている人物だったはずです。徴税人の仲間同士のつながりもあったと思われます。

 

私は、ルカによる福音書5章27節以下に登場する、ユダヤ北部のガリラヤ地方に暮らしていた〈徴税人のレビ〉という人がイエスさまから「私に従いなさい」という召しを受け、本当に弟子になったことも知っていたと想像します。

 

そしてザアカイは、レビの召命の出来事に関連して、イエスさまがこう仰っていたことも知っていたに違いないのです。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。

 

                    **************
                                 
ザアカイの物語はルカ福音書の19章におかれています。この〈19章〉という配置には深い意味があります。

 

ルカ福音書は24章で終わるのです。罪なき独り子イエスがエルサレムに入場し、裁判にかけられ、十字架の上で罪人の救いのために命をささげられる。その直前にあるのが「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言されるこの物語なのです。

 

しかも直前の18章の終わりには、イエスを見ることが出来なかった盲人の目が開かれる象徴的な出来事があります。盲人は、当時の社会で罪人の烙印を押されていた人です。

 

                    **************

 

私たちは本当に自分勝手なところが多い存在です。聖書を読むときも、自分に都合のよいところだけを摘まみ出して読んでいることを否めません。

 

でも、ちょっと覚悟をもってザアカイの物語を読んでみましょう。特に、ザアカイの物語が置かれている前後の文脈も含めて考えたいのです。

 

イエスさまはどんなザアカイに出会って下さったのか。孤独で信頼できる友もいない、可愛そうなザアカイ像だけがあるわけではない。ザアカイ。彼は何であれ、確実に罪人でした。その自覚があった人がザアカイなのです。

 

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ザアカイにふさわしい賛美歌を探してみると、たくさんありました。

 

「主に従うことは 何という幸せ 悪い思い消えて 心は澄むよ」(21-507)

 

「み恵みを受けた今は 我らに恐れはない
        み力に依り頼んで 主の為に進み行こう」(21-535)

 

「慈しみ深い 友なるイェスは 愛のみ手により 支え、導く
  世の友われらを捨て去る時も 祈りに応えてみ手にゆだねよ」(21-493)

 

「救い主は待っておられる お迎えしなさい
       心を定め 今すぐ 主にこたえなさい
    今まで 主は待たれた 今も主はあなたが
        心の戸を開くのを 待っておられる」(第2編-196)

 

ザアカイにぴったりの賛美歌が多いのには理由(わけ)があります。

 

賛美歌は罪から救われ、贖(あがな)われた人のものだからです。私たちには賛美歌が必要なのです。end

 

 


2019年11月3日・旭東教会では聖徒の日・召天者記念礼拝を守りました。講壇から説教する森牧師です(^^♪
2019年11月3日・旭東教会では聖徒の日・召天者記念礼拝を守りました。講壇から説教する森牧師です(^^♪

  《 み言葉 余滴 》   NO.230
            2019年11月3日
 『あなたの言葉が誰かを救います』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 4章18節~21節
18・・・・主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」20 ・・・・会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

もしも、この『み言葉 余滴230号』を読んでいる〈あなた〉が、大切な方から「教会で時々耳にする〈救い〉という言葉。あれってどういう意味なんですか。○○さん、一度、じっくりとお話を聴かせてもらえませんか」と言われたら、〈あなた〉はどのようにお答えになるでしょう。

 

「これを読んだら分かるよ」とか、「ちょっと調べてみるね」というようなことではないのです。自分自身の言葉で「イエスさまに救われた経験」や「救いに与(あずか)っている恵み」をどんなふうに言葉にするのか、が問題なのです。

 

                    **************

 

今週はルカが記した福音に心を傾けています。イエスさまはバプテスマのヨハネから洗礼を受け、40日間に及ぶ悪魔の誘惑を受けます。

 

その後間もなく、昔からイエスさまのことを知っている人が多くいた故郷ナザレという村に戻り、その会堂で第一声を発する場面を読んでいます。

 

ナザレには、イエスの母マリアやきょうだい達も暮らしていたはずです。だとすると、この場面に家族が居合わせ、イエスさまの説教を片隅で聴いていた可能性は十分にあると思います。彼らはドキドキしていたかも知れません。

 

                    **************

 

その日、ナザレの会堂で読み上げられたのは、旧約の預言書イザヤ書61章の冒頭のみ言葉です。それは「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」というものでした。

 

直後にイエスさまは、「ここに書かれていることは、今日あなたがたが耳にしたとき成就した」と宣言されたのです。これこそ、ルカが、これからのキリスト教会にどうしても必要なことだと確信して書き起こしたものでした。

 

これはスキャンダラスな言葉でした。

 

なぜなら、居合わせた人々からすると、神を冒涜(ぼうとく)するようなことを、ナザレの田舎者にすぎない大工のイエスが宣言したからです。

 

しかし、イエスさまは落ち着き払った顔で、神にしか出来ないと思われていたことを、自分が実現すると言い切ってしまったのです。

 

思い起こしてみるならば、旧約聖書に一度も出てこないナザレという寒村に暮らしていた、世の誰も注目したこともない貧しい娘マリアを通じて、神のみ子イエスが生まれて来ること自体が、既にもうスキャンダルでした。

 

                    **************

 

注意が必要なのは、イエスさまは、口だけの人ではなかったことです。イエスさまはこの直後から、何かに捕らわれている者を解き放つため。そして、何かに縛られ続けている人を自由にする歩みを始められたのです。

 

ナザレの会堂で宣言された「解放」と「自由」は、他の聖書箇所では全て「赦し」と訳されているみ言葉です。ここには大きな意味があります。

 

あなたが「イエスこそ救い主」と信じ、告白した方であるならば、その「救い」は思いも依らぬ力を発揮し、ここまでの人生を導いて来てくれたはずです。

 

何から「解放」され「自由」を頂き、「赦し」を受けたのか。今度どなたかに話してみて下さい。さらなる喜びと恵みを受けることでしょう。end

 

 


  《 み言葉 余滴 》   NO.229
            2019年10月27日
   『 福音書記者 ヨハネのこころ 』
            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 1章1節~5節  1 初めに言(ことば)(ロゴス)があった。言(ことば)(ロゴス)は神と共にあった。言(ことば)(ロゴス)は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。4 言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

ヨハネ福音書には他の福音書にはない出来事が幾つも描かれています。3章では「イエスさまを 夜こっそり訪ねる 老ニコデモ」が現れ、永遠の命にまつわる問答が始まります。

 

続く4章には「サマリアの女とイエスさまの出会い」の場面が置かれます。渇きを覚えられ、ご自分では井戸の水を汲むことが出来ないイエスさまの方(ほう)が、いつしか「決して渇くことのない永遠の命に至る水」を女に与える者であることが明らかにされます。

 

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さらに進んで、11章・12章には、マルタとマリアという姉妹のきょうだい「ラザロ」の「復活の物語」があります。

 

「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことがない」という、これまた永遠の命に関わる大変よく知られるお言葉が語られるのは「ラザロの復活の物語」の中なのです。

 

もっと進んで13章に入りますと、イエスさまが「弟子たちのために ひざまずいて足を洗われる」場面があります。いわゆる「洗足のイエス」のお姿ですが「互いに足を洗い合う者となりなさい」という教えが印象深く記されるのです。

 

当時「洗足」は奴隷の仕事とされていたものです。こうした、美しく深い物語によって、神の愛を語ろうとするのがヨハネによる福音書なのです。

 

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その一方で、ヨハネ福音書には哲学的な一面があります。

 

冒頭に掲げた1章1節以下のみ言葉は、前置きとして全体の進行を予告し暗示する内容を持つ箇所として知られ「ロゴス賛歌」と呼ばれます。

 

一読するだけでは「はて、これはどういうこと?」と考えさせるような哲学的な一面が、これ以外にも所々に顔を見せるのがヨハネ福音書です。しかし、前向きに考えると、一度では味わい尽くせない奥深さや繊細さがあるということです。

 

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私たちがいつも手にしている『聖書 新共同訳』の巻末には「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」という付録が付いています。

 

その一覧の福音書の所を数えてみますと、旧約聖書からの引用回数は〈マタイ福音書:62回〉、〈マルコ福音書:31回〉、〈ルカ福音書:26回〉です。ちなみに、パウロが記した〈ローマの信徒への手紙:63回〉となります。

 

それに対して〈ヨハネによる福音書:16回〉と非常に限られているのです。

 

ヨハネが旧約聖書からの引用を限定しているという客観的な事実から分かることがあります。それは全部で1502ページにも及ぶ「旧約聖書」についての知識が少なくても大丈夫なのがヨハネ福音書だということです。

 

その理由は、ヨハネが、この福音書を読んで欲しいと第一に願った読み手が、旧約聖書を熟知し、それだけを聖典と信じる「ユダヤ人」ではなく「異邦人」だったからです。その「異邦人」に、私たちも含まれていることを知りましょう。

 

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だからといって、福音書記者ヨハネが旧約聖書について無知だったわけではありません。ヨハネは考えに考えました。

 

そして、聖書の一番初めにある創世記1章1節「初めに 神は天地を創造された」に応答させる形で、自身が記し始めた福音書の冒頭を「初めに言(ことば)(ロゴス)があった」と紡いだのです。

 

これは、イエス・キリストの言(ことば)による「新しい創造」の幕開けなのです。end


2019年10月20日の礼拝にて 清美さんの証し 信徒伝道週間でした
2019年10月20日の礼拝にて 清美さんの証し 信徒伝道週間でした

    《 み言葉 余滴 》   NO.228
                2019年10月14日
 『アンティオキアに 教会が生まれた』 
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 11章23節~26節 23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。・・・・・・25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。・・・・・・このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者(別訳=クリスチャン)と呼ばれるようになったのである。

 

使徒言行録2章に記される「聖霊降臨=ペンテコステ」の出来事は、キリスト教会を誕生させた、人知を越える神さまのご計画の現れでした。

 

そもそも、イエスさまご自身がユダヤ地方で活動された当時は「キリスト教」も「キリスト教会」も存在しませんでした。福音書を読むと、ペトロ、ヤコブ、ヨハネをはじめとする12人の弟子たちは、イエスさまに叱られながらも、一生懸命に行動しました。

 

でも、彼らは福音書の中で「クリスチャン」(新共同訳では「キリスト者」です)とは呼ばれていません。彼ら弟子たちは「使徒」として、イエスさまの元から派遣されることはありましたが、彼らの身の置き所は、カファルナウムやエルサレムにあった「集会所」ではなかったのです。

 

弟子たちが戻ってくる場所は、いつもイエスさまの所でした。

 

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実は聖書には「クリスチャン」という言葉は、全部で3回しか出てきません。聖書原文のギリシア語では「クリスティアノス」と書かれていますが、辞典を調べてみますと、この語は「キリスト」に「ティアノス」というラテン語の語尾が付いたものであることが分かります。

 

「ティアノス」には「・・・・に属する者」という意味があるのです。つまり「クリスチャン」とは「キリストに属する者」というのが語源というわけです。

 

そしてその「クリスチャン」が現れる最初の箇所が使徒言行録11章26節です。「クリスチャン」は自ら「私はクリスチャンです」と名乗ったのではなく、人々から揶揄(やゆ)される意味合いを込めて呼ばれた〈あだ名〉でした。

 

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その「クリスチャン」の姿が認められるようになったのは、12弟子たちイエスを直に知る人々が本拠地を置いていた「エルサレム」ではなく「アンティオキア」だったのです。当時の「アンティオキア」は「ローマ」や「エジプトのアレキサンドリア」に次ぐ都会で、交通の要衝(ようしょう)でした。

 

そこはユダヤ人からすれば異邦人の〈るつぼ〉というべき地で、エルサレムからは600㎞程離れたところでした。でも「クリスチャン」と呼ばれて〈からかわれた人々〉は、後(のち)のパウロが、世界各地への伝道を始めるための拠点となる信じる者の群れを「アンティオキア」に自主的に形作り始めていたのです。

 

12使徒が居なくても、福音は進展し始めました。いったい、アンティオキアのクリスチャンを根底で支えた力とは何だったのでしょう。

 

                    **************

 

エルサレムの教会から遣わされたバルナバからは、「揺るがない心をもって身を捧げること」「これと決めたら、周りの者が何と言おうとも、貫き通す強い覚悟を持ちなさい」と教えられました。

そして、その「バルナバ」がタルソスまで捜しに行って連れて来た「パウロ」との二人三脚の働きや助言には大きな意味があったに違いありません。しかし、アンティオキアの人たちも人の子です。限界があるし、ふらつくこともあったはずです。

何より大切なのは、神さまご自身のご計画であり、神さまの思いです。人の頑張りには限界があります。だからこそ、クリスチャンは歌い、祈るのです。

  「主は約束を かたく守り、終わりの日まで 導かれる。
    私はここに 誓いを立て、主よ終わりまで 従います」
                     (讃美歌-510-④)end


2019年10月13日(日)信徒伝道週間 ミニ証しを礼拝にて聞かせて頂きました。寿子さんの証しに皆が心傾けています。
2019年10月13日(日)信徒伝道週間 ミニ証しを礼拝にて聞かせて頂きました。寿子さんの証しに皆が心傾けています。

    《 み言葉 余滴 》   NO.227
              2019年10月13日
       『 主に従う 嬉しい生き方とは 』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 16章23節~25節 23 ・・・金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、遥かかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

 

ここには〈ひとりの金持ち〉が登場します。彼は死後、盛大な葬式を出してもらった様子です。しかし、そのあと天国には入っていないのです。世にあって何一つ困ることもなかった大金持ちのはずですが、彼の手には天国行きの切符は与えられなかった。皮肉な話です。

 

今、彼が居る場所。それは、明らかに天国とは反対の苦しみを味わう陰府(よみ)と呼ばれる所でした。このお金持ちは、地上でなしてきた何かが問題とされているのです。

 

生前、贅沢をし過ぎたことの罰を受けている、というのではありません。ヒントはこの金持ちと対比される形で登場する病弱で貧しい人ラザロとの関わり合いのようです。その点において、大いに問題あり、ということなのです。

 

                    **************

 

旧約聖書のレビ記19章18節に「自分自身を愛するように隣人(りんじん)を愛しなさい。私は主である。」というみ言葉があります。

 

金持ちは、いつも自分の家の前に横たわっていたラザロに対して、積極的に手を差し伸ばすことをしませんでした。「お前がパンくずを食べたいのなら拾って食べよ」という冷たさが描写の中にあります。彼にとってラザロは人間の数の内に入っていませんでした。隣人の対象になり得ない存在だったわけです。

 

ところが、彼が死んで陰府(よみ)に下ったとき驚(きょう)愕(がく)します。いつも自分の家のパンくずを拾いに来ていたあのラザロが、ユダヤ人にとっての信仰の父であるアブラハムの膝(ひざ)の上に抱(だ)かれ、よしよしされて、嬉しそうにしている姿を遥か遠くに見たのです。その距離感と断絶の淵は彼がそこに入ることが出来ないことを明確に告げています。思いもよらぬ、大逆転が起こったのです。

 

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イエスの「たとえ話」には大きな特徴があります。そこには重大な秘密が隠されています。それは「神の国」とはどのような所なのかを明らかにする為のものであり、この世の一般常識や知恵を身につける為のものではないということです。

 

何かを分かりやすく学ぶ為の「たとえ」とは根本的に違います。むしろ、読者への問いかけがあるのです。

 

ここでのある金持ちとラザロの「たとえ話」を聴かせたい人々は、直前にイエスを嘲笑っていたファリサイ派の人々です。彼らは律法に忠実ではあったかも知れません。

 

しかし、イエスさまが隣人となって、ゆるし、愛し、共に生きようとされた人々を

完全に拒否していた人たちでした。だからこそ、ユダヤ人のルーツをさかのぼって考える時の最重要人物である、信仰の父=アブラハムを通じての警告、すなわち「悔い改め」への促しがあるのです。

 

                    **************

 

マタイによる福音書の25章31節以下に、形は全く違いますが、内容的には今日のたとえ話と大変よく似た〈天上での裁き〉の場面が描かれています。

 

福音書記者マタイは天国で栄光の座に着く者について「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことである」と告げています。最も小さい者とは、今日のみ言葉ではラザロのことです。

 

隣人(りんじん)となる生き方は、いつでもどこでも始められます。

 

「主に従うことは なんと嬉しいこと」と賛美する人は、今日、何かが問われているのです。end

 

 


2019年10月9日(水)午後4時頃 光明園家族教会の祈祷会のあとに 邑久(おく)町の田んぼ 実りの秋です(^^♪ 相当に気合いの入っている田んぼだと思います。
2019年10月9日(水)午後4時頃 光明園家族教会の祈祷会のあとに 邑久(おく)町の田んぼ 実りの秋です(^^♪ 相当に気合いの入っている田んぼだと思います。

  《 み言葉 余滴 》   NO.226
              2019年10月6日
           『逃げ出した人へ 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 47章8節~9節

  8 ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、9 ヤコブはファラオに答えた。「私の旅路の年月は百三十年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、私の先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」

 

聖書は興味深いことを告げる書です。

 

〈逃げ出した人〉が用いられるのです。ここではヤコブがそうですが、モーセもペトロも逃げ出した人です。逃げ道を準備されたのが神さまなのであり、逃げた場所にも神さまは居られるのです。

 

ただし、逃げ出した先で苦労がなくなるとは言っていません。でもそれでも、逃げるのもありですよ、と告げてくれるのが聖書です。

 

ここに登場しているヤコブは、アブラハム、イサクに続く族長です。ヤコブは石を枕にしながら旅を続けました。なぜ石を枕にしたのかと言えば、彼は逃亡した人だからです。石を枕にして野宿せざるをえなかった。そうなったのは、父イサクと双子の兄エサウを、母リベカと共にあざむいたことが切っ掛けでした。どう聖書を読んでも、彼はずる賢く逃げ出した人なのです。

 

**************

 

ヤコブは逃亡先の〈伯父(おじ)ラバン〉のもとで一所懸命に働きました。しかし今度はヤコブが伯父(おじ)からだまされるのです。結婚問題も絡んで、ヤコブは20年もの間ラバンに仕えたのち、再びヤコブは脱走したのです。

 

次に待ち構えていたのは、自分に恨みを抱いている兄エサウとの再会でした。殺されることも覚悟したヤコブでしたが、兄との和解が備えられていました。

 

**************

 

そんなヤコブが、まさに晩年というべき時を迎えています。20数年前、最愛の息子ヨセフを失ったことを悟ったヤコブは、死にたいと思いました。生きていることの意味を見失います。

 

しかしそれでもなお、ヤコブは不思議と生きて来たのです。あの石を枕にして寝た時に見た夢の中で神は約束されました。「見よ、私はあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 

そして、思いも寄らぬ形で、エジプトの総理大臣として生き延びていたヨセフと再会を果たしたのです。

 

その直後、ヤコブはエジプトの王ファラオと初めて向き合った時、こう聞かれました。「あなたは何歳におなりですか」と。

 

ヤコブは答えます。「私の旅路の年月は百三十年です。私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、私の先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」と。

 

百三十年が短いわけがありません。これは「私の人生。あまりに多くのことがあり、百三十年があっという間でした。」という意味なのです。

 

**************

 

パウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙 一 10章13節)と記しています。

 

この言葉に重みがあるのは、パウロにも耐え難い試練があり、罪もあり、何より、彼も逃げ出した経験をもつ人だからです。

 

それだけではない。逃げ出した人に与えられるものがありました。それは不思議にも信仰なのです。

 

**************

 

私は「信仰こそ旅路を」(讃美歌21-458)という賛美歌を愛しています。

 

    「 信仰こそ旅路を 導く杖 弱きを強むる 力なれば・・・ 」

 

私も幾度も逃げ出しました。しかし神は、弱い者に信仰を下さったのです。end

 

 


2019年9月29日 雅代さんによる「献花」です
2019年9月29日 雅代さんによる「献花」です

        《 み言葉 余滴 》   NO.225
                2019年9月29日
             『 もう一人の放蕩息子 』
                牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)


◎ルカによる福音書 15章30節~32節

30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

父からの財産を早くに分けてもらい、異邦人の地を意味する遠い国に行って放蕩の限りを尽くし、ついには行き場を失って、身も心もボロボロになって故郷に帰ってきた放蕩息子。彼のことは広く知られています。

 

実は、ここでご一緒に考えたいのはその兄のことです。彼は真面目な人間ですし、約束事をキチッと守って来た人物なのです。いつも父と共に居り、無鉄砲に羽目を外すような行動もしません。辛抱も出来る頑張り屋さんです。

 

しかし、この譬え話では、相当な分量が「兄さん息子と父の物語」として割(さ)かれています。兄の方も大切な何かを失ってしまっている人かも知れません。彼は「もう一人の放蕩息子」ではないか。私にはそう思えてならないのです。

 

                    **************

 

注目したいのは、兄さん息子が父に対して発したこの言葉です。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに・・・」という不満の言葉の中には、彼が彼であることを保つための思いが滲み出ています。

 

自分はいつも教えられたことに忠実に生きており、不道徳など一切ないという強い自覚があります。彼の言葉の根底には、出来の悪い弟との比較があります。自分は弟よりも“ちゃんとしている"というプライドがあるのです。

 

彼の発した言葉の一つひとつは、福音書の中でイエスさまと敵対する場面が多く描かれている、義(ただ)しさを誇りとするファリサイ派や律法学者たちの「自意識」。言い換えるなら「アイデンティティー」とピタリと重なっています。

 

                    **************

 

もう一歩踏み込んで、兄さん息子の抱えている問題をご一緒に考えてみましょう。それは、彼が父親といつも一緒にいながら、父の心をどれほど〈おもんぱかる〉ことが出来ていただろうか、という点です。

 

この父親は、ヨレヨレになって戻ってきた弟息子を見つけたとき、まだ遠くに離れていたのに、憐れに思い走り寄ります。「本当によく帰ってきた」と抱き締め、口づけするような人です。

 

この様子については、兄は、僕(しもべ)たちを通じて知ったのでしょう。しかし、一番良い服を身につけ、大切な我が子であることが宣言されている指輪もはめ、見たことのないほど豪華な食べ物が並ぶ宴会の様子は、自分の目で確認できたはずです。祝宴を始めさせたのは父親以外にはあり得ません。

 

兄は弟もゆるせませんでしたが、父のこともゆるせないのです。

 

                    **************

 

兄さん息子に足りなかったのは一体何だったのか。おそらくそれは、自分も完全な者であり続けることなど出来ない、という事実、自己認識でした。だからこそ「失われていた存在である弟」、「死んでしまったのと同様の弟」が戻って来たことを、皆と共に素直に喜べないのです。

 

兄さん息子もまた、ルカによる福音書15章全体のテーマである「失われた存在」になっていたのです。それゆえに、イエスさまの姿と重なる父親は、兄さん息子ともしっかりと向き合い立ち帰らせようとしました。

 

父の喜びを喜びとして生きるようになるのに必要なのは、自分も罪を犯す弱さを持つ人間に過ぎず、ボロボロに傷ついた自分をあたたかく迎え入れ、一緒に喜んでくれる待っている、そのような場所が必要だという気付きなのです。

 

自分の放蕩を知る人は救いを必要とします。そして、神と出会うのです。end

 


2019年9月22日(日)森牧師が兼務する、十文字平和教会の講壇にて 説教原稿を家に忘れて講壇に居ます(^^♪
2019年9月22日(日)森牧師が兼務する、十文字平和教会の講壇にて 説教原稿を家に忘れて講壇に居ます(^^♪

    《 み言葉 余滴 》   NO.224
                2019年9月22日

 『 ペトロの言葉に

                     人々が静まったわけ 』 
               牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 11章1節~4節、18節
1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、3 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。・・・・・・18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。

 

この場面。とても興味深いことが起こっています。12弟子の中でも筆頭格の「ペトロ」が伝道旅行に区切りを付けてエルサレムに戻って来たのですが、かなり厳しく批判されているのです。何が起こったのか。

 

ペトロがエルサレムに戻って来る直前にあったのは、ローマとの往き来ゆえに、エルサレムなどよりも重要な地中海沿岸の都市カイサリアに駐屯する、コルネリウスという百人隊長とその家族や部下たちが、聖霊を受け、それを確認したペトロが洗礼を授けた場面でした。

 

実におめでたいこと、喜ばしいことが起きていたはずです。ところが、ペトロは「お疲れさま」「よく頑張りましたなぁ」というねぎらいの言葉ではなく、ケチをつけられたのです。

