《  み言葉 余滴  》 礼拝説教の中の一滴をあなたへ


《み言葉"余滴"》は礼拝説教の要約ではありません。説教とは別の角度からの視点でお届けするみ言葉を読んで黙想するためのものです。語られた説教は、「礼拝音声メッセージブログ・西大寺の風」にお聴きになれます。お覚え下さい。古いものについては容量の都合で削除します。


2017年10月8日(日)の礼拝堂献花です。なんとも美しい。本格的な秋の始まりだなぁと感動です!
2017年10月8日(日)の礼拝堂献花です。なんとも美しい。本格的な秋の始まりだなぁと感動です!

          《  み言葉 余滴  》 124

      2017年10月8  主日礼拝からの"余滴" 

     『  神の秘儀によって 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 1章6節~9節 6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

 

ゴルゴタの丘の十字架の上で無残な死を遂げられたイエスさま。人々は「これですべてがおわった」と思ったはずです。

 

逃げ出した11人の弟子たちも「万事休す」と覚悟したのではないでしょうか。

 

一方、イエスさまに敵対していた人々は「一安心」と考えたのだろうと思います。

 

     **************

 

ところが、思いがけないことが展開し始めます。

 

まず第一に起こったのはイエスさまの復活でした。主イエスは死を打ち破り甦られます。

 

しかも、復活の主は「先生、それだけは、やめておいた方がよろしいのでは」と忠告したくなるようなことを、弟子たちに命じられたのです。

 

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かつては、腰巾着のようにイエスさまに張りついて過ごしていた弟子たち。「オレたちには、イエスさまという凄い親分が居られるんだぜ」というような顔をしていた弟子たち。

 

何とイエスさまは、弟子たちもびっくりの大胆なことを命じられたのです。イスカリオテのユダ亡き後の11人を〈使徒〉と認め、重要な使命のために遣わすというものです。

 

この世の言葉で言えば驚くべき大胆な〈人事案〉です。だって、彼らは裏切り者です。信用して大丈夫なのでしょうか。大事なことを託せる人たちでしょうか。

 

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使徒言行録1章8節には、今日に至るまでのキリスト教の歴史を決定づけるイエスさまの重要なお言葉があります。

 

それが【あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」でした。

 

イエスさまがこのお言葉を弟子たちに向けてハッキリと語られなかったら、日本はおろか、米国にも英国にもキリスト教会は生まれなかったのです。

 

大切なつとめを任ぜられた11人の弟子たち。一人前の〈使徒〉になったわけでもないのです。それなのに、イエスさまは彼らを用いられました。

 

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果たして、彼らに信仰があったのでしょうか。伝道者として用いられるに値する器だと言えるのでしょうか。

 

私は思います。弟子たちには、彼らがまだ自覚していない信仰の〈かけら〉があったのだと。彼らの信仰は、まだ〈断片〉に過ぎないほどのものだったはずです。

 

でも、イエスさまは、彼らの魂の奥深くに在る信仰の〈かけら〉に気付かせようとされた。ここには、神さまが聖霊降臨を通じてなさろうとしている〈神の秘儀〉があります。

 

思い巡らして見ましょう。『使徒言行録』の始まりにある希望の〈かけら〉は、私たちの生きる力だということを。未熟で不完全な〈使徒〉たちの新しい旅が始まろうとしています。end

 

 


2017年10月1日(日)は世界聖餐日でした。備前焼の作家である明美さんの作品にパンが置かれています。
2017年10月1日(日)は世界聖餐日でした。備前焼の作家である明美さんの作品にパンが置かれています。

          《  み言葉 余滴  》 123

      2017年10月1  主日礼拝からの"余滴" 

     『  愛されているのだから 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 22章1節~3節 1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

 

世の中、耳を疑うような知らせを受けることがあります。多くの場合は悪い知らせが届いた時に言うものであって、「娘が目標にしていた会社の内定を受け、耳を疑いました」というような使い方は稀です。

 

だいたいは、非常に大きな驚きを伴うものですし、その知らせが自分自身に関係することであるとしたら・・・・・・心穏やかではありません。

 

聞き違いではないかと思ったり、聞き違いであって欲しい、ということが多いものです。

 

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創世記12章から始まった「アブラハム物語」の終盤の頂点と言えるのが22章のこの箇所です。アブラハムが110歳位の頃と思われます。

 

75歳の時、神さまから召し出された時に聴いた【あなたは生まれ故郷父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい】(創世記12:1)というお言葉にも、彼は驚いたかも知れませんが、さらに驚くべきお言葉を耳にするのです。

 

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行け」というだけなら何でもありません。

 

神さまは「わたしが命じる山の一つに登り、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげよ」と言われたのです。

 

【神はアブラハムを試され】たのです。いいえ、神さまはアブラハムだけを試されるのではありません。ここに居る私たちも、時に神さまからの信仰のチャレンジ=試練を受けることがあります。思い巡らしてみましょう。

 

                    **************

 

アブラハムはどうしたのかが気になります。のちの時代に「信仰の父」「全ての人の父」と呼ばれるようになるアブラハムです。

 

新約聖書のヤコブの手紙の2章21節以下に、アブラハムの信仰がこう表現されます。

 

【21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された・・・】

 

アブラハムは、もっとも大切な跡取り息子のイサクを自らの手から手放すのです。イサクは全世界の祝福の基として子孫を増やしていくべき存在です。

 

その独り子を、「行って、こうしなさい」と命じられた山の上で、アブラハムが覚悟を決めて屠ろうとしたその時に、身代わりの雄羊が姿を現しました。

 

                    **************

 

神さまからのチャレンジを受けたアブラハム。

 

彼は黙して従いました。アブラハムは昔のアブラハムではありません。そのことを神さまは〈よし〉とされました。それは「義(よし)」であり、「善(よ)し」でもあり、さらには「吉(よし)」でした。そして「very good(よし)」だったのです。

 

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口数ばかり多い自分に気が付くことがあります。つぶやきも、ため息も多い私たちです。

 

だからこそ、アブラハムの姿勢から学び直しましょう。

 

神さまの呼びかけに対して「はい、ここにおります」と逃げないで応えたい。

 

神さまはご計画をお持ちです。あなたを必要として居られるのです。end

 

 


2017年9月24日(日)の献花 備前焼きの花器に、白色、ほのかなピンク色が美しいです。雅代さんのご奉仕に感謝。
2017年9月24日(日)の献花 備前焼きの花器に、白色、ほのかなピンク色が美しいです。雅代さんのご奉仕に感謝。

          《  み言葉 余滴  》 122

       2017年9月24  主日礼拝からの"余滴" 

     『  分かってない〈わたし〉を 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 18章23節~27節 

23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。・・・・・26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 

借りたものは返す。それが世の常識です。親からも、学校の先生からも、当たり前のこととして教えられました。

 

ところが、聖書の教えは何だか変です。【一万タラントン】という大変な額の借金が免除される、というのです。この額、他の聖書では「1兆円」(本多哲郎神父訳・新世社)と訳すものもあるほどです。

 

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イエスさまが語られたこの譬え話。私たちが読む新共同訳の小見出しは「仲間をゆるさない家来のたとえ」となっています。

 

でも、フランシスコ会訳聖書では、たったひと言「赦し」という小見出しなのです。私はこの小見出しの方が適切だと思います。

 

何しろ、この譬え話が語られ始めるきっかけは、筆頭の弟子であるペトロがイエスさまのところにやって来て【主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか】と先ず尋ねるところからでした。

 

つまり、ここでの本題は〈赦し〉の問題なのです。

 

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ここで【借金】と約されている言葉。訳し方によって印象が随分変わります。

 

マタイによる福音書で【借金】と訳されたのと同じ言葉が最初に出てくるのは、イエスさまが「主の祈り」を教えて下さった場面です。

 

6章12節に【わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように】とあります。

 

【借金】は【負い目】と訳されています。

 

更に同じ言葉が、かつて慣れ親しんだ口語訳聖書では【わたしたちの負債をおゆるしください】となっています。

 

極めつけは塚本虎二先生の訳語です。【罪をゆるしてください】となっています。実に興味深いことです。

 

     **************

 

最も重大な問題。

 

それは〈主君〉の姿で登場している〈神〉による「罪の赦し」です。計り知れないほど膨大な「罪」を背負っていた人が〈無償=ただ〉で赦されている。

 

天の国では、そのような思いがけない事態が生じるのです。

 

                    **************

 

私は思います。

 

借金を免除されたこの人は、〈自分のことが分かってい口から出任せを言うそぶりなど、これっぽっちもありません。ない人〉だったということを。

 

しかもこの人は、罪の大きさが1兆円という膨大な借金で表現されているのに、待ってくれるなら、【全部お返しします】と語っています。口から出任せを言うそぶりなど、これっぽっちもありません。

 

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不思議なことに神さまは分かっていない罪人を憐れまれます。

 

それにとどまらず、罪を帳消しにすると教えて下さるのです。世にも不思議なこの赦しの愛は、キリストの十字架と復活を抜きにしては理解できません。

 

今、私たちの生き方が問われています。み恵みを受けた人として、長い眠りからそろそろ目覚めるようにと。

 

だから、『わかってない〈わたし〉』も、赦しと復活の命を生き始めるのです。end

 


2017年9月18日(月・休日)親しい交わりがあり、森牧師が礼拝応援に定期的に伺う十文字平和教会での野外バーベキュー開始の挨拶場面。
2017年9月18日(月・休日)親しい交わりがあり、森牧師が礼拝応援に定期的に伺う十文字平和教会での野外バーベキュー開始の挨拶場面。

          《  み言葉 余滴  》 121

       2017年9月17  主日礼拝からの"余滴" 

       『  罪人の烙印 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 18章15節~17節

15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 

30年近く前、私が神学校で卒論のテーマに選んだのは「パウロの教会論 ―キリストの体―」をめぐるものでした。

 

当時の私にとって〈教会〉の存在は、〈み言葉〉そのものよりも大きな意味があるもので、教会の現場に出る前に、一度はじっくり考えてみたい。そう思っていました。

 

マタイによる福音書を書いたマタイという人は、〈教会〉について深く考えていた人のようです。実は、新約聖書の中に4つある福音書の中で、〈教会〉という言葉を明確に書き記しているのはマタイだけなのです。

 

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イエスさまがここで語られた、【17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】というお言葉。

 

かなり長い間、私にとって躓き(つまずき)となるみ言葉でした。

 

心からの忠告を受けたにもかかわらず、その言葉を受け容れようとしない人に対してのイエスさまの態度。

 

ずいぶん冷たいじゃないか。そんな風に感じていたのです。何度読んでも、最後通告のようにしか聴き取れません。説教するときには深入りせず、見て見ぬ振りをして通り過ぎる箇所でした。

 

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使徒パウロが〈教会〉とはどういうところなのかを語っている手紙のひとつ『エフェソの信徒への手紙』があります。

 

4章では「キリストの体」である〈教会〉がどのように立ち上げられて行くべきかが記されます。

 

私の特愛の箇所である4章15節にこうあります。【むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。】と。

 

自分もこのみ言葉のように生きる者になりたい。そう願い、微力ながら努力もしてきたました。けれどもムツカシイのです。

 

でも、ただ一人のお方、主イエス・キリストこそが「愛に根ざして真理を語る」ことが出来るお方なのだと気付いた時に、私は少し安心しました。

 

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福音書記者マタイが紹介するイエスさまのお言葉。【それでも聞き入れなければ、・・・・・・その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】。

 

このお言葉。言う事を聞かない者は罪人と定めなさい、という内容です。果たしてこのお言葉のどこに福音があるのでしょうか。

 

       **************

 

ハッとしたのは正にこの箇所です。

 

間違いなくここには、イエスさまの「愛に根ざして真理を語る」お姿があります。

 

なぜそう言えるのか。救いを必要とするのは《罪人》以外にないからです。イエスさまは「私は罪人の頭です」と認めることが出来ない私たちのために罪人の烙印を押して下さるのです。

 

ここには、思いも寄らぬ逆説の愛、罪人であることを喜べる〈教会〉の不思議があります。神がみ子イエス・キリストを世に遣わされたのは、み子によって私たちが救われるためだからです。end

 

 


2017年9月10日(日)は恵老祝福礼拝でした。礼拝後、80歳以上の方々で礼拝に出席された皆さんと記念撮影です。
2017年9月10日(日)は恵老祝福礼拝でした。礼拝後、80歳以上の方々で礼拝に出席された皆さんと記念撮影です。

          《  み言葉 余滴  》 120

       2017年9月10  主日礼拝からの"余滴" 

     『  彼女は井戸を見つけた 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 21章17節~19節 17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。

 

ハガル。彼女は族長アブラハムの側女(そばめ)でした。

 

ハガルという名前の語源には「捨てる、退く、移住する」という意味があります。彼女の人生に不思議と重なってくる名前なのです。

 

もともとハガルは、エジプト出身の女で、アブラハムの妻サラに仕える女奴隷でした。子どもが与えられなかった女主人サラの命令で、アブラハムの二番目の妻になった人です。

 

程なく、サラの希望通りハガルは子を宿しました。

 

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女主人サラは、ハガルが夫アブラハムの子を宿すと同時にハガルに辛くあたり始めます。

 

いじめでした。耐えきれなくなったハガルは、お腹の中の子どもと共に死を覚悟し、荒野に逃げ出したのです。

 

ところが、故郷のエジプトに向かう街道沿いの泉に身を置いていたハガルは、「女主人の元へ帰り仕えなさい」という主のみ使いの声を聴くのです。

 

ハガルはその声に従い子どもを産みます。その子がイシュマエルでした。

 

      **************

 

時が流れました。

 

石女(うまずめ)だったアブラハムとサラの間に「イサク」が生まれます。

 

しかし、イサクの誕生によって、女奴隷ハガルとイシュマエルは、サラにとって再び邪魔な存在となりました。

 

居場所を失った結果、ハガルとイシュマエルは、荒れ野をさまよいます。程なく革袋の水も尽きたハガルは、死に瀕した息子を木の木陰に休ませました。

 

自らの死も覚悟していたハガルでしたが、それ以上に、我が子が目の前で死んでいくのを見ることができません。彼女は息子を置いて逃げ出します。

 

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不思議なことがここでも起こります。

 

人生の行き詰まりは神さまの出番です。神さまは再びみ使いを通して、荒れ野で涙を流していたハガルに対して語るのです。「立ち上がれ、そして、あの子を腕に抱きなさい」と。

 

み声を聴いたハガルに変化が起こります。目が開かれたのです。

 

そして、その目に見出したのが〈井戸〉でした。ハガルは立ち上がり、行って革袋に水を満たし、息子に飲ませたのです。二人は救われました。

 

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息子を潅木(かんぼく)の元に置き去りにした時点で、ハガルは逃げ出した人でした。ところが、神さまはそれをゆるさず連れ戻されました。

 

神さまはハガルに対して、「あそこに井戸がある」とは言われません。

 

語りかけ、目を開いて下さっただけです。

 

生けるいのちの水が湧きでる井戸がすぐそこにあるのを見つけたのは、ハガルが神の声を聴き、従ったからです。

 

      **************

 

私たちも生ける水の湧き出る井戸を見いだす旅を始めましょう。

 

たとえ苦難の中、絶望のただ中であっても、み声に聴き従う。それこそが信仰です。end

 

 


2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。
2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。

          《  み言葉 余滴  》 119

       2017年9月3  主日礼拝からの"余滴" 

     『  毒麦も大切な理由(わけ) 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 13章28節~30節 
28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 

 

芸能界には〈毒舌タレント〉と呼ばれる方たちがいます。最近ではマツコ・デラックスさん、松本人志さんなどがそうかも知れません。

 

番組を見ている人たちが、「いやぁねぇ」「まったく」等と思いながらも、彼らの〈毒舌〉は“視聴者が言いたいことをズバリ言ってくれる”から人気なのです。

 

でも、少なくともわたしは、彼らの言葉に隠された愛を感じます。

 

                    **************

 

イエスさまはここで「毒麦」の譬えを語られます。

 

譬え話とはいえ〈毒〉が出てくるなんて穏やかではありません。「毒水」「毒米」だったら少しは緊張するかも知れません。

 

イエスさまのお言葉それ自体に〈毒〉はなく、むしろ〈毒〉に触れつつ、おわりまでの愛を語ろうとされるのです。

 

聖書の中で「毒麦」はサタン=悪魔の働きによるもの。反対に「良い麦」はイエスさまが蒔かれた種から育ったものとして読むべきものです。

 

                    **************

 

実は、わたしたちキリスト者も、時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。

 

神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

イエスさまによる「毒麦」の譬え話とは、そのような〈この世〉の実情が前提になって語られる〈天の国〉の譬え話であることを心にとめましょう。

 

肉の思いに満ちた〈この世〉と、イエスさまが指し示したいと願っておられる〈天の国〉とは違うのです。

 

ですから、ここで示される譬えの真理というものは、世間一般に通用する倫理的な教えではありません。

 

                    **************

 

わたしたちは「善は急げ」という言葉を知っています。

 

「よいことをするのに躊躇するな、機会を逃さず直ちに実行すべし」ということです。いかがでしょう。

 

「善は急げ」に反対する方は稀ではないでしょうか。

 

譬え話の中の僕(しもべ)たちも「善は急げ」と考え、直ぐに行動に移そうとします。

 

