《  み言葉 余滴  》 礼拝説教の中の一滴をあなたへ


《み言葉"余滴"》は礼拝説教の要約ではありません。説教とは別の角度からの視点でお届けするみ言葉を読んで黙想するためのものです。語られた説教は、「礼拝音声メッセージブログ・西大寺の風」「旭東教会YouTube配信」でお聴きになれます。お覚え下さい。古いものについては容量の都合で随時削除しています。


2019年3月24日(日)主日礼拝JCの時間に ヨハネ13章朗読後 洗足をしてくるN君
2019年3月24日(日)主日礼拝JCの時間に ヨハネ13章朗読後 洗足をしてくるN君

    《 み言葉 余滴 》   NO.196
              2019年3月24日
         『 魔が差した人 その救い 』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 22章3節~6節、23節 3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。・・・・・・23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

 

皆さんは「心の中に悪魔がはいったように、ふと悪念を起こし、思いもよらない出来心を起こしたこと」はないでしょうか。これは「魔が差す」という言葉を『精選版 日本国語大辞典』で引くと出てくる解説です。

 

もう少しだけ、言葉を追いかけてみましょう。「悪念」に近いなぁと思う日本語が「邪念)」です。私たち、冗談半分で「俺なんかいつも〈邪念〉だらけですよ」と言うことがあります。

 

ならばと思い、「邪念」を『明鏡国語辞典』で引いてみました。すると、「① 悪事を行おうとする、よこしまな考え。邪心。」「② 心の迷いから生じる不純な考え。雑念。」と出て来るのです。

 

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イスカリオテのユダの姿が見えます。裏切り者の代名詞として広く知られる人です。

 

そのユダに、ルカによる福音書4章でイエスさまを荒れ野で試みたのち、いったん姿を消していたサタンが入ります。過越祭と呼ばれる除酵祭の準備でエルサレムはいつもと違う空気の中にありました。

 

そんな中で、イスカリオテのユダは、ふと悪念を起こし、何を血迷ったか、思いもよらない出来心を起こしたというのです。イエスさまの弟子であるならば、そんなことは決してあってはならない行動なのですが、人生の師として従い続けて来たイエスさまのことを、銀貨30枚で売ってしまいます。

 

マタイによる福音書27章3節以下の描写によるならば、イエスさまに死刑の判決が言い渡されようとする頃、ユダは我に返り、深い後悔の念を抱き、悔い改めの行動を取ろうとしました。

 

銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとしますが、相手にされません。やがて彼は、自ら命を絶ちます。

 

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イエスさまのことをいつ「引き渡そうか」と考えていたユダですが、彼はイエスさまの弟子として召し出されて以来、ずっと、裏切りの時を待ち続けていたのか。

 

いいえ、決してそんなことはないはずです。彼は彼らしく12人の中でたいせつな役割を果たし続けて来たに違いない。

 

ヨハネによる福音書13章29節には「金入れを預かっていた」のがユダだという情報もあるのです。これは、弟子たちの中で信頼される立場に身を置いていたことを意味するのではないでしょうか。

 

私はユダの姿を見る度に、実に複雑な思いを抱きます。他人事(ひとごと)とは思えないのです。彼は罪の告白をしようとする人だった。そうしたかったのです。その場所を知らなかった。

 

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いつまで経っても迷いもあるし、道を外れることもある。邪念も邪心もあるのが私たちです。魔が差したことだって、人生一度ならずあるはずです。

 

ルカによる福音書15章に、愛着のある放蕩息子の譬え話があります。彼は言いました。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と。息子は死にません。生き返った。宴会が開かれた。ゆるされているのです。

 

ユダは、私たちを立ち止まらせるためにどうしても居なければならない捨て石だった。のちに最後の晩餐と呼ばれるようになる食事の席で示されたのは、神の国の奥義です。

 

ユダは今、天国でその食卓を囲んでいると信じたい。end

 

 


2019/3/17  礼拝堂前方にて
2019/3/17 礼拝堂前方にて

  《 み言葉 余滴 》   NO.195
                2019年3月17日
  『 最後の譬え話 あなたにも愛が見えます 』
                       牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 20章12節~15節 12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。

 

最近私は、聖書を読んでいて感じることがあります。それは、聖書という書に〈慣れは禁物〉だということです。あるいは〈速読も要注意〉だと思っています。

 

会社勤めをし始めた20代前半の頃、今では誰の影響を受けたのかわかりませんが、速読とか多読を身につけないといけない、という情報を、どこかで自分の内側にインプットしてしまったのです。

 

神学校に入学し、牧師になるための研鑽を始めた時にも、本を速く、たくさん読まなければ、一人前の牧師になれないと思い込んでしまったのです。今ではそれは間違いだったと気付きました。むしろ必要なのは「遅読」です。

 

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私たちは、この「ぶどう園の譬え話」を読む上でも、ゼロから素朴に聴く準備をした方がよさそうです。なぜなら、ここには、随分ひどい話、恐ろしいことが記されているからです。

 

「袋だたき」「侮辱(ぶじょく)」「傷を負わせてほうり出す」「殺し」等など。私たちがこのような暴力的な内容に、いつしか慣れっこになってしまっているとしたらそれこそ大問題です。ぶどう園を舞台にしたイエスさまの譬え話を読む上で大切にしたい視点があります。

 

それはこの譬え話が、イエスさまによって、「いつ、どこで」語られたのかを、冷静に踏まえておくことです。他の多くの譬え話と同様、近くには祭司長や律法学者たち、そして弟子たちがいて、イエスさまの譬え話を聴いていたのは変わりはないのです。しかし、明確な違いが一つあります。

 

それは、子ろばに乗ったイエスさまが、12人の弟子たちと共にエルサレムに入場された後(あと)の話であることです。

 

さらに、もう少し読み進めると、ゴルゴタの丘の上での十字架の受難を目前としている、ということに大きな意味があることに気付きます。ぶどう園の譬え話は、イエスさまによる遺言が含まれているのです。私たち、目を覚まして聴く必要があります。

 

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主人である神さまは、ぶどう園そのものを意味する農夫たちのもとに三人の僕(しもべ)を送ります。彼らは主人の代理人ですが、それぞれに暴力をふるわれます。この僕(しもべ)とは旧約の時代に活躍した預言者たちのことです。農夫たち=イスラエルの民は、僕(しもべ)をないがしろにするのです。ここに至って、ついに、神さまは独り子をぶどう園に送る決断をされたのです。最愛の独り子とはイエスさまのことに他なりません。

 

これは神さまによる、驚くべき決断です。普通ならば、一番大事な子どもは、ぜったいに手放したくないですし、側(そば)に置いておきたいものです。それなのに、主人は危険を顧みずに独り子をぶどう園に送られました。そこで起こるのが、跡取り息子の死なのです。それがキリストの十字架の出来事でした。

 

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人の心の闇、そして、世の罪があります。イエスさまは、ぶどう園の譬え話の解決策を、どこでどのように示そうとされているのか。この箇所だけを読んでいても答えは見いだせません。

 

福音書は十字架のイエスの死と復活抜きには終わりません。愛はそこに立っています。イエスを見捨ててしまった者の人生の仕切り直しはそこでだけ可能です。そこに立ち続ける人は、神さまの愛に生かされていくのです。end


2019年3月10日 受難節・レント第1主日 礼拝堂前方の茨の冠 
2019年3月10日 受難節・レント第1主日 礼拝堂前方の茨の冠 

    《 み言葉 余滴 》   NO.194
              2019年3月10日
       『 〈こころむるもの〉の正体』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 4章1節~2節、13節 1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。・・・・・・13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 

私たちが日頃使っている『讃美歌21』の495番に「しずけき祈りの」という賛美歌があります。その〈2節〉にこうあるのです。

 

  しずけき祈りの ときはいとたのし。
  さまよい いでたる われを呼び返し。
  あやうき道より ともない帰りて、
  こころむるものの 罠をのがれしむ。
                                                『讃美歌 21』495番2節

 

4行目の「こころむるものの」は「サタン」のことです。〈祈り〉の賛美歌の中に悪魔がひそんでいることに私はずっと気付きませんでした。この「こころむるもの」は、荒れ野での40日の間、イエスを「こころみた」のです。聖書の小見出しは「誘惑を受ける」となっていますが、むしろイエスさまは、悪魔=サタンから〈こころみられている〉と読む方がよいと思うのです。

 

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3月11日の夜、私は神戸市にある神戸聖愛教会で行われた東日本大震災関連の支援チャリティーコンサートに出掛けました。その際「週報」を頂き、帰ってから〈礼拝順序〉を眺めていて目にとまったことがあります。

 

小栗献(けん)牧師の説教は旭東教会と同じ箇所で、日本基督教団の聖書日課、ルカ福音書4章より「試してはならない」でした。この〈題〉はとても意味深(しん)です。

 

誰が「試してはならない」との教えを受けているのでしょう。

 

でも、気になったのはそれだけではありません。説教後の賛美の直前に〈 沈黙 み言葉を思いめぐらす時〉とあったのです。イエスのみ苦しみを想う時に必要なのは、我々の過ぎた言葉ではない。「しずけき祈り」だからです。

 

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イエスさまには12人の弟子がおりました。やがて彼らは、イエスさまから使徒に任命され、遣わされる者となった人たちです。その中の二人は、サタンと深い関わり合いがあったことが聖書に記録されています。

 

まず一人目は、「ペトロと名付けられたシモン」です。

 

マルコ福音書8章33節に【イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」】とあります。

 

彼はイエスさまの筆頭の弟子と断言してもよい人物です。そのペトロが「サタン」と名指しで呼ばれるのです。

 

もうひとりはユダです。

 

ルカ福音書22章3節に【十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。】という描写があります。

 

荒れ野での40日間、イエスを試みたサタンは一度イエスを離れましたが、今度はユダに入ったのです。程なく、ユダはイエスを売り飛ばします。

 

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一体、ペトロとユダにどれほどの違いがあるのでしょうか。

 

いいえ、それ以上に問わなければならないのは、〈ペトロとユダの二人〉と〈私たち〉に違いがあるか、という点です。

 

目を閉じて静まると気付くことがあります。彼ら二人と私たちはその本質に於いて、何ら変わらないのです。私たちはもっと悪人かも知れないのです。

 

〈あなた〉は荒れ野でイエスをこころみ続けた人としての自覚を持っているでしょうか。今年も「しずけき祈り」の中、イエスさまが発せられたお言葉を聴き直すレントを迎えています。end

 

 


2019年3月3日(日)の旭東教会講壇より。だんだん、十字架が近くなってくる期節を迎えます。この日は、降誕節最終主日でした。次週からレント・受難節です。
2019年3月3日(日)の旭東教会講壇より。だんだん、十字架が近くなってくる期節を迎えます。この日は、降誕節最終主日でした。次週からレント・受難節です。

     《 み言葉 "余滴" 》 193号
      2019年3月3日
    『  アナニア・サウロ そして私 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 9章10節~12節 10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。12(サウロは)アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。

 

アナニア。少なくとも私にとっての彼は、全く目立たないノーマークの人でした。私は『使徒言行録』を何度も読んだはずなのに、正直に申し上げて、恥ずかしながらアナニアに注目したことがなかったのです。

 

ここではまだ「サウロ」ですが、のちの「パウロ」は、アナニアがどんな人なのかについてこう語っています。「ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。」(使徒言行録22章12節)と。

 

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つまり、アナニアはある時期まではサウロと同様、「律法にかなった真面目で信仰のあつい人」だったはずなのに、ユダヤ教徒からキリスト教徒に変わっていった人、ということになります。

 

ダマスコに向かっていたサウロたちにとって、正にアナニアのような輩(やから)こそが、懲らしめてやらなければならない裏切り者でした。神に見捨てられ、裁かれるべきとんでもない奴らの代表格がアナニアだったのです。

 

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では、一方のアナニアにとってのサウロはどうだったのか。これもまた、とんでもない輩(やから)でした。神さまから、「アナニアよ、サウロの元に行け。」と命じられた時に、彼には直ぐに従えない葛藤がありました。

 

だからこそ、「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。・・・」と精一杯の抵抗をしめしたのです。「よりによって」という思いが先立った。

 

しかし、アナニアの脳(のう)裏(り)には、幻の中で語りかけて来た主イエスの「彼は祈っている」とのお言葉が既に焼き付いていたのです。この箇所、聖書の原文通りに忠実に訳すと、「〈視(み)なさい〉彼は祈っている」となっています。

 

つまりイエスさまは、「アナニアよ、あなたはそこに進み出て行って、サウロに出会わない限り、わからないことがあるのだよ」と言われているのです。確かに私たち、聴くのと視(み)るのとでは違うことをどこかで経験しています。

 

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サウロの待っている「ユダの家」にたどり着いたアナニアは、目の前に座っている小さく見えたサウロに一体何を視たのでしょう。

 

そしてまた、アナニアに手を置いて祈ってもらったサウロは、目から鱗(うろこ)が落ちたのち、目の前に居るアナニアに何を視たのでしょう。私は想うのです。〈それぞれのかたわらに、主イエスが立って居られた〉のではないか、と。

 

二人には共通していることがあります。それは、幻の中で主の声を聴き、形は何であれ、み声に従って「起き上がった」「立ち上がった」ということです。彼らは全てを理解してそうしたのではありません。