 

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エルサレムには、12弟子たちの他にも、「十字架にかけられ、復活し、天にのぼられたイエスこそが我々の救い主である」と公に言い表すようになった人たちの群れがありました。

 

元をたどれば、彼らはユダヤ人でしたし、その自覚は当時も変わらなかったと思い

ます。しかし彼らは、伝統を重んじるユダヤ教徒とは袂(たもと)を分かつ決断をしたのです。ペトロの説教に触れ、ある時には三千人もの人たちが洗礼を受けて仲間に加わりました。彼らはユダヤ教「イエス・キリスト派」位の気持ちでいたのかも知れません。

 

しかしそれにしても、初代キリスト教会の、特に「エルサレムの教会」の中には、まだ解決されていない重要な問題があることが露呈しているのです。

 

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とりわけ、エルサレムのキリスト教徒たちが乗り越えきれなかったのは、ユダヤ人がユダヤ人であるために外すことの出来ない「割礼」の問題でした。ペトロを批判する人たちは「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言って非難しました。

 

これが、エルサレムに誕生した初代キリスト教会の現実だったのです。何と心の狭い人たちなのだろうか、と思いますが、実のところ、イエスさまや12弟子が罪人や徴税人たちと一緒に食事をしている時に非難していた、ファリサイ派や律法学者たちの批判の言葉と、本質的に何も変わらないのです。

 

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本田哲郎神父さまが翻訳された聖書の11章の大見出しは、「ペトロ、エルサレムで、差別的な正統派キリスト者の姿勢をあらためさせる」とあります。これは大変面白いのですが、足りない点もあるように思います。

 

私はこの時のペトロのどこに力があったのかが気になります。無論、聖霊が異邦人にも降(くだ)ったという事実があったことは極めて意味のあることでした。

 

しかしこの時、相当にかたくなだった人たちの心にペトロの言葉がストンと落ちたのは、何よりペトロ自身が、変えられていった当事者だったという事実があるからではないでしょうか。

 

もっとハッキリ言うならば、ペトロは決して大説教家などではないのです。何度も恥をかき、悔い改めを生き続けている張本人だったからこそ、彼の言葉には真理の力が宿っていました。end

 

 


2019年9月15日(日)礼拝の中でのジュニアサークルの時間。双子ちゃんが出席です。森牧師はタンバリンを手にしています。
2019年9月15日(日)礼拝の中でのジュニアサークルの時間。双子ちゃんが出席です。森牧師はタンバリンを手にしています。

  《 み言葉 余滴 》   NO.223
             2019年9月15日
    『 人生の目的を明確に 』
           牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)        

 

◎ルカによる福音書 14章12節~14節 12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

ここでイエスさまが言われた内容は、文字をただ読むだけならばとても簡単なことです。

 

 

「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」とあります。宴会への招待は、社会的に弱い立場の人を優先しなさい、というものなのです。

 

讃美歌566番に「むくいを望まで 人に与えよ」「みむねのまにまに ひたすら励め」とあります。私の大好きな讃美歌です。

 

ところがです。私たちは、自分でも気が付かないうちに見返りを期待してしまうのです。あるいは、恩に着せてしまう。「あの時、せっかくあれだけのことをしてあげたのに、ちっとも・・・・・・」というような思いを実にしばしば抱いているのです。

 

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教会づくりという視点から考えるとき、食卓で語られたイエスさまのたとえの中には、その奥義が示されていることに気が付きます。

 

イエスさまは、ここにご自身を食事に招いてくれた「ファリサイ派」の人々の閉鎖的な生き方を悲しんでおられます。もっとハッキリ言うならば、間違いを指摘しておられるのです。ここでのお言葉は彼らへの警告でした。

 

実は、ここで注意が必要なことがあります。ファリサイ派の人々の生き方が、いつの間にか、私たちの在りようと重なってしまっていないか、という点です。

 

「ファリサイ」とは元来「分離された」という意味があります。民衆の生活から自分たちを離し、奴らと自分たちは違うと考える意識が、彼らの交わりを閉鎖的にしていったのです。

 

その高慢さが、今の私たちの教会の交わりの中に、いつの間にかはびこってしまってはいないか。大丈夫でしょうか。

 

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気心の知れた交わりに生きることは安心で安全です。しかし、教会は親密な交わりを形作りつつも、閉じられた場であってはならないのです。なぜなら、イエスさまご自身が開かれたお方だったからです。イエス・キリストの教会は、閉じられた心のままでは本当の教会とはなり得ません。

 

ここでは、神の国の扉を開くために必要な奥義が示されています。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」とイエスさまは言われました。この招きの心を生きようとするとき、わたしたちの信仰の本気度が問われます。

 

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ズバリ伺います。

 

あなたの人生の目標は、今どこにあるでしょうか。自分の思いを実現させようとするのが人生の目的ではありません。「自己実現」の反対はどのような生き方でしょう。人のために生きることでしょうか。それも間違いではありません。

 

でもキリスト者には人生の目標が明確に示されています。み心を生きて行くことです。それが最高の幸せなのです。

 

ここでの「宴会」とは「神の国」のことです。死んだら入れる場所ではなく「教会」のことであり、教会生活の中心にある「礼拝」のことなのです。ここには、この世の強者の論理は微塵もありません。

 

あるのは、小ささであり弱さです。そして、神のみ業はあなたを必要としながら広がって行きます。end

 

 


2019年9月8日・恵老祝福の礼拝の日 玄関ホール献花 ザクロほか
2019年9月8日・恵老祝福の礼拝の日 玄関ホール献花 ザクロほか

     《 み言葉 余滴 》   NO.222
                 2019年9月8日
             『 〈家族〉の復活 』
                    牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎創世記 45章25~28節 25 兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブのもとへ帰ると、26 直ちに報告した。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。27 彼らはヨセフが話したとおりのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。28 イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」

 

七年にも及ぶ大飢饉が襲いかかったことが切っ掛けで、再びエジプトに食糧を求めてやって来たヤコブの息子たち。彼らは青天の霹靂(へきれき)とも言える劇的な仕方でヨセフとの再会を果たしました。

 

そしてエジプトでの暮らしの保証を約束するファラオは、カナンの地での暮らしに「未練を残さないように」(創世記46:20)と言って、彼らを父ヤコブの元へ送り出します。

 

しかし、末の弟のベニヤミンを除く10人の兄たちの心は晴れません。それもそのはずです。兄たちはエジプトの隊商たちにヨセフが連れて行かれたことを知っていたのに対して、父ヤコブはヨセフは死んだものだと思い込んでいるのです。だからこそ、ヤコブは末息子ベニヤミンを可愛がりました。

 

**************

 

人生とは複雑であり、人間も複雑な存在だと思います。嬉しいけれど辛いのです。

 

130歳になる父ヤコブに、よい知らせを携えて行く旅路であるはずなのに、彼らは沈痛な面持ちでカナンに向かって歩いているのです。その原因は何かと言えば、ほかならぬ〈罪〉でした。

 

創世記45章後半において、〈罪〉の問題が誰にもわかる形で記されているわけではありません。それどころか、そんなことは何も記されていないようにさえ見えます。

 

正にこれが、私たちの人生ではないでしょうか。罪の問題と真っ正面から向き合うことを抜きにして、私たちの道は開かれないのです。

 

**************

 

戻って来た息子たちが父に先ず報告したのは、「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」というものでした。

 

けれどもこの言葉は、きっと父は飛び上がって喜ぶだろう、というお気楽な予想の元、語られたものではないことを踏まえるべきでしょう。

 

彼らには覚悟がありました。今できる限りの誠実さをもって父に向き合うしかない。もはや隠し立てをすることもない。恵みの中、自分たちが罪人(つみびと)であることを認めている。いざとなれば父に対して、どのようなことでも答える覚悟があった。

 

ルカ福音書15章の放蕩息子の帰還に重なるものがあります。

 

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報告を聞いたヤコブも人間です。今さらそんなことをどう信じればよいのか、表情は固まりました。笑顔などなかったのです。

 

しかし、父ヤコブは、結果的には息子たちにその罪の内容の逐一を語らせなかった。ヤコブはここで、息子たちに対して怒りの感情を露(あら)わにしませんでした。

 

私は思います。

 

父は息子たちを赦そうとして忍耐し努力しているのです。おそらく、息子たちのひと言ひと言の中に、心底の悔い改めを感じ取っていた。

 

「元気を取り戻した」(原意は「リバイブした」「覚醒する」)ヤコブは「よかった」と言います。「それで十分だ」という意味の語です。

 

私は、息子たちの報告に対する赦しの意味が含まれていると感じるのです。ゆるした父には、新しい命の息が吹き込まれています。

 

これはヤコブの「復活」の時でした。そしてこの「復活」は、〈共に生きる家族の復活〉の時だったのです。end

 

 


2019年8月27日(火)朝8時、森牧師が参加の日本聖書神学校卒業生研修会の祈りの時間の一枚。荒瀬牧彦教授(礼拝学他担当・日本賛美歌学会の重要メンバー)が撮影して下さいました。奥に森牧師の姿(^^♪
2019年8月27日(火)朝8時、森牧師が参加の日本聖書神学校卒業生研修会の祈りの時間の一枚。荒瀬牧彦教授(礼拝学他担当・日本賛美歌学会の重要メンバー)が撮影して下さいました。奥に森牧師の姿(^^♪

 

     《 み言葉 余滴 》   NO.221
                2019年9月1日
      『 毎日が日曜日なのだから 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 13章10~21節 10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 

聖書の中で「会堂長」というと、よく知られている人物の名前を思い出します。〈ヤイロ〉です。12歳の愛娘(まなむすめ)をイエスによみがえらせてもらった会堂の管理者です。

 

おそらく、カファルナウムの人物で、その仕事は律法の教師とは違う立場で、会堂での礼拝の祈りや聖書朗読や説教をする人を選んだりすることであったと思われます。

 

他に、子どもたちの教育、旅人のもてなしもする。会堂の果たすべき大切な日々の役割が支障なく進むように、いつも心配りをする人でした。会堂はまるで現在の教会のようです。

 

                    **************

 

人間というのは先入観に左右されるものだと改めて気付かされたのは、ルカによる福音書13章に姿を現し、イエスさまにかなり厳しく叱られることになる「会堂長」の姿を通じてでした。

 

私が説教の準備をしながらしばしば経験するのは「恥ずかしながら・・・ようやく気が付いた」ということです。実は私、新約聖書に登場する「会堂長」は、そのほとんどがイエスという存在に対して好意的な態度をとるものだと思い込んでいました。

ところが違いました。イエスさまが18年間も腰を伸ばすことが出来なかった婦人の癒しをなされたにも関わらず、「会堂長」はイエスさまに悪態をつくのです。

 

いいえ。彼の立場からですと、自分たちの生活、人生の土台となっている〈律法〉に基づく正当性を確信をもって語っているだけなのです。

 

                    **************

 

会堂長は言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と。

 

この言葉の背景を整理しておきましょう。先ず、出来事の冒頭に出てくる舞台設定となる「安息日に、イエスは会堂で・・・」という言葉が鍵なのです。特に「安息日」が問題です。

 

そもそも「安息日」の原点はどこにあるのでしょう。その聖書的な起原は二つあります。一つはモーセの「十戒」にあるのですが、ここではもう一つをご紹介します。

 

それは、聖書の初め、天地創造の場面です。創世記2章の冒頭に〈神さまご自身の安息〉の様子がこう記されています。

 

「2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」とある通りです。

 

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万物を創りだされたのが神さまであり、間違いなく私たち一人ひとりの創り主です。

 

自力では回復が不可能な状態になってしまった人間、立ち止まることを忘れている者、罪の縄目に絡みついてしまって身動き出来ない人を、創造の主は、見捨てるようなお方であるはずがありません。

 

私の最愛の絵本に『たいせつなきみ』(原題「You Are Special(ユー アー スペシャル)」作:マックス・ルケード)があります。

 

傷だらけになった木彫りの人形・パンチネロ。彼は丘の上の家のエリという、木彫り人形造り職人を訪ねた時にこう語りかけられます。「毎日お前が ここへ来てくれることをねがって まっていたんだよ」と。

 

主イエスはたとえ何曜日であろうとあなたが教会に帰ってくることを待っておられます。お言葉を下さり、手当をなさる。

 

それが私たちの救いです。end

 

 


2019年8月25日教会玄関のお花 夏ももう少しでおわりです
2019年8月25日教会玄関のお花 夏ももう少しでおわりです

    《 み言葉 余滴 》   NO.220
              2019年8月25日
 『 コルネリウスに聖霊が降るわけ』 
            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)


◎使徒言行録 10章24~33節
24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。・・・・・・33 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

 

初代キリスト教会の発展、福音の伸展を伝えているのが使徒言行録ですが、ここに登場する〈コルネリウス〉の控えめであるけれど、堅実で誠実な姿は、私たちに少しの押しつけがましさもなく、たいせつな事を教えてくれているように思うのです。

 

そもそも、カイサリアに駐在する〈百人隊長〉と言えば、他の町でその務めを果たしている〈百人隊長〉に比べて、相当に重い責任が与えられていたと思われます。なぜなら、カイサリアは、地中海を渡ってローマに向かうのに、一直線の所に位置するからです。

 

〈コルネリウス〉の生活振りについて最初に伝える記事は、使徒言行録10章2節に「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」とあります。

 

                    **************

 

使徒言行録を記したルカは、彼にとっての第一部であるルカ福音書の7章で、〈コルネリウス〉と同じように〈百人隊長〉としてカファルナウムで働いている男が、部下の癒しのためにイエスさまに救いを求める場面でこのような言葉を紹介しています。

 

〈百人隊長〉はこう言うのです。「7:7・・・ひと言おっしゃってください。そして、私の僕(しもべ)をいやしてください。8 私も権威の下(もと)に置かれている者ですが、私の下(もと)には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

 

部隊を率いる者として、上からの命令には絶対に服従する生き方をしているのが〈百人隊長〉であることがわかります。彼自身も、上官からのひと言を受ければ、命を掛けて生きて行く覚悟をつねにもっている人なのです。

 

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しかし、生身の人間として、場合によっては命を差し出す覚悟をもって最前線に進み出なければならない彼ら兵士には、自分を支えてくれる、絶対的な何かを求める、否、欲すると表現すべき心があったはずです。

 

たくさんの言葉である必要はありませんでした。究極的には、み子イエス・キリストという〈いのちの言(ことば)〉としてこの世にお出でになったお方の〈ひと言(こと)〉があれば、自分は生きて行けるのだ、という気持ちをもっていたのです。

 

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私は〈コルネリウス〉に惹(ひ)かれるところがあります。彼には家族や部下たち、つまり、一緒に暮らしを分かち合っている人々との対等な関係の中で、はるばるやって来たペトロの話を誠実に聴こうとする空気を感じるからです。

 

それは一朝一夕(いっちょういっせき)で身につけたことではない、と思います。部下の命を、家族の暮らしを、命懸けで守り抜くためには、彼自身を支える確かな、堅固(けんご)なものが必要だったのです。

 

〈コルネリウス〉の、「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」という姿勢は、私たちが神の言葉を聴く姿勢を整えるために見倣うべき模範です。

 

〈聖霊〉は、このような形で神の言葉を切実さと期待と祈りをもって待ち望む者に与えられました。

 

〈コルネリウス〉。後(のち)に彼は軍人を退役し、ごく平凡に生きる一般の人になってからもなお、その生き方は少しも変わらなかったに違いありません。end

 

 


いろんなことのために正さんよりお借りしてきました・ステンドグラスです
いろんなことのために正さんよりお借りしてきました・ステンドグラスです

  《 み言葉 余滴 》   NO.219
              2019年8月18日
    『 一番の〈ワカランチン〉はだれ』 
               牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
                             
◎ルカによる福音書 10章33~34節 
33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

 

主イエスは十字架での磔(はりつけ)による死が待ち受けるエルサレムに向かって進み出されるときに表情を変えられました。その様子が、ルカ福音書の9章51節で「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記録されています。「決意を固める」とは「顔を固める」という意味の言葉です。

 

ガリラヤ近郊での宣教活動を終えられたイエスさまのお心があきらかにされている〈節目の記事〉なのです。

 

ところが、イエスさまはエルサレムに向かう前に「サマリア」という地に対して深い思いを抱いておられることを弟子たちに教えようとされます。遣いの者たちをわざわざ「サマリア」へ送るのです。遣いの者たちは「サマリア人たち」に歓迎されませんが、イエスさまからすると、そうなることは織込み済みでした。何としても遣いの者を「サマリア」に送る必要がありました。

 

                    **************

 

ヨハネによる福音書4章に見る「サマリアの女」との出会いを既に知っているはずの弟子たちですが、彼らはこの時、怒りを露わにします。12弟子の中で、おそらくペトロに次ぐ立場にあり、雷の子たちと呼ばれることもあるヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼ら(=サマリア人)を焼き滅ぼしましょうか」とまで言うのです。

 

                    **************

 

元々「サマリア」は、ダビデ・ソロモンと続いた統一王国の分裂後、オムリ王によって設立された北王国イスラエルの難攻不落の首都でした。アッシリアによって侵略された「サマリア」は、異邦人との混交・混血が政略として進みます。そのことが複雑に絡み合い、イエスさまの時代、純潔を重んじるユダヤ人は異邦人以上に「サマリア人」を嫌悪したのです。

 

そのような歴史をイエスさまの弟子たちも知っていました。ですから、「そらみたことか。イエスさまは、時々、お考えが甘くなることがあって困ったものだ。」と思ったとしても不思議ではないのです。ところが、イエスさまはそんな弟子たちを静かに戒められます。弟子たちは大いに不満だったでしょう。口をとがらせる弟子たちの顔が行間から浮かんできます。

 

                    **************

 

聖書を読む時に私たちは色々な意味で、背景とか文脈というものを考えることがとても大切です。「善きサマリア人」の譬え話をイエスさまがなさったこの場面では、どのような文脈を知る必要があるのでしょう。

 

譬え話を聴いているのは「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問をした「律法の専門家」だけであるかのように見えます。

 

けれども、それは落し穴です。

 

福音書記者のルカはひと言も触れていませんが、譬え話を通じて学んで欲しいのは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼ら(=サマリア人)を焼き滅ぼしましょうか」と叫んでカッカしていた〈弟子たち〉でした。

 

最も身近に居る彼らにこそ、イエスさまはご自身の思いを知って欲しかったのです。

 

ルカは少し先の17章でも、10人の重い皮膚病の人たちの癒しの記事の中で、癒された者のうち、一人イエスの元に戻って来て神を賛美したのは「サマリア人」だったと記録します。

 

                    **************

 

わたしたちは、イエスさまが「サマリア」や「サマリア人」にこだわられた理由を、少しも差し引くことなく、学び続ける必要があります。

 

弟子たちのこと、律法学者たちを他人事(ひとごと)として眺め、イエスさまの決意を封印し、「ワカランチン」のまま、呑気(のんき)に過ごしていてよいわけがありません。end

 

 


2019年8月11日の旭東教会の礼拝に登場した森牧師の相棒リスくんです。時々姿を見せるかな?
2019年8月11日の旭東教会の礼拝に登場した森牧師の相棒リスくんです。時々姿を見せるかな?

     《 み言葉 余滴 》   NO.218
              2019年8月11日
     『  人生 一歩先は〈闇〉ですか  』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎創世記 45章1節~3節 1 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。2 ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。

 

50年程前に弟ヨセフを見捨てた兄たち。父ヤコブに血まみれの服を見せて、ヨセフを死んだ者としてしまった兄たち。彼らは、目の前に立っているエジプトの総理大臣閣下が、弟ヨセフであることに全く気付きません。

 

少し前には、総理大臣と共に、杯を交わし、心なごむ宴会の時を過ごしていたのに、本当に気付かなかったの?、と私たちは、ふと疑いたくもなります。「なんだか雰囲気がヨセフに似ているなぁ」「他人の空似か。不思議なことは時に起こるもの」と思っても、それ以上、考えることをしなかったのです。

 

                    **************

 

人間とはそのような存在なのだと教えられます。これはある意味、恐ろしいことですし、自戒が必要です。「こうだ」と思い込んでいる人間は、何を聞いても何を見ても、その思い込みの中で生き続けるのです。

 

兄弟たちの肩を持つのではありませんが、そもそも彼らは、弟捜しのためではなく、生き延びるために食糧を求めてエジプトにやって来ました。もはや相当に年老いた父のためにも、その目的の達成は絶対に必要なことだったのです。

 

異変に気が付いたのは、総理大臣閣下が「すべての者を退出させよ」と厳しい表情で命じた時でした。残されたのは自分たちだけ。明らかに様子が変です。このお方は何をなさろうというのか。否が応(いやがおう)でも緊張が高まります。立ち尽くしている兄弟たちは、自身の心臓の音が聞こえるのを感じていたことでしょう。ヨセフ以外の11人の表情が思い浮かびます。

 

                    **************

 

と、その時、目の前の総理大臣閣下の口から発せられた言葉は「アニー ヨセフ」=「わたしはヨセフ」というヘブライ語でした。エジプト語ではなく、彼らの母国語・ヘブライ語が発せられただけでも驚きですが、目の前の人がヨセフだとわかったこの瞬間、誰が喜ぶことが出来たでしょう。

 

いいえ、それにとどまりません。続いて、父のことを目の前の閣下は尋ねたのです。「父はまだ生きておいでですか」と。兄たちのうち、一人くらいは、総理大臣閣下は別の機会に「前に話していた、年をとった父上は元気か。まだ生きておられるか」と尋ね、「あなたさまの僕(しもべ)である父は元気で、まだ生きております」と無意識に答えた時のことを思い出したことでしょう。

 

突如として目の前の暗雲は消え、点と点が結び付き、輪郭が浮かび上がってきた瞬間でした。直前まで彼らは「これはおかしい。万事休す」という恐れを抱いていたのです。けれども、人生一歩先は「闇」ではなく「光」でした。

 

                    **************

 

突拍子もない聖書の読み方でいささか強引かも知れませんが、私はここに、復活の主イエス・キリストと先に自死したユダを除く11人の弟子たちの再会の物語のひな型を見ます。イエスさまは弟子たちに語られたのです。「あなたがたに平安・平和。何も心配するな。大丈夫だ」と。

 

ヨセフの物語を導くのは、人知を越えた救いを示される神です。家族の、人と人との、人と神との和解の物語がある。これこそ、私たちに必要な物語なのです。end

 

 

 


2019年 夏の献花 という爽やかさを感じるもの 8/4平和聖日に 雅代さんによります
2019年 夏の献花 という爽やかさを感じるもの 8/4平和聖日に 雅代さんによります

    《 み言葉 余滴 》   NO.217
                 2019年8月4日
  『 あなたの〈ぴょん〉を求めるイエス 』
                  牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎ヨハネによる福音書 6章26節~29節 26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 

5つのパンと2匹の魚による給食の奇跡が行われたことで、人々のイエスに対する期待は高まります。

 

しかしイエスさまは、しばらくの間、身を隠すようにしてお過ごしになっていたようで、「先生、一体、いつここにお出でになったのです」という群衆の言葉が聖書には記されています。

 

その時、イエスさまが答えられたお言葉は、少し謎めいていますが、「はっきり言っておく。・・・・・・朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」というものでした。

 

「働きなさい」というお言葉を聞いた人々は思ったのです。どんな善い業を積み重ねればよいのか。一体、何をどれだけ続ければよいのだろうか、と。だから彼らは質問します。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)と。私たちもそこに居合わせたなら、同じように考えるかも知れません。

 

                    **************

 

英語で恐縮なのですが、ヨハネによる福音書6章28節を、わかりやすい英語を使う「ニューインターナショナルバージョン」(NIV)という翻訳で読んでみましょう。まず、群衆がイエスさまに問いかける言葉です。

 

「 What must we do to do the works God requires ? 」とあるのです。

 

興味深いのは新共同訳では「業」とされている語に、この英語訳では[複数形]を意味する〈s〉(エス)を語尾に付けて、「works」(ワークス)としている点です。

 

「私らぁ、あのこと、このこと、どれだけ続けて頑張ればよいのでしょうなぁ?」という思いを抱いていることが十分に伝わってきます。

 

それに対して、イエスさまがお答えになったのは29節です。ご紹介します。

 

「 The work of God is this : to believe in the one he has sent. 」とあり、「work」(ワーク)には〈s〉(エス)はありません。[単数形]なのです。

