《  み言葉 余滴  》 礼拝説教の中の一滴をあなたへ


《み言葉"余滴"》は礼拝説教の要約ではありません。説教とは別の角度からの視点でお届けするみ言葉を読んで黙想するためのものです。語られた説教は、「礼拝音声メッセージブログ・西大寺の風」にてお聴きになれます。お覚え下さい。古いものについては容量の都合で随時削除しています。


2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 
2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 

          《 み言葉 余滴 》172号
                 2018年9月16日

  『  〈ラザロ〉を必要とする神 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 11章1節~6節
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

 

ヨハネによる福音書11章、そして12章のはじめに収められているのは「ラザロの物語」です。マタイ・マルコ・ルカという他の福音書には見られない、ヨハネ福音書だけの独自のものです。福音書記者ヨハネという人は「ラザロの物語」に対して、特別な思いを抱いていたはずです。

 

少し先の12章12節では、イエスさまは子ろばに乗って〈十字架の待つエルサレムへ入城〉されます。その後イエスさまによる弟子たちの〈洗足・告別説教・祈り〉が、ヨハネの筆によって丁寧に描かれます。ヨハネは〈受難と復活の前〉に、ラザロを巡る出来事だけは何としても記録したかったのです。

 

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ラザロはマリアとその姉妹マルタの弟で、その名前の意味は「神は助けられた」というもの。

 

興味深いことに、ラザロはひと言も語らない人としてここに登場します。したがって、ラザロの人柄や性格についても、とうぜん私たちにはわかりません。おそらく、イエス・キリストの福音の出来事を伝える上で、そんなことは、どうでもよかったのです。

 

ラザロのことを紹介する記事として繰り返されているのは、ラザロが「病気」であり「病人」だということです。ヨハネはラザロのことを「病んでいる人」として紹介します。

 

何よりもラザロはイエスさまによって〈復活〉させられる人です。つまり、ラザロは死ぬのです。生きる力を完全に失う人でした。このようにラザロは、徹頭徹尾、弱く、小さな者としてここに居ます。

 

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このようにして「ラザロの物語」を少し遠くから眺めてみると、ひとつの事実に気付かされます。

 

それは「ラザロ」という人物は、マルタとマリアとは対照的な存在だということです。せわしなく働くマルタ、イエスさまの足もとに高価な香油を注ぐことが出来たマリアとも違います。

 

ラザロは自らの力で何もできないのです。復活の出来事と深い関わり合いの中でラザロが登場すること。これも偶然ではありません。もちろん、甦(よみがえ)りの時も、ラザロ自身には何の力もありませんでした。ラザロは神に委ねることしか出来ない存在なのです。それは、決して否定的な事実ではありません。

 

むしろ、そのラザロの持つ無力さこそ、ヨハネ福音書が目指した「あなたがたが、イエスは神の子であり、〈救い主=キリスト〉であることを信じる」(ヨハネ20章31節)ようにするために、どうしても必要なことでした。だからこそ、私たちは「ラザロの物語」から大切な何かを感じるのです。

 

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右往左往する人々とは違いラザロは何と静かな人なのでしょう。彼のことについて聖書が他に何も告げていないことから想像すると、実際ラザロは言葉数が少ない人だったのです。

 

物語の冒頭「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」という表現も、ラザロが数に入っていない感があります。

 

〈復活〉の出来事がなければ、キリスト教信仰は成り立ちません。誰かのために命を捧げて死んで行った偉人はイエスさま以外にも存在します。

 

しかし〈復活〉は別です。ラザロが復活の証人であることの意味はことのほか重いのです。神さまはラザロをお選びになった。ここに神の愛があります。end

 


2018年9月9日(日)説教のさいごに紹介させていただいた、布下アイさんという伝道者の奥さまの記念文集です。岡山教会牧師を経て、今、森牧師が兼務する十文字平和教会を開拓された布下耕読牧師の奥さまです。
2018年9月9日(日)説教のさいごに紹介させていただいた、布下アイさんという伝道者の奥さまの記念文集です。岡山教会牧師を経て、今、森牧師が兼務する十文字平和教会を開拓された布下耕読牧師の奥さまです。

          《 み言葉 余滴 》171号
                 2018年9月9日

  『  ステファノ そして、パウロへ 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 7章51節~53節

51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

 

使徒言行録の6章~7章にかけて活躍する〈ステファノ〉という人物。私はステファノが果たした役割について、これまであまり注目できていませんでした。〈キリスト教最初の殉教者〉だという程度にしか心に留めていなかった。迂闊(うかつ)でした。

 

『使徒言行録』の著者ルカが、まるまる2章にわたってステファノの働きについて記しているのには理由(わけ)があったのです。

 

神さまはステファノという人を通じて大変多くのことを伝えてようとしておられます。ステファノがいなければ、キリスト教は世界的な宗教にはならなかった。12弟子には出来なかった、ある大事なスイッチを入れる役割を彼が果たしているのです。それは、主イエス・キリストの福音をユダヤという地域限定のものではなく、地の果てにまで届けるための切っ掛け作りでした。

 

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そもそもステファノは、「祈りとみ言葉の奉仕に専念」したいと願っていた12弟子たちとは違う働きを担うはずの人だったはずです。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と考えた12弟子たちによって立てられたのがステファノでした。

 

ところがそのステファノ。信仰と聖霊に満ち不思議な業を行っただけでなく、12弟子でもそう簡単には出来なかったであろう〈大説教〉をしました。当時の聖書、今で言うところの「旧約」からの救いの歴史を、ステファノ流の切り口で実に説得力のある形で丁寧に説き明かしたのです。

 

その壮大な説教の締めくくりは、ユダヤ当局の中心メンバーたちの怒りを爆発させ、歯ぎりして悔しがらせ、ステファノを殺さずにはおれない程の鋭い内容でした。

 

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ステファノがなしたこと。それはユダヤの信仰熱心な人々が大切にしているはずの「律法順守」の信仰が形骸化しているという厳しい警告でした。とりわけ、ユダヤ人がユダヤ人であるための「割礼」が、「今のあなたがたには、実のところ何の意味も持っていない」と喝破しました。

 

しかも、「最大の預言者であり正しいお方であるキリストが来られたのに、本来、天使の役割を期待されていたあなたがたは殺してしまった」とズバリ言い当てました。それに対して言い返すことが出来ないどころか、どこかに心当たりがある人々は、ステファノを力で握りつぶすしか道がありません。だから、ステファノは石で打ち殺されたのです。殉教です。

 

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ところがです。神さまはステファノという人を当時のユダヤ人が忌み嫌っていた〈サマリア地方〉そして〈異邦人伝道〉のために用いられたのです。そこに密接にからんで来るのが、後(のち)の大伝道者〈パウロ〉。当時の教会の迫害者〈サウロ〉でした。

 

彼はステファノの力に満ちた説教を聴き、ステファノが死の間際に、迫害する者のために執りなしの祈りをするのを間近で聴きます。その祈りの姿は十字架のイエスの祈りに通じていました。

 

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人は罪を犯した時の自分を決して忘れません。しかし、己の罪を知る人は実は幸いであり、救い主から離れることは出来ないのです。ステファノとパウロ。神はどちらも愛し、そのどちらも必要とされました。end

 

 


2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪
2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪

          《 み言葉 余滴 》170号
                 2018年9月2日

    『  だれよりもたくさん 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 12章41節~44節

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43 イエスは、

弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。」
  


舞台はエルサレム神殿です。律法学者たちの信仰のあり方に対して不快な思いをいだかれているイエスさまがおられます。イエスさまは律法学者たちの〈いやらしさ〉を見抜いておられます。

 

「長い衣をまとって歩き」「広場で挨拶され、会堂や宴席で上座に座ることを喜び」「弱い立場のやもめを踏みにじり」「見せかけの祈りを捧げる」。そんな律法学者たちは、厳しい裁きを受けることになる、と言われるのです。

 

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直後に描かれるのがエルサレム神殿の賽銭箱の前に座っておられるイエスさまでした。イエスさまの目には何が映っていたのでしょう。

 

様々な人たちがそこにやって来たはずですが、冷静に考えると、私たちの献金の仕方、その心の奥底にあるものをイエスさまは全てご存知だということです。

 

献金を献げる人々の様子を観察されたのちに、わざわざ弟子たちを呼び寄せて語り始めたイエスさまのお言葉を、福音書記者マルコが記したのには二つの意味があります。

 

一つは弟子たちに対するこれからの生き方の促しですし、遺言としての意味合いもあります。同時に、初期のキリスト教会を形作ろうとしていた人々に対する強いメッセージなのです。

 

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主が求めておられるのは、名も知られない貧しい〈やもめ〉のあり方から学びなさいということでした。

彼女が握りしめ、そして献げたレプトン銅貨2枚は、この世の価値基準からすると小さく軽いものに過ぎません。

 

ところがイエスさまは、彼女の献げ物を、もっとも重く、価値あるものだと宣言されたのです。これは常識はずれの宣言でした。

 

イエスさまがそのようになさったのは明確な理由があります。献げられたものが、単に生活費全部を意味するのではなく、やもめの〈いのち〉であり〈人生〉〈生涯〉だったからです。

 

「一クァドランスを入れた」の「入れた」という語の原文には、ある種の激しさがあります。例えば「突進する」という意味すらある言葉なのです。

 

彼女はイエスに全てを委ねました。

 

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確かにやもめは〈空っぽ〉になりました。だからこそ、もはや彼女は他のものにしがみついたりしない、完全に委ね切る〈重み〉を持つ人になったのです。

 

やもめの生き方は、十字架の主イエスのお姿と重なっていることに気付かされます。私たちの救い主も〈空っぽ〉になるお方だからです。

 

神さまが私たちの人生のただ中にいつも共におられるようになるためには、私たちの人生という器に「神さま、もっと」「あともう少しだけお願いします」と求める生き方ではなく「空っぽになること」が必要なのです。

 

主は惜しみない愛を、空っぽの私たちに注ぎ続けて下さいます。

 

使徒パウロが第2コリント書9章8節に記した「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」をかみ締めたい。感謝を捧げましょう。end

 


2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪
2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》169号
                 2018年8月26日

   『  タマルの美しさによって 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 38章14節~19節
14 タマルはやもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ティムナへ行く途中のエナイムの入り口に座った。・・・・・ 15 ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。16 ユダは、路傍にいる彼女に近寄って、「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と言った。彼女が自分の嫁だとは気づかなかったからである。「わたしの所にお入りになるのなら、何をくださいますか」と彼女が言うと、17 ユダは、「群れの中から子山羊を一匹、送り届けよう」と答えた。しかし彼女は言った。「でも、それを送り届けてくださるまで、保証の品をください。」・・・・・・ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。19 彼女はそこを立ち去り、ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。
 

聖書の中には様々な〈系図〉がおさめられています。いちばん知られているのが、あのマタイによる福音書1章の〈イエス・キリストの系図〉です。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」という言葉でその〈系図〉は閉じられます。

 

実に興味深いことに、〈イエス・キリストの系図〉にはユダヤの系図には普通は見られないことが書かれています。それは、マリアを含めて5名の〈女性〉が登場し、その存在がきっちりと記録されているという点です。

 

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キリストの系図の中の女性の一人に「タマル」が居りました。族長ヤコブの四男ユダ。彼が息子のためにと探してきて嫁入りしたのがタマルでした。ところが、選ばれて迎えられたタマルの結婚生活は悲しみに満ちたものとなります。神の裁きを受けた夫たちに次々と先立たれるのです。

 

タマルは義父のユダから「暫くの間、やもめのまま故郷で過ごすように」命じられます。まるでタマルは、不幸をもたらす〈疫病神〉のように扱われたのです。

 