 

キリストのみ業にあずかる世界は、立ち上がり、従い始めた者にこそ、やがて見えてくるものなのです。言葉で説明できるような薄っぺらいものでもない。だからこそ、主に従うことは、真(しん)に豊かで、奥深いものなのです。end

 


           《 み言葉 "余滴" 》 192号
      2019年2月24日
    『  回り道、寄り道を知るあなたへ』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 41章46~52節

46 ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳であった。ヨセフはファラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。・・・・・・52 また、次男をエフライム(増やす)と名付けて言った。「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」

 

波瀾万丈という言葉がぴったりの人、それがヨセフです。父ヤコブと母ラケルの間に11番目の年寄り子として生まれたとき、とりわけ、父ヤコブの喜びようといったらありませんでした。いくら可愛いからと言ってそれは行きすぎ、と周囲の者たちも感じたことでしょう。兄たちから妬(ねた)まれ、命を狙われるようになるのも、ある意味において必然でした。

 

命拾いして、17歳で奴隷としてエジプトに売り飛ばされてからのヨセフは苦難と紆余曲折の13年を歩み続けることになります。エジプトの主人の元で信任されて執事となったかと思いきや、主人の妻の誘惑を断固として拒んだことで牢獄に入れられます。すると今度は、牢獄の看守長に抜擢されるのです。やがて牢獄入りしてきた二人のエジプト人高官の夢解きを行い、光が射したかに見えましたが、「外に出して」という願いは忘れ去られるのです。

  

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時が巡り、エジプト王ファラオの不吉な夢を解き明かす務めに召し出されたヨセフはその機会を逃しませんでした。ヨセフの素晴らしさがあるとしたら、「自分に王の夢解きが出来るのはではなく、ただ神さまからのお告げを皆さんに取り次いでいるに過ぎません」と言い切るところでした。その謙虚な30歳のヨセフの姿は、17歳当時、おべべを着ていたヨセフとは全く別人です。

 

やがて「7年にも及ぶ大飢饉が襲ってくる前に、しっかりとした備えが必要です」というエジプトの国家政策とも言える提言をなすのです。そんなヨセフを見た王ファラオは、「ヨセフにはいつも神の霊が宿っている」ことに気付いていました。

 

私は、使徒パウロが、まだ見ぬローマの教会の人びと宛に記した手紙の一節を思い起こしました。ローマの信徒への手紙5章2節以下です。

 

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

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私は隠退されている山本将信(まさのぶ)牧師が長野県の篠ノ井教会で伝道・牧会をしながら、米作りに励んで居られた頃に、お話をうかがった事があります。稲作の素人だった山本先生は、近くの農家の方から教えられるままに、半信半疑で、八月の中旬に、田んぼの水を完全に抜ききったそうです。

 

やがて山本牧師はあることに気付くのです。「稲には厳しい負荷がかかるけれど、そのことによって、稲自体が持つ種の保存の力が発揮されることを知った。大きな秘められた力を生み出すことになっていることが分かった」と。つまり、稲にとって大変厳しい状況に追い込むことが、実り豊かな収穫のためには必要だったのです。どうやらこれは、〈土用干し〉の一種のようです。

 

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人の目には見えない備え、「神の摂理」があることをヨセフの歩みは教えてくれています。私たちは、私たち自身で予測可能な人生を進むのではありません。

 

ヨセフのように、神のみ業の中で生きることへの希望に期待する道を、倦(う)むことなく弛(たゆ)むことなく進むのです。その道は「道・真理・命」(ヨハネ14:6)と教えられたイエスさまと必ずや一つになるのです。end

 

 

 


2019年2月17日の日曜日 集会室の窓辺にて あら、先週の講壇のお花?
2019年2月17日の日曜日 集会室の窓辺にて あら、先週の講壇のお花?

     《 み言葉 "余滴" 》 191号

      2019年2月20日

   『 本物の〈宴会〉はどこに?』
                                   牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎ルカによる福音書 14章7~14節 7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。・・・11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

クリスチャンの生き方。それはイエスさまのお言葉に従って歩んで行くこと。あるいは、イエスさまがなさったことに少しでも倣って生きようとすることです。私たちはその自覚をどの程度もっているでしょうか。

 

イエスさまはここで、私たちの日常の暮らしに、さして関係なさそうなことを話題にされるのです。それは盛大な〈宴会〉を開くときの教えです。

 

13節には、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」とあるのですが、一体、どこの誰が、この教えをまともに聞き、素直に受け入れるのでしょう。

 

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実は、ほぼ同様の内容がこの直ぐ先のルカによる福音書14章21節でも語られているのです。

 

そこには「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」とあります。この教えをイエスさまが繰り返されたのは、何気ない言葉ではなく、相当な覚悟をもっておられたことを意味します。

 

それだけではありません。さらにその先、ルカによる福音書14章27節には、イエスさまがわざわざ振り向きながら大勢の群衆に語られる〈弟子の条件〉とも言える内容のお言葉があります。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。」。群衆に対して語られた内容が、12人の弟子たちに当てはまらないはずがないのです。

 

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少しだけ回り道しますが、教会の外の方、ノンクリスチャンの方たちに、キリスト教がどんなふうに知られているか考えてみました。意外な程に浸透しているものに、レオナルド・ダ・ビンチをはじめ、多くの画家によって描かれてきた、「最後の晩餐」があるのではないでしょうか。

 

主イエスと12人の弟子たちが共に〈食事〉をする場面は、今日(こんにち)の聖餐式の原点の一つですが、「最後の晩餐」は皆さんの周囲でもご存知の方が多いはずです。

 

イエスさまは罪人のレッテルを貼られた人々と楽しく〈食事〉をなさいました。〈5000人の給食〉の場面も、4つの福音書に記録されている大事な場面です。イエスさまが〈共に食べること〉を大事にされていたのには理由(わけ)があるのです。

 

それは、みんなで一緒に食べること自体が、分かち合いの場、神と人とが出会う場になるからです。だとするならば、単に〈宴会〉の開き方を語っておられるかのように見えるイエスの教えは、上っ面だけを学ぶことで終わらせることはできません。我々が受けとめるべき深意があるからです。

 

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私たちは先日、〈焼きそばパーティー〉を行い、創立記念日には〈伝統のかけ汁〉を頂きました。あれは〈神の国の宴(うたげ)〉です。私たちは食する交わりを聖餐式と同じように大事にする共同体なのです。

 

「何よりもまず、神の国と神の義を求めよ」(マタイ6:33)という教えと〈教会で食すること〉は寸分の違いもありません。

 

そこへ誰を連れてくるのか、あるいは、ケータリング(*出張お届けサービス)を行うのか。イエスさまは、その行方を見守っておられます。end

 


2019年2月10日(日) 冬のファミリー礼拝の直後 十文字平和教会の布下満さん(画伯)を迎えて「トルストイ原作 くつやのマルチン」の紙芝居を上演(^^♪  大人も子どもも大感動でした
2019年2月10日(日) 冬のファミリー礼拝の直後 十文字平和教会の布下満さん(画伯)を迎えて「トルストイ原作 くつやのマルチン」の紙芝居を上演(^^♪ 大人も子どもも大感動でした

   《 み言葉 余滴 》190号
                  2019年2月10日
  『  パウロに見えるようになったもの 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 9章1節~8節 1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。・・・・・・・・・8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

 

ここで「サウロ」と呼ばれている人。この人は新約聖書の中で「パウロ」として広く知られる人です。幼少期からファリサイ派の厳格な教育を受けた人間で、その学識、知性は群を抜いていた、と言われます。

サウロはクリスチャンと呼ばれはじめていた人々を、迫害する働きの旗振り役だったようです。サウロが聖書の中で初めてその姿を見せるのは、使徒言行録7章の終わりで、ステファノという初代キリスト教会の熱心な伝道者の死の場面です。パウロはステファノの殺害を指揮していたのです。

 

                    **************

 

サウロは、ステファノが、その死の間際に、迫害する者のために執りなしの祈りをするのを間近で聴きました。相当な驚きを覚えていたはずです。ステファノが死に行く場面は、サウロの心に深く焼き付いたことでしょう。忘れたくても忘れられないほどにショックを受けたのです。ある種の〈恐ろしさ〉を、クリスチャンと呼ばれる者たちに感じたのではないでしょうか。

 

サウロはイエスさまの十字架の場面に立ち会っていませんが、十字架上で罪人たちのために執りなしをされたイエスの姿とステファノはピタリと重なったのです。そして、クリスチャンの底力を知ってしまった。だからこそ、いよいよ必死になって、キリスト教徒迫害に息を弾ませたのです。

 

                    **************

 

のちにパウロとして知られることになるサウロは、ステファノの殉教の死を忘れることが出来たでしょうか。私は否、だと思います。ダマスコに向かう途中、復活のイエスから「サウロよ、サウロ」と呼びかけられたイエスさまは「光」の中からそのお姿を顕されました。

 

いいえ、姿は見えません。聞こえて来るのは声だけでした。この時、サウロは既に見ることが出来なくなっているのですが、サウロにはこの〈見えない時間〉が必要だったのではないか。私はそのように想像しています。

 

目から鱗のようなものが落ち、見えるようになるサウロ。彼に見えるようになったのは、「罪人の最たる者、罪人の頭である」という自分の姿でした。サウロの恥と弱さの自覚こそ、クリスチャンに求められることなのです。

 

                    **************

 

私は牧師として、毎週説教の準備をいたします。説教の準備というのは、聖書に聴き、行間を思い巡らし、そこから一筋の道を見つける作業の繰り返しです。

 

日曜日が近づくと、私は「どうか、確信を持って福音を語ることが出来ますように」と祈るのですが、次のような瞬間が来ると本当に安心します。それは「見えた」という瞬間です。裏を返せば、その瞬間が来るまで、私には伝えるべき道、指し示し、分かちあうべき道が見えないのです。

 

私たちの目には「鱗(うろこ)のようなもの」が直ぐに貼りついてしまうようです。だからこそ、光であるイエス・キリストとの出会いによって、幾度でも鱗(うろこ)を落として頂く必要があります。その経験によって私たちに見えるようになるものは何でしょうか。〈恐れることなく〉み言葉を求め続けたい、と願います。end


2019年2月5日 岡山市北区の吉備津神社にて 梅の花
2019年2月5日 岡山市北区の吉備津神社にて 梅の花

         《 み言葉 余滴 》189号
                  2019年2月3日

   『  〈しかめっ面〉にさよなら 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 5章33節~36節a
33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」36 そして、イエスはたとえを話された。

 

スが、飲めや歌えの宴会を、当時の罪人の代表格である徴税人たちとしていることを受け入れられません。

 

しかも、そのイエスが、シナゴーグと呼ばれる礼拝所や会堂で律法や預言書に基づく権威ある教えをなし、癒しのわざによって人々を驚かさせ、群衆が押し寄せてくることがゆるせません。〈石部金吉的〉なファリサイ派は、しかめっ面か何やら難しい顔で、いかにも宗教的な修錬をしているかのように見える「断食」をすべきことだ、と言いたかったのでしょう。

 

人間、「御百度(おひゃくど)を踏んだらそれでいいのよ」とか、「これこれの時間に、お祈りしなさい」と断言される方が実行しやすいものです。しかしイエスさまを通して示される神の国には、さまざまな意味での自由さがありました。それは、自主性を重んじることでもありますし、自分で考えてごらんなさい、という面でもあるのです。

 

ですから、救いにたどり着く道筋は、一つだけではない。そこに、キリスト教信仰の奥深さや豊かさが秘められています。

 

                    **************

 

人と同じようにやっていたり、同じ格好していることはとても安心です。これだけやっていれば絶対大丈夫だよ、という仕方があるならば、それは信仰生活においても楽ちんなのです。けれども、イエスさまは「断食」を退けられたように、形式ばかりの「律法主義」を警告されるのです。

 

賛美歌を歌う時にしかめっ面はいりません。主の晩餐にあずかる時にも、しかめっ面は不要なのです。私たちに必要なのは、共に歌い、共に食べ、共に涙し、共に喜ぶ生き方です。クリスチャンにしかめっ面は似合いません。end


2019年1月27日 特別伝道礼拝の朝、お声掛けしていた弟さんの到着を、教会の前で待つお姉さま(八重子さん)
2019年1月27日 特別伝道礼拝の朝、お声掛けしていた弟さんの到着を、教会の前で待つお姉さま(八重子さん)

         《 み言葉 余滴 》188号
                  2019年1月27日

   『  もう、木登りはしません 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 19章1節~7節

1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

 

当時のユダヤにおいて、罪人と同じ扱いを受けていた徴税人ザアカイを説明する上で外せない表現があります。それが【背が低かった】という言葉です。わたしは【背が低かった】という語には特別な意味が隠されていると感じます。この語は言い方を変えるならば「小さい」という意味です。

 

ここには、当時のユダヤの社会に於けるザアカイという人に対する社会的な評価や、人々が彼を見る目、さらには、ザアカイ自身の自尊心や自己肯定感の小ささが隠されていることを思うのです。

 

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小さな大人である徴税人ザアカイ。彼はどうしてもイエスさまを見たかったのです。そこで考えついたのが、いちじく桑の木の上に上って待つことでした。いい歳をした徴税人の親分が木に登る姿は滑稽です。