 

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では、ただ一つ、イエスさまが私たちに求められることは何なのでしょうか。

 

イエスはお答えになりました。「神がお遣わしになった者を〈信じること〉、それが神の業である。」(29節)。英語では「 to believe in the one 」と書かれています。イエスさまのお答えは〈信じること〉だけなのです。

 

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私たちの人生途上で求められる、本当に大切なことは、その殆どすべてが目に見えないものです。「愛」「真実」「信頼」「正義」「友情」「信仰」。あるいは、「息」や「空気」すらも見えませんし、触れることもできません。

 

12弟子の中で、ただひとり、復活のイエスとの劇的な出会いに乗り遅れた〈ディディモと呼ばれるトマス〉は、イエスさまから「あなたの手を伸ばし、わき腹に手を入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ福音書21:27)と語りかけられました。

 

私は思います。

 

キリスト教の信仰には、あなたの〈ぴょん〉が必要なのだと。end

 

 


2019年7月28日・礼拝の中でのジュニアサークルの時間に「せかいのはじまり」を絵本とスクリーンで
2019年7月28日・礼拝の中でのジュニアサークルの時間に「せかいのはじまり」を絵本とスクリーンで

    《 み言葉 余滴 》   NO.216
              2019年7月28日
『〈偏食をやめたペトロ〉に倣う 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎使徒言行録 10章10~15節 10 ペトロは我を忘れたようになり、11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。13 そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。

 

福音というものは、イエスさまご自身が活動された、ガリラヤ地方やユダヤ地方だけに留(とど)まっていて良いはずがありません。復活の主イエスは、初代のキリスト教徒たちによる〈異邦人伝道〉を願われたのです。だからこそ、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」(マタイ福音書 28:19)と命じられました。

 

さらに、聖霊の降臨によって、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録 1:8)ことを約束されたのです。

 

ユダヤ人と口も利かないような仲だった〈サマリアの地〉に福音を届けたのはフィリポでした。さらにフィリポは、荒れ地の〈ガザ〉でエチオピアの宦官(かんがん)に福音を解き明かしました。宦官は〈異邦人〉です。続いて用いられていったのがペトロでした。ペトロは主のみ手に導かれながら、〈リダ〉〈ヤッファ〉を経て〈カイサリア〉という地中海沿岸の大きな都市に福音を届けます。

 

                    **************

 

カイサリアではコルネリウスというローマ帝国の「イタリア隊」の百人隊長とその家族との出会いが待っていました。彼らも〈異邦人〉です。

 

しかしペトロには不十分なことがあったのです。それは悔い改めでした。そのために備えられていたのが、食べたこともない物が布に乗って飛んで来て「これを食せよ」という主の声を聞く出来事だったのです。

 

祈るために屋上に上がったペトロは、「我を忘れたような状態になった」とあります。「脱魂状態」。あるいは「忘我(ぼうが)」「気をうしなえるような心地」というような訳の聖書もあります。彼自身が望んでこうなったのではありません。すべては聖霊の導きでした。

 

                    **************

 

実は、このような状態になったのはペトロだけではなく、もう一人、パウロも同様の経験をしていたのです。

 

使徒言行録もおわりが近くなる22章17節以下のエルサレムの兵営での弁明の場面で、パウロは、「わたしは・・・神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いした」と語ります。そして最後に、復活の主イエスによって、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わす」と命じられているのです。

 

 

二人が自分自身をコントロール出来ない状況に置かれたのは偶然かと言えば違います。彼らに必要だったのは自分の力ではない。むしろ、力に満ち満ちたペトロやパウロとは反対の状態なのです。彼らに必要だったのは上からの力=聖霊でした。

 

聖霊に押し出される中、先ずは最初期の〈異邦人伝道〉をペトロが担い、その後の〈異邦人伝道〉をパウロが引き継いで行ったのです。

 

                    **************

 

ペトロは脱力状態の中「身を起こして、あらゆる獣(けもの)、地を這(は)うもの、空の鳥を屠(ほふ)って食べよ」と主に命じられましたが、実際に彼がそれらのものを口にしたのかどうか、聖書は関心をもっていません。なぜなら、ここでの問題は食べ物ではないからです。

 

ペトロはイエスさまから、「恐れることはない。今から後(のち)、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)というお言葉を受けて立ち上がったところに、信仰者としての原点があった人です。

 

そのペトロが、イエスさまの直弟子(じきでし)として、初代のキリスト教会の中でも重要な役割をここで果たし始めています。

 

異文化、異教徒、異民族への使徒として、生い立ちも人生の価値観も全く違っている人々、すなわち〈異邦人〉の元へ裸で飛び込んでいく生き方を、ここから本格的に始めるのです。

 

聖書の中で私たちが近しい気持ちを抱く人物として第一にあげるのはペトロです。ここにいるペトロからも、私たちは倣うべき多くを示されています。end

 


2019年7月21日は夏のファミリー礼拝でした。説教の一部に使用した大漁の場面です(^^♪
2019年7月21日は夏のファミリー礼拝でした。説教の一部に使用した大漁の場面です(^^♪

    《 み言葉 余滴 》   NO.215
              2019年7月21日

 『 主イエスが待って居られること 』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎ルカによる福音書 5章4節~8節
 4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。・・・・・・8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

 

ガリラヤ湖の漁師であったシモン・ペトロ。彼が「恐れることはない。今から後(のち)、あなたは人間を獲る漁師になる」というお言葉を受けて、イエスさまに従って行くことになったのは、上の、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という告白の直後のことです。

 

いいえ、ペトロだけではありません。ヤコブとヨハネという仲間二人と兄弟アンデレもイエスさまに一緒に従って行くのです。そのきっかけは、何(なに)であったのか。

 

彼らの身に起こったのは、露ほども予想していなかった大漁でした。イエスの言葉に従った時に、思いも寄らない大漁を経験してしまったのです。それは驚きや、喜びを超えて、恐れを抱かざるを得ない出来事でした。

 

                    **************

 

当時、彼らの暮らしているガリラヤ湖の辺りで、イエさまの噂は日に日に広がり始めていました。ペトロの姑(しゅうとめ)が熱病で苦しんでいるのを助けてくださったのもイエスさまでした。

 

さらには、ペトロの家に、人びとが病気で苦しむ者を連れて来ては癒しがなされるのを見ていたのです。

この朝も、群衆がイエスさまに押しよせて話を聞こうとしていたのに、ペトロにとって結局は他人事(ひとごと)だった。夜通し苦労して漁をした彼らは、網を洗って次の漁に備え始めていました。ありふれた日常を続けようとしていたのです。

 

ところがです。さまざまな経緯があったにせよ、とにかく、ペトロはイエスさまに言われるままに網を投げてみた。すると、大変なことが我が身に起こったのです。長年漁師として生きて来たけれど、前代未聞の大漁でした。

 

これは、我が身に降りかかってきた幸いでした。普通、災いが降りかかってくるのですが、幸いが生じてしまった。この時、彼らは素直に喜んだのかと言うと違った。喜べなかったのです。恐れたのです。大いに畏れた。

 

                    **************

 

この時、ペトロらが心の奥底で感じていたことがあったのです。

 

そして、この場面で漁師たちを代表する形でそのことを口にしたのがペトロでした。ペトロは嘘偽りない言葉を口にした。それが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という言葉だった。

 

私たちは、ペトロの「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という〈罪の告白〉とも言える言葉を、なぜだか自分には無関係な言葉として通り過ぎてしまう。

 

自分はペトロと違うよ、とあなどってしまう。自分は、もう少しまともだと思っているところがある。違いますか。

 

                    **************

 

この物語を通じて聖書が伝えている〈ことの本質〉は何か。

 

それは、人の罪深さを超えて示される、神のみ業の底力です。

 

私たちは強いられる形で〈罪の告白〉は出来ません。けれども、いつも喜び、祈り、感謝する心をもって我が身を振り返るならば、計りがたい恵み=大漁の経験を、既に与えられていることに気付くのではないでしょうか。

 

その恵みに目を開かれる人こそが、〈罪の告白〉〈不完全な自分自身の認識〉へと導かれて行くのです。必要なのは、み言葉を聴いて、半歩でも踏みだすことなのです。end

 

 


2019年7月14日 創世記44章の大人向け説教でも一部紙芝居を使用する森牧師
2019年7月14日 創世記44章の大人向け説教でも一部紙芝居を使用する森牧師

  《 み言葉 余滴 》   NO.214
              2019年7月14日
         『 創世記44章の主人公 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 44章12~17節 12 執事が年上の者から念入りに調べ始め、いちばん最後に年下の者になったとき、ベニヤミンの袋の中から杯(さかずき)が見つかった。・・・・・・・とヨセフが言うと、16 ユダが答えた。「ご御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕(しもべ)どもの罪を暴かれたのです。この上は、私どもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」

 

ヨセフが“銀の杯(さかずき)”を最愛の弟であるベニヤミンの荷物の中に潜ませるように命じた理由が、聖書に記されているわけではありません。

 

しかし、ただひとつ明らかなことがあります。神さまは、ヨセフを通して働いて居られる。兄たちが、本当に悔い改めの心をもっているのかどうか。そのことについて、神さまご自身が誰よりも一番確かめたかったのです。

 

                    **************

 

20数年前、ヨセフの兄たちは、ヨセフを妬(ねた)み、殺そうとまで考えました。結果的に殺しはしなかったものの、通りがかりのエジプトに向かう隊商たちにヨセフを売り払います。ヨセフを亡き者とした。

 

ところが、大飢饉をきっかけにして、彼らは自分たちが犯した事の重大さを思うようになりました。何かが起こる度に、兄たちは未解決のままの罪に苦しむようになった。

 

忘すれようとしても、ふとしたときに脳裏をかすめるもの。それが罪です。自分の力で振り切ろうとしても、あるいは、何か楽しいことを考えたりしていても、心は紛れもしないし、苦しみが大きくなって戻ってくる。闇がある。

 

「神が僕(しもべ)どもの罪を暴かれた」とユダが感じたのは、良心の呵責(かしゃく)にとどまらず、神に裁かれている、と感じるようになったからです。神に問われていることをいつも考えるようになった。どこかで解放され、自由になりたいと、心の奥底で求め始めていた。

 

兄たちは、ヨセフを売ってしまったのですから、ヨセフがどこへ行ってどうなったのかは、知りようがありませんでした。つまり、取り返しのつかない罪を抱えていたことになります。生涯、この苦しみを負い、隠し続けるしかない。そのように心の奥底で考えていたのです。

 

                    **************

 

ところが、きょうの場面では、ユダは兄弟を代表して、できる限り率直に、自身の苦しみ、父を思う苦しみを言葉にしています。ユダは、神さまが罪に対して、徹底して自分を取り扱われていることをハッキリと感じています。罪があるときにそのままで良しとされるのが神ではありません。

 

しかも、とりわけユダは、創世記38章に記録されている、息子の嫁タマルとの関係も含めて、そう考えざるを得ないことに気づいていた。そこから逃れられないことを悟ったとユダは言っています。そう告白することができたのは彼自身の信仰ではない。神が準備されていた筋道。神の摂理なのです。

 

                    **************

 

罪が露わにされず、贖(あがな)われないままであることは、私たちに裁きがあるということです。それが紛(まぎ)れもない事実なのです。それゆえに、キリストは十字架にかかられ、人が償(つぐな)いきれない罪に対する裁きを身代りに受けられたことに私たちは救いを求める。そこに愛を見い出すからです。

 

そのイエス・キリストを通しての赦しを、わが事として信じる時、悔い改めに生きる新しい人として生かされて行く道が示されます。ヨハネ福音書3章16節以下のみ言葉を思います。

 

「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。

 

ここには朽ちることのない約束がある。創世記44章の主人公は、この世にみ子を遣わされた神さまなのです。end

 

 


2019年7月10日(水)ナザレ礼拝堂の講壇 ライトアップ
2019年7月10日(水)ナザレ礼拝堂の講壇 ライトアップ

        《 み言葉 余滴 》   NO.211
                   2019年7月7日
             『 もしも私が忘れても 』
                  牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎ルカによる福音書 15章3~10節 3 そこで、イエスは次のたとえを話された。・・・・5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。・・・・9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから一緒に喜んでください』と言うであろう。10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
 
 
人生、誰かに捜されていたことに気付いた時の〈喜び〉はひとしおです。私たちがいかに人生の迷路に陥りやすく、脇道にそれた末に、自力で戻れなくなってしまう存在であるのか。戻ってきたいと考えたとしても、それが本当に出来にくいこと。主イエスはよくご存知でした。

 

私たち、もう、誰も捜しに来てくれない、と思うことがあるのです。でもイエスさまはまことの羊飼いとして、私たちをその目の届く処(ところ)に置いて下さろうとされます。

 

ルカによる福音書15章には、主イエスによる3つの譬え話が置かれています。これはマタイ・マルコ・ヨハネによる福音書とは明らかな違いがあるルカの大きな特徴です。しかも、その内容は首尾一貫したものとなっています。ここでは取りあげていませんが、ルカ福音書15章11節以下の「放蕩息子とその兄の譬え話」でもそうですが、その結論は共通しているのです。

 

**************

 

すなわち「よき知らせ」とは、失っていたものを「見つけて」ここに連れてきましたから、「一緒に喜んでください」というものです。

 

人は身動きできなくなったらどうなるのでしょうか。よりによってこんな所に落ちるなんて、ということがなぜか私たちの人生にはある。声を出しても誰にも届かず、光を見いだせない所に生きることがある。失敗なんてするはずない、と思い込んでいた自分も過去にはいた。

 

ところが、そうはいかない。

 

**************

 

北九州市に居られ、ホームレス支援の働きに長年仕え続けて来ている【奥田知志(おくた・ともし)牧師】(日本バプテスト連盟・東八幡キリスト教会)が記された書(『もう、ひとりにさせない―わが父の家にはすみか多し―』・いのちのことば社)の中に、こんな一節があります。

 

【現在の教会に赴任した時、大石さんという女性がおられた。寄る年波で物覚えが極端に難しくなっていた。ある日この大石さんが献金の祈りに立たれた。

 

・・・・・・・・・「神様、じつは私は最近どうも物忘れをしているようです。みなさんのご迷惑になっていないか、とても心配です。」「神様、このままだと私はいつか神さまのことも忘れてしまうのではないかと、とても不安になります。」深刻な祈りの言葉に礼拝堂は静まりかえった。

 

・・・・・・しかし、大石さんは最後に絞りだすように、こう付け加えられたのだ。「しかし、神様。もし私があなたのことを忘れても、あなたは決して私のことをお忘れになりません。だから私は生きていけます」】

 

と。

 

大石さんは、どんな時でも捜しに来てくださるキリストを信じている。

 

                    **************

 

もしも、イエスの譬え話を読み解けたとしても、福音が他人事(ひとごと)である限り、私たちは、よき知らせとしての聖書の出来事を、共に喜ぶことは出来ない。何という悲しむべき人間の「性(さが)」でしょうか。

 

「さが」とは、幾つかの国語辞典を総合すると「人の力で左右できない本性。また、もって生まれた宿命。自分の力ではどうすることも出来ない、生まれつきの性質やめぐりあわせ。」となります。

 

どこの誰も、この物語に無関心で居(い)続けることが出来ません。私たちには、救い主であるイエスさまが必要なのです。end

 

 

 


2019年6月さいごの日曜日 JCではエステルの物語を学ぶ 
2019年6月さいごの日曜日 JCではエステルの物語を学ぶ 

《 み言葉 余滴 》   NO.210
              2019年6月30日
        『 会堂長ヤイロの恩人 』 
     牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 8章47~50節 47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」50 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

 

ヤイロという男がどのような人物であるのかについて、福音書は簡潔に伝えます。

 

まず彼は、シナゴーグと呼ばれる会堂の責任者であることがわかります。そこはユダヤ教徒の礼拝場所であり、裁判や青少年の教育の場でもありました。「ほれ、ヤイロさんがなぁ・・・」というだけで、ガリラヤ近郊では、彼にまつわる話がすぐに広まっていく立場の人でした。

 

もう一点。

 

どうやら一人娘ではなかろうか、と想像される子どもが、12年前に与えられたこと。目に入れても痛くないほど大切に育ててきたにも関わらず、何の病(やまい)か、瀕死の状態となり、もはや万事休すという、彼ら夫婦にとっては、耐え難い悲しみと苦しみの中におかれていたこともわかるのです。

 

                    **************

 

イエスさまの時代の12歳というのは、今の私たちが考える12歳とは随分違いがあると考えた方がよいかも知れません。ひと言で言うなら、大人に近い感がある。イエスの母となるマリアは14,5歳でナザレの大工のヨセフのいいなずけとなり、やがて結婚をしたのだろう、と言われます。

 

おそらくどこの親でも思うように、娘の将来を祈りつつ過ごしていたヤイロ夫妻にとって、自分が代わってあげられるものならばという気持ちをもちながらも、それは叶わない。娘は妻に任せ、ヤイロは意を決してイエスの元にやって来て、なりふり構わずひれ伏したのです。「娘を助けてください」と。

 

                    **************

 

泣き女・泣き男と思われる人々がヤイロの家に大勢やって来ました。彼らは盛大に泣いて、悲しみを演じる人たちです。その人数の多さは、ヤイロという人の社会的な地位の高さを、間接的に読者に伝えています。

 

しかし、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れてやって来たイエスは、真顔で言ったのです。「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているのだ」と。

 

その言葉を耳にした途端、彼ら泣き女・泣き男たちは、顔を見合わせて大笑いし始めます。聖書は「人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った」と告げます。この、嘲笑う人々の存在は、十字架刑に処せられる直前の群衆のそれと、何ら変わらないのです。

 

それでは、ヤイロの信仰の程度はどうだったのかと言えば、彼は、イエスさまに来てはもらったものの、「泣くな、死んだのではない。眠っているのだ」という言葉を信じて居なかった。だからこそ娘が起き上がった時に、「両親は非常に驚いた」のです。

 

                    **************

 

のちに、この日の出来事を、ヤイロが目を閉じて静かに思う時、彼にとっては、イエスさまによる愛娘(まなむすめ)の救いの出来事以上に、12年もの間、出血が止まらず苦しみ続けてきた女の存在が脳裏に焼き付いていたのではないでしょうか。

 

女は群衆にまみれてイエスさまに後ろからそっと近づき、そのことが知られると、恐れながらも進み出てひれ伏し、全てをありのままに話し、救いの宣言を受けました。ヤイロはその場面に立ち会ったのです。

「私は12年の間・・・」とイエスに告げた女性にとっての12年間は、ヤイロが娘と共に生きて来た12年と同じ歳月(としつき)です。

 

だとするならば、ヤイロにとっての恩人はイエスさま以上にこの人だったのかも知れない。ヤイロは律法を重んじる人でしたが、女の生き方から、もっと多くを学んだのです。end

 

 


2019年6月23日・主日礼拝を 夏の間だけ、ナザレ礼拝堂に移動して初めての説教の様子
2019年6月23日・主日礼拝を 夏の間だけ、ナザレ礼拝堂に移動して初めての説教の様子

  《 み言葉 余滴 》   NO.209
              2019年6月23日
   『 ペトロ 革なめし職人シモンの家へ』
                牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 9章40節~43節

40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。43 ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。

 

エルサレムに現れた「サウロ」(=のちの「パウロ」)。彼はダマスコでの復活の主イエスとの出会いを通して示された救いの福音を、喜びと感謝をもって大胆に語りました。

 

その姿に触れた12弟子の筆頭の「ペトロ」は驚きました。いいえ、それ以上に大きな刺激を受けたことでしょう。

 

「サウロ」は正統派のユダヤ人として、幼い頃からガマリエルという律法の先生のもとで訓練を受けた人物です。さらに、親から相続したとはいえ、ローマの市民権まで持っていますから、都会的なところもあったはずです。

 

ガリラヤ出身の漁師だった「ペトロ」からすると「とてもかなわない、凄い男」だったのです。ただし「サウロ」はイエスさまの直弟子ではありません。

 

一方で「ペトロ」は、イエスさまの側(そば)で弟子としての訓練を受けて来た者としての誇りがあります。大いに発奮する機会を得たのです。主のお言葉を実践できるのは、自分たちのような直弟子しか居ない、と考えたはずです。

 

                    **************

 

地中海に面する町ヤッファはペトロが「タビタ」を生き返らせた町として知られます。タビタは「婦人の弟子」と紹介されるのですが、これはとても珍しいことです。そのようなタビタを頼りにしていたのが〈やもめたち〉です。

 

夫に先立たれ、社会で弱い立場に置かれていた女性たちにとって、タビタのように親身になってくれる存在は安心の源であり支えでした。だからこそ「タビタ」は「ペトロ」を通じて生き返る必然がある存在だったのです。

 

主イエスを礎(いしずえ)とする初代の教会が、寄り添い、福音を届けるべき人とはどのような存在なのか。聖書はそのことを私たちに知らせようとしています。主イエスが居られなくても、癒しの業を行うことが出来るようになった偉大な弟子「ペトロ」というのが、聖書の中心メッセージでは決してないのです。

 

                    **************

 

なぜ、そのように言い切ることが出来るのか。ヤッファ、あるいはその直前に訪ねた町リダでの「ペトロ」による〈奇跡〉に中心があるならば、「ペトロ」はさっさと別の町に移動して、再び奇跡を行うはずです。

 

しかし「ペトロ」は、なおヤッファに留(とど)まるのです。しかもその留まり方は「住むこととなれり」(永井直治訳)という、腰を据える必要のあることでした。一体「ペトロ」がヤッファでなすべきことは何だったのでしょう。

 

神さまはヤッファに暮らす「革なめし職人シモン」を用いて、「ペトロ」の訓練を始められるです。おそらく「ペトロ」は「ぜひ我が家に滞在して、この地で厄介者扱いされている自分らの存在を知って下さい。他にも色々とお話したいことが・・・」と頼まれたのです。

 

当時、獣の皮を剥ぎ、悪臭と血にまみれながら仕事をする人々は、隅っこに身を置かざるを得ない底辺に生きる人たちでした。「ペトロ」の滞在が長期に及ぶことも神の必然でした。

 

                    **************

 

本田哲郎神父さまによる翻訳の聖書(*「小さくされた者たちの言行録」・新世社)では、9章1~31節迄は「パウロの回心」の見出し。9章32節以下のリダやヤッファでのペトロの働きからは「ペトロの回心」の見出しが置かれます。

 

使徒言行録の著者ルカは、「悔い改め」に重点を置いて福音の進展を記しました。「パウロとペトロ」二人の回心から学ぶこと抜きに「私たち」のこれからもあり得ないのです。end

 

 


2019年6月16日の献花・三位一体主日の講壇です 雅代さんのご奉仕に感謝
2019年6月16日の献花・三位一体主日の講壇です 雅代さんのご奉仕に感謝

       《 み言葉 余滴 》   NO.208
                2019年6月16日

  『 気がつけば そこは天の宴(うたげ) 』
                牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 43章30節~34節
30 ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた。31 やがて、顔を洗って出て来ると、ヨセフは平静を装い、「さあ、食事を出しなさい」と言いつけた。・・・・・・34 そして、料理がヨセフの前からみんなのところへ配られたが、ベニヤミンの分はほかのだれの分より五倍も多かった。一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ。

 

F.B.マイアーという1874年生まれの牧師がイギリスに居られました。マイアー先生の聖書人物伝は定評があり、私の書棚にも何冊か並んでいます。

 

その中で『奴隷から宰相(さいしょう)へ』(1979年・いのちのことば社)という書名で訳されているのが、原題・『JOSEPH(ヨセフ)』という本です。一体、どんなことが書かれているだろうか。気になって、先ほど、開いてみました。

 

「前書き」には、「私が初めて書いた聖書人物伝はヨセフについてであった。それ以来、私にとってヨセフの生涯は特に魅力のあるものになった。彼に本来備わっている美しさのためだけでなく、その生涯はやがて、全ての人を照らすまことの光を強烈に指向(しこう)しているからである。」とあります。

 

本当にそうだなぁ、と思います。創世記37章から展開する壮大なスケールの「ヨセフ物語」の奥深さというものを、最近、説教する度に感じていたからです。

 

     **************

 

聖書が、私たちに最終的に指し示そうとしているのはどのような世界なのでしょう。

 

