《  み言葉 余滴  》 礼拝説教の中の一滴をあなたへ


《み言葉"余滴"》は礼拝説教の要約ではありません。説教とは別の角度からの視点でお届けするみ言葉を読んで黙想するためのものです。語られた説教は、「礼拝音声メッセージブログ・西大寺の風」「旭東教会YouTube配信」でお聴きになれます。お覚え下さい。古いものについては容量の都合で随時削除しています。


2019年1月13日 いよいよ2019年も本格的な歩みが始まります(^^♪
2019年1月13日 いよいよ2019年も本格的な歩みが始まります(^^♪

         《 み言葉 余滴 》186号
                  2019年1月13日

  『  やっぱペトロが 好きやねん 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 5章8節~11節 8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも、一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

舞台はガリラヤ湖です。漁師だったシモン・ペトロとその仲間たちが、イエスさまに従い始める時の場面がここにあります。誰にも人生の節目があります。彼らの人生が大きく変わり始めるのがこの時でした。

 

同じ時のことを伝える記事がマルコ福音書、マタイ福音書にもあります。しかし、ルカの描写とは違うのです。群衆が押し寄せてくる様子や、弟子たちが夜通し漁をしたけれど魚は獲れなかった、という話はありません。

 

反対に共通しているのは、岸辺で網を繕う漁師たちの姿です。イエスさまはそんなペトロたちに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけました。彼らは、すべてを捨て、イエスに従ったというのです。

 

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同じ場面とは言え、ルカにはルカの独自の視点があるはずです。私も考えてみました。まず一つ、「深いところまで出て行き、あなた方の網をひろげてごらんなさい」と促される言葉から始まる大漁による驚きがあることに気付きます。

 

田川建三先生は「驚愕(きょうがく)が彼を包んだ」と訳します。その「驚愕(きょうがく)」が起こる程の大漁の結果、ペトロの身に重大事が起こるのです。

 

ペトロは、イエスさまの前にひれ伏してこう言いました。日常語の訳をかかげる『リビングバイブル』では「先生。どうぞ私みたいな者から離れてください。私は罪深い人間で、とてもおそばには寄れません」となっています。

 

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この言葉、この姿勢。ペトロの〈悔い改め〉をあらわしています。福音書記者ルカという人が真正面から取り組んだのが〈悔い改め〉でした。ルカによる福音書を注意深く読み進めると、イエスを信じる者に求められていることが〈悔い改め〉だということが見えてきます。

 

しかし、この場面に限定して考えてみると、〈悔い改め〉は、自分の愚かさに気付くだけでは不十分であることがわかります。ペトロはイエスの足もとにひれ伏します。そしてイエスが聖なるお方であることを認め、自分が罪人であることを認め、告白するのです。そして彼は舟と網をあとにします。

 

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12弟子の筆頭とも言えるシモン・ペトロに対する親近感が我々にはあります。それはまず、憎めないところ、失敗を繰り返してしまうところ。あるいは、無学で普通の人として紹介される点も上げられるかも知れません。

 

ここで私たちは、ペトロに出来て、私たちに出来にくい〈悔い改め〉という課題があることを自覚したいのです。「ありがとう」と言えても「ごめんなさい」は意外と言えないものです。「ごめんなさい」と言えるか言えないか。そのことは人間の品格、ひいては〈キリスト教倫理〉の課題でもあります。新しい人として踏みだしていくために〈悔い改め〉は不可欠です。

 

ペトロは、ただのおっちょこちょいや愚か者ではなく、〈自分の愚かさを素直に認め、告白する〉ことが出来る素晴らしい人だと気付きます。私たちは、今も、これからも、ペトロと近しい人であり続けたいな、と思うのです。end

 

 

 


2019年1月6日 謹賀新年の献花 今年もよろしくお願い申し上げます
2019年1月6日 謹賀新年の献花 今年もよろしくお願い申し上げます

         《 み言葉 余滴 》185号
                  2019年1月6日

  『  13年目の正直を生きた人〈ヨセフ〉 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 41章1節、14節~16節

1 二年の後、ファラオは夢を見た。・・・・ 14 そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。15 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」16 ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

 

閉じこめられていた人、それがヨセフでした。濡れ衣を着せられ、牢屋に放り込まれ、苦渋の中にあったヨセフの目の前にはいつも壁がありました。もう、エジプトの王ファラオに自分のことは伝えられないまま終わる、とあきらめかかっていたヨセフです。

 

ところが、ヨセフが〈壁〉だと考えていたものが、ここでは〈扉〉に変わったのです。そして、彼の人生は大きく開かれていきます。ヨセフという一人の人間の人生の扉だけが開いたのではありません。神を信じる全ての者たちの救いの扉が、何の前触れもなく突如開かれたのです。

 

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それにしても、神さまのなさることは不思議です。否、不思議だと思う事は必ず神さまの力が働いているのです。偶然ではない。神さまはヨセフを待たせたのです。いったん、光が見えかかった宮廷の給仕役とのやり取りから既に2年。それどころか、兄弟たちから見捨てられ、命を落としそうになる恐怖を経験した少年時代からさかのぼると、もう13年です。

 

聖書は何のための2年、あるいは、13年であったのかをひと言も語りません。ヨセフにとって何とも思わない年月であったはずがないのです。祈り続け、待ち続けた年月でした。とりわけ、この2年は長く感じたことでしょう。

 

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ヨセフは、彼が期待し、思い描いていたような形では監獄から出ることはできませんでした。しかし、むしろ、彼の計画通りに事が運ばなかったからこそ、不吉な夢を見たファラオの夢解きの機会が与えられました。神さまのヨセフに対するなさり方は、これが最善でした。

 

私たちも、遠回り、回り道を強いられることがあります。後戻りを求められることもありますし、微動だにしない経験をして来たのではないでしょうか。

 

しかし、自分の計画通りに進まないことすらも、神の憐れみとして備えられていることがここでは示されています。そして、自分が思い描いたとおりに押し通そうとすることを、神さまはおゆるしになりません。

 

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獄中にいたヨセフは何も持たない人でした。そんなヨセフでありながら、豊富なデータや知識を持っているはずのエジプト全土の夢の解き明かしの専門家たちが、手も足も出なかったことを、見事に解決しました。

 

絶大な支配権を持っていた王が、結局は、何も持たない裸同然のヘブライ人・ヨセフに助けを求めて来たのです。ヨセフは何もない者でありながら、必要なものの全てが備えられていた。

 

ヨセフは自分の思い通りにならないことを受入れながら、神がなさろうとしていることに信頼した人です。そして、神に依り頼む信仰だけが、彼の存在の根底を支える力となっていきました。ヨセフはそのような生活の中で変えられていったのです。

 

私たちの人生にも、ヨセフと同じような13年が襲って来ることがあります。だからこそ、見えざる神の御手に生かされていることを信じて、急ぎつつ待つ人になりたい。そこに、私たちが倣うべき信仰の知恵があるからです。end

 

 


2018年12月30日 飼い葉桶に向かう博士たちのクリッペ その後ろ姿
2018年12月30日 飼い葉桶に向かう博士たちのクリッペ その後ろ姿

         《 み言葉 余滴 》184号
                 2018年12月30日

『 マタイによるクリスマスの衝撃 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 2章1節~4節
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 

新約聖書の一番はじめに置かれている『マタイによる福音書』。その特徴のひとつは、「旧約聖書」からの引用がとても多いことです。その多さは、「何となくそうだよね」というようなレベルの話ではありません。

 

私たちが手にしている『新共同訳』や、先頃発行さ(*2018年12月)れたばかりの『聖書協会共同訳』の巻末には、「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」という興味深い附録があります。今回わたしは、その一覧から、「一、二、三・・・」と旧約の引用の数を数えてみたのです。その結果は、マタイ:62回、マルコ:31回、ルカ:26回、ヨハネ:16回というものでした。

 

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マタイによる福音書に旧約からの引用が多いのにはわけがあります。それは先ず何より、旧約聖書をよく知っている人達に伝えたい思いが強いからです。その対象とは、聖書の舞台となっている地に生きるユダヤの人々でした。彼らの聖典は私たちが『旧約聖書』と呼んでいるものです。

 

だからこそ、マタイによる福音書の冒頭1章には、ユダヤ人が重んじる〈系図〉=〈旧約の歴史〉が綿々と続きます。福音書記者マタイは、「あなた方がよーく知っている、あの人この人の延長線上に、イエスというお方は〈救い主=メシア〉としてお生まれになったのだ」と伝えようとしているのです。

 

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そこには、ユダヤ人の伝統を無視するような、福音書記者マタイによるスキャンダラスな挑発が秘められています。メシアの系図における、「タマル」「ラハブ」「ルツ」「ウリヤの妻」という4人の女性たちの登場自体、男性優位のユダヤの社会では異例です。彼女たちは異邦人です。

 

まして、「タマル」と「ウリヤの妻」の男性との結び付き方や出産は「道を外れている」ものでした。マタイは意図して彼女たちを記録するのです。

 

〈トドメ〉は、聖霊によってイエスを身ごもるマリアです。マリアは律法に忠実な男ヨセフのいいなづけでした。ヨセフへの受胎告知は、ただヨセフという男性がチャレンジを受けているだけではないのです。彼はユダヤ人の代表でした。そのヨセフが〈み使いの命じた通りマリアを迎え入れ〉るのです。

 

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東方からの博士たちの登場によって大きく展開し始めるキリストの降誕の物語も、少しクールな目で読み進めると、実にスキャンダラスな内容であることに気付きます。

 

聖書の読み手は、ヘロデという当時のユダヤの大王の残忍さや、星に導かれてやってきた博士たちを巡る美しい物語に目を奪われがちです。しかし、冷静な信仰のまなこが必要なのです。

 

福音の幕開けを託されて東の国からやって来た博士たちの存在です。彼らは明らかに異邦人でした。当時のユダヤ人は、バビロンでの捕囚期(前586-538年)の影響を強く受け、異邦人に対する強烈な拒否感を抱いていました。異邦人はさげすみの対象であり、汚れた者と見なされていました。

 

しかし、救いの到来を証しする使命を担ったのはそのような東方の博士たちでした。それは神のご計画です。何より、星に導かれた博士たちによって開かれていったのは、もっと東方に生きる〈我ら〉の救いの道だったのです。end 

 


2018年12月23日 クリスマス礼拝にて 聖餐卓とクランツと
2018年12月23日 クリスマス礼拝にて 聖餐卓とクランツと

         《 み言葉 余滴 》183号
                 2018年12月23日

『 その日〈マリア〉が引き受けたもの 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章26節~29節
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 

み使いガブリエルは神さまのご用のために大忙しです。エルサレム神殿で仕えるザカリアに現れたのちに、ナザレに暮らすヨセフのいいなずけであるマリアの前にやって来ます。ガブリエルの使命は神さまから託されている〈メッセージ=生涯のつとめ〉をマリアに伝えることです。

 

当時のマリアの年齢は10代半ば過ぎだと言われます。当のマリアは何がなんだかわからないままお告げを聞くことになります。何の準備も出来ていません。でも、それで構わなかったのです。神さまは「準備万端整いました」という人を選んだのではありません。

 

もしも、その選びに条件があるとしたら、ただ、神さまのお言葉に聴き従う心をもっていることでした。

 