当時の「掟」では、子の無いまま夫に先立たれた女に義理の弟がいる場合、よその一族の者と結婚することはありませんでした。ここでは義父のユダが、寡婦のタマルの再婚について責任をもっていました。しかしタマルは、三度目の結婚が舅(しゅうと)によって阻まれていることを知ります。

 

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ついにタマルは、ヤコブの一族の嫁として、当時の最も大切な務め、即ち、子どもを生むために一大決心をします。舅(しゅうと)から子種を得るしか他に私の道は無い、という結論に至ったのです。

 

そこで彼女はあっと驚く行動を取り始めます。それはあまりにもスキャンダラスな方法でした。

 

タマルは娼婦になりすまし、舅(しゅうと)のユダを待ち伏せます。妻を亡くして喪が明けた時期を過ごしていたユダは、道端のベールの女が嫁のタマルだとは露知らずに一夜を過ごします。

 

このような、ある種のいまいましさを伴う出来事を経て、タマルは、イエス・キリストの系図に記録される「ユダはタマルによってペレツとゼラを」の双子「ペレツとゼラ」の母となったのです。

 

      **************

 

不貞を働いたかのように見えるタマルでした。不義の女という烙印が押されてもおかしくないのです。

しかしここでのタマルは呻吟(しんぎん)しながら、その時の彼女にとって唯一と考えた道を選び取りました。

 

聖書は義父のユダが「私よりも彼女の方が正しい」と語ったと記録します。ユダとタマル抜きにして、のちのダビデ王もイエスさまも生まれません。これは〈神のご計画〉でした。

 

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私たちは美しい人生の足跡を残して来たでしょうか。小説に出来るような物語を証し出来るのか。「否」なのです。

 

少しも麗(うるわ)しくなく、デコボコや寄り道ばかり。何ともおさまりの悪い歩みを続けて来たことを思います。少なくとも私はそうです。けれども聖書は、そのような私たちの人生を、主イエス・キリストの存在を通して明確に肯定しています。こんな私たちを神は救って下さる。本当に感謝です。主を賛美し、主を宣べ伝えましょう。 end

 


2018年8月21(火)葡萄ではありません(笑)森牧師が兼務する十文字平和教会近くの「ブルーベリーの畑」にて。摘ませて頂く貴重なときがありました。(^^♪
2018年8月21(火)葡萄ではありません(笑)森牧師が兼務する十文字平和教会近くの「ブルーベリーの畑」にて。摘ませて頂く貴重なときがありました。(^^♪

          《 み言葉 余滴 》168号
                 2018年8月19日

  『  どうなる? ぶどう園の罪人たち 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 12章7節~11節  7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

 

ぶどう園の譬え話を理解するにはその舞台や登場する人々について整理して学ぶ姿勢が必要です。あくまでも譬(たとえ)え話ですから、既に舞台の「ぶどう園」そのものが何かを暗示していることに先ず心を向けましょう。

 

実は「ぶどう園」は聖書の舞台となっている「イスラエルの社会、そこに生きる民全体」のこと指しています。もう少し踏み込むならば「ぶどう園」とは「神の国となるべき理想の場所、そしてその民」ということになります。ぶどう園の譬え話をじかに聴いた人々は、イエスさまがぶどう園を舞台にして語り始めたことに対して最初は好感を持っただろうと私は思います。

 

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そこで暮らしている「農夫たち」は、元来、ぶどう園で一所懸命に生きて来た人たちでした。彼らはいわゆる小作人です。遠くに暮らす「主人」から、一切を任せられ管理する務めを担っていました。「農夫たち」とは神の民として正統的な立場にあると自認している人たちでした。そうなると、ここでの主人とは「神さま」ということになります。

 

もとより小作人たちは真面目な人たちです。ですから、主人に喜ばれ誉めてもらえるように、より多くの収穫を得られるようにと頑張ったのです。おそらく、右肩上がりに収穫量が増していったのではないでしょうか。ところが、人間欲が出て来ます。主人との約束以上のものを欲するようになるのです。

 

やがて彼らは、遠くに暮らす主人が収穫の時期になると送り込んでくる「僕」をいじめ始めます。思うに任せない不自由さを抱えている小作人たちにとって「僕」が目障りで仕方ないのです。次第に暴力に歯止めがきかなくなります。遂にはやって来る「僕」たちをことごとく殺し始めたのです。

 

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当時の人々なら誰もが知っている預言者にエレミヤがいました。彼は涙の預言者と呼ばれることもある苦労人です。エレミヤ書7章25節以下をご紹介します。神の言葉がエレミヤに臨みました。

 

「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで私の僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、私に聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。」

 

ぶどう園の譬え話に当てはめるならば、主人の元から遣わされた「僕たち」の一人がエレミヤだったということになります。農夫たちが遣わされた「僕」をないがしろにして殺してしまうということは、彼らが神殺しをしていたことを意味しているのです。彼らにはその自覚がありませんでした。

 

そもそも預言者は神の言葉をひと言も欠かすことなく世に向けて伝える使命に生きる人ですから、この世と神の板挟みにあって苦しむ存在だったのです。

 

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主人の元から最後に送られて来た人がいます。主人の「最愛の子」でした。ところが、小作人たちは〈待ってました〉とばかりに、主人の愛し子を殺します。ことほどさように、彼らは任せられている国を、自分たちの思い通りにしようとした人たちでした。この愛し子こそ、世の辱めを受け、十字架の上で殺される主イエスだったのです。

 

神を必要としながら、神なしで生きようとする人間の罪が浮き彫りにされます。救いはどこにあるのか。捨てられた主の甦りです。

 

我が身に引き寄せてぶどう園の譬えを黙想しましょう。闇の向こうにほのかな光が見えるのです。end

 

 


2018年8月12(日)の献花 ススキです 秋がすぐそこまで(^^♪
2018年8月12(日)の献花 ススキです 秋がすぐそこまで(^^♪

          《 み言葉 余滴 》167号
                 2018年8月12日

     『  生真面目なあなたへ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 18章9節~12節 

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

 

「罪」という言葉がもつ日本語の響きはどういうものでしょうか。聖書のそれとは何か少し違うように思います。

 

手元にある『明鏡国語辞典』を開いてみました。「罪」の項の解説のやっと5番目に「キリスト教で、神の言葉にそむくこと」とあります。これはかなり説得力があります。7番目の「無慈悲なこと、思いやりのないこと」も、何か身に迫ってくるものを感じます。

 

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ここに登場するファリサイ派の人たち。福音書を読むと分かりますように、常にイエスさまを試したり敵対する人として登場します。ですから私たちは、ファリサイ派というだけで、融通の利かない、どうしようもない人間だと決めつけているところがあるのです。いかがでしょう。

 

でも、実は彼らファリサイ派の人々の根っこにあるのは〈真面目さ〉なのです。よい意味での(ユダヤ教の)信仰者としてのプライドも持つ人たちです。何よりも彼らは、旧約において神の言葉の集約である「律法」に忠実に生きることを大切にしました。本来それはとても善いことなのです。

 

ところが、ファリサイ派の人たちの真面目さは行きすぎてしまうのです。神様のみ心からズレ始めます。いつしか〈律法主義的〉になり、彼らこそ「的はずれな生き方をしている人」になってしまいます。このたとえ話の中でイエスさまが語られた「ファリサイ派」とは対極の「徴税人」よりも、格段に罪深い状態になっていたのに、彼らはそのことについて無自覚でした。

 

                   **************

 

考えてみるとクリスチャンには真面目な人が多いのです。几帳面ですし、ガンバリやさんも少なくありません。行きすぎたファリサイ派の人たちや律法学者たちがイエスさまの前に何度もなんども登場するのは、どうやら深い意味があることに気付かなければならないようです。

 

さらに私たちがファリサイ派の人たちと似ているのは、他人との比較の中で自分の優位性を確かめようとする点です。「自分はあの人よりは・・・・・・」とか「自分の方が・・・・・・よりもまし」「うちの子はさすがにあれほどは・・・・・・」という思考回路が、なぜか〈見えない所〉で動き始めるのです。ファリサイ派の祈りも〈心の中の祈り〉でした。

 

                    **************

 

話の舞台であるエルサレム神殿は私たちに置き換えるならば礼拝の場であり教会です。だとするならば、我々が礼拝に携えて来るべきもっとも重要なことは何なのかを、見つめ直してみる必要があります。

 

『創世記』から『ヨハネの黙示録』まで『聖書』が一貫して伝え続けていることがあります。それは、私たちは例外なく的はずれな生き方をしている罪人だということです。その事実を素直に認め、胸に手を置いて弱さを告白するならば、私たちは必ず神様に受け止められて楽になれるのです。end

 


2018年8月5(日)の献花 ひまわりさん、マジで、ウインクしてました(^_-)-☆
2018年8月5(日)の献花 ひまわりさん、マジで、ウインクしてました(^_-)-☆

          《 み言葉 余滴 》 166号
                  2018年8月5日

   『  ガマリエルが立ち上がったわけ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

使徒言行録 5章34節~42節  34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議員たちにこう言った。・・・38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。

 

使徒言行録に描かれている使徒たちの姿は、様々な点で、現代のクリスチャンのあり方について考えさせられます。イエスさまの十字架の受難の直前に、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った弱虫とはまったく別人です。

 

そもそも、シモン・ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、レビといった無名の人たちがイエスさまの弟子として召し

出され、イエスさまに従って生きていこうという頃、〈教会〉や〈キリスト教〉は存在しなかったのです。彼らはただ、イエスというお方に従って行ってみよう、とだけ考えていた人たちでした。

 

ところが、聖霊降臨ののち、〈無学で普通の人〉である12人は変わりました。彼らは聖霊によって導かれる新しい可能性に期待しているようにも見えます。客観的に見ると、12人はキリスト教会の土台作りを始めているのです。

 

                    **************

 

当時の使徒たちは、エルサレム当局からの迫害を受けていました。「今後はあの名によって教えるな」と脅されていたにも関わらず、決してイエス・キリストの名によって生きる喜びを語ることをやめようとしません。むしろ、ますます力強く、十字架と復活の福音を語り続けました。

 

そのような姿勢は、ユダヤ教の本拠地であるエルサレム神殿を自分たちのホームグラウンドとしている〈サドカイ派〉にとって不愉快で仕方ありません。彼らは「復活」を決して認めない人たちでした。つまり、イエス・キリストの福音と真っ向からぶつかり合うことになる存在だったのです。

 

                    **************

 

と、その時、ある人が立ち上がって最高法院の人々に語り掛けるのです。ファリサイ派の碩学(せきがく)・ガマリエルでした。ガマリエルはその死後、「ガマリエル以上に、律法に対する畏敬と純潔、節制を重んじた者はない」(「新聖書辞典」・いのちのことば社)とまで言われた人です。

 

冷静に考えてみるならば、ガマリエルと言えども、あくまでもイエスさまと対立した〈ファリサイ派〉の一員であることには違いありません。しかし、そのような人物が、思いも寄らない形で助け船をだしてくれたのです。

 

ガマリエルは言いました。

 

「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が・・・神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」と。

 

                    **************

 

ガマリエルは、使徒言行録9章で劇的な回心をする前のパウロに「律法」をたたき込んだ張本人です(使徒言行録22:3・パウロの証し参照)。ガマリエルこそ、キリスト教の迫害者だったパウロを厳しく鍛え上げた人でした。

 

そのガマリエルがいきり立つ最高法院の人々を鎮まらせたのです。

 

この話、何か変だと思いませんか。当たり前のことですか。ここには御手が働いています。聖霊が吹いている。ガマリエルを動かしたのは神です。end


2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま
2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま

          《 み言葉 余滴 》 165号
                  2018年7月29日

   『  ヨセフ物語に見る〈摂理〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 37章4節~11節  4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。・・・・・・ 8 兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。・・・・・・11 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 

