《  み言葉 余滴  》 礼拝説教の中の一滴をあなたへ


《み言葉"余滴"》は礼拝説教の要約ではありません。説教とは別の角度からの視点でお届けするみ言葉を読んで黙想するためのものです。語られた説教は、「礼拝音声メッセージブログ・西大寺の風」にてお聴きになれます。お覚え下さい。古いものについては容量の都合で随時削除しています。


2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪
2018年7月8日(日)の献花です。備前焼きの女流陶芸家・明美さんの花器とあいまってすばらしい!です(^^♪

          《 み言葉 余滴 》 162号
                  2018年7月8日

  『 〈七転び八起き〉を超えたペトロ 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 5章29節~32節

29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 

千代崎秀雄先生の『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(一粒社)という本は、私の大切な本のなかの一冊です。

 

あらためて調べて見ると、千代崎先生は、ダビデとパウロを8度取りあげ、一番大きく扱われます。続くのがペトロで7度。次に多いのがモーセの6度です。

 

「ペトロが大嫌い」「ペトロだけはゆるせん」というような声を聞いたことがありません。実にペトロとはそういう人なのです。

 

千代崎先生は第一回目にペトロを紹介する際、その冒頭で「まことに愛すべき人物、ペトロ」と紹介。二度目には「またもや、愛すべきペトロ」と記されます。ダビデやパウロ以上に、ペトロ抜きのキリスト教はあり得ない、というのが私の実感です。

 

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ルカによる福音書の続編として記されているのが、ご一緒に読んでいる使徒言行録です。使徒言行録でのペトロは、原始キリスト教会の力ある指導者・伝道者として登場します。

 

癒しのわざを含め、大いなる力を発揮し、少しクールに見ると、「あのペトロが?」とすら感じるほどです。

 

生まれてから40年もの歳月、足が不自由で身動きできなかった人が、神殿で躍りながら賛美するようになる切っ掛けをつくったのもペトロでした。使徒言行録におけるペトロは、使徒たちを代表して自信をもって語り続けます。

 

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ところで、使徒言行録5章でペトロが立ち上がって説教している場所はどこだったしょう。彼の語る説教の内容を見る以上に、実は、その点を見落としてはならないことなのです。この時の舞台は最高法院です。ここには当時のユダヤの社会の中心人物たちが勢揃いしています。

 

最高法院はイエスさまが不当な裁きによって十字架刑の判決を言い渡される場所でした。あの時ペトロは、すぐ横にある大祭司の中庭で人々に紛れながら身を置き、火にあたりながら裁判の様子をうかがいました。

 

やがて三度鶏が鳴き、イエスさまが振り向いて自分を見つめておられることに気が付いた瞬間、彼は外に出て激しく泣き、崩れ落ちたのです。ルカは福音書を記す時に、ペトロがその時、確かに死んだことへの思いを込めました。

 

今、エルサレムの最高法院に立って権力者たちにおどされているペトロが身にまとっている重要なことがあります。主イエス・キリストが、どんな辱めを受け、あざけられ、罵倒されようとも、世の権力に対して一歩も引くことがなかったお方であることです。それは飲むべき杯でした。

 

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ペトロは変えられました。よみがえりのイエスさまによって吹き入れられた息によって、彼は新しい人とされているのです。古いものは過ぎ去り、全てが新しくなった。

 

彼は一見すると「七転び八起き」を実践した人のように見えますが、復活の命に生きることとは本質的に異なります。

 

ペトロは新しい人です。同じ姿に見えても中身は違います。あなたも私も、ペトロがイエスさまから吹き込まれたのと同じ息によって生かされています。それをアーメンと信じて歩み出した人は全てが変わり始めるのです。end

 


2018年7月1日(日)の献花です。暑くなってきたので、この爽やかさはとっても新鮮でした(^^♪
2018年7月1日(日)の献花です。暑くなってきたので、この爽やかさはとっても新鮮でした(^^♪

        《 み言葉 余滴 》 161号
                2018年7月1日

『  悔い改めさせることは出来ますか 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 6章7節~12節 
7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。・・・・・・10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 

 

聖書は奥深いと感じます。

 

弟子たちを初めて宣教へと派遣する場面をあらためてじっくりと読んでいて非常に気になることがあります。この場面、イエスさまは「杖一本」のほかは、必要最小限の持ち物で宣教の旅に出掛けよ、と命じられます。それは私たちもよく知っていることです。

 