【行って毒麦を抜き集めておきましょうか】と。しかし主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。

 

                    **************

 

人が生きて行く途上で起こる〈人生=畑〉での難題、課題というもの。

 

その根の深さに驚くことがあります。実に複雑に絡み合っています。表面的なことだけを片付けても、根本的な解決策にならないことばかりです。

 

イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。

 

なぜなら、わたしたちが育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が絡みついているからです。

 

       **************

 

ここでの良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていことを認めざるをえません。

 

だからこそイエスさまは仰います。

 

「あなたが慌てて解決しようとするのではなく、信じる者として、わたしにさいごまで任せよ」と。

 

謙遜と柔和、悔い改めの心をもって、その時に備える生き方を始めましょう。明日からでありません。

 

今、直ぐにです。end

 

 


2017年8月27日(日) 礼拝後、メロディーベルのお稽古を見ていたら、静かにたたずんでいるオルガンが美しくそこに居ました。時にはこんな一枚も。
2017年8月27日(日) 礼拝後、メロディーベルのお稽古を見ていたら、静かにたたずんでいるオルガンが美しくそこに居ました。時にはこんな一枚も。

          《  み言葉 余滴  》 118

       2017年8月27  主日礼拝からの"余滴" 

     『  キリスト者の焼き印 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ガラテヤの信徒への手紙 6章15節~17節 
15 ・・・・・・ 大切なのは、新しく創造されることです。16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 

 

九州・博多には、肉も魚も野菜もこれ一本で大丈夫という〈博多包丁〉があります。

 

先端がかなり鋭角に尖った三角形をしている無骨な包丁。使い込んだ〈博多包丁〉は短くなるまで研いで使える優れものです。

 

島根県・安来(やすぎ)産の鉄を打っては焼き、打っては焼いて包丁の形にたたき伸ばし、最後は柄の部分に、太く堂々と刻まれた〈博多包丁〉と〈四菱〉の「焼き印」が押されて出来上がり。

 

「焼き印」というもの。名刀や木工製品などにも押されているのは、皆さんご存じの通りです。

 

                    **************

 

パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」と語ります。彼は信仰者に押されるべき「焼き印」があると言うのです。

 

第2コリント書11章には「使徒としてのパウロの苦労」(聖書・新共同訳の小見出し)の記事があります。そこから想像するならば、パウロの体には鞭打たれた傷や、石を投げつけられた傷があったと思われます。

 

パウロの体に目に見えるような「イエスの焼き印」が本当に押されていたのか、と言えば決してそんなことはなかったはずです。

 

でも、パウロは「イエスの焼き印を身に受けている」と強く語らざるを得なかったのです。

 

                    **************

 

ここでパウロが語る「イエスの焼き印」というのは、自分は逃げも隠れもしないキリストの僕だ、という宣言です。わたしたちは「イエスの焼き印」を押されている、という自覚をもつことがあったでしょうか。

 

わたし自身のことを考えました。

 

神学校への入学、つまり、献身を志した時に、「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒言行録20章24節)の決心をし、み言葉を生きて来たつもりです。

 

しかし正直に申し上げるならば、「イエスの焼き印」を押されているという信仰の自覚が足りませんでした。

 

                    **************

 

ガラテヤの人々に向けた手紙の最後でパウロはイエスさまの〈十字架〉を語ります。

 

「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」(6章14節)と。

 

パウロがどんな時にも消してはならない印として一生涯身に帯びて生きていくという覚悟をもったのは、救い主イエス・キリストの十字架なのです。

 

それを彼は「イエスの焼き印」という言葉に力を込めて記しました。

 

       **************

 

わたしたちも「イエスの焼き印」を身に帯びている者であるはずです。

 

信仰をもってこの世に遣わされ生きる者として、「イエスの焼き印」に対する自覚、すなわち、十字架の福音を証しする人生は実に意義深いものです。

 

目には見えないけれど、確かに押されている「イエスの焼き印」を身に帯びる者として目覚めを促されています。

 

急場しのぎの〈付け焼き刃〉とは違う覚悟をもって、新しく創造された人生を歩み始める。今がその時です。end

 

 


2017年8月20日(日)の献花 雅代姉が祈りつつ 夏から秋への季節の変化を届けてくれています。虫の音が聞こえて来ませんか?
2017年8月20日(日)の献花 雅代姉が祈りつつ 夏から秋への季節の変化を届けてくれています。虫の音が聞こえて来ませんか?

          《  み言葉 余滴  》 117

       2017年8月20  主日礼拝からの"余滴" 

   『 〈コンパッシヨン〉そして〈ミッション〉 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 9章35節~38節 35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

ここで特に心をとめたいのは「憐れまれた」と記されているイエスさまの〈心情〉です。

 

〈心情〉は『新明解国語辞典』(第七版)によればこう解説されます。

 

「人が何か出来事にあった時に起こる喜怒哀楽の情が、まだ言葉になって表出されていないもの。特に、抑えきれない悲しみや苦しみなど。ある人の心中の葛藤に対し、他の人が同情・共感・理解する場面で使われることが多い。」

 

と。

 

                    **************

 

上と同じマタイによる福音書9章36節を、原文に忠実に訳すことよりも、読みやすさ理解のしやすさを大切にする『リビングバイブル』は次のように訳します。

 

わたしは名訳だと思っています。

 

「・・・ご自分のところにやって来る群衆をごらんになって、イエスの心は深く痛みました。彼らは、抱えている問題が非常に大きいのに、どうしたらよいか、どこへ助けを求めたら良いかわからないのです。ちょうど、羊飼いのいない羊のようでした。」

 

                    **************

 

ルカによる福音書6章36節に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。

 

イエスさまは、わたしたちにご自身の心を自分の心として生きる生き方を願われます。

 

福音書記者マタイもルカと同様、それに気が付いていました。

 

だから12人の弟子たちをお立てになり、苦悩も経験するであろう宣教の旅の始まりの前に、どうしても、イエスさまの〈心情〉を伝えたかったのです。

 

                    **************

 

わたしたち「皆さんの声をお聴かせ下さい」と案内を聞くことがあります。最近では、テレビやラジオの生番組の中で、「ツイッターでの投稿お願いします」とか、「テレビのリモコン操作であなたのお声が届きます」という場合すらあります。今、即時に声を聞きたいというのです。

 

わたしも、牧師として仕える日々の中で、〈声を聴かせてほしい〉と思うことがあります。感じていることを、魂の叫びを聴かせてほしいと感じることがあります。

 

しかし、そう簡単には人の思いを聴き受けることは出来ません。

 

       **************

 

人間というもの。抱えている〈心情〉を直ちに表現することが出来ないことの方が多いものです。

 

イエスさまは、言葉に出来ない切なる祈りを抱えている人の心を、その人の存在を、まるごと受けとめることが出来るお方でした。

 

そのことが、「憐れまれた」という言葉によって表現されています。

 

                    **************

 

ペルーの民衆と共に聖書を読み、人々の救いのために生涯を賭けたグスダボ・グティエレスという神父さまが居られます。

 

グティエレス神父さまは「憐れみ」を「コンパシオン」(ペルー語)と表現しました。

 

「コンパシオンはただ気の毒に思うことではない。…それは、わかちあうこと、他者の苦しみと切望を、自分の苦しみと切望にすること。共に苦しむことは、ひとつになって生きることである」(『み国のわかちあい』より・一部もりが意訳)。

 

共に黙想してみましょう、わたしたちが生涯を賭けられるミッション(宣教・伝道・使命)について。end

 

 


2017年8月13日(日)主日礼拝にて 神戸からの里帰りのご家族と最年少のぼく スクリーンに写し出される出エジプトの紅海の奇跡の紙芝居に身を乗り出した
2017年8月13日(日)主日礼拝にて 神戸からの里帰りのご家族と最年少のぼく スクリーンに写し出される出エジプトの紅海の奇跡の紙芝居に身を乗り出した

          《  み言葉 余滴  》 116

       2017年8月13  主日礼拝からの"余滴" 

    『  信仰のないわたしを ロトの場合 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 19章16節~18節

16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」18 ロトは言った。「主よ、できません。・・・・・・

 

愛読書のひとつに『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(千代崎秀雄)があります。

 

「アブラハム」「メルキゼデク」「サラ」「ハガル」の次に、創世記19章でスポットライトがあたる「ロト」が登場します。一部をご紹介します。

 

【ロトはソドムの町の豊かさに魅かれて、罪深い町と知りつつ、あえてその近くに天幕を張り、・・・その後もソドムに住み続けて、19章の出来事の頃には町の門に座るほどの有力者になっていた。】

**************

 

当時のロトは、もはや若者ではありません。

 

ソドムの滅亡後、二人の娘と山の中に暮らしていた頃には、長女が「父も年老いてきました・・・」というような言葉を口にするような年代に入っているのです。

 

よそ者ではあったけれども、様々な努力を続け、おそらくソドムの長老格として認められるような立場になって町の門に座っていたロト。果たして、神さまを信じる人としての、信仰の深まり具合はどうだったのでしょうか。

 

**************

 

旅人の姿をした二人のみ使いがやって来てロトに告げたのは、神さまによる裁きがソドムに襲いかかる、という恐ろしい内容でした。

 

しかし、知らせを受けた直後にとったロトの態度はチグハグでした。

 

娘の婿たちに対しては「さあ早くここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされる」と促します。

 

しかし、主からロトに対して語られた「命がけで逃れよ」「後ろを振り返るな」「山へ逃げよ」というお言葉に対しては、「主よ、できません」と言ってしまうのです。

 

そもそもロトは「ためらって」いました。

 

この場面で露わになっていることがあります。それは信じきれていないロトの姿です。肝心なときに、主のお言葉どおりに従えない人間の弱さです。

 

**************

 

あー、ロトは何と愚かしく情けない人間なのか。これ程まで神さまがあなたを心に留めて下さっているのに。

 

少なくとも我々は、ロトのような人にだけはならないようにしましょう、という教訓が創世記19章の主題でしょうか。

 

私は違うと思います。

 

ロトは私自身であり、あなたではないか。胸に手を当てて、目を閉じて沈黙し、考えてご覧なさい。そう言われているのです。

 

*************

 

実は、ロトの不信仰以上に浮き彫りになっていることがあります。

 

それは、〈ためらい〉〈できません〉と言ってしまうロトを、深い憐れみをもって導き出そうとしておられる、微動だにしない主の愛に他なりません。

 

堅い信仰を持つ自分を誇ることよりもたいせつなことがあります。

 

それは、「できません。どうかこのような私を、憐れみ=愛をもってお支え下さい」と認めることです。この告白が出来るとほんとうに楽になります。

 

「主よ憐れみたまえ」と祈る時にこそ、主が弱く愚かな私と共に居られ、祈り支えて下さっていることに気付かされる恵みの時となるはずです。end

 

 


2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで
2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで

          《  み言葉 余滴  》 115

       2017年8月6  主日礼拝からの"余滴" 

    『  立ち上がって従った人 マタイ 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 9章1節~2節、13節後半
9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。13・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 

人間、複雑な存在だなぁと思うことがあります。いろいろとややこしいのです。

 

好きなのに嫌い、嫌いなのに好き、ということだってあります。最近、「面従腹背」という言葉を語った、元・高級官僚も居られました。

 

その一方で、誰しも不思議なほど単純な心をもっているのも事実です。あれやこれや気を遣っていたのが馬鹿みたいだった、ということが起こります。

 

ここに登場する、徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。

 

                    **************

 

世の中に溢れているものがります。新聞にも様々な〈声〉があります。テレビやラジオからも様々な〈声〉が聞こえて来ます。今ではインターネットの時代になって、興味あることを調べようとすると、それはそれは驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

しかし、わたしたちに必要なのは〈情報〉ではありません。真実な人生を生きていくために、クリスチャンが大切にすべきは、ただひと言の、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉なのだと示されています。

 

                    **************

 

マタイによる福音書の著者マタイは、ここで、立ち上がってイエスさまに従った人ではないか、と言われることがあります。そうかも知れません。もしも違っていたとしても、それでも構いません。

 

わたしたちは、今、これからを、果たして誰の〈言葉〉に従って生きて行こうとしているのかが〈み言葉〉から問われます。

 

     **************

 

徴税人マタイは、イエスさまのことについて多少の〈情報〉はもっていたかも知れません。けれども、知り尽くしていたわけでも何でもないのです。

 

しかし、マタイはこの呼びかけの〈お言葉〉が真実なものだ、と直感しました。

 

そして程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、彼の心は熱くなったはずです。人知れず涙したかも知れません。

 

「イエスさま、あなたの仰る通り、わたしは罪深いものです」とこれまた正直に認めることが出来たのです。

 

                    **************

 

罪の問題はわたしたちの人生のもっとも解決のむつかしい課題です。

 

しかし、聖書はわたしたちに告げています。イエスさまは、あなたの人生のいっさいを新しくして下さるお方なのですよ、全てを委ねて、決して後悔することなどないお方ですよ、と。

 

ここに福音があります。

 

もう、これ以上迷ったり、他のどこかに捜し求める必要もありません。ただ〈ひと言〉を語って下さるお方が、このわたしのために呼びかけて下さっている、と信じて立ち上がりましょう。そして、従うのです。

 

わたしたちは、決して後悔することのない人生を歩み通せます。end
 


2017年7月30日(日)7月の最終日曜日 雅代さんのご奉仕による献花 格調高いなと思います
2017年7月30日(日)7月の最終日曜日 雅代さんのご奉仕による献花 格調高いなと思います

          《  み言葉 余滴  》 114

       2017年7月30  主日礼拝からの"余滴" 

          『  愛ゆえに重荷を 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~2節
6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 

わたくし、結婚式場やホテルでの結婚式の司式の仕事をたいへん数多くさせて頂いて来た者です。

大変でしたが、光栄なことでもあります。そして鍛えられました。その数、千組を超えると思います。

実際のお式の時には、ご家族や来賓の方々も〈結婚式〉という名の〈礼拝〉にお出でになるのですから、結婚式の日の夜、食卓でお式のメッセージが話題になるようなことを語りたいなぁ、と願っていたものです。

      **************

つも、どんなお話をしようかと、少しの緊張と共に楽しみに考えていました。

そして、時に「愛」という文字の成り立ちについて、自分流にたどり着いた解釈を語ることがありました。

まず「〈愛〉という文字が二つの漢字に見える」と語るのです。「一つは、〈愛〉の真ん中に〈心〉という字がありますね」とお話します。

続いて、「〈心〉を包んでいる文字があるはずです。それは、〈受ける〉という字です。

つまり〈愛する〉ということは、共に生きていこうとするその人の〈心=存在〉を〈そのまんまに受けとめる、包み込む〉ということなのです」と展開して行くのです。

      **************

イエスさまは、「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか」という問いに対して、二つの掟が大切だとして、こうお答えになります。

ここではマルコ福音書12章29節以下のお言葉を引用します。

第一の掟についてはこうお答えになります。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と。そして、第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい」と言われるのです。

第一の掟、第二の掟に共通することがあります。

二つとも【愛】に触れられていることです。

      **************

パウロという偉大な伝道者がガラテヤの教会の人々に向けて語ったこと。それは、わたし流に申し上げるならば、「人を愛するとはどういうことなのか」ということだと受けとめました。

わたしたち「こういう態度って悲しいなぁ、寂しいよなぁ」と直感することがあります。それは、自分の存在が〈軽く〉扱われていると感じる瞬間です。

しかしパウロは、愛するということを、頭で理解するのではなく、実際に行動しながら、生きて行く中で実践してほしいと願うのです。それが「互いに重荷を負い合いなさい」という勧めでした。

      **************

【互いに重荷を担い】合うこと。それは愛する人の確かな〈重み〉を感じながら、どんな苦労があろうとも、共に歩んで行くことではないでしょうか。

【わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している】(イザヤ書43:4・新改訳)というイザヤの預言は主イエスを通して成就しました。

私たちも、愛する者の重荷を尊びながら担うよう促されています。end

 

 

 


2017年7月23日(日)のファミリー礼拝でのひとこま 5つのパンをイエスさまが祝して割いて という場面を紙芝居と共に実演
2017年7月23日(日)のファミリー礼拝でのひとこま 5つのパンをイエスさまが祝して割いて という場面を紙芝居と共に実演

          《  み言葉 余滴  》 113

       2017年7月23  主日礼拝からの"余滴" 

        『  尽きぬパンの出どころ 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)


 ◎ヨハネによる福音書 6章8節~11節a
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。

 

旭東教会の近くにあるスーパーのレジ近くに〈アンパンマン〉関連のドリンクの自動販売機があります。近くを通ると何やら歌が始まったり、お誘いの声が聞こえますのでいつも気になります。

 

〈アンパンマン〉の作者〈やなせたかしさん〉は相当骨のあるクリスチャンでした。やなせさんが69歳の時、1988年からTVのアニメで大人気になった〈アンパンマン〉ですが、実はそのモデルはイエス・キリストなのです。

 

〈バイキンマン〉を「あんパーンチ」と言いながらやっつける場面等が知られています。

 

も、原作では、〈アンパンマン〉は悲しんでいる人、苦しんでいる人、涙している人を見つけると、自分の顔をちぎって差し出すのです。

 

「さぁ、僕の顔をお食べ、元気出して」と。

 

**************

 

男の数だけでも5000人という給食の奇跡の場面として知られるお話。

 