創世記37章から50章まで続くのは「ヨセフ物語」と呼ばれる壮大なスケールのお話です。創世記は聖書を読む楽しさに満ちた書ですが、37章からはますますその感が強まっていきます。

 

ヨセフが「夢解き」をできる人として登場することはしっかりと心に留める必要があります。なぜならば、その賜物は神さまからのものであり、ヨセフが既に17歳の時に、彼は夢解きを通じて〈預言者的な役割〉を果たし始めるのです。

 

この先、ヨセフが夢を説き明かす内容は次々と目の前で展開されていくことになりますが、そこには、彼の意志とか力は何も働いていません。

 

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ところで、皆さんは「摂理」という言葉をご存知でしょうか。あるいは使ったことがあるでしょうか。実はヨセフ物語の中に「摂理」というものをハッキリと感じとることができるのです。

 

「摂理?」「なにそれ?」と思われる方も多いと思います。一般に「摂理」はどのように説明されるのかをちょっと調べてみました。

 

まず『広辞苑』では「・・・神がその愛によって、世の事すべてを導き治めること。」とあります。もう一つ『明鏡国語辞典』をみました。「キリスト教で、この世のすべてを導き治める、神の永遠にわたる予見と配慮。」とあるのです。

 

いずれも「ほー、なるほどねぇ」と教えられました。「摂理」の主語となるのは〈神さま〉だということは間違いないと思います。

 

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私はキリスト教の神さまの素晴らしさを「ヨセフ物語」の冒頭に強く感じます。

 

神さまはすべてをお見通しの上で、あえて〈罪人〉を次々に登場させている。そこが、聖書の伝える世界観であり人間像だと思うのです。

 

しかも、ヨセフ物語ではドロドロとした家族関係や、破れ、いさかい、そねみ、恨み、妬みが浮かび上がってきます。きれい事ではすまない事情がある。

 

こうした事情はこの世の現実ですし、どこかで心当たりのある私たちです。

 

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のちに、ヨセフは、当時の世界の大国・エジプトの宰相となります。自分を見捨てた兄弟たちをゆるし、父親との劇的な再会を果たすことになるのです。

 

しかし、創世記37章の冒頭に描かれているヨセフは、どう見ても〈罪人〉のひとりに過ぎない。でも、それでよいのです。

 

不思議なことに、神さまは完璧な人をお創りになりません。欠けのある者にこの世でいのちをくださるのです。神さまが失敗することなどあり得ません。

 

その神さまの作品のひとつが、〈あなた〉であり〈私〉です。そこに、神さまの「摂理」を覚えます。

 

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「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(コヘレトの言葉3章11節・口語訳)というみ言葉を思います。

 

「ヨセフ物語」は紆余曲折が続きます。しかし物語の展開の壮大さと緻密さの中に、神さまの永遠のご計画が垣間見えてくるはずです。

 

そのご計画に、既に巻き込まれている私たちを自覚したいのです。end

 

 

 

 


2018年7月22日(日)の献花を珍しい角度から。夏のファミリー礼拝・ミニサマーフェスティバルの日曜日でした。
2018年7月22日(日)の献花を珍しい角度から。夏のファミリー礼拝・ミニサマーフェスティバルの日曜日でした。

          《 み言葉 余滴 》 164号
                  2018年7月22日

   『  イエスさまが願う〈いちばん〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 9章33節~37節
33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

 

少し前のこと、イエスさまは〈ペトロ・ヤコブ・ヨハネ〉の三人だけを連れて山に登られました。三人はそこで旧約の偉大な人物モーセとエリヤの姿を見るという不思議な経験をしました。彼らはこれまで感じたことのない高揚感を覚えたのです。自分たちは特別な存在になっている、と。

 

イエスさまから「途中で何を議論していたのか」と尋ねられた弟子たちはハッとします。彼らは顔を真っ赤にしてうつむいてしまうのです。

 

                    **************

 

弟子たちは「何を夢中になって話していたのか」とイエスさまに尋ねられた時、舞い上がっていたとも考えられます。「シマッタ、もう少しうまくやればよかった」と後悔したかも知れません。

 

人間というのは、まさしくこういうものです。熱中して話し込んでいると周囲のことが見えませんし、気付かなくなります。弟子たちと同様、私たちもしばしば、神さま抜き、イエスさま抜きで盛り上がってしまうのです。

 

その直後に、イエスさまは〈座り込み〉・〈弟子たち呼び寄せて〉お話を始めます。この姿勢は重要な意味をもちます。上から見おろして偉そうにお話をするのではない。大切なことを同じ目線に身を置いて伝えようとされます。

 

                    **************

 

この時、イエスさまは「〈いちばん〉先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられます。イエスさまが願う〈いちばん〉が語られるのです。

 

私たちは幼い頃から学校や家庭で〈いちばん〉になることが素晴らしいこと、目標だと教えられ考えるようになりました。〈いちばん〉が大好きなのです。果たしてイエスさまが願っている〈いちばん〉を理解しているでしょうか。

 

本田哲郎神父さまは『小さくされた人びとのための福音』というタイトルで福音書を訳されました。この箇所を「だれか、先頭に立ちたい者があるならば、みんなの最後につき、みんなに仕える者になりなさい」とされます。

 

「先頭」=「いちばん」ですが、「最後につく」ことが大事だと読まれたのです。

 

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イエスさまの言われる〈いちばん〉を考える時に「小さい者」や「みんなの最後」という視点は大きな意味をもちます。なぜなら、私たちはうっかりすると、自分自身が〈小さい者〉であること、そして〈最後の者〉として生きていることがあったことを忘れてしまいがちだからです。

 

私は弟子たちを諭されるイエスさまのお姿から、自分自身のことに引き寄せて考えたいと思います。イエスさまは〈軽さ〉〈小ささ〉〈遅さ〉を抱えながらも、ひたむきに生きている者と一緒に歩んで下さるお方なのだと。

 

何と有り難いことでしょう。

 

我々は自分の〈小ささ〉や〈遅さ〉、世にあって〈軽く〉扱われることを嘆くことはいっさいありません。自分のペースで、ゆっくりと、安心して最後の者として歩き続ければよいのです。イエスさまはそんな〈いちばん〉を大切に認められ、愛して下さいます。end

 

 

 

 


2018年7月15日(日)の献花です。37℃の猛暑の日曜日ですが、礼拝堂の献花は暑さに負けず美しいです。感謝。
2018年7月15日(日)の献花です。37℃の猛暑の日曜日ですが、礼拝堂の献花は暑さに負けず美しいです。感謝。

          《 み言葉 余滴 》 163号
                  2018年7月15日

     『  信仰に力は要りません 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 9章22節~29節 
22 ・・・おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」・・・28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。・・・イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

悪霊に取り憑かれた息子と共に生きてきた父親やその家族の悲しみが、読む者の心にじわっと伝わって来る場面です。

 

父親は息子を抱いて、どれほど多くの医者を訪ねまわったことでしょう。また、顔の見えない神にひざまずき、祈りをささげたことでしょう。父親だけでなく、息子の母も、祖父も、祖母も、家族みんなが祈り続けて来た。

 

しかし癒されませんでした。

 

発作で苦しむ幼子と共に苦しみ続けてきた父親は、ついつい、イエスさまを前にして口にしてしまったのです。

 

「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と。

 

期待しては裏切られてきた苦悩がにじみます。父親の正に〈本音〉とも言える言葉をイエスさまは受け止められます。

 

                    **************

 

この時のイエスさまが、進み出た父親の苦悩を知らないわけがないのです。わかって居られました。でも敢えて言われます。

 

「『出来れば』と言うか」と。ここには深いわけがあるはずです。わたしはこう考えます。実はこのお言葉、父親の不信仰を責める言葉ではなかったはずだと。

 

イエスさまにはご計画があったのです。とりわけ、12人弟子には、しっかりと伝えなければならないことがありました。その証拠に、ここでの出来事の最終場面に記録されているのは12人の弟子たちの不信仰なのです。息子を癒してもらった父親のその後がクローズアップされるのでもない。

 

                    **************

 

弟子たちは、悪霊払いなさったイエスさまに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と〈ひそかに〉教えを乞います。彼らは素朴にそう思ったのです。

 

主イエスは機会を逃さずにお伝えになりました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と。

 

この場面、イエスさまが〈弟子たち〉に対してどうしてもこのタイミングで伝えておかなければならない事情があったのです。三度にわたって予告されることになる十字架の受難が迫っていました。

 

                    **************

 

弟子たちにとって、イエスさまに従って行くということは、いつしか誇りとなり、自慢になりつつあったのではないか、と考えます。

 

何しろ、彼らはこの後、〈誰が一番偉いのか〉と論議を始めてしまいます。そしてまた、イエスさまは子どもたちを呼びよせて、「神の国はこのような者たちのもの」である、と弟子たちに教えなければならない心配がありました。

 

                    **************

 

イエスさまが弟子たちに対して徹底的に知らせたかったこと。それは弟子たちの無力さでした。その自覚を持つ者にこそ、信仰が与えられる余地が生まれ、信仰が腑にストンと落ちるのです。

 

実に、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と告白した父親と息子は弟子たちが見倣うべき模範となっていたのです。

 

イエスさまは、「この種のものは、祈りによらなければ」と仰いました。本物の「祈り」がささげられるようになるのは、自分の無力さを痛いほどに知り、委ねるしかないことを知った時です。

 

自分の魂を主のみ前に注ぎ出す祈り。それは祈りをささげる相手に対する信頼が大前提です。信頼はいつしか信仰に変わります。救い主であるイエスさまの前で力は要りません。end

 

 


2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪
2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》 162号
                  2018年7月8日

  『 〈七転び八起き〉を超えたペトロ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 5章29節~32節

29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 

千代崎秀雄先生の『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(一粒社)という本は、私の大切な本のなかの一冊です。

 

あらためて調べて見ると、千代崎先生は、ダビデとパウロを8度取りあげ、一番大きく扱われます。続くのがペトロで7度。次に多いのがモーセの6度です。

 

「ペトロが大嫌い」「ペトロだけはゆるせん」というような声を聞いたことがありません。実にペトロとはそういう人なのです。

 

千代崎先生は第一回目にペトロを紹介する際、その冒頭で「まことに愛すべき人物、ペトロ」と紹介。二度目には「またもや、愛すべきペトロ」と記されます。ダビデやパウロ以上に、ペトロ抜きのキリスト教はあり得ない、というのが私の実感です。

 

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ルカによる福音書の続編として記されているのが、ご一緒に読んでいる使徒言行録です。使徒言行録でのペトロは、原始キリスト教会の力ある指導者・伝道者として登場します。

 

癒しのわざを含め、大いなる力を発揮し、少しクールに見ると、「あのペトロが?」とすら感じるほどです。

 

生まれてから40年もの歳月、足が不自由で身動きできなかった人が、神殿で躍りながら賛美するようになる切っ掛けをつくったのもペトロでした。使徒言行録におけるペトロは、使徒たちを代表して自信をもって語り続けます。

 

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ところで、使徒言行録5章でペトロが立ち上がって説教している場所はどこだったしょう。彼の語る説教の内容を見る以上に、実は、その点を見落としてはならないことなのです。この時の舞台は最高法院です。ここには当時のユダヤの社会の中心人物たちが勢揃いしています。

 

最高法院はイエスさまが不当な裁きによって十字架刑の判決を言い渡される場所でした。あの時ペトロは、すぐ横にある大祭司の中庭で人々に紛れながら身を置き、火にあたりながら裁判の様子をうかがいました。

 

やがて三度鶏が鳴き、イエスさまが振り向いて自分を見つめておられることに気が付いた瞬間、彼は外に出て激しく泣き、崩れ落ちたのです。ルカは福音書を記す時に、ペトロがその時、確かに死んだことへの思いを込めました。

 