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その後マリアが、親戚筋にあたるエリサベトおばさんを訪ねて、ナザレから一人歩いて行った時に、「マニフィカ-ト=マリアの賛歌」を歌い始めます。

 

マリアはその歌の中で、自分自身のことを「身分の低い、この主のはしためにも」(ルカ福音書1:48)と歌います。これは、別の表現をするならば「取るに足らない」「数に入らない」という意味になります。

 

「神の言(ことば)」としてこの世にお出でになるみ子のために必要だったのは、心の真ん中に自分自身の貧しさを自覚する謙虚さがある母胎でした。もしも、私たちがマリアの素晴らしさを捜し求めるとしたらその事実なのです。

 

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使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2章初めの「キリスト賛歌」と呼ばれる歌の中で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。」と記しました。この言葉はパウロが心の底から感謝し、告白した言葉です。私たちも傾聴が必要です。

 

同時に、「キリスト賛歌」で見落としてはならないことがあるのです。それはパウロが、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と続けたことです。この言葉を読み飛ばしたり見て見ぬ振りをすることは出来ません。実に、この十字架のイエスを、ゴルゴタの丘の上で、真下から見上げることになったのがマリアでした。

 

聖霊によって救いのみ子を宿し、母として生きて行くことになるマリアでした。彼女はその後の人生の中で、み使いガブリエルから「おめでとう、恵まれた方。主があなた共におられる」と告げられたことの意味について、人生の途上で、何度もなんども自問することになったはずです。

 

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マリアが引き受けた事柄の本質とは何であるのかについて祈り求めることは、私たちの信仰生活と無縁ではありません。み言葉を頼りにして生きていくことは、のんきで気軽な世の〈お恵み〉とは異なるからです。

 

やがてイエスさまは、群衆と弟子たちに、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」(マルコ福音書8:34)と命じられます。マリアはその十字架を最初に〈恵み〉として引き受けた人でした。end

 


2018年12月16日 待降節・アドヴェント第3主日となりました。三本目のロウソクを灯そう!
2018年12月16日 待降節・アドヴェント第3主日となりました。三本目のロウソクを灯そう!

         《 み言葉 余滴 》182号
                 2018年12月16日

  『 ザカリアとエリサベトによって 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章5節~10節
5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 

天使ガブリエルがエルサレム神殿に姿を現します。ナザレの娘マリアを訪問し、み子イエス・キリストをその身に宿すことになることを告げる直前のことです。

 

神さまのご計画を告げられることになったのは、神殿の聖なる場所で香をたく老人祭司ザカリアでした。一生に一度といわれる務めに集中していたザカリアは、その緊張が吹き飛ぶほど驚き、恐れました。

 

ザカリアの妻エリサベトはアブラハムの妻サラと同様、月のものがとうの昔になくなっていたおばあさんだったことが伺われます。しかし神さまは、彼女の身を通して、救いのみ業を進展させていくご計画をもっておられました。

 

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ザカリアとその妻エリサベトの人生における大転換がここから起こり始めます。

 

しかし、私たちは注意深く、み言葉に向き合いたいのです。なぜならば、ここから始まろうとしているのは、彼ら老夫婦だけの大転換にとどまらない出来事だからです。彼らを通じて明らかにされていく事とは、救いのみ子イエス・キリストの来臨に備える、今を生きる私たちの在り方、生き方に間違いなく通じているからです。

 

もちろん、ザカリアとエリサベトにとって目の前の課題は、生まれ来るヨハネという子をどのように受け止め、育てていくのか、ということだったかもしれません。けれども、ほぼ同時並行的に展開し始めるのは、ナザレの娘マリアの身に起こる救い主の誕生であり、神さまによる救いのご計画でした。

 

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ここで、立ち止まって確認しておきたいことがあります。それはザカリアとエリサベトが、律法を意味する〈戒めと定め〉を誠実に生きていた古いタイプの義人であったという点です。新約聖書の中に描かれる旧約の代表的な人物。それが祭司ザカリアでありその妻エリサベトなのです。

 

同時に、この老夫婦は、律法に対して義なる人でありながら、子どもが与えられない悲しみと恥を背負い、時には、陰口が聞こえてくるような辛い思いをすることもある人たちだった、ということです。実に、イエス・キリストの福音が明らかになるためには、彼ら二人がどうしても必要だったのです。

 

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お告げを受けたザカリア、そしてエリサベト。その後、彼らが信頼を寄せ、従って行ったのは律法ではありません。彼らが信じ身を任せたのは、言葉にはとても言い表しようのない道を指し示す聖霊の導きでした。

 

彼らは世の常識に従って生きる生き方、人の目や人のことばを気にする生き方をはらりと捨てます。二人は律法を守り抜く正しさよりも、神さまがなさろうとしていることに対して身を委ねきる決心した人たちでした。

 

そんな二人の元で成長していったのが洗礼者ヨハネでした。成人したヨハネは、エルサレム神殿の祭司として、うやうやしく儀式を執り行う人になったのではありません。彼の活動の場は荒れ野であり、そこで叫ぶのです。

 

神のみ業のために必要とされたザカリアとエリサベト。

 

彼らは年老いてはいましたが、新しい苦労を感謝と喜びをもって担って行く人たちでした。そしてこの二人は、今を生きる私たちから、決して遠い存在ではないのです。end

 



2018年12月8日 JCクリスマス会のケーキデコレーションに使われた〈せいようひいらぎ〉です。安佐子さんのお宅から届いたはず(^^♪
2018年12月8日 JCクリスマス会のケーキデコレーションに使われた〈せいようひいらぎ〉です。安佐子さんのお宅から届いたはず(^^♪

         《 み言葉 余滴 》181号
                 2018年12月9日

  『 〈ナザレ〉のイエスに乾杯! 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 4章17節~21節
17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

イエスさまの時代、人々は、安息日にあたる土曜日には地域のシナゴーグと呼ばれる会堂に出かけて礼拝を守っていました。私たちが日曜日に礼拝を捧げるために教会に出かけるのと同じです。初期のイエスさまの大切な活動の場が会堂だったこともわかります。

 

とりわけこの場面は「イエスはお育ちになった〈ナザレ〉に赴いて」と紹介されます。ガリラヤ湖畔の町カファルナウムでの活動を終え、故郷に帰って来られたイエスさまのことは、かなり噂になっていたはずです。福音書記者ルカは、〈ナザレ〉におけるイエスさまの言動を相当な覚悟で記すのです。

 

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ところで、ヨハネによる福音書の1章46節にイエスさまの12弟子のひとりとなる「ナタナエル」の姿があります。彼はフィリポを通じて「〈ナザレ〉出身の油注がれたメシアであるイエスという素晴らしい方がやって来るぞ」という知らせに触れた時に、こんな言葉を口にします。

 

「何を言っているんだフィリポ。〈ナザレ〉なんて所から何かよいものが出て来るわけがないだろう」と。聖書(旧約)に一度たりともその名が出てこないような〈ナザレ〉からメシアなんて、馬鹿を言うな、というわけです。

 

兄弟たちや母マリアを含む家族も安息日のシナゴーグにやって来ていたでしょう。預言者は故郷では敬われない、とわかって居られたはずです。しかしイエスさまはその〈ナザレ〉を敢えてお選びになっているのです。

 

〈ナザレ〉には幼い頃からのイエスさまのことをよく知っている人々が多く居ました。兄弟たちや母マリアを含む家族も安息日のシナゴーグにやって来ていたはずです。預言者は故郷では敬われない、とわかって居られたはずです。しかしイエスさまはその〈ナザレ〉を敢えてお選びになった。

 

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〈ナザレ〉は名も知られぬ寒村です。私は、都エルサレムからではなく、イエスさまがそこから本格的な宣教を始められたことに大きな意味を感じます。世には知られていないけれど、苦しみを抱きながら生きている辺境の地に生きる人々を優先して始められる順番に愛を感じるのです。

 

〈ナザレ〉は、世の端っこや隅っことも言えます。それは、人知れぬ病室で病んでいる者やその家族への眼差しに通じます。イエスさまにとって、最初の宣言の地が、中央であるエルサレムであってはならなかったのです。

 

イザヤ書61章をひもときながら、イエスさまは主の恵みの年の到来の福音を宣言するために、ご自身が油

を注がれたメシアとして世に遣わされたことの意味を明確に宣言しました。

 

その内容が、「貧しい人に福音。何かに捕らわれている人に解放。目の前すら見えなくなっている人に視力の回復。圧迫されて重荷に喘いでいる者に自由。」というものでした。

 

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確かに驚きの声は上がりましたが、直ぐに受け入れた人は少数でした。「馬鹿を言うんじゃない。あいつ頭がおかしくなったのか、神を冒とくしている」という声が上がり、命を狙われ始めます。家族も無理解でした。

 

私たちは今日、福音とは躓き、すなわちスキャンダルと裏腹の出来事なのだということを肝に銘じましょう。

 

〈ナザレ〉での出来事は、十字架を含むイエスの生涯において示されることと本質的に何ら変わりがないからです。end

 

 


2018年12月2日 アドヴェント・待降節第一主日の旭東教会礼拝堂はこんなふうでした。ロウソクにも一本灯っています。紫色がこの期節のシンボルです。
2018年12月2日 アドヴェント・待降節第一主日の旭東教会礼拝堂はこんなふうでした。ロウソクにも一本灯っています。紫色がこの期節のシンボルです。

         《 み言葉 余滴 》180号
                 2018年12月2日

   『  救いの到来を待ち望もう 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 21章25節~28節
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 

私たち、いつかどこかでこんな言葉を聞いたことがあるような気がします。「せめてもの罪滅ぼしに、毎朝、境内とトイレのお掃除をさせて下さい」。

 

例えば、新明解国語辞典では「何かよい行いを少しして、今まで重ねて来た罪の埋め合わせをすること。」と解説されるのが「罪滅ぼし」という言葉です。

 

実は、もはや日本では、キリスト教独自の言葉と言っても過言ではない「贖罪」(しょくざい)とか「贖い」(あがない)という言葉を調べていくと、「罪滅ぼし」にたどり着くのです。

 

でも、「罪滅ぼし」は「自分の罪や過ちを埋め合わせする」ことを意味する「償う(つぐなう)」には近いのですが、「贖(あがな)い」とは似て非なるものと言わざるを得ません。

 

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ここで「あなたがたの解放の時は近い」と語られた言葉の中の「解放」という語は、新約聖書の原文であるギリシア語では「アポリュトローシス」が使われています。

 

その聞き慣れない「アポリュトローシス」という語の持つ意味の奥深さを知ることは私たちの信仰を豊かにしてくれます。

 

口語訳では「救い」、新改訳やフランシスコ会訳では「贖(あがな)い」と訳されます。ある英語の聖書は「salvation・サルベーション」とします。海難救助のために働くサルベージ船を思い出します。

 

この「アポリュトローシス」という語は四福音書の中でも、完全に同じ語を使うのはルカによる福音書のこの箇所だけです。これらの意味を総合して思い巡らすことは意義深いことです。

 

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キリスト教を世界に広める働きをなした人に〈パウロ〉という人が居りました。実は「アポリュトローシス」という語を用いて多くを書き残したのが使徒パウロです。

 