イエスさまの元に人々が押し寄せる切っ掛けとなったのは、【大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである】(ヨハネ福音書6:2)と記録されています。

 

イエスさまの元に集まって来たのは、いつも満腹するまで食べることが出来たり、健康で心配事もない、という人たちではありません。

 

悩みに押し潰され、食べることにも事欠いている状況の人たちが押し寄せて来たのです。

 

**************

 

多くの人々に笑顔が広がり、お腹も心も満腹し、安心して家路に就く切っ掛けをつくったのは何によってだったのか。それは数にも入らない、一人の〈ちいさな少年〉が差し出した「5つのパンと2匹の魚」でした。

 

5000人を遥かに越える人々が、苛立ちや不安を抱えていました。お腹を空かしているときにイエスさまの前に届けられたものは、「たったこれぽっちのパンと魚で、一体、何の足しになるの!」と考えるのが世の常識です。

 

ところがイエスさまは、少年からのパンを祝福して祈り、ちぎって分け始めたときに、神のみ業が起こりました。配

 

られたパンによって、みんなが満腹したのです。人々はこの出来事を生涯忘れることがなかったはずです。

 

**************

 

イエスは永遠に渇くことのない〈水〉を求める者に私の元に来なさいと言われます。(ヨハネ福音書4章 サマリアの女の物語)

 

また、朽ちることのない永遠の命に至る〈パン〉を求める者に、「私が命のパン。私の元に来る者は決して飢えず、私を信じる者は決して渇かない」(ヨハネ福音書6:26~27)ことを教えようとされました。

 

**************

 

なぜ、命のパンは分けてもわけても尽きないのか。

 

なぜ、イエスさまがちぎり分けて下さったパンによって、人は、心も体も満たされるのでしょう。

 

実に、イエスさまはここで、ご自身の命を、生きていくための命の言葉を、すべての人に分けてあげようとされたのです。私から受けよと言われている。

 

神のみ子のみ体は十字架の上で、切り刻まれることになります。

 

さあ、共に生きよう。

主は飢えた者に

その身をパンとして

与えてくださる。

アーメン

『讃美歌21-419 4節より』

 

ともに歌い、祈りましょう。end

 

 

 


2017年7月16日(日)の礼拝報告時、ご覧のポスターをもとに、楽しみな会のご案内がありました。素敵なポスターが出来上がってます。説明中の寿子さんが挑戦してくれました(^^♪
2017年7月16日(日)の礼拝報告時、ご覧のポスターをもとに、楽しみな会のご案内がありました。素敵なポスターが出来上がってます。説明中の寿子さんが挑戦してくれました(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 112

       2017年7月16  主日礼拝からの"余滴" 

        『  わたしを執り成してくれる人  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 18章27節、32節~33節
27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。・・・・32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

 

手元の大きな国語辞典(『精選版 日本国語大辞典 』・小学館)で〈執り成し」について引いてみました。

 

5項目にわたって記されていますが、5番目にこうあります。【特に、キリスト教で、他者のために神に対して懇願したり許しを求めたりすること。また、その祈り。】と。

 

つまり、キリスト教信仰をもって生きようとする者にとって、欠かすことの出来ない「つとめ」が〈執り成し〉だと考えられているのです。

 

                    **************

 

創世記18章の後半で〈執り成し〉をしている人、それはアブラハムです。甥っ子のロトがその家族と共に暮らしているソドムが、主によって裁かれ、滅ぼされることになりそうだということに気付いたアブラハム。

 

彼がその時に主のみ前で始めたのが〈執り成し〉の祈りと言われるものだったのです。

 

       **************

 

我々、しつこい人はあまり好まないものです。

 

しかし、ここでのアブラハム。主に対して執拗(しつよう)に迫ります。「義人が50人居れば」から始まり、「義人は10人しかいないかも知れませんが」という所にまで至ったのです。

 

ところが、アブラハムの〈執り成し〉の祈りは失敗に終わるのです。

 

決して良い結果を生み出してはいない。それは創世記19章において、ソドムが硫黄(いおう)の火に呑み込まれて行く場面から分かります。

 

ソドムに義人は一人も居なかった(ローマ書3:10参照)。アブラハムの執り成しでは、とても足りない不義がソドムには蔓延していたのです。

 

                    **************

 

我々は立ち止まって考える必要があります。ソドムとは一体何か。我々とは無縁の地、遠い過去の事だろうか。私たちはどうすべきなのかと。

 

ラジオでニュースを聴いていても、酷い話、聴かなければよかったなと思うこが耳に飛び込んで来ます。このままで本当に良いのか、と絶望しそうになることが続く。ため息をつき、あんまりじゃないか、と考えてしまうのです。

 

こういうことは、今の時代だけなのでしょうか。

 

だからといって、耳を塞ぎ、目を背けているだけでは、人として、クリスチャンとして無責任ではないか、と悩むのです。

 

                    **************

 

イエスさまは【あなた方は地の塩・世の光である】(マタイ5章)と語って下さいました。

 

私たちは足りない者なのに、承知して居られるはずなのに、そう言い切って下さるのです。

 

アブラハムに必要だったのは、彼のために〈執り成してくれる〉一人の人の存在でした。アブラハムも誰かに見えない所で祈って貰う必要がある。突き詰めて言うならば、彼にもイエスさまの〈執り成し〉が必要だったのです。

 

     **************

 

不十分な祈りしか出来ないのが私たちです。まずそれを認めましょう。

 

でも、それでも大丈夫。イエスさまが共に居られます。十字架と復活のイエスさまに祈って頂くのです。

 

今もこれからもずっと、力みを捨て、委ねて祈って頂く。キリスト者の安心の源がここにあります。end

 

 


2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。
2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。

          《  み言葉 余滴  》 111

       2017年7月9  主日礼拝からの"余滴" 

        『  丸太はどこへ行ったのか  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 6章41節~42節前半
41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

 

私が二歳の頃から小学校6年生の頃まで「わが家」として暮らしていた家は、〈梁・はり〉がむき出しの〈納屋〉を改造したものでした。

 

『新明解国語辞典』で〈梁・はり〉という語を調べてみました。「

 

屋根をささえるために横に渡した、太くて長い材木」とあります。まさに剥き出しの〈梁〉が、わたしの育った家の一階にも二階にもあった記憶は鮮明です。

 

                    **************

 

このみ言葉が語られている箇所を注意深く読んでみると、このお話はイエスさまに依る〈譬え話〉として語られています。

 

そもそも、人の目の中にある「おが屑」を見つけることすら普通はできません。それなのに、イエスさまはここで、深く、切実な祈りのこころをもって、【まず自分の目から丸太を取り除け】とおっしゃるのです。

 

我が子や教え子が〈可愛くて、かわいくて、たまらないさま、溺愛するさま〉を言う時に、「目に入れても痛くない」と言うことを思い出します。

 

                    **************

 

自分の目の中にある〈丸太〉とは何なのだろうかと、私たちは考える必要があります。

 

他の聖書の多くで、〈丸太〉は〈梁・はり〉と訳されています。日本の昔ながらの家には〈大黒柱〉と呼ばれる特別な柱がありましたが、〈大黒柱〉は象徴的な意味合いをもたせている柱に過ぎません。

 

それに比べると、〈丸太〉や〈梁・はり〉というものは、実質的に私たちが雨風をしのぎ、何があっても安心して暮らしていけるようにするための骨格です。人生の骨組みをなすものと言えます。

 

この〈譬え話〉を読む時、〈丸太〉や〈梁〉には、そのような意味が隠されていることを知りたいのです。

 

                    **************

 

パウロという人が回心し、キリスト教の伝道者として歩み出すその直前に、あるものが目から落ちた、と記録されています。

 

それは【うろこ】です。使徒言行録9章18節に【すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち】とあります。

 

正確には【うろこのようなもの】とあります。

 

人間の目にはうろこがあるはずがありません。

 

                    **************

 

では、【のようなもの】とは何だったのか。

 

英語の聖書では「うろこ」は「scales」が使われることがあります。「scales」にはもちろん「うろこ」の意味もありますが、それ以外に、「物差し・定規」という意味があります。

 

パウロは、彼のこれまでの「価値観」「人生の尺度」を神さまによって振るい落とされ、新しい人に変えられ、伝道者として用いられていったのです。

 

                    **************

 

イエスさまは【まず自分の目から丸太を取り除け】と語られますが、丸太を自力で動かすことなど、私たちはどう頑張っても出来ません。

 

唯一それが可能な道。それは、イエスさまによって〈丸太〉を取り去って頂く方法です。イエスさまが磔(はりつけ)にされた十字架を思い起こしましょう。

 

あの十字架は、私たちの目の中の〈丸太〉。

 

いえ、私たち罪人の人生の骨格をなしていた〈丸太〉であり〈梁・はり〉だったからです。end

 

 


2017年7月2(日)昼過ぎに撮影した、旭東教会の玄関ホールにあるレンブラントの「放蕩息子」のコピーです。Wさんご夫妻からの献げもの。この日のメッセージに合わせて撮影しました。兄の姿は後ろにボンヤリと見える人ではないかと思いますが。
2017年7月2(日)昼過ぎに撮影した、旭東教会の玄関ホールにあるレンブラントの「放蕩息子」のコピーです。Wさんご夫妻からの献げもの。この日のメッセージに合わせて撮影しました。兄の姿は後ろにボンヤリと見える人ではないかと思いますが。

          《  み言葉 余滴  》 110

       2017年7月2  主日礼拝からの"余滴" 

       『  もう一人の放蕩息子  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 15章28節~29節、31節~32節
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。・・・31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』

 

私の無二の親友T君が九州のとある町に暮らしています。

 

小学校の教諭ですが、教頭・校長先生の道は選ばす、日本サッカー協会の働きの中で、九州の小学生レベルでの普及に心血を注ぎながら長年仕えて来ました。もちろん、一人の教師としても当たり前以上に頑張っている男です。

 

90歳になろうかという母親の苦労を知っているT君。

 

彼は、16歳で出逢った頃からずーっと、いつも弟や妹に気を遣いながら、孝行息子として生きて来ました。

 

私などとは違って、決定的に踏み外すことのないヤツなのです。ここに登場するお兄ちゃんを思うとき、ふと、T君のことがよぎります。

 

                    **************

 

イエスさまを通してあきらかにされる福音は非常識です。

 

なぜならば、罪人が〈ただで赦される〉からです。そんなことがあってよいのか。おかしいじゃないか。そう思う人が居ても少しもおかしくありません。


怒りを抑えきれず、憤りをそのまま父親にぶつける兄が居ます。

 

彼のように、真面目に、誠実に、キッチリと生きて来た者にとって、この父親の気前の良さは受け入れがたいことなのです。

 

実は、この兄とは、譬え話をイエスさまが語り出す切っ掛けをつくった〈徴税人と律法学者〉の分身です

 

神の国の祝宴は常識を越えた形で展開していきます。福音の物語というものが、お兄ちゃん息子を通しても明らかにされようとしているのです。

 

                    **************

 

いつも頑張り続けて来たお兄ちゃん。

 

腹が立ちました。ヘソも曲げます。何しろ、先に財産分与を受け、勇んで異邦の国へ身勝手に旅立った弟です。

 

放蕩の限りを尽くし、娼婦に身を持ち崩してしまった弟が戻って来た。それだけでも本当ならば立派なスキャンダルです。

 

ところが父親は、そのとんでもない弟を大喜びで迎え、一緒に祝おうじゃないかと言う。兄にとってこれは信じがたいこと、ゆるせないことでした。

 

私は兄がこれ程までに激しく父親にぶつかっていったことは、彼の人生の中で、一度も無かったのでは、と想像します。いかがでしょう。

 

                    **************

 

兄をなだめようとしている父親は、宴席を離れ外に出ます。そしてお兄ちゃん息子と向き合うのです。

 

父は兄に対して、お説教しているのでしょうか。叱っているのでしょうか。

 

いいえ、そうではありません。

 

お兄ちゃん息子は、久しぶりに、本当に思い出せないくらい久しぶりに、父親の胸に抱きしめられていたのです。「お父さん、お前の気持ちも、よーくわかっているぞ。お前もたいせつな私の息子だ」と伝えていた。

 

父からすれば、久しぶりにその腕に、その胸に抱かれるべく帰って来た、もう一人の愛する息子に他ならない。ここに神の国の不思議があります。end

 


2017年6月25(日)の献花 涼やかです。雅代さんの祈りあり。そして聖霊降臨・ペンテコステが十字架の前に移動してきました。これもまた素敵。感謝です。
2017年6月25(日)の献花 涼やかです。雅代さんの祈りあり。そして聖霊降臨・ペンテコステが十字架の前に移動してきました。これもまた素敵。感謝です。

          《  み言葉 余滴  》 109

       2017年6月25  主日礼拝からの"余滴" 

       『  人生いかにいくべきか  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ガラテヤの信徒への手紙 5章22節~25節
22 ・・・ 霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 

クリスチャンという言葉。

 

実は、初期キリスト教徒のことを揶揄(やゆ)する時に使う〈あだ名〉でした。

 

口語訳聖書・『使徒行伝』の11章26節に【アンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった】とあります。他の他の聖書では「キリスト者」となっています。

 

我々の身近な所にいる人たちは、クリスチャンなら誰でも、ここに掲げられている【喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制】と呼ばれる徳目を徹底的に守りながら暮らしている人だと考えているかも知れません。

 

皆さん、そんな風に自分のことを思われたら困りませんか?

 

                    **************

 

私の感じるところでは、【喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制】という徳目、クリスチャンであるならば、どうでもいいことです、とは誰ひとり考えないはずです。

 

真面目に考えると思います。

 

むしろ、これらのことを守れない。善き人であれない。そういうことについて、いささかでも苦しみや恥ずかしさを覚える人。

 

さらには、自分の心を見つめる勇気のある人。突き詰めて言うならば罪の自覚を持ち、不完全な自分であることを正直に認められる人。

 

それがクリスチャンなのです。

 

                    **************

 

求めるべき道はどこにあるのか。

 

パウロは「聖霊の導きに従おう」と言い切りました。「聖霊の導きに身を委ねよ」と促すのです。

 

これは、パウロという人が生きて行く中で、紆余曲折を経る中、くすぶりや、行き詰まりをも経験して与えられた、実存のかかった言葉です。

 

そして、その生き方とは、わたし流に言い換えると、伝道する生き方を志すことなのです。

 

私のような者が、否、私のような者だからこそイエス・キリストの十字架と復活の愛によって救われる必要があった。そのように宣べ伝える生き方を欲する人に聖霊は注がれ続けるのです。

 

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ふとしたことから、最近、今は亡き父が、私が幼い頃から「人生いかにいくべきか」という言葉を語りかけていたことを思い出しました。

 

父は学生時代、下村寅太郎という人の元で哲学を学んだ人間です。

 

結核を病み、片肺を切り取り、その後、クリスチャンになります。弱さを抱えながら生きた人でした。

 

生涯を貫く人生の命題として問い続けていた言葉、それが「人生いかにいくべきか」だったのかなと今は思います。

 

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人生の目的はどこにあるのか。

 

私たち、主イエスに従って〈み言葉〉に徹底して仕え、宣べ伝える道を進む覚悟を決めてみてはどうでしょう。

 

目的がはっきりとしさえすれば、私たちの人生、生きている意味がわかってきます。

 

目的がはっきりすれば人生はシンプルになり、焦点が定まるのです。

 

そして、目的がわかると、情熱が生まれ、表情が生き生きとし始めます。

 

「人生いかにいくべきか」。

 

私たちはもう、悩まなくてもよいところに既に立っているのです。end

 

 


2017年6月19日(月) 岡山の紫陽花をと願い、吉備津神社を散策 晴天続きのなか、ほんとうに美しいと感じる紫陽花たちとの出会いがありました
2017年6月19日(月) 岡山の紫陽花をと願い、吉備津神社を散策 晴天続きのなか、ほんとうに美しいと感じる紫陽花たちとの出会いがありました

          《  み言葉 余滴  》 108

       2017年6月18  主日礼拝からの"余滴" 

       『  わたしは笑いませんでした  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 18章12節~15節
18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 

新聞の「人生相談」でおもしろかったものがあります。

 

「嘘をつく友人にうんざりです」という相談内容に対して、作家の高橋源一郎さんが回答します。

 

「嘘をつかない人間なんかいないんじゃないでしょうか。学校や会社に行きたくない。だから体調が悪くて休みますと連絡するとか。・・・相談者は嘘をついたことが一度もありませんか?そんなことないですよね。

 

実害のある嘘は犯罪です。今度あなたは、友だちが上手いことを言うなぁ、と感心してみてはどうでしょう。わたしの仕事なんか〈嘘をつく専門職です〉よ。」(2017/06/19『毎日新聞』より)と。

 

                    **************

 

創世記18章には、神さまの前で嘘をつく人の姿が描かれています。

 

それはアブラハムの妻サラです。

 

天幕の内側で身をひそめ、夫アブラハムと三人の旅人たちとの会話を聴いていた彼女は間もなく90歳になろうとしている自分と100歳になるアブラハムの間に子どもが生まれるという知らせを耳にした時。

 

彼女は【ひそかに笑った】のです。

 

サラは、「そんな馬鹿なことがあるわけがありませんよ、わたしたちみたいな年寄りに」と苦笑いした。

 

   **************

 