今、エルサレムの最高法院に立って権力者たちにおどされているペトロが身にまとっている重要なことがあります。主イエス・キリストが、どんな辱めを受け、あざけられ、罵倒されようとも、世の権力に対して一歩も引くことがなかったお方であることです。それは飲むべき杯でした。

 

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ペトロは変えられました。よみがえりのイエスさまによって吹き入れられた息によって、彼は新しい人とされているのです。古いものは過ぎ去り、全てが新しくなった。

 

彼は一見すると「七転び八起き」を実践した人のように見えますが、復活の命に生きることとは本質的に異なります。

 

ペトロは新しい人です。同じ姿に見えても中身は違います。あなたも私も、ペトロがイエスさまから吹き込まれたのと同じ息によって生かされています。それをアーメンと信じて歩み出した人は全てが変わり始めるのです。end

 


2018年7月1日(日)の献花です。暑くなってきたので、この爽やかさはとっても新鮮でした(^^♪
2018年7月1日(日)の献花です。暑くなってきたので、この爽やかさはとっても新鮮でした(^^♪

        《 み言葉 余滴 》 161号
                2018年7月1日

『  悔い改めさせることは出来ますか 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 6章7節~12節 
7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。・・・・・・10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 

 

聖書は奥深いと感じます。

 

弟子たちを初めて宣教へと派遣する場面をあらためてじっくりと読んでいて非常に気になることがあります。この場面、イエスさまは「杖一本」のほかは、必要最小限の持ち物で宣教の旅に出掛けよ、と命じられます。それは私たちもよく知っていることです。

 

しかし、それ以上に重要な情報がそっと置かれていることに気付かされました。宣教の旅は「二人ひと組」でなさい、というのです。どのような組み合わせで出掛けることになったのかは聖書には記されていません。しかし、好きな者同士で出掛けられたかというと、そんなことはあり得ないはずです。

 

                    **************

 

世の中さまざまなストレスがあるものですが、当事者の弟子たちがもっとも困惑し、ストレスに感じたのは「二人ひと組」で宣教に遣わされる、ということではなかったでしょうか。

 

マルコ福音書2章16節以下で、二組の兄弟が弟子として召し出されています。「シモンとアンデレ」、「ヤコブとヨハネ」です。彼ら兄弟がペアで遣わされたのか。私は違うと思います。

 

12人弟子が使徒として遣わされるということは、全く新たな経験をしながら、様々なことを考えてご覧なさいということです。まだ、よく知り合っていない二人がぎくしゃくしながら、互いの思いも尊重し、時にはこれだけは譲れないと話し合いながら旅を続ける。何と忍耐が求められることでしょう。

 

                    **************

 

そもそも、イエスさまが弟子たちを使徒として遣わされる目的は何だったのでしょうか。イエスさま一人では身が持たないから、おまえさんたちもしっかり頼むよということか。いいえ、そんなわけがないのです。

 

弟子たちに対して、持ち物なしでイエスさまが出会って欲しいと考えられたことは幾つかあったと思います。

 

自分という人間がいかにワガママな存在であり、一緒に助け合いながら歩いて行く人のことを考えることについてすらも、無理解であるということに気付くことだったのでは、と私は考えます。

 

同時に、お世話になる家々でじっくりと話を聴き、力になることの大変さ。そんなこと出来やしない、という現実を肌で感じることも大きな課題だった。イエスさまは「足の裏の埃を払い落とす」ことまで教えておられます。

 

                    **************

 

最も重要な課題。それは〈悔い改めの福音の喜び〉を伝えるとは何であるのか。そのことを考え始めさせることにあったと私は考えています。

 

弟子たちがイエスさまに倣い、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えようとしても、お手上げ状態だったと思います。なぜなら、弟子たち自身が心底からの悔い改めを経験せずに、悔い改めを語ることなど出来るわけがないからです。

 

彼らには十字架と復活が必要です。

 

大阪のどや街・釜ヶ崎に生きる本田哲郎神父さまは「悔い改め」の語を「低みに立って見なおし、福音を信じてあゆみを起こせ」とされました。この訳語は我々のあり方を厳しく問います。

 

もしも、人を変える道があるとするならば、それには先ず、自分自身が変えられて行くことが必要だからです。end

 

 


2018年6月24日(日)の午後 表通りに面した教会入口付近にこちらが素敵に立てられていました。
2018年6月24日(日)の午後 表通りに面した教会入口付近にこちらが素敵に立てられていました。

        《 み言葉 余滴 》 160号
                2018年6月24日

   『  誰の企画・立案ですか? 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 33章1節~5節 

1 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、2 側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。3 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。4 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。

 

ヤコブは恐れていました。苦しんでいました。兄エサウとの20年振りの再会を抜きにして、生まれ育った故郷でのこれからの暮らしはあり得ません。

 

「やぁ、兄さん久しぶりだね」というような調子で顔を合わせられるはずがありません。ヤコブは20年が経った今「やっぱり自分が悪かった」とあらためて思っているのです。

 

しかし、どう考えても「兄さん、本当に悪かった」「ゆるしてくれ兄さん」と言わせてもらえる場面が来るようなイメージが少しもわいてきません。

 

実際、ヤコブが足を引きずりながら進んで行くと、エサウと共に〈400人〉と報告を受けていた一団が土煙を上げながらやって来るのが見えるのです。

 

                    **************

 

その一方で、ヤコブは妙に落ち着いている自分に気付いていました。

 

ペヌエルでの朝方までの角力(すもう)によって、彼は神と格闘し、み顔を見たにもかかわらず、なおも生きている不思議を経験していたからです。ヤコブにしか分からない充足感が残る格闘でした。

 

ヤコブは前日の格闘の中で、自分の魂の内側に秘めていたもの全てを注ぎ出したのだろうと思います。それは〈祈り〉だったと言い換えてもよいものでした。だから、万が一のことが起こったとしても悔いはない、という境地に至っていたのです。

 

一切を神さまはご存知であり、「あなたを決して見捨てない、必ず連れ戻す」と言われた神のみ手のうちに自分は確かに置かれているという確信があったのです。

 

だからこそヤコブは、先頭に立ってエサウの前に進みました。

 

                    **************

 

双子の兄弟が20年振りに向き合った時、何が起こったのでしょう。400人もの部下を引き連れて来たのは、「おやじの喪の日が来たら必ず殺してやる」という呻き声を上げていた兄ではありません。

 

エサウは無骨な狩人としてヤコブを取り押さえに来たのではなく、穏やかな顔で駆け寄って来ます。そして、弟をしっかりと胸に抱きかかえ、口づけするのです。何かを語り始める間もなく、二人は泣き続けました。

 

ありとあらゆる知恵を用いてヤコブが立てた計画は一切必要なかったのです。

 

普通ではあり得ないことが起きている。これは出来すぎた話です。こんな話はおかしいのです。しかし、このような和解の出来事が実際に起こるのであり、それがあなたがたにも必要だ、と創世記のみ言葉は告げています。

 

                    **************

 

ことの成り行きを離れた所から静かに見守っている人がいました。

 

それは、この場面を企画・立案された神さまでした。このお方がプロデューサーとして働いているからこそ、人知を遙かに超えた、広く、長く、深い愛の物語が、イエス・キリストに至るまで広がって行くのです。

 

新しい道を歩き出したヤコブは、「そこに祭壇を建てた」のです。「祭壇」とは〈礼拝〉と〈祈り〉の場です。

 

人生に於いて神とがっぷり四つになる場所がこれからもずっと必要だと知った人ヤコブのなすべき必然でした。end

 


2018年6月17日(日)の夕方 森牧師が兼務する十文字平和教会のお茶の時間に届いて居たまさるさんのお宅のお庭の〈びわ〉です。十文字平和教会のお庭のびわは、今年は不作でした。
2018年6月17日(日)の夕方 森牧師が兼務する十文字平和教会のお茶の時間に届いて居たまさるさんのお宅のお庭の〈びわ〉です。十文字平和教会のお庭のびわは、今年は不作でした。

        《 み言葉 余滴 》   159号
                2018年6月17日

     『  神の家族の誕生 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 6章1節~3節 1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

 

弟子たちと共に歩まれるイエスさま。故郷の〈ナザレ〉にお入りになります。

 

〈ナザレ〉は旧約聖書に一度も登場しない寒村です。弟子たちにとって〈ナザレ〉は初めて足を踏み入れる地でしたが、おそらく、弟子たちには悪い予感があったはずです。実際、その予感は的中します。

 

イエスさまの弟子となる直前の「ナタナエル」(別名=バルトロマイ)が、【ナザレから何か良いものが出るだろうか】と語ったことがヨハネ福音書1章46節に記録されています。

 

おそらく、一度インプットされていたマイナス情報というものは、その後も消えなかったと思います。

 

                    **************

 

それ以上に〈ナザレ〉から想像できる悪いイメージがありました。〈親兄弟〉は大切にすべきもの、ということを弟子たちだって知っていました。

 

十戒の教えにもありますし、そんなことは人として常識です。ところが、少し前に、弟子たちは思いがけない場面を目の当たりにしたのです。

 

マルコ福音書3章の終わりに記録されていることですが、カファルナウムの家に滞在中のイエスの元に母マリアと兄弟たちがやって来たとき、なんと彼らはイエスさまを取り押さえようとしたのです。

 

【あの男は気が変になっている】という言葉が〈ナザレ〉に暮らす家族にも伝わって来ていたからです。

 

                    **************

 

〈ナザレ〉で見るイエスさまのお姿は惨めなものでした。カファルナウムの会堂で感嘆された聖書の説きあかしも〈ナザレ〉では歓迎されません。劇的な癒しをなされたお姿からは程遠く、奇跡も行えませんでした。

 

「この間まで大工仕事をしていたヤツが何をぬかしやがる。大工の息子はなぁ、おとなしく大工をしてりゃいいんだよ」。

 

冷たい言葉を浴びせられるイエスさまの姿を見て、弟子たちは言葉もなく身の置き所を失いました。

 

ただ弟子たちは、不思議に思うことがあった。

 

それは、イエスさまが落胆されていないことです。人々の不信仰を嘆かれますが、お姿と表情には力があり、弟子たちに何かを伝えようとしていることがわかりました。

 

                    **************

 

救いのみ子イエスは〈ナザレ〉という寒村を必要としたのは確かです。

 

しかし、イエスがキリストとなるために、すなわち、救い主となるためには、地縁、血縁と呼ばれるようなものが幅を利かせる故郷は、一線を画すべきところだったのです。家族との関係すらも断ち切ることは必然でした。

 

イエスにとっての家族とは、【神のみ心を行う人】(マルコ福音書3章5節)以外の何ものでもないのです。

 

弟子たちはその糸口に立たされています。彼らは弟子から使徒となって行く為の掛け替えのない訓練を受けていました。

 

      **************

 

丘の上の十字架に磔(はりつけ)にされたイエスを母マリアは直下から見上げました。

 

しかし、弟子たちはそこに居ませんでした。神のみ心を生き始めた母マリアの姿を弟子たちが知った時、彼らは目覚めます。

 

十字架で流されたイエスの血潮は、やがて信じる者すべてを神の家族として結び合わせるのです。end

 

 

 


2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。
2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。

        《 み言葉 余滴 》   158号
                2018年6月10日

   『  足を引きずって生きる 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 32章25節~32節 

25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。・・・・・・29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」・・・・・・32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

       

故郷に向かうヤコブ。彼は眠れない夜を過ごしていました。

 

20年前、ベテルと名付けた場所でのことを思い出します。石を枕にして横たわったあの日も眠れない夜を過ごしました。その時は、まず夢の中にみ使いが現れ、直後に主が語り始めたのです。創世記28章10節以下の出来事です。

 