結論的に申し上げるならば、それは「神の国」であり「天の国」なのです。聖書は、誰もが“そこ”へ無条件で行けるとは言っていません。果たして“そこ”には、どのようにしたら辿(たど)り着けるのでしょうか。自由に出入りするために準備出来る切符があるのか。実は、ヨセフ物語の42章~43章にかけての出来事の中に、その“扉”が見えるのです。

 

とりわけ42章34節でヨセフが、「ただし、末の弟(=ベニヤミン)を必ず連れて来るのだ。そうすればお前たちが・・・正直な人間であることが分かるから、・・・自由にこの国に出入りできるようにしてやろう」と言った、と書かれている箇所。

 

ここでの「この国」を「天国」に置き換えて考えると、創世記43章の物語の舞台が、ある時代の、ある家族だけの、遠い昔の物語には見えなくなります。

 

                    **************

 

ヨセフは決して神さまでもイエスさまでもありません。高ぶるところだって明確にあった人です。しかし、彼自身に自覚がなかったとしても、ヨセフは間違いなく、神さまの器として用いられている人なのです。

 

ヨセフを通して次第に明らかになり始めているのは、家族同士の和解の問題でした。神さまの前で、嘘いつわりのない正直者になるために、一人の例外もなく、登場人物はぎりぎりの所に身を置くことになるのです。

 

実に不思議なことですが、これこそ、神を信じる者、神を畏れる者となるために、なくてはならない、人生の勘所(かんどころ)である。私はそのように伝えたいと思います。

 

                    **************

 

食べることの危機が襲いかかったヤコブを父とする一族は、身にまとって隠していた様々なものを脱がされていきます。生身の人間が、人間であるがゆえのズルさも、情けなさも、悲しみも、涙も露呈していくのです。

 

自分のことばかり考えている人が、気が付いてみると、少し変わり始めています。人のことを考えているようでいても、突き詰めて行くと自分本位に過ぎなかった者が、神の国の食卓で、力をぬいて輪になって座るようになる。

 

私たち。正直者になろうとしてなれるのではありません。神の摂理(せつり)の元に置かれていることに、ハッと気付く恵みが、今の私たちにも必ずあるのです。end

 

 


2019年6月9日・ペンテコステ・聖霊降臨日の旭東教会講壇 メッセージをする森牧師
2019年6月9日・ペンテコステ・聖霊降臨日の旭東教会講壇 メッセージをする森牧師

    《 み言葉 余滴 》   NO.207
                 2019年6月9日
   『 やっぱり私 聖霊を信じています 』
                牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
 

◎使徒言行録 2章1節~8節 
 *永井直治訳 『 聖使徒の行為 』より *基督教文書伝道会 発行

1またペンテコステの満つる日に、彼等(かれら)はすべて同じ処(ところ)に心を一つにしてありき。2かくして俄(にわか)に烈(はげ)しき風の、吹きまくるが如(ごと)き響きの天より来たりて、彼等(かれら)が座する家を全く満たせり。また火の如(ごと)き響きの天より来たりて、彼等(かれら)が座する家を全く満たせり。3また火の如(ごと)き分かれたる舌、彼(かれ)等(ら)に現れて一人一人(びとり)上に置かる。4乃(すなわ)ち彼等(かれら)はすべて聖(きよ)き霊にて満たされ、且(か)つ霊の彼等(かれら)に語らしめ給(たも)うままに、異なる言葉にて話(ものが)たり始めたり。

 

神さまからすると〈予定通り〉の預言の成就。人間の側からすると〈思いもよらぬこと〉。それが、ペンテコステ=聖霊降臨の出来事でした。

 

今号は原文に忠実で実に深い余韻を味わえる永井直治訳でご紹介します。

 

復活の主イエス・キリストが、天に昇られる直前、すなわち、復活されてから40日目に約束されたのは次のことでした。使徒言行録1章8節にこうあります。

 

「されど聖霊の汝等(なんじら)に到り給うとき、汝等力を受けん、かくてエルサレム及びユダヤ全国、サマリヤならびに地の極(はて)にまで、我がために証人(あかしびと)たるべし。

 

            *************

 

50日前のイースターを思い出しましょう。

 

十字架の上で殺され、墓に安置されたはずのイエスは、弟子たちが、エルサレムの隠れ家で〈息〉をひそめていた時に、驚くべき仕方で現れて言われたのです。

 

もしも、私がそこに居合わせた弟子の一人だとしたら、生涯忘れることが出来ない言葉が、耳と心に残る場面だと思います。ヨハネ福音書20章21節以下です。

 

「是(こ)の故(ゆえ)にイエス複(また)彼等(かれら)に曰(のたま)えり、平和汝等(なんじら)に[あれ]。父の我を使(つか)わし給(たま)いしが如く、我も汝等(なんじら)を遣わさん。またかく曰(のたま)いて[後(のち)]息を[彼等に]吹き入れ給えり。かくて云(い)い給(たも)う、「聖き霊を受けよ。・・・」 と。*[ ]は原文にない訳者の補語。

 

イエスさまは、ご自身が吹きかける「息」は「聖霊」だと言われています。

 

けれども、弟子たちはその瞬間に、何か有難いものを感じとれたのでしょうか。

もしも私が居合わせたならば、ひとり不安になり、仲間の中で一番親しい人に「おい、あの時、お前は何か感じたか?」とこっそりと確かめると思います。

 

遣わされる者になる〈自信〉などよりも、遥(はるか)かに〈不安〉が大きい。

 

          **************

 

主の昇天から10日目の朝。

 

復活の主イエスと再会し、「聖霊を受けなさい」と言って息を吹き入れられた、あの〈ふーーーーっの日〉からすると50日目に起こった聖霊降臨は突然でした。

 

イエスは「10日経ったら何かが起こるから目を覚ましていなさい」と言われていたわけではないのです。

 

突然、天からもの凄い音がしました。激しい風が吹きつけ、家全体にごうごうと響き渡った。めらめらと燃える炎の舌のようなものが現れ、一同の頭の上に留(とど)まります。

 

続いて、もっと不思議なことが起こりました。約束の「聖霊」を祈りながら待っていた者たちの心に火が付き、自分で学んだことも話したこともない外国語で、福音の出来事を〈話(ものが)たり始めた〉のです。

 

          **************

 

聖霊は私たちキリスト者の信仰の根幹に関わるものであることに気付きます。

 

とりわけ『使徒言行録』の著者は『ルカ福音書』を描いたルカです。マリアの「受胎告知」もルカに依るものです。

 

ルカは、神のみ子であるイエスが、処女(おとめ)マリアに宿ったのは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(ルカ1:35・新共同訳)からであると記録しました。

人の知恵と言葉を超えて、私たちの救いのための福音はこの世に宿りました。

 

同様に、神の言(ことば)は、世の人々が「奴らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る中、人の思いを遥かに超えて「聖霊」に導かれて進展するのです。end

 


2019年5月31日(金)の昼前 RSK山陽放送さんのドキュメンタリー番組撮影場面
2019年5月31日(金)の昼前 RSK山陽放送さんのドキュメンタリー番組撮影場面

《 み言葉 余滴 》   NO.206
            2019年6月2日

 『 ヨハネ福音書がこだわったこと』  

     牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
 

◎ヨハネによる福音書 16章7節~8節

  7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。

 

冒頭、私ごとで恐縮ですが、ヨハネによる福音書と私はとても深い関係にあります。何より、亡き父・誠太郎が「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった」という1章1節のみ言葉から「言一郎」という名前をつけたのです。

 

そのため、私は読んだこともないのに、子どもの頃から「ヨハネによる福音書」を知っているような気がしていました。

 

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ヨハネによる福音書には幾つかの大きな特徴があります。新約聖書の中の最初の3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、イエスさまの活動や教えの記事や内容にかなり似たところがあります。特に、イエスさまの宣教活動の主な場所はガリラヤ地方に集中しています。

 

それに対して、ヨハネによる福音書はガリラヤ地方での伝道活動よりも、ユダヤ地方やエルサレムでのイエスさまの活動を中心に描きます。そもそもヨハネによる福音書は、イエスさまの活動を、時間を追って克明に記録して残そうという気持ちをもっていないのです。ですから、ヨハネ福音書は伝記的な要素がとても薄い。その代わり哲学的と言えるかも知れません。

 

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代わりに、イエスさまによる「告別説教・別れの講話」をかなり丁寧に描いているのがヨハネ福音書の特徴です。そして、その中でイエスさまは、この世でのご自身による直接のお働きを終えられる直前に、弟子たちを通じて世に対して、明確な〈約束〉を語られるのです。

 

その〈約束〉が「告別説教・別れの講話」の冒頭から語られているのですが、イエスさまは14章18節で、「わたしは、あなたがたを〈みなしご〉にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と表現されました。

 

〈みなしごにしない〉とは「独りぼっちにはしない」「助ける人がいないような状態にはしない」という意味です。実に〈約束〉を守り抜こうとするために下さるのが、よく知っているけれど、なかなか説明がしにくい「聖霊」なのです。

 

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福音書記者ヨハネはその「聖霊」のことを、聖書の原文の言葉であるギリシア語の「パラクレートス」という語で表現しようとしました。本日の聖書にも「弁護者」という語が2度使われています。

 

もともと「パラクレートス」には「力強い味方、肩を持ってくれる者、同情をもって弁明し

てくれる人、取り成しをする者、罪人の側に立って弁護して下さる方」という意味があるのです。これは有り難い、と素直に思います。

 

さらに、英語の聖書を調べて見ると、「パラクレートス」を、「ヘルパー(*「Helper」)」「カウンセラー(*「Counselor」)」等の語に訳している聖書があります。

 

もう一つの英語の聖書では「コンフォー(*「comforter」)ター」とありました。一般に「コンフォー(*「comforter」)ター」は「慰める人、掛けぶとん、赤ん坊用のゴム製乳首、おしゃぶり」等の意味がある語として使われているのです。このことを心に留めると「聖霊」が身近になります。

 

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私たちは「パラクレートス」の力をどのように用いて行けばよいのでしょう。「パラクレートス」がもっとも力強く、生き生きと働く場所との関わり方を探求していく使命を、私たちは既に担っているはずです。end

 

 


2019年5月26日(日)の朝 二度目の聖歌隊練習です
2019年5月26日(日)の朝 二度目の聖歌隊練習です

    《 み言葉 余滴 》   NO.205
                2019年5月26日

『〈サウロ〉から〈パウロ〉への道』 
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎使徒言行録9章26節~30節 26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。28 それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。

 

少し大袈裟かも知れませんが、ここでの〈サウロ〉、のちの〈パウロ〉がいなければ、今の私は存在しなかったのだなぁ、と最近思うのです。

 

とりわけこの数ヶ月、礼拝説教のために使徒言行録9章を必死になって読み進める中で、かなり明確にその事実に気づき始めました。それはパウロを尊敬しているとか、パウロが大好き、というのとは違います。

 

パウロはある面において私のお手本なのです。なぜならば、パウロは多くの人に支えられて、助けられて伝道者として立ち上がり、用いられていった人だからです。

 

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実に恥ずかしい経験ですし、果たしてあの頃から、いったい自分はどれほど成長できたのだろうか、と考えてしまうことがあります。

 

私は40年前の19歳になろうかという頃、ある仕事の場で、上司から、「こらぁ、森。お前はなぁ、自分を中心に地球が廻っていると思うなよ。この馬鹿野郎!」と厳しく叱られたことがあるような人間なのです。

 

どんな文脈の中でそう言われたのか、もう忘れてしまいました。でも19歳という年齢を言い訳には出来ない言葉だと時々思い出します。罪深さとはそういうところに浮き彫りにされている。今振り返ってみてしみじみ感じます。

 

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サウロがダマスコに向かう途中で、突然、天からの主イエスの声を聞いて地面に倒れて起き上がったあと、彼は一人で歩けませんでした。一緒にダマスコに向かっていた〈人々〉に手を引いてもらって歩き出したのです。

 

目が見えなくなったサウロが身を寄せたのは〈ユダの家〉でした。この〈ユダ〉という人が、どんな人なのかは全く分かりません。とにかく、サウロがそれまでの人生で経験したこともないような、目が見えない中で世話をしてもらったのです。

 

さらに、そこに姿を現したのが〈アナニア〉でした。〈アナニア〉はパウロ誕生のための助産婦役を果たした、と言われることがあります。確かにサウロは〈アナニア〉から洗礼を受けています。

 

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それだけではないのです。

 

ガラテヤ書の1章によれば、サウロは3年の間アラビアに身を隠しています。そこでも〈誰かが〉彼を助けてくれたのは確実です。その後、ダマスコに戻って来たサウロは、命からがら〈弟子たち〉の手を借り、籠に乗せられて城壁づたいに逃げ出し、イエスの直弟子やその家族たちが中心になっていたエルサレムの教会に向かいます。

 

ところが、そこでも〈バルナバ=慰めの子〉と呼ばれたキプロス島出身のヨセフに取りもってもらって、辛うじて、エルサレムの使徒たちと話が出来るようになりました。当時のサウロは周囲の人から信じられていなかったし、怪しまれました。

 

さらに、エルサレムでも暗殺計画が彼の耳に入るようになり、今度は〈心配した使徒たち〉がサウロを連れて海辺の町・カイサリアに向かい、船で、故郷タルソスに送り出したのです。のちに、わざわざタルソスまでサウロを探しに来てくれたのも、先程の〈バルナバ〉という具合です。

 

〈サウロ〉、のちの〈パウロ〉。この人は、一体どれだけの人に助けられて伝道者、キリスト者、いや、人間になったのだろうか。他人事(ひとごと)ではありません。end

 


2019年5月19日はファミリー礼拝を終えて、車で10分と少しの神崎緑地にピクニックに出かけて楽しく過ごしました(^^♪
2019年5月19日はファミリー礼拝を終えて、車で10分と少しの神崎緑地にピクニックに出かけて楽しく過ごしました(^^♪

《 み言葉 余滴 》  NO.204
            2019年5月19日

『 どう生きるのか イエスの掟〉 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネ福音書による15章9~12節 9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

 

私たちの暮らす社会には様々なルールがあります。守らなければならない「規則」「決まり事」という類いのもので、暗黙の内に互いに気をつけ、心配りしているからこそ、無事安泰ということが少なくありません。

 

少し似たもので「エチケット」があります。私たちはエチケットを守らない人を嫌だなと思います。軽蔑されたり、嫌な顔をされないように、どこかで学習して来ているのです。ですから、エチケットには相当気を遣(つか)って生きているものです。

 

だから、人前では「あくびも、オナラも」しないはずです。

 

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でも、ここでのイエスさまは、エチケットでも規則でもない、ご自身の〈掟〉を語られます。

 

幾つかの日本語の聖書をみましたが「戒め」あるいは「言いつけ」という翻訳もあります。私たちの皮膚感覚からしても〈掟〉はエチケットなどよりも遥かに強い言葉であるのは明らかです。その中身が、「互いに愛し合いなさい・大事にし合いなさい」だったのです。

 

『新明解国語辞典』によれば、〈掟〉とは「所属する社会や組織の中でそうするように、あるいは、そうしてはいけない、と定められているきまり。」とあります。やはり〈掟〉は、かなりの拘束力をもつものだとわかります。

 

ところが、イエスさまが語られた「互いに愛し合いなさい」という〈掟〉を知っていながら、我々は正直に認めなければならないことがあります。「互いに愛し合いなさい」という〈掟〉に対して、実に巧(たく)みにふたをし、見て見ぬ振りをしながら生きている。愚かしく、ずるい現実があるということです。

 

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ヨハネ福音書で「互いに愛し合いなさい」という〈掟〉がはじめて語られたのは、イエスさまが十字架の待つエルサレムに入城された後(のち)、過ぎ越しの食事の場面で、弟子たちの足を洗い始められた時のことでした。

 

ペトロらの足を洗い終えられたイエスさまは、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示した」と語られた後に、「互いに愛し合う」という〈掟〉を語られたのです。

 

この順序には非常に大きな意味があります。イエスさまが示された愛とは、机の上の空論ではなく、実際の行動の伴うものだからです。

 

さらに、イエスさまの愛の実践の力の源は何であったのかを探し求めてみると、浮かび上がって来ることがあります。それは、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように」という教えの中にある教えです。それは、「愛にとどまっている」という状態をあらわす言葉なのです。
                                 
                    **************

 

主イエスは「とどまる」ことについてヨハネ福音書15章の「まことのぶどうの木」の譬え話を語ることによって〈掟〉を実践しつづける方法を教えて下さっています。

 

「愛の実を結ぶ」ために、ぶどうの枝である私たちは「イエスさまにつながり続けること」が欠かせないのです。

 

教会とはその道を、日曜日ごとの礼拝の中に見いだし、重んじている共同体です。end

 

 


2019年5月12日(日)のジュニアサークルの時間 次週ファミリー礼拝の案内書いてくれたNくんの指導をして下さった明美さんからひと言
2019年5月12日(日)のジュニアサークルの時間 次週ファミリー礼拝の案内書いてくれたNくんの指導をして下さった明美さんからひと言

  《 み言葉 余滴 》  NO.203
            2019年5月12日
   『 どうしても 必要なのです 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 42章18節~23節

 18 三日目になって、ヨセフは彼らに言った。「こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ。19 お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、20 末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない。」彼らは同意して、21 互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」・・・・・・・・・23 彼らはヨセフが聞いているのを知らなかった。ヨセフと兄弟たちの間に、通訳がいたからである。24 ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。

 

ヨセフは複雑でした。22年前に、自分を殺そうとした揚げ句、助けを求めたのを無視した兄たちに対して、仕返しをしたかったのではありません。恨みつらみから復讐をたくらんだのでもないのです。あるいは、全てのことを見通すことが出来る人間としてここにいるのでもない。

 

ヨセフには素晴らしい賜物がありました。けれども、ヨセフは決して神さまではありません。確かなことは、彼を通じて神が働いておられるということです。神の摂理と言いうることです。神さまはヨセフを通じて、10人の兄たちに対して問いかけるのです。「あなたたちに、今、真実はあるか」と。

 

                    **************

 

遠路はるばる、エジプトに向かい始めたヤコブの息子たち。父ヤコブから「いつまで愚図愚図(くずくず)しているのだ」と促され、人々に交じって身を隠すようにしてエジプトに向かいます。彼らの唯一の目的は食糧だったはずです。ところが彼らは、本当に思いもよらない壁にぶつかったのです。

 

それは、ヨセフの兄たちだけの問題ではないのです。人が生きて行く上で、避けて通ることがゆるされない。もっというならば、キリスト教信仰の真髄かも知れません。

 

それは〈罪〉の問題でした。そのことを、彼らは背後で働かれる神さまから教えられようとしています。実に、ヨセフは神の器でした。

 

                    **************

 

兄たちは目の前のパンで困っていました。父を安心させるためにも穀物が欲しかった。でも、神さまから見れば、本当に受けなければならないのは食物による栄養だけではなかった。人はパンだけで生きる者ではありません。神さまからの養いを受けるために必要なことがあったのです。

 

人はどんなに食べ物に満たされていても、心に引っ掛かる罪を抱え続けていると、

必ずどこかで行き詰まります。罪は時を経れば自動的に消えて行くようものではない。自分の力ではどうしても解決できないのです。

 

それだからこそ、神が先立たれて、私たちに促して下さる悔い改めに気付き、神の赦しに与(あずか)ることです。罪の赦しなしには生きて行くことが出来ないのが生身の人間なのです。だから、聖書は罪の苦しみからの解放を指し示してくれる。

 

       **************

 

通訳がいなくても、兄たちが交わすひそひそ話までわかってしまうヨセフ。

 

彼は兄たちから離れ、部下たちにも気付かれないように涙します。ヨセフが泣いたのは、兄たちが罪を見つめ、その愚かさに気付き、互いに黙っていられなくなり、自分たちの罪を言葉にし始めた時でした。この場面を足早で読み過ごしてはならない。立ち止まり、深く静まることが求められています。

 

                    **************

 

涙する一人のお方を思い起こします。いいえ、涙にとどまらない。究極的には血を流し、いのちを投げ出されるお方、主イエス・キリストです。神さまのご計画が人知を遥かに越えていることを告げる物語は続きます。end

 

 


2019年5月5日の礼拝後、Hくんは、おばあちゃんが叩いていた太鼓を響かせたかった(^^♪
2019年5月5日の礼拝後、Hくんは、おばあちゃんが叩いていた太鼓を響かせたかった(^^♪

  《 み言葉 余滴 》   NO.202
              2019年5月5日
   『 愛はすべてを完成させる 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 24章40節~46節 40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。

 

復活の主イエスが、弟子たちが身を隠していた部屋の真ん中にお姿を顕(あらわ)された時に語られたのは「あなたがたに平和があるように」というお言葉でした。

 

イエスさまはガリラヤ訛(なまり)の言葉を使っていたはずです。実際にそのような想像力をもって福音書を翻訳されたのが、カトリックの一信徒である山浦玄嗣(はるつぐ)さんによる『ガリラヤのイエシュー』(イー・ピックス出版)です。

 

この場面、イエスさまが実に表情豊かなお方としてお出でになったことを《ト書き》のような形で表現されています。[朗らかに]と括弧を付け、「やい、友よ、心静(こゴろしず)がにな!」と訳されるのです。恐れに畏れていた弟子たちに、傷ついた手足を見せられた時も[楽しそうに]と書き添えておられます。

 

                    **************

 

この時の弟子たち、本当は飛び上がらんばかりに嬉しいのです。でも、どうしても目の前にいる人が主だとは信じられなかった。顔を見合わせながら疑います。すると、イエスさまは「此処(こゴ)に何が食う物が(ものァ)あっか?」と[ニコニコ]しながら言われたと『ガリラヤのイエシュー』にはあるのです。

 

直後に、一切れの残り物であったであろう焼き魚が差し出されると、イエスさまが「ムシャムシャとお食べなさった」と訳されているのも見事です。

 

〈食べる〉という営みは、人間を日常の世界にグイッと引き込む力があります。実にさり気なく、弟子たちを思(おも)ん量(ぱか)られた主イエスの愛が浮かび上がるのです。いいえ、弟子たちが全く気付かないうちに、彼らの心に愛が染みこみます。

 

                    **************

 

こうして、弟子たちの恐れを取り去り、緊張を解きほぐされた上で、イエスさまは旧約聖書全体がご自身を指し示すものであることを、丁寧(ていねい)に解き明かされました。弟子たちの心にみ言葉がストンと落ちます。

 

「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれた」とありますが、聖書の原文を調べると、この時の弟子たちの心は、ただ単に熱く燃えていただけではないことがわかります。

 

理知的・理性的に、み言葉を聴く心が与えられたのです。それは、なくてはならないものでした。なぜなら、自分自身の罪をも客観的に認める心が彼らにはどうしても必要だからです。弟子たちの伝道はここから始まります。そして、私たちの福音宣教の旅もここから始まるのです。

 

                    **************

 

パウロは、コロサイの教会に向けた手紙の3章で、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのだから・・・」(1節)「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け・・・」(9-10節)と促したあとに、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させる絆(きずな)です。」(13節)と記しています。

 

パウロは罪人の頭であることを正直に認めることが出来る人でしたが(第1テモテ書 1章15節)、キリストの愛を知る人でもあったとも言えます。

 

手と足に深い傷を負われたイエスさまが、朗らかに、楽しそうに、ニコニコしながら私たちと共に食卓を囲んで下さるのが礼拝の場なのです。

 

何という恵み、何という喜び。これより深い愛は他のどこにも探してもありません。end

 

 


2019年4月28日 復活節第2主日の献花より
2019年4月28日 復活節第2主日の献花より

    《 み言葉 余滴 》   NO.201
              2019年4月28日
   『 だから わたしは旅を続ける 』 
          牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 24章29節~32節 29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

 

主の復活の出来事が明らかになったその日、エルサレムから三里ほど離れたエマオに向かう二人の旅人がいました。彼らもイエスさまの弟子たちです。論じ合う彼らの顔は曇っています。

 

そんな二人に、旅人の姿をしたイエスさまが、いつしか近づいて来られ、話し掛けるのです。なにも、イエスさまは変装されていたわけではありません。彼らの目は遮(さえぎ)られていてそれとは気付かない。

 

ここでの〈目〉は〈心〉に等しい意味があります。

 

それもそのはず、この方こそイスラエルを贖(あがな)って下さるお方に違いない、という期待を抱(いだ)いていたイエスさまが、十字架の上で死を遂げられたこと。マグダラのマリアをはじめとする婦人たちが駆けつけた墓が空っぽになっていたこと。

 