既にサラはこの時、三人の旅人たちが、神さまからのみ遣いであることに気付いていたはずでした。

 

旅人たちはアブラハムにもサラにも聞こえるように言いました。

 

【主に不可能なことがあろうか】と。

 

そして、【来年の今ごろには、〈イサク=彼は笑うの意味〉という名の男の子を抱いているだろう】と続けたのです。

 

具体的で不思議に説得力のある言葉です。

 

                    **************

 

嘘をつく人。それが、アブハムの妻サラでした。

 

【わたしは笑いませんでした】と言ったのです。

 

サラは、旧約聖書の中で特別な扱われ方をしている人で、女の人の中で唯一、召されていった時の年齢が記されているのです。創世記23章1節に【サラの生涯は127年であった】とあります。既婚の女性の理想像を見るとも言われる人なのです。

 

ところが聖書は、そんな特別な人ですら、主の前にあって愚かしい存在であることを赤裸々に告げ、わたしたちのこれまでを、今を、これからを考えてご覧なさい、と促しています。

 

                    **************

 

イエスの母マリアが、み使いの訪問を受け、「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」という驚くべき言葉に触れた時に告白し、踏みだした一歩を思い起こします。

 

【わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように】(ルカによる福音書1:38)。

 

サラの物語は、救い主イエス・キリストの来臨の出来事を通して完成するのです。ここに、私たちのおだやかーな〈笑顔〉の始まりがあります。end

 

 

 


2017年6月11日(日)は三位一体主日でした。雅代さんの献花、生きているなぁと感動です。
2017年6月11日(日)は三位一体主日でした。雅代さんの献花、生きているなぁと感動です。

          《  み言葉 余滴  》 107

       2017年6月11 主日礼拝からの"余滴" 

       『  すきまスイッチを入れよう  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 3章4節~5節、8節
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。・・・8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 

聖書をひとりで読んで「最初からよくわかりました」という人は果たしてどれ程おられるでしょう。

 

たとえば、新約聖書の一番初めにあるマタイによる福音書の1章。聞いたことも見たこともない人たちの名前が延々と続くのです。多くの方が途方に暮れます。「この本、私にはわからない」と背を向けたくなります。

 

神の言葉は、いったいどうしたら、心の奥深くに達するのでしょう。ヨハネによる福音書3章に登場する一人の男に、み言葉は届くのでしょうか。

 

                    **************

 

ここに登場するニコデモという人。

 

彼は当時の聖書の舞台であるユダヤ人の社会の中で常に一目置かれる人だったはずです。真面目で誠実で徳もある人。

 

福音書記者ヨハネが伝える「ファリサイ派でユダヤ人たちの議員であった」という言葉は、そうしたニコデモの人間像をも指し示しています。

 

                    **************


興味深いのは、ニコデモがイエスさまの前に姿を現したのが「夜」だったということです。

 

これは、ニコデモがイエスの元を訪ね、教えを乞う姿を他の人たちに絶対に見られたくなかったことを示しています。と同時に、彼の心が長いこと闇の中をさまよっていたことを告げているのです。

 

                    **************

 

頭のいいニコデモ。人生経験豊かなニコデモ。彼は生きて行くための知恵ならば十分すぎる程に身に付けていたはずです。

 

でも、彼はそれでも何かが足りなくて、この夜、イエスに教えを乞おうとしたのです。

 

ところが、ニコデモが聞いたイエスさまのお言葉は腑(ふ)に落ちないものばかりでした。

 

【だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない】

 

【風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない】

 

結局ニコデモは、この場面ではいつの間にか闇夜に姿を消してしまいます。納得できなかったのでしょう。

 

そんなニコデモがイエスさまと再会するのは、十字架の死を遂げられた後の、主イエスのご遺体を引き取る時でした。ニコデモが決定的な転機を迎えるのは、主の十字架を仰いだ後だったのです。

 

                    **************

 

イエスさまは言われます。「風に吹かれよ、聖霊を受けよ、神の息を吹き込まれよ」と。

 

でも、この時のニコデモの姿勢では、神さまからの風は心に届きません。風を跳ね返してしまう固さが彼をおおっていました。

 

上からの風が吹き抜ける隙間をつくりましょう。聖霊の通り道を我が心の内につくるのです。

 

ニコデモに必要だったのは、自分という人間がなんと不完全で、こころもとない存在であることを認める心。そして、告白でした。

 

      **************

 

ニコデモは過去の人物ではありません。私たちこそ風に吹かれたい。

 

主の前にひざまずき、自分がいかに不完全な者であるのかを認めるのです。破れを素直に認める心を、主は慈(いつく)しんで下さいます。end

 

 


2017年6月4日(日)はペンテコステでした。今年の礼拝堂前方にはこのような聖霊が降って来ました(^^♪
2017年6月4日(日)はペンテコステでした。今年の礼拝堂前方にはこのような聖霊が降って来ました(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 106

       2017年6月4 主日礼拝からの"余滴" 

        『  愛の言葉をとどけよう  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 2章1節~4節
1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

口は災いの元と申します。

 

そして「舌」にも似た所があります。「舌の根も乾かぬうち」という言葉があります。「舌を鳴らす」「舌を出す」などは、悪いことを指摘する場合に使われます。ヤコブの手紙3章8節では【舌は疲れを知らない悪で、毒に満ちている】と注意を促す程です。

 

しかしここで【炎のような《舌》が一人一人の上にとどまった】とあるのは、明らかに、善いものとしての「聖霊」が降ってきた時の様子を表現しています。

 

果たしてこの《舌》は何のために用いられるべきものなのでしょう。

 

                    **************

 

旧約聖書に登場する偉大な指導者モーセ。

 

ちょっと意外なことですが、彼は指導者でありながら、弁が立つ方でもなく、口が重く《舌が重い者なのです》(出エジプト記3:10)と自ら語っています。

 

そうです。舌というのは、言葉を語るためになくてはならない大切なものなのです。聖霊降臨の出来事とは、実は、一人一人が大胆に、自分らしくイエスさまのことを証しするためにどうしても必要なものなのです。

 

では、「聖霊」に包まれた《炎のような舌》を用いて語るべき言葉とは、一体、誰に、どこで、どのように向けられるべきなのでしょう。

 

                    **************

 

使徒言行録1章8節に、わたしたちに語られていると感じる言葉があります。

 

【あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。】

 

ここでの「地の果てに至るまで」の《地の果て》という言葉。距離的な意味での果てしなく遠く、を意味しているとものとは思えません。

 

「世界の果て」とか「地の果て」というのは、これから先、わたしたちの大切な人、愛する人になっていく人が、苦しみ悩んでいる。その絶望の淵や深い悲嘆の中にある場のことを指し示している、と考えるべきでしょう。

 

誰もがパスポートを手にし、「あなたも勇気を出して、見知らぬ遠くの国へ出て行ってごらんなさい」と言われているわけではないのです。

 

                    **************

 

正直に申しますと、わたしは、今年=2017年のペンテコステを迎えるまで、ここでの《炎のような舌》ということについて、立ち止まってじっくり考えることが出来ませんでした。他のことを考えていたのです。

 

でも、今年のペンテコステを通して、そうか、《舌》って大切なんだなぁとようやく考えることが出来るようになりました。本当に嬉しいことです。

 

                    **************

 

わたしたちの発する言葉は、主をほめ讃(たた)えるために用いると同時に、出逢っている人を高め、勇気が出てくるような言葉を語るために用いたいものです。

 

人を生かすのも殺すのも言葉。神さまはわたしたちにも、愛の言葉を語らせて下さろうとしています。ペンテコステを豊かに生きるためにも、愛を届ける言葉を携えて参りましょう。end

 


2017年5月28日(日)の夕刻 勝子さんの病室を訪ねました お二人の手が勝子さんに重ねられていました。
2017年5月28日(日)の夕刻 勝子さんの病室を訪ねました お二人の手が勝子さんに重ねられていました。

          《  み言葉 余滴  》 105

       2017年5月28 主日礼拝からの"余滴" 

        『  中途半端はいけません  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ガラテヤの信徒への手紙 5章1節、13節~14節
1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。・・・13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

 

小学生の頃、「自由研究をしなさい」という類(たぐ)いの宿題が夏休みに出ますと、なかなか手をつけらないのがわたしでした。

 

一体、何をすれば良いのかわからない、考えつかない。困りました。

 

でも、イエスさまを信じる信仰の道を歩み続ける中で、だんだんと、「〈キリスト者の〉自由」についてならば、少し考えることが出来るようになりました。

 

どうやら、主が与えて下さった自由は、自分のためのものでは決してない。互いに愛し合い、違いを認め合う中でこそ力を発揮し始めるようです。

 

**************

 

使徒パウロがガラテヤの教会の人々に伝えようとしていること。

 

それは、せっかく、本当にせっかくイエスさまが与えて下さった掛け替えのない自由を手放してはいけない、ということです。

 

しかも、単に手放すだけでなく、後戻りする気配が濃厚だと気付いたパウロは、命懸けで伝えたイエス・キリストの十字架と復活の福音が、このままでは水の泡となることを肌に感じていました。

 

一体あの苦労は何だったの、なんてことにならないように、必死になってこの手紙を記している。だから、パウロが火事場の馬鹿力的な力を発揮しているなぁ、とわたしは感じるのです。

 

**************

 

イエスさまがわたしたちに下さった自由とは、果たしてどういうものなのでしょう。

 

それは、イエスさまが進んで行かれた茨の道の中に浮かび上がって来ます。

 

そこには屈辱を伴う不自由さがあります。わたしたちを自由にして下さるために、イエスさまは十字架に磔(はりつけ)られる、という究極の不自由を選び取って、そのいのちを投げ出して下さった。

 

それを「贖い(あがない)」と言います。これは他の言葉ではなかなか言い換えらません。噛み締めて、かみ締めて、自分のものにする必要があります。

 

信仰の奴隷状態がどんなものなのか。パウロは、彼自身の経験から知っていました。

 

彼はこの時すでに、律法を立派に守り抜いて善い人になろうと精進する生き方のつまらなさを振り返ることが出来る人に変えられていました。

 

**************

 

大事なものは落とさないように、こぼさないように、手を離さないように。我々は幼い頃からそう教えられてきたように思います。

 

ところが、信仰の世界には、手放すべきものと、決して手放してはならないものの二つがあるのです。

 

本当に主イエス・キリストの愛を受け、その愛を生き抜くためには今まで大事だと信じてきたものすらすっかり手放す。

 

中途半端はいけません。

 

同時に、新たに頂いたものは、もう手放してはならない。何度でもやり直せます。

 

だから諦めない。もう一度、決心して歩み出すのです。end

 


2017年5月21日(日)亮子さんによる生き生きとした献花に感謝。
2017年5月21日(日)亮子さんによる生き生きとした献花に感謝。

          《  み言葉 余滴  》 104

       2017年5月21 主日礼拝からの"余滴" 

        『  心の包皮を切り捨てよ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 17章11節~12節
11 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。12 いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。

 

アウシュビッツの強制収容所に連行され、アドルフ・ヒットラー率いるナチスによって命を奪われたのは旧約聖書の主人公であるユダヤ人でした。

 

誰がユダヤ人であるのかを見分けるための確実な方法があります。それは「割礼」を受けているかどうかを調べることだったのです。

 

ユダヤ人はユダヤ人であることを誇りとし、自分がユダヤ人であることを隠そうとはしません。その結果、なんと600万人もの人たちが殺害されるのです。

 

実は、創世記17章は、聖書の中で初めて「割礼」のことが語られる箇所であることを心に留めましょう。

 

**************

 

現代のキリスト教徒にとって、もはや「割礼」は必要ないものです。

 

ただし、忘れてはならないことがあります。イエスさまは、ベツレヘムの飼い葉桶にお生まれになりましたが、羊飼いたちの訪問を受けたすぐ後に、割礼を受けておられるのです。

 

ルカによる福音書2章21節に【八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた】と記されている通りです。

 

**************

 

信仰の父となって行くアブラハムに対して命じられた「割礼」。

 

これは、神の民に対しての祝福が永遠に続く契約を意味しています。その祝福が、後(のち)の世代にも引き継がれて行くことを明確にするのが「割礼」でした。

 

ところが、十字架と復活のイエス・キリストの福音によって、もはや契約のしるしとしての「割礼」は意味を持たなくなりました。それは、使徒パウロが『ガラテヤ書』の中で徹底して語っていることです。

 

では、クリスチャンであるわたしたちにとって「割礼」は、もはや 何の〈意味〉も持たないのか。

 

いいえ、そんなことはありません。「割礼」は重要なことを告げる先駈けとなっているのです。

 

**************

 

申命記(しんめいき)10章に「神が求められること」という小見出しのある箇所があります。

 

次のみ言葉がモーセを通して示されます。【15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。】(申命記10:15-16)

 

「心の包皮を切り捨てよ」というお言葉。

 

これには、ユダヤ人もクリスチャンも、男も女も、子どもも大人もありません。神さまが求められた「割礼」の行き着くところはこれでした。

 

**************

 

わたしたちが、心の奥底に包皮で覆い隠したままでは出逢うことが出来ないものを打ち破るために、主イエスは来臨され、思いも寄らぬ仕方で心の包皮を切り開いてくださったのです。

 

それは何の恐れも抱かなくてよい仕方でした。

 

主の愛に心を向け、「心の包皮を切り捨て」て頂く生き方を始めましょう。end

 

 

 

 


2017年5月14日(日)の亮子さんによる献花。黄色いのはなーに?との声掛けに「あっはは、わたしも知りません」と言われる声が聞こえました。
2017年5月14日(日)の亮子さんによる献花。黄色いのはなーに?との声掛けに「あっはは、わたしも知りません」と言われる声が聞こえました。

          《  み言葉 余滴  》 103

       2017年5月14 主日礼拝からの"余滴" 

      『  四六時中でも だいじょうぶ?  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 11章28節~30節
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

イエスさまがこの場面でお招きくださる「疲れた者」というのは、その直後に続いている「重荷を負う者」と無関係ではありません。

 

それどころか、どうやら「疲れた者」と「重荷を負う者」は、同じ意味合いの語のようでもあり、「疲れている人は重荷を負う者であり」、「重荷を負う者は疲れている」と言われているように見えるのです。

 

しかも、イエスさまはここで「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言って下さいます。無条件の言葉です。

 

                    **************

 

ただし、注意と覚悟が求められます。

 

なぜなら、イエスさまがここで準備しておられる《休ませ方》は、だいぶ変わっているからです。「わたしの軛(くびき)を負い、学びなさい」という内容とセットなのです。

 

軛(くびき)を負う、というのは、何かを引っぱりながら歩調を合わせて一緒に進んでいく、ということ。広い意味で言うならば、イエスさまと共に、この世の様々な課題に取り組んでいく、ということにほかなりません。

 

凡人のわたしたちからすると、イエスさまと一緒に軛(くびき)を負うというのは、嬉しいことかも知れません。でもその一方で、ある種の不自由さを感じるものです。だって、いつもイエスさまが一緒なのですから。

 

                    **************

 

サザンオールスターズの『真夏の果実』という曲があります。桑田佳祐さんの作詞・作曲です。何度も繰り返されるフレーズの中に「四六時中も好きと言って」ということばが出てきます。

 

「四六時中」とは、言い換えれば、「始終、いつも、一日中」。英語だと「day and night、all the time」となります。

 

【(一緒にわたしの)軛(くびき)を負い、(いつもわたしと共に居て)わたしに学びなさい】。

 

これは、イエスさまからのまさにラブコールです。プロポーズかも知れません。「わたしはお前と一緒に、これから先、ずーっと生きていきたいんだよ」という言葉として聞こえて来るからです。

 

                    **************

 

主イエス・キリストを信じて生きていくということ。

 

実は、そこには、不自由さが伴います。

 

何しろ、四六時中イエスさまと一緒に過ごしていたら、下手なことはできません。すっぴんのわたしを、恥も破れもある過去をもっているわたしが、知られてしまう日が来るからです。

 

                    **************

 

さらにやがて、もっと驚くべき不自由さに気付くことになります。

 

イエスさまの引かれている軛(くびき)は、何と、周囲をよーく見渡してみると、わたし以外の多くの人も一緒に引いていることを知らされるからです。

 

信仰を持って生きるということ。

 

それは個人的なことのようでありながら、実に、重荷を担い合う共同の、つまり教会的な歩みでもある。その始まりの第一歩の招きがここにあります。

 

さあ、共に行きましょう。end

 

 


2017年5月7日(日)先週に続いて礼拝応援に伺った十文字平和教会の竹林の筍。これ程の巨大な筍、やはり珍しいようです。勝さんが掘り起こされたのです。
2017年5月7日(日)先週に続いて礼拝応援に伺った十文字平和教会の竹林の筍。これ程の巨大な筍、やはり珍しいようです。勝さんが掘り起こされたのです。

          《  み言葉 余滴  》 102

       2017年5月7 主日礼拝からの"余滴" 

      『  神さまに知られているあなたへ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ガラテヤの信徒への手紙 4章9節、19節~20節
9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。・・・・・・19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

皆さん、「もとの木阿弥(もくあみ)」という言葉をご存知かと思います。

 

代表的な国語辞典のひとつ『広辞苑』を開いてみました。

 

そこには、「いったん良い状態になったものが、再びもとのつまらないさまにかえること。苦心や努力も水泡に帰して、もとの状態にもどってしまうこと。」と解説されています。