 

ところが、ザアカイの身に思いも寄らぬことが起こります。何と、イエスさまが次第に自分の方に近付いてくるではありませんか。

 

それどころか、ついにイエスさまは、いちじく桑の木の真下にやって来て、隠れているつもりのザアカイの方を見上げて語りかけたのです。【「ザアカイよ、急いでお降り。きょうはあなたの家に泊まることになっているから」】(前田護郎訳)と。

 

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実に、この木の下から上を見上げて呼びかけるイエスの姿に深い意味があります。聖書の神は上から支配するお方ではない、ということです。英語で「理解する」「わかる」という言葉を「understand」(アンダースタンド)と言います。

 

この言葉は「under」と「stand」という二つの言葉から成り立っています。「under」とは「下」という意味です。そして「stand」は「立つ」ということです。つまり、人を理解するということは、下に立って受け止めようとする姿勢、生き方が必要だ、ということでしょう。

 

ザアカイはいちじく桑の木の上にいましたが、イエスさまは下に居られる。イエス・キリストはザアカイを上から見下ろすお方ではありません。聖書の神は低きに下り給う神なのです。そのことが、家畜小屋にお生まれになり、十字架の死に至るまで、そのご生涯において一貫して明らかにされています。

 

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この呼びかけに応えたザアカイは、【急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた】ことを肝に銘じましょう。このことなくして、ザアカイの人生が変わっていく、救い主との出会いなどあり得なかったのです。イエスさまは、遠くからじいっと眺めているためのお方ではありません。

 

ヨハネの黙示録3章20節に、【見よ、わたしは戸のところに立って叩く。わが声を聞いて戸を開く人があれば、その人のところへ行こう。そして、わたしは彼と、彼はわたしと、食を共にしよう。】(前田護郎訳)とあります。

 

今、わたしたちの暮らしの中では、扉を叩いて下さるイエスさまの良き訪れは、〈み言葉〉を通して示されます。だからこそ、我々は聖書を読み、神さまと対話し続けるのです。求める者の心に、主は宿り続けて下さいます。end

 


2019年1月20日 降誕節第4主日 旭東教会の講壇にて
2019年1月20日 降誕節第4主日 旭東教会の講壇にて

         《 み言葉 余滴 》187号
                  2019年1月20日

  『  フィリポ、宦官、そしてパウロへ 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 8章26節~28節、30節  26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。・・・・・・38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

 

ここにはフィリポの姿が見えます。

 

逃げるようして向かったサマリアにおいて、彼自身も想像できなかったほど豊かに用いられます。しかし、サマリアに留まり続けることは、主のみ心ではありません。

 

次に、主がフィリポにお示しになったのは「ガザへ下る道」でした。そこは荒れ野です。フィリポは迷うことなく立ち上がりお招きに応えました。

 

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ガザはアフリカにも通じる地中海沿岸の地です。フィリポはそこで、初期のキリスト教会が異邦人伝道へと向かう上で極めて重要な出来事となる、エチオピア人の女王に仕える〈宦官〉に福音を宣べ伝えるのです。

 

フィリポ自身、この時まだ気付いていませんが、彼はパウロの先駈けとして豊かに用いられているのです。それどころか、ここでのフィリポと宦官との出会いがなければ、イエス・キリストの福音はユダヤという地を超えて、ヨーロッパやアジア諸国、アフリカへと進展することはなかったでしょう。

 

そもそもフィリポは、初代のキリスト教会の中でお世話係として立てられた人ですし、七人の仲間たちと共に、その道で頑張ろうと思っていた人でした。神さまは、人の思いを遥かに越えた道を示されることを知らされます。

 

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フィリポが出会ったエチオピア人の宦官はどうでしょう。彼はユダヤの都エルサレムを訪れ、神殿での礼拝をと願ったものの、異邦人である自分、そして、宦官である我が身を思う時に、約束の地エルサレムには、こころ落ち着く自分の居場所は見いだせなかったのではないでしょうか。

 

ナザレのイエスを巡るエルサレムでの一連の出来事についての〈断片〉を聞いていた宦官は、エチオピアへの帰り道、どうしてもあきらめることが出来ないまま、イザヤ書53章を悩みながら読んでいました。

しかし、ついに宦官は、聖書の手引きをしてくれるフィリポを通して、イザヤ書53章にある苦難の僕の物語の、もう少し先にある福音の解き明かしに触れたはずです。

 

イザヤ書56章3節にこうあります。

 

【3 主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。】。

 

このイザヤの預言が、イエスさまにおいて成就したことを宦官が知った時、彼はもはや何も迷うことはありませんでした。宦官はフィリポから洗礼を受けクリスチャンとなったのです。

 

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使徒言行録9章で劇的な回心をするパウロは、のちに、ガラテヤの教会に宛てた手紙の3章でこう語りました。

 

【26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。】と。

 

フィリポ、宦官、そしてパウロは、確かな線(LINE)で繋がっています。end

 


2019年1月13日 いよいよ2019年も本格的な歩みが始まります(^^♪
2019年1月13日 いよいよ2019年も本格的な歩みが始まります(^^♪

         《 み言葉 余滴 》186号
                  2019年1月13日

  『  やっぱペトロが 好きやねん 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 5章8節~11節 8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも、一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

舞台はガリラヤ湖です。漁師だったシモン・ペトロとその仲間たちが、イエスさまに従い始める時の場面がここにあります。誰にも人生の節目があります。彼らの人生が大きく変わり始めるのがこの時でした。

 

同じ時のことを伝える記事がマルコ福音書、マタイ福音書にもあります。しかし、ルカの描写とは違うのです。群衆が押し寄せてくる様子や、弟子たちが夜通し漁をしたけれど魚は獲れなかった、という話はありません。

 

反対に共通しているのは、岸辺で網を繕う漁師たちの姿です。イエスさまはそんなペトロたちに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけました。彼らは、すべてを捨て、イエスに従ったというのです。

 

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同じ場面とは言え、ルカにはルカの独自の視点があるはずです。私も考えてみました。まず一つ、「深いところまで出て行き、あなた方の網をひろげてごらんなさい」と促される言葉から始まる大漁による驚きがあることに気付きます。

 

田川建三先生は「驚愕(きょうがく)が彼を包んだ」と訳します。その「驚愕(きょうがく)」が起こる程の大漁の結果、ペトロの身に重大事が起こるのです。

 

ペトロは、イエスさまの前にひれ伏してこう言いました。日常語の訳をかかげる『リビングバイブル』では「先生。どうぞ私みたいな者から離れてください。私は罪深い人間で、とてもおそばには寄れません」となっています。

 

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この言葉、この姿勢。ペトロの〈悔い改め〉をあらわしています。福音書記者ルカという人が真正面から取り組んだのが〈悔い改め〉でした。ルカによる福音書を注意深く読み進めると、イエスを信じる者に求められていることが〈悔い改め〉だということが見えてきます。

 

しかし、この場面に限定して考えてみると、〈悔い改め〉は、自分の愚かさに気付くだけでは不十分であることがわかります。ペトロはイエスの足もとにひれ伏します。そしてイエスが聖なるお方であることを認め、自分が罪人であることを認め、告白するのです。そして彼は舟と網をあとにします。

 

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12弟子の筆頭とも言えるシモン・ペトロに対する親近感が我々にはあります。それはまず、憎めないところ、失敗を繰り返してしまうところ。あるいは、無学で普通の人として紹介される点も上げられるかも知れません。

 

ここで私たちは、ペトロに出来て、私たちに出来にくい〈悔い改め〉という課題があることを自覚したいのです。「ありがとう」と言えても「ごめんなさい」は意外と言えないものです。「ごめんなさい」と言えるか言えないか。そのことは人間の品格、ひいては〈キリスト教倫理〉の課題でもあります。新しい人として踏みだしていくために〈悔い改め〉は不可欠です。

 

ペトロは、ただのおっちょこちょいや愚か者ではなく、〈自分の愚かさを素直に認め、告白する〉ことが出来る素晴らしい人だと気付きます。私たちは、今も、これからも、ペトロと近しい人であり続けたいな、と思うのです。end

 

 

 


2019年1月6日 謹賀新年の献花 今年もよろしくお願い申し上げます
2019年1月6日 謹賀新年の献花 今年もよろしくお願い申し上げます

         《 み言葉 余滴 》185号
                  2019年1月6日

  『  13年目の正直を生きた人〈ヨセフ〉 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 41章1節、14節~16節

1 二年の後、ファラオは夢を見た。・・・・ 14 そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。15 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」16 ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

 

閉じこめられていた人、それがヨセフでした。濡れ衣を着せられ、牢屋に放り込まれ、苦渋の中にあったヨセフの目の前にはいつも壁がありました。もう、エジプトの王ファラオに自分のことは伝えられないまま終わる、とあきらめかかっていたヨセフです。

 

ところが、ヨセフが〈壁〉だと考えていたものが、ここでは〈扉〉に変わったのです。そして、彼の人生は大きく開かれていきます。ヨセフという一人の人間の人生の扉だけが開いたのではありません。神を信じる全ての者たちの救いの扉が、何の前触れもなく突如開かれたのです。

 

                  ***************

 

それにしても、神さまのなさることは不思議です。否、不思議だと思う事は必ず神さまの力が働いているのです。偶然ではない。神さまはヨセフを待たせたのです。いったん、光が見えかかった宮廷の給仕役とのやり取りから既に2年。それどころか、兄弟たちから見捨てられ、命を落としそうになる恐怖を経験した少年時代からさかのぼると、もう13年です。

 

聖書は何のための2年、あるいは、13年であったのかをひと言も語りません。ヨセフにとって何とも思わない年月であったはずがないのです。祈り続け、待ち続けた年月でした。とりわけ、この2年は長く感じたことでしょう。

 

                    **************

 

ヨセフは、彼が期待し、思い描いていたような形では監獄から出ることはできませんでした。しかし、むしろ、彼の計画通りに事が運ばなかったからこそ、不吉な夢を見たファラオの夢解きの機会が与えられました。神さまのヨセフに対するなさり方は、これが最善でした。

 

私たちも、遠回り、回り道を強いられることがあります。後戻りを求められることもありますし、微動だにしない経験をして来たのではないでしょうか。

 

しかし、自分の計画通りに進まないことすらも、神の憐れみとして備えられていることがここでは示されています。そして、自分が思い描いたとおりに押し通そうとすることを、神さまはおゆるしになりません。

 

                    **************

 

獄中にいたヨセフは何も持たない人でした。そんなヨセフでありながら、豊富なデータや知識を持っているはずのエジプト全土の夢の解き明かしの専門家たちが、手も足も出なかったことを、見事に解決しました。

 

絶大な支配権を持っていた王が、結局は、何も持たない裸同然のヘブライ人・ヨセフに助けを求めて来たのです。ヨセフは何もない者でありながら、必要なものの全てが備えられていた。

 

ヨセフは自分の思い通りにならないことを受入れながら、神がなさろうとしていることに信頼した人です。そして、神に依り頼む信仰だけが、彼の存在の根底を支える力となっていきました。ヨセフはそのような生活の中で変えられていったのです。

 

私たちの人生にも、ヨセフと同じような13年が襲って来ることがあります。だからこそ、見えざる神の御手に生かされていることを信じて、急ぎつつ待つ人になりたい。そこに、私たちが倣うべき信仰の知恵があるからです。end

 

 


2018年12月30日 飼い葉桶に向かう博士たちのクリッペ その後ろ姿
2018年12月30日 飼い葉桶に向かう博士たちのクリッペ その後ろ姿

         《 み言葉 余滴 》184号
                 2018年12月30日

『 マタイによるクリスマスの衝撃 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 2章1節~4節
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 

新約聖書の一番はじめに置かれている『マタイによる福音書』。その特徴のひとつは、「旧約聖書」からの引用がとても多いことです。その多さは、「何となくそうだよね」というようなレベルの話ではありません。

 

私たちが手にしている『新共同訳』や、先頃発行さ(*2018年12月)れたばかりの『聖書協会共同訳』の巻末には、「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」という興味深い附録があります。今回わたしは、その一覧から、「一、二、三・・・」と旧約の引用の数を数えてみたのです。その結果は、マタイ:62回、マルコ:31回、ルカ:26回、ヨハネ:16回というものでした。

 

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マタイによる福音書に旧約からの引用が多いのにはわけがあります。それは先ず何より、旧約聖書をよく知っている人達に伝えたい思いが強いからです。その対象とは、聖書の舞台となっている地に生きるユダヤの人々でした。彼らの聖典は私たちが『旧約聖書』と呼んでいるものです。

 

だからこそ、マタイによる福音書の冒頭1章には、ユダヤ人が重んじる〈系図〉=〈旧約の歴史〉が綿々と続きます。福音書記者マタイは、「あなた方がよーく知っている、あの人この人の延長線上に、イエスというお方は〈救い主=メシア〉としてお生まれになったのだ」と伝えようとしているのです。

 

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そこには、ユダヤ人の伝統を無視するような、福音書記者マタイによるスキャンダラスな挑発が秘められています。メシアの系図における、「タマル」「ラハブ」「ルツ」「ウリヤの妻」という4人の女性たちの登場自体、男性優位のユダヤの社会では異例です。彼女たちは異邦人です。

 