パウロは「贖い」に対する理解をキリスト教徒に明確に示す重要な役割を果たしてくれた人、と言うことが出来ます。

 

例えば、ローマの信徒への手紙3章24節には「ただキリスト・イエスによる〈贖い〉の業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」とあります。

 

このロマ書でのイエス・キリストによる「贖(あがな)い」を更に明確に、十字架の上で流された主イエスの血潮と合わせて記したのが、エフェソの信徒への手紙1章8節です。パウロはエフェソ書においては、「この御子において、その〈血によって贖(あがな)われ〉罪を赦された」と記しました。

 

何とイエスさまは、私たちの「罪滅ぼし」のために、十字架に架かり、その命を投げ出して下さいました。

 

いいえ、それだけでなく、不思議な形で罪を取り除かれた者が、キリストの復活の命にあずかるように準備されたのです。

 

                    **************

 

イエスさまはここで、ご自身のことを「人の子」と呼ばれています。当時は天変地異が起こる時にやって来るという「人の子」という言葉に対して〈裁き〉のイメージを抱く人たちが少なからず居りました。

 

しかし、イエスは頭(こうべ)を上げよと言われます。「信頼と信仰、希望をもってその日を待ちなさい」。そう語りかけられているのは他ならぬ〈あなた〉です。end

 

 

 


2018年11月11日 子ども祝福礼拝メッセージ中 イエスの涙とペトロ のつもり
2018年11月11日 子ども祝福礼拝メッセージ中 イエスの涙とペトロ のつもり

         《 み言葉 余滴 》179号
                 2018年11月11日

   『  ペトロ抜きって ありえますか? 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 22章60節~62節

60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。

 

国語辞典は幾つもありますが、聖書の中の人物を解説するものは思いのほか少ないのです。手元にある国語辞典で一番大きな小学館の『精選版日本国語大辞典』では、「ペトロ」についてこう解説します。

 

新約聖書の十二使徒の第一人者。前名はシモン。漁夫であったがイエスの信頼をうけ、ペトロ(「巌」の意)の名を与えられた。キリスト受難に際して逃亡するが、のち回心し、伝道にあたり、ネロの迫害を受けて殉教したという。ローマ教会初代の教皇とされる。

 

『精選版日本国語大辞典』は僅(わず)か120字程でペトロを見事に解説していて的確です。その中身は聖書に詳しいだけでは説明できない部分も含まれます。

 

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12使徒の中でも、その人となりについて比較的良く知られているはずのペトロですが、今回は『精選版日本国語大辞典』の解説に沿って、「ペトロとはいったい何者であるのか」あらためて考えてみましょう。

 

彼は「12使徒(弟子)」の一人で、その「第一人者」と解説されます。元々は何をしていた人なのかといえば「漁夫(漁師)」であり、当時の名前は「シモン」であることが分かります。さらにペトロは日本語では「巌(いわお)」の意味があると教えてくれます。ちなみに英語では「ピーター・Peter」です。

 

ペトロはイエスさまから「信頼」されいたのも事実です。彼は「イエスなんて知らない」「関係ない」「お前が何を言ってるのかわからん」と言って3度主を否み、イエスの眼差しを感じた時に激しく泣きながら「逃亡」します。

 

それなのに、イエスさまはペトロに対して「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22:32)と事前に声掛けされたのです。

 

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立ち直ったペトロ。即ち「回心」したペトロは『使徒言行録』に記録されているように、初期キリスト教会の重要な働きを担う「伝道者」として活躍します。パウロが中心的な役割は担い始める使徒言行録15章までペトロはその姿を現します。

 

さらに、聖書そのものに記された情報ではありませんが、ペトロは歴史あるローマ・カトリック教会の初代教皇に位置付けられているです。現在のローマ市内にあるバチカン市国のサンピエトロ寺院をご存知の方も多いと思います。

 

あの「サンピエトロ」は「聖ペトロ」のことで、ペトロが記念されている大事な礼拝堂があるのです。教会の礎(いしずえ)はペトロその人というわけです。

 

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ペトロは「岩」のように固く強い人だったのかと言えば、決してそうではないことは明らかです。むしろペトロは砕け落ちる岩に過ぎなかった。しかし、砕け落ちる岩であることこそ意味あることだったのです。

 

大きな岩であるよりも「砕かれた魂、砕かれた存在、小さな石ころ」になることを私たちは求められています。頑(かたく)な己(おのれ)が砕かれてこそ本物。それが「キリスト教信仰」そして「キリスト教会」の土台なのですから不思議です。end

 

 


2018年11月4日 聖徒の日の礼拝堂・講壇です
2018年11月4日 聖徒の日の礼拝堂・講壇です

         《 み言葉 余滴 》178号
                 2018年11月4日

   『  ターン、ターン、ターン 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 5章27節~32節
27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。・・・・・・31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

イエスさまから「私に従いなさい」と声掛けをされた徴税人のレビ。彼は過去に経験したことのない眼差しを感じました。そして、収税所の定位置であった席から立ち上がり即座に従います。

 

レビの決意が並大抵のものではなかったことは「何もかも捨てて立ち上がり」という描写から伝わってきます。ひとりの人の人生の大転換がここで起こるのです。

 

同時にレビの目には、つい先頃までガリラヤ湖の漁師だったペトロやゼベダイの子ヤコブ、そして、アンデレの姿も入ったはずです。彼らもまた、自分たちが生きて来た場を離れてイエスに従った人たちでした。

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レビの召命の場面とほぼ同様の記事は〈マタイによる福音書9章〉と〈マルコによる福音書2章〉にも収められています。

 

でも、私たちが今日読んでいる〈ルカによる福音書5章〉には、ひとつの明確な違いがあるのです。ルカ版のレビの召命の記事には、単に「罪人」を招くためにイエスさまが来られたというだけでなく、「悔い改め」を求める言葉がしっかりと記されているという点です。

 

今回私は『聖書語句辞典』を開いて調べてみたことがあります。それは『新共同訳聖書』の中で「悔い改め」という語がどのように使われているか、ということでした。

 

「悔い改め」という語は全部で58回出てくるのですが、旧約聖書ではわずかに6回。新約ではマタイ福音書に8回、マルコ福音書では3回、ルカ福音書では13回、ルカが記した使徒言行録が10回、その他が12回でした。ルカという人の「悔い改め」への関心の高さは特別なのです。

 

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その上で自問してみたいと思います。イエスさまは開口一番「私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉を口にされたわけではありません。まず、「私に従いなさい」と言われたのです。

 

でも、もしも順序が逆だったらどうでしょう。

 

「私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるため」と最初に聞こえて来たとしたら、私たちは〈自分は、悔い改めを必要とするような悪人でも罪深い者でもない〉と判断し、イエスに従うことを躊躇したのではないか。

 

我々にはそんなズルさがあるのです。

 

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芥川賞作家でカトリックの信仰者である重兼芳子さんという方がおられました。彼女は『癒しは沈黙の中に』(春秋社)という書の中でこう記しています。

 

「聖書全般を通じて貫いているメッセージの要約は悔い改めて福音を信じることだ」

 

「神に対して、あなたの前で私は全く不完全ですと告白することが悔い改めだ」

と。

 

「私は罪人である」ということを率直に認めることが出来ない自分を私たちは知っています。或いはまた、過去に於いて悔い改めを経験したことで満足してしまい、いつしか、今の時点での〈悔い改め〉について鈍感になってはいないでしょうか。

 

ルカによる福音書からレビの召命を読む時に、ルカが強調点を置いた「悔い改め」への招きの言葉を無視することこそ罪深いことです。

 

み言葉は私たちに〈ターン〉を求めます。それは、いつでも、どこまでも必要なのです。end

 

 


2018年10月28日の礼拝堂 朝の光の中で
2018年10月28日の礼拝堂 朝の光の中で

         《 み言葉 余滴 》177号
                 2018年10月28日

   『  来たるべき朝を待とう 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 40章12節~15節、23節

12 ヨセフは言った。「その解き明かしはこうです。・・・14 ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。15 わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」・・・23 ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。

 

濡れ衣を着せられ、ヨセフはエジプト王ファラオの監獄に放り込まれます。普通の人間であれば、もうとっくに諦めてしまいそうなところです。あるいは、当のヨセフもさすがに滅入ってしまったかも知れません。

 

ヨセフが牢獄に入れられた年月がどれほどの期間であったのか明確には告げられていません。彼が30歳の時に宰相としてファラオの前に立てられることなどからすると、10年近くの間、彼は不自由な身のまま監獄の中で過ごしていたはずです。10年。それは決して短い時間ではないのです。

 

しかし、ヨセフは諦めません。父ヤコブが五里霧中の状態に置かれた時に、「わたしはあなたと共にいる」「私は決してあなたを見捨てない」(創世記28章15節)という語り掛けを受けたように、ヨセフも主が共に居られるという支えを信じていました。時が来るのを待っていたのです。

 

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甘やかされて育ったヨセフでした。でも、彼はいつの間にか変わっています。人は変わる、いえ、変えられるのです。もはや、父親頼みなどあり得ませんから、神さまに依り頼むしかない。しかし、〈神に依り頼むしかない〉という状況こそ、人が新しくされて行くのに必要な環境なのです。

 

『讃美歌21』の469番に「善き力にわれかこまれ」があります。ナチスドイツと闘い、ついには牢獄に入れられたボンヘッファーというキリスト者であり牧師が詩を書いた賛美歌です。その〈5節〉を想い起こしました。

 

          善き力に 守られつつ 来たるべき時を待とう
          夜も朝も いつも神は われらと共にいます。

 

ヨセフはこのような信仰を生きる人になっていました。艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を、練達は希望を生み出したのです。その労苦に意味がありました。やがて彼は知るのです。この苦しみには意味があったということを。

 

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ヨセフの希望の源は主なる神にあった。それは間違いないことです。しかし、その一方で、ヨセフも人の子でした。神に示された夢解きをしながらも、人頼みの一面を持っていたことを記録しているのが聖書の面白いところです。ヨセフは決して完全な人ではありませんでした。

 

ヨセフは、夢解きの通りに命拾いをすることになる献酌官に対して、四度、念には念を入れて頼みました。「私のことを思い出して下さい」「どうか私に恵みを施して下さい」「ファラオに私のことを話して下さい」「この家から私を出させて下さい」(創世記40章14節、左近淑訳)と。

 

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結果はどうだったのか。ヨセフは献酌官に忘れられるのです。今日か、明日か、一週間後か。期待に胸を膨らませて待ち続けた彼の元に吉報は届きませんでした。結局2年の時が過ぎゆくのです。この時のヨセフは何を教えられたのでしょうか。私は思います。それは人頼みの限界だった、と。

 

だからこそ、聖書の神は、イエスさまの口を通して私たちに問い、私たちに求めます。「あなたは私を信じるか」「あなたは私を愛しているか」と。end

 


2018年10月21日礼拝堂 献花です(^^♪ 秋本番 聖霊降臨節最終主日
2018年10月21日礼拝堂 献花です(^^♪ 秋本番 聖霊降臨節最終主日

         《 み言葉 余滴 》176号
                 2018年10月21日

   『  まことの幸いへの招き 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 5章1節~3節
1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 

坂本九さん(1941-1985)の歌った大ヒット曲『幸せなら手をたたこう』をご存知の方は多いと思います。私たち、人生の中で一度ならず、二度、三度と歌った記憶があるのではないでしょうか。