さらには「あの方は復活なさったのだ」と天使が語ったという女たちの話を、どう受けとめればよいのかわからない、混乱状態だったのです。

 

                    **************

 

ここで、私たちにそっと示されていることがあります。それは、イエスというお方が、生きる目的を見失ってしまっている人の話を聴き尽くして下さるために、いつしか寄り添い、共に歩んで下さるお方であることです。

 

同時に、そのような伴走者であるがゆえに、イエスさまが二人に対して始められたことがありました。それは旧約聖書全体にさかのぼりながら、ご自身との兼ね合いの中で、救い主の到来について、ねんごろに解き明かすことでした。

 

彼らは、イエスさまと共に行動していたときとは違う形で、つまり、それがイエスさまだと知らないがゆえに、ある意味冷静に、聖書はイエスが救い主であることを証しする書なのだ、とはっきりとわかり始めたのです。

 

                    **************

 

旅人から、もっとこの話の続きを聴きたい。その思いで一致した二人は、「是非、お泊まり下さい」と強いて引き留めます。

 

その後、食卓を囲む彼らの目の前で、祈りと共に祝福されたパンが裂かれた瞬間、弟子たちの目は開かれ

ます。「イエスだ!」と気付くと同時に、その姿は消えたのです。

 

けれども、見えなくなったからこそ、彼らの心に立ち上がって来る思いがありました。

 

旅人の姿で現れたイエスさまが、道々、自分たちの話を聴いて下さり、その上で、聖書を解き明かして下さったとき、「心は燃えていた」という経験です。それは、実に不思議なほど、二人に共通しているものでした。

 

この信仰の経験は、人に新たな行動と、新しい言葉を与えてくれるのです。

 

                    **************

 

私たちの信仰を、いつもいつも、燃え続けさせることは無理なことです。そして、燃え続けさせることは、ある面において危険かも知れません。

 

私たち、燻(くすぶ)る状態になることがあっても大丈夫なのです。なぜなら、全てをご存知の神さまは、時

が来たら、必要なものを必ず送って下さるからです。

 

それは〈聖霊〉です。復活の主は弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けよ」と(ヨハネ福音書20章22節)。

 

人は、創られたそのときから、神の息を吹き込まれて生きる存在であることを想います。私たちの信仰の旅路は、もう既に、〈聖霊降臨=ペンテコステ〉に向かい始めているのです。end

 

 


2019年4月21日はイースター・復活祭でした。中学校への進学したYくんへ賛美歌をプレゼント
2019年4月21日はイースター・復活祭でした。中学校への進学したYくんへ賛美歌をプレゼント

《 み言葉 余滴 》   NO.200
           2019年4月21日
      『 朝まだきの出来事 』
      牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 24章4節~9節  4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

 

十字架の上で死を遂げられたイエスさまのお姿を遠くから見守っていた婦人たちは、安息日が終わるのを待ち続けました。彼女たちは皆、イエスさまがガリラヤで活動しておられた頃から従って来た人たちです。

 

女たちは、あまりに悲しい死を遂げられた主のご遺体に、せめて、香油と香料を注ぎたいと願いました。安息日の終わった日曜日の朝まだき、急いで墓に向かいます。この時間帯、足もともおぼつかないほどに暗かったはずです。

 

やがて、女たちは見るのです。アリマタヤ出身の議員であるヨセフたちが、確かに、イエスさまをお納めしたはずの墓の前の石が動かされているのを。墓の中は空っぽで、まるで抜け殻のように、亜麻布が残っているだけでした。

 

                    **************

 

途方に暮れる女たちの背中は限りなく小さくなっています。それでなくとも、イエスさまの死の現実に触れ、生きていくための命の火種を自分の中に見いだせなくなり、茫然自失状態でした。肩を落とし、言葉を失い、ぼんやりしていたであろう女性たちの姿が目に浮かぶようです。

 

同時に、そのさまは、私たちがそれぞれの人生の途上で経験して来た、他人には決して説明することなど出来ない〈とある状況〉と重なるのです。

 

                    **************

 

墓に現れた二人の人は、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げます。

 

女たちに求められたのは、生き方の方向転換でした。「甦りの主は、あなたたちが捜している方向には居られない」と言うのです。

 

さらに注目したいのは〈受難と復活の予告についてお話になったことを思い出しなさい〉という二人の言葉を聴いたあとの婦人たちの様子です。彼女たちは「イエスの言葉」を思い出すのです。

 

しかし、その言葉とは、単なる単語でも、ただのお話でもありません。正にそれは〈み言葉〉でした。だからこそ、女たちは、11人の弟子たちの所に急いで向かい、一部始終を伝えるのです。「私たち、思い出したの・・・・」と。これは神の出来事でした。

 

                    **************

 

弟子たちの中で、女たちの言葉を聴いて立ち上がり、墓に向かって走りだす人が、一人だけおりました。シモン・ペトロです。

 

彼は激しく泣き崩れながら大祭司の中庭を出ていった時に、「私を三度知らないと言うだろう」とイエスさまが預言されたお言葉を〈思い出した〉人でした。

 

女たちが「私たち、思い出したの・・・」と語る言葉に触れた時、ペトロは、朝の光に向かって走りださずにはおれなかったのです。

 

〈み言葉〉は新しい出来事を生み出します。復活は、机に座って、誰かに教えられて学ぶものではありません。悩みながら歩き、立ち止まり、時に後戻りする中で、復活の出来事を経験していくのです。

 

そして、気が付いた時に、信じる者には、信仰の言葉が与えられています。

 

人生の途上で〈思い出す〉主の〈み言葉〉こそ、私たちを立ち上がらせてくれる希望の源なのです。end

 


2019年4月7日(日)受難節・レント第5主日 講壇で説教中の森牧師
2019年4月7日(日)受難節・レント第5主日 講壇で説教中の森牧師

     《 み言葉 余滴 》   NO.198
                2019年4月7日
   『 私はどこにいるのか 』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 23章13節~18節

13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」。†18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。†17(底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった)

 

今年のレント・受難節は、十字架に磔(はりつけ)にされる道を黙々と進まれる主イエスの愛をルカによる福音書から学んでいます。み言葉をあらためて読んでいて、浮かび上がって来るものを感じました。

 

それは〈ポンテオ・ピラト〉という人に関わることです。ピラトはいささかお気の毒な役回り、立場に置かれていたのだな、という思いが深まったのです。思い当たったのは、礼拝の中で毎週告白している『使徒信条』です。私たちはこんな風に告白するのです。ちなみに、人物の名前はマリヤとピラトだけが出てきます。

 

    「・・・・・・主は聖霊によりてやどり、処女(をとめ) マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、」

 

                    **************

 

親として子どもの成長、育てるのには責任がある。そう考えるのはごく普通のことです。成人。あるいは学校を卒業し、社会人として勤めに出始めるとなれば、ホッとするのが人情というものです。孫が可愛いのは究極的には責任を負わなくてもいいからかも知れません。

 

使徒信条はキリスト教の歴史をさかのぼっていっても、意義深い告白文であるのは確かです。しかし、あえて申し上げるならば、私たちキリスト者にとって、責任逃れをするにはとても都合が良い内容でもあるのです。なぜなら、ポンテオ・ピラト一人を悪者にしておけば、私たちはとても楽なのです。

 

                    **************

 

上に抜粋しているみ言葉には、ポンテオ・ピラトの他に、どのような人の顔が見えるでしょうか。【祭司長たち】【議員たち】【民衆】がいます。【ヘロデ】の名前も出て来ます。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫ぶ【人々】もいます。

 

ピラトは、自分の身を守るために、騒動が、これ以上大きくならないようにと、限られた時間の中で懸命に頭を回したのです。

 

ピラトにとっては、妻からの「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、私は昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタイ福音書27章19節)も相当大きな影響があったことでしょう。

 

でも、それでも、どうしてもピラトについつい目が行きます。そして、いつしか私たちはほっとするのです。犯人捜しが終わるからです。

 

〈私〉ではなく〈ピラト〉がこれ程までに優柔不断だから、主イエスは苦しみに耐えながら殺されていくのだ、と。

 

                    **************

 

イースターの朝、主イエスの復活を心からお祝いし、その喜びを深く豊かに知るにはどうしたらよいのでしょうか。簡単なようでなかなか難しいことです。

 

少しのヒントになるならばと思うのは次のことです。「ポンテオ・ピラトのもと」にいて、ピラトを動かし、イエスを「苦し」ませたのは誰だったのかを見つめ直すことです。

 

信仰は人に紛れていては、いつまでたっても本物になりません。誰も居なくなった礼拝堂で、ひとり十字架のキリストを見上げましょう。

 

闇があります。しかし、光が射す朝が来るはずです。end

 

 

 


まるで徳島県鳴門の〈大塚美術館〉みたいと感じる一枚! 2019年3月31日の礼拝時のJCでのスクリーンに映し出された紙芝居です(^^♪
まるで徳島県鳴門の〈大塚美術館〉みたいと感じる一枚! 2019年3月31日の礼拝時のJCでのスクリーンに映し出された紙芝居です(^^♪

       《 み言葉 余滴 》   NO.197
                2019年3月31日
              『 ペトロの福音 わたしの福音 』 
                      牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎ルカによる福音書 22章59節~61節 59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。

 

世の中にはこういう言葉があります。「あの方は敬虔(けいけん)なクリスチャンらしいですよ」。この言葉、少し言い換えると、こんな風になると思います。「彼ほど、キリスト者らしいキリスト者は見たことがないです」と。

 

いったい、「敬虔(けいけん)なクリスチャン」とか、「キリスト教徒らしいキリスト教徒」というのはどんな人のことを言うのでしょう。

 

神に仕えるがごとく、人に仕え、いつも愛をもって人にやさしく接し、質素で贅沢をすることもない。誰に対しても配慮が行き届いている・・・・素晴らしい人。

 

もしも、そのような人になることを目標とするのが教会であるとしたならば、私たちは世間に顔向け出来なくなります。敬虔(けいけん)なクリスチャンは、どこに居るのでしょう。

 

                    **************

 

日本の伝統的な倫理観が言わしめるものなのかも知れませんが、私たちは、どこかで、「いいか、これだけは言っておくぞ。人さまに笑われたり、迷惑を掛けるような人間になったらいかんぞ」という言葉を耳にしたり、心の奥底で似たようなことを意識しながら生きてきたように思います。

 

ところがです。宗教改革者として知られるマルティン・ルターはこう言ったのです。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ。」と。

 

ルターが、いつどこで、どのように語ったのか私は知りませんでしたので、ルターの研究者として知られる日本福音ルーテル教会の賀来周一牧師が、「大胆に罪を犯せ」という説教の中で語っておられるのを確認しました。

 

これは、ルターが「クリスチャンとは何者であるのか」ということについて、断固たる確信を持っていたことを示すものです。すなわち、「キリスト者とは罪人(つみびと)なのである」ということに、最後は行きつくのではないでしょうか。

 

                    **************

 

12人の弟子の筆頭としての自覚をもっていたシモン・ペトロ。彼は主イエスが「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた言葉を、鶏の鳴き声を聞くと同時に大祭司の中庭で思い出します。直後にペトロは、泣き崩れながらイエスに背を向け立ち去るのです。

 

ペトロがこの主のお言葉を思い出したのは、果たしてその時だけだったのでしょうか。

 

私は思うのです。もしかすると、鶏の鳴き声が聞こえる、朝ごとにだったのかも知れません。辛いこと、悲しいこと、涙したこと。私たちはその過去をいとも簡単に忘れ去ることができるほど単純ではないからです。

 

                    **************

 

しかし同時に、ペトロは、「シモン、シモン、・・・・・・わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22章32節)とイエスさまがそれ以前に語って下さったことを、それ以上に、幾度も、思い出し続けたのではないか。そして、その日一日を感謝して生きて行こうとした。

 

人はそのように受けとめ、そのお言葉をかみ締めることで楽になり、主イエスにあって救われている、と信じる存在なのです。そのような身勝手がゆるされているし、携えて行くべき福音がここにある。

 

敬虔(けいけん)なクリスチャンとは、神の言葉を、時に大胆に、自己本位に信じ続ける一徹者(いってつもの)だからです。end

 


2019年3月24日(日)主日礼拝JCの時間に ヨハネ13章朗読後 洗足をしてくるN君
2019年3月24日(日)主日礼拝JCの時間に ヨハネ13章朗読後 洗足をしてくるN君

    《 み言葉 余滴 》   NO.196
              2019年3月24日
         『 魔が差した人 その救い 』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 22章3節~6節、23節 3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。・・・・・・23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

 

皆さんは「心の中に悪魔がはいったように、ふと悪念を起こし、思いもよらない出来心を起こしたこと」はないでしょうか。これは「魔が差す」という言葉を『精選版 日本国語大辞典』で引くと出てくる解説です。

 

もう少しだけ、言葉を追いかけてみましょう。「悪念」に近いなぁと思う日本語が「邪念)」です。私たち、冗談半分で「俺なんかいつも〈邪念〉だらけですよ」と言うことがあります。

 

ならばと思い、「邪念」を『明鏡国語辞典』で引いてみました。すると、「① 悪事を行おうとする、よこしまな考え。邪心。」「② 心の迷いから生じる不純な考え。雑念。」と出て来るのです。

 

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イスカリオテのユダの姿が見えます。裏切り者の代名詞として広く知られる人です。

 

そのユダに、ルカによる福音書4章でイエスさまを荒れ野で試みたのち、いったん姿を消していたサタンが入ります。過越祭と呼ばれる除酵祭の準備でエルサレムはいつもと違う空気の中にありました。

 

そんな中で、イスカリオテのユダは、ふと悪念を起こし、何を血迷ったか、思いもよらない出来心を起こしたというのです。イエスさまの弟子であるならば、そんなことは決してあってはならない行動なのですが、人生の師として従い続けて来たイエスさまのことを、銀貨30枚で売ってしまいます。

 

マタイによる福音書27章3節以下の描写によるならば、イエスさまに死刑の判決が言い渡されようとする頃、ユダは我に返り、深い後悔の念を抱き、悔い改めの行動を取ろうとしました。

 

銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとしますが、相手にされません。やがて彼は、自ら命を絶ちます。

 

                    **************

 

イエスさまのことをいつ「引き渡そうか」と考えていたユダですが、彼はイエスさまの弟子として召し出されて以来、ずっと、裏切りの時を待ち続けていたのか。

 

いいえ、決してそんなことはないはずです。彼は彼らしく12人の中でたいせつな役割を果たし続けて来たに違いない。

 

ヨハネによる福音書13章29節には「金入れを預かっていた」のがユダだという情報もあるのです。これは、弟子たちの中で信頼される立場に身を置いていたことを意味するのではないでしょうか。

 

私はユダの姿を見る度に、実に複雑な思いを抱きます。他人事(ひとごと)とは思えないのです。彼は罪の告白をしようとする人だった。そうしたかったのです。その場所を知らなかった。

 

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いつまで経っても迷いもあるし、道を外れることもある。邪念も邪心もあるのが私たちです。魔が差したことだって、人生一度ならずあるはずです。

 

ルカによる福音書15章に、愛着のある放蕩息子の譬え話があります。彼は言いました。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と。息子は死にません。生き返った。宴会が開かれた。ゆるされているのです。

 

ユダは、私たちを立ち止まらせるためにどうしても居なければならない捨て石だった。のちに最後の晩餐と呼ばれるようになる食事の席で示されたのは、神の国の奥義です。

 

ユダは今、天国でその食卓を囲んでいると信じたい。end

 

 


2019/3/17  礼拝堂前方にて
2019/3/17 礼拝堂前方にて

  《 み言葉 余滴 》   NO.195
                2019年3月17日
  『 最後の譬え話 あなたにも愛が見えます 』
                       牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 20章12節~15節 12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。

 

最近私は、聖書を読んでいて感じることがあります。それは、聖書という書に〈慣れは禁物〉だということです。あるいは〈速読も要注意〉だと思っています。

 

会社勤めをし始めた20代前半の頃、今では誰の影響を受けたのかわかりませんが、速読とか多読を身につけないといけない、という情報を、どこかで自分の内側にインプットしてしまったのです。

 

神学校に入学し、牧師になるための研鑽を始めた時にも、本を速く、たくさん読まなければ、一人前の牧師になれないと思い込んでしまったのです。今ではそれは間違いだったと気付きました。むしろ必要なのは「遅読」です。

 

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私たちは、この「ぶどう園の譬え話」を読む上でも、ゼロから素朴に聴く準備をした方がよさそうです。なぜなら、ここには、随分ひどい話、恐ろしいことが記されているからです。

 

「袋だたき」「侮辱(ぶじょく)」「傷を負わせてほうり出す」「殺し」等など。私たちがこのような暴力的な内容に、いつしか慣れっこになってしまっているとしたらそれこそ大問題です。ぶどう園を舞台にしたイエスさまの譬え話を読む上で大切にしたい視点があります。

 

それはこの譬え話が、イエスさまによって、「いつ、どこで」語られたのかを、冷静に踏まえておくことです。他の多くの譬え話と同様、近くには祭司長や律法学者たち、そして弟子たちがいて、イエスさまの譬え話を聴いていたのは変わりはないのです。しかし、明確な違いが一つあります。

 

それは、子ろばに乗ったイエスさまが、12人の弟子たちと共にエルサレムに入場された後(あと)の話であることです。

 

さらに、もう少し読み進めると、ゴルゴタの丘の上での十字架の受難を目前としている、ということに大きな意味があることに気付きます。ぶどう園の譬え話は、イエスさまによる遺言が含まれているのです。私たち、目を覚まして聴く必要があります。

 

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主人である神さまは、ぶどう園そのものを意味する農夫たちのもとに三人の僕(しもべ)を送ります。彼らは主人の代理人ですが、それぞれに暴力をふるわれます。この僕(しもべ)とは旧約の時代に活躍した預言者たちのことです。農夫たち=イスラエルの民は、僕(しもべ)をないがしろにするのです。ここに至って、ついに、神さまは独り子をぶどう園に送る決断をされたのです。最愛の独り子とはイエスさまのことに他なりません。

 

これは神さまによる、驚くべき決断です。普通ならば、一番大事な子どもは、ぜったいに手放したくないですし、側(そば)に置いておきたいものです。それなのに、主人は危険を顧みずに独り子をぶどう園に送られました。そこで起こるのが、跡取り息子の死なのです。それがキリストの十字架の出来事でした。

 

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人の心の闇、そして、世の罪があります。イエスさまは、ぶどう園の譬え話の解決策を、どこでどのように示そうとされているのか。この箇所だけを読んでいても答えは見いだせません。

 

福音書は十字架のイエスの死と復活抜きには終わりません。愛はそこに立っています。イエスを見捨ててしまった者の人生の仕切り直しはそこでだけ可能です。そこに立ち続ける人は、神さまの愛に生かされていくのです。end


2019年3月3日(日)の旭東教会講壇より。だんだん、十字架が近くなってくる期節を迎えます。この日は、降誕節最終主日でした。次週からレント・受難節です。
2019年3月3日(日)の旭東教会講壇より。だんだん、十字架が近くなってくる期節を迎えます。この日は、降誕節最終主日でした。次週からレント・受難節です。

     《 み言葉 "余滴" 》 193号
      2019年3月3日
    『  アナニア・サウロ そして私 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 9章10節~12節 10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12(サウロは)アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。

 

アナニア。少なくとも私にとっての彼は、全く目立たないノーマークの人でした。私は『使徒言行録』を何度も読んだはずなのに、正直に申し上げて、恥ずかしながらアナニアに注目したことがなかったのです。

 

ここではまだ「サウロ」ですが、のちの「パウロ」は、アナニアがどんな人なのかについてこう語っています。「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。」(使徒言行録22章12節)と。

 

                    **************

 

つまり、アナニアはある時期まではサウロと同様、「律法にかなった真面目で信仰のあつい人」だったはずなのに、ユダヤ教徒からキリスト教徒に変わっていった人、ということになります。

 

ダマスコに向かっていたサウロたちにとって、正にアナニアのような輩(やから)こそが、懲らしめてやらなければならない裏切り者でした。神に見捨てられ、裁かれるべきとんでもない奴らの代表格がアナニアだったのです。

 

                    **************

 

では、一方のアナニアにとってのサウロはどうだったのか。これもまた、とんでもない輩(やから)でした。神さまから、「アナニアよ、サウロの元に行け。」と命じられた時に、彼には直ぐに従えない葛藤がありました。

 

だからこそ、「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。・・・」と精一杯の抵抗をしめしたのです。「よりによって」という思いが先立った。

 

しかし、アナニアの脳(のう)裏(り)には、幻の中で語りかけて来た主イエスの「彼は祈っている」とのお言葉が既に焼き付いていたのです。この箇所、聖書の原文通りに忠実に訳すと、「〈視(み)なさい〉彼は祈っている」となっています。

 

つまりイエスさまは、「アナニアよ、あなたはそこに進み出て行って、サウロに出会わない限り、わからないことがあるのだよ」と言われているのです。確かに私たち、聴くのと視(み)るのとでは違うことをどこかで経験しています。

 

                    **************

 

サウロの待っている「ユダの家」にたどり着いたアナニアは、目の前に座っている小さく見えたサウロに一体何を視たのでしょう。

 

そしてまた、アナニアに手を置いて祈ってもらったサウロは、目から鱗(うろこ)が落ちたのち、目の前に居るアナニアに何を視たのでしょう。私は想うのです。〈それぞれのかたわらに、主イエスが立って居られた〉のではないか、と。

 

二人には共通していることがあります。それは、幻の中で主の声を聴き、形は何であれ、み声に従って「起き上がった」「立ち上がった」ということです。彼らは全てを理解してそうしたのではありません。

 

キリストのみ業にあずかる世界は、立ち上がり、従い始めた者にこそ、やがて見えてくるものなのです。言葉で説明できるような薄っぺらいものでもない。だからこそ、主に従うことは、真(しん)に豊かで、奥深いものなのです。end

 


           《 み言葉 "余滴" 》 192号
      2019年2月24日
    『  回り道、寄り道を知るあなたへ』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 41章46~52節

46 ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳であった。ヨセフはファラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。・・・・・・52 また、次男をエフライム(増やす)と名付けて言った。「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」

 

波瀾万丈という言葉がぴったりの人、それがヨセフです。父ヤコブと母ラケルの間に11番目の年寄り子として生まれたとき、とりわけ、父ヤコブの喜びようといったらありませんでした。いくら可愛いからと言ってそれは行きすぎ、と周囲の者たちも感じたことでしょう。兄たちから妬(ねた)まれ、命を狙われるようになるのも、ある意味において必然でした。

 

命拾いして、17歳で奴隷としてエジプトに売り飛ばされてからのヨセフは苦難と紆余曲折の13年を歩み続けることになります。エジプトの主人の元で信任されて執事となったかと思いきや、主人の妻の誘惑を断固として拒んだことで牢獄に入れられます。すると今度は、牢獄の看守長に抜擢されるのです。やがて牢獄入りしてきた二人のエジプト人高官の夢解きを行い、光が射したかに見えましたが、「外に出して」という願いは忘れ去られるのです。

  

**************

 

時が巡り、エジプト王ファラオの不吉な夢を解き明かす務めに召し出されたヨセフはその機会を逃しませんでした。ヨセフの素晴らしさがあるとしたら、「自分に王の夢解きが出来るのはではなく、ただ神さまからのお告げを皆さんに取り次いでいるに過ぎません」と言い切るところでした。その謙虚な30歳のヨセフの姿は、17歳当時、おべべを着ていたヨセフとは全く別人です。

 

やがて「7年にも及ぶ大飢饉が襲ってくる前に、しっかりとした備えが必要です」というエジプトの国家政策とも言える提言をなすのです。そんなヨセフを見た王ファラオは、「ヨセフにはいつも神の霊が宿っている」ことに気付いていました。

 

私は、使徒パウロが、まだ見ぬローマの教会の人びと宛に記した手紙の一節を思い起こしました。ローマの信徒への手紙5章2節以下です。

 

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

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私は隠退されている山本将信(まさのぶ)牧師が長野県の篠ノ井教会で伝道・牧会をしながら、米作りに励んで居られた頃に、お話をうかがった事があります。稲作の素人だった山本先生は、近くの農家の方から教えられるままに、半信半疑で、八月の中旬に、田んぼの水を完全に抜ききったそうです。

 