まして、「タマル」と「ウリヤの妻」の男性との結び付き方や出産は「道を外れている」ものでした。マタイは意図して彼女たちを記録するのです。

 

〈トドメ〉は、聖霊によってイエスを身ごもるマリアです。マリアは律法に忠実な男ヨセフのいいなづけでした。ヨセフへの受胎告知は、ただヨセフという男性がチャレンジを受けているだけではないのです。彼はユダヤ人の代表でした。そのヨセフが〈み使いの命じた通りマリアを迎え入れ〉るのです。

 

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東方からの博士たちの登場によって大きく展開し始めるキリストの降誕の物語も、少しクールな目で読み進めると、実にスキャンダラスな内容であることに気付きます。

 

聖書の読み手は、ヘロデという当時のユダヤの大王の残忍さや、星に導かれてやってきた博士たちを巡る美しい物語に目を奪われがちです。しかし、冷静な信仰のまなこが必要なのです。

 

福音の幕開けを託されて東の国からやって来た博士たちの存在です。彼らは明らかに異邦人でした。当時のユダヤ人は、バビロンでの捕囚期(前586-538年)の影響を強く受け、異邦人に対する強烈な拒否感を抱いていました。異邦人はさげすみの対象であり、汚れた者と見なされていました。

 

しかし、救いの到来を証しする使命を担ったのはそのような東方の博士たちでした。それは神のご計画です。何より、星に導かれた博士たちによって開かれていったのは、もっと東方に生きる〈我ら〉の救いの道だったのです。end 

 


2018年12月23日 クリスマス礼拝にて 聖餐卓とクランツと
2018年12月23日 クリスマス礼拝にて 聖餐卓とクランツと

         《 み言葉 余滴 》183号
                 2018年12月23日

『 その日〈マリア〉が引き受けたもの 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章26節~29節
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 

み使いガブリエルは神さまのご用のために大忙しです。エルサレム神殿で仕えるザカリアに現れたのちに、ナザレに暮らすヨセフのいいなずけであるマリアの前にやって来ます。ガブリエルの使命は神さまから託されている〈メッセージ=生涯のつとめ〉をマリアに伝えることです。

 

当時のマリアの年齢は10代半ば過ぎだと言われます。当のマリアは何がなんだかわからないままお告げを聞くことになります。何の準備も出来ていません。でも、それで構わなかったのです。神さまは「準備万端整いました」という人を選んだのではありません。

 

もしも、その選びに条件があるとしたら、ただ、神さまのお言葉に聴き従う心をもっていることでした。

 

                    **************

 

その後マリアが、親戚筋にあたるエリサベトおばさんを訪ねて、ナザレから一人歩いて行った時に、「マニフィカ-ト=マリアの賛歌」を歌い始めます。

 

マリアはその歌の中で、自分自身のことを「身分の低い、この主のはしためにも」(ルカ福音書1:48)と歌います。これは、別の表現をするならば「取るに足らない」「数に入らない」という意味になります。

 

「神の言(ことば)」としてこの世にお出でになるみ子のために必要だったのは、心の真ん中に自分自身の貧しさを自覚する謙虚さがある母胎でした。もしも、私たちがマリアの素晴らしさを捜し求めるとしたらその事実なのです。

 

                    **************

 

使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2章初めの「キリスト賛歌」と呼ばれる歌の中で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。」と記しました。この言葉はパウロが心の底から感謝し、告白した言葉です。私たちも傾聴が必要です。

 

同時に、「キリスト賛歌」で見落としてはならないことがあるのです。それはパウロが、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と続けたことです。この言葉を読み飛ばしたり見て見ぬ振りをすることは出来ません。実に、この十字架のイエスを、ゴルゴタの丘の上で、真下から見上げることになったのがマリアでした。

 

聖霊によって救いのみ子を宿し、母として生きて行くことになるマリアでした。彼女はその後の人生の中で、み使いガブリエルから「おめでとう、恵まれた方。主があなた共におられる」と告げられたことの意味について、人生の途上で、何度もなんども自問することになったはずです。

 

      **************

 

マリアが引き受けた事柄の本質とは何であるのかについて祈り求めることは、私たちの信仰生活と無縁ではありません。み言葉を頼りにして生きていくことは、のんきで気軽な世の〈お恵み〉とは異なるからです。

 

やがてイエスさまは、群衆と弟子たちに、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい」(マルコ福音書8:34)と命じられます。マリアはその十字架を最初に〈恵み〉として引き受けた人でした。end

 


2018年12月16日 待降節・アドヴェント第3主日となりました。三本目のロウソクを灯そう!
2018年12月16日 待降節・アドヴェント第3主日となりました。三本目のロウソクを灯そう!

         《 み言葉 余滴 》182号
                 2018年12月16日

  『 ザカリアとエリサベトによって 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章5節~10節
5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。

 

天使ガブリエルがエルサレム神殿に姿を現します。ナザレの娘マリアを訪問し、み子イエス・キリストをその身に宿すことになることを告げる直前のことです。

 

神さまのご計画を告げられることになったのは、神殿の聖なる場所で香をたく老人祭司ザカリアでした。一生に一度といわれる務めに集中していたザカリアは、その緊張が吹き飛ぶほど驚き、恐れました。

 

ザカリアの妻エリサベトはアブラハムの妻サラと同様、月のものがとうの昔になくなっていたおばあさんだったことが伺われます。しかし神さまは、彼女の身を通して、救いのみ業を進展させていくご計画をもっておられました。

 

                    **************

 

ザカリアとその妻エリサベトの人生における大転換がここから起こり始めます。

 

しかし、私たちは注意深く、み言葉に向き合いたいのです。なぜならば、ここから始まろうとしているのは、彼ら老夫婦だけの大転換にとどまらない出来事だからです。彼らを通じて明らかにされていく事とは、救いのみ子イエス・キリストの来臨に備える、今を生きる私たちの在り方、生き方に間違いなく通じているからです。

 

もちろん、ザカリアとエリサベトにとって目の前の課題は、生まれ来るヨハネという子をどのように受け止め、育てていくのか、ということだったかもしれません。けれども、ほぼ同時並行的に展開し始めるのは、ナザレの娘マリアの身に起こる救い主の誕生であり、神さまによる救いのご計画でした。

 

                    **************

 

ここで、立ち止まって確認しておきたいことがあります。それはザカリアとエリサベトが、律法を意味する〈戒めと定め〉を誠実に生きていた古いタイプの義人であったという点です。新約聖書の中に描かれる旧約の代表的な人物。それが祭司ザカリアでありその妻エリサベトなのです。

 

同時に、この老夫婦は、律法に対して義なる人でありながら、子どもが与えられない悲しみと恥を背負い、時には、陰口が聞こえてくるような辛い思いをすることもある人たちだった、ということです。実に、イエス・キリストの福音が明らかになるためには、彼ら二人がどうしても必要だったのです。

 

                    **************

 

お告げを受けたザカリア、そしてエリサベト。その後、彼らが信頼を寄せ、従って行ったのは律法ではありません。彼らが信じ身を任せたのは、言葉にはとても言い表しようのない道を指し示す聖霊の導きでした。

 

彼らは世の常識に従って生きる生き方、人の目や人のことばを気にする生き方をはらりと捨てます。二人は律法を守り抜く正しさよりも、神さまがなさろうとしていることに対して身を委ねきる決心した人たちでした。

 

そんな二人の元で成長していったのが洗礼者ヨハネでした。成人したヨハネは、エルサレム神殿の祭司として、うやうやしく儀式を執り行う人になったのではありません。彼の活動の場は荒れ野であり、そこで叫ぶのです。

 

神のみ業のために必要とされたザカリアとエリサベト。

 

彼らは年老いてはいましたが、新しい苦労を感謝と喜びをもって担って行く人たちでした。そしてこの二人は、今を生きる私たちから、決して遠い存在ではないのです。end

 


2018年12月2日 アドヴェント・待降節第一主日の旭東教会礼拝堂はこんなふうでした。ロウソクにも一本灯っています。紫色がこの期節のシンボルです。
2018年12月2日 アドヴェント・待降節第一主日の旭東教会礼拝堂はこんなふうでした。ロウソクにも一本灯っています。紫色がこの期節のシンボルです。

         《 み言葉 余滴 》180号
                 2018年12月2日

   『  救いの到来を待ち望もう 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 21章25節~28節
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 

私たち、いつかどこかでこんな言葉を聞いたことがあるような気がします。「せめてもの罪滅ぼしに、毎朝、境内とトイレのお掃除をさせて下さい」。

 

例えば、新明解国語辞典では「何かよい行いを少しして、今まで重ねて来た罪の埋め合わせをすること。」と解説されるのが「罪滅ぼし」という言葉です。

 

実は、もはや日本では、キリスト教独自の言葉と言っても過言ではない「贖罪」(しょくざい)とか「贖い」(あがない)という言葉を調べていくと、「罪滅ぼし」にたどり着くのです。

 

でも、「罪滅ぼし」は「自分の罪や過ちを埋め合わせする」ことを意味する「償う(つぐなう)」には近いのですが、「贖(あがな)い」とは似て非なるものと言わざるを得ません。

 

                    **************

 

ここで「あなたがたの解放の時は近い」と語られた言葉の中の「解放」という語は、新約聖書の原文であるギリシア語では「アポリュトローシス」が使われています。

 

その聞き慣れない「アポリュトローシス」という語の持つ意味の奥深さを知ることは私たちの信仰を豊かにしてくれます。

 

口語訳では「救い」、新改訳やフランシスコ会訳では「贖(あがな)い」と訳されます。ある英語の聖書は「salvation・サルベーション」とします。海難救助のために働くサルベージ船を思い出します。

 

この「アポリュトローシス」という語は四福音書の中でも、完全に同じ語を使うのはルカによる福音書のこの箇所だけです。これらの意味を総合して思い巡らすことは意義深いことです。

 

                    **************

 

キリスト教を世界に広める働きをなした人に〈パウロ〉という人が居りました。実は「アポリュトローシス」という語を用いて多くを書き残したのが使徒パウロです。

 

パウロは「贖い」に対する理解をキリスト教徒に明確に示す重要な役割を果たしてくれた人、と言うことが出来ます。

 

例えば、ローマの信徒への手紙3章24節には「ただキリスト・イエスによる〈贖い〉の業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」とあります。

 

このロマ書でのイエス・キリストによる「贖(あがな)い」を更に明確に、十字架の上で流された主イエスの血潮と合わせて記したのが、エフェソの信徒への手紙1章8節です。パウロはエフェソ書においては、「この御子において、その〈血によって贖(あがな)われ〉罪を赦された」と記しました。

 

何とイエスさまは、私たちの「罪滅ぼし」のために、十字架に架かり、その命を投げ出して下さいました。

 

いいえ、それだけでなく、不思議な形で罪を取り除かれた者が、キリストの復活の命にあずかるように準備されたのです。

 

                    **************

 

イエスさまはここで、ご自身のことを「人の子」と呼ばれています。当時は天変地異が起こる時にやって来るという「人の子」という言葉に対して〈裁き〉のイメージを抱く人たちが少なからず居りました。

 

しかし、イエスは頭(こうべ)を上げよと言われます。「信頼と信仰、希望をもってその日を待ちなさい」。そう語りかけられているのは他ならぬ〈あなた〉です。end

 

 

 


2018年11月11日 子ども祝福礼拝メッセージ中 イエスの涙とペトロ のつもり
2018年11月11日 子ども祝福礼拝メッセージ中 イエスの涙とペトロ のつもり

         《 み言葉 余滴 》179号
                 2018年11月11日

   『  ペトロ抜きって ありえますか? 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 22章60節~62節

60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。

 

国語辞典は幾つもありますが、聖書の中の人物を解説するものは思いのほか少ないのです。手元にある国語辞典で一番大きな小学館の『精選版日本国語大辞典』では、「ペトロ」についてこう解説します。

 

新約聖書の十二使徒の第一人者。前名はシモン。漁夫であったがイエスの信頼をうけ、ペトロ(「巌」の意)の名を与えられた。キリスト受難に際して逃亡するが、のち回心し、伝道にあたり、ネロの迫害を受けて殉教したという。ローマ教会初代の教皇とされる。

 

『精選版日本国語大辞典』は僅(わず)か120字程でペトロを見事に解説していて的確です。その中身は聖書に詳しいだけでは説明できない部分も含まれます。

 

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12使徒の中でも、その人となりについて比較的良く知られているはずのペトロですが、今回は『精選版日本国語大辞典』の解説に沿って、「ペトロとはいったい何者であるのか」あらためて考えてみましょう。

 

彼は「12使徒(弟子)」の一人で、その「第一人者」と解説されます。元々は何をしていた人なのかといえば「漁夫(漁師)」であり、当時の名前は「シモン」であることが分かります。さらにペトロは日本語では「巌(いわお)」の意味があると教えてくれます。ちなみに英語では「ピーター・Peter」です。

 

ペトロはイエスさまから「信頼」されいたのも事実です。彼は「イエスなんて知らない」「関係ない」「お前が何を言ってるのかわからん」と言って3度主を否み、イエスの眼差しを感じた時に激しく泣きながら「逃亡」します。

 

それなのに、イエスさまはペトロに対して「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22:32)と事前に声掛けされたのです。

 