 

ガラテヤ地方の人々は、ひたすら律法を守り抜くことを通して得られる正しさから離れ、一度は、パウロが伝えたイエス・キリストの福音を信じていたのです。それなのに、「もとの木阿弥」になってしまったようです。

 

                    **************

 

ガラテヤの信徒への手紙の著者パウロは【なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのか】と言って叱り始めるのですが、わざわざ、【語調を変えて】語ろうとしていたことが記されています。

 

実はわたくし、長年この箇所の【語調を変えて】は〈この先は少し厳しい口調〉で語らせてもらいますよ、と言っているのだと思い込んでいました。

 

でも、どうやら間違っていたようです。逆なのです。

 

パウロは、【わたしの子供たち】という呼びかけも含めて、様々に配慮をしながら、やさしい口調でメッセージを伝えようとしているのです。

 

                    **************

 

この箇所で読み落としてはならない大切な前提とも言うべき言葉が、9節にそっと置かれています。

 

それは、【いや、むしろ神から知られているのに・・・】という言葉です。

 

かつてのガラテヤの人々は、〈神を知るために〉〈神のみ心を学ぶために〉様々な努力をし、鍛錬をして来たのです。

 

しかし、クリスチャンにとって重要なのは、「努力と頑張りで神を知る」ことではないのです。

 

それならば、どんな風に神を知るべきなのか。

 

むしろ「神さまは、わたしたちのことを知り尽くして下さっているお方なのだ」という信仰の事実に対して、こころから「アーメン」することが求められています。

 

                    **************

 

あなたがたは、イエス・キリストの愛に触れ、これからの人生をイエス・キリストで生きて行く、という自由な生き方を見いだして一度は決心したのだから、もう昔に戻ってはいけない。

 

パウロはそう語っています。

 

「神さまって、やっぱりわたしの思っていた通りのお方だった」ということを確認したり安心することが、わたしたちの信仰の目標ではありません。

 

【大切なのは、新しく創造されること】(ガラテヤ書6:15)です。

 

その希望に生きる途上においてこそ、わたしたちの人生の深い喜びを発見できるはずです。end

 

 


2017年4月30日(日)礼拝応援に伺った、岡山空港に近い十文字平和教会の竹林の筍です。前日、土曜日の夕刻、新鮮な筍を勝さんが大きな籠に二つ、届けて下さったのがこれです。心から感謝。
2017年4月30日(日)礼拝応援に伺った、岡山空港に近い十文字平和教会の竹林の筍です。前日、土曜日の夕刻、新鮮な筍を勝さんが大きな籠に二つ、届けて下さったのがこれです。心から感謝。

          《  み言葉 余滴  》 101

      2017年4月30 主日礼拝からの"余滴" 

       『  どこから来て、どこへ行くのか  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 16章6節~9節 

6 アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。7 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、8 言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、9 主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」

 

逃げ出した女奴隷ハガル。お腹に宿した新しい命を感じたのもつかの間。この時、既に、死を覚悟していました。まだ見ぬわが子と共に。

 

主人のもとから逃げ出した彼女を追いかけてくる人は居ません。探す人も居ない。つまり、「お前は、居てもいなくてもどちらでも構わない」ということが暗に語られているのです。なんと心傷む状況でしょう。

 

**************

 

故郷であるエジプトの方に向かって飛び出しはしたものの、彼女は既に疲れ果てていました。

 

生きる望みは絶たれ、力も、支えもない。頑張ろうにも、もはやその力を振り絞ることなど不可能な事態の中に身を置いていました。

 

**************

 

ところが、渇ききった魂のハガルが、荒れ野の泉に身を寄せたその時、思いも寄らなかった出遭いを経験するのです。

 

現れたのは、神のみ使いでした。

 

これまで、ハガルが神の助けを求めて祈っていたような気配はありません。けれども、神さまは信仰のないハガルを独りにはしませんでした。み使いを通して語りかけます。神は人間の側の準備とは無関係にことを進めます。

 

**************

 

み使いを通してハガルが聴いた最初の言葉。

 

それは、【あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか】という問いかけでした。

 

「お前はこの先、身を寄せて生きて行くことが出来る当てがあるのか?」。一見、そんな風に尋ねられているようにも見えます。

 

しかし私はこう受け止めました。

 

これは、人が人として生きて行こうとするのならば、誰もが、いつも心のどこかで祈り求めるべき言葉ではないかと。

 

**************

 

逃げるしかない。それが彼女の現実でした。ハガルはそれしか道がないと思っていた。

 

にもかかわらず、救いの神は、ハガルがどんな状況に置かれようとも、生きて行くことが出来るお言葉を下さるのです。

 

先ずは、「帰りなさい、そして、仕えなさい」と言われます。神さまは、ハガルの荷を軽くしようとは言われません。

 

しかし、彼女は気付いたのです。もう私は独りではない。私を顧みて下さる方が居られる。わたしのすべてをご存知のお方が、これからの人生を共にして下さることを知ったのです。

 

**************

 

私たちも【あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか】というお言葉を聴きました。

 

素直な心で答えましょう。そうすることが出来るならば、「さらに」「また」という形で、次なる約束の言葉を聴く時が来るのです。

 

逃げることはすべてが悪ではありません。そこにもまた必ず道が備えられます。だから、私たちは生きて行けます。end

 

 


2017年4月24日(月)旭東教会から歩いて10分。サイの像がある公園をお散歩。新緑と青空が眩しかった。西大寺の公会堂が後方にあります。
2017年4月24日(月)旭東教会から歩いて10分。サイの像がある公園をお散歩。新緑と青空が眩しかった。西大寺の公会堂が後方にあります。

         《  み言葉 余滴  》 100

      2017年4月23 主日礼拝からの"余滴" 

       『  わたしも疑っていました  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 ◎マタイによる福音書 28章16節~20節
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

新約聖書のいちばん初めに置かれているのが『マタイによる福音書』です。福音書の中では一番長い28章。60㌻に及ぶ長編です。

 

この福音書が書き上げられ、各地の教会で読まれるようになったのはいつ頃か。諸説ありますが、完成はどんなに早くても西暦70年過ぎと言われます。

 

イエスさまの活動舞台であるユダヤ近隣以外にも、現代のトルコとかヨーロッパやアフリカの各地の異邦人の地に教会が誕生しました。

 

しかし福音が広がり始める一方で、困難な課題に直面し、元気を失いそうになっていた教会の人々を勇気づけようとした内容がここにはある。

 

わたしはそう読みました。

 

                    **************

 

マタイ福音書の最後にはイエスさまの約束のお言葉があります。何と書かれているのか。見過ごしてはもったいない。

 

【いつもあなたがたと共にいる】。

 

イエスさまはこのひと言をどうしても伝えたかったのです。

 

初代キリスト教会の人々はこの言葉をみんなで聴きました。何かしらの疑いや不安を持ち始めていた各地の教会の人たちは、最後のこの言葉をかみ締めます。

 

もう一度、ひとりのクリスチャンとして、信じる者たちの群れとしての姿勢を整えていきました。頑張れると感じたのです。

 

                    **************

 

あれ? これってどこかで聴いたことがあるような気がする。そう思われる方が居られるかも知れません。

 

実は、クリスマス物語として知られるマタイ福音書1章で、イエスさまのお父さんになるヨセフに対して、み使いが語り伝えている言葉にそっくりです。

 

【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(1:23)とあります。

 

福音書記者マタイは、初めにもおわりにも、【いつもあなたがたと共にいる】と記して、念押ししているのです。

 

これこそわたしたちへのメッセージです。

 

                    **************

 

疑いを持っている弟子たちがその時にいたと記されています。

 

【イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。】とある通りです。

 

ある英語の聖書では「疑いに満ちていた」をあらわす語が使われています。約束されていたガリラヤでイエスさまと再会した11人の弟子たちのうち、複数名がひれ伏しながら疑っていたのです。

 

      **************

 

これは、けしからんことでしょうか。

 

いいえ、ここにこそ福音があります。信じ切れない者を、信仰がすぐに萎(な)えてしまうような者を、イエスさまは信頼して下さる。不思議です。あり得ません。

 

でもこれこそが、神さまのなさり方。ここに神の愛があります。

 

キリストの愛に応えたい。その心が伝道の第一歩です。end

 

 


2017年4月16日、イースター・復活祭の朝 旭東教会の礼拝堂の卵の樹です。下の方にはうさぎさん。卵はいろんな仕方で染められています。美樹さんのご奉仕に感謝!
2017年4月16日、イースター・復活祭の朝 旭東教会の礼拝堂の卵の樹です。下の方にはうさぎさん。卵はいろんな仕方で染められています。美樹さんのご奉仕に感謝!

         《  み言葉 余滴  》 99

      2017年4月16 主日礼拝からの"余滴" 

    『 〈だいじょうぶ〉のイエス  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 28章1節、8節~10節
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。・・・8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

わたしが大切にしている絵本のひとつに『だいじょうぶ だいじょうぶ』(いとうひろし作・絵)があります。

 

教会で行う「グリーフケアの集いで、読むか読まないかは別にしても、必ず持参します。こんな言葉から始まる絵本です。

 

          ぼくが いまより ずっと あかちゃんに ちかく、
      おじいちゃんが いまより ずっと げんきだった ころ、
                      ぼくと おじいちゃんは、
        まいにちのように、おさんぽを たのしんでいました。

 

お散歩の途中に経験する出来事の中に、困ったこと、恐いことがたくさんあることを知った〈ぼく〉に対して、おじいちゃんは「だいじょうぶ   だいじょうぶ」をくり返す。ただそれだけの絵本です。

 

やがて、召され行くおじいちゃんの枕辺で〈ぼく〉は「だいじょうぶ   だいじょうぶ」と語りかけてあげるのでした。

 

                    **************

 

復活の証人、いえそれどころか、キリスト教の成立に無くてはならない女性たちの中で特に名が記録される人。

 

それがマグダラのマリアです。

 

イエスさまの復活を最初に告げたのは主の天使でした。開口一番に告げているのは【恐れることはない】という言葉でした。そのあとで、幾つかのことを語りますが、わたしはこの言葉は決定的に重要だと思っています。

 

そして、この言葉を柔らかな言葉に換えるならば、わたし流ですが、「だいじょうぶだよ」ということが出来ると信じています。

 

この「だいじょうぶだよ」を抜きにしては、あとの言葉はあり得ません。

 

                    **************

 

天使からの促しを受けたマリアたちの心模様について、福音書記者マタイ。

 

そっと、こう記しています。

 

【婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り・・・走って行った】と。

 

そうです。

 

マリアは間違いなく恐れていました。緊張、そして不安があった。いったいどうなるのかと心配だった。

 

と、そこに、遠くから近づいて来られるイエスがあらわれます。傷ついた肉体をもつイエスさま。傷ついたこころをお持ちのはずのイエスさまが。

 

                    **************

 

足下にひれ伏し、イエスさまの足を抱きしめる女たち。

 

その存在を、ひたすらに愛おしく確かめるマリアたちは、主のみ顔を見ているわけではありません。そんな二人のこころに届いた言葉があったのです。

 

それが【恐れることはない】でした。

 

そうです。「だいじょうぶだよ」が語られるのです。

 

これこそが、この場面でどうしても必要な、神さまのみ心を示すお言葉でした。

 

                       **************

 

大丈夫のイエスさまが居られます。

 

それが愛の主であり、救いのイエスです。

 

あなたにも、み使いが、復活のイエスさまがそのお言葉を下さいます。end


 


2017年4月9日は棕梠の主日でした。旭東教会の玄関正面の角っこに、こちらの飾り付け。きれいでした。奥にある絵は泰さんによる『エルサレム入城』のスケッチです(^^♪
2017年4月9日は棕梠の主日でした。旭東教会の玄関正面の角っこに、こちらの飾り付け。きれいでした。奥にある絵は泰さんによる『エルサレム入城』のスケッチです(^^♪

         《  み言葉 余滴  》 98

      2017年4月9 主日礼拝からの"余滴" 

       『  沈黙の意味  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 27章24節~26節
24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 

十字架に磔(はりつけ)にされて処刑される前のイエスさま。

 

沈黙を貫かれます。

 

総督ポンテオ・ピラト自身の責任逃れ的な判決が言い渡される直前のイエスさま。諦めていたのでしょうか。

 

いいえ、イエスさまは諦めていたのでも、投げ出してしまったのでもない。

 

イエスさまには覚悟があったのです。神さまから託された究極の使命を果たし終えるための覚悟が。

 

                    **************

 

旧約聖書の中でもっとも重要な預言のひとつが『イザヤ書』にあります。「苦難の僕」の姿が描かれるイザヤ書53章です。

 

イエスさまの時代の何百年も前に預言されたものであるはずなのに、そこには、イエスさまのお姿が浮かび上がって見えてきます。

 

「新約は旧約のうちに隠れ、旧約は新約のうちに明らかになる」(アウグスティヌス)のです。

 

                    **************

 

                          わたしたちは羊の群れ
                道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
           そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。
         苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。
                      屠り場に引かれる 小羊のように
     毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。
                              多くの人の過ちを担い
           背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。
                                                     (イザヤ書53章6-7節、12節)

 

                    **************

 

沈黙を貫き通されるイエスさまは、イザヤの預言の中に見る「屠り場に引かれる小羊」そのものです。

 

羊は「物を言わない」「口を開かない」のです。

 

それに比べると、右往左往しはじめたポンテオ・ピラト。彼の行動の薄っぺらさが際立ちます。

 

理性を失い、「十字架につけろ」と連呼を始めた群衆と、その群衆を操ろうとするユダヤの権力者たちの真っ黒な思いが、朝の光の時刻であるにも関わらず、さらに深まりました。

 

                    **************

 

裁きを受けているのは本当にイエスさまでしょうか。

 

いいえ、違います。裁かれているのはピラトであり、群衆の中に確かにまぎれて声を上げている私とあなたなのです。

 

でも、イエスさまは怒ってはいません。苛立ちもない。諦めもなかった。あるのは、愛ゆえの沈黙です。

 

                    **************

 

多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった

 

主の死によって生きる私たちは、何を捨て、どう応えて生きていくか。

 

それは重荷ではなく、救いにあずかった人の生涯の喜ばしい〈つとめ〉です。end

 

 


2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪
2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪

         《  み言葉 余滴  》 97

      2017年4月2 主日礼拝からの"余滴" 

       『  ごめんね ユダ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 27章3節~5節
3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

 

北島三郎さんが歌った『帰ろかな』という歌があります。永六輔さん作詞、中村八大さん作曲です。久しぶりに聴いてみました。

 

昭和40年・1965年の歌ですから、私が幼稚園児の頃です。

 

そんな私ですら、「帰ろかな 帰るのよそうかな」の繰り返しの部分をハッキリ覚えています。

 

                    **************

 

イスカリオテのユダ。裏切り者の代名詞です。

 

この人さえいなければ、イエスさまのご受難の頂点、十字架の死はなかったのでしょうか。

 

私は、「ユダさん、あなたは確かにイエスを引き渡した張本人だよね。サタンがあなたに狙いを定めて入りこんだんだ。でも、でも、でもね、あんただけが悪者じゃないよ」と言いたくなってしまいます。

 

蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げて行ったほかの弟子たちはどうなのよ。奴らは何をしていたんだ、と思わないではいられません。

 

                    **************

 

パウロは〈神の家族〉という言葉を『エフェソの信徒への手紙』で語っています。

 

【あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり・・・そのかなめ石はキリスト・イエスご自身】(エフェソ書 2:19-20)

 

〈神の家族〉。教会生活を続ける私たちにとって鍵になる語の一つです。

 

                    **************

 

ユダの裏切りやイエスさまのご受難に直面した時、共に歩んできた弟子たちの心には、〈神の家族〉としての〈アイデンティティー〉は無かったのでしょうか。

 

〈アイデンティティー〉という言葉。

 

少しむつかしいですが、たとえば『新明解国語辞典』では、「自分という存在の独自性についての自覚」と説明されています。

 

                    **************

 

神に選ばれ、イエスさまに召し出され、世にはない特別な恵みとあわれみに生かされて来た弟子としての自覚はどこに?