やがて山本牧師はあることに気付くのです。「稲には厳しい負荷がかかるけれど、そのことによって、稲自体が持つ種の保存の力が発揮されることを知った。大きな秘められた力を生み出すことになっていることが分かった」と。つまり、稲にとって大変厳しい状況に追い込むことが、実り豊かな収穫のためには必要だったのです。どうやらこれは、〈土用干し〉の一種のようです。

 

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人の目には見えない備え、「神の摂理」があることをヨセフの歩みは教えてくれています。私たちは、私たち自身で予測可能な人生を進むのではありません。

 

ヨセフのように、神のみ業の中で生きることへの希望に期待する道を、倦(う)むことなく弛(たゆ)むことなく進むのです。その道は「道・真理・命」(ヨハネ14:6)と教えられたイエスさまと必ずや一つになるのです。end

 

 

 


2019年2月10日(日) 冬のファミリー礼拝の直後 十文字平和教会の布下満さん(画伯)を迎えて「トルストイ原作 くつやのマルチン」の紙芝居を上演(^^♪  大人も子どもも大感動でした
2019年2月10日(日) 冬のファミリー礼拝の直後 十文字平和教会の布下満さん(画伯)を迎えて「トルストイ原作 くつやのマルチン」の紙芝居を上演(^^♪ 大人も子どもも大感動でした

   《 み言葉 余滴 》190号
                  2019年2月10日
  『  パウロに見えるようになったもの 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 9章1節~8節 1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。・・・・・・・・・8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

 

ここで「サウロ」と呼ばれている人。この人は新約聖書の中で「パウロ」として広く知られる人です。幼少期からファリサイ派の厳格な教育を受けた人間で、その学識、知性は群を抜いていた、と言われます。

サウロはクリスチャンと呼ばれはじめていた人々を、迫害する働きの旗振り役だったようです。サウロが聖書の中で初めてその姿を見せるのは、使徒言行録7章の終わりで、ステファノという初代キリスト教会の熱心な伝道者の死の場面です。パウロはステファノの殺害を指揮していたのです。

 

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サウロは、ステファノが、その死の間際に、迫害する者のために執りなしの祈りをするのを間近で聴きました。相当な驚きを覚えていたはずです。ステファノが死に行く場面は、サウロの心に深く焼き付いたことでしょう。忘れたくても忘れられないほどにショックを受けたのです。ある種の〈恐ろしさ〉を、クリスチャンと呼ばれる者たちに感じたのではないでしょうか。

 

サウロはイエスさまの十字架の場面に立ち会っていませんが、十字架上で罪人たちのために執りなしをされたイエスの姿とステファノはピタリと重なったのです。そして、クリスチャンの底力を知ってしまった。だからこそ、いよいよ必死になって、キリスト教徒迫害に息を弾ませたのです。

 

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のちにパウロとして知られることになるサウロは、ステファノの殉教の死を忘れることが出来たでしょうか。私は否、だと思います。ダマスコに向かう途中、復活のイエスから「サウロよ、サウロ」と呼びかけられたイエスさまは「光」の中からそのお姿を顕されました。

 

いいえ、姿は見えません。聞こえて来るのは声だけでした。この時、サウロは既に見ることが出来なくなっているのですが、サウロにはこの〈見えない時間〉が必要だったのではないか。私はそのように想像しています。

 

目から鱗のようなものが落ち、見えるようになるサウロ。彼に見えるようになったのは、「罪人の最たる者、罪人の頭である」という自分の姿でした。サウロの恥と弱さの自覚こそ、クリスチャンに求められることなのです。

 

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私は牧師として、毎週説教の準備をいたします。説教の準備というのは、聖書に聴き、行間を思い巡らし、そこから一筋の道を見つける作業の繰り返しです。

 

日曜日が近づくと、私は「どうか、確信を持って福音を語ることが出来ますように」と祈るのですが、次のような瞬間が来ると本当に安心します。それは「見えた」という瞬間です。裏を返せば、その瞬間が来るまで、私には伝えるべき道、指し示し、分かちあうべき道が見えないのです。

 

私たちの目には「鱗(うろこ)のようなもの」が直ぐに貼りついてしまうようです。だからこそ、光であるイエス・キリストとの出会いによって、幾度でも鱗(うろこ)を落として頂く必要があります。その経験によって私たちに見えるようになるものは何でしょうか。〈恐れることなく〉み言葉を求め続けたい、と願います。end


2019年1月27日 特別伝道礼拝の朝、お声掛けしていた弟さんの到着を、教会の前で待つお姉さま(八重子さん)
2019年1月27日 特別伝道礼拝の朝、お声掛けしていた弟さんの到着を、教会の前で待つお姉さま(八重子さん)

         《 み言葉 余滴 》188号
                  2019年1月27日

   『  もう、木登りはしません 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 19章1節~7節

1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

 

当時のユダヤにおいて、罪人と同じ扱いを受けていた徴税人ザアカイを説明する上で外せない表現があります。それが【背が低かった】という言葉です。わたしは【背が低かった】という語には特別な意味が隠されていると感じます。この語は言い方を変えるならば「小さい」という意味です。

 

ここには、当時のユダヤの社会に於けるザアカイという人に対する社会的な評価や、人々が彼を見る目、さらには、ザアカイ自身の自尊心や自己肯定感の小ささが隠されていることを思うのです。

 

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小さな大人である徴税人ザアカイ。彼はどうしてもイエスさまを見たかったのです。そこで考えついたのが、いちじく桑の木の上に上って待つことでした。いい歳をした徴税人の親分が木に登る姿は滑稽です。

 

ところが、ザアカイの身に思いも寄らぬことが起こります。何と、イエスさまが次第に自分の方に近付いてくるではありませんか。

 

それどころか、ついにイエスさまは、いちじく桑の木の真下にやって来て、隠れているつもりのザアカイの方を見上げて語りかけたのです。【「ザアカイよ、急いでお降り。きょうはあなたの家に泊まることになっているから」】(前田護郎訳)と。

 

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実に、この木の下から上を見上げて呼びかけるイエスの姿に深い意味があります。聖書の神は上から支配するお方ではない、ということです。英語で「理解する」「わかる」という言葉を「understand」(アンダースタンド)と言います。

 

この言葉は「under」と「stand」という二つの言葉から成り立っています。「under」とは「下」という意味です。そして「stand」は「立つ」ということです。つまり、人を理解するということは、下に立って受け止めようとする姿勢、生き方が必要だ、ということでしょう。

 

ザアカイはいちじく桑の木の上にいましたが、イエスさまは下に居られる。イエス・キリストはザアカイを上から見下ろすお方ではありません。聖書の神は低きに下り給う神なのです。そのことが、家畜小屋にお生まれになり、十字架の死に至るまで、そのご生涯において一貫して明らかにされています。

 

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この呼びかけに応えたザアカイは、【急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた】ことを肝に銘じましょう。このことなくして、ザアカイの人生が変わっていく、救い主との出会いなどあり得なかったのです。イエスさまは、遠くからじいっと眺めているためのお方ではありません。

 

ヨハネの黙示録3章20節に、【見よ、わたしは戸のところに立って叩く。わが声を聞いて戸を開く人があれば、その人のところへ行こう。そして、わたしは彼と、彼はわたしと、食を共にしよう。】(前田護郎訳)とあります。

 

今、わたしたちの暮らしの中では、扉を叩いて下さるイエスさまの良き訪れは、〈み言葉〉を通して示されます。だからこそ、我々は聖書を読み、神さまと対話し続けるのです。求める者の心に、主は宿り続けて下さいます。end

 


2019年1月20日 降誕節第4主日 旭東教会の講壇にて
2019年1月20日 降誕節第4主日 旭東教会の講壇にて

         《 み言葉 余滴 》187号
                  2019年1月20日

  『  フィリポ、宦官、そしてパウロへ 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 8章26節~28節、30節  26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。・・・・・・38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

 

ここにはフィリポの姿が見えます。

 

逃げるようして向かったサマリアにおいて、彼自身も想像できなかったほど豊かに用いられます。しかし、サマリアに留まり続けることは、主のみ心ではありません。

 

次に、主がフィリポにお示しになったのは「ガザへ下る道」でした。そこは荒れ野です。フィリポは迷うことなく立ち上がりお招きに応えました。

 

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ガザはアフリカにも通じる地中海沿岸の地です。フィリポはそこで、初期のキリスト教会が異邦人伝道へと向かう上で極めて重要な出来事となる、エチオピア人の女王に仕える〈宦官〉に福音を宣べ伝えるのです。

 

フィリポ自身、この時まだ気付いていませんが、彼はパウロの先駈けとして豊かに用いられているのです。それどころか、ここでのフィリポと宦官との出会いがなければ、イエス・キリストの福音はユダヤという地を超えて、ヨーロッパやアジア諸国、アフリカへと進展することはなかったでしょう。

 

そもそもフィリポは、初代のキリスト教会の中でお世話係として立てられた人ですし、七人の仲間たちと共に、その道で頑張ろうと思っていた人でした。神さまは、人の思いを遥かに越えた道を示されることを知らされます。

 

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フィリポが出会ったエチオピア人の宦官はどうでしょう。彼はユダヤの都エルサレムを訪れ、神殿での礼拝をと願ったものの、異邦人である自分、そして、宦官である我が身を思う時に、約束の地エルサレムには、こころ落ち着く自分の居場所は見いだせなかったのではないでしょうか。

 

ナザレのイエスを巡るエルサレムでの一連の出来事についての〈断片〉を聞いていた宦官は、エチオピアへの帰り道、どうしてもあきらめることが出来ないまま、イザヤ書53章を悩みながら読んでいました。

しかし、ついに宦官は、聖書の手引きをしてくれるフィリポを通して、イザヤ書53章にある苦難の僕の物語の、もう少し先にある福音の解き明かしに触れたはずです。

 

イザヤ書56章3節にこうあります。

 

【3 主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。】。

 

このイザヤの預言が、イエスさまにおいて成就したことを宦官が知った時、彼はもはや何も迷うことはありませんでした。宦官はフィリポから洗礼を受けクリスチャンとなったのです。

 

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使徒言行録9章で劇的な回心をするパウロは、のちに、ガラテヤの教会に宛てた手紙の3章でこう語りました。

 

【26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。】と。

 

フィリポ、宦官、そしてパウロは、確かな線(LINE)で繋がっています。end

 


2018年12月30日 飼い葉桶に向かう博士たちのクリッペ その後ろ姿
2018年12月30日 飼い葉桶に向かう博士たちのクリッペ その後ろ姿

         《 み言葉 余滴 》184号
                 2018年12月30日

『 マタイによるクリスマスの衝撃 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 2章1節~4節
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 

新約聖書の一番はじめに置かれている『マタイによる福音書』。その特徴のひとつは、「旧約聖書」からの引用がとても多いことです。その多さは、「何となくそうだよね」というようなレベルの話ではありません。

 

私たちが手にしている『新共同訳』や、先頃発行さ(*2018年12月)れたばかりの『聖書協会共同訳』の巻末には、「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」という興味深い附録があります。今回わたしは、その一覧から、「一、二、三・・・」と旧約の引用の数を数えてみたのです。その結果は、マタイ:62回、マルコ:31回、ルカ:26回、ヨハネ:16回というものでした。

 

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マタイによる福音書に旧約からの引用が多いのにはわけがあります。それは先ず何より、旧約聖書をよく知っている人達に伝えたい思いが強いからです。その対象とは、聖書の舞台となっている地に生きるユダヤの人々でした。彼らの聖典は私たちが『旧約聖書』と呼んでいるものです。

 

だからこそ、マタイによる福音書の冒頭1章には、ユダヤ人が重んじる〈系図〉=〈旧約の歴史〉が綿々と続きます。福音書記者マタイは、「あなた方がよーく知っている、あの人この人の延長線上に、イエスというお方は〈救い主=メシア〉としてお生まれになったのだ」と伝えようとしているのです。

 

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そこには、ユダヤ人の伝統を無視するような、福音書記者マタイによるスキャンダラスな挑発が秘められています。メシアの系図における、「タマル」「ラハブ」「ルツ」「ウリヤの妻」という4人の女性たちの登場自体、男性優位のユダヤの社会では異例です。彼女たちは異邦人です。

 

まして、「タマル」と「ウリヤの妻」の男性との結び付き方や出産は「道を外れている」ものでした。マタイは意図して彼女たちを記録するのです。

 

〈トドメ〉は、聖霊によってイエスを身ごもるマリアです。マリアは律法に忠実な男ヨセフのいいなづけでした。ヨセフへの受胎告知は、ただヨセフという男性がチャレンジを受けているだけではないのです。彼はユダヤ人の代表でした。そのヨセフが〈み使いの命じた通りマリアを迎え入れ〉るのです。

 

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東方からの博士たちの登場によって大きく展開し始めるキリストの降誕の物語も、少しクールな目で読み進めると、実にスキャンダラスな内容であることに気付きます。

 

聖書の読み手は、ヘロデという当時のユダヤの大王の残忍さや、星に導かれてやってきた博士たちを巡る美しい物語に目を奪われがちです。しかし、冷静な信仰のまなこが必要なのです。

 

福音の幕開けを託されて東の国からやって来た博士たちの存在です。彼らは明らかに異邦人でした。当時のユダヤ人は、バビロンでの捕囚期(前586-538年)の影響を強く受け、異邦人に対する強烈な拒否感を抱いていました。異邦人はさげすみの対象であり、汚れた者と見なされていました。

 

しかし、救いの到来を証しする使命を担ったのはそのような東方の博士たちでした。それは神のご計画です。何より、星に導かれた博士たちによって開かれていったのは、もっと東方に生きる〈我ら〉の救いの道だったのです。end 

 


2018年12月23日 クリスマス礼拝にて 聖餐卓とクランツと
2018年12月23日 クリスマス礼拝にて 聖餐卓とクランツと

         《 み言葉 余滴 》183号
                 2018年12月23日

『 その日〈マリア〉が引き受けたもの 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章26節~29節
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 

み使いガブリエルは神さまのご用のために大忙しです。エルサレム神殿で仕えるザカリアに現れたのちに、ナザレに暮らすヨセフのいいなずけであるマリアの前にやって来ます。ガブリエルの使命は神さまから託されている〈メッセージ=生涯のつとめ〉をマリアに伝えることです。

 

当時のマリアの年齢は10代半ば過ぎだと言われます。当のマリアは何がなんだかわからないままお告げを聞くことになります。何の準備も出来ていません。でも、それで構わなかったのです。神さまは「準備万端整いました」という人を選んだのではありません。

 

もしも、その選びに条件があるとしたら、ただ、神さまのお言葉に聴き従う心をもっていることでした。

 

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その後マリアが、親戚筋にあたるエリサベトおばさんを訪ねて、ナザレから一人歩いて行った時に、「マニフィカ-ト=マリアの賛歌」を歌い始めます。

 

マリアはその歌の中で、自分自身のことを「身分の低い、この主のはしためにも」(ルカ福音書1:48)と歌います。これは、別の表現をするならば「取るに足らない」「数に入らない」という意味になります。

 

「神の言(ことば)」としてこの世にお出でになるみ子のために必要だったのは、心の真ん中に自分自身の貧しさを自覚する謙虚さがある母胎でした。もしも、私たちがマリアの素晴らしさを捜し求めるとしたらその事実なのです。

 

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使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2章初めの「キリスト賛歌」と呼ばれる歌の中で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。」と記しました。この言葉はパウロが心の底から感謝し、告白した言葉です。私たちも傾聴が必要です。

 

同時に、「キリスト賛歌」で見落としてはならないことがあるのです。それはパウロが、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と続けたことです。この言葉を読み飛ばしたり見て見ぬ振りをすることは出来ません。実に、この十字架のイエスを、ゴルゴタの丘の上で、真下から見上げることになったのがマリアでした。

 

聖霊によって救いのみ子を宿し、母として生きて行くことになるマリアでした。彼女はその後の人生の中で、み使いガブリエルから「おめでとう、恵まれた方。主があなた共におられる」と告げられたことの意味について、人生の途上で、何度もなんども自問することになったはずです。

 

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マリアが引き受けた事柄の本質とは何であるのかについて祈り求めることは、私たちの信仰生活と無縁ではありません。み言葉を頼りにして生きていくことは、のんきで気軽な世の〈お恵み〉とは異なるからです。

 

やがてイエスさまは、群衆と弟子たちに、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」(マルコ福音書8:34)と命じられます。マリアはその十字架を最初に〈恵み〉として引き受けた人でした。end

 


2018年12月16日 待降節・アドヴェント第3主日となりました。三本目のロウソクを灯そう!
2018年12月16日 待降節・アドヴェント第3主日となりました。三本目のロウソクを灯そう!

         《 み言葉 余滴 》182号
                 2018年12月16日

  『 ザカリアとエリサベトによって 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章5節~10節
5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 

天使ガブリエルがエルサレム神殿に姿を現します。ナザレの娘マリアを訪問し、み子イエス・キリストをその身に宿すことになることを告げる直前のことです。

 

神さまのご計画を告げられることになったのは、神殿の聖なる場所で香をたく老人祭司ザカリアでした。一生に一度といわれる務めに集中していたザカリアは、その緊張が吹き飛ぶほど驚き、恐れました。

 

ザカリアの妻エリサベトはアブラハムの妻サラと同様、月のものがとうの昔になくなっていたおばあさんだったことが伺われます。しかし神さまは、彼女の身を通して、救いのみ業を進展させていくご計画をもっておられました。

 

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ザカリアとその妻エリサベトの人生における大転換がここから起こり始めます。

 

しかし、私たちは注意深く、み言葉に向き合いたいのです。なぜならば、ここから始まろうとしているのは、彼ら老夫婦だけの大転換にとどまらない出来事だからです。彼らを通じて明らかにされていく事とは、救いのみ子イエス・キリストの来臨に備える、今を生きる私たちの在り方、生き方に間違いなく通じているからです。

 

もちろん、ザカリアとエリサベトにとって目の前の課題は、生まれ来るヨハネという子をどのように受け止め、育てていくのか、ということだったかもしれません。けれども、ほぼ同時並行的に展開し始めるのは、ナザレの娘マリアの身に起こる救い主の誕生であり、神さまによる救いのご計画でした。

 

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ここで、立ち止まって確認しておきたいことがあります。それはザカリアとエリサベトが、律法を意味する〈戒めと定め〉を誠実に生きていた古いタイプの義人であったという点です。新約聖書の中に描かれる旧約の代表的な人物。それが祭司ザカリアでありその妻エリサベトなのです。

 

同時に、この老夫婦は、律法に対して義なる人でありながら、子どもが与えられない悲しみと恥を背負い、時には、陰口が聞こえてくるような辛い思いをすることもある人たちだった、ということです。実に、イエス・キリストの福音が明らかになるためには、彼ら二人がどうしても必要だったのです。

 

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お告げを受けたザカリア、そしてエリサベト。その後、彼らが信頼を寄せ、従って行ったのは律法ではありません。彼らが信じ身を任せたのは、言葉にはとても言い表しようのない道を指し示す聖霊の導きでした。

 

彼らは世の常識に従って生きる生き方、人の目や人のことばを気にする生き方をはらりと捨てます。二人は律法を守り抜く正しさよりも、神さまがなさろうとしていることに対して身を委ねきる決心した人たちでした。

 

そんな二人の元で成長していったのが洗礼者ヨハネでした。成人したヨハネは、エルサレム神殿の祭司として、うやうやしく儀式を執り行う人になったのではありません。彼の活動の場は荒れ野であり、そこで叫ぶのです。

 

神のみ業のために必要とされたザカリアとエリサベト。

 

彼らは年老いてはいましたが、新しい苦労を感謝と喜びをもって担って行く人たちでした。そしてこの二人は、今を生きる私たちから、決して遠い存在ではないのです。end

 


2018年11月4日 聖徒の日の礼拝堂・講壇です
2018年11月4日 聖徒の日の礼拝堂・講壇です

         《 み言葉 余滴 》178号
                 2018年11月4日

   『  ターン、ターン、ターン 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 5章27節~32節
27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。・・・・・・31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

イエスさまから「私に従いなさい」と声掛けをされた徴税人のレビ。彼は過去に経験したことのない眼差しを感じました。そして、収税所の定位置であった席から立ち上がり即座に従います。

 

レビの決意が並大抵のものではなかったことは「何もかも捨てて立ち上がり」という描写から伝わってきます。ひとりの人の人生の大転換がここで起こるのです。

 

同時にレビの目には、つい先頃までガリラヤ湖の漁師だったペトロやゼベダイの子ヤコブ、そして、アンデレの姿も入ったはずです。彼らもまた、自分たちが生きて来た場を離れてイエスに従った人たちでした。

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レビの召命の場面とほぼ同様の記事は〈マタイによる福音書9章〉と〈マルコによる福音書2章〉にも収められています。

 

でも、私たちが今日読んでいる〈ルカによる福音書5章〉には、ひとつの明確な違いがあるのです。ルカ版のレビの召命の記事には、単に「罪人」を招くためにイエスさまが来られたというだけでなく、「悔い改め」を求める言葉がしっかりと記されているという点です。

 

今回私は『聖書語句辞典』を開いて調べてみたことがあります。それは『新共同訳聖書』の中で「悔い改め」という語がどのように使われているか、ということでした。

 

「悔い改め」という語は全部で58回出てくるのですが、旧約聖書ではわずかに6回。新約ではマタイ福音書に8回、マルコ福音書では3回、ルカ福音書では13回、ルカが記した使徒言行録が10回、その他が12回でした。ルカという人の「悔い改め」への関心の高さは特別なのです。

 

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その上で自問してみたいと思います。イエスさまは開口一番「私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉を口にされたわけではありません。まず、「私に従いなさい」と言われたのです。

 

でも、もしも順序が逆だったらどうでしょう。

 

「私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるため」と最初に聞こえて来たとしたら、私たちは〈自分は、悔い改めを必要とするような悪人でも罪深い者でもない〉と判断し、イエスに従うことを躊躇したのではないか。

 

我々にはそんなズルさがあるのです。

 

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芥川賞作家でカトリックの信仰者である重兼芳子さんという方がおられました。彼女は『癒しは沈黙の中に』(春秋社)という書の中でこう記しています。

 

「聖書全般を通じて貫いているメッセージの要約は悔い改めて福音を信じることだ」

 

「神に対して、あなたの前で私は全く不完全ですと告白することが悔い改めだ」

と。

 

「私は罪人である」ということを率直に認めることが出来ない自分を私たちは知っています。或いはまた、過去に於いて悔い改めを経験したことで満足してしまい、いつしか、今の時点での〈悔い改め〉について鈍感になってはいないでしょうか。

 

ルカによる福音書からレビの召命を読む時に、ルカが強調点を置いた「悔い改め」への招きの言葉を無視することこそ罪深いことです。

 

み言葉は私たちに〈ターン〉を求めます。それは、いつでも、どこまでも必要なのです。end

 

 


2018年10月14日の礼拝後 右側、迪子さんの在りし日を想いつつ足跡を紹介し祈りを合わせました。(写真は2017年春 寿子さんの洗礼式直後)
2018年10月14日の礼拝後 右側、迪子さんの在りし日を想いつつ足跡を紹介し祈りを合わせました。(写真は2017年春 寿子さんの洗礼式直後)

         《 み言葉 余滴 》175号
                 2018年10月14日

  『  風に吹かれて散らされて 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 8章1節~8節 1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

 

いつもながら聖書が伝えていることは面白くもありますし実に不思議です。じっくりと読んでいると、書かれていることが決して「当然でしょ」「やっぱりね」という内容ではないことに気付きます。聖書を読むことに慣れっこになることはもったいないですし、要注意です。

 

使徒言行録の8章、いえ、それ以前の6章、7章を含めて知らされている重要な情報があります。当時の世界各地に向けてイエス・キリストの福音を運んで行く切っ掛けをつくったのは誰だったのか、ということです。

 

「先生、そりゃパウロでしょ、ここではまだサウロと呼ばれているけれど」という声が聞こえてきそうです。

 

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確かに、キリスト教というものが成立するために果たしたパウロの役割はあまりに大きいのですから、それは正しい答えです。でも、ここでパウロ以前に活躍するのは〈フィリポ〉という人でした。パウロはまだ迫害者に過ぎません。

 

私たち。ここで活躍する〈フィリポ〉という名をしっかり記憶したいと思います。イエスさまの12人の弟子の中にも〈フィリポ〉という名前がありますが、そのフィリポとは別人です。

 

ここに登場する〈フィリポ〉は、もともとは、エルサレムの初代キリスト教会の中で、日常生活の具体的なこと、言わば信者のたちのお世話係7人のうちの1人でした。

 