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立ち直ったペトロ。即ち「回心」したペトロは『使徒言行録』に記録されているように、初期キリスト教会の重要な働きを担う「伝道者」として活躍します。パウロが中心的な役割は担い始める使徒言行録15章までペトロはその姿を現します。

 

さらに、聖書そのものに記された情報ではありませんが、ペトロは歴史あるローマ・カトリック教会の初代教皇に位置付けられているです。現在のローマ市内にあるバチカン市国のサンピエトロ寺院をご存知の方も多いと思います。

 

あの「サンピエトロ」は「聖ペトロ」のことで、ペトロが記念されている大事な礼拝堂があるのです。教会の礎(いしずえ)はペトロその人というわけです。

 

                    **************

 

ペトロは「岩」のように固く強い人だったのかと言えば、決してそうではないことは明らかです。むしろペトロは砕け落ちる岩に過ぎなかった。しかし、砕け落ちる岩であることこそ意味あることだったのです。

 

大きな岩であるよりも「砕かれた魂、砕かれた存在、小さな石ころ」になることを私たちは求められています。頑(かたく)な己(おのれ)が砕かれてこそ本物。それが「キリスト教信仰」そして「キリスト教会」の土台なのですから不思議です。end

 

 


2018年11月4日 聖徒の日の礼拝堂・講壇です
2018年11月4日 聖徒の日の礼拝堂・講壇です

         《 み言葉 余滴 》178号
                 2018年11月4日

   『  ターン、ターン、ターン 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 5章27節~32節
27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。・・・・・・31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

イエスさまから「私に従いなさい」と声掛けをされた徴税人のレビ。彼は過去に経験したことのない眼差しを感じました。そして、収税所の定位置であった席から立ち上がり即座に従います。

 

レビの決意が並大抵のものではなかったことは「何もかも捨てて立ち上がり」という描写から伝わってきます。ひとりの人の人生の大転換がここで起こるのです。

 

同時にレビの目には、つい先頃までガリラヤ湖の漁師だったペトロやゼベダイの子ヤコブ、そして、アンデレの姿も入ったはずです。彼らもまた、自分たちが生きて来た場を離れてイエスに従った人たちでした。

                    **************

 

レビの召命の場面とほぼ同様の記事は〈マタイによる福音書9章〉と〈マルコによる福音書2章〉にも収められています。

 

でも、私たちが今日読んでいる〈ルカによる福音書5章〉には、ひとつの明確な違いがあるのです。ルカ版のレビの召命の記事には、単に「罪人」を招くためにイエスさまが来られたというだけでなく、「悔い改め」を求める言葉がしっかりと記されているという点です。

 

今回私は『聖書語句辞典』を開いて調べてみたことがあります。それは『新共同訳聖書』の中で「悔い改め」という語がどのように使われているか、ということでした。

 

「悔い改め」という語は全部で58回出てくるのですが、旧約聖書ではわずかに6回。新約ではマタイ福音書に8回、マルコ福音書では3回、ルカ福音書では13回、ルカが記した使徒言行録が10回、その他が12回でした。ルカという人の「悔い改め」への関心の高さは特別なのです。

 

                    **************

 

その上で自問してみたいと思います。イエスさまは開口一番「私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉を口にされたわけではありません。まず、「私に従いなさい」と言われたのです。

 

でも、もしも順序が逆だったらどうでしょう。

 

「私が来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるため」と最初に聞こえて来たとしたら、私たちは〈自分は、悔い改めを必要とするような悪人でも罪深い者でもない〉と判断し、イエスに従うことを躊躇したのではないか。

 

我々にはそんなズルさがあるのです。

 

                    **************

 

芥川賞作家でカトリックの信仰者である重兼芳子さんという方がおられました。彼女は『癒しは沈黙の中に』(春秋社)という書の中でこう記しています。

 

「聖書全般を通じて貫いているメッセージの要約は悔い改めて福音を信じることだ」

 

「神に対して、あなたの前で私は全く不完全ですと告白することが悔い改めだ」

と。

 

「私は罪人である」ということを率直に認めることが出来ない自分を私たちは知っています。或いはまた、過去に於いて悔い改めを経験したことで満足してしまい、いつしか、今の時点での〈悔い改め〉について鈍感になってはいないでしょうか。

 

ルカによる福音書からレビの召命を読む時に、ルカが強調点を置いた「悔い改め」への招きの言葉を無視することこそ罪深いことです。

 

み言葉は私たちに〈ターン〉を求めます。それは、いつでも、どこまでも必要なのです。end

 

 


2018年10月14日の礼拝後 右側、迪子さんの在りし日を想いつつ足跡を紹介し祈りを合わせました。(写真は2017年春 寿子さんの洗礼式直後)
2018年10月14日の礼拝後 右側、迪子さんの在りし日を想いつつ足跡を紹介し祈りを合わせました。(写真は2017年春 寿子さんの洗礼式直後)

         《 み言葉 余滴 》175号
                 2018年10月14日

  『  風に吹かれて散らされて 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 8章1節~8節 1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。2 しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。4 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

 

いつもながら聖書が伝えていることは面白くもありますし実に不思議です。じっくりと読んでいると、書かれていることが決して「当然でしょ」「やっぱりね」という内容ではないことに気付きます。聖書を読むことに慣れっこになることはもったいないですし、要注意です。

 

使徒言行録の8章、いえ、それ以前の6章、7章を含めて知らされている重要な情報があります。当時の世界各地に向けてイエス・キリストの福音を運んで行く切っ掛けをつくったのは誰だったのか、ということです。

 

「先生、そりゃパウロでしょ、ここではまだサウロと呼ばれているけれど」という声が聞こえてきそうです。

 

                    **************

 

確かに、キリスト教というものが成立するために果たしたパウロの役割はあまりに大きいのですから、それは正しい答えです。でも、ここでパウロ以前に活躍するのは〈フィリポ〉という人でした。パウロはまだ迫害者に過ぎません。

 

私たち。ここで活躍する〈フィリポ〉という名をしっかり記憶したいと思います。イエスさまの12人の弟子の中にも〈フィリポ〉という名前がありますが、そのフィリポとは別人です。

 

ここに登場する〈フィリポ〉は、もともとは、エルサレムの初代キリスト教会の中で、日常生活の具体的なこと、言わば信者のたちのお世話係7人のうちの1人でした。

 

                    **************

 

もう少し正確に言うと〈フィリポ〉は「散らされた人」でした。或いは「逃げ出した人」「逃げ出さざるをえなかった人」だったのです。そんな彼が安全な場所を求めて逃げ出した場所が〈サマリア〉でした。

 

当時のユダヤ人にとって、ユダヤ教と異教との混合がなされていた〈サマリア〉という地は差別と軽蔑の地に他なりません。そんなところにユダヤ社会の迫害者も追いかけて来ませんでした。そこで用いられたのが、お世話係の〈フィリポ〉だったというわけです。

 

彼は〈サマリア〉で一所懸命に伝道します。しばらくしてから、12使徒のペトロとヨハネが姿を見せますが、〈サマリア〉伝道は〈フィリポ〉抜きには一歩も進まなかったのです。

 

                    **************

 

不思議なこと、そして感謝なこととも言えますが、神さまは〈逃げ出した人〉を用いられるのです。聖書の中の幾人もの逃亡した人たちが、いつしか、大切な働きに仕える人へと召し出されていくのです。

 

創世記では兄を裏切ったヤコブがそうでした。出エジプト記では同胞を苦しめる者を殺害したのはモーセです。命の危険を感じたモーセは40年間の逃亡を続けます。12弟子の筆頭ペトロ、いいえ、それどころか12弟子はみんな、イエスのもとから逃げ出したのです。〈フィリポ〉も逃亡した人でした。

 

逃げるが勝ちとまでは申しません。人間、逃げ出さざるを得ない場面を生きることがあります。夜逃げするかのように雲隠れすることだってあるのです。

 

しかしそこには、〈神さまからの風〉=〈聖霊〉が吹いている。その風にしっかりと吹き飛ばされることが、二度とないチャンスになるのかも知れません。あなたも一度、風に吹かれて飛ばされて、散らされてみませんか。end

 


2018年9月30日(日)創世記39章からの説教で「ポティファルの妻」をスクリーンに写し出して紹介するときの一枚です。http://kyokuto-words.seesaa.net/で聴けますよ(^^♪ 
2018年9月30日(日)創世記39章からの説教で「ポティファルの妻」をスクリーンに写し出して紹介するときの一枚です。http://kyokuto-words.seesaa.net/で聴けますよ(^^♪ 

          《 み言葉 余滴 》173号
                 2018年9月30日

  『  〈ヨセフ〉その強さの秘密 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 39章1節~4節
1 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。2 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。3 主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、4 ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。

 

ヨセフ物語が本格的に動き始めます。イシュマエル人の隊商に買い取られたヨセフ。彼はカナンの地からエジプトへ奴隷として売り飛ばされました。何百㎞も離れたエジプトへの道です。ヨセフは、とぼとぼと歩かされる道々、何を考え、何を支えとしていたのでしょうか。

 

一体これからどうなるのだろう、という不安があったのはもちろんのことです。しかし、それ以上に大きな痛みがあったはずです。それは家族との断絶でした。10人もいる兄たちが、自分の命までも奪おうとしたという事実は、悲しみ以外の何ものでもありません。

 

更に、自分を愛して止まなかった父ヤコブと永遠の別れになったということも、受け入れざるを得ませんでした。

 

                    **************

 

ところが、ここに居るのは、奴隷として売り飛ばされ、将来もない、夢の持ちようもない、気の毒な人ヨセフではありません。

 

創世記39章は、ヨセフが人間の想像をはるかに超えた力に包まれていたことを読者に伝えます。ヨセフ自

身が特別な力を持っていたのではないのです。

 

「主がヨセフと共におられた」。答えはただそれだけです。これ以外のなにものでもないのです。創世記39章を終わりまで注意深く読むと「主がヨセフと共におられた」という事実を念押しするように4度伝えています。

 

第三者とも言える、ヨセフを買い取ったエジプト人の主人ポティファルも「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た」のです。

 

しかし、腑に落ちないこと、気になることがあるのです。肝心のヨセフ本人はどうだったのか。なぜか、聖書はその点について何も語らないからです。

 

                    **************

 

私はこう読みました。創世記は敢えてそのことを記していないのではないか。言い換えるならば、ヨセフという人が苦難の中にあって、主の臨在を〈知る〉こと以上に大切な姿勢をもって生きていたということです。

 

それは神を〈知る〉のではなく〈信じる〉ということでした。

 

新約聖書『ヘブライ人(じん)への手紙』11章の冒頭にこう記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」。

ヨセフはこのみ言葉の先駆けでした。

 

                    **************

 

年若きヨセフは、一体どのようにして〈信じる〉人となったのか。その鍵はヨセフを溺愛した父ヤコブの存在です。

 

ヤコブは可愛くてならないヨセフに対して、折に触れ、ヤコブ自身が兄エサウの元から逃亡生活を始めた最も苦しい時に示された主の言葉を、口伝えし続けていたのではないか。

 

創世記28章15節にはヤコブに示された「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」という主のお言葉があります。

 

ヨセフは父から受けた言葉を素朴に信じる人として今を生きているのです。

 

復活の主イエスは、不信の弟子トマスに対してやさしく語りかけられました。「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)。end

 

 


2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 
2018年9月16日(日)の夕刻 森牧師が兼務する十文字平和教会のお庭にて 

          《 み言葉 余滴 》172号
                 2018年9月16日

  『  〈ラザロ〉を必要とする神 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 11章1節~6節
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

 

ヨハネによる福音書11章、そして12章のはじめに収められているのは「ラザロの物語」です。マタイ・マルコ・ルカという他の福音書には見られない、ヨハネ福音書だけの独自のものです。福音書記者ヨハネという人は「ラザロの物語」に対して、特別な思いを抱いていたはずです。

 

少し先の12章12節では、イエスさまは子ろばに乗って〈十字架の待つエルサレムへ入城〉されます。その後イエスさまによる弟子たちの〈洗足・告別説教・祈り〉が、ヨハネの筆によって丁寧に描かれます。ヨハネは〈受難と復活の前〉に、ラザロを巡る出来事だけは何としても記録したかったのです。

 

                    **************

 

ラザロはマリアとその姉妹マルタの弟で、その名前の意味は「神は助けられた」というもの。

 

興味深いことに、ラザロはひと言も語らない人としてここに登場します。したがって、ラザロの人柄や性格についても、とうぜん私たちにはわかりません。おそらく、イエス・キリストの福音の出来事を伝える上で、そんなことは、どうでもよかったのです。

 

ラザロのことを紹介する記事として繰り返されているのは、ラザロが「病気」であり「病人」だということです。ヨハネはラザロのことを「病んでいる人」として紹介します。

 

何よりもラザロはイエスさまによって〈復活〉させられる人です。つまり、ラザロは死ぬのです。生きる力を完全に失う人でした。このようにラザロは、徹頭徹尾、弱く、小さな者としてここに居ます。

 

                    **************

 

このようにして「ラザロの物語」を少し遠くから眺めてみると、ひとつの事実に気付かされます。

 

それは「ラザロ」という人物は、マルタとマリアとは対照的な存在だということです。せわしなく働くマルタ、イエスさまの足もとに高価な香油を注ぐことが出来たマリアとも違います。