 

春の教会のピクニックで歌った記憶もあります。あの曲、スペイン民謡に乗せてこう歌います。

     

  幸せなら 手をたたこう 幸せなら 手をたたこう
  幸せなら 態度でしめそうよ ほら みんなで 手をたたこう
      
  幸せなら 足ならそう 幸せなら 足ならそう
  幸せなら 態度でしめそうよ ほら みんなで 足ならそう

 

ちなみに、日本語の歌詞は、クリスチャンの木村利人(りひと)という方が作詞したものです。手を自然にたたきたくなるような幸せ。笑顔で足を鳴らせるような幸せを私たちは生きているでしょうか。イエスさまが宣言される「幸い」を、心の底から「アーメン」と言えるだろうか。み言葉は問いかけてきます。

 

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ガリラヤ湖に近い山の上にイエスさまが腰を下ろされて語り始められた八つの「幸い」は、直ぐに納得できるような内容ではありません。

 

まず、冒頭の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」を一度聞いただけで、「あー、良かった。私の心を言い当てている言葉だ」と素直に認められる方がどれほど居られるでしょう。

 

むしろ、違和感を感じたり、「そんなこと言われてもなぁ」と躊躇(ちゅうちょ)を覚えるのではないでしょうか。なぜなら、私たちはいつも〈こころ豊かに〉生きることを求めていますし、〈悲しむ〉よりは〈楽しむ〉ことのほうが心地よいからです。

 

しかし、信仰に生きるためには違和感も大切な意味を持つのです。

 

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イエスというお方を通して示される〈福音〉。その内容は実にしばしば逆説的なものです。そもそも、十字架のイエス・キリストの死こそが私たちの救いだとは普通には受け止められません。むごい処刑の手段である十字架が救いに結び付くことなど、世の常識では考えられないのです。

 

ところがイエスさまは、その信じがたい教えをこれから実践し始めるぞ、と宣言されたのです。その意味がわかるようになるためにイエスさまがなさったことがあります。ほんの少し前の4章18節以下で、ガリラヤ湖の漁師だったペトロとアンデレら4人の弟子たちを召し出される時に、ただひと言、こう語りかけられました。「我に跟(つ)き来たれ」(永井直治訳)と。

 

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漁師たちへの「我に跟(つ)き来たれ」の呼び掛けと、山上の垂訓の「幸い」の宣言はその根底において深く結び付いています。イエスさまの語られる「幸い」が理解できるようになるための重要な前提が、「イエスにつき従っていく」ことなのです。

 

山上の垂訓が心にストンとは落ちるためには、現場の伴う実践が必要なのです。机の上でのお勉強では身につきません。

 

イエスさまやその仲間たちと、手をたたき、顔を見合わせ、足を鳴らせるような場に飛び込んで行きましょう。イエスさまが進んで行かれる場に身を置き続ける中で、私たちはいつしか、信じる者に変えられるのです。end

 

 


2018年10月14日の礼拝後 右側、迪子さんの在りし日を想いつつ足跡を紹介し祈りを合わせました。(写真は2017年春 寿子さんの洗礼式直後)
2018年10月14日の礼拝後 右側、迪子さんの在りし日を想いつつ足跡を紹介し祈りを合わせました。(写真は2017年春 寿子さんの洗礼式直後)

         《 み言葉 余滴 》175号
                 2018年10月14日

  『  風に吹かれて散らされて 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 8章1節~8節 1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

 

いつもながら聖書が伝えていることは面白くもありますし実に不思議です。じっくりと読んでいると、書かれていることが決して「当然でしょ」「やっぱりね」という内容ではないことに気付きます。聖書を読むことに慣れっこになることはもったいないですし、要注意です。

 

使徒言行録の8章、いえ、それ以前の6章、7章を含めて知らされている重要な情報があります。当時の世界各地に向けてイエス・キリストの福音を運んで行く切っ掛けをつくったのは誰だったのか、ということです。

 

「先生、そりゃパウロでしょ、ここではまだサウロと呼ばれているけれど」という声が聞こえてきそうです。

 

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確かに、キリスト教というものが成立するために果たしたパウロの役割はあまりに大きいのですから、それは正しい答えです。でも、ここでパウロ以前に活躍するのは〈フィリポ〉という人でした。パウロはまだ迫害者に過ぎません。

 

私たち。ここで活躍する〈フィリポ〉という名をしっかり記憶したいと思います。イエスさまの12人の弟子の中にも〈フィリポ〉という名前がありますが、そのフィリポとは別人です。

 

ここに登場する〈フィリポ〉は、もともとは、エルサレムの初代キリスト教会の中で、日常生活の具体的なこと、言わば信者のたちのお世話係7人のうちの1人でした。

 

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もう少し正確に言うと〈フィリポ〉は「散らされた人」でした。或いは「逃げ出した人」「逃げ出さざるをえなかった人」だったのです。そんな彼が安全な場所を求めて逃げ出した場所が〈サマリア〉でした。

 

当時のユダヤ人にとって、ユダヤ教と異教との混合がなされていた〈サマリア〉という地は差別と軽蔑の地に他なりません。そんなところにユダヤ社会の迫害者も追いかけて来ませんでした。そこで用いられたのが、お世話係の〈フィリポ〉だったというわけです。

 

彼は〈サマリア〉で一所懸命に伝道します。しばらくしてから、12使徒のペトロとヨハネが姿を見せますが、〈サマリア〉伝道は〈フィリポ〉抜きには一歩も進まなかったのです。

 

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不思議なこと、そして感謝なこととも言えますが、神さまは〈逃げ出した人〉を用いられるのです。聖書の中の幾人もの逃亡した人たちが、いつしか、大切な働きに仕える人へと召し出されていくのです。

 

創世記では兄を裏切ったヤコブがそうでした。出エジプト記では同胞を苦しめる者を殺害したのはモーセです。命の危険を感じたモーセは40年間の逃亡を続けます。12弟子の筆頭ペトロ、いいえ、それどころか12弟子はみんな、イエスのもとから逃げ出したのです。〈フィリポ〉も逃亡した人でした。

 

逃げるが勝ちとまでは申しません。人間、逃げ出さざるを得ない場面を生きることがあります。夜逃げするかのように雲隠れすることだってあるのです。

 

しかしそこには、〈神さまからの風〉=〈聖霊〉が吹いている。その風にしっかりと吹き飛ばされることが、二度とないチャンスになるのかも知れません。あなたも一度、風に吹かれて飛ばされて、散らされてみませんか。end

 


2018年10月7日(日)世界聖餐日・世界宣教の日の日曜日でした。聖餐を祝う時間の一枚です。
2018年10月7日(日)世界聖餐日・世界宣教の日の日曜日でした。聖餐を祝う時間の一枚です。

         《 み言葉 余滴 》174号
                 2018年10月7日

  『  〈ライフプランナー〉を探せ 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 12章16節~21節
16 「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやる・・・・・・20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 

高校時代からの大切な友人H君。彼は30年近く生命保険会社の営業マンとして頑張っています。

 

東京郊外に暮らし、横浜方面の支店で働いていますが、西日本豪雨の時、「ボランティアで手伝えるようなことがあったら言ってくれよ」と電話がありました。有り難いひと言でした。

 

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H君には〈エグゼクティブ ライフプランナー〉という肩書きがあります。「死亡時の保険金は、掛け金これくらいで幾らです」と伝えるだけではなく、「これからの人生設計をご一緒に考えるお手伝いをいたします」というのが、H君のやり甲斐なのだろうと想像します

 

私が競争の激しい世界で仕事を続けている友のことを少し誇らしく感じるのは、第一線の営業マンとして成功しているからではありません。仕事の面だけでなく、自分に出来ることがあるのならという〈献身〉の思いを、H君のどこかにいつも感じるからです。

 

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イエスさまの譬え話は数多くありますが、唯一〈神さま〉が姿を見せて語り始めるのがこの譬え話です。

『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』という言葉は、神さまにしか語れない。イエスさまはそう考えられたのです。

 

ここで「命」と訳されている言葉は他に言い換えるならば「魂」となります。人の〈生き死に〉は神さまにしか踏み込めないこと。そして〈魂〉への配慮も究極的には同じです。

 

この譬え話、財産があるお金持ちの人だけのものなどでは決してありません。他人事ではなく私たちの問題が秘められています。

 

お金持ちのこの人は、彼の人生の中でも稀にみるような収穫がこの時あったようです。彼は一生懸命に考え、計画性をもって決断しました。

 

「これからに備えて万端の準備をしよう。大きな倉を建てれば、死ぬまで何十年も安心だぞ」と。ところが、何とその夜、神さまは彼の命を取りあげられるのです。

 

                    **************

 

聖書を丹念に読むと浮かび上がってくる重大な課題がこの人にはあったことが分かります。

 

それは彼が〈自分のことしか考えていなかった〉という問題です。聖書の原文では「私が」「私の」「私は」の連続なのがその証拠です。

 

私たちが読んでいる『聖書 新共同訳』ではこの点がいささか不明確でとても残念です。彼は自分の将来が、すべて自分のものだと考えていました。

 

                    **************

 

使徒パウロは、主イエスがどのような足跡を残されたかについて第2コリント書の8章9節で「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」と記しました。

 

私たちが倣うべき道はいつも聖書にあります。

 

実に、私たちはイエスさまのお言葉をもとに、折に触れて人生設計の見直しをするようにと促されているのです。勇気や根気が要ることもしばしばです。

 

                    **************

 

しかし考えてみて下さい。一体どこの誰が、自らの命を投げ出してまでして、私たちのことを考えて救おうとしてくれるでしょうか。

 

他には考えられません。私たちキリスト者の究極のライフプランナーがここに居られるのです。

 

イエスさまは「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)と何度も語られたようです。再スタートは、今ここで、直ぐに始められます。end

 

 

 


2018年9月30日(日)創世記39章からの説教で「ポティファルの妻」をスクリーンに写し出して紹介するときの一枚です。http://kyokuto-words.seesaa.net/で聴けますよ(^^♪ 
2018年9月30日(日)創世記39章からの説教で「ポティファルの妻」をスクリーンに写し出して紹介するときの一枚です。http://kyokuto-words.seesaa.net/で聴けますよ(^^♪ 

          《 み言葉 余滴 》173号
                 2018年9月30日

  『  〈ヨセフ〉その強さの秘密 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 39章1節~4節
1 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。2 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。3 主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、4 ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。

 

ヨセフ物語が本格的に動き始めます。イシュマエル人の隊商に買い取られたヨセフ。彼はカナンの地からエジプトへ奴隷として売り飛ばされました。何百㎞も離れたエジプトへの道です。ヨセフは、とぼとぼと歩かされる道々、何を考え、何を支えとしていたのでしょうか。

 

一体これからどうなるのだろう、という不安があったのはもちろんのことです。しかし、それ以上に大きな痛みがあったはずです。それは家族との断絶でした。10人もいる兄たちが、自分の命までも奪おうとしたという事実は、悲しみ以外の何ものでもありません。

 

更に、自分を愛して止まなかった父ヤコブと永遠の別れになったということも、受け入れざるを得ませんでした。

 

                    **************

 