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もう少し正確に言うと〈フィリポ〉は「散らされた人」でした。或いは「逃げ出した人」「逃げ出さざるをえなかった人」だったのです。そんな彼が安全な場所を求めて逃げ出した場所が〈サマリア〉でした。

 

当時のユダヤ人にとって、ユダヤ教と異教との混合がなされていた〈サマリア〉という地は差別と軽蔑の地に他なりません。そんなところにユダヤ社会の迫害者も追いかけて来ませんでした。そこで用いられたのが、お世話係の〈フィリポ〉だったというわけです。

 

彼は〈サマリア〉で一所懸命に伝道します。しばらくしてから、12使徒のペトロとヨハネが姿を見せますが、〈サマリア〉伝道は〈フィリポ〉抜きには一歩も進まなかったのです。

 

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不思議なこと、そして感謝なこととも言えますが、神さまは〈逃げ出した人〉を用いられるのです。聖書の中の幾人もの逃亡した人たちが、いつしか、大切な働きに仕える人へと召し出されていくのです。

 

創世記では兄を裏切ったヤコブがそうでした。出エジプト記では同胞を苦しめる者を殺害したのはモーセです。命の危険を感じたモーセは40年間の逃亡を続けます。12弟子の筆頭ペトロ、いいえ、それどころか12弟子はみんな、イエスのもとから逃げ出したのです。〈フィリポ〉も逃亡した人でした。

 

逃げるが勝ちとまでは申しません。人間、逃げ出さざるを得ない場面を生きることがあります。夜逃げするかのように雲隠れすることだってあるのです。

 

しかしそこには、〈神さまからの風〉=〈聖霊〉が吹いている。その風にしっかりと吹き飛ばされることが、二度とないチャンスになるのかも知れません。あなたも一度、風に吹かれて飛ばされて、散らされてみませんか。end

 


2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 
2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 

          《 み言葉 余滴 》172号
                 2018年9月16日

  『  〈ラザロ〉を必要とする神 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 11章1節~6節
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

 

ヨハネによる福音書11章、そして12章のはじめに収められているのは「ラザロの物語」です。マタイ・マルコ・ルカという他の福音書には見られない、ヨハネ福音書だけの独自のものです。福音書記者ヨハネという人は「ラザロの物語」に対して、特別な思いを抱いていたはずです。

 

少し先の12章12節では、イエスさまは子ろばに乗って〈十字架の待つエルサレムへ入城〉されます。その後イエスさまによる弟子たちの〈洗足・告別説教・祈り〉が、ヨハネの筆によって丁寧に描かれます。ヨハネは〈受難と復活の前〉に、ラザロを巡る出来事だけは何としても記録したかったのです。

 

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ラザロはマリアとその姉妹マルタの弟で、その名前の意味は「神は助けられた」というもの。

 

興味深いことに、ラザロはひと言も語らない人としてここに登場します。したがって、ラザロの人柄や性格についても、とうぜん私たちにはわかりません。おそらく、イエス・キリストの福音の出来事を伝える上で、そんなことは、どうでもよかったのです。

 

ラザロのことを紹介する記事として繰り返されているのは、ラザロが「病気」であり「病人」だということです。ヨハネはラザロのことを「病んでいる人」として紹介します。

 

何よりもラザロはイエスさまによって〈復活〉させられる人です。つまり、ラザロは死ぬのです。生きる力を完全に失う人でした。このようにラザロは、徹頭徹尾、弱く、小さな者としてここに居ます。

 

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このようにして「ラザロの物語」を少し遠くから眺めてみると、ひとつの事実に気付かされます。

 

それは「ラザロ」という人物は、マルタとマリアとは対照的な存在だということです。せわしなく働くマルタ、イエスさまの足もとに高価な香油を注ぐことが出来たマリアとも違います。

 

ラザロは自らの力で何もできないのです。復活の出来事と深い関わり合いの中でラザロが登場すること。これも偶然ではありません。もちろん、甦(よみがえ)りの時も、ラザロ自身には何の力もありませんでした。ラザロは神に委ねることしか出来ない存在なのです。それは、決して否定的な事実ではありません。

 

むしろ、そのラザロの持つ無力さこそ、ヨハネ福音書が目指した「あなたがたが、イエスは神の子であり、〈救い主=キリスト〉であることを信じる」(ヨハネ20章31節)ようにするために、どうしても必要なことでした。だからこそ、私たちは「ラザロの物語」から大切な何かを感じるのです。

 

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右往左往する人々とは違いラザロは何と静かな人なのでしょう。彼のことについて聖書が他に何も告げていないことから想像すると、実際ラザロは言葉数が少ない人だったのです。

 

物語の冒頭「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」という表現も、ラザロが数に入っていない感があります。

 

〈復活〉の出来事がなければ、キリスト教信仰は成り立ちません。誰かのために命を捧げて死んで行った偉人はイエスさま以外にも存在します。

 

しかし〈復活〉は別です。ラザロが復活の証人であることの意味はことのほか重いのです。神さまはラザロをお選びになった。ここに神の愛があります。end

 


2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪
2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪

          《 み言葉 余滴 》170号
                 2018年9月2日

    『  だれよりもたくさん 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 12章41節~44節

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43 イエスは、

弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。」
  


舞台はエルサレム神殿です。律法学者たちの信仰のあり方に対して不快な思いをいだかれているイエスさまがおられます。イエスさまは律法学者たちの〈いやらしさ〉を見抜いておられます。

 

「長い衣をまとって歩き」「広場で挨拶され、会堂や宴席で上座に座ることを喜び」「弱い立場のやもめを踏みにじり」「見せかけの祈りを捧げる」。そんな律法学者たちは、厳しい裁きを受けることになる、と言われるのです。

 

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直後に描かれるのがエルサレム神殿の賽銭箱の前に座っておられるイエスさまでした。イエスさまの目には何が映っていたのでしょう。

 

様々な人たちがそこにやって来たはずですが、冷静に考えると、私たちの献金の仕方、その心の奥底にあるものをイエスさまは全てご存知だということです。

 

献金を献げる人々の様子を観察されたのちに、わざわざ弟子たちを呼び寄せて語り始めたイエスさまのお言葉を、福音書記者マルコが記したのには二つの意味があります。

 

一つは弟子たちに対するこれからの生き方の促しですし、遺言としての意味合いもあります。同時に、初期のキリスト教会を形作ろうとしていた人々に対する強いメッセージなのです。

 

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主が求めておられるのは、名も知られない貧しい〈やもめ〉のあり方から学びなさいということでした。

彼女が握りしめ、そして献げたレプトン銅貨2枚は、この世の価値基準からすると小さく軽いものに過ぎません。

 

ところがイエスさまは、彼女の献げ物を、もっとも重く、価値あるものだと宣言されたのです。これは常識はずれの宣言でした。

 

イエスさまがそのようになさったのは明確な理由があります。献げられたものが、単に生活費全部を意味するのではなく、やもめの〈いのち〉であり〈人生〉〈生涯〉だったからです。

 

「一クァドランスを入れた」の「入れた」という語の原文には、ある種の激しさがあります。例えば「突進する」という意味すらある言葉なのです。

 

彼女はイエスに全てを委ねました。

 

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確かにやもめは〈空っぽ〉になりました。だからこそ、もはや彼女は他のものにしがみついたりしない、完全に委ね切る〈重み〉を持つ人になったのです。

 

やもめの生き方は、十字架の主イエスのお姿と重なっていることに気付かされます。私たちの救い主も〈空っぽ〉になるお方だからです。

 

神さまが私たちの人生のただ中にいつも共におられるようになるためには、私たちの人生という器に「神さま、もっと」「あともう少しだけお願いします」と求める生き方ではなく「空っぽになること」が必要なのです。

 

主は惜しみない愛を、空っぽの私たちに注ぎ続けて下さいます。

 

使徒パウロが第2コリント書9章8節に記した「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」をかみ締めたい。感謝を捧げましょう。end

 


2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪
2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》169号
                 2018年8月26日

   『  タマルの美しさによって 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 38章14節~19節
14 タマルはやもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ティムナへ行く途中のエナイムの入り口に座った。・・・・・ 15 ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。16 ユダは、路傍にいる彼女に近寄って、「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と言った。彼女が自分の嫁だとは気づかなかったからである。「わたしの所にお入りになるのなら、何をくださいますか」と彼女が言うと、17 ユダは、「群れの中から子山羊を一匹、送り届けよう」と答えた。しかし彼女は言った。「でも、それを送り届けてくださるまで、保証の品をください。」・・・・・・ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。19 彼女はそこを立ち去り、ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。
 

聖書の中には様々な〈系図〉がおさめられています。いちばん知られているのが、あのマタイによる福音書1章の〈イエス・キリストの系図〉です。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」という言葉でその〈系図〉は閉じられます。

 

実に興味深いことに、〈イエス・キリストの系図〉にはユダヤの系図には普通は見られないことが書かれています。それは、マリアを含めて5名の〈女性〉が登場し、その存在がきっちりと記録されているという点です。

 

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キリストの系図の中の女性の一人に「タマル」が居りました。族長ヤコブの四男ユダ。彼が息子のためにと探してきて嫁入りしたのがタマルでした。ところが、選ばれて迎えられたタマルの結婚生活は悲しみに満ちたものとなります。神の裁きを受けた夫たちに次々と先立たれるのです。

 

タマルは義父のユダから「暫くの間、やもめのまま故郷で過ごすように」命じられます。まるでタマルは、不幸をもたらす〈疫病神〉のように扱われたのです。

 

当時の「掟」では、子の無いまま夫に先立たれた女に義理の弟がいる場合、よその一族の者と結婚することはありませんでした。ここでは義父のユダが、寡婦のタマルの再婚について責任をもっていました。しかしタマルは、三度目の結婚が舅(しゅうと)によって阻まれていることを知ります。

 

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ついにタマルは、ヤコブの一族の嫁として、当時の最も大切な務め、即ち、子どもを生むために一大決心をします。舅(しゅうと)から子種を得るしか他に私の道は無い、という結論に至ったのです。

 

そこで彼女はあっと驚く行動を取り始めます。それはあまりにもスキャンダラスな方法でした。

 

タマルは娼婦になりすまし、舅(しゅうと)のユダを待ち伏せます。妻を亡くして喪が明けた時期を過ごしていたユダは、道端のベールの女が嫁のタマルだとは露知らずに一夜を過ごします。

 

このような、ある種のいまいましさを伴う出来事を経て、タマルは、イエス・キリストの系図に記録される「ユダはタマルによってペレツとゼラを」の双子「ペレツとゼラ」の母となったのです。

 

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不貞を働いたかのように見えるタマルでした。不義の女という烙印が押されてもおかしくないのです。

しかしここでのタマルは呻吟(しんぎん)しながら、その時の彼女にとって唯一と考えた道を選び取りました。

 

聖書は義父のユダが「私よりも彼女の方が正しい」と語ったと記録します。ユダとタマル抜きにして、のちのダビデ王もイエスさまも生まれません。これは〈神のご計画〉でした。

 

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私たちは美しい人生の足跡を残して来たでしょうか。小説に出来るような物語を証し出来るのか。「否」なのです。

 

少しも麗(うるわ)しくなく、デコボコや寄り道ばかり。何ともおさまりの悪い歩みを続けて来たことを思います。少なくとも私はそうです。けれども聖書は、そのような私たちの人生を、主イエス・キリストの存在を通して明確に肯定しています。こんな私たちを神は救って下さる。本当に感謝です。主を賛美し、主を宣べ伝えましょう。 end

 


2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま
2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま

          《 み言葉 余滴 》 165号
                  2018年7月29日

   『  ヨセフ物語に見る〈摂理〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 37章4節~11節  4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。・・・・・・ 8 兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。・・・・・・11 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 

創世記37章から50章まで続くのは「ヨセフ物語」と呼ばれる壮大なスケールのお話です。創世記は聖書を読む楽しさに満ちた書ですが、37章からはますますその感が強まっていきます。

 

ヨセフが「夢解き」をできる人として登場することはしっかりと心に留める必要があります。なぜならば、その賜物は神さまからのものであり、ヨセフが既に17歳の時に、彼は夢解きを通じて〈預言者的な役割〉を果たし始めるのです。

 

この先、ヨセフが夢を説き明かす内容は次々と目の前で展開されていくことになりますが、そこには、彼の意志とか力は何も働いていません。

 

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ところで、皆さんは「摂理」という言葉をご存知でしょうか。あるいは使ったことがあるでしょうか。実はヨセフ物語の中に「摂理」というものをハッキリと感じとることができるのです。

 

「摂理?」「なにそれ?」と思われる方も多いと思います。一般に「摂理」はどのように説明されるのかをちょっと調べてみました。

 

まず『広辞苑』では「・・・神がその愛によって、世の事すべてを導き治めること。」とあります。もう一つ『明鏡国語辞典』をみました。「キリスト教で、この世のすべてを導き治める、神の永遠にわたる予見と配慮。」とあるのです。

 

いずれも「ほー、なるほどねぇ」と教えられました。「摂理」の主語となるのは〈神さま〉だということは間違いないと思います。

 

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私はキリスト教の神さまの素晴らしさを「ヨセフ物語」の冒頭に強く感じます。

 

神さまはすべてをお見通しの上で、あえて〈罪人〉を次々に登場させている。そこが、聖書の伝える世界観であり人間像だと思うのです。

 

しかも、ヨセフ物語ではドロドロとした家族関係や、破れ、いさかい、そねみ、恨み、妬みが浮かび上がってきます。きれい事ではすまない事情がある。

 

こうした事情はこの世の現実ですし、どこかで心当たりのある私たちです。

 

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のちに、ヨセフは、当時の世界の大国・エジプトの宰相となります。自分を見捨てた兄弟たちをゆるし、父親との劇的な再会を果たすことになるのです。

 

しかし、創世記37章の冒頭に描かれているヨセフは、どう見ても〈罪人〉のひとりに過ぎない。でも、それでよいのです。

 

不思議なことに、神さまは完璧な人をお創りになりません。欠けのある者にこの世でいのちをくださるのです。神さまが失敗することなどあり得ません。

 

その神さまの作品のひとつが、〈あなた〉であり〈私〉です。そこに、神さまの「摂理」を覚えます。

 

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「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(コヘレトの言葉3章11節・口語訳)というみ言葉を思います。

 

「ヨセフ物語」は紆余曲折が続きます。しかし物語の展開の壮大さと緻密さの中に、神さまの永遠のご計画が垣間見えてくるはずです。

 

そのご計画に、既に巻き込まれている私たちを自覚したいのです。end

 

 

 

 


2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。
2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。

        《 み言葉 余滴 》   158号
                2018年6月10日

   『  足を引きずって生きる 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 32章25節~32節 

25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。・・・・・・29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」・・・・・・32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

       

故郷に向かうヤコブ。彼は眠れない夜を過ごしていました。

 

20年前、ベテルと名付けた場所でのことを思い出します。石を枕にして横たわったあの日も眠れない夜を過ごしました。その時は、まず夢の中にみ使いが現れ、直後に主が語り始めたのです。創世記28章10節以下の出来事です。

 

今彼が、独り身を置いているのはヨルダン川の支流「ヤボク川」でした。もう後戻りは出来ないところにヤコブは居るのです。でも、20年前にあざむき、裏切り、背を向けて逃げ出した兄エサウとの再会の場面をイメージしようにも、考えれば考えるほどに気持ちが沈んでしまいます。おまけに、兄は400人の軍勢を率いているという情報も届きました。恐怖がつのります。

 

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妻や息子たちを送り出し、先に川を渡らせたヤコブは【独り後に残った】のです。【独り後に残った】と言うと、そこには何か強い意志が働いているかのようですが、違います。ヤコブは川を渡る勇気がないのです。

 

そんなヤコブですが、【独り後に残った】からこそ、実は、二度とない、ある人との出会いを経験します。これこそが「邂逅(かいこう)」でした。邂逅には〈人生における決定的な出会い〉という意味があります。

 

神さまは集団の中に身を置く人に出会われることは稀です。まず《あなた独りと出会いたい》。そういうお心を持つお方なのです。これはわたし自身の実感です。モーセもパウロも、あの姦淫の女も、独りで主と向き合いました。

 

                    **************

 

夜中に、得たいの知れない人と朝方まで角力(すもう)を取ったヤコブ。おそらく彼は、自分の人生を振り返ってみるときに、このようは勝負はもう二度と出来ないと思ったはずです。そんな激しい角力(すもう)でした。

 

ヤコブがこの時のことを忘れるわけがありません。なぜなら、彼はこのときの角力(すもう)によって、消えることのない傷を負った。今では差別用語と言われることもある「びっこ」という言葉がありますが、彼は死ぬまで、足を引きずって生きる人になったのです。ヤコブにはこのような傷がどうしても必要でした。だからこそ、神との格闘の中でこの傷は与えられたのです。

 

                    **************

 

人生には忘れてはならないことがあります。それはヤコブが神との格闘の中で受けたような傷です。

 

私たちも傷をもっているからこそ、その傷口から染みてくる何かがあることを知っています。クリスチャンとは、傷を忘れないで生きて行く事を自覚し続ける者、と言い換えることが出来ます。

 

十字架の主イエス・キリストの脇腹と手のひらの傷は、単なる徴(しるし)なんかではありません。私たちが身に受けるべき傷がそこにあります。ヤコブはその傷に通ずる格闘をペヌエルで経験したのです。

 

足を引きずって生きるようになったこと。それは【独り後に残った】ヤコブに対する神さまのご計画でした。彼は足を引きずり続けますが、癒しが与えられています。神さまの愛はヤコブのいのちの奥深くに宿ったのです。end

 


2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花
2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花

        《 み言葉 余滴 》   157号
                2018年6月3日

     『 失敗という名の〈たまもの〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 4章32節~35節 32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。

       

讃美歌第2篇188番に『きみのたまものと』で始まる素敵な曲があります。私はある頃まで、この賛美歌は「青年の歌」だと思い込んでいました。確かに1節には「きみのたまものと 若いちからを」とあります。

 

でも2節には「きみのたましいを すべてささげて 神のわざのため つとめいそしめ」とあるのです。若者だけの賛美歌にしてしまったらもったいないかも知れない。そんなことをふと思います。「たまもの」とはいったい何なのでしょう。「たまもの」はもちろん神さまからのものなのですが・・・。

 

少し余談めいたことですが、平仮名で「たまもの」と記すのと漢字で「賜物」と記すだけでも随分印象が変わります。

 

「命」と「いのち」、「魂」と「たましい」、「心」と「こころ」の違いに通じるものがあります。188番は「きみのたまもの」と平仮名で歌詞が書かれているので好感を持てます。いえ、実はそこには「たまもの」を考える上で深い意味があるのかもと感じるのです。

 

                    **************

 

使徒言行録4章が描くのは初期キリスト教、あるいは、原始キリスト教と呼ばれる時代の「教会」の様子です。

 

ところが、使徒言行録4章の段階では「教会」という言葉はまだ一度も使われないのです。おそらく、この頃から、だんだんと「教会」らしくなり始めたなぁ、ということを著者のルカは(『ルカによる福音書』の著者と同じ人)意識していたと思います。

 

ここには、なんだか、気前よくというか、潔くというのか〈どーーーんと献金している人たち〉の姿が描かれていて、本当にみんながそうだっのかしら、俺にはこんなこと出来ないなぁ、と少し心配になるほどです。

 

さらに、4章の終わりには「慰めの子」として紹介される「バルナバ」と呼ばれていた「ヨセフ」というキプロス島出身の人も、持っていた畑を売り払い、その代金を使徒たちの足もとに置いた、と紹介されます。

 

                    **************

 

わたしがこの場面で一番大切にしたいと考えるのは、【信者の中には、一人も貧しい人がいなかった】という初代教会の人々の様子です。彼らはお金で困ることがなかった、と聖書が伝えているとは思えません。

 

むしろ、そこには、お金とは違う価値観、豊かさがあったのではないでしょうか。しかも、それは共有しやすさがあったり、分かちあいやすいものではなかったかと想像するのです。果たしてそれはどのようなものでしょうか。

 

                    **************

 

成功談というのは、大して人の為にならないものです。ペトロら使徒たちが、積極的に確信をもって語ることができたのは、自分たちのうまくやった経験ではないはずです。彼らの宝は〈挫折であり失敗〉だった。

 

教会は〈失敗という名の「たまもの」〉を抱えながら生きている者たちの集いです。これこそ財産です。失敗したことのない人が身近に居られるでしょうか。いいえ一人も。

 

教会には誰もが証しできる〈失敗という名の「たまもの」〉があり〈貧しい者はない〉という恵みが秘められているのです。end

 


2018年2月11日(日)表通りに掲げるポスターが完成 紹介する森牧師です 
2018年2月11日(日)表通りに掲げるポスターが完成 紹介する森牧師です 

          《  み言葉 余滴  》 142

      2018年2月11  主日礼拝からの"余滴" 

         『  ご飯に生玉子の交わり  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 2章42節~18節

42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。

 

聖霊の降臨によって生まれたもの。

 

それは教会でした。しかし、その教会とは十字架がかかげられた建物としての教会ではありません。

 

初期のキリスト教徒たちにとってクリスチャンとしての自覚が生まれてくるために大切にしていたのは、聖書の説きあかしを聴き、交わりを持つこと、パンを裂くこと、祈ることでした。それが行われていた場所は「家の教会」だったのです。

 

教会というものは、会堂が立って生まれるのではありません。つらいことも、悲しいことも分かちあえる交わりがあるかないか。いつでもそこに帰って来られると思えるかどうか。

 

そのことがクリスチャンにとって肝心なのです。

 

                    **************

 

初期のキリスト教会が生まれようとしていた時、たくさんの受洗者が与えられていたことが記録されています。

 

【ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。】というのです。

 

けれども、冷静に考える必要があります。【三千人】の人々がクリスチャンとなったからと言って、一同が集まって一緒に過ごすことなど出来ません。

 

だからこそ、少人数の家庭的な交わりというものがとても大事なひと単位となるのです。

 

私の想像ですが、ひとつのグループの集まりは10人前後だっただろうと思います。それ以上の人数では、心を開いた交わりは持ちにくいのです。心の通い合う小さな交わりは信仰の深まりの鍵なのです。

 

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振り返ってみると、私が20代の半ば頃に洗礼を受け、クリスチャンとしての成長の場が与えられた場所となったのは、母教会である東京の銀座教会での毎週火曜・朝7時から行われていた「早天祈祷会」でした。

〈証し〉が毎週あったのも本当に貴重な経験となりました。

 

さらに楽しみだったのは、聖書の学びとお祈りが終わったあと、場所を移して、10人と少しの方たちとテーブルを囲んで頂いていた朝食です。6畳ひと間の独り暮しの身に、その家庭的な空気はとても心地よい時間でした。

 

ご馳走が並んでいたわけではありません。おみそ汁だって、チューブの味噌を絞り出しお湯を注ぐ永谷園のものでした。ご飯に生卵や納豆。そんな食事だったのです。不思議なことに、その時の余韻は今でも思い起こせます。

 

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銀座教会の礼拝出席は300人を少し超えるほどの日本基督教団では大規模な教会の一つです。わたしはその数を自慢したいのではありません。

 

大切な分かち合いが、早天祈祷会の中に、そして、その後の食卓の小さな交わりにありました。いのちの言葉を語って下さるキリストを中心とする交わりには、自ずと力とぬくもりが生まれてくるのです。

 

そのような分かち合いの場を産み出し続ける努力。心底、やり甲斐があると思うのです。end

 

 


2017年12月17日(日) アドヴェント第3主日のクランツ 礼拝堂の空調の関係か蜜蝋のローソクがとてもよく燃えます。
2017年12月17日(日) アドヴェント第3主日のクランツ 礼拝堂の空調の関係か蜜蝋のローソクがとてもよく燃えます。

          《  み言葉 余滴  》 133

      2017年12月17  主日礼拝からの"余滴" 

           『  新生の老人  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章67節~80節
67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。・・・・・・76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。・・・・・・80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

ザカリア。

 

その名前の意味は、新約聖書の舞台であるユダヤ地方で使われていたヘブライ語で「主は覚えていたもう」という意味です。

 

ザカリアは老人でした。もちろん、妻のエリサベトも。

 

しかし、神さまは、祭司であるザカリア、そして、妻の祈りを覚えていて下さいました。「わたしたちに祝福を。どうか、子どもを与えたまえ」。

 