今彼が、独り身を置いているのはヨルダン川の支流「ヤボク川」でした。もう後戻りは出来ないところにヤコブは居るのです。でも、20年前にあざむき、裏切り、背を向けて逃げ出した兄エサウとの再会の場面をイメージしようにも、考えれば考えるほどに気持ちが沈んでしまいます。おまけに、兄は400人の軍勢を率いているという情報も届きました。恐怖がつのります。

 

                    **************

 

妻や息子たちを送り出し、先に川を渡らせたヤコブは【独り後に残った】のです。【独り後に残った】と言うと、そこには何か強い意志が働いているかのようですが、違います。ヤコブは川を渡る勇気がないのです。

 

そんなヤコブですが、【独り後に残った】からこそ、実は、二度とない、ある人との出会いを経験します。これこそが「邂逅(かいこう)」でした。邂逅には〈人生における決定的な出会い〉という意味があります。

 

神さまは集団の中に身を置く人に出会われることは稀です。まず《あなた独りと出会いたい》。そういうお心を持つお方なのです。これはわたし自身の実感です。モーセもパウロも、あの姦淫の女も、独りで主と向き合いました。

 

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夜中に、得たいの知れない人と朝方まで角力(すもう)を取ったヤコブ。おそらく彼は、自分の人生を振り返ってみるときに、このようは勝負はもう二度と出来ないと思ったはずです。そんな激しい角力(すもう)でした。

 

ヤコブがこの時のことを忘れるわけがありません。なぜなら、彼はこのときの角力(すもう)によって、消えることのない傷を負った。今では差別用語と言われることもある「びっこ」という言葉がありますが、彼は死ぬまで、足を引きずって生きる人になったのです。ヤコブにはこのような傷がどうしても必要でした。だからこそ、神との格闘の中でこの傷は与えられたのです。

 

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人生には忘れてはならないことがあります。それはヤコブが神との格闘の中で受けたような傷です。

 

私たちも傷をもっているからこそ、その傷口から染みてくる何かがあることを知っています。クリスチャンとは、傷を忘れないで生きて行く事を自覚し続ける者、と言い換えることが出来ます。

 

十字架の主イエス・キリストの脇腹と手のひらの傷は、単なる徴(しるし)なんかではありません。私たちが身に受けるべき傷がそこにあります。ヤコブはその傷に通ずる格闘をペヌエルで経験したのです。

 

足を引きずって生きるようになったこと。それは【独り後に残った】ヤコブに対する神さまのご計画でした。彼は足を引きずり続けますが、癒しが与えられています。神さまの愛はヤコブのいのちの奥深くに宿ったのです。end

 


2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花
2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花

        《 み言葉 余滴 》   157号
                2018年6月3日

     『 失敗という名の〈たまもの〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 4章32節~35節 32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。

       

讃美歌第2篇188番に『きみのたまものと』で始まる素敵な曲があります。私はある頃まで、この賛美歌は「青年の歌」だと思い込んでいました。確かに1節には「きみのたまものと 若いちからを」とあります。

 

でも2節には「きみのたましいを すべてささげて 神のわざのため つとめいそしめ」とあるのです。若者だけの賛美歌にしてしまったらもったいないかも知れない。そんなことをふと思います。「たまもの」とはいったい何なのでしょう。「たまもの」はもちろん神さまからのものなのですが・・・。

 

少し余談めいたことですが、平仮名で「たまもの」と記すのと漢字で「賜物」と記すだけでも随分印象が変わります。

 

「命」と「いのち」、「魂」と「たましい」、「心」と「こころ」の違いに通じるものがあります。188番は「きみのたまもの」と平仮名で歌詞が書かれているので好感を持てます。いえ、実はそこには「たまもの」を考える上で深い意味があるのかもと感じるのです。

 

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使徒言行録4章が描くのは初期キリスト教、あるいは、原始キリスト教と呼ばれる時代の「教会」の様子です。

 

ところが、使徒言行録4章の段階では「教会」という言葉はまだ一度も使われないのです。おそらく、この頃から、だんだんと「教会」らしくなり始めたなぁ、ということを著者のルカは(『ルカによる福音書』の著者と同じ人)意識していたと思います。

 

ここには、なんだか、気前よくというか、潔くというのか〈どーーーんと献金している人たち〉の姿が描かれていて、本当にみんながそうだっのかしら、俺にはこんなこと出来ないなぁ、と少し心配になるほどです。

 

さらに、4章の終わりには「慰めの子」として紹介される「バルナバ」と呼ばれていた「ヨセフ」というキプロス島出身の人も、持っていた畑を売り払い、その代金を使徒たちの足もとに置いた、と紹介されます。

 

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わたしがこの場面で一番大切にしたいと考えるのは、【信者の中には、一人も貧しい人がいなかった】という初代教会の人々の様子です。彼らはお金で困ることがなかった、と聖書が伝えているとは思えません。

 

むしろ、そこには、お金とは違う価値観、豊かさがあったのではないでしょうか。しかも、それは共有しやすさがあったり、分かちあいやすいものではなかったかと想像するのです。果たしてそれはどのようなものでしょうか。

 

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成功談というのは、大して人の為にならないものです。ペトロら使徒たちが、積極的に確信をもって語ることができたのは、自分たちのうまくやった経験ではないはずです。彼らの宝は〈挫折であり失敗〉だった。

 

教会は〈失敗という名の「たまもの」〉を抱えながら生きている者たちの集いです。これこそ財産です。失敗したことのない人が身近に居られるでしょうか。いいえ一人も。

 

教会には誰もが証しできる〈失敗という名の「たまもの」〉があり〈貧しい者はない〉という恵みが秘められているのです。end

 


2018年5月27 日(日)三位一体主日の献花と講壇をバックに
2018年5月27 日(日)三位一体主日の献花と講壇をバックに

        《 み言葉 余滴 》   156号
                2018年5月27日

     『 率先される神 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 1章14節~17節 
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

       

マルコによる福音書の1章。

 

そこには、イエスさまがカファルナウムというガリラヤ湖畔の町を舞台にして始められた「み業や教え」が、人々の前で次第に明らかになり、波紋が広がっていく様子が記されています。「イエスさまの公生涯」と呼ばれる場面です。

 

ここでは、イエスさまが宣教の第一声で何をどう語られたのかに注目しましょう。

 

私が特に気になるのは【悔い改めて福音を信じなさい】という呼び掛けです。

これこそ全ての人に向けての告知であり、私たちに対して、イエスさまが具体的な行動を求めておられるメッセージだとつよく感じるのです。

 

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世の中には、「率先」とか「手本」という言葉があります。国語辞典を引いてみると、「率先」とは【上の地位にある人が、先頭に立って物事を行なうこと】です。また、「手本」は【それにならって行動すべき模範】とあります。

 

何かを教えようとする時には、先生みずからが包み隠さず取り組みの姿勢を見せ、真似をしてもらう所から始めるのが〈王道〉です。

 

実は、ここでの「悔い改め」は「後悔」や「反省」とは異なります。聖書の告げようとしている「悔い改め」は、日本語のもっている「悔い改め」の意味合いとは全く違うことに注意が必要です。

 

私流に言い換えてみます。福音書のイエスを通じて示されている「悔い改め」とは、〈視座を変え、大胆に方向転換し、心を定めて神さまの求めておられる道を歩み続けること〉となります。

 

それは、イエスさまに「固着して歩み続けること〉ことであり、〈ピタッとくっついて〉離れない生き方なのです。

 

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大切な独り子を世にお送り下さった神さまは、イエスさまを通じて【悔い改めて福音を信じ】る歩みを始めるために、ちゃんと「お手本」を見せて下さっているのでしょうか。倣うべき姿が見えるのでしょうか。

 

敢えて申します。実に、神さまご自身が率先して「方向と方針大転換」=「悔い改め」をなさったのです。高い所に居られるはずの神さまが、自ら率先してこの世にお出でになり、低きに降られた。それはあり得ない仕方でした。

 

イエスさまは罪人の一人となられました。だからこそイエスさまも洗礼者ヨハネから〈洗礼〉をお受けになります。イエスの洗礼を4つの福音書すべてが記録しているのには理由(わけ)があります。それが極めて重要な事実だからです。

 

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神の愛は時に非常識です。ふつうなら絶対にしないことをなさる。罪人のために十字架でいのちを捨てて、よみがえって罪人をゆるされる。

 

その愛によって、私たちは救われます。

 

それ故に、イエスさまは宣教の第一声として「悔い改め」を告知し、愛を全うするための道を歩み出されました。

 

直後に召し出されたペトロら最初の弟子たちは、【わたしについて来なさい】の招きに、網を捨ててすぐに従います。ところが、弟子たちの本当の意味での「悔い改め」は、もっとずっと後、イエスさまの復活の後に起こります。

 

「悔い改め」は弟子となる条件ではなかった。これも神のみ心なのです。end

 

 



2018年5月20日(日)聖霊降臨日・ペンテコステ 聖餐式の食卓
2018年5月20日(日)聖霊降臨日・ペンテコステ 聖餐式の食卓

   《 み言葉 余滴 》   155号
                2018年5月20日

   『 覚悟を決めさせる 聖霊 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎使徒言行録 4章8節~13節 8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。・・・・・・ この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
      

聖霊の降臨。それは復活の主イエスが弟子たちに約束されたものでした。『使徒言行録』において聖霊の力と働きは徐々に明らかになります。突き詰めて申し上げるならば、聖霊は教会の誕生に結び付いています。

 

聖霊が降(くだ)ったのは主の約束の言葉を信頼し、祈りながら待ち続けていた12人の弟子たちと、その周囲に居た人々に対してでした。祈りと聖霊は、切っても切れない関係があります。これは見落としてはならない肝心なことです。

 

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生まれてから40年というもの。歩くことが出来なかった人を起き上がらせ、その人が神殿で主を賛美しながら飛び跳ねる切っ掛けを与えたのはペトロとヨハネでした。二人は、自らの力によって癒しをなしたのではなく、〈イエスのみ名によるもの〉であることをハッキリと語ります。

 

しかし、ペトロとヨハネが〈イエスのみ名による力〉を確信を持って語れば語るほど、敵対する当時の権力者は〈イエスのみ名〉を恐れ始めたのです。二人は牢屋に入れられてひと晩を過ごします。

 

二人が敵対したのはファリサイ派やサドカイ派という信仰を持つ人々でしたが、二人はもの怖じすることなく堂々と渡り合うのです。聖霊はすでに彼らを新しい人に変えていました。

 

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ふたりの〈人となり〉を伝える言葉として【13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き】とあります。

 

そんな二人が【12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか与えられていないのです】と大胆に言い切るようになったのです。

 

覚悟の決まっている人には力が宿ります。

 

イエスさまは、かつてこう語られました。【11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。】(ルカ福音書12:11-12)と。

 

このお言葉がペトロとヨハネを通して実現していることに気付きます。

 

キリスト教に馴染みのない方は、「聖霊」と聞くと、死者の霊魂を意味する「精霊」をイメージするものです。

 

でも、そういうものとは全く異質のものが弟子たちに降(くだ)って来ました。〈イエスの名〉によって二度と語るなと脅(おど)された二人ですが、彼らには恐れがありません。

 

イエスの姿は見えなくなったのに、ますます恐れを抱き始めたのはユダヤ人の熱心な宗教家たちでした。

 

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聖霊は超人的な何かや神秘的なことを引き起こすためのものではありません。

 

パウロは【聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。】(第一コリント書12:3)と語っています。これは今を生きる我々にとって縁遠いことでしょうか。

 

いいえ、違います。

 

聖霊は私たちにも確実に働いています。だからこそ、イエスがキリスト=救い主であると告白しながら、恐れることなく、教会づくりに励んでいるのです。end

 

 


2018年5月6日(日)の夕刻、森牧師が兼務する十文字平和教会の礼拝後のお茶のひととき 正子さん手作りの「うぐいす餅」をいただきました。目、見えますか(^^♪
2018年5月6日(日)の夕刻、森牧師が兼務する十文字平和教会の礼拝後のお茶のひととき 正子さん手作りの「うぐいす餅」をいただきました。目、見えますか(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 153