しかし、それ以上に重要な情報がそっと置かれていることに気付かされました。宣教の旅は「二人ひと組」でなさい、というのです。どのような組み合わせで出掛けることになったのかは聖書には記されていません。しかし、好きな者同士で出掛けられたかというと、そんなことはあり得ないはずです。

 

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世の中さまざまなストレスがあるものですが、当事者の弟子たちがもっとも困惑し、ストレスに感じたのは「二人ひと組」で宣教に遣わされる、ということではなかったでしょうか。

 

マルコ福音書2章16節以下で、二組の兄弟が弟子として召し出されています。「シモンとアンデレ」、「ヤコブとヨハネ」です。彼ら兄弟がペアで遣わされたのか。私は違うと思います。

 

12人弟子が使徒として遣わされるということは、全く新たな経験をしながら、様々なことを考えてご覧なさいということです。まだ、よく知り合っていない二人がぎくしゃくしながら、互いの思いも尊重し、時にはこれだけは譲れないと話し合いながら旅を続ける。何と忍耐が求められることでしょう。

 

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そもそも、イエスさまが弟子たちを使徒として遣わされる目的は何だったのでしょうか。イエスさま一人では身が持たないから、おまえさんたちもしっかり頼むよということか。いいえ、そんなわけがないのです。

 

弟子たちに対して、持ち物なしでイエスさまが出会って欲しいと考えられたことは幾つかあったと思います。

 

自分という人間がいかにワガママな存在であり、一緒に助け合いながら歩いて行く人のことを考えることについてすらも、無理解であるということに気付くことだったのでは、と私は考えます。

 

同時に、お世話になる家々でじっくりと話を聴き、力になることの大変さ。そんなこと出来やしない、という現実を肌で感じることも大きな課題だった。イエスさまは「足の裏の埃を払い落とす」ことまで教えておられます。

 

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最も重要な課題。それは〈悔い改めの福音の喜び〉を伝えるとは何であるのか。そのことを考え始めさせることにあったと私は考えています。

 

弟子たちがイエスさまに倣い、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えようとしても、お手上げ状態だったと思います。なぜなら、弟子たち自身が心底からの悔い改めを経験せずに、悔い改めを語ることなど出来るわけがないからです。

 

彼らには十字架と復活が必要です。

 

大阪のどや街・釜ヶ崎に生きる本田哲郎神父さまは「悔い改め」の語を「低みに立って見なおし、福音を信じてあゆみを起こせ」とされました。この訳語は我々のあり方を厳しく問います。

 

もしも、人を変える道があるとするならば、それには先ず、自分自身が変えられて行くことが必要だからです。end

 

 


2018年6月24日(日)の午後 表通りに面した教会入口付近にこちらが素敵に立てられていました。
2018年6月24日(日)の午後 表通りに面した教会入口付近にこちらが素敵に立てられていました。

        《 み言葉 余滴 》 160号
                2018年6月24日

   『  誰の企画・立案ですか? 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 33章1節~5節 

1 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、2 側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。3 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。4 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。

 

ヤコブは恐れていました。苦しんでいました。兄エサウとの20年振りの再会を抜きにして、生まれ育った故郷でのこれからの暮らしはあり得ません。

 

「やぁ、兄さん久しぶりだね」というような調子で顔を合わせられるはずがありません。ヤコブは20年が経った今「やっぱり自分が悪かった」とあらためて思っているのです。

 

しかし、どう考えても「兄さん、本当に悪かった」「ゆるしてくれ兄さん」と言わせてもらえる場面が来るようなイメージが少しもわいてきません。

 

実際、ヤコブが足を引きずりながら進んで行くと、エサウと共に〈400人〉と報告を受けていた一団が土煙を上げながらやって来るのが見えるのです。

 

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その一方で、ヤコブは妙に落ち着いている自分に気付いていました。

 

ペヌエルでの朝方までの角力(すもう)によって、彼は神と格闘し、み顔を見たにもかかわらず、なおも生きている不思議を経験していたからです。ヤコブにしか分からない充足感が残る格闘でした。

 

ヤコブは前日の格闘の中で、自分の魂の内側に秘めていたもの全てを注ぎ出したのだろうと思います。それは〈祈り〉だったと言い換えてもよいものでした。だから、万が一のことが起こったとしても悔いはない、という境地に至っていたのです。

 

一切を神さまはご存知であり、「あなたを決して見捨てない、必ず連れ戻す」と言われた神のみ手のうちに自分は確かに置かれているという確信があったのです。

 

だからこそヤコブは、先頭に立ってエサウの前に進みました。

 