 

ラザロは自らの力で何もできないのです。復活の出来事と深い関わり合いの中でラザロが登場すること。これも偶然ではありません。もちろん、甦(よみがえ)りの時も、ラザロ自身には何の力もありませんでした。ラザロは神に委ねることしか出来ない存在なのです。それは、決して否定的な事実ではありません。

 

むしろ、そのラザロの持つ無力さこそ、ヨハネ福音書が目指した「あなたがたが、イエスは神の子であり、〈救い主=キリスト〉であることを信じる」(ヨハネ20章31節)ようにするために、どうしても必要なことでした。だからこそ、私たちは「ラザロの物語」から大切な何かを感じるのです。

 

                    **************

 

右往左往する人々とは違いラザロは何と静かな人なのでしょう。彼のことについて聖書が他に何も告げていないことから想像すると、実際ラザロは言葉数が少ない人だったのです。

 

物語の冒頭「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」という表現も、ラザロが数に入っていない感があります。

 

〈復活〉の出来事がなければ、キリスト教信仰は成り立ちません。誰かのために命を捧げて死んで行った偉人はイエスさま以外にも存在します。

 

しかし〈復活〉は別です。ラザロが復活の証人であることの意味はことのほか重いのです。神さまはラザロをお選びになった。ここに神の愛があります。end

 


2018年9月9日(日)説教のさいごに紹介させていただいた、布下アイさんという伝道者の奥さまの記念文集です。岡山教会牧師を経て、今、森牧師が兼務する十文字平和教会を開拓された布下耕読牧師の奥さまです。
2018年9月9日(日)説教のさいごに紹介させていただいた、布下アイさんという伝道者の奥さまの記念文集です。岡山教会牧師を経て、今、森牧師が兼務する十文字平和教会を開拓された布下耕読牧師の奥さまです。

          《 み言葉 余滴 》171号
                 2018年9月9日

  『  ステファノ そして、パウロへ 』
                            牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 7章51節~53節

51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

 

使徒言行録の6章~7章にかけて活躍する〈ステファノ〉という人物。私はステファノが果たした役割について、これまであまり注目できていませんでした。〈キリスト教最初の殉教者〉だという程度にしか心に留めていなかった。迂闊(うかつ)でした。

 

『使徒言行録』の著者ルカが、まるまる2章にわたってステファノの働きについて記しているのには理由(わけ)があったのです。

 

神さまはステファノという人を通じて大変多くのことを伝えてようとしておられます。ステファノがいなければ、キリスト教は世界的な宗教にはならなかった。12弟子には出来なかった、ある大事なスイッチを入れる役割を彼が果たしているのです。それは、主イエス・キリストの福音をユダヤという地域限定のものではなく、地の果てにまで届けるための切っ掛け作りでした。

 

                    **************

 

そもそもステファノは、「祈りとみ言葉の奉仕に専念」したいと願っていた12弟子たちとは違う働きを担うはずの人だったはずです。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」と考えた12弟子たちによって立てられたのがステファノでした。

 

ところがそのステファノ。信仰と聖霊に満ち不思議な業を行っただけでなく、12弟子でもそう簡単には出来なかったであろう〈大説教〉をしました。当時の聖書、今で言うところの「旧約」からの救いの歴史を、ステファノ流の切り口で実に説得力のある形で丁寧に説き明かしたのです。

 

その壮大な説教の締めくくりは、ユダヤ当局の中心メンバーたちの怒りを爆発させ、歯ぎりして悔しがらせ、ステファノを殺さずにはおれない程の鋭い内容でした。

 

                    **************

 

ステファノがなしたこと。それはユダヤの信仰熱心な人々が大切にしているはずの「律法順守」の信仰が形骸化しているという厳しい警告でした。とりわけ、ユダヤ人がユダヤ人であるための「割礼」が、「今のあなたがたには、実のところ何の意味も持っていない」と喝破しました。

 

しかも、「最大の預言者であり正しいお方であるキリストが来られたのに、本来、天使の役割を期待されていたあなたがたは殺してしまった」とズバリ言い当てました。それに対して言い返すことが出来ないどころか、どこかに心当たりがある人々は、ステファノを力で握りつぶすしか道がありません。だから、ステファノは石で打ち殺されたのです。殉教です。

 

                   **************

 

ところがです。神さまはステファノという人を当時のユダヤ人が忌み嫌っていた〈サマリア地方〉そして〈異邦人伝道〉のために用いられたのです。そこに密接にからんで来るのが、後(のち)の大伝道者〈パウロ〉。当時の教会の迫害者〈サウロ〉でした。

 

彼はステファノの力に満ちた説教を聴き、ステファノが死の間際に、迫害する者のために執りなしの祈りをするのを間近で聴きます。その祈りの姿は十字架のイエスの祈りに通じていました。

 

                    **************

 

人は罪を犯した時の自分を決して忘れません。しかし、己の罪を知る人は実は幸いであり、救い主から離れることは出来ないのです。ステファノとパウロ。神はどちらも愛し、そのどちらも必要とされました。end

 

 


2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪
2018年9月2日(日)説教中に、律法学者たちのわるーい態度を紹介するために引用した聖書がこちらの本です。山浦玄嗣先生の『ガリラヤのイエシュー』は本当に面白い(^^♪

          《 み言葉 余滴 》170号
                 2018年9月2日

    『  だれよりもたくさん 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 12章41節~44節

41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43 イエスは、

弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである。」
  


舞台はエルサレム神殿です。律法学者たちの信仰のあり方に対して不快な思いをいだかれているイエスさまがおられます。イエスさまは律法学者たちの〈いやらしさ〉を見抜いておられます。

 

「長い衣をまとって歩き」「広場で挨拶され、会堂や宴席で上座に座ることを喜び」「弱い立場のやもめを踏みにじり」「見せかけの祈りを捧げる」。そんな律法学者たちは、厳しい裁きを受けることになる、と言われるのです。

 

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直後に描かれるのがエルサレム神殿の賽銭箱の前に座っておられるイエスさまでした。イエスさまの目には何が映っていたのでしょう。

 

様々な人たちがそこにやって来たはずですが、冷静に考えると、私たちの献金の仕方、その心の奥底にあるものをイエスさまは全てご存知だということです。

 

献金を献げる人々の様子を観察されたのちに、わざわざ弟子たちを呼び寄せて語り始めたイエスさまのお言葉を、福音書記者マルコが記したのには二つの意味があります。

 

一つは弟子たちに対するこれからの生き方の促しですし、遺言としての意味合いもあります。同時に、初期のキリスト教会を形作ろうとしていた人々に対する強いメッセージなのです。

 

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主が求めておられるのは、名も知られない貧しい〈やもめ〉のあり方から学びなさいということでした。

彼女が握りしめ、そして献げたレプトン銅貨2枚は、この世の価値基準からすると小さく軽いものに過ぎません。

 

ところがイエスさまは、彼女の献げ物を、もっとも重く、価値あるものだと宣言されたのです。これは常識はずれの宣言でした。

 

イエスさまがそのようになさったのは明確な理由があります。献げられたものが、単に生活費全部を意味するのではなく、やもめの〈いのち〉であり〈人生〉〈生涯〉だったからです。

 

「一クァドランスを入れた」の「入れた」という語の原文には、ある種の激しさがあります。例えば「突進する」という意味すらある言葉なのです。

 

彼女はイエスに全てを委ねました。

 

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確かにやもめは〈空っぽ〉になりました。だからこそ、もはや彼女は他のものにしがみついたりしない、完全に委ね切る〈重み〉を持つ人になったのです。

 

やもめの生き方は、十字架の主イエスのお姿と重なっていることに気付かされます。私たちの救い主も〈空っぽ〉になるお方だからです。

 

神さまが私たちの人生のただ中にいつも共におられるようになるためには、私たちの人生という器に「神さま、もっと」「あともう少しだけお願いします」と求める生き方ではなく「空っぽになること」が必要なのです。

 

主は惜しみない愛を、空っぽの私たちに注ぎ続けて下さいます。

 

使徒パウロが第2コリント書9章8節に記した「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」をかみ締めたい。感謝を捧げましょう。end

 


2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪
2018年8月26(日)主日礼拝の説教で系図のプリントを配りましたが、その元の本を紹介している場面です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》169号
                 2018年8月26日

   『  タマルの美しさによって 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 38章14節~19節
14 タマルはやもめの着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ティムナへ行く途中のエナイムの入り口に座った。・・・・・ 15 ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。16 ユダは、路傍にいる彼女に近寄って、「さあ、あなたの所に入らせてくれ」と言った。彼女が自分の嫁だとは気づかなかったからである。「わたしの所にお入りになるのなら、何をくださいますか」と彼女が言うと、17 ユダは、「群れの中から子山羊を一匹、送り届けよう」と答えた。しかし彼女は言った。「でも、それを送り届けてくださるまで、保証の品をください。」・・・・・・ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。19 彼女はそこを立ち去り、ベールを脱いで、再びやもめの着物を着た。
 

聖書の中には様々な〈系図〉がおさめられています。いちばん知られているのが、あのマタイによる福音書1章の〈イエス・キリストの系図〉です。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」という言葉でその〈系図〉は閉じられます。

 

実に興味深いことに、〈イエス・キリストの系図〉にはユダヤの系図には普通は見られないことが書かれています。それは、マリアを含めて5名の〈女性〉が登場し、その存在がきっちりと記録されているという点です。

 

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キリストの系図の中の女性の一人に「タマル」が居りました。族長ヤコブの四男ユダ。彼が息子のためにと探してきて嫁入りしたのがタマルでした。ところが、選ばれて迎えられたタマルの結婚生活は悲しみに満ちたものとなります。神の裁きを受けた夫たちに次々と先立たれるのです。

 

タマルは義父のユダから「暫くの間、やもめのまま故郷で過ごすように」命じられます。まるでタマルは、不幸をもたらす〈疫病神〉のように扱われたのです。

 

当時の「掟」では、子の無いまま夫に先立たれた女に義理の弟がいる場合、よその一族の者と結婚することはありませんでした。ここでは義父のユダが、寡婦のタマルの再婚について責任をもっていました。しかしタマルは、三度目の結婚が舅(しゅうと)によって阻まれていることを知ります。

 

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ついにタマルは、ヤコブの一族の嫁として、当時の最も大切な務め、即ち、子どもを生むために一大決心をします。舅(しゅうと)から子種を得るしか他に私の道は無い、という結論に至ったのです。

 

そこで彼女はあっと驚く行動を取り始めます。それはあまりにもスキャンダラスな方法でした。

 

タマルは娼婦になりすまし、舅(しゅうと)のユダを待ち伏せます。妻を亡くして喪が明けた時期を過ごしていたユダは、道端のベールの女が嫁のタマルだとは露知らずに一夜を過ごします。

 

このような、ある種のいまいましさを伴う出来事を経て、タマルは、イエス・キリストの系図に記録される「ユダはタマルによってペレツとゼラを」の双子「ペレツとゼラ」の母となったのです。

 

      **************

 

不貞を働いたかのように見えるタマルでした。不義の女という烙印が押されてもおかしくないのです。

しかしここでのタマルは呻吟(しんぎん)しながら、その時の彼女にとって唯一と考えた道を選び取りました。

 

聖書は義父のユダが「私よりも彼女の方が正しい」と語ったと記録します。ユダとタマル抜きにして、のちのダビデ王もイエスさまも生まれません。これは〈神のご計画〉でした。

 

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私たちは美しい人生の足跡を残して来たでしょうか。小説に出来るような物語を証し出来るのか。「否」なのです。

 

少しも麗(うるわ)しくなく、デコボコや寄り道ばかり。何ともおさまりの悪い歩みを続けて来たことを思います。少なくとも私はそうです。けれども聖書は、そのような私たちの人生を、主イエス・キリストの存在を通して明確に肯定しています。こんな私たちを神は救って下さる。本当に感謝です。主を賛美し、主を宣べ伝えましょう。 end

 


2018年8月12(日)の献花 ススキです 秋がすぐそこまで(^^♪
2018年8月12(日)の献花 ススキです 秋がすぐそこまで(^^♪

          《 み言葉 余滴 》167号
                 2018年8月12日

     『  生真面目なあなたへ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 18章9節~12節 

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

 

「罪」という言葉がもつ日本語の響きはどういうものでしょうか。聖書のそれとは何か少し違うように思います。

 

手元にある『明鏡国語辞典』を開いてみました。「罪」の項の解説のやっと5番目に「キリスト教で、神の言葉にそむくこと」とあります。これはかなり説得力があります。7番目の「無慈悲なこと、思いやりのないこと」も、何か身に迫ってくるものを感じます。

 

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ここに登場するファリサイ派の人たち。福音書を読むと分かりますように、常にイエスさまを試したり敵対する人として登場します。ですから私たちは、ファリサイ派というだけで、融通の利かない、どうしようもない人間だと決めつけているところがあるのです。いかがでしょう。

 

でも、実は彼らファリサイ派の人々の根っこにあるのは〈真面目さ〉なのです。よい意味での(ユダヤ教の)信仰者としてのプライドも持つ人たちです。何よりも彼らは、旧約において神の言葉の集約である「律法」に忠実に生きることを大切にしました。本来それはとても善いことなのです。

 