ところが、ここに居るのは、奴隷として売り飛ばされ、将来もない、夢の持ちようもない、気の毒な人ヨセフではありません。

 

創世記39章は、ヨセフが人間の想像をはるかに超えた力に包まれていたことを読者に伝えます。ヨセフ自

身が特別な力を持っていたのではないのです。

 

「主がヨセフと共におられた」。答えはただそれだけです。これ以外のなにものでもないのです。創世記39章を終わりまで注意深く読むと「主がヨセフと共におられた」という事実を念押しするように4度伝えています。

 

第三者とも言える、ヨセフを買い取ったエジプト人の主人ポティファルも「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た」のです。

 

しかし、腑に落ちないこと、気になることがあるのです。肝心のヨセフ本人はどうだったのか。なぜか、聖書はその点について何も語らないからです。

 

                    **************

 

私はこう読みました。創世記は敢えてそのことを記していないのではないか。言い換えるならば、ヨセフという人が苦難の中にあって、主の臨在を〈知る〉こと以上に大切な姿勢をもって生きていたということです。

 

それは神を〈知る〉のではなく〈信じる〉ということでした。

 

新約聖書『ヘブライ人(じん)への手紙』11章の冒頭にこう記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」。

ヨセフはこのみ言葉の先駆けでした。

 

                    **************

 

年若きヨセフは、一体どのようにして〈信じる〉人となったのか。その鍵はヨセフを溺愛した父ヤコブの存在です。

 

ヤコブは可愛くてならないヨセフに対して、折に触れ、ヤコブ自身が兄エサウの元から逃亡生活を始めた最も苦しい時に示された主の言葉を、口伝えし続けていたのではないか。

 

創世記28章15節にはヤコブに示された「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」という主のお言葉があります。

 

ヨセフは父から受けた言葉を素朴に信じる人として今を生きているのです。

 

復活の主イエスは、不信の弟子トマスに対してやさしく語りかけられました。「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)。end

 

 


2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 
2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 

          《 み言葉 余滴 》172号
                 2018年9月16日

  『  〈ラザロ〉を必要とする神 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 11章1節~6節
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

 

ヨハネによる福音書11章、そして12章のはじめに収められているのは「ラザロの物語」です。マタイ・マルコ・ルカという他の福音書には見られない、ヨハネ福音書だけの独自のものです。福音書記者ヨハネという人は「ラザロの物語」に対して、特別な思いを抱いていたはずです。

 

少し先の12章12節では、イエスさまは子ろばに乗って〈十字架の待つエルサレムへ入城〉されます。その後イエスさまによる弟子たちの〈洗足・告別説教・祈り〉が、ヨハネの筆によって丁寧に描かれます。ヨハネは〈受難と復活の前〉に、ラザロを巡る出来事だけは何としても記録したかったのです。

 

                    **************

 

ラザロはマリアとその姉妹マルタの弟で、その名前の意味は「神は助けられた」というもの。

 

興味深いことに、ラザロはひと言も語らない人としてここに登場します。したがって、ラザロの人柄や性格についても、とうぜん私たちにはわかりません。おそらく、イエス・キリストの福音の出来事を伝える上で、そんなことは、どうでもよかったのです。

 

ラザロのことを紹介する記事として繰り返されているのは、ラザロが「病気」であり「病人」だということです。ヨハネはラザロのことを「病んでいる人」として紹介します。

 

何よりもラザロはイエスさまによって〈復活〉させられる人です。つまり、ラザロは死ぬのです。生きる力を完全に失う人でした。このようにラザロは、徹頭徹尾、弱く、小さな者としてここに居ます。

 

                    **************

 

このようにして「ラザロの物語」を少し遠くから眺めてみると、ひとつの事実に気付かされます。

 

それは「ラザロ」という人物は、マルタとマリアとは対照的な存在だということです。せわしなく働くマルタ、イエスさまの足もとに高価な香油を注ぐことが出来たマリアとも違います。

 

ラザロは自らの力で何もできないのです。復活の出来事と深い関わり合いの中でラザロが登場すること。これも偶然ではありません。もちろん、甦(よみがえ)りの時も、ラザロ自身には何の力もありませんでした。ラザロは神に委ねることしか出来ない存在なのです。それは、決して否定的な事実ではありません。

 

むしろ、そのラザロの持つ無力さこそ、ヨハネ福音書が目指した「あなたがたが、イエスは神の子であり、〈救い主=キリスト〉であることを信じる」(ヨハネ20章31節)ようにするために、どうしても必要なことでした。だからこそ、私たちは「ラザロの物語」から大切な何かを感じるのです。

 

                    **************

 

右往左往する人々とは違いラザロは何と静かな人なのでしょう。彼のことについて聖書が他に何も告げていないことから想像すると、実際ラザロは言葉数が少ない人だったのです。

 

物語の冒頭「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」という表現も、ラザロが数に入っていない感があります。

 

〈復活〉の出来事がなければ、キリスト教信仰は成り立ちません。誰かのために命を捧げて死んで行った偉人はイエスさま以外にも存在します。

 

しかし〈復活〉は別です。ラザロが復活の証人であることの意味はことのほか重いのです。神さまはラザロをお選びになった。ここに神の愛があります。end

 


2018年9月9日(日)説教のさいごに紹介させていただいた、布下アイさんという伝道者の奥さまの記念文集です。岡山教会牧師を経て、今、森牧師が兼務する十文字平和教会を開拓された布下耕読牧師の奥さまです。
2018年9月9日(日)説教のさいごに紹介させていただいた、布下アイさんという伝道者の奥さまの記念文集です。岡山教会牧師を経て、今、森牧師が兼務する十文字平和教会を開拓された布下耕読牧師の奥さまです。

          《 み言葉 余滴 》171号
                 2018年9月9日

  『  ステファノ そして、パウロへ 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 7章51節~53節

51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

 

使徒言行録の6章~7章にかけて活躍する〈ステファノ〉という人物。私はステファノが果たした役割について、これまであまり注目できていませんでした。〈キリスト教最初の殉教者〉だという程度にしか心に留めていなかった。迂闊(うかつ)でした。

 

『使徒言行録』の著者ルカが、まるまる2章にわたってステファノの働きについて記しているのには理由(わけ)があったのです。

 

神さまはステファノという人を通じて大変多くのことを伝えてようとしておられます。ステファノがいなければ、キリスト教は世界的な宗教にはならなかった。12弟子には出来なかった、ある大事なスイッチを入れる役割を彼が果たしているのです。それは、主イエス・キリストの福音をユダヤという地域限定のものではなく、地の果てにまで届けるための切っ掛け作りでした。

 

                    **************

 

そもそもステファノは、「祈りとみ言葉の奉仕に専念」したいと願っていた12弟子たちとは違う働きを担うはずの人だったはずです。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と考えた12弟子たちによって立てられたのがステファノでした。

 

ところがそのステファノ。信仰と聖霊に満ち不思議な業を行っただけでなく、12弟子でもそう簡単には出来なかったであろう〈大説教〉をしました。当時の聖書、今で言うところの「旧約」からの救いの歴史を、ステファノ流の切り口で実に説得力のある形で丁寧に説き明かしたのです。

 

その壮大な説教の締めくくりは、ユダヤ当局の中心メンバーたちの怒りを爆発させ、歯ぎりして悔しがらせ、ステファノを殺さずにはおれない程の鋭い内容でした。

 

                    **************

 

ステファノがなしたこと。それはユダヤの信仰熱心な人々が大切にしているはずの「律法順守」の信仰が形骸化しているという厳しい警告でした。とりわけ、ユダヤ人がユダヤ人であるための「割礼」が、「今のあなたがたには、実のところ何の意味も持っていない」と喝破しました。

 

しかも、「最大の預言者であり正しいお方であるキリストが来られたのに、本来、天使の役割を期待されていたあなたがたは殺してしまった」とズバリ言い当てました。それに対して言い返すことが出来ないどころか、どこかに心当たりがある人々は、ステファノを力で握りつぶすしか道がありません。だから、ステファノは石で打ち殺されたのです。殉教です。

 

                   **************

 

ところがです。神さまはステファノという人を当時のユダヤ人が忌み嫌っていた〈サマリア地方〉そして〈異邦人伝道〉のために用いられたのです。そこに密接にからんで来るのが、後(のち)の大伝道者〈パウロ〉。当時の教会の迫害者〈サウロ〉でした。

 

彼はステファノの力に満ちた説教を聴き、ステファノが死の間際に、迫害する者のために執りなしの祈りをするのを間近で聴きます。その祈りの姿は十字架のイエスの祈りに通じていました。

 

                    **************

 

人は罪を犯した時の自分を決して忘れません。しかし、己の罪を知る人は実は幸いであり、救い主から離れることは出来ないのです。ステファノとパウロ。神はどちらも愛し、そのどちらも必要とされました。end

 

 


2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪
2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪

          《 み言葉 余滴 》170号
                 2018年9月2日

    『  だれよりもたくさん 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 12章41節~44節

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43 イエスは、

弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。」
  


舞台はエルサレム神殿です。律法学者たちの信仰のあり方に対して不快な思いをいだかれているイエスさまがおられます。イエスさまは律法学者たちの〈いやらしさ〉を見抜いておられます。

 

「長い衣をまとって歩き」「広場で挨拶され、会堂や宴席で上座に座ることを喜び」「弱い立場のやもめを踏みにじり」「見せかけの祈りを捧げる」。そんな律法学者たちは、厳しい裁きを受けることになる、と言われるのです。

 

                    **************

 

直後に描かれるのがエルサレム神殿の賽銭箱の前に座っておられるイエスさまでした。イエスさまの目には何が映っていたのでしょう。

 

様々な人たちがそこにやって来たはずですが、冷静に考えると、私たちの献金の仕方、その心の奥底にあるものをイエスさまは全てご存知だということです。

 

献金を献げる人々の様子を観察されたのちに、わざわざ弟子たちを呼び寄せて語り始めたイエスさまのお言葉を、福音書記者マルコが記したのには二つの意味があります。

 

一つは弟子たちに対するこれからの生き方の促しですし、遺言としての意味合いもあります。同時に、初期のキリスト教会を形作ろうとしていた人々に対する強いメッセージなのです。

 

                    **************

 

主が求めておられるのは、名も知られない貧しい〈やもめ〉のあり方から学びなさいということでした。

彼女が握りしめ、そして献げたレプトン銅貨2枚は、この世の価値基準からすると小さく軽いものに過ぎません。

 

ところがイエスさまは、彼女の献げ物を、もっとも重く、価値あるものだと宣言されたのです。これは常識はずれの宣言でした。

 

イエスさまがそのようになさったのは明確な理由があります。献げられたものが、単に生活費全部を意味するのではなく、やもめの〈いのち〉であり〈人生〉〈生涯〉だったからです。

 

「一クァドランスを入れた」の「入れた」という語の原文には、ある種の激しさがあります。例えば「突進する」という意味すらある言葉なのです。

 

彼女はイエスに全てを委ねました。

 

                    **************

 

確かにやもめは〈空っぽ〉になりました。だからこそ、もはや彼女は他のものにしがみついたりしない、完全に委ね切る〈重み〉を持つ人になったのです。

 

やもめの生き方は、十字架の主イエスのお姿と重なっていることに気付かされます。私たちの救い主も〈空っぽ〉になるお方だからです。

 