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双子の兄弟が20年振りに向き合った時、何が起こったのでしょう。400人もの部下を引き連れて来たのは、「おやじの喪の日が来たら必ず殺してやる」という呻き声を上げていた兄ではありません。

 

エサウは無骨な狩人としてヤコブを取り押さえに来たのではなく、穏やかな顔で駆け寄って来ます。そして、弟をしっかりと胸に抱きかかえ、口づけするのです。何かを語り始める間もなく、二人は泣き続けました。

 

ありとあらゆる知恵を用いてヤコブが立てた計画は一切必要なかったのです。

 

普通ではあり得ないことが起きている。これは出来すぎた話です。こんな話はおかしいのです。しかし、このような和解の出来事が実際に起こるのであり、それがあなたがたにも必要だ、と創世記のみ言葉は告げています。

 

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ことの成り行きを離れた所から静かに見守っている人がいました。

 

それは、この場面を企画・立案された神さまでした。このお方がプロデューサーとして働いているからこそ、人知を遙かに超えた、広く、長く、深い愛の物語が、イエス・キリストに至るまで広がって行くのです。

 

新しい道を歩き出したヤコブは、「そこに祭壇を建てた」のです。「祭壇」とは〈礼拝〉と〈祈り〉の場です。

 

人生に於いて神とがっぷり四つになる場所がこれからもずっと必要だと知った人ヤコブのなすべき必然でした。end

 


2018年6月17日(日)の夕方 森牧師が兼務する十文字平和教会のお茶の時間に届いて居たまさるさんのお宅のお庭の〈びわ〉です。十文字平和教会のお庭のびわは、今年は不作でした。
2018年6月17日(日)の夕方 森牧師が兼務する十文字平和教会のお茶の時間に届いて居たまさるさんのお宅のお庭の〈びわ〉です。十文字平和教会のお庭のびわは、今年は不作でした。

        《 み言葉 余滴 》   159号
                2018年6月17日

     『  神の家族の誕生 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 6章1節~3節 1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

 

弟子たちと共に歩まれるイエスさま。故郷の〈ナザレ〉にお入りになります。

 

〈ナザレ〉は旧約聖書に一度も登場しない寒村です。弟子たちにとって〈ナザレ〉は初めて足を踏み入れる地でしたが、おそらく、弟子たちには悪い予感があったはずです。実際、その予感は的中します。

 

イエスさまの弟子となる直前の「ナタナエル」(別名=バルトロマイ)が、【ナザレから何か良いものが出るだろうか】と語ったことがヨハネ福音書1章46節に記録されています。

 

おそらく、一度インプットされていたマイナス情報というものは、その後も消えなかったと思います。

 

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それ以上に〈ナザレ〉から想像できる悪いイメージがありました。〈親兄弟〉は大切にすべきもの、ということを弟子たちだって知っていました。

 

十戒の教えにもありますし、そんなことは人として常識です。ところが、少し前に、弟子たちは思いがけない場面を目の当たりにしたのです。

 

マルコ福音書3章の終わりに記録されていることですが、カファルナウムの家に滞在中のイエスの元に母マリアと兄弟たちがやって来たとき、なんと彼らはイエスさまを取り押さえようとしたのです。

 

【あの男は気が変になっている】という言葉が〈ナザレ〉に暮らす家族にも伝わって来ていたからです。

 

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〈ナザレ〉で見るイエスさまのお姿は惨めなものでした。カファルナウムの会堂で感嘆された聖書の説きあかしも〈ナザレ〉では歓迎されません。劇的な癒しをなされたお姿からは程遠く、奇跡も行えませんでした。

 

「この間まで大工仕事をしていたヤツが何をぬかしやがる。大工の息子はなぁ、おとなしく大工をしてりゃいいんだよ」。

 

冷たい言葉を浴びせられるイエスさまの姿を見て、弟子たちは言葉もなく身の置き所を失いました。

 

ただ弟子たちは、不思議に思うことがあった。

 

それは、イエスさまが落胆されていないことです。人々の不信仰を嘆かれますが、お姿と表情には力があり、弟子たちに何かを伝えようとしていることがわかりました。

 

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救いのみ子イエスは〈ナザレ〉という寒村を必要としたのは確かです。

 

しかし、イエスがキリストとなるために、すなわち、救い主となるためには、地縁、血縁と呼ばれるようなものが幅を利かせる故郷は、一線を画すべきところだったのです。家族との関係すらも断ち切ることは必然でした。

 

イエスにとっての家族とは、【神のみ心を行う人】(マルコ福音書3章5節)以外の何ものでもないのです。

 