    2018年5月6  主日礼拝からの"余滴" 

     『  逃げ出した人よ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 28章10節~12節 10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

 

聖書が我々の暮らしに実感をもって迫ってくるのには理由(わけ)があります。

 

それは実にしばしば、今ここに居る自分自身の姿を鏡に写し出しているかのような、そんなリアリティーが聖書にはあるからです。

 

とりわけ、どこかに逃げ出すような事態を引き起こしてしまった人物と出会うときに、私たちは、その姿に自分を重ね合わせながら聖書を読み進めます。

 

聖書の中で逃亡者の筆頭はアダムとエバです。彼らは神の目を避けるようにして身を隠します。出エジプトの民を40年にわたって率いたモーセも、それ以前の40年間は逃亡者として身を隠していた人でした。新約ではペトロをはじめとする12弟子たちも逃げ出した者たちの集団です。

 

しかし、正にそこから、福音の物語は伸展し始める。それが我々の「聖典=聖書」です。

 

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創世記28章。

 

ここで逃亡している人物はヤコブです。元来、ヤコブの名前には、「人の足や踵(かかと)を引っ張って欺(あざむ)く」(創世記25:26、27:36)という不名誉な意味があります。彼は、「引っ張り君」なのです。

 

ところが、時が満ちる時に、ヤコブはみ使いの姿をした神さまとの格闘の後に、【これからは名をイスラエルと呼ばれる】(創世記33:29)と宣言されることになります。

 

それに留まらず、やがて「イスラエル」は12人の息子を部族の父祖とする国民の名を意味するようになるのです。聖書において、「神の民」の総称が「イスラエル」と呼ばれることとも深い繋がりがあります。

 

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兄エサウが自分に対して殺意を抱くような事態を引き起こしたヤコブ。

 

彼は、母親のリベカの後押し、そして、父イサクの同意と祝福の祈りがあったとは言え、住み慣れた地を独り離れ、逃亡者となるのです。

 

ヤコブが母親のリベカの故郷ハランに辿り着くまで直線距離で900㎞もあります。門出を祝うとか、意気揚々というような状況とは正反対のひっそりとした旅立ちです。おそらく、旅立ってからまだ一日か二日目の夜、疲れ果てて石を枕にして横になったヤコブを包んだのは高地の冷気と闇でした。

 

眠り込んだヤコブ。

 

夢の中で、天国からの梯子を上り下りするみ使いの姿を見ます。と、その時、主ご自身が姿を顕され、ヤコブに対して、必ず実現する永遠の祝福と約束を、ていねいに、明確に語り始めたのです。

 

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目を覚ましたヤコブ。

 

その直後、恐れつつ語ります。否、祈った、告白したと言うべきでしょう。【まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。】(16節)【ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。】(17節)と。

 

ヤコブの傍らに立たれた主は、時が満ちた時に、ナザレのイエスとして顕れて、こう語られました。ヨハネ福音書に次のように書き留められています。

 

【わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。】(10:9)と。ヤコブもその門に身を置いたのです。

 

逃亡者ヤコブが、一人の信仰者に変えられたのはこの時でした。主の元に身を置き、約束の言葉を聴くこと。

 

そこにこそ、逃亡者としての過去を持つ私たちの居場所とスタートの場が与えられています。今もその時です。end

 

 


2018年4月30日(月)の午後、教会から車だと7分、緑化プラザの公園にて 水浴びして遊んでいるすずめさん
2018年4月30日(月)の午後、教会から車だと7分、緑化プラザの公園にて 水浴びして遊んでいるすずめさん

          《  み言葉 余滴  》 152

    2018年4月29  主日礼拝からの"余滴" 

    『  求人あります  愛の運び人  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 3章3節~8節

3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

 

皆さんはこれまでのご自身の人生で、どのような「奇跡」に遭遇しているでしょうか。思い当たる節はありますか。いかがでしょう。

 

幾つかの国語辞典で「奇跡」について調べてみました。一番詳しく記していたのは、『スーパー大辞林』で、何だか、キリスト教をかなり勉強している方が執筆したのかな、と思わせるような内容なのです。以下、ご紹介します。

 

「奇跡」=【(1)常識では理解できないような出来事。「―の生還」(2)主にキリスト教で、人々を信仰に導くため神によってなされたと信じられている超自然的現象。聖霊による受胎、病人の治癒、死者の復活など。神道や仏教では同様の現象を「霊験 (れいげん)」と呼んでいる。】とあります。

 

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不思議なことは起こるべくして起きている、というのが、現在の私の「奇跡」に対する思いです。

 

さすがに、「えい、やぁ」とか謎めいた呪文を口にして奇跡を起こせる人と私は出会ったことがありません。でも、私の周囲でも奇跡は起こるのです。

 

振り返ってみると、これって奇跡としか言いようがない、という場合が殆どです。わたしが旭東教会で牧師として仕えていること、否、それ以前に、わたしが牧師であることがそもそも奇跡と思っています。

 

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ただ一つ、どうやら、そうらしいなと感じていることがあります。それは、「イエス・キリストのみ名」に依る〈祈り〉がある所で奇跡は起こるという点です。

 

その祈りも、美しく整った〈祈り〉というわけではありません。呻きだったり、嘆きだったりする場合もあるのです。

 

しかも、自分の〈祈り〉でなくとも、誰かが祈ってくれている時、「イエス・キリストのみ名」による〈祈り〉は聴かれている、と思わずには居れません。

 

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キリスト教やキリスト教会と呼ばれるものがまだ存在しない頃の記事がここにあります。でもこれは、ペトロとヨハネを通して、世界で最初の教会に連なる人びと間で起こっている「奇跡」なのです。

 

生まれてから40年、ただの一歩も歩けない、立ち上がることもできなかった「足萎え」の人の癒しが起こります。

 

ペトロが語った、【わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。】という言葉になぜ力があるのでしょう。

 

それは、ペトロが、目に見えないけれど、イエス・キリストがそこに生きて働かれる、ということを深く信じて【イエス・キリストの名によって】祈ったからです。

 

と同時に、ペトロは言葉だけの人ではなかった。実に小さいけれど確かな行動があったのです。それが「手を差し伸べる」という愛の形でした。

 

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奇跡はどんなにお金を積んでも起こらない。ただ、信頼しての祈り、愛のある小さな行動の先に誰かが立ち上がる奇跡が起こります。

 

神さまはその愛の「運び人」を求めて居られます。キリストの愛の「運び人」として生きる人は、奇跡の証人とされる日を必ず経験します。

 

神さまは、主のみ名によって信頼して祈り、手を差し伸べる人を捜しておられるのです。end

 

 

 


2018年4月22日(日)の夕刻、17時過ぎのこと。市内の病院の一室でお過ごしの望さんのところへ。さんびのときです。夕暮れ時のやさしい陽射しが包んでくれました。
2018年4月22日(日)の夕刻、17時過ぎのこと。市内の病院の一室でお過ごしの望さんのところへ。さんびのときです。夕暮れ時のやさしい陽射しが包んでくれました。

          《  み言葉 余滴  》 151

    2018年4月22  主日礼拝からの"余滴" 

    『  何度でも繰り返されること  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 27章5節~10節

 5 リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、6 リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。7 『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。8 わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。9 家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、10それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」

 

作家・三浦綾子さんは日本キリスト教団旭川六条教会の会員でした。その三浦さん、『聖書における人間の罪』(光文社・1986年)という本の「まえがき」にこう記されています。

 

「聖書は、つまるところ、イエス・キリストをキリストと証ししている本であり、・・・・・・旧約聖書には、特に人間の罪が抉(えぐ)りだされている。人間の罪深い姿を知ることは、神の高い清い愛を知ることでもあるからである」と。

 

私も本当にそうだと思います。己(おのれ)の罪深さと正面から向き合うことなしに、人は救い主であるイエスさまと出会えないからです。

 

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創世記は、他のどんな小説と比べてみても決して負けない程おもしろい物語が連続する書です。天地創造の後(のち)、アダムとエバの物語、カインとアベルの物語、ノアの箱舟の出来事、バベルの塔の物語、アブラハム物語と続きます。

 

そこに共通するのは人間の罪です。そして創世記25章から始まるヤコブ物語においても、赤裸々に人の罪が暴(あば)き出されて行きます。

 

147歳迄生きるヤコブです、彼の生涯の前半部分の頂点とも言えるのが創世記27章なのですが、この時のヤコブの年齢は40歳。常識に従って物事の判断ができる年齢になっていたはずです。分別が付く年齢なのです。

 

信仰の父アブラハムを祖父にもち、その息子・平和の人イサクの次男として生まれたのがヤコブです。

 

やがて、神の民イスラエル民族の生みの親ともいう立場に立つことになるのですから、若い頃から信心深い人として育てられ、それはそれは立派な人だったのだろうなぁ、と考えそうになります。

 

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ところが違うのです。ヤコブは生身の人間です。そしてひとりの罪人でした。何にもまして気になるのはヤコブが神さまのみ心を問わないことです。祈りも礼拝もない。

 

聖書はヤコブが徹底して母親のリベカの言うことを聞く人として描いているのです。〈神不在の章〉、それが創世記27章なのです。

 

母リベカは溺愛していた次男ヤコブに入れ知恵をします。練りに練った策略を、息子ヤコブに仕込み、呪いは私が受ける、とまで言います。

 

ならば、リベカはとんでもない悪人なのか、と言うと実はそうとも言い切れません。聖書の世界の奥深さなのですが、彼女は、まだ双子の息子たち、すなわちエサウとヤコブがお腹のなかにいた時に、神からの不思議な啓示を受けていました。

 

それは、【兄(エサウ)が弟(ヤコブ)に仕えるようになる】(創世記25章23節)という内容でした。母リベカがこの言葉を忘れるとは思えません。

 

リベカは神のみ心の実現のために誠実に生きていた人、という一面を確かに持っています。ただし、冷静にリベカの姿を見渡して見ると、神のみ心から離れてしまっている〈神不在の人〉としてここに存在しているのです。

 

                    **************

 

聖書は〈神不在の人生〉への警笛を鳴らしています。

 

誰のため、何のためか。

 

それは、私とあなたのためです。

 

主イエスが「インマヌエル=神われらと共に」のお方として、神の不在を打ち破るために天の扉を破り、私たちの隣人としてこの世にお出で下さった理由がここにあります。end

 

 

 


2018年4月15日(日)の礼拝説教にて。説教の時に珍しいヨハネによる福音書の翻訳を紹介しているところです。左近義すけ先生の『ヨハネのつたへし福音書』(東京第一書房・昭和17年版)です。味わい深い訳が見られました。「なし」という訳語が素晴らしかった。
2018年4月15日(日)の礼拝説教にて。説教の時に珍しいヨハネによる福音書の翻訳を紹介しているところです。左近義すけ先生の『ヨハネのつたへし福音書』(東京第一書房・昭和17年版)です。味わい深い訳が見られました。「なし」という訳語が素晴らしかった。

          《  み言葉 余滴  》 150

    2018年4月15  主日礼拝からの"余滴" 

       『  二度目も三度目もある  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 21章1節~5節 
 1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

 

舞台はガリラヤ湖半。シモン・ペトロが3年前まで暮らしていたカファルナウムという町だったと思われます。何やら噂話が聞こえて来ます。

 

「シモンが帰って来たらしいぞ。なぁ、言わんこっちゃないさ。何もかも投げ出して〈俺はイエス先生に従って行く〉なんてなぁ。そんなことがあいつに出来るわけがねぇじゃねぇか。初めから分かっとったことさぁ」

 