神さまが私たちの人生のただ中にいつも共におられるようになるためには、私たちの人生という器に「神さま、もっと」「あともう少しだけお願いします」と求める生き方ではなく「空っぽになること」が必要なのです。

 

主は惜しみない愛を、空っぽの私たちに注ぎ続けて下さいます。

 

使徒パウロが第2コリント書9章8節に記した「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」をかみ締めたい。感謝を捧げましょう。end

 


2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪
2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》169号
                 2018年8月26日

   『  タマルの美しさによって 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 38章14節~19節
14 タマルはやもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ティムナへ行く途中のエナイムの入り口に座った。・・・・・ 15 ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。16 ユダは、路傍にいる彼女に近寄って、「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と言った。彼女が自分の嫁だとは気づかなかったからである。「わたしの所にお入りになるのなら、何をくださいますか」と彼女が言うと、17 ユダは、「群れの中から子山羊を一匹、送り届けよう」と答えた。しかし彼女は言った。「でも、それを送り届けてくださるまで、保証の品をください。」・・・・・・ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。19 彼女はそこを立ち去り、ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。
 

聖書の中には様々な〈系図〉がおさめられています。いちばん知られているのが、あのマタイによる福音書1章の〈イエス・キリストの系図〉です。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」という言葉でその〈系図〉は閉じられます。

 

実に興味深いことに、〈イエス・キリストの系図〉にはユダヤの系図には普通は見られないことが書かれています。それは、マリアを含めて5名の〈女性〉が登場し、その存在がきっちりと記録されているという点です。

 

                    **************

 

キリストの系図の中の女性の一人に「タマル」が居りました。族長ヤコブの四男ユダ。彼が息子のためにと探してきて嫁入りしたのがタマルでした。ところが、選ばれて迎えられたタマルの結婚生活は悲しみに満ちたものとなります。神の裁きを受けた夫たちに次々と先立たれるのです。

 

タマルは義父のユダから「暫くの間、やもめのまま故郷で過ごすように」命じられます。まるでタマルは、不幸をもたらす〈疫病神〉のように扱われたのです。

 

当時の「掟」では、子の無いまま夫に先立たれた女に義理の弟がいる場合、よその一族の者と結婚することはありませんでした。ここでは義父のユダが、寡婦のタマルの再婚について責任をもっていました。しかしタマルは、三度目の結婚が舅(しゅうと)によって阻まれていることを知ります。

 

                    **************

 

ついにタマルは、ヤコブの一族の嫁として、当時の最も大切な務め、即ち、子どもを生むために一大決心をします。舅(しゅうと)から子種を得るしか他に私の道は無い、という結論に至ったのです。

 

そこで彼女はあっと驚く行動を取り始めます。それはあまりにもスキャンダラスな方法でした。

 

タマルは娼婦になりすまし、舅(しゅうと)のユダを待ち伏せます。妻を亡くして喪が明けた時期を過ごしていたユダは、道端のベールの女が嫁のタマルだとは露知らずに一夜を過ごします。

 

このような、ある種のいまいましさを伴う出来事を経て、タマルは、イエス・キリストの系図に記録される「ユダはタマルによってペレツとゼラを」の双子「ペレツとゼラ」の母となったのです。

 

      **************

 

不貞を働いたかのように見えるタマルでした。不義の女という烙印が押されてもおかしくないのです。

しかしここでのタマルは呻吟(しんぎん)しながら、その時の彼女にとって唯一と考えた道を選び取りました。

 

聖書は義父のユダが「私よりも彼女の方が正しい」と語ったと記録します。ユダとタマル抜きにして、のちのダビデ王もイエスさまも生まれません。これは〈神のご計画〉でした。

 

                    **************

 

私たちは美しい人生の足跡を残して来たでしょうか。小説に出来るような物語を証し出来るのか。「否」なのです。

 

少しも麗(うるわ)しくなく、デコボコや寄り道ばかり。何ともおさまりの悪い歩みを続けて来たことを思います。少なくとも私はそうです。けれども聖書は、そのような私たちの人生を、主イエス・キリストの存在を通して明確に肯定しています。こんな私たちを神は救って下さる。本当に感謝です。主を賛美し、主を宣べ伝えましょう。 end

 


2018年8月21(火)葡萄ではありません(笑)森牧師が兼務する十文字平和教会近くの「ブルーベリーの畑」にて。摘ませて頂く貴重なときがありました。(^^♪
2018年8月21(火)葡萄ではありません(笑)森牧師が兼務する十文字平和教会近くの「ブルーベリーの畑」にて。摘ませて頂く貴重なときがありました。(^^♪

          《 み言葉 余滴 》168号
                 2018年8月19日

  『  どうなる? ぶどう園の罪人たち 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 12章7節~11節  7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

 

ぶどう園の譬え話を理解するにはその舞台や登場する人々について整理して学ぶ姿勢が必要です。あくまでも譬(たとえ)え話ですから、既に舞台の「ぶどう園」そのものが何かを暗示していることに先ず心を向けましょう。

 

実は「ぶどう園」は聖書の舞台となっている「イスラエルの社会、そこに生きる民全体」のこと指しています。もう少し踏み込むならば「ぶどう園」とは「神の国となるべき理想の場所、そしてその民」ということになります。ぶどう園の譬え話をじかに聴いた人々は、イエスさまがぶどう園を舞台にして語り始めたことに対して最初は好感を持っただろうと私は思います。

 

                    **************

 

そこで暮らしている「農夫たち」は、元来、ぶどう園で一所懸命に生きて来た人たちでした。彼らはいわゆる小作人です。遠くに暮らす「主人」から、一切を任せられ管理する務めを担っていました。「農夫たち」とは神の民として正統的な立場にあると自認している人たちでした。そうなると、ここでの主人とは「神さま」ということになります。

 

もとより小作人たちは真面目な人たちです。ですから、主人に喜ばれ誉めてもらえるように、より多くの収穫を得られるようにと頑張ったのです。おそらく、右肩上がりに収穫量が増していったのではないでしょうか。ところが、人間欲が出て来ます。主人との約束以上のものを欲するようになるのです。

 

やがて彼らは、遠くに暮らす主人が収穫の時期になると送り込んでくる「僕」をいじめ始めます。思うに任せない不自由さを抱えている小作人たちにとって「僕」が目障りで仕方ないのです。次第に暴力に歯止めがきかなくなります。遂にはやって来る「僕」たちをことごとく殺し始めたのです。

 

                    **************

 

当時の人々なら誰もが知っている預言者にエレミヤがいました。彼は涙の預言者と呼ばれることもある苦労人です。エレミヤ書7章25節以下をご紹介します。神の言葉がエレミヤに臨みました。

 

「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで私の僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、私に聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。」

 

ぶどう園の譬え話に当てはめるならば、主人の元から遣わされた「僕たち」の一人がエレミヤだったということになります。農夫たちが遣わされた「僕」をないがしろにして殺してしまうということは、彼らが神殺しをしていたことを意味しているのです。彼らにはその自覚がありませんでした。

 

そもそも預言者は神の言葉をひと言も欠かすことなく世に向けて伝える使命に生きる人ですから、この世と神の板挟みにあって苦しむ存在だったのです。

 

                    **************

 

主人の元から最後に送られて来た人がいます。主人の「最愛の子」でした。ところが、小作人たちは〈待ってました〉とばかりに、主人の愛し子を殺します。ことほどさように、彼らは任せられている国を、自分たちの思い通りにしようとした人たちでした。この愛し子こそ、世の辱めを受け、十字架の上で殺される主イエスだったのです。

 

神を必要としながら、神なしで生きようとする人間の罪が浮き彫りにされます。救いはどこにあるのか。捨てられた主の甦りです。

 

我が身に引き寄せてぶどう園の譬えを黙想しましょう。闇の向こうにほのかな光が見えるのです。end

 

 


2018年8月12(日)の献花 ススキです 秋がすぐそこまで(^^♪
2018年8月12(日)の献花 ススキです 秋がすぐそこまで(^^♪

          《 み言葉 余滴 》167号
                 2018年8月12日

     『  生真面目なあなたへ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 18章9節~12節 

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

 

「罪」という言葉がもつ日本語の響きはどういうものでしょうか。聖書のそれとは何か少し違うように思います。

 

手元にある『明鏡国語辞典』を開いてみました。「罪」の項の解説のやっと5番目に「キリスト教で、神の言葉にそむくこと」とあります。これはかなり説得力があります。7番目の「無慈悲なこと、思いやりのないこと」も、何か身に迫ってくるものを感じます。

 

                   **************

 

ここに登場するファリサイ派の人たち。福音書を読むと分かりますように、常にイエスさまを試したり敵対する人として登場します。ですから私たちは、ファリサイ派というだけで、融通の利かない、どうしようもない人間だと決めつけているところがあるのです。いかがでしょう。

 

でも、実は彼らファリサイ派の人々の根っこにあるのは〈真面目さ〉なのです。よい意味での(ユダヤ教の)信仰者としてのプライドも持つ人たちです。何よりも彼らは、旧約において神の言葉の集約である「律法」に忠実に生きることを大切にしました。本来それはとても善いことなのです。

 

ところが、ファリサイ派の人たちの真面目さは行きすぎてしまうのです。神様のみ心からズレ始めます。いつしか〈律法主義的〉になり、彼らこそ「的はずれな生き方をしている人」になってしまいます。このたとえ話の中でイエスさまが語られた「ファリサイ派」とは対極の「徴税人」よりも、格段に罪深い状態になっていたのに、彼らはそのことについて無自覚でした。

 

                   **************

 

考えてみるとクリスチャンには真面目な人が多いのです。几帳面ですし、ガンバリやさんも少なくありません。行きすぎたファリサイ派の人たちや律法学者たちがイエスさまの前に何度もなんども登場するのは、どうやら深い意味があることに気付かなければならないようです。

 

さらに私たちがファリサイ派の人たちと似ているのは、他人との比較の中で自分の優位性を確かめようとする点です。「自分はあの人よりは・・・・・・」とか「自分の方が・・・・・・よりもまし」「うちの子はさすがにあれほどは・・・・・・」という思考回路が、なぜか〈見えない所〉で動き始めるのです。ファリサイ派の祈りも〈心の中の祈り〉でした。

 

                    **************

 

話の舞台であるエルサレム神殿は私たちに置き換えるならば礼拝の場であり教会です。だとするならば、我々が礼拝に携えて来るべきもっとも重要なことは何なのかを、見つめ直してみる必要があります。

 

『創世記』から『ヨハネの黙示録』まで『聖書』が一貫して伝え続けていることがあります。それは、私たちは例外なく的はずれな生き方をしている罪人だということです。その事実を素直に認め、胸に手を置いて弱さを告白するならば、私たちは必ず神様に受け止められて楽になれるのです。end

 


2018年8月5(日)の献花 ひまわりさん、マジで、ウインクしてました(^_-)-☆
2018年8月5(日)の献花 ひまわりさん、マジで、ウインクしてました(^_-)-☆

          《 み言葉 余滴 》 166号
                  2018年8月5日

   『  ガマリエルが立ち上がったわけ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

使徒言行録 5章34節~42節  34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議員たちにこう言った。・・・38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。

 