当人たちが、そう祈っていたことすら忘れてしまってもなお、神さまはみ心に留めておられたのです。

 

                    **************

 

彼らはついに我が子を腕に抱きます。

 

それが、後に、イエスさまの先駆者として荒れ野に立つ、〈洗礼者・ヨハネ〉でした。祭司の家庭に生まれてくる子どもなのです。本来ならば、〈祭司・ヨハネ〉としてエルサレム神殿で聖職に仕えるようになることが周囲の人々の期待でもありました。

 

しかし、ザカリアは、彼らに与えられた幼子が生まれ来る理由について、み使いガブリエルからこう伝えられていました。

 

【1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。・・・・・・16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。】(ルカ福音書1:14以下)と。そのように伝えられていたザカリアはどうしたのでしょう。

 

                    **************

 

福音書を記したルカは、ザカリアとエリサベトの話を閉じるにあたり、さり気なくこう記しています。

 

【80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。】と。

 

何でもないことのように置かれているこの一節ですが、私はたいへん興味深いものだと思います。なぜならば、ザカリアとエリサベト夫妻は、彼らが胸に抱いたヨハネを、神さまのご用のために実質手放しているからです。

 

ザカリアはアビヤ組と呼ばれる伝統あるグループの祭司です。

 

人間、欲があります。自分勝手なところがあります。我が子を胸に抱いたならば「やっぱり、祭司として跡を継いでほしいなぁ」と考えても不思議ではありません。

 

ところが、ザカリアとエリサベトは、息子がエルサレム神殿の〈祭司・ヨハネ〉となることは望まず、主のみ心のままに育つことを求めていったのです。

 

                    **************

 

神のみ子イエス・キリストのご降誕に備えるアドヴェントの期節を生きる途上で、私たちに神さまが求められていることは何であるか。

 

それは、新しい人として歩み出すことなのです。昔ながらの言葉で言うならば〈悔い改め〉です。しかし、〈悔い改め〉では言葉足らずだな、と思います。

 

生き方の方向転換。人生の目標や目的の転換と言えます。

 

ザカリアとエリサベトにかかわる最後の描写が【80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。】です。

 

二人はヨハネを神さまに捧げ、我が子が荒野に進み出で、そこに立つことをみ心と信じたのです。

 

新しい人として生き始めるお手本がここにあります。新生の老人がここにおります。さぁ、私たちはどうしましょう。end

 


2017年10月15日(日)の礼拝堂献花です。雅代さんありがとうございました。なんとも素朴に今週も美しい!あっ、講壇の位置が変わり、お花の撮影の角度も変わってます。
2017年10月15日(日)の礼拝堂献花です。雅代さんありがとうございました。なんとも素朴に今週も美しい!あっ、講壇の位置が変わり、お花の撮影の角度も変わってます。

          《  み言葉 余滴  》 125

      2017年10月15  主日礼拝からの"余滴" 

       『  ユダを忘れない 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 1章14節~16節 14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。

 

イスカリオテのユダ。

 

その名は一般の人たちにも知られています。国語辞典のひとつ『広辞苑』では、さいごに【裏切者。背教者の意味で使われる。】と説明される人です。

 

当然ユダは、イエスさまが約束された聖霊降臨を待つ人々の中には居ません。でも、私はユダのことがすごく気になります。イスカリオテのユダは、過去の人として終わってよいのだろうか、と。ご一緒に考えてみましょう。

 

                    **************

 

約束された聖霊の降臨を待つ11人の弟子たち。

 

彼らはこの先、エルサレムで教会の土台を築いて行くことになる大切なメンバーです。彼らはイエスの母マリアや婦人たち、イエスの兄弟たちと共に、熱心に一つになって祈っていました。

 

以前の私は、彼らの心の中には将来の希望が満ち溢れ、熱狂しているのだろうなと感じていました。でも、実情は違うのではないかと考え始めたのです。

 

     **************

 

ルカによる福音書の22章32節で、イエスさまから【シモン、シモン・・・・・・あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい】と言われていたペトロ。

 

彼は大勢の人々の前で立ち上がって説教し始めます。

 

その説教の内容は決して恵みあふれるメッセージではありません。むしろ、居合わせた人たちからすると思いがけない内容でした。イエスを裏切り、最期は自ら命を絶ってしまったユダをめぐっての説教だったからです。

 

                    **************

 

弟子たちのリーダーペトロ。

 

彼は聖霊の降臨を待つ祈りの中で、ユダの死を〈無駄死〉にしてしまってはならないことに気付いたのです。

 

イエスさまを敵対する者たちに売ってしまったユダが、自らの愚かさに気付いたのちに、仲間の11人のところへ帰って来る前に自ら命を絶ってしまったことに責任を感じていたのです。

 

取り返しのつかないことをしてしまった者を迎えてあげられない空気が、弟子たちの中にあったからです。

 

だからこそペトロは、イスカリオテのユダとはいったい何者であったのかについて『聖書』をひもとき求めました。

 

そしてわかったのです。ユダは己の罪深さを自覚し、本当は、悔い改めてやり直したかったのだということが。

 

                    **************

 

イエスさまの宣教の第一声は【悔い改めて福音を信じなさい】(マルコ福音書1章15節)でした。

 

11人の弟子たち、そして聖霊を待ち望む人々にも〈悔い改め〉が必要でした。彼らの〈悔い改め〉は、まだまだ不十分であったかも知れません。

 

でも、初めの一歩は誰でも大差ないのです。

 

私たちもイスカリオテのユダのことを忘れません。聖霊はどこに降り、キリスト教会はどのようにして誕生するのかを知っているからです。

 

〈悔い改めて福音を信じる〉ことの大切は、昔も今も変わっていないのです。end

 

 


2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。
2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。

          《  み言葉 余滴  》 119

       2017年9月3  主日礼拝からの"余滴" 

     『  毒麦も大切な理由(わけ) 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 13章28節~30節 
28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 

 

芸能界には〈毒舌タレント〉と呼ばれる方たちがいます。最近ではマツコ・デラックスさん、松本人志さんなどがそうかも知れません。

 

番組を見ている人たちが、「いやぁねぇ」「まったく」等と思いながらも、彼らの〈毒舌〉は“視聴者が言いたいことをズバリ言ってくれる”から人気なのです。

 

でも、少なくともわたしは、彼らの言葉に隠された愛を感じます。

 

                    **************

 

イエスさまはここで「毒麦」の譬えを語られます。

 

譬え話とはいえ〈毒〉が出てくるなんて穏やかではありません。「毒水」「毒米」だったら少しは緊張するかも知れません。

 

イエスさまのお言葉それ自体に〈毒〉はなく、むしろ〈毒〉に触れつつ、おわりまでの愛を語ろうとされるのです。

 

聖書の中で「毒麦」はサタン=悪魔の働きによるもの。反対に「良い麦」はイエスさまが蒔かれた種から育ったものとして読むべきものです。

 

                    **************

 

実は、わたしたちキリスト者も、時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。

 

神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

イエスさまによる「毒麦」の譬え話とは、そのような〈この世〉の実情が前提になって語られる〈天の国〉の譬え話であることを心にとめましょう。

 

肉の思いに満ちた〈この世〉と、イエスさまが指し示したいと願っておられる〈天の国〉とは違うのです。

 

ですから、ここで示される譬えの真理というものは、世間一般に通用する倫理的な教えではありません。

 

                    **************

 

わたしたちは「善は急げ」という言葉を知っています。

 

「よいことをするのに躊躇するな、機会を逃さず直ちに実行すべし」ということです。いかがでしょう。

 

「善は急げ」に反対する方は稀ではないでしょうか。

 

譬え話の中の僕(しもべ)たちも「善は急げ」と考え、直ぐに行動に移そうとします。

 

【行って毒麦を抜き集めておきましょうか】と。しかし主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。

 

                    **************

 

人が生きて行く途上で起こる〈人生=畑〉での難題、課題というもの。

 

その根の深さに驚くことがあります。実に複雑に絡み合っています。表面的なことだけを片付けても、根本的な解決策にならないことばかりです。

 

イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。

 

なぜなら、わたしたちが育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が絡みついているからです。

 

       **************

 

ここでの良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていことを認めざるをえません。

 

だからこそイエスさまは仰います。

 

「あなたが慌てて解決しようとするのではなく、信じる者として、わたしにさいごまで任せよ」と。

 

謙遜と柔和、悔い改めの心をもって、その時に備える生き方を始めましょう。明日からでありません。

 

今、直ぐにです。end

 

 


2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで
2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで

          《  み言葉 余滴  》 115

       2017年8月6  主日礼拝からの"余滴" 

    『  立ち上がって従った人 マタイ 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 9章1節~2節、13節後半
9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。13・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 

人間、複雑な存在だなぁと思うことがあります。いろいろとややこしいのです。

 

好きなのに嫌い、嫌いなのに好き、ということだってあります。最近、「面従腹背」という言葉を語った、元・高級官僚も居られました。

 

その一方で、誰しも不思議なほど単純な心をもっているのも事実です。あれやこれや気を遣っていたのが馬鹿みたいだった、ということが起こります。

 

ここに登場する、徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。

 

                    **************

 

世の中に溢れているものがります。新聞にも様々な〈声〉があります。テレビやラジオからも様々な〈声〉が聞こえて来ます。今ではインターネットの時代になって、興味あることを調べようとすると、それはそれは驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

しかし、わたしたちに必要なのは〈情報〉ではありません。真実な人生を生きていくために、クリスチャンが大切にすべきは、ただひと言の、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉なのだと示されています。

 

                    **************

 

マタイによる福音書の著者マタイは、ここで、立ち上がってイエスさまに従った人ではないか、と言われることがあります。そうかも知れません。もしも違っていたとしても、それでも構いません。

 

わたしたちは、今、これからを、果たして誰の〈言葉〉に従って生きて行こうとしているのかが〈み言葉〉から問われます。

 

     **************

 

徴税人マタイは、イエスさまのことについて多少の〈情報〉はもっていたかも知れません。けれども、知り尽くしていたわけでも何でもないのです。

 

しかし、マタイはこの呼びかけの〈お言葉〉が真実なものだ、と直感しました。

 

そして程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、彼の心は熱くなったはずです。人知れず涙したかも知れません。

 

「イエスさま、あなたの仰る通り、わたしは罪深いものです」とこれまた正直に認めることが出来たのです。

 

                    **************

 

罪の問題はわたしたちの人生のもっとも解決のむつかしい課題です。

 

しかし、聖書はわたしたちに告げています。イエスさまは、あなたの人生のいっさいを新しくして下さるお方なのですよ、全てを委ねて、決して後悔することなどないお方ですよ、と。

 

ここに福音があります。

 

もう、これ以上迷ったり、他のどこかに捜し求める必要もありません。ただ〈ひと言〉を語って下さるお方が、このわたしのために呼びかけて下さっている、と信じて立ち上がりましょう。そして、従うのです。

 

わたしたちは、決して後悔することのない人生を歩み通せます。end
 


2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。
2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。

          《  み言葉 余滴  》 111

       2017年7月9  主日礼拝からの"余滴" 

        『  丸太はどこへ行ったのか  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 6章41節~42節前半
41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

 

私が二歳の頃から小学校6年生の頃まで「わが家」として暮らしていた家は、〈梁・はり〉がむき出しの〈納屋〉を改造したものでした。

 

『新明解国語辞典』で〈梁・はり〉という語を調べてみました。「

 

屋根をささえるために横に渡した、太くて長い材木」とあります。まさに剥き出しの〈梁〉が、わたしの育った家の一階にも二階にもあった記憶は鮮明です。

 

                    **************

 

このみ言葉が語られている箇所を注意深く読んでみると、このお話はイエスさまに依る〈譬え話〉として語られています。

 

そもそも、人の目の中にある「おが屑」を見つけることすら普通はできません。それなのに、イエスさまはここで、深く、切実な祈りのこころをもって、【まず自分の目から丸太を取り除け】とおっしゃるのです。

 

我が子や教え子が〈可愛くて、かわいくて、たまらないさま、溺愛するさま〉を言う時に、「目に入れても痛くない」と言うことを思い出します。

 

                    **************

 

自分の目の中にある〈丸太〉とは何なのだろうかと、私たちは考える必要があります。

 

他の聖書の多くで、〈丸太〉は〈梁・はり〉と訳されています。日本の昔ながらの家には〈大黒柱〉と呼ばれる特別な柱がありましたが、〈大黒柱〉は象徴的な意味合いをもたせている柱に過ぎません。

 

それに比べると、〈丸太〉や〈梁・はり〉というものは、実質的に私たちが雨風をしのぎ、何があっても安心して暮らしていけるようにするための骨格です。人生の骨組みをなすものと言えます。

 

この〈譬え話〉を読む時、〈丸太〉や〈梁〉には、そのような意味が隠されていることを知りたいのです。

 

                    **************

 

パウロという人が回心し、キリスト教の伝道者として歩み出すその直前に、あるものが目から落ちた、と記録されています。

 

それは【うろこ】です。使徒言行録9章18節に【すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち】とあります。

 

正確には【うろこのようなもの】とあります。

 

人間の目にはうろこがあるはずがありません。

 

                    **************

 

では、【のようなもの】とは何だったのか。

 

英語の聖書では「うろこ」は「scales」が使われることがあります。「scales」にはもちろん「うろこ」の意味もありますが、それ以外に、「物差し・定規」という意味があります。

 

パウロは、彼のこれまでの「価値観」「人生の尺度」を神さまによって振るい落とされ、新しい人に変えられ、伝道者として用いられていったのです。

 

                    **************

 

イエスさまは【まず自分の目から丸太を取り除け】と語られますが、丸太を自力で動かすことなど、私たちはどう頑張っても出来ません。

 

唯一それが可能な道。それは、イエスさまによって〈丸太〉を取り去って頂く方法です。イエスさまが磔(はりつけ)にされた十字架を思い起こしましょう。

 

あの十字架は、私たちの目の中の〈丸太〉。

 

いえ、私たち罪人の人生の骨格をなしていた〈丸太〉であり〈梁・はり〉だったからです。end

 

 


2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪
2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪

         《  み言葉 余滴  》 97

      2017年4月2 主日礼拝からの"余滴" 

       『  ごめんね ユダ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 27章3節~5節
3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

 

北島三郎さんが歌った『帰ろかな』という歌があります。永六輔さん作詞、中村八大さん作曲です。久しぶりに聴いてみました。

 

昭和40年・1965年の歌ですから、私が幼稚園児の頃です。

 

そんな私ですら、「帰ろかな 帰るのよそうかな」の繰り返しの部分をハッキリ覚えています。

 

                    **************

 

イスカリオテのユダ。裏切り者の代名詞です。

 

この人さえいなければ、イエスさまのご受難の頂点、十字架の死はなかったのでしょうか。

 

私は、「ユダさん、あなたは確かにイエスを引き渡した張本人だよね。サタンがあなたに狙いを定めて入りこんだんだ。でも、でも、でもね、あんただけが悪者じゃないよ」と言いたくなってしまいます。

 

蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げて行ったほかの弟子たちはどうなのよ。奴らは何をしていたんだ、と思わないではいられません。

 

                    **************

 

パウロは〈神の家族〉という言葉を『エフェソの信徒への手紙』で語っています。

 

【あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり・・・そのかなめ石はキリスト・イエスご自身】(エフェソ書 2:19-20)

 

〈神の家族〉。教会生活を続ける私たちにとって鍵になる語の一つです。

 

                    **************

 

ユダの裏切りやイエスさまのご受難に直面した時、共に歩んできた弟子たちの心には、〈神の家族〉としての〈アイデンティティー〉は無かったのでしょうか。

 

〈アイデンティティー〉という言葉。

 

少しむつかしいですが、たとえば『新明解国語辞典』では、「自分という存在の独自性についての自覚」と説明されています。

 

                    **************

 

神に選ばれ、イエスさまに召し出され、世にはない特別な恵みとあわれみに生かされて来た弟子としての自覚はどこに?

 

助け合い、赦し合い、認め合いながら生きるのが主の僕だったのでは? と問いたくなります。

 

ユダは祭司長たちの処(ところ)ではなく、まず、労苦を共にしてきた〈神の家族〉である弟子たちの処(ところ)に戻ることは出来なかったのでしょうか。

 

                    **************

 

悲しいかな、弟子たちは世にある生身の人間でした。

 

彼らにはまだ〈神の家族〉の自覚を持てず、自分のことだけしか考えられなかった。取り返しの付かないことをしたユダが、帰る場所をつくり出せなかったのです。

 

**************

 

でも、そんな彼らが、主イエス・キリストの十字架と復活、そして約束の聖霊の出来事を経て、初めて「お帰り、ユダ」「つらかったな。本当にごめんな」と言える人に変えられて行く。

 

そこに〈神の家族〉は誕生するのです。

 

私たちも〈神の家族〉としてゆっくりと深まって行きたい。

 

そのためには、互いの弱さと罪人としての自覚、告白が求められるのです。end

 

 


2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。
2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。

        《  み言葉 余滴  》 93

     2017年3月5 主日礼拝からの"余滴" 

      『  誰がユダでないのか

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 ◎マタイによる福音書 26章20節~22節、25節
20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。・・・・・・25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 

幾つもの国語辞典で「裏切り者の意味の代名詞」とまで解説される人がイエスさまによって召し出された12人の弟子の中に居ました。

 

イスカリオテのユダです。

 

〈イスカリオテ〉は旧約聖書に3度出てくるケリヨトという地名と関係しているようです。〈ユダ〉という名前は聖書の中の中心的な民であるユダ族、そして、ユダヤ人とも深い繋がりがあります。皮肉なものです。

 

**************

 

ガリラヤで漁師をしていたペトロら4人や、徴税人だったマタイなどに比べると、イスカリオテのユダは、12人の中でも異質の人だったと想像できます。

 

ヨハネによる福音書12章6節では【彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた】とまで言われているのです。

 

会計係を仰せつかるという位に12弟子たちの中では信頼の厚い存在だった。

 

そのユダが、イエスを抹殺しようと策略を練っていた祭司長たちに対して、僅か銀貨30枚で掛け替えのないお方を売り渡すのです。サタンの働きです。魔がさすとはこのことでしょう。

 

**************

 

なるほど、裏切り者の代名詞、と言われるのも無理もないかも知れません。言い換えれば、罪人なのです。

 

更にユダの印象が悪いのは、彼の最期と無関係ではありません。マタイによる福音書では27章にこうあります。

 

【3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。】

 

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わたしは、イスカリオテのユダのことを、自分とは縁遠い人物とどうしても思えません。聖書の文面には出てこない、ユダにはユダの言い知れない悲しみがある。そう思えてならないからです。

 

ただ一点、ユダの悲劇と結び付くのではと感じるイエスさまの宣教の第一声があります。マタイ福音書4章17節です。主イエスは【悔い改めよ。天の国は近づいた】と言って、私たちも含むこの世への宣教を開始されました。


ユダに必要だったのは、単に「後悔する」ことではなく、「帰るべき場所に立ち帰ること=悔い改め」だったのです。

 

彼は帰る場所、方向を間違っていた。

 

わたしたちは本当に大丈夫でしょうか。end

 

 

 

 


2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。
2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。

        《  み言葉 余滴  》 80号

        2016年11月27 主日礼拝からの"余滴" 

      『 スキャンダラスな人々 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 1章1節~3節、6節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、・・・・・・6 エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、

 

新約聖書の冒頭にあるマタイによる福音書の系図。聖書を手にする多くの人が、なんてつまらない話だろう。読み飛ばしたいと思う箇所です。

 

「悪魔が、私たちに神の言葉を読ませないように、眠くならせるための仕業なんですよ」というジョークがある程です。

 

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イエスさまの生涯が描かれている4つの福音書の中でも、マタイ福音書は旧約聖書からの引用が飛び抜けて多いのです。ここには福音書記者マタイの明確な意図があります。

 

彼はある人々に狙いを定めてこの福音書を書き始めたのです。それは系図から話を始めるスタイルに慣れているユダヤの人々です。

 

「ほぅー、系図から始まるのか。こりゃ面白そうだ」と感じるタイプの人たちでした。

 

聖書の舞台であるユダヤの人たちは、自分たちこそ神に選ばれた特別な民なのだ、ということが系図で確認されると嬉しくなるのです。

 

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マタイによる福音書が読まれ始めた西暦70年~80年頃は、もちろん印刷技術などありません。聖書は朗読されるものでした。

 

やがてこの福音書も多くのユダヤ教徒の耳に届くようになります。

 

そこから、波紋が広がり始めるのです。波紋はすぐに大波に変わります。確かにこの系図には、イスラエルの民としての誇り高い歴史を築いて来た人々の名前もありますが、見過ごすことが出来ない人たちのことが含まれているからです。

 

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見過ごすことが出来ない人々とは、恥や破れをさらけ出した人たちのことです。ソロモン以降には、主の目に適(かな)わないことを繰り返したユダヤの王たちの名も続きます。

 

さらに、当時の常識では考えられないことですが、系図にはタマル、ラハブ、ルツなど女性の名があるのです。ダビデと姦淫の関係を持つバト・シェバのことも記録されています。

 

無名の人たちも、後半には多数記されています。もちろん、イエスの母となるマリアもです。

 

この系図に救い主であるイエスさまが繋がっている!躓(つまず)きに満ちたあの人この人。世にあって小さくされた人々が、イエス・キリストの先祖なのです。

 

しかしこのような系図は、選ばれた民としての誇り高きユダヤ人には、スキャンダルに満ちた価値のないものであり腹立たしいものでした。

 

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後ろ指を指されても仕方ない何かを抱えながら私たちは生きています。穴があっても隠れようがない、破れかぶれな過去や現在もあります。

 

そのことを神のみ前で正直に認めることが出来る時、マタイによる福音書1章の系図は、決して読み飛ばすことが出来ない宝物に変わり始めます。

 

だって、私たちの名前も行間から浮かび上がって来るのですから。end

 


2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場
2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場

           《  み言葉 余滴  》 73号

         2016年10月2 主日礼拝からの"余滴" 

         『   待ち続けた人 ラザロ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 11章43節~44節
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

ラザロの復活の物語。

 

ヨハネによる福音書のひとつのクライマックスを迎える場面です。

 

続く12章から、イエスさまはエルサレムに入場され、弟子たちの裏切り、裁判、十字架刑、そして復活と続くのです。

 

ラザロはエルサレムまで3㎞程のところにあるベタニアに暮らしていました。マルタとマリアという姉妹がいます。

 

ラザロの復活が語られる場面であるにもかかわらず、物語はマルタとマリア、そして弟子たち、さらには群衆を中心に展開します。

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イエスさまとラザロ、そしてその姉妹との関係について福音書記者ヨハネはこう伝えています。

 

【イエスは、マルタとその姉妹(=マリア)とラザロのことを愛しておられた】(11:5)。

 

【わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。】(11:12)。

 

主に〈愛され〉、〈友と呼ばれる〉親しい交わりの中にあることがハッキリと伝えられているのです。

 

ところが、イエスさまは【主よ、あなたの愛しておられる者(=ラザロ)が病気なのです】(11:3)と伝えられても直ぐに行動なさいません。その理由は不明です。

 

とにかく、神の時が来るまで待たせるのです。時間にして96時間。丸4日でした。

 

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聖書が伝えるラザロという人は、ひと言も口を開かない人です。

 

ラザロの役割は、徹頭徹尾、受け身です。彼は登場した時に、既に重病で床にあり、自分では何もできず、マルタとマリアの看護、あるいは介護を受けるだけでした。

 

死んでしまった後はなおさらです。布に包まれ葬られます。そしてラザロは、復活の時にも何も言葉を発しない。彼の体をグルグル巻きにしていた布をほどいたのも周囲の人たちでした。

 

つまりラザロは完全に受け身の人なのです。もっと言うならば、彼は受け身であるところから出発する以外にはない、無力な存在でした。

 

よくよく考えてみると、彼は信じて待ち続け、任せて委ねるしかないのです。

 

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自らの力や思いから弱さゆえに自由になり、イエスさまに信頼し、待ち続けるところから信仰を持つ人になった。

 

それがラザロでした。神さまはラザロのような存在を通して復活の出来事を起こされたのです。

 

これこそ神さまのご計画です。

 

わたしたちにもラザロに倣う道があります。力を抜いてラザロに学びましょう。

 

やがてラザロはイエスに敵対する人々から命をねらわれる程に、その存在を通して証しを始めるのです(12:10)。end