「見慣れない〈トマ〉やら〈ナタ〉なんて言うやつらも連れてきてるらしいぞ。ほれ、みーんな、都シャレムで、例の十字架に磔にされたイエスの弟子を気取ってたヤツらよ。どの面(つら)さげてやって来たのか、恥ずかしげもなく」

 

                    **************

 

カファルナウムには、シモン・ペトロの実家、いえ、彼の家があったはずです。家族はどうしていたのでしょう。分かりません。意気揚々、目を輝かせていた3年前の彼とは別人のような男の姿が海辺にあります。

 

それにしても、ペトロがガリラヤ湖に漁に出たのは久しぶりのことでした。漁師だった自分がイエス先生に従って歩み出してからというもの、辛いこと、ひもじい思いをしたこともありました。イエスさまから叱られることもよくあったのです。恥もかいた。でも、夢のような日々でもあったのです。

 

いつしか、12人の中の筆頭の弟子と言われるようになり、そのことを自分でも自覚しました。無学な自分が、律法や預言者の書、知恵の書まで学ぶようになることなんて、自分はもちろんのこと、誰も想像できなかったのです。

 

                   **************

 

腕が落ちてしまったのでしょうか。漁の勘がすっかり鈍っていたのでしょうか。漁師の仕事をしたこともない、トマスやナタナエル達が足を引っぱったのか。夜通し漁を続けたのに魚は網に一匹もかかりません。

 

いらだちを超えて、情けなくなってきたペトロ。夜明けが近くなり、疲労の色が濃くなる7人。誰一人しゃべりません。

 

ペトロは漁を続けながら思い出していたかも知れません。初めてお目に掛かったイエスさまが、【わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう】(マルコ福音書1:17)と言われた日のことを。そして「なんで、こうなっちまったんだ」とつぶやくのです。

 

                    **************

 

その日の朝、イエスさまは岸辺から声を掛けられました。「どうだい、漁の具合は」と。ペトロは「けっ、うるせぇヤツがいるもんだ。見りゃ分かるだろ。〈とうしろ〉はこれだからな」と思いながら、「なし、なしだよ旦那」くらいの返事をしたのです。甦りのイエスだと気付かずに。

 

クリスチャン。

 

それは、幾度でも主のお招きを受け、立ち上がる人ではないでしょうか。誰に笑われても構わない。わたしたちにはもう一度があるのです。

 

だからやり直す。いつでも始められる。主の招く声が聞こえて来ます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのみ声が。end

 

 


2018年4月9日(月)の朝、何でもない光景ですが、旭東教会のある西大寺の昔ながらの町並み、五福通りの端っこです。Nikonの看板のもと、眼鏡屋さんはもちろん今はもうありません。
2018年4月9日(月)の朝、何でもない光景ですが、旭東教会のある西大寺の昔ながらの町並み、五福通りの端っこです。Nikonの看板のもと、眼鏡屋さんはもちろん今はもうありません。

       《  み言葉 余滴  》 149

    2018年4月8  主日礼拝からの"余滴" 

       『  お見通しのイエス  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 20章26節~29節 
 26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

復活のイエスさまがエルサレムのとある部屋に身を隠していた弟子たちの前に〈2度目〉に姿を顕(あらわ)された時の様子が描かれています。

 

この場面、イースターのたびに、何度も読んできた良く知られているところです。

 

実はわたくし。今年のイースターに、はじめて気付いたことがありました。それは、イエスさまが弟子たちの心をお見通しだった、ということです。

 

信じることが出来ていなかったのは、疑い深い弟子としてその名が知られている〈トマス〉だけではない、ということです。他の10人も、見ないで信じること、触らないで信じることが出来ていなかったことに気付いたのです。

 

                    **************

 

イエスさまが〈3度〉繰り返されたお言葉があります。それは、【あなたがたに平和があるように】というお言葉です。3度のうち2度は、トマスが一人でどこかに出掛けていて居なかった時でした。今度はトマスが戻って来ている場面で言われたのです。弟子たちみんなも聴いていました。

 

もしも、イエスさまがトマスだけに向かって語りかけられるならば、「トマス、一週間前、、おまえさんだけが居なかったね。だから、お前に伝えるよ。あなたにも平和があるように」と。そう語りかければ事足りたはずです。

 

でも、復活の主は言われたのです、【あながたがたに】と。聖書の原文を確認しても複数形の「あなたがた」となっています。

 

どうして、イエスさまは3度言われたのでしょう。弟子たちには〈平安〉や〈平和〉がなかったからです。甦りの主イエスに再会できた喜びは、本物ではなかったのです。

 

                    **************

 

だからこそ、彼らは一週間が経ってもなお、相も変わらず、家中の戸の鍵をしっかりと掛け続けていました。イエスさまの口から【息】=【聖霊】を吹き注がれてからは、なお一層、怖じ気づいていたのです。

 

息をふーっと吹きかけられたイエスさまは、彼らの前から見えなくなりました。イエスさまの姿が見えなくなって、少し冷静になって思い巡らし、一週の間に考え続けていたはずです。そして、ますます恐くなってしまった。

 

なぜなら、彼らは宣教のためにあなたがたを遣わす、という言葉を復活のイエスさまから受けてしまったからです。これまでは、いつだってイエスさまが矢面に立って下ったのです。そして十字架にも架かられた。

 

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聖書は何と面白い書なのでしょう。イエスさまは何て素晴らしいお方だろう、と思うのです。信じ切れていない者を遣わそうとされる。動揺している様子を悟られないようにしていた弟子たちの心持ちを、イエスさまは全てご存じでした。彼らの心は〈ばればれ〉でした。

 

ゆるしの秘儀がここにあります。奥深い主の愛を垣間見るようです。嘘のような本当の話です。その愛がわたしたちにも注がれています。end

 


2018年4月1日(日)はイースター・復活祭でした。早朝、旭東教会から徒歩8分、観音院のお隣の公園でジュニアサークルのイースター礼拝。たまご探しの頃に、十文字平和教会の皆さんも偶然姿を見せました。このあと、旭東教会で合同礼拝でした(^^♪  ご覧の通り桜はまさに満開!
2018年4月1日(日)はイースター・復活祭でした。早朝、旭東教会から徒歩8分、観音院のお隣の公園でジュニアサークルのイースター礼拝。たまご探しの頃に、十文字平和教会の皆さんも偶然姿を見せました。このあと、旭東教会で合同礼拝でした(^^♪ ご覧の通り桜はまさに満開!

       《  み言葉 余滴  》 148

    2018年4月1  主日礼拝からの"余滴" 

       『  マグダラのマリアによって  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 20章1節~2節
1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。・・・」

 

 聖書には幾人ものマリアが登場します。

 

手元にある『ラクラム版 聖書人物小辞典』(H・シュモルト著・創元社)には【マリア】の項の冒頭に「ヘブライ語のミリアム。イエスの時代のごく一般的な名前」とあります。そして、①~⑥まで6人の【マリア】についての紹介があるのです。

 

実は、イエスさまの「復活」の場面で、4つの福音書すべてに登場するのは、イエスの母マリアではなく【マグダラのマリア】です。

 

                    **************

 

ところが、【マグダラのマリア】という名を聞いて、「この人は本当に立派な女の人でしたね」とか、「私の理想」ですという声は聞かないのです。そのような思いを抱きにくい紹介の言葉が聖書にはあるからです。

 

それは、ルカによる福音書8章冒頭の描写です。イエスさまが12人の弟子たちと共に町や村を巡って神の国の福音を宣べ伝える働きをしている時に、一行に寄り添うようにして従う女性たちが居たのです。その中の一人が【マグダラのマリア】でした。こう紹介されます。

 

【悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。】

 

                    **************

 

彼女の紹介に【七つの悪霊を追い出していただいた】とありますが、「七」という数字は聖書の中では完全数と言われます。良いことでも悪いことでも、もうこれ以上のことは無い、という時に使われる数字です。

 

カトリック教会ではコロサイ書3章5節以下にある「傲慢・物欲・色欲・ねたみ・貪欲・憤怒・怠惰」を〈七つの大罪〉として挙げることがあります(『新キリスト教辞典』いのちのことば社 参照)。

 

つまり、彼女は相当な苦労人、というだけではなく、汚れを身にまとい罪を犯した人として決して消えることのない烙印を押されていた女性の中で、これ以上ひどい人物は居ない、という紹介がなされている人なのです。

 

                    **************

 

クリスマスの出来事、イエスさまのご降誕や誕生の物語は、実は、マルコによる福音書やヨハネによる福音書は直接の関心を示しません。ところが、「十字架と復活の出来事」については、4つの福音書のいずれも、それぞれの仕方でとても丁寧な筆で描きます。

 

そして私たちが注目している【マグダラのマリア】は全部に登場する必要があった人物なのです。何故なのか。

 

答えはハッキリしています。イエスさまを通しての福音を伝える上で、【マグダラのマリア】のような人こそ、絶対に欠かせない重要な存在だったのです。彼女抜きにして十字架と復活の福音を宣べ伝えることなど出来ない。聖書はその事実を、さり気なく読者に伝えてくれています。有り難いことです。

 

あなたにとって、【マグダラのマリア】は遠い人ですか、近い人でしょうか。私は【マグダラのマリア】が居てくれて本当に助かったと思っている人間です。マリアはイエスさま信じ、仕え、従い続けた人でした。end

 

 


2018年3月25日(日)受難節・レント第6 棕梠の主日の夕刻・18時前でしょうか 礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の玄関口より 満さんが「たいへんです、太陽が二つ出てます」とみんなに声掛けしてくださった時の一枚です。 
2018年3月25日(日)受難節・レント第6 棕梠の主日の夕刻・18時前でしょうか 礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の玄関口より 満さんが「たいへんです、太陽が二つ出てます」とみんなに声掛けしてくださった時の一枚です。 

       《  み言葉 余滴  》 147号

    2018年3月25  主日礼拝からの"余滴" 

       『  借金帳消しの福音  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 19章28節~30節
28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

最近参加したある研修会でのことです。実に恥ずかしい話ですが、『十戒』の有り難みが初めてわかった瞬間がありました。

 

「〇〇してはならない」という禁止の言葉が続くのが『十戒』です。これまでの私。神さまからの「掟」や「戒め」は必要かも知れないけれど、いささか厳しすぎるのではないか、と感じていました。ところが、その研修会に参加されていた方のひと言に触れて、ストンと心に落ちて来たのです。

 

それは「十戒は神さまの愛なのだと考えています」という言葉でした。私は何だか急に嬉しくなりました。そうか、そうだったのかと合点がいきました。神さまの禁止命令には理由(わけ)があったのです。神さまが私たちを愛して下さっているからこその厳しさだと遅ればせながら気が付いたのです。すると、『十戒』に対するイメージが、全く違うものになったのですから不思議です。

 

                    **************

 

ヨハネによる福音書では、十字架の上で死を遂げられる直前にイエスさまが発せられたお言葉が全部で4つ記録されていますが、そのうちの2つがここにあります。先ず【渇く】という叫びを思い巡らしましょう。

イエスさまの〈渇き〉がその究極に於いて意味していること。それはこれから先、私たちの魂の渇きがどんな形で襲って来たとしても大丈夫。あなたがたが二度と渇き切った状態のまま放り出されることはない、という宣言です。

 

なぜなら、イエスさまは私たちの魂の〈渇き〉を完全に身に帯びて下さるからです。イエスさまは私たちの代わりに渇ききって下さる。ご自分を信じる者に対して、永遠に至るいのちの水を与え続けるための〈渇き〉です。

 

                    **************

 

もう一つの【成し遂げられた】という最期の言葉も、イエスさまの〈渇き〉と深い結び付きがあります。これは決して「万事休す」「あー、これで終わってしまった」というようなものではありません。

 

【成し遂げられた】というイエスさまの最期のお言葉が力を帯びているのにも理由があります。イエスさまのお言葉は口先だけのものではないからです。そのご生涯全体を通じて紡ぎ出されたもの。イエスさまの全生涯を通じての一刻も休むことのない、その歩みがあってこその力あるお言葉なのです。

 

                    **************

 

実は、【成し遂げられた】という言葉の意味の中には、〈税金〉を「納める、支払い尽くす」という意味があるのです。

 

英語の聖書ではどう表現されるのだろう、と気になって調べてみました。多くの英語の聖書で、【成し遂げられた】は【It is finished(イト イス フィニイッシュド)!】となっています。

 

わたし流に思いきって意訳すると「もう何も心配しなくて大丈夫、終わったよ」となります。

 

十字架のイエスは、私たちの支払うべき神さまに対する「返済不能な巨額な借金」=「罪」を贖(あがな)って下さったのです。

 

そう考える道筋に気づく時、【成し遂げられた】というお言葉は、「あなたの莫大な借金は、我がいのちをもって、肩代わりして支払い済み」という愛ゆえの宣言だということに気付きます。

 

ここには、み子を世に賜り、十字架で磔(はりつけ)にされた神の愛があります。end

 

 


2018年3月18日(日)受難節・レント第5主日 礼拝堂前方に置かれた受難節の象徴です
2018年3月18日(日)受難節・レント第5主日 礼拝堂前方に置かれた受難節の象徴です

       《  み言葉 余滴  》 146

    2018年3月18  主日礼拝からの"余滴" 

       『  三本の十字架  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 19章16節~18節
16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

 

イエスさまの時代。十字架刑が行われる場所は【ゴルゴタ】と呼ばれていました。【ゴルゴタ】は、当時のユダヤの人々が使っていたアラム語という言葉で「グルゴーダー」だっただろうと想像されます。

 

何とその意味は「頭蓋骨」・「されこうべ」という気味悪い場所です。そこには、処刑された後、埋葬されなかった人の骸骨が散らばっていたそうです。

 

福音書記者ヨハネは、【イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」・・・・・へ向かわれた。】(17節)と記録します。

 

キリストであるイエスさまは、ゴルゴタの丘の上に立てられた十字架の苦しみから逃げようとはなさらない。深い覚悟をもって総督ピラトの官邸から歩き出されました。

 

                    **************

 

かつて、12弟子の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスさまにあるお願いをしたことを思い起こします。

 

【何をしてほしいのか】とイエスさまに言われた二人はこう言います。【栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。】と。マルコ福音書10章35節以下の描写です。

 

直後にイエスさまがお答えになります。【わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか】というお言葉は十字架上の死の預言とも言うべきものです。

 

これは、イエスさまの弟子たる者の条件とも言える【わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。】(マルコ福音書8章34節ほか)にも通ずるお言葉なのです。

 

その日、ゴルゴタの丘の上には〈三本の十字架〉が立てられていました。

 

そこにイエスさま以外の人が磔(はりつけ)にされる十字架が、他に二本あることは重要な意味があります。死刑に処されるべき重い罪を犯した者、即ち、罪人の中の罪人が、イエスさまと時を同じくして磔(はりつけ)にされるのです。

 

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昨年夏、ある研修会のために出掛けた福岡市の中心街・天神のはずれに、九州キリスト教会館という建物があります。

 

そこは1996年から5年の間、私が九州教区の主事としても仕えていた言わば通いなれた場所です。4階に礼拝堂がありますが、その正面の壁には十字架が3つあるのです。

 

三本の十字架の下に、【わたしは復活であり、命である(*「EGO SUM RESURRECTIO ET VITA」)】というヨハネによる福音書11章25節のみ言葉が「ラテン語」で書かれています。

 

25節は【わたしは復活であり、命である】に続けて【わたしを信じる者は、死んでも生きる。】とあるのです。

 

これは、キリスト者にとって重要なひと言です。

 

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恥ずかしいことに、私は3本の十字架の有り難さにこれまで気付いていませんでした。

 

何度もなんども3本の十字架を見ていたのです。しかしあまりに鈍感でした。

 

イエスさまの両脇で、磔(はりつけ)にされる罪人は、私とは縁遠い悪人だと思っていたのです。何と鈍い人間なのでしょうか。

 

でも、ようやく気が付きました。

 

罪人である私がイエスさまの隣で磔(はりつけ)にされている。その私を、イエスさまは、さいごまで見捨てないためにも、ゴルゴタの丘を目指して自ら進んで十字架を担って下さっていたのです。

 

私は今、あらためて、その十字架のイエスを救い主だと信じて生き始めています。end

 

 


2018年3月11日(日)礼拝直後 十文字平和教会の布下満兄(画家です)をお迎えして上演した手作り紙芝居『幸福な王子』の終幕近く。音楽も手作り編集朗読が流れます。全てが美しかった、ほんとうに!
2018年3月11日(日)礼拝直後 十文字平和教会の布下満兄(画家です)をお迎えして上演した手作り紙芝居『幸福な王子』の終幕近く。音楽も手作り編集朗読が流れます。全てが美しかった、ほんとうに!

       《  み言葉 余滴  》 145

    2018年3月11  主日礼拝からの"余滴" 

       『  私もあなたも そこにいる  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

ヨハネによる福音書 19章1節~6節

1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」

 

ドイツアルプスの村・オーバーアマガウ。その野外劇場で行われる世界最大のキリスト〈受難劇〉は広く知られています。1634年が初上演という歴史あるもので、現在は10年に一度開催されているようです。

 

俳優はもちろんのこと、オーケストラや聖歌隊、演出・大道具など、劇に関わる全てが村人によってとり行われる壮大なもの。5月から9月までの間に100回以上の上演があります。次回は2020年という旅行案内を見ました。

 

キリスト降誕劇は幼稚園などでよく行われます。でも〈受難劇〉は教会でこそ行うべきではないかと私は思います。衣装など無くても構わない。配役を決め、『聖書』をみんなで演じるのです。いや、イエスさまの茨の冠と紫色の衣くらいは必要かも知れません。その時、我々は何を思うのでしょう。

 

                    **************

 

兵士たちは鉛(なまり)が編み込まれた鞭(むち)でイエスを打ち続けます。肉が裂け、呻(うめ)き声を上げ、血を流し始めるイエスが居るのです。兵士たちは顔を見合わせながら近づいて来て言います。【ユダヤ人の王、万歳】と。

 

さらに彼らは、イエスを平手打ちします。「王さま、万歳」と言うときは、本当ならば口づけをする場面なのです。その代わりの平手打ちです。〈受難劇〉では、他の誰かではなく、あなたが、平手打ちをする兵士になるのです。

 

ローマの総督ポンテオ・ピラトはイエスが「無罪」だと気付いていました。「何て運の悪いことだ」と苛立(いらだ)っていたかも知れません。ピラトが言います。【あの男をお前たちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけがわかる・・・】と。さらに、【茨の冠をかぶり、紫の服を着けた】イエスを見ながらピラトは言います。【見よ、この男だ】と。

 

                    **************

 

讃美歌280番『馬槽(まぶね)のなかに』の4節。【この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】の【この人を見よ】の原典はこの場面です。私たちは〈受難劇〉の中で、馴染みのある賛美歌を新たな思いでかみ締めながら歌うのです。この惨めなお方こそが「活ける神」なのだと。

 

ユダヤ人の役を演じる人たちは隣に居合わせた者同士、顔を見合わせながら【十字架につけろ、十字架につけろ】と叫びます。その声は連呼となります。〈受難劇〉に参加している者は皆、取り憑(つ)かれたように叫び続けるのです。

 

                    **************

 

毎週の礼拝で告白する「使徒信条」の中にポンテオ・ピラトの名があります。そのピラトの傍らには、呻き苦しんでおられるイエスさまが居られます。誰がそうしたのか。私であり、あなたなのです。犯人捜しの必要は微塵もありません。「罪人の頭たち」が集まった所に教会が生まれます。

 

今年も、無惨に傷つき十字架を背負わされてゴルゴタの丘に向かうイエス・キリストのみ苦しみを思い巡らす「レント・受難節」を迎えています。end

 

 


2018年3月4日(日)集会室にて ステンドグラスと相まって本当にきれいでした(^^♪
2018年3月4日(日)集会室にて ステンドグラスと相まって本当にきれいでした(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 144

      2018年3月4  主日礼拝からの"余滴" 

        『  何もわかっていない  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 18章10節~11節

10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
   

12人の弟子たちの中で、常に筆頭の立場に居たのがペトロでした。彼はのちのカトリック教会の初代教皇です。

 

ペトロは数時間前、【主よ、なぜ今ついて行けないのですか、あなたのためなら命を捨てます】(ヨハネ福音書13:37)と言い切ったことを忘れるわけがありません。

 

その言葉は彼の本心だったと思います。たとえ、ほかの仲間たちがどうであれ、俺だけは絶対にどんなことがあってもと考えていたのです。サタンに取りこまれたイスカリオテのユダに引き連れられ、やって来た一団を見たペトロは、高ぶりを感じていたことでしょう。既に冷静さを失っていました。

 

                    **************

 

どんなおっちょこちょいをしても、いつも寛容に見守ってくれたのがイエスさまでした。

 

この時のペトロは、自分たちがイエスさまに守られてきた立場にあることを、すっかり忘れています。逆に、自分たちがイエスさまをお守りしなければ、という思いで剣(つるぎ)を振り上げたのです。

 

他の弟子たちは当てにならないと思ったのでしょう。彼の行動は一面から見れば、イエスさまを守ろうとする熱心さの現れと言えなくもありません。

 

けれども、イエスさまが人を傷つけるような武器としての剣(つるぎ)をもつこと、それを使うことを認めることなど、どう考えてもあり得ません。ペトロは主の目を盗んで短刀を手に入れ隠し持っていたのです。

 

                    **************

 

ユダに案内され、イエスさまを捕らえるためにやって来たのは祭司長、神殿守衛長、長老たちの一団でした。イエスさまは彼らに向かって【まるで強盗にでも向かうように、剣(つるぎ)や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに・・・】(ルカ福音書22:53)と言われます。

 

敵には逃げも隠れもしないイエスの姿を想像できなかったのです。

 

一団に向かってペトロは短刀を振りかざして襲いかかりました。この時、ペトロによって耳を切り落とされ人が居ましたが、イエスさまは即座に【剣(つるぎ)をさやに納めなさい。父がお与えになった杯(さかずき)は、飲むべきではないか】とペトロを戒められます。もちろんこれは、十字架を覚悟されたお言葉です。

 

ペトロがとった行動は、闇に乗じて敵の軍団がなすことと何ら変わらないのです。主イエスのみ心が何もわかっていない弟子の姿がここにあります。

 

                    **************

 

キリストが進んで行こうとされている〈道〉があります。それは、武力も権力も必要としない〈道〉なのです。イエスさまは、敵を傷つけるような仕方でそれが成就することなど、少しも望んでおられません。

 

マタイによる福音書では【剣をさやに納めなさい】というお言葉に続いて、【剣で滅びる者は皆、剣で滅びる】(26章52節)と続いていることを思い起こしましょう。ペトロの熱心さは見当外れ、的外れなものでした。主イエスのみ心との間に大きなズレがあるのです。

 

私たち、ペトロはしょうもないヤツだと軽蔑することは決してできません。み言葉は警告しているのです。あなたも私も、ペトロと同じように、み言葉よりも世の力の象徴である【剣】を頼りにしているのではないか、と。end

 

 


2018年2月26日(月)旭東教会の近くの西大寺緑化プラザの公園にて 梅が見頃になりました
2018年2月26日(月)旭東教会の近くの西大寺緑化プラザの公園にて 梅が見頃になりました

          《  み言葉 余滴  》 144

      2018年2月25  主日礼拝からの"余滴" 

       『  〈掟〉はもう要りませんか?  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)