 

助け合い、赦し合い、認め合いながら生きるのが主の僕だったのでは? と問いたくなります。

 

ユダは祭司長たちの処(ところ)ではなく、まず、労苦を共にしてきた〈神の家族〉である弟子たちの処(ところ)に戻ることは出来なかったのでしょうか。

 

                    **************

 

悲しいかな、弟子たちは世にある生身の人間でした。

 

彼らにはまだ〈神の家族〉の自覚を持てず、自分のことだけしか考えられなかった。取り返しの付かないことをしたユダが、帰る場所をつくり出せなかったのです。

 

**************

 

でも、そんな彼らが、主イエス・キリストの十字架と復活、そして約束の聖霊の出来事を経て、初めて「お帰り、ユダ」「つらかったな。本当にごめんな」と言える人に変えられて行く。

 

そこに〈神の家族〉は誕生するのです。

 

私たちも〈神の家族〉としてゆっくりと深まって行きたい。

 

そのためには、互いの弱さと罪人としての自覚、告白が求められるのです。end

 

 


2017年3月26日(日)の亮子さんによる献花。JC礼拝後のもの。いつもと違う角度からのお届けです。奥の椅子は礼拝のとき牧師が座る席です。
2017年3月26日(日)の亮子さんによる献花。JC礼拝後のもの。いつもと違う角度からのお届けです。奥の椅子は礼拝のとき牧師が座る席です。

         《  み言葉 余滴  》 96

      2017年3月26 主日礼拝からの"余滴" 

    『  くずれ落ちて  出会うもの  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 26章74節~75節
74そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。

 

数時間前、イエスさまは、通いなれたオリーブ山に向かう途中で弟子たちに語られます。「あなた方は、皆わたしにつまずく」と。

 

それだけではありません。

 

「わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く」と言われました。

 

復活が語られるということは〈死〉が前提です。

 

                    **************

 

即座に、ペトロは胸を張って言いました。

 

「ほかの者たちが、もしも先生につまずくことがあっても、わたしだけは大丈夫」と。

 

他の弟子たちも居合わせた時の言葉ですから、彼の自信の程がうかがえます。

 

ところが、イエスさまは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と預言されたのです。

 

この時もペトロは、何の迷いもなく誓います。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らない等とは、決して申しません」と。

 

                    **************

 

結果はどうだったか。

 

大祭司カイアファの中庭で「お前さん、ヤツの仲間だろ」「いつも一緒にいたよね」という言葉にふれたペトロは、心臓が口から飛び出しそうになります。

 

一度は、平静を装って「何のことを言っているんだい、俺にはさっぱりわからんよ」と答えました。

 

そしてその後、身を震わせながら、ガリラヤ弁丸出しで、二度、三度繰り返したのです。「そんなヤツは知らねぇ!」と。

 

すると「鶏」が鳴いたと聖書は告げています。

 

「鶏が鳴く」とは夜明けを告げる意味もありますが、同時に、闇がもっとも深いことも意味しています。

 

ペトロはその後も、朝毎に鶏の声を聴き続けるのです。

 

                    **************

 

元々は〈シモン〉という名だったガリラヤ湖の漁師に、〈岩〉という意味の〈ペトロ〉と名付けられたのはイエスさまでした。

 

ペトロは使徒言行録4章13節で「無学な、普通の人」と紹介されています。

 

だからこそ、〈律法も知らない、勉強の足りないヤツだ〉なんて言われないように、気合いと熱意でこれまでイエスさまに従って来たことでしょう。

 

人は一見強そうに見えても、自分でも気づかないひび割れを抱えている存在です。

 

岩は崩れ落ちました。ペトロは独り激しく泣いた。自分の愚かさ、罪深さに初めて真正面から向き合ったのです。

 

                    **************

 

神の愛は、砕け落ちたわたしたちを決して見捨てません。

 

わたしたちには復活のイエスの愛がある。待ちましょう 主の復活を。もう一度聴きましょう 主の愛の言葉を。受けましょう、キリスト・イエスの聖霊を。

 

       きのうも今日も かわりなく  血しお滴(したた)る み手をのべ、
      「友よかえれ」と 招きつつ  待てるは誰(たれ)ぞ、主ならずや。
                                                 (讃美歌21-197④節より)end

 

 


2017年3月12日(日)の献花。亮子さんが正面からでは見えないところに生けておられたのがこの〈紫色〉のお花。「そして、イエスに紫色の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王、万歳と言って敬礼し始めた」(マルコ福音書14:17)に通じるレント・受難節の色です。
2017年3月12日(日)の献花。亮子さんが正面からでは見えないところに生けておられたのがこの〈紫色〉のお花。「そして、イエスに紫色の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王、万歳と言って敬礼し始めた」(マルコ福音書14:17)に通じるレント・受難節の色です。

         《  み言葉 余滴  》 94

      2017年3月12 主日礼拝からの"余滴" 

    『 〈最初(さいしょ)〉の晩餐 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 26章26節~28節
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 

食べることを大切にされていた大先輩牧師の思い出があります。

 

残念ながら70歳そこそこで天国へ召された、藤原亨(とおる)先生という方です。

 

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私が神学生になる前は鹿児島加治屋町(かじやちょう)教会の牧師でした。奄美大島のハンセン病の療園教会訪問の中継点として銀座教会の先輩方と共に伺った折り、礼拝で証しの機会を頂きました。

 

その後、神学生時代に、転任された富山県砺波(となみ)市にある出町(でまち)教会で再会します。夏期伝道実習生としてお世話になったのです。牧師館で食卓の祈りもご一緒したのは懐かしい思い出です。

 

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藤原先生。私が新潟県上越市の高田教会に着任したことを知ると「これ、日本一のお焼きだよ」と言いながら、信州名産のお焼きを、袋いっぱいに抱えて来て下さいました。

 

そんなこともあって、隠退後は、私が兼務していた妙高市・新井教会の礼拝応援に二ヵ月に1度は、富山県から改造した車に寝泊まりして駆けつけて下さるなどして、本当に熱いこころをもってご指導下さった方でした。

 

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そんな藤原先生がこう言われたのです。「人は、他のことは忘れても、誰とどこで、何を食べたかを忘れないもの。食べることは大切なんだよ」と。

 

私の場合、幼い頃の朝食は忘れられません。味噌汁は豆腐と油揚、ワカメ、ナス、キャベツ等。魚系では、目刺し、アジのみりん干し、焼きたらこ等。他には、鯖の味噌漬けがよく出たことを直ぐに思い出せます。

 

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世界の多くの画家たちが、聖書から何かを描こうとする時に欠かせないのが「最後の晩餐」という名で知られるようになったこの場面です。正式には「過越の食事」というものです。

 

聖書の中に登場する古い人々は、過去の恵みを振り返り、苦難から救いだして下さった神さまの愛を忘れないようにするために、様々な工夫をしました。

 

それが春先の「過越の食事」です。

 

出エジプト記12章24節 に【あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。】と教えられている通りにです

 

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ところが、イエスさまは、当時の人々からすると「えっ、何?ちがうよ」と思うような仕方で「過越(すぎこし)の食事」を終えられるのです。

 

実にこの晩餐は〈最後〉ではなく〈始まり〉の合図でした。イエスさまは新しい道を、深い祈りをもって踏みだされたのです。

 

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主が裂いて分かたれたパンを食べること。イエスさまが祝福されたぶどう酒を飲むことの意味に気付いた最初のクリスチャンたち。

 

彼らは「過越(すぎこし)の食事」はもうやめにしました。そして、新しい道へと踏みだすのです。

 

そして私たちも、イエスさまがこの時になさった「最初(さいしょ)の晩餐」の仕方を、日曜日の礼拝で大切にしています。ずーっと、これからも、とこしえに。end

 


2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。
2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。

        《  み言葉 余滴  》 93

     2017年3月5 主日礼拝からの"余滴" 

      『  誰がユダでないのか

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 ◎マタイによる福音書 26章20節~22節、25節
20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。・・・・・・25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 

幾つもの国語辞典で「裏切り者の意味の代名詞」とまで解説される人がイエスさまによって召し出された12人の弟子の中に居ました。

 

イスカリオテのユダです。

 

〈イスカリオテ〉は旧約聖書に3度出てくるケリヨトという地名と関係しているようです。〈ユダ〉という名前は聖書の中の中心的な民であるユダ族、そして、ユダヤ人とも深い繋がりがあります。皮肉なものです。

 

**************

 

ガリラヤで漁師をしていたペトロら4人や、徴税人だったマタイなどに比べると、イスカリオテのユダは、12人の中でも異質の人だったと想像できます。

 

ヨハネによる福音書12章6節では【彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた】とまで言われているのです。

 

会計係を仰せつかるという位に12弟子たちの中では信頼の厚い存在だった。

 

そのユダが、イエスを抹殺しようと策略を練っていた祭司長たちに対して、僅か銀貨30枚で掛け替えのないお方を売り渡すのです。サタンの働きです。魔がさすとはこのことでしょう。

 

**************

 

なるほど、裏切り者の代名詞、と言われるのも無理もないかも知れません。言い換えれば、罪人なのです。

 

更にユダの印象が悪いのは、彼の最期と無関係ではありません。マタイによる福音書では27章にこうあります。

 

【3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。】

 

**************

 

わたしは、イスカリオテのユダのことを、自分とは縁遠い人物とどうしても思えません。聖書の文面には出てこない、ユダにはユダの言い知れない悲しみがある。そう思えてならないからです。

 

ただ一点、ユダの悲劇と結び付くのではと感じるイエスさまの宣教の第一声があります。マタイ福音書4章17節です。主イエスは【悔い改めよ。天の国は近づいた】と言って、私たちも含むこの世への宣教を開始されました。


ユダに必要だったのは、単に「後悔する」ことではなく、「帰るべき場所に立ち帰ること=悔い改め」だったのです。

 

彼は帰る場所、方向を間違っていた。

 

わたしたちは本当に大丈夫でしょうか。end

 

 

 

 


2017年2月12日(日)の献花を反対側から。向こうの方にはジュニアサークル終了後に朝一で主日礼拝に出席してくださったお二人=親子(お母さまは昔の教会学校の生徒さん)の姿 (^^♪
2017年2月12日(日)の献花を反対側から。向こうの方にはジュニアサークル終了後に朝一で主日礼拝に出席してくださったお二人=親子(お母さまは昔の教会学校の生徒さん)の姿 (^^♪

       《  み言葉 余滴  》 91

    2017年2月12 主日礼拝からの"余滴" 

   『  無力という〈 力 〉 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 15章9節以下
15:9 主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」10 アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。・・・・・・12 日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。・・・・・・ 17 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。18 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。・・・・・・」

 

神さまはアブラムに対して、【三歳の雌牛(めうし)と、三歳の雌山羊(めやぎ)と、三歳の雄羊(おひつじ)・・・・・・をわたしのもとに持って来なさい】と命じられました。

 

一見すると、それらをただ、「連れてきなさい」という話のように見えます。

 

ところが、アブラムは当然のように行動を起こします。

 

【それらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。】とある通りです。

 

**************

 

いずれも三歳の〈 雌牛(めうし)・雌山羊(めやぎ)・雄羊(おひつじ)など 〉を真っ二つに裂く。

 

その場に立ち会っていたら腰を抜かしてしまいそうな場面ですが、アブラムがそこで行動を起こすのには理由(わけ)がありました。

 

**************

 

大切な契約を結ぶ時の定まった仕方があったのです。献げ物を真っ二つに裂いて置き、その真ん中の道を契約の当事者同士が通り抜けていく、という不思議な儀式です。

 

聖書の人々にとって〈契約〉は〈切る〉ものでした。

 

アブラムはそのことを承知していたからこそ、血にまみれる格闘をしながら神さまとの契約の準備をしたのです。

 

**************

 

しかし、契約は妙な形で進みます。

 

何とアブラムは神さまの仕業によって【深い眠り】に襲われるのです。前後不覚の無力な状態です。

 

創世記2章の天地創造の物語で、最後に女が創造される場面を思い起こします。

 

**************

 

【21 主なる神はそこで、人(アダム)を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女(エバ)を造り上げられた】

 

あの時もまた、【深い眠り】が備えられていたのです。

 

これは、人間が自らの意志や力によっては何もできない状況が準備されたということです。

 

神のみ業はこのような形で動き出します。アブラムの深い眠りの中、神さまは、おひとりで契約の道を抜けて行かれたのです。

 

**************

 

からし種ひと粒の信仰が与えられるのは、順風満帆(ぱん)の時ではありません。

 

その反対です。

 

鍵はわたしたちの〈無力〉にあるのです。

 

パウロがこう語りました。

 

【主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。】(第二コリント書12:9)。

 

わたしたちの今の誇りは何でしょうか。

 

 


2017年2月5日(日)の献花。亮子さんが捧げてくださいました。新鮮です。若さが感じられてみんなが嬉しい日曜日の朝でした。
2017年2月5日(日)の献花。亮子さんが捧げてくださいました。新鮮です。若さが感じられてみんなが嬉しい日曜日の朝でした。

       《  み言葉 余滴  》 90

    2017年2月5 主日礼拝からの"余滴" 

   『 〈 アブラム 〉の アーメン 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 15章2節、4節~6節
2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」・・・・・・・4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 

遊牧民の族長として歩むアブラム。彼が一族と共に住み慣れたメソポタミアの地・ハランから旅立ったのは75歳の時でした。この場面、その時から少なくとも10年は経過した頃のことです。

 

甥っ子のロトの救出という、人生の一大事であり大冒険とも言える戦いを終えた、その直ぐあとでした。

 

幻の中、【あなたから生まれる者が跡を継ぐ】という神さまのお言葉を聴きます。ある聖書では【お前の実の子があとつぎになる】(1996年版・フランシスコ会訳)となっている箇所です。

 

                    **************

 

自分と妻サライとの間に血の繋がった跡継ぎが生まれるということ。それは理性的に考えるならば非常にむつかしい段階に入り始めた頃です。

 

既に、信頼する僕エリエゼルにあとを託す準備をしていました。

 

アブラムは神さまから彼ひとりだけ、天幕の外に連れ出されます。サライは天幕の中でぐっすりと眠っていたのでしょう。

 

アブラムはこの言葉を聴きます。【天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい】【あなたの子孫はこのようになる】と。

 

                    **************

 

星というものが、暮らしている地方によって見え方が変わる、ということをアブラムは良く知っている人でした。

 

春・夏・秋・冬の夜空の違いも彼は知り尽くしていたことでしょう。

 

あるいはまた、アブラムは歳を重ねる中で、若い頃には余裕で見ることが出来ていたあれやこれやの星を、老眼が進んで見ることが出来なくなっていたかも知れません。

 

そんなアブラムに対して、神さまは、空の星を見上げよと命じられ、彼の不安や恐れを、わたしが打ち破り、盾となって守り抜くと約束されたのです。

 

                    **************

 

神さまは〈もっとこうしなさい〉とか〈あれこれの準備をしなさい〉と求められたのではありません。

 

ただ、アブラムの「アーメン」を聴きたかったのです。

 

彼は神さまが待ち続けておられた応答をします。【アブラムは主を信じた】とは、「アーメン」したということです。〈こりゃ信実じゃ〉と受け入れた。

 

するとその時、神さまは〈うんうん、それでいいんじゃ〉と深く肯かれた。それが【義と認められた】ということです。

 

信仰とは理屈を越えたもの。水の中にエイッと飛び込むような神の促しに対する応答に他なりません。end

 

 


2017年1月29日(日)雅代さんのお人柄がそのまま表れている、と言うのが本当のところ。献花って本当に素晴らしい(^^♪
2017年1月29日(日)雅代さんのお人柄がそのまま表れている、と言うのが本当のところ。献花って本当に素晴らしい(^^♪

 

      《  み言葉 余滴  》 89

    2017年1月29 主日礼拝からの"余滴" 

   『 スクラップ  そして  新生 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 21章12節~14節
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。

 

子ろばに乗ってゆっくりと都エルサレムに続く緩やかな坂道を進むイエスさまのお姿。

 

それは、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に預言される〈柔和な王〉そのものでした。弟子たちはその傍らを歩きながら、誇らしげな気分でいたのかも知れません、

 

【ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ】という群衆の叫び声は、弟子たちを高揚させたことでしょう。

 

**************

 

エルサレム入場の直前、12人の弟子たちだけを呼んで語られたイエスさまのお言葉があります。それは受難予告でした。

 

【今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。】(マタイ福音書20:18-19)

 

これは初めての受難予告ではなく、もう3度目でした。しかし弟子たちは、つい少し前の主のお言葉を、群衆の叫びの中、すっかり忘れ去ります。

 

**************

 

場面は変わり、神殿の境内に進まれたイエスさま。

 

犠牲の献げ物を通じての商売をしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されます。神殿を取りまく人々に対する怒りを露(あら)わにしているように見えます。

 

大暴れするイエスさまのお姿に触れた弟子たちも驚いたことでしょう。そして、弟子たちの緊張は急激に高まったのではないでしょうか。

 

なぜなら、こんなことをしたら、祭司長や律法学者たちに捕らえられて先生は殺される。それどころか、我々こそ危ないぞ、と。

 

**************

 

過激にも見えるイエスさまの行動。

 

これはある種の破壊行為であることは明確です。

 

ヨハネ福音書2章19節では【この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる】とまで語っておられます。

 

そうです。イエスさまは間違いなく壊そうとされているのです。その怒りとは、単にエルサレムの神殿の周辺に居る人々に向けてのものではありません。それ以上に、イエスさまが壊されなければならないものがあるのです。

 

**************

 

自己中心のせせこましい考え方、異なる考え方を受け入れようとしない頑なさ・・・・・・。今を生きるわたしたちに直結する何かがそこにはあります。

 

極みまでわたしたちを愛して下さるのが救い主イエス・キリストです。破壊の先には、新生の道が備えられています。主に砕かれることを恐れてはなりません。

 

新しい出来事の始まりは、古いわたしたちの終わりとセットなのです。end

 

 


2017年1月15日(日)教会玄関ホールで、カナの婚礼の場面を見つめるひつじさん。感動で動けなくなってます?
2017年1月15日(日)教会玄関ホールで、カナの婚礼の場面を見つめるひつじさん。感動で動けなくなってます?