使徒言行録に描かれている使徒たちの姿は、様々な点で、現代のクリスチャンのあり方について考えさせられます。イエスさまの十字架の受難の直前に、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った弱虫とはまったく別人です。

 

そもそも、シモン・ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、レビといった無名の人たちがイエスさまの弟子として召し

出され、イエスさまに従って生きていこうという頃、〈教会〉や〈キリスト教〉は存在しなかったのです。彼らはただ、イエスというお方に従って行ってみよう、とだけ考えていた人たちでした。

 

ところが、聖霊降臨ののち、〈無学で普通の人〉である12人は変わりました。彼らは聖霊によって導かれる新しい可能性に期待しているようにも見えます。客観的に見ると、12人はキリスト教会の土台作りを始めているのです。

 

                    **************

 

当時の使徒たちは、エルサレム当局からの迫害を受けていました。「今後はあの名によって教えるな」と脅されていたにも関わらず、決してイエス・キリストの名によって生きる喜びを語ることをやめようとしません。むしろ、ますます力強く、十字架と復活の福音を語り続けました。

 

そのような姿勢は、ユダヤ教の本拠地であるエルサレム神殿を自分たちのホームグラウンドとしている〈サドカイ派〉にとって不愉快で仕方ありません。彼らは「復活」を決して認めない人たちでした。つまり、イエス・キリストの福音と真っ向からぶつかり合うことになる存在だったのです。

 

                    **************

 

と、その時、ある人が立ち上がって最高法院の人々に語り掛けるのです。ファリサイ派の碩学(せきがく)・ガマリエルでした。ガマリエルはその死後、「ガマリエル以上に、律法に対する畏敬と純潔、節制を重んじた者はない」(「新聖書辞典」・いのちのことば社)とまで言われた人です。

 

冷静に考えてみるならば、ガマリエルと言えども、あくまでもイエスさまと対立した〈ファリサイ派〉の一員であることには違いありません。しかし、そのような人物が、思いも寄らない形で助け船をだしてくれたのです。

 

ガマリエルは言いました。

 

「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が・・・神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」と。

 

                    **************

 

ガマリエルは、使徒言行録9章で劇的な回心をする前のパウロに「律法」をたたき込んだ張本人です(使徒言行録22:3・パウロの証し参照)。ガマリエルこそ、キリスト教の迫害者だったパウロを厳しく鍛え上げた人でした。

 

そのガマリエルがいきり立つ最高法院の人々を鎮まらせたのです。

 

この話、何か変だと思いませんか。当たり前のことですか。ここには御手が働いています。聖霊が吹いている。ガマリエルを動かしたのは神です。end


2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま
2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま

          《 み言葉 余滴 》 165号
                  2018年7月29日

   『  ヨセフ物語に見る〈摂理〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 37章4節~11節  4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。・・・・・・ 8 兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。・・・・・・11 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 

創世記37章から50章まで続くのは「ヨセフ物語」と呼ばれる壮大なスケールのお話です。創世記は聖書を読む楽しさに満ちた書ですが、37章からはますますその感が強まっていきます。

 

ヨセフが「夢解き」をできる人として登場することはしっかりと心に留める必要があります。なぜならば、その賜物は神さまからのものであり、ヨセフが既に17歳の時に、彼は夢解きを通じて〈預言者的な役割〉を果たし始めるのです。

 

この先、ヨセフが夢を説き明かす内容は次々と目の前で展開されていくことになりますが、そこには、彼の意志とか力は何も働いていません。

 

                    **************

 

ところで、皆さんは「摂理」という言葉をご存知でしょうか。あるいは使ったことがあるでしょうか。実はヨセフ物語の中に「摂理」というものをハッキリと感じとることができるのです。

 

「摂理?」「なにそれ?」と思われる方も多いと思います。一般に「摂理」はどのように説明されるのかをちょっと調べてみました。

 

まず『広辞苑』では「・・・神がその愛によって、世の事すべてを導き治めること。」とあります。もう一つ『明鏡国語辞典』をみました。「キリスト教で、この世のすべてを導き治める、神の永遠にわたる予見と配慮。」とあるのです。

 

いずれも「ほー、なるほどねぇ」と教えられました。「摂理」の主語となるのは〈神さま〉だということは間違いないと思います。

 

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私はキリスト教の神さまの素晴らしさを「ヨセフ物語」の冒頭に強く感じます。

 

神さまはすべてをお見通しの上で、あえて〈罪人〉を次々に登場させている。そこが、聖書の伝える世界観であり人間像だと思うのです。

 

しかも、ヨセフ物語ではドロドロとした家族関係や、破れ、いさかい、そねみ、恨み、妬みが浮かび上がってきます。きれい事ではすまない事情がある。

 

こうした事情はこの世の現実ですし、どこかで心当たりのある私たちです。

 

                    **************

 

のちに、ヨセフは、当時の世界の大国・エジプトの宰相となります。自分を見捨てた兄弟たちをゆるし、父親との劇的な再会を果たすことになるのです。

 

しかし、創世記37章の冒頭に描かれているヨセフは、どう見ても〈罪人〉のひとりに過ぎない。でも、それでよいのです。

 

不思議なことに、神さまは完璧な人をお創りになりません。欠けのある者にこの世でいのちをくださるのです。神さまが失敗することなどあり得ません。

 

その神さまの作品のひとつが、〈あなた〉であり〈私〉です。そこに、神さまの「摂理」を覚えます。

 

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「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(コヘレトの言葉3章11節・口語訳)というみ言葉を思います。

 

「ヨセフ物語」は紆余曲折が続きます。しかし物語の展開の壮大さと緻密さの中に、神さまの永遠のご計画が垣間見えてくるはずです。

 

そのご計画に、既に巻き込まれている私たちを自覚したいのです。end

 

 

 

 


2018年7月22日(日)の献花を珍しい角度から。夏のファミリー礼拝・ミニサマーフェスティバルの日曜日でした。
2018年7月22日(日)の献花を珍しい角度から。夏のファミリー礼拝・ミニサマーフェスティバルの日曜日でした。

          《 み言葉 余滴 》 164号
                  2018年7月22日

   『  イエスさまが願う〈いちばん〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 9章33節~37節
33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

 

少し前のこと、イエスさまは〈ペトロ・ヤコブ・ヨハネ〉の三人だけを連れて山に登られました。三人はそこで旧約の偉大な人物モーセとエリヤの姿を見るという不思議な経験をしました。彼らはこれまで感じたことのない高揚感を覚えたのです。自分たちは特別な存在になっている、と。

 

イエスさまから「途中で何を議論していたのか」と尋ねられた弟子たちはハッとします。彼らは顔を真っ赤にしてうつむいてしまうのです。

 

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弟子たちは「何を夢中になって話していたのか」とイエスさまに尋ねられた時、舞い上がっていたとも考えられます。「シマッタ、もう少しうまくやればよかった」と後悔したかも知れません。

 

人間というのは、まさしくこういうものです。熱中して話し込んでいると周囲のことが見えませんし、気付かなくなります。弟子たちと同様、私たちもしばしば、神さま抜き、イエスさま抜きで盛り上がってしまうのです。

 

その直後に、イエスさまは〈座り込み〉・〈弟子たち呼び寄せて〉お話を始めます。この姿勢は重要な意味をもちます。上から見おろして偉そうにお話をするのではない。大切なことを同じ目線に身を置いて伝えようとされます。

 

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この時、イエスさまは「〈いちばん〉先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられます。イエスさまが願う〈いちばん〉が語られるのです。

 

私たちは幼い頃から学校や家庭で〈いちばん〉になることが素晴らしいこと、目標だと教えられ考えるようになりました。〈いちばん〉が大好きなのです。果たしてイエスさまが願っている〈いちばん〉を理解しているでしょうか。

 

本田哲郎神父さまは『小さくされた人びとのための福音』というタイトルで福音書を訳されました。この箇所を「だれか、先頭に立ちたい者があるならば、みんなの最後につき、みんなに仕える者になりなさい」とされます。

 

「先頭」=「いちばん」ですが、「最後につく」ことが大事だと読まれたのです。

 

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イエスさまの言われる〈いちばん〉を考える時に「小さい者」や「みんなの最後」という視点は大きな意味をもちます。なぜなら、私たちはうっかりすると、自分自身が〈小さい者〉であること、そして〈最後の者〉として生きていることがあったことを忘れてしまいがちだからです。

 

私は弟子たちを諭されるイエスさまのお姿から、自分自身のことに引き寄せて考えたいと思います。イエスさまは〈軽さ〉〈小ささ〉〈遅さ〉を抱えながらも、ひたむきに生きている者と一緒に歩んで下さるお方なのだと。

 

何と有り難いことでしょう。

 

我々は自分の〈小ささ〉や〈遅さ〉、世にあって〈軽く〉扱われることを嘆くことはいっさいありません。自分のペースで、ゆっくりと、安心して最後の者として歩き続ければよいのです。イエスさまはそんな〈いちばん〉を大切に認められ、愛して下さいます。end

 

 

 

 


2018年7月15日(日)の献花です。37℃の猛暑の日曜日ですが、礼拝堂の献花は暑さに負けず美しいです。感謝。
2018年7月15日(日)の献花です。37℃の猛暑の日曜日ですが、礼拝堂の献花は暑さに負けず美しいです。感謝。

          《 み言葉 余滴 》 163号
                  2018年7月15日

     『  信仰に力は要りません 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 9章22節~29節 
22 ・・・おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」・・・28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。・・・イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

悪霊に取り憑かれた息子と共に生きてきた父親やその家族の悲しみが、読む者の心にじわっと伝わって来る場面です。

 

父親は息子を抱いて、どれほど多くの医者を訪ねまわったことでしょう。また、顔の見えない神にひざまずき、祈りをささげたことでしょう。父親だけでなく、息子の母も、祖父も、祖母も、家族みんなが祈り続けて来た。

 

しかし癒されませんでした。

 

発作で苦しむ幼子と共に苦しみ続けてきた父親は、ついつい、イエスさまを前にして口にしてしまったのです。

 

「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と。

 

期待しては裏切られてきた苦悩がにじみます。父親の正に〈本音〉とも言える言葉をイエスさまは受け止められます。

 

                    **************

 

この時のイエスさまが、進み出た父親の苦悩を知らないわけがないのです。わかって居られました。でも敢えて言われます。

 

「『出来れば』と言うか」と。ここには深いわけがあるはずです。わたしはこう考えます。実はこのお言葉、父親の不信仰を責める言葉ではなかったはずだと。

 

イエスさまにはご計画があったのです。とりわけ、12人弟子には、しっかりと伝えなければならないことがありました。その証拠に、ここでの出来事の最終場面に記録されているのは12人の弟子たちの不信仰なのです。息子を癒してもらった父親のその後がクローズアップされるのでもない。

 

                    **************

 

弟子たちは、悪霊払いなさったイエスさまに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と〈ひそかに〉教えを乞います。彼らは素朴にそう思ったのです。

 

主イエスは機会を逃さずにお伝えになりました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と。

 

この場面、イエスさまが〈弟子たち〉に対してどうしてもこのタイミングで伝えておかなければならない事情があったのです。三度にわたって予告されることになる十字架の受難が迫っていました。

 

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弟子たちにとって、イエスさまに従って行くということは、いつしか誇りとなり、自慢になりつつあったのではないか、と考えます。

 