ところが、ファリサイ派の人たちの真面目さは行きすぎてしまうのです。神様のみ心からズレ始めます。いつしか〈律法主義的〉になり、彼らこそ「的はずれな生き方をしている人」になってしまいます。このたとえ話の中でイエスさまが語られた「ファリサイ派」とは対極の「徴税人」よりも、格段に罪深い状態になっていたのに、彼らはそのことについて無自覚でした。

 

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考えてみるとクリスチャンには真面目な人が多いのです。几帳面ですし、ガンバリやさんも少なくありません。行きすぎたファリサイ派の人たちや律法学者たちがイエスさまの前に何度もなんども登場するのは、どうやら深い意味があることに気付かなければならないようです。

 

さらに私たちがファリサイ派の人たちと似ているのは、他人との比較の中で自分の優位性を確かめようとする点です。「自分はあの人よりは・・・・・・」とか「自分の方が・・・・・・よりもまし」「うちの子はさすがにあれほどは・・・・・・」という思考回路が、なぜか〈見えない所〉で動き始めるのです。ファリサイ派の祈りも〈心の中の祈り〉でした。

 

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話の舞台であるエルサレム神殿は私たちに置き換えるならば礼拝の場であり教会です。だとするならば、我々が礼拝に携えて来るべきもっとも重要なことは何なのかを、見つめ直してみる必要があります。

 

『創世記』から『ヨハネの黙示録』まで『聖書』が一貫して伝え続けていることがあります。それは、私たちは例外なく的はずれな生き方をしている罪人だということです。その事実を素直に認め、胸に手を置いて弱さを告白するならば、私たちは必ず神様に受け止められて楽になれるのです。end

 


2018年8月5(日)の献花 ひまわりさん、マジで、ウインクしてました(^_-)-☆
2018年8月5(日)の献花 ひまわりさん、マジで、ウインクしてました(^_-)-☆

          《 み言葉 余滴 》 166号
                  2018年8月5日

   『  ガマリエルが立ち上がったわけ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

使徒言行録 5章34節~42節  34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議員たちにこう言った。・・・38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。

 

使徒言行録に描かれている使徒たちの姿は、様々な点で、現代のクリスチャンのあり方について考えさせられます。イエスさまの十字架の受難の直前に、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った弱虫とはまったく別人です。

 

そもそも、シモン・ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、レビといった無名の人たちがイエスさまの弟子として召し

出され、イエスさまに従って生きていこうという頃、〈教会〉や〈キリスト教〉は存在しなかったのです。彼らはただ、イエスというお方に従って行ってみよう、とだけ考えていた人たちでした。

 

ところが、聖霊降臨ののち、〈無学で普通の人〉である12人は変わりました。彼らは聖霊によって導かれる新しい可能性に期待しているようにも見えます。客観的に見ると、12人はキリスト教会の土台作りを始めているのです。

 

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当時の使徒たちは、エルサレム当局からの迫害を受けていました。「今後はあの名によって教えるな」と脅されていたにも関わらず、決してイエス・キリストの名によって生きる喜びを語ることをやめようとしません。むしろ、ますます力強く、十字架と復活の福音を語り続けました。

 

そのような姿勢は、ユダヤ教の本拠地であるエルサレム神殿を自分たちのホームグラウンドとしている〈サドカイ派〉にとって不愉快で仕方ありません。彼らは「復活」を決して認めない人たちでした。つまり、イエス・キリストの福音と真っ向からぶつかり合うことになる存在だったのです。

 

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と、その時、ある人が立ち上がって最高法院の人々に語り掛けるのです。ファリサイ派の碩学(せきがく)・ガマリエルでした。ガマリエルはその死後、「ガマリエル以上に、律法に対する畏敬と純潔、節制を重んじた者はない」(「新聖書辞典」・いのちのことば社)とまで言われた人です。

 

冷静に考えてみるならば、ガマリエルと言えども、あくまでもイエスさまと対立した〈ファリサイ派〉の一員であることには違いありません。しかし、そのような人物が、思いも寄らない形で助け船をだしてくれたのです。

 

ガマリエルは言いました。

 

「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が・・・神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれない」と。

 

                    **************

 

ガマリエルは、使徒言行録9章で劇的な回心をする前のパウロに「律法」をたたき込んだ張本人です(使徒言行録22:3・パウロの証し参照)。ガマリエルこそ、キリスト教の迫害者だったパウロを厳しく鍛え上げた人でした。

 

そのガマリエルがいきり立つ最高法院の人々を鎮まらせたのです。

 

この話、何か変だと思いませんか。当たり前のことですか。ここには御手が働いています。聖霊が吹いている。ガマリエルを動かしたのは神です。end


2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま
2018年7月29(日)の礼拝説教中のひとこま

          《 み言葉 余滴 》 165号
                  2018年7月29日

   『  ヨセフ物語に見る〈摂理〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 37章4節~11節  4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。・・・・・・ 8 兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。・・・・・・11 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 

創世記37章から50章まで続くのは「ヨセフ物語」と呼ばれる壮大なスケールのお話です。創世記は聖書を読む楽しさに満ちた書ですが、37章からはますますその感が強まっていきます。

 

ヨセフが「夢解き」をできる人として登場することはしっかりと心に留める必要があります。なぜならば、その賜物は神さまからのものであり、ヨセフが既に17歳の時に、彼は夢解きを通じて〈預言者的な役割〉を果たし始めるのです。

 

この先、ヨセフが夢を説き明かす内容は次々と目の前で展開されていくことになりますが、そこには、彼の意志とか力は何も働いていません。

 

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ところで、皆さんは「摂理」という言葉をご存知でしょうか。あるいは使ったことがあるでしょうか。実はヨセフ物語の中に「摂理」というものをハッキリと感じとることができるのです。

 

「摂理?」「なにそれ?」と思われる方も多いと思います。一般に「摂理」はどのように説明されるのかをちょっと調べてみました。

 

まず『広辞苑』では「・・・神がその愛によって、世の事すべてを導き治めること。」とあります。もう一つ『明鏡国語辞典』をみました。「キリスト教で、この世のすべてを導き治める、神の永遠にわたる予見と配慮。」とあるのです。

 

いずれも「ほー、なるほどねぇ」と教えられました。「摂理」の主語となるのは〈神さま〉だということは間違いないと思います。

 

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私はキリスト教の神さまの素晴らしさを「ヨセフ物語」の冒頭に強く感じます。

 

神さまはすべてをお見通しの上で、あえて〈罪人〉を次々に登場させている。そこが、聖書の伝える世界観であり人間像だと思うのです。

 

しかも、ヨセフ物語ではドロドロとした家族関係や、破れ、いさかい、そねみ、恨み、妬みが浮かび上がってきます。きれい事ではすまない事情がある。

 

こうした事情はこの世の現実ですし、どこかで心当たりのある私たちです。

 

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のちに、ヨセフは、当時の世界の大国・エジプトの宰相となります。自分を見捨てた兄弟たちをゆるし、父親との劇的な再会を果たすことになるのです。

 

しかし、創世記37章の冒頭に描かれているヨセフは、どう見ても〈罪人〉のひとりに過ぎない。でも、それでよいのです。

 

不思議なことに、神さまは完璧な人をお創りになりません。欠けのある者にこの世でいのちをくださるのです。神さまが失敗することなどあり得ません。

 

その神さまの作品のひとつが、〈あなた〉であり〈私〉です。そこに、神さまの「摂理」を覚えます。

 

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「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(コヘレトの言葉3章11節・口語訳)というみ言葉を思います。

 

「ヨセフ物語」は紆余曲折が続きます。しかし物語の展開の壮大さと緻密さの中に、神さまの永遠のご計画が垣間見えてくるはずです。

 

そのご計画に、既に巻き込まれている私たちを自覚したいのです。end

 

 

 

 


2018年7月22日(日)の献花を珍しい角度から。夏のファミリー礼拝・ミニサマーフェスティバルの日曜日でした。
2018年7月22日(日)の献花を珍しい角度から。夏のファミリー礼拝・ミニサマーフェスティバルの日曜日でした。

          《 み言葉 余滴 》 164号
                  2018年7月22日

   『  イエスさまが願う〈いちばん〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 9章33節~37節
33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

 

少し前のこと、イエスさまは〈ペトロ・ヤコブ・ヨハネ〉の三人だけを連れて山に登られました。三人はそこで旧約の偉大な人物モーセとエリヤの姿を見るという不思議な経験をしました。彼らはこれまで感じたことのない高揚感を覚えたのです。自分たちは特別な存在になっている、と。

 

イエスさまから「途中で何を議論していたのか」と尋ねられた弟子たちはハッとします。彼らは顔を真っ赤にしてうつむいてしまうのです。

 

                    **************

 

弟子たちは「何を夢中になって話していたのか」とイエスさまに尋ねられた時、舞い上がっていたとも考えられます。「シマッタ、もう少しうまくやればよかった」と後悔したかも知れません。

 

人間というのは、まさしくこういうものです。熱中して話し込んでいると周囲のことが見えませんし、気付かなくなります。弟子たちと同様、私たちもしばしば、神さま抜き、イエスさま抜きで盛り上がってしまうのです。

 

その直後に、イエスさまは〈座り込み〉・〈弟子たち呼び寄せて〉お話を始めます。この姿勢は重要な意味をもちます。上から見おろして偉そうにお話をするのではない。大切なことを同じ目線に身を置いて伝えようとされます。

 

                    **************

 

この時、イエスさまは「〈いちばん〉先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられます。イエスさまが願う〈いちばん〉が語られるのです。

 

私たちは幼い頃から学校や家庭で〈いちばん〉になることが素晴らしいこと、目標だと教えられ考えるようになりました。〈いちばん〉が大好きなのです。果たしてイエスさまが願っている〈いちばん〉を理解しているでしょうか。

 

本田哲郎神父さまは『小さくされた人びとのための福音』というタイトルで福音書を訳されました。この箇所を「だれか、先頭に立ちたい者があるならば、みんなの最後につき、みんなに仕える者になりなさい」とされます。

 

「先頭」=「いちばん」ですが、「最後につく」ことが大事だと読まれたのです。

 

                    **************

 

イエスさまの言われる〈いちばん〉を考える時に「小さい者」や「みんなの最後」という視点は大きな意味をもちます。なぜなら、私たちはうっかりすると、自分自身が〈小さい者〉であること、そして〈最後の者〉として生きていることがあったことを忘れてしまいがちだからです。

 

私は弟子たちを諭されるイエスさまのお姿から、自分自身のことに引き寄せて考えたいと思います。イエスさまは〈軽さ〉〈小ささ〉〈遅さ〉を抱えながらも、ひたむきに生きている者と一緒に歩んで下さるお方なのだと。

 

何と有り難いことでしょう。

 

我々は自分の〈小ささ〉や〈遅さ〉、世にあって〈軽く〉扱われることを嘆くことはいっさいありません。自分のペースで、ゆっくりと、安心して最後の者として歩き続ければよいのです。イエスさまはそんな〈いちばん〉を大切に認められ、愛して下さいます。end

 

 

 

 


2018年7月15日(日)の献花です。37℃の猛暑の日曜日ですが、礼拝堂の献花は暑さに負けず美しいです。感謝。
2018年7月15日(日)の献花です。37℃の猛暑の日曜日ですが、礼拝堂の献花は暑さに負けず美しいです。感謝。

          《 み言葉 余滴 》 163号
                  2018年7月15日

     『  信仰に力は要りません 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 9章22節~29節 
22 ・・・おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」・・・28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。・・・イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

悪霊に取り憑かれた息子と共に生きてきた父親やその家族の悲しみが、読む者の心にじわっと伝わって来る場面です。

 

父親は息子を抱いて、どれほど多くの医者を訪ねまわったことでしょう。また、顔の見えない神にひざまずき、祈りをささげたことでしょう。父親だけでなく、息子の母も、祖父も、祖母も、家族みんなが祈り続けて来た。

 

しかし癒されませんでした。

 

発作で苦しむ幼子と共に苦しみ続けてきた父親は、ついつい、イエスさまを前にして口にしてしまったのです。

 

「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と。

 

期待しては裏切られてきた苦悩がにじみます。父親の正に〈本音〉とも言える言葉をイエスさまは受け止められます。

 

                    **************

 

この時のイエスさまが、進み出た父親の苦悩を知らないわけがないのです。わかって居られました。でも敢えて言われます。

 

「『出来れば』と言うか」と。ここには深いわけがあるはずです。わたしはこう考えます。実はこのお言葉、父親の不信仰を責める言葉ではなかったはずだと。

 

イエスさまにはご計画があったのです。とりわけ、12人弟子には、しっかりと伝えなければならないことがありました。その証拠に、ここでの出来事の最終場面に記録されているのは12人の弟子たちの不信仰なのです。息子を癒してもらった父親のその後がクローズアップされるのでもない。

 

                    **************

 

弟子たちは、悪霊払いなさったイエスさまに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と〈ひそかに〉教えを乞います。彼らは素朴にそう思ったのです。

 

主イエスは機会を逃さずにお伝えになりました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と。

 

この場面、イエスさまが〈弟子たち〉に対してどうしてもこのタイミングで伝えておかなければならない事情があったのです。三度にわたって予告されることになる十字架の受難が迫っていました。

 

                    **************

 