         《  み言葉 余滴  》 87

        2017年1月15 主日礼拝からの"余滴" 

      『 ボトル一本では足りない 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 2章7節~11節
7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった・・・・・・11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

聖書が「婚礼や婚宴」の場面を通して明らかにしようとするもの。

 

それは、神さまによる「救いへの招き」であり、その救いにあずかる「わたしたちの喜び」です。

 

**************

 

ところが、せっかくの喜びの日に、祝福の徴である〈ぶどう酒〉が足りなくなってしまう。ヨハネ福音書2章の「カナの婚礼」はそんな場面です。

 

肝心な時に何と間の抜けたことでしょう。

 

しかし、ここぞという時に大切なものの欠乏が生じてしまう。それこそが、我々の人生なのかも知れません。

 

**************

 

ここで必要なのはぶどう酒でした。それなのにイエスさまは召し使いたちに、【水がめに水をいっぱい入れなさい】と命じられます。

 

召し使いたちはどうしたでしょう。彼らは不平不満を口にすることも、疑うこともなく、黙々と六つ置かれていた水がめに水を満たしました。

 

主に命じられた単純な仕事を完了することこそ、水がぶどう酒に変わる最初のしるしの大前提です。

 

母マリアの【この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください】(ヨハネ福音書2:5)という言葉も重しになっていたのでしょう。

 

*************

 

イエスさまはこの場面の導入部分で、【わたしの時はまだ来ていません】(ヨハネ福音書2:4)という謎めいた言葉を口にします。

 

これは偶然出てきた言葉なんかではありません。確かに「時」はまだ来ていないのです。

 

しかし「時」はまだ来ていなくても、ぶどう酒の奇跡は起こされます。起こさなければならない理由があるからです。

 

なぜなら、「わたしの時」とは、やがて主イエスご自身の身に起こる〈十字架の出来事〉を指していたからです。準備が必要なのです。

 

*************

 

『 讃美歌21 』513番 ④節を思い起こします。

   

     主は命を 惜しまず捨て
     その身を裂き 血を流した
     この犠牲こそが 人を生かす。
     その主に私は どう応えよう。

 

「主イエスが流される血潮などわたしには必要ない」と誰が言えるでしょう。イエスさまの血潮は一滴は愚か、数滴でも、ボトル一本でも足りません。

 

世の救いのための確かな備えが、宣教の初めに完了していることを、カナの婚礼の奇跡は知らせてくれています。

 

み子イエス・キリストの血潮による救いという、神さまの計り知れない憐れみに心から感謝です。end

 

 


2016年12月18(日)アドヴェント第4主日。雅代さんにの献花に天使ガブリエルの姿?も見えますよ。
2016年12月18(日)アドヴェント第4主日。雅代さんにの献花に天使ガブリエルの姿?も見えますよ。

        《  み言葉 余滴  》 83号

        2016年12月18 主日礼拝からの"余滴" 

        『 土の器としてのマリア 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 1章34節~38節
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

受胎告知がなされた舞台は「ナザレ」という寒村です。

 

英語では寒村を「poor village」と言いますが、「ナザレ」には目立った産業もなく、人家もまばらな村だったと思われます。旧約聖書にも「ナザレ」は一度も出てきません。

 

神さまはそこで平凡に暮らしていたマリアという名もない娘を、救いの福音を宿す〈器〉として選ばれました。マリアとて〈土の器〉に過ぎないことをご承知の上でのことです。

 

彼女の前に姿を現したのは天使ガブリエルでした。旧約に登場する「み使い」がそうであったように、旅人の姿をしていたのかも知れません。

 

**************

 

夫婦というものは、往々にして性格や個性の違いがみられることが多いものです。

 

似たもの同士という言葉もよく耳にしますが、互いの違いを賜物として認め合い、バランスを取り合っているのが夫婦だとすると、ヨセフとマリアの〈押したり引いたり〉を想像してみるのは楽しいものですし、ゆるされると思います。

 

*************

 

神さまは、マリアがマリアとして、より深く生きて行くための扉のありかを、天使ガブリエルを通して知らされたのです。マリアはその扉に、彼女自身の全体重・全存在を委ねます。

 

それが【お言葉どおりこの身に成りますように】という言葉でした。

 

「年若い娘マリアが、よく言えたなぁ」と思わずにおれない程の、聞き逃してはならない厳しさへの覚悟も伴う信仰の言葉です。

 

**************

 

誰に対しても寛容で、善人であり続けることがキリスト者の生き方ではありません。

 

わたしたちにとって肝心なのは、神さまがどのようにご覧になっているのか。ただそれだけです。

 

マリアの姿からこの時代を生きるキリスト者としての覚悟を学びましょう。

 

「天使はいなくなり、その瞬間、マリアのよい評判も一緒に消えた」(『エッサイの木 クリスマスまでの24のお話』・日本キリスト教団出版局・マコックラン著)という言葉を思い起こします。

 

神さまのはかり、神さまの評価こそが、わたしたちが第一に心を向けるべきことなのです。世の評判や視線に振りまわされる生き方から自由になりましょう。end

 

 


2016年12月11(日)アドヴェント第3主日の雅代さんによる献花。実に美しいです。本当に。豊かにされるとはこのこと。
2016年12月11(日)アドヴェント第3主日の雅代さんによる献花。実に美しいです。本当に。豊かにされるとはこのこと。

 

        《  み言葉 余滴  》 82号

        2016年12月11 主日礼拝からの"余滴" 

        『 本当のリッチマン 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 13章14節~16節
14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。16 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。

イエスさまの筆頭の弟子であるペトロと並んで人間味あふれる存在。それが旧約聖書の中ではアブラムかも知れません。17章5節で、「アブラム」の名は主によって「アブラハム」と改名されます。

 

アブラムが率いる一族がネゲブの地で飢饉に見舞われた時、彼は手段を選ばす行動しました。大国エジプトに身を寄せるに際して、何と妻を妹と偽り、エジプト王ファラオに差し出したのです。

 

**************

 

実に不思議なことに、神による裁きである疫(えき)病(びょう)は、アブラムではなくエジプト王に下ります。それを切っ掛けに、一族は先行する神のゆるしを受けてエジプトを脱出しました。

 

しかも、アブラムはエジプト王ファラオからたくさんの財宝や家畜を贈られます。この場面、幾つもの英語の聖書で「リッチ・rich」という言葉が使われます。アブラムはいつしか「リッチマン」になっていたのです。

 

**************

 

妻サライに対して申し訳が立たない一面を抱えることになっていたアブラムです。しかし、実はそれ以上に、故郷を旅立った時から共に歩んで来た甥っ子のロトに対して、伯父(おじ)として、相当に無様な姿をさらしてしまったことは否めません。心の痛みであり恥でした。

 

既にロトが大きな財産を持つようになっていた背景には、単に甥っ子の可愛さゆえだけではなく、そんな気まずい事情も隠されていたと感じるのです。

 

**************

 

一族内での食糧や水に関わる諍(いさか)いを切っ掛けにして、アブラムは甥のロトとの別れを決心しました。僕(しもべ)たちと家畜を引き連れて、意気揚々と進んで行くロトの姿をアブラムは肩を落として見守ります。

 

ところが、神さまは再び、いえ、もう三度(みたび)と言うべきかも知れません。立ち尽くしていたアブラムに臨まれ、「見よ」と彼の頭(こうべ)を上げて語りかけます。

 

【見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。

あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように・・・】

 

**************

 

神さまが約束されたこの言葉を黙想しましょう。

 

「見えるかぎりの土地を永久に子孫に」「子孫を大地の砂粒のように」というようなこと。現実には有り得ないことです。

 

聖書の神さまは〈大嘘つき〉なのでしょうか。

 

**************

 

いいえ。神さまは語られた言葉を信じる者に対して実現なさるお方です。

 

神さまはここで、数えることなど出来ないものによる祝福を与えるという約束を、アブラムを通じて、現代を生きる私たちにこそ明らかにされるのです。

 

信仰をもって生きる人とは、まさに、数えることなど出来ない宝を神さまから受け続ける生き方を、み言葉によって与えられた人に他なりません。本当の豊かさを知る「リッチマン」への招きがここにあります。end

 

 


2016年12月4(日)旭東教会のアドヴェント第2主日のクランツの灯
2016年12月4(日)旭東教会のアドヴェント第2主日のクランツの灯

        《  み言葉 余滴  》 81号

        2016年12月4 主日礼拝からの"余滴" 

      『 パウロが知った聖霊の力 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ガラテヤの信徒への手紙 3章3節以下
3信仰生活が聖霊によって始まったのに、どうして、律法を救いの条件とするのですか。・・・5 もう一度聞きます。なぜ神さまは、あなたがたに聖霊の力を与え、奇跡を見せてくださったのですか。律法を守ろうと努力したからですか。そうではないでしょう。キリストを信じ、全くお任せしたからです・・・7このことから、心から神に信頼する人はだれでも、アブラハムの真の子孫となることができるのです。*文中も含めて『リビングバイブル』より

 

ここでパウロは腹をたてながら愛情を込めて語ります。

 

パウロは若い頃からガマリエルという先生のもとで律法を徹底的に学んできたガチガチの律法主義者でした。

 

当然、律法を守ることを通してこそ、御心にかなう善い人間になれると信じて実践して来ました。

 

*************

 

ところが、復活の主イエス・キリストとの劇的な出会いによって彼は180度の方向転換をします。自身の生き方を振り返る中でこう語ります。

 

【・・・11 律法によってはだれ一人、神の恵みを受けることはできないわけです。神の前で正しいと認められる道は信仰による以外にない、と神さまは言っておられます。預言者ハバククが、「正しい人は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)と語ったとおりです。】(ガラテヤ3:11)

 

すべてを頭で理解し、納得したあとに、パウロが【神の前で正しいと認められる道は信仰による以外ない】と到達したのか、というとそれは違います。

 

興味深いことに、パウロが強調したのは【聖霊】の力でした。【信仰生活が聖霊によって始まったのに】と語ります。聖霊は理論的に解説するのはムツカシイものです

 

しかし、神を求める人に確かに働く力が聖霊です。人が創られた時から必要だったのも「命の息=聖霊」(創世記2:7)です。

 

**************

 

わたし自身の説教者としての歩みを振り返って気が付くことですが、確信をもって、しかも愛をもって説教で語ることができる言葉は本を読んで学んだことではありません。

 

聖霊の力としか言いようのない形で、祈り求め、仕える中で示され、自分の体の一部になる言葉しか、み言葉として語れないのです。

 

**************

 

聖書に精通していたパウロ。彼は多くの信仰者の中から、人の思いを断ち切って神の言葉に服従した人として、創世記15章に描かれるアブラハムの名をあげました。

 

アブラハムが神さまに「よしっ」(「義」)と認められたのは、人間的に考えれば有り得ないことであった年寄りの夫婦が祝福の源となるという約束に身を委ねた時でした。

 

それが信仰だと聖書は伝えています。

 

**************

 

今年もアドヴェントの歩みが進みます。【聖霊】の力はクリスマスの出来事とも深く関係して来ます。

 

救い主を迎える中心人物であるマリアとヨセフにも【聖霊】が臨みます。

 

そして、聖霊はあなたにも働きかけ、新しい人としての歩みを促しています。endす

 

 


2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。
2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。

        《  み言葉 余滴  》 80号

        2016年11月27 主日礼拝からの"余滴" 

      『 スキャンダラスな人々 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 1章1節~3節、6節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、・・・・・・6 エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、

 

新約聖書の冒頭にあるマタイによる福音書の系図。聖書を手にする多くの人が、なんてつまらない話だろう。読み飛ばしたいと思う箇所です。

 

「悪魔が、私たちに神の言葉を読ませないように、眠くならせるための仕業なんですよ」というジョークがある程です。

 

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イエスさまの生涯が描かれている4つの福音書の中でも、マタイ福音書は旧約聖書からの引用が飛び抜けて多いのです。ここには福音書記者マタイの明確な意図があります。

 

彼はある人々に狙いを定めてこの福音書を書き始めたのです。それは系図から話を始めるスタイルに慣れているユダヤの人々です。

 

「ほぅー、系図から始まるのか。こりゃ面白そうだ」と感じるタイプの人たちでした。

 

聖書の舞台であるユダヤの人たちは、自分たちこそ神に選ばれた特別な民なのだ、ということが系図で確認されると嬉しくなるのです。

 

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マタイによる福音書が読まれ始めた西暦70年~80年頃は、もちろん印刷技術などありません。聖書は朗読されるものでした。

 

やがてこの福音書も多くのユダヤ教徒の耳に届くようになります。

 

そこから、波紋が広がり始めるのです。波紋はすぐに大波に変わります。確かにこの系図には、イスラエルの民としての誇り高い歴史を築いて来た人々の名前もありますが、見過ごすことが出来ない人たちのことが含まれているからです。

 

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見過ごすことが出来ない人々とは、恥や破れをさらけ出した人たちのことです。ソロモン以降には、主の目に適(かな)わないことを繰り返したユダヤの王たちの名も続きます。

 

さらに、当時の常識では考えられないことですが、系図にはタマル、ラハブ、ルツなど女性の名があるのです。ダビデと姦淫の関係を持つバト・シェバのことも記録されています。

 

無名の人たちも、後半には多数記されています。もちろん、イエスの母となるマリアもです。

 

この系図に救い主であるイエスさまが繋がっている!躓(つまず)きに満ちたあの人この人。世にあって小さくされた人々が、イエス・キリストの先祖なのです。

 

しかしこのような系図は、選ばれた民としての誇り高きユダヤ人には、スキャンダルに満ちた価値のないものであり腹立たしいものでした。

 

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後ろ指を指されても仕方ない何かを抱えながら私たちは生きています。穴があっても隠れようがない、破れかぶれな過去や現在もあります。

 

そのことを神のみ前で正直に認めることが出来る時、マタイによる福音書1章の系図は、決して読み飛ばすことが出来ない宝物に変わり始めます。

 

だって、私たちの名前も行間から浮かび上がって来るのですから。end

 


2016年11月20日(日)献花。いつもとまたひと味ちがう麗しさがありますね。雅代さんの祈りと共にアドヴェントに向かいます。
2016年11月20日(日)献花。いつもとまたひと味ちがう麗しさがありますね。雅代さんの祈りと共にアドヴェントに向かいます。

        《  み言葉 余滴  》 79号

        2016年11月20 主日礼拝からの"余滴" 

      『 帰るところを忘れない 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 12章10節~11節、13節

         *ギリシア語聖書より(*秦剛平訳・河出書房新社版)
12:1 その地に飢饉が発生した。アブラムはエジプトに仮寓するために、そこへ下って行った。その地で飢饉が猛威をふるったからである。11エジプトに近づいて入ろうとしたとき、アブラムは彼の妻サライに言った。「わたしはおまえが器量よしの女であることを知っている。・・・・・・13そこでおまえは、『わたしは彼の妹です』と言うのだ。そうすれば、わたしはおまえのゆえに丁重にもてなされ、おまえのおかげでわたしは命拾いすることになる。」

 

人間、「乾燥」には弱いものです。

 

乾燥しているということは、「渇き」に直面していることも意味します。

 

アブラムは「その地」で生きて行くことの厳しさも知っていました。「その地」とは直前に移動して来た「ネゲブ」(創世記12:9)。「乾燥している」という意味の地でした。

 

だからこそ、アブラムは神に祈りつつ過ごしていたはずです。み心を問い求めながら。

 

**************

 

ところが、「もう祈ってる場合じゃない」という思いで心の中が一杯になるような「飢饉」が襲いかかります。

 

彼は共に生きる一族を守るため、当時の世界では有数の穀倉地帯であったエジプトへの避難を決断します。

 

思いつきの行動ではありません。常日頃から、砂漠を行き交う商人たちから情報を得ていたことでしょう。

 

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しかし、ぬぐい去れない不安がありました。器量よしの妻サライを巡ってのことです。アブラムは恐れを抱き、わが身の保身をはかります。

 

妻をエジプトの王ファラオに「妹です」と偽ったことは、彼の生涯において、消すことが出来ない汚点でした。

 

サライゆえにファラオの厚意を受けたアブラムですが、やがて事態は一転します。宮廷で疫病が蔓延し、その原因がアブラムの偽証だと悟った王は彼らを追放するのです。

 

裁かれるべきはアブラムであるはずです。しかし、神さまは、その愚かさや弱さをお用いになります。このような愚かな人が、祝福の基として選ばれた人だと聖書は告げるのです。

 

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多くの家畜と金銀をも携えてエジプトを離れたアブラム。

 

意気揚々とネゲブに戻って行ったのでしょうか。

 

いいえ。ネゲブに向かう途上、そして、ネゲブに辿り着いたアブラムは魂に渇きを覚えます。

 

悔いる心をもって、「み言葉をください、降り注ぐ雨のように」(讃美歌21-58)と祈らずには居られない人となっていました。

 

**************

 

自らの行いの浅はかさや惨めさをかみ締めることになったアブラム。

 

彼はネゲブを離れ、あるところに帰ります。

 

そこはアブラムが最初に祭壇を築いた場所でした(創世記13:4)。彼は帰るべきところを忘れていなかったのです。

 

そして、ひざまずき、魂の奥底にあったものを注ぎ出しました。

 

帰れや わが家に 帰れや と主は 今 呼びたもう(1954年版 讃美歌517)

 

目を閉じて静まると、私たちの心にも、「帰れや」と呼ばれる主の声が聞こえて来ます。end

 

 

 


2016年11月13日(日)の講壇です。子ども祝福礼拝が守られた日曜日。雅代さんが祈りを込めて献げてくださいました。
2016年11月13日(日)の講壇です。子ども祝福礼拝が守られた日曜日。雅代さんが祈りを込めて献げてくださいました。