何しろ、彼らはこの後、〈誰が一番偉いのか〉と論議を始めてしまいます。そしてまた、イエスさまは子どもたちを呼びよせて、「神の国はこのような者たちのもの」である、と弟子たちに教えなければならない心配がありました。

 

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イエスさまが弟子たちに対して徹底的に知らせたかったこと。それは弟子たちの無力さでした。その自覚を持つ者にこそ、信仰が与えられる余地が生まれ、信仰が腑にストンと落ちるのです。

 

実に、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と告白した父親と息子は弟子たちが見倣うべき模範となっていたのです。

 

イエスさまは、「この種のものは、祈りによらなければ」と仰いました。本物の「祈り」がささげられるようになるのは、自分の無力さを痛いほどに知り、委ねるしかないことを知った時です。

 

自分の魂を主のみ前に注ぎ出す祈り。それは祈りをささげる相手に対する信頼が大前提です。信頼はいつしか信仰に変わります。救い主であるイエスさまの前で力は要りません。end

 

 


2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪
2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》 162号
                  2018年7月8日

  『 〈七転び八起き〉を超えたペトロ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 5章29節~32節

29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 

千代崎秀雄先生の『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(一粒社)という本は、私の大切な本のなかの一冊です。

 

あらためて調べて見ると、千代崎先生は、ダビデとパウロを8度取りあげ、一番大きく扱われます。続くのがペトロで7度。次に多いのがモーセの6度です。

 

「ペトロが大嫌い」「ペトロだけはゆるせん」というような声を聞いたことがありません。実にペトロとはそういう人なのです。

 

千代崎先生は第一回目にペトロを紹介する際、その冒頭で「まことに愛すべき人物、ペトロ」と紹介。二度目には「またもや、愛すべきペトロ」と記されます。ダビデやパウロ以上に、ペトロ抜きのキリスト教はあり得ない、というのが私の実感です。

 

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ルカによる福音書の続編として記されているのが、ご一緒に読んでいる使徒言行録です。使徒言行録でのペトロは、原始キリスト教会の力ある指導者・伝道者として登場します。

 

癒しのわざを含め、大いなる力を発揮し、少しクールに見ると、「あのペトロが?」とすら感じるほどです。

 

生まれてから40年もの歳月、足が不自由で身動きできなかった人が、神殿で躍りながら賛美するようになる切っ掛けをつくったのもペトロでした。使徒言行録におけるペトロは、使徒たちを代表して自信をもって語り続けます。

 

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ところで、使徒言行録5章でペトロが立ち上がって説教している場所はどこだったしょう。彼の語る説教の内容を見る以上に、実は、その点を見落としてはならないことなのです。この時の舞台は最高法院です。ここには当時のユダヤの社会の中心人物たちが勢揃いしています。

 

最高法院はイエスさまが不当な裁きによって十字架刑の判決を言い渡される場所でした。あの時ペトロは、すぐ横にある大祭司の中庭で人々に紛れながら身を置き、火にあたりながら裁判の様子をうかがいました。

 

やがて三度鶏が鳴き、イエスさまが振り向いて自分を見つめておられることに気が付いた瞬間、彼は外に出て激しく泣き、崩れ落ちたのです。ルカは福音書を記す時に、ペトロがその時、確かに死んだことへの思いを込めました。

 

今、エルサレムの最高法院に立って権力者たちにおどされているペトロが身にまとっている重要なことがあります。主イエス・キリストが、どんな辱めを受け、あざけられ、罵倒されようとも、世の権力に対して一歩も引くことがなかったお方であることです。それは飲むべき杯でした。

 

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ペトロは変えられました。よみがえりのイエスさまによって吹き入れられた息によって、彼は新しい人とされているのです。古いものは過ぎ去り、全てが新しくなった。

 

彼は一見すると「七転び八起き」を実践した人のように見えますが、復活の命に生きることとは本質的に異なります。

 

ペトロは新しい人です。同じ姿に見えても中身は違います。あなたも私も、ペトロがイエスさまから吹き込まれたのと同じ息によって生かされています。それをアーメンと信じて歩み出した人は全てが変わり始めるのです。end

 


2018年7月1日(日)の献花です。暑くなってきたので、この爽やかさはとっても新鮮でした(^^♪
2018年7月1日(日)の献花です。暑くなってきたので、この爽やかさはとっても新鮮でした(^^♪

        《 み言葉 余滴 》 161号
                2018年7月1日

『  悔い改めさせることは出来ますか 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 6章7節~12節 
7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。・・・・・・10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 

 

聖書は奥深いと感じます。

 

弟子たちを初めて宣教へと派遣する場面をあらためてじっくりと読んでいて非常に気になることがあります。この場面、イエスさまは「杖一本」のほかは、必要最小限の持ち物で宣教の旅に出掛けよ、と命じられます。それは私たちもよく知っていることです。

 

しかし、それ以上に重要な情報がそっと置かれていることに気付かされました。宣教の旅は「二人ひと組」でなさい、というのです。どのような組み合わせで出掛けることになったのかは聖書には記されていません。しかし、好きな者同士で出掛けられたかというと、そんなことはあり得ないはずです。

 

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世の中さまざまなストレスがあるものですが、当事者の弟子たちがもっとも困惑し、ストレスに感じたのは「二人ひと組」で宣教に遣わされる、ということではなかったでしょうか。

 

マルコ福音書2章16節以下で、二組の兄弟が弟子として召し出されています。「シモンとアンデレ」、「ヤコブとヨハネ」です。彼ら兄弟がペアで遣わされたのか。私は違うと思います。

 

12人弟子が使徒として遣わされるということは、全く新たな経験をしながら、様々なことを考えてご覧なさいということです。まだ、よく知り合っていない二人がぎくしゃくしながら、互いの思いも尊重し、時にはこれだけは譲れないと話し合いながら旅を続ける。何と忍耐が求められることでしょう。

 

                    **************

 

そもそも、イエスさまが弟子たちを使徒として遣わされる目的は何だったのでしょうか。イエスさま一人では身が持たないから、おまえさんたちもしっかり頼むよということか。いいえ、そんなわけがないのです。

 

弟子たちに対して、持ち物なしでイエスさまが出会って欲しいと考えられたことは幾つかあったと思います。

 

自分という人間がいかにワガママな存在であり、一緒に助け合いながら歩いて行く人のことを考えることについてすらも、無理解であるということに気付くことだったのでは、と私は考えます。

 

同時に、お世話になる家々でじっくりと話を聴き、力になることの大変さ。そんなこと出来やしない、という現実を肌で感じることも大きな課題だった。イエスさまは「足の裏の埃を払い落とす」ことまで教えておられます。

 

                    **************

 

最も重要な課題。それは〈悔い改めの福音の喜び〉を伝えるとは何であるのか。そのことを考え始めさせることにあったと私は考えています。

 

弟子たちがイエスさまに倣い、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えようとしても、お手上げ状態だったと思います。なぜなら、弟子たち自身が心底からの悔い改めを経験せずに、悔い改めを語ることなど出来るわけがないからです。

 

彼らには十字架と復活が必要です。

 

大阪のどや街・釜ヶ崎に生きる本田哲郎神父さまは「悔い改め」の語を「低みに立って見なおし、福音を信じてあゆみを起こせ」とされました。この訳語は我々のあり方を厳しく問います。

 

もしも、人を変える道があるとするならば、それには先ず、自分自身が変えられて行くことが必要だからです。end

 

 


2018年6月24日(日)の午後 表通りに面した教会入口付近にこちらが素敵に立てられていました。
2018年6月24日(日)の午後 表通りに面した教会入口付近にこちらが素敵に立てられていました。

        《 み言葉 余滴 》 160号
                2018年6月24日

   『  誰の企画・立案ですか? 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 33章1節~5節 

1 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、2 側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。3 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。4 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。

 

ヤコブは恐れていました。苦しんでいました。兄エサウとの20年振りの再会を抜きにして、生まれ育った故郷でのこれからの暮らしはあり得ません。

 

「やぁ、兄さん久しぶりだね」というような調子で顔を合わせられるはずがありません。ヤコブは20年が経った今「やっぱり自分が悪かった」とあらためて思っているのです。

 

しかし、どう考えても「兄さん、本当に悪かった」「ゆるしてくれ兄さん」と言わせてもらえる場面が来るようなイメージが少しもわいてきません。

 

実際、ヤコブが足を引きずりながら進んで行くと、エサウと共に〈400人〉と報告を受けていた一団が土煙を上げながらやって来るのが見えるのです。

 

                    **************

 

その一方で、ヤコブは妙に落ち着いている自分に気付いていました。

 

ペヌエルでの朝方までの角力(すもう)によって、彼は神と格闘し、み顔を見たにもかかわらず、なおも生きている不思議を経験していたからです。ヤコブにしか分からない充足感が残る格闘でした。

 

ヤコブは前日の格闘の中で、自分の魂の内側に秘めていたもの全てを注ぎ出したのだろうと思います。それは〈祈り〉だったと言い換えてもよいものでした。だから、万が一のことが起こったとしても悔いはない、という境地に至っていたのです。

 

一切を神さまはご存知であり、「あなたを決して見捨てない、必ず連れ戻す」と言われた神のみ手のうちに自分は確かに置かれているという確信があったのです。

 

だからこそヤコブは、先頭に立ってエサウの前に進みました。

 

                    **************

 

双子の兄弟が20年振りに向き合った時、何が起こったのでしょう。400人もの部下を引き連れて来たのは、「おやじの喪の日が来たら必ず殺してやる」という呻き声を上げていた兄ではありません。

 

エサウは無骨な狩人としてヤコブを取り押さえに来たのではなく、穏やかな顔で駆け寄って来ます。そして、弟をしっかりと胸に抱きかかえ、口づけするのです。何かを語り始める間もなく、二人は泣き続けました。

 

ありとあらゆる知恵を用いてヤコブが立てた計画は一切必要なかったのです。

 

普通ではあり得ないことが起きている。これは出来すぎた話です。こんな話はおかしいのです。しかし、このような和解の出来事が実際に起こるのであり、それがあなたがたにも必要だ、と創世記のみ言葉は告げています。

 

                    **************

 

ことの成り行きを離れた所から静かに見守っている人がいました。

 

それは、この場面を企画・立案された神さまでした。このお方がプロデューサーとして働いているからこそ、人知を遙かに超えた、広く、長く、深い愛の物語が、イエス・キリストに至るまで広がって行くのです。

 

新しい道を歩き出したヤコブは、「そこに祭壇を建てた」のです。「祭壇」とは〈礼拝〉と〈祈り〉の場です。

 

人生に於いて神とがっぷり四つになる場所がこれからもずっと必要だと知った人ヤコブのなすべき必然でした。end

 


2018年6月17日(日)の夕方 森牧師が兼務する十文字平和教会のお茶の時間に届いて居たまさるさんのお宅のお庭の〈びわ〉です。十文字平和教会のお庭のびわは、今年は不作でした。
2018年6月17日(日)の夕方 森牧師が兼務する十文字平和教会のお茶の時間に届いて居たまさるさんのお宅のお庭の〈びわ〉です。十文字平和教会のお庭のびわは、今年は不作でした。

        《 み言葉 余滴 》   159号
                2018年6月17日

     『  神の家族の誕生 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 6章