弟子たちはその糸口に立たされています。彼らは弟子から使徒となって行く為の掛け替えのない訓練を受けていました。

 

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丘の上の十字架に磔(はりつけ)にされたイエスを母マリアは直下から見上げました。

 

しかし、弟子たちはそこに居ませんでした。神のみ心を生き始めた母マリアの姿を弟子たちが知った時、彼らは目覚めます。

 

十字架で流されたイエスの血潮は、やがて信じる者すべてを神の家族として結び合わせるのです。end

 

 

 


2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。
2018年6月10日(日)の献花です。素敵です。ありがたい。心底そう思います。

        《 み言葉 余滴 》   158号
                2018年6月10日

   『  足を引きずって生きる 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎創世記 32章25節~32節 

25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。・・・・・・29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」・・・・・・32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

       

故郷に向かうヤコブ。彼は眠れない夜を過ごしていました。

 

20年前、ベテルと名付けた場所でのことを思い出します。石を枕にして横たわったあの日も眠れない夜を過ごしました。その時は、まず夢の中にみ使いが現れ、直後に主が語り始めたのです。創世記28章10節以下の出来事です。

 

今彼が、独り身を置いているのはヨルダン川の支流「ヤボク川」でした。もう後戻りは出来ないところにヤコブは居るのです。でも、20年前にあざむき、裏切り、背を向けて逃げ出した兄エサウとの再会の場面をイメージしようにも、考えれば考えるほどに気持ちが沈んでしまいます。おまけに、兄は400人の軍勢を率いているという情報も届きました。恐怖がつのります。

 

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妻や息子たちを送り出し、先に川を渡らせたヤコブは【独り後に残った】のです。【独り後に残った】と言うと、そこには何か強い意志が働いているかのようですが、違います。ヤコブは川を渡る勇気がないのです。

 

そんなヤコブですが、【独り後に残った】からこそ、実は、二度とない、ある人との出会いを経験します。これこそが「邂逅(かいこう)」でした。邂逅には〈人生における決定的な出会い〉という意味があります。

 

神さまは集団の中に身を置く人に出会われることは稀です。まず《あなた独りと出会いたい》。そういうお心を持つお方なのです。これはわたし自身の実感です。モーセもパウロも、あの姦淫の女も、独りで主と向き合いました。

 

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夜中に、得たいの知れない人と朝方まで角力(すもう)を取ったヤコブ。おそらく彼は、自分の人生を振り返ってみるときに、このようは勝負はもう二度と出来ないと思ったはずです。そんな激しい角力(すもう)でした。

 

ヤコブがこの時のことを忘れるわけがありません。なぜなら、彼はこのときの角力(すもう)によって、消えることのない傷を負った。今では差別用語と言われることもある「びっこ」という言葉がありますが、彼は死ぬまで、足を引きずって生きる人になったのです。ヤコブにはこのような傷がどうしても必要でした。だからこそ、神との格闘の中でこの傷は与えられたのです。

 

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人生には忘れてはならないことがあります。それはヤコブが神との格闘の中で受けたような傷です。

 

私たちも傷をもっているからこそ、その傷口から染みてくる何かがあることを知っています。クリスチャンとは、傷を忘れないで生きて行く事を自覚し続ける者、と言い換えることが出来ます。

 

十字架の主イエス・キリストの脇腹と手のひらの傷は、単なる徴(しるし)なんかではありません。私たちが身に受けるべき傷がそこにあります。ヤコブはその傷に通ずる格闘をペヌエルで経験したのです。

 

足を引きずって生きるようになったこと。それは【独り後に残った】ヤコブに対する神さまのご計画でした。彼は足を引きずり続けますが、癒しが与えられています。神さまの愛はヤコブのいのちの奥深くに宿ったのです。end

 


2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花
2018年6月3 日(日)こういうの、初めてだなぁと感じた雅代さんのご奉仕による献花

        《 み言葉 余滴 》   157号
                2018年6月3日

     『 失敗という名の〈たまもの〉 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎使徒言行録 4章32節~35節 32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。

       

讃美歌第2篇188番に『きみのたまものと』で始まる素敵な曲があります。私はある頃まで、この賛美歌は「青年の歌」だと思い込んでいました。確かに1節には「きみのたまものと 若いちからを」とあります。

 

でも2節には「きみのたましいを すべてささげて 神のわざのため つとめいそしめ」とあるのです。若者だけの賛美歌にしてしまったらもったいないかも知れない。そんなことをふと思います。「たまもの」とはいったい何なのでしょう。