        《  み言葉 余滴  》 78号

        2016年11月13 主日礼拝からの"余滴" 

      『 エゴイストにさよなら 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 6章9節~11節
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。10 御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 

イエスさまは様々な形で祈りを教えてくださいました。

 

ここではキリスト教会が生まれた頃から、「主の祈り」と呼ばれるようになった祈りが伝えられています。

 

当時、お祈りの先生となるべき人々の祈る姿にイエスさまは心を痛めて居られました。

 

イエスさまの目に、彼らは偽善者にしか見えなかったのです。

 

そのような人々を模範とすることのないように、と願われたイエスさまの教えがここにあります。

 

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わたしが神学校に入学して新約聖書の原文を読むために学ぶことになったのがギリシア語でした。

 

現在、東京の信濃町教会の牧師を務めておられる笠原義久先生がギリシア語を担当されていました。

 

単語を少し読めるようになった頃に、笠原先生がみんなに暗記してくるようにという宿題を出されました。

 

「 パテール ヘーモン ホー エン トイス ウーラノイス 」という出だしの言葉から、必死になって暗記したものです。

 

これが「天にまします我らの父よ」と始まる「主の祈り」の原語です。

 

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「主の祈り」の原文を丁寧に読むと、何と9度も繰り返されて強調されている言葉があることに気付きます。

 

それは「我ら・私たち」という複数形の語の「ヘーモン」です。

 

もしも、単数形の「天にまします〈私〉の父よ」と書かれていたら、「エゴー」という語が使われるはずです。

 

でも、そうではなく「我ら・私たち」という複数形が9回続くのです。

 

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身近な言葉で考えてみましょう。

 

「それは君の〈エゴ〉だよ」という時に出てくる「エゴ」という語を思い出してください。

 

日本語の大辞典で〈エゴ〉を引いてみると、「自分本位の考え方や態度。また、そういう考え方の人」という解説があります。

 

「自分本位」に通じる〈エゴ〉は「主の祈り」に出て来ません。

 

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自分の事ばかりが優先し、情けなくなる暮らしを送っていることが多いのが私たちです。

 

しかし、そんな私たちのために、信仰者として確たるものを身に着けて欲しいとお考えになった主イエスが、口伝えで語られたのがこの祈りでした。

 

礼拝で「主の祈り」という呼びかけがなされる時に、ただ、自動再生機のスイッチを入れるのではなく、心の奥底から、共に生きるための祈りとして「天にまします我らの父よ」と心を合わせる姿勢を整えましょう。end

 

 


2016年11月6日(日)の講壇 実はこの角度、この高さにお花がおかれているのは年に数度。聖徒の日の特別な日曜日ゆえに、説教も昔の高い講壇の上から語られました。そして、右側に位置する献花もこの時だけ?
2016年11月6日(日)の講壇 実はこの角度、この高さにお花がおかれているのは年に数度。聖徒の日の特別な日曜日ゆえに、説教も昔の高い講壇の上から語られました。そして、右側に位置する献花もこの時だけ?

        《  み言葉 余滴  》 77号

        2016年11月6 主日礼拝からの"余滴" 

      『 善行ではなく信仰 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ガラテヤの信徒への手紙2章16節  *リビングバイブルより
16 しかし、私たちユダヤ人クリスチャンにしても、律法の行いを守ることによって神の前で正しい者と認められたのではありません。ただ、罪を取り除いてくださるキリスト・イエスを信じる信仰によって認められたのではありませんか。だからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。それは律法によってではなく、信仰によって神に認められるためです。律法の行いを守って救われる人など、一人もいないのですから。

 

ここでは「律法」という語が3度語られます。

 

パウロはこの律法を学び、律法をよく守ることにかけては相当のプライドを持っていた人で、彼の人生の中心には常に律法がありました。

 

律法とは、神の意志によって授けられた「教え」と「戒め」のことです。狭い意味では、旧約聖書のモーセ五書を指します。道徳的な教え、祭儀に関わる規定、社会法規、種々の勧告も含まれます。

 

                    **************

 

人間の知恵によってつくり生み出されたのが「法律」であると考えるならば律法との違いは明確です。

 

しかし、パウロは復活のイエスとの出会いの中で、律法では救いがないと悟ります。律法主義的な生き方の先にあるのは、律法を守りきれない罪による死であると気付いたのです。

 

                   **************

 

旭東教会もその一員であるプロテスタント教会を生み出す切っ掛けをつくった宗教改革者マルティン・ルター(1483-1546)という人が居ました。彼はカトリック教会の僧侶=司祭でした。

 

1517年10月31日。当時の善行観を根底から批判する「95カ条の論題」を公表し、のちに、ローマカトリックの教皇から破門されます。

 

                    **************

 

ルターは神学の学びに徹して教授となり、苦行を重ね、寝る時間も惜しんで聖書を学び、断食をして祈りました。

 

周囲の人々はルターの生活を感嘆します。キリスト教の僧侶として一点の非難されるところもない立派な人と認められていたのです。天国へ行けるのはルターのような人と思われていました。

 

ところが、ルターは「こんな苦しい生活がもう少し続けば、私は死んでしまう」と感じていました。

 

「何時になったら、私は神が私を憐れんでくださるような、敬虔な人間になることが出来るのか」と悩んでいたことを1537年3月当時の説教で語っています。

 

善き行いによっては救われないことを、特にパウロの書簡(ローマ書とガラテヤ書)を通して示されたのです。

 

                    **************

 

私たちも自力では救われません。

 

律法を守り通せる善い人間になることが一番ではないのです。十字架と復活のイエス・キリストに一切を委ねることです。己の力を手放すのです。

 

むしろ、「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:24)と弱さを告白する者になれる時に与えられるものがあります。

 

それが「からし種一粒の信仰」です。end

 


2016年10月9日(日)の旭東教会礼拝堂の献花です。雅代さんの祈りと共に。
2016年10月9日(日)の旭東教会礼拝堂の献花です。雅代さんの祈りと共に。

        《  み言葉 余滴  》 74号

        2016年10月9 主日礼拝からの"余滴" 

        『   出 発 信 仰  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 11章30節、12章1節~2節、4節
11:30 サライは不妊の女で、子供ができなかった。・・・・・・ 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。・・・・・・4アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 

アブラハム(この時点では「アブラム」)・イサク・ヤコブを通じての「族長物語」がここから始まります。

 

以前のわたしは、「アブラハム物語」は創世記12章から始まると思い込んでいました。

 

でも、それでは読み方が足りなかったことにようやく気付きました。

 

アブラハムが175歳で死に、25章11節で埋葬されるまで続く「アブラハム物語」は、11章の最後にとても重要な言葉をさり気なく置いているのです。

 

妻サライ(後(のち)の「サラ」)の紹介の言葉です。

 

【サライは不妊の女で、子供ができなかった】とあります。ある聖書では【石女(うまずめ)】と表しています。

 

**************

 

子孫の繁栄。

 

これは族長であるアブラハムにとって非常に大きな課題でした。それどころか、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」は創世記の初めから語られている中心主題のひとつ。

 

祝福の徴(しるし)です。

 

主のお言葉に従って旅立つアブラハムは75歳。妻のサラは10歳年下。彼らは年若いカップルなどではありません。物事に対しての思慮分別がある年齢に達しています。

 

【わたしが示す地に行け】【祝福の源となるように】という言葉はアブラハムに向けて語られましたが、彼はどのような気持ちでこれを受け止め、旅立ったのでしょう。

 

**************

 

永六輔(えい ろくすけ)さんが先頃亡くなられました。タレント、随筆家、放送作家、作詞家としても知られた方でわたし自身、感化を受けた方です。

 

永さんは言葉を大事にされる方でした。旅を愛され、全国各地の市(し)井(せい)の人々との出会いの中で学び、自らを整えながら生きた方でした。

 

そんな永さんの語録の一つをご紹介します。

 

【20代の夫婦は愛で結ばれる夫婦、30代の夫婦は努力して夫婦、40代の夫婦は我慢の夫婦、50代の夫婦はあきらめの夫婦、60代の夫婦は感謝しあう夫婦】

 

75歳で旅立つアブラハム。そして寄り添う65歳の妻サラ。彼らは永さんにどんな夫婦と呼ばれるでしょう。

 

新約聖書・『ヘブライ人(じん)への手紙』の著者は11章8節以下でアブラハムについてこう記します。

 

【信仰によって、アブラハムは、・・・・・・出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した】

 

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旭東教会の玄関にある傘立てには、なぜか数本の〈杖〉が残ったままになっています。

 

〈杖〉をつきながら教会にお出でになった方のものだと思います。でも、嬉しいことに、教会からお帰りの頃には〈杖〉を手にするのを忘れてしまうほど元気になられたようです!

 

讃美歌の《信仰こそ旅路を、みちびく杖》(21-458)を歌いながら人生の旅を続けましょう。

 

わたしたちも祝福の源になって行けるはずです。end

 

 


2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場
2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場

           《  み言葉 余滴  》 73号

         2016年10月2 主日礼拝からの"余滴" 

         『   待ち続けた人 ラザロ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 11章43節~44節
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

ラザロの復活の物語。

 

ヨハネによる福音書のひとつのクライマックスを迎える場面です。

 

続く12章から、イエスさまはエルサレムに入場され、弟子たちの裏切り、裁判、十字架刑、そして復活と続くのです。

 

ラザロはエルサレムまで3㎞程のところにあるベタニアに暮らしていました。マルタとマリアという姉妹がいます。

 

ラザロの復活が語られる場面であるにもかかわらず、物語はマルタとマリア、そして弟子たち、さらには群衆を中心に展開します。

**************

 

イエスさまとラザロ、そしてその姉妹との関係について福音書記者ヨハネはこう伝えています。

 

【イエスは、マルタとその姉妹(=マリア)とラザロのことを愛しておられた】(11:5)。

 

【わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。】(11:12)。

 

主に〈愛され〉、〈友と呼ばれる〉親しい交わりの中にあることがハッキリと伝えられているのです。

 

ところが、イエスさまは【主よ、あなたの愛しておられる者(=ラザロ)が病気なのです】(11:3)と伝えられても直ぐに行動なさいません。その理由は不明です。

 

とにかく、神の時が来るまで待たせるのです。時間にして96時間。丸4日でした。

 

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聖書が伝えるラザロという人は、ひと言も口を開かない人です。

 

ラザロの役割は、徹頭徹尾、受け身です。彼は登場した時に、既に重病で床にあり、自分では何もできず、マルタとマリアの看護、あるいは介護を受けるだけでした。

 

死んでしまった後はなおさらです。布に包まれ葬られます。そしてラザロは、復活の時にも何も言葉を発しない。彼の体をグルグル巻きにしていた布をほどいたのも周囲の人たちでした。

 

つまりラザロは完全に受け身の人なのです。もっと言うならば、彼は受け身であるところから出発する以外にはない、無力な存在でした。

 

よくよく考えてみると、彼は信じて待ち続け、任せて委ねるしかないのです。

 

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自らの力や思いから弱さゆえに自由になり、イエスさまに信頼し、待ち続けるところから信仰を持つ人になった。

 

それがラザロでした。神さまはラザロのような存在を通して復活の出来事を起こされたのです。

 

これこそ神さまのご計画です。

 

わたしたちにもラザロに倣う道があります。力を抜いてラザロに学びましょう。

 

やがてラザロはイエスに敵対する人々から命をねらわれる程に、その存在を通して証しを始めるのです(12:10)。end

 


2016 年8月21日の献花 会衆席の多くの方はこの角度からお花を見るのかな。雅代さん作
2016 年8月21日の献花 会衆席の多くの方はこの角度からお花を見るのかな。雅代さん作

 

         2016年8月21 主日礼拝からの"余滴" 

          『   愛にひれ伏して  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 8章29節~30節
29・・・この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。

 

エスさまが「わたしに従って来なさい」と召し出された弟子たちを連れて向かわれたのはガリラヤ湖の向こう岸。

 

そこは、異邦人(いほうじん)の地であるデカポリス地方の岸辺でした。

 

弟子たちにとって気の進まない地です。

 

**************

 

悪霊(あくれい)に取り憑(つ)かれた人との出会いはこれまでにも無かったわけではありません。

 

しかし、本当の名前でもない「レギオン」と名乗った人が置かれている状況は痛ましいものです。
*【レギオン】ローマの部隊5,6千人の軍団のこと。

 

〈衣服を身に着けず、墓場を住まいとし、鎖(くさり)でつながれ、足枷(あしかせ)をはめられ、監視を受けている〉とあります。弟子たちは固唾(かたず)をのんで見守ります。

 

**************

 

人間には〈二つの栄養〉が必要だということを15年ほど前に参加した講座で学びました。心底「アーメン」と思い、以来、わたしなりに大事にしていることがあります。

 

二つの栄養のまず一つ目は〈からだの栄養〉です。

 

十分に食べること、安心して寝ること。思いっきり全身を動かすことなどがあります。なるほど、と思います。

 

**************

 

もう一つは〈こころの栄養〉です。

 

どこに居ても暴力やイジメがないという安心と安全。「あなたは大切だよ」という思いが伝わってくる環境。辛(つら)いことも嬉しいことも受け止めてくれる人が存在すること。

 

さらに、誉められたり認められたりの関係があること。「いつもありがとう」と言ってくれる人の存在。「失敗もある。欠点もある。でも、大丈夫だよ」という心が感じられることです。

 

墓場を住まいとしていたこの人が、いのちの危機に直面していたことは明らかです。

 

**************

 

主イエス・キリストは、世の救いを十字架に担ってこの世にお出でになりました。

 

その〈十字架のミッション〉を、弟子たち、教会に託されるのです。

 

息切れすることなく、燃えつき症候群になることもなく、託された使命に関わり続けて行くためには瞬発力だけでは長持ちしません。

 

わたしたちは自分が〈栄養不足〉になっていないか、自己吟味が求められます。愛という名の栄養が不足したままでは隣人を愛する力は持てません。

 

**************

 

愛し続ける力に自信はありますか?

 

イエスさまの前に進み出た人は〈愛〉の前にひれ伏し、そこから本物の自分を取り戻します。

 

これは礼拝でした。これはわたしたちの復活の物語なのです。end

 


2016 年8月7 日の雅代さんによる献花 枯れているのではない。いのちを感じます。ほれぼれ。
2016 年8月7 日の雅代さんによる献花 枯れているのではない。いのちを感じます。ほれぼれ。

 

         2016年8月7 主日礼拝からの"余滴" 

          『   神は忘れたりしない   』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 8章1節
神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御(み)心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。

 

ノアは無口な人なのでしょうか。

 

箱舟の物語の中で彼は口を開きません。

 

礼拝でご紹介した「絵本」や「紙芝居」では、動物や鳥たちが舟に乗り込んでいく時に、交通整理をしながら何やら話しかけているノアの様子が描かれています。

 

**************

 

実は、聖書はわたしたちの心や目を、ノアの〈言葉〉に向けさせようとはしません。

 

もちろんノアのとった行動は忘れてはなりませんが、聖書が伝えようとしていることは何でしょうか。

 

ノアの箱舟の物語の主人公はノアではなく神さまなのです。神さまの言葉と行動はどうだったか。そこに注目しましょう。

 

**************

 

150日にも及ぶ大洪水の中漂流を続けた巨大な箱舟は【アラトト山の上に止まった】(創世記8:4)とあります。

 

「アラトト」という地名は現在の〈トルコ共和国〉と〈アルメニア共和国〉の高原地帯のことです。そして「アラトト山」は標高5千㍍級の山です。

 

先日の説教で、かつてわたしが暮らしていた日本最北の町・稚内の日本海側の海に浮かんでいるように見える〈利尻山(りしりざん)〉を紹介しました。

 

〈利尻富士〉と呼ばれるあの山の標高は1721㍍あります。

 

「アラトト山」の高さを知ると、ノアの箱舟が巻き込まれた大洪水が、いかに凄まじい勢いだったのかが分かります。

 

**************

 

水が減り始める切っ掛けはこのみ言葉でした。

 

【神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御(み)心に留め、地の上に風を吹かせられた】(創世記8:1)

 

これを境にして水が減り始めます。箱舟に乗り込んだものたちは助かったのです。

 

ここで鍵になる語は【御(み)心に留める】という言葉です。

 

ある英語の聖書では【God had not forgotten Noah ・・・】(NKJV)。別の英訳は、【God remembered Noah・・・】(TEV)です。

 

神さまはノア、そして箱舟の乗員たちと動物たちを「忘れていない」「憶えている」。

 

それが【御(み)心に留める】ということなのです。

 

**************

 

かつて、わたしが牧会の現場を離れて1年余りの間、休養をしていた時に知ったことがあります。

 

睡眠障害がひどくなりやせこけました。そんな時、自分が精神的にも肉体的にも限界だということを受け入れられる、腑にストンと落ちる言葉に触れました。

 

「頑張り続けているけれど、ダムから水が溢れそうになっているよ。崩壊寸前。もう穴があいて・・・」というものでした。

 

その時は既に漂流が始まっていたのかも知れません。

 

にもかかわらず、天地創造の神は、ずっと御心に留め続けて下さるお方でした。わたしはその後、再び牧会の現場に立ち、歩き始めました。今も、確かに生きています。end