弟子たちにとって、イエスさまに従って行くということは、いつしか誇りとなり、自慢になりつつあったのではないか、と考えます。

 

何しろ、彼らはこの後、〈誰が一番偉いのか〉と論議を始めてしまいます。そしてまた、イエスさまは子どもたちを呼びよせて、「神の国はこのような者たちのもの」である、と弟子たちに教えなければならない心配がありました。

 

                    **************

 

イエスさまが弟子たちに対して徹底的に知らせたかったこと。それは弟子たちの無力さでした。その自覚を持つ者にこそ、信仰が与えられる余地が生まれ、信仰が腑にストンと落ちるのです。

 

実に、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と告白した父親と息子は弟子たちが見倣うべき模範となっていたのです。

 

イエスさまは、「この種のものは、祈りによらなければ」と仰いました。本物の「祈り」がささげられるようになるのは、自分の無力さを痛いほどに知り、委ねるしかないことを知った時です。

 

自分の魂を主のみ前に注ぎ出す祈り。それは祈りをささげる相手に対する信頼が大前提です。信頼はいつしか信仰に変わります。救い主であるイエスさまの前で力は要りません。end

 

 


2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪
2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》 162号
                  2018年7月8日

  『 〈七転び八起き〉を超えたペトロ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 5章29節~32節

29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 

千代崎秀雄先生の『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(一粒社)という本は、私の大切な本のなかの一冊です。

 

あらためて調べて見ると、千代崎先生は、ダビデとパウロを8度取りあげ、一番大きく扱われます。続くのがペトロで7度。次に多いのがモーセの6度です。

 

「ペトロが大嫌い」「ペトロだけはゆるせん」というような声を聞いたことがありません。実にペトロとはそういう人なのです。

 

千代崎先生は第一回目にペトロを紹介する際、その冒頭で「まことに愛すべき人物、ペトロ」と紹介。二度目には「またもや、愛すべきペトロ」と記されます。ダビデやパウロ以上に、ペトロ抜きのキリスト教はあり得ない、というのが私の実感です。

 

                    **************

 

ルカによる福音書の続編として記されているのが、ご一緒に読んでいる使徒言行録です。使徒言行録でのペトロは、原始キリスト教会の力ある指導者・伝道者として登場します。

 

癒しのわざを含め、大いなる力を発揮し、少しクールに見ると、「あのペトロが?」とすら感じるほどです。

 

生まれてから40年もの歳月、足が不自由で身動きできなかった人が、神殿で躍りながら賛美するようになる切っ掛けをつくったのもペトロでした。使徒言行録におけるペトロは、使徒たちを代表して自信をもって語り続けます。

 

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ところで、使徒言行録5章でペトロが立ち上がって説教している場所はどこだったしょう。彼の語る説教の内容を見る以上に、実は、その点を見落としてはならないことなのです。この時の舞台は最高法院です。ここには当時のユダヤの社会の中心人物たちが勢揃いしています。

 

最高法院はイエスさまが不当な裁きによって十字架刑の判決を言い渡される場所でした。あの時ペトロは、すぐ横にある大祭司の中庭で人々に紛れながら身を置き、火にあたりながら裁判の様子をうかがいました。

 

やがて三度鶏が鳴き、イエスさまが振り向いて自分を見つめておられることに気が付いた瞬間、彼は外に出て激しく泣き、崩れ落ちたのです。ルカは福音書を記す時に、ペトロがその時、確かに死んだことへの思いを込めました。

 

今、エルサレムの最高法院に立って権力者たちにおどされているペトロが身にまとっている重要なことがあります。主イエス・キリストが、どんな辱めを受け、あざけられ、罵倒されようとも、世の権力に対して一歩も引くことがなかったお方であることです。それは飲むべき杯でした。

 

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ペトロは変えられました。よみがえりのイエスさまによって吹き入れられた息によって、彼は新しい人とされているのです。古いものは過ぎ去り、全てが新しくなった。

 

彼は一見すると「七転び八起き」を実践した人のように見えますが、復活の命に生きることとは本質的に異なります。

 

ペトロは新しい人です。同じ姿に見えても中身は違います。あなたも私も、ペトロがイエスさまから吹き込まれたのと同じ息によって生かされています。それをアーメンと信じて歩み出した人は全てが変わり始めるのです。end

 


2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。
2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。

        《 み言葉 余滴 》   158号
                2018年6月10日

   『  足を引きずって生きる 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 32章25節~32節 

25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。・・・・・・29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」・・・・・・32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

       

故郷に向かうヤコブ。彼は眠れない夜を過ごしていました。

 

20年前、ベテルと名付けた場所でのことを思い出します。石を枕にして横たわったあの日も眠れない夜を過ごしました。その時は、まず夢の中にみ使いが現れ、直後に主が語り始めたのです。創世記28章10節以下の出来事です。

 

今彼が、独り身を置いているのはヨルダン川の支流「ヤボク川」でした。もう後戻りは出来ないところにヤコブは居るのです。でも、20年前にあざむき、裏切り、背を向けて逃げ出した兄エサウとの再会の場面をイメージしようにも、考えれば考えるほどに気持ちが沈んでしまいます。おまけに、兄は400人の軍勢を率いているという情報も届きました。恐怖がつのります。

 

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妻や息子たちを送り出し、先に川を渡らせたヤコブは【独り後に残った】のです。【独り後に残った】と言うと、そこには何か強い意志が働いているかのようですが、違います。ヤコブは川を渡る勇気がないのです。

 

そんなヤコブですが、【独り後に残った】からこそ、実は、二度とない、ある人との出会いを経験します。これこそが「邂逅(かいこう)」でした。邂逅には〈人生における決定的な出会い〉という意味があります。

 

神さまは集団の中に身を置く人に出会われることは稀です。まず《あなた独りと出会いたい》。そういうお心を持つお方なのです。これはわたし自身の実感です。モーセもパウロも、あの姦淫の女も、独りで主と向き合いました。

 

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夜中に、得たいの知れない人と朝方まで角力(すもう)を取ったヤコブ。おそらく彼は、自分の人生を振り返ってみるときに、このようは勝負はもう二度と出来ないと思ったはずです。そんな激しい角力(すもう)でした。

 

ヤコブがこの時のことを忘れるわけがありません。なぜなら、彼はこのときの角力(すもう)によって、消えることのない傷を負った。今では差別用語と言われることもある「びっこ」という言葉がありますが、彼は死ぬまで、足を引きずって生きる人になったのです。ヤコブにはこのような傷がどうしても必要でした。だからこそ、神との格闘の中でこの傷は与えられたのです。

 

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人生には忘れてはならないことがあります。それはヤコブが神との格闘の中で受けたような傷です。

 

私たちも傷をもっているからこそ、その傷口から染みてくる何かがあることを知っています。クリスチャンとは、傷を忘れないで生きて行く事を自覚し続ける者、と言い換えることが出来ます。

 

十字架の主イエス・キリストの脇腹と手のひらの傷は、単なる徴(しるし)なんかではありません。私たちが身に受けるべき傷がそこにあります。ヤコブはその傷に通ずる格闘をペヌエルで経験したのです。

 

足を引きずって生きるようになったこと。それは【独り後に残った】ヤコブに対する神さまのご計画でした。彼は足を引きずり続けますが、癒しが与えられています。神さまの愛はヤコブのいのちの奥深くに宿ったのです。end

 


2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花
2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花

        《 み言葉 余滴 》   157号
                2018年6月3日

     『 失敗という名の〈たまもの〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 4章32節~35節 32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。

       

讃美歌第2篇188番に『きみのたまものと』で始まる素敵な曲があります。私はある頃まで、この賛美歌は「青年の歌」だと思い込んでいました。確かに1節には「きみのたまものと 若いちからを」とあります。

 

でも2節には「きみのたましいを すべてささげて 神のわざのため つとめいそしめ」とあるのです。若者だけの賛美歌にしてしまったらもったいないかも知れない。そんなことをふと思います。「たまもの」とはいったい何なのでしょう。「たまもの」はもちろん神さまからのものなのですが・・・。

 

少し余談めいたことですが、平仮名で「たまもの」と記すのと漢字で「賜物」と記すだけでも随分印象が変わります。

 

「命」と「いのち」、「魂」と「たましい」、「心」と「こころ」の違いに通じるものがあります。188番は「きみのたまもの」と平仮名で歌詞が書かれているので好感を持てます。いえ、実はそこには「たまもの」を考える上で深い意味があるのかもと感じるのです。

 

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使徒言行録4章が描くのは初期キリスト教、あるいは、原始キリスト教と呼ばれる時代の「教会」の様子です。

 

ところが、使徒言行録4章の段階では「教会」という言葉はまだ一度も使われないのです。おそらく、この頃から、だんだんと「教会」らしくなり始めたなぁ、ということを著者のルカは(『ルカによる福音書』の著者と同じ人)意識していたと思います。

 

ここには、なんだか、気前よくというか、潔くというのか〈どーーーんと献金している人たち〉の姿が描かれていて、本当にみんながそうだっのかしら、俺にはこんなこと出来ないなぁ、と少し心配になるほどです。

 

さらに、4章の終わりには「慰めの子」として紹介される「バルナバ」と呼ばれていた「ヨセフ」というキプロス島出身の人も、持っていた畑を売り払い、その代金を使徒たちの足もとに置いた、と紹介されます。

 

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わたしがこの場面で一番大切にしたいと考えるのは、【信者の中には、一人も貧しい人がいなかった】という初代教会の人々の様子です。彼らはお金で困ることがなかった、と聖書が伝えているとは思えません。

 

むしろ、そこには、お金とは違う価値観、豊かさがあったのではないでしょうか。しかも、それは共有しやすさがあったり、分かちあいやすいものではなかったかと想像するのです。果たしてそれはどのようなものでしょうか。

 

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成功談というのは、大して人の為にならないものです。ペトロら使徒たちが、積極的に確信をもって語ることができたのは、自分たちのうまくやった経験ではないはずです。彼らの宝は〈挫折であり失敗〉だった。

 

教会は〈失敗という名の「たまもの」〉を抱えながら生きている者たちの集いです。これこそ財産です。失敗したことのない人が身近に居られるでしょうか。いいえ一人も。

 

教会には誰もが証しできる〈失敗という名の「たまもの」〉があり〈貧しい者はない〉という恵みが秘められているのです。end

 


2018年3月25日(日)受難節・レント第6 棕梠の主日の夕刻・18時前でしょうか 礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の玄関口より 満さんが「たいへんです、太陽が二つ出てます」とみんなに声掛けしてくださった時の一枚です。 
2018年3月25日(日)受難節・レント第6 棕梠の主日の夕刻・18時前でしょうか 礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の玄関口より 満さんが「たいへんです、太陽が二つ出てます」とみんなに声掛けしてくださった時の一枚です。 

       《  み言葉 余滴  》 147号

    2018年3月25  主日礼拝からの"余滴" 

       『  借金帳消しの福音  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 19章28節~30節
28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

最近参加したある研修会でのことです。実に恥ずかしい話ですが、『十戒』の有り難みが初めてわかった瞬間がありました。

 

「〇〇してはならない」という禁止の言葉が続くのが『十戒』です。これまでの私。神さまからの「掟」や「戒め」は必要かも知れないけれど、いささか厳しすぎるのではないか、と感じていました。ところが、その研修会に参加されていた方のひと言に触れて、ストンと心に落ちて来たのです。

 

それは「十戒は神さまの愛なのだと考えています」という言葉でした。私は何だか急に嬉しくなりました。そうか、そうだったのかと合点がいきました。神さまの禁止命令には理由(わけ)があったのです。神さまが私たちを愛して下さっているからこその厳しさだと遅ればせながら気が付いたのです。すると、『十戒』に対するイメージが、全く違うものになったのですから不思議です。

 

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ヨハネによる福音書では、十字架の上で死を遂げられる直前にイエスさまが発せられたお言葉が全部で4つ記録されていますが、そのうちの2つがここにあります。先ず【渇く】という叫びを思い巡らしましょう。

イエスさまの〈渇き〉がその究極に於いて意味していること。それはこれから先、私たちの魂の渇きがどんな形で襲って来たとしても大丈夫。あなたがたが二度と渇き切った状態のまま放り出されることはない、という宣言です。

 

なぜなら、イエスさまは私たちの魂の〈渇き〉を完全に身に帯びて下さるからです。イエスさまは私たちの代わりに渇ききって下さる。ご自分を信じる者に対して、永遠に至るいのちの水を与え続けるための〈渇き〉です。

 

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もう一つの【成し遂げられた】という最期の言葉も、イエスさまの〈渇き〉と深い結び付きがあります。これは決して「万事休す」「あー、これで終わってしまった」というようなものではありません。

 

【成し遂げられた】というイエスさまの最期のお言葉が力を帯びているのにも理由があります。イエスさまのお言葉は口先だけのものではないからです。そのご生涯全体を通じて紡ぎ出されたもの。イエスさまの全生涯を通じての一刻も休むことのない、その歩みがあってこその力あるお言葉なのです。

 

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実は、【成し遂げられた】という言葉の意味の中には、〈税金〉を「納める、支払い尽くす」という意味があるのです。

 

英語の聖書ではどう表現されるのだろう、と気になって調べてみました。多くの英語の聖書で、【成し遂げられた】は【It is finished(イト イス フィニイッシュド)!】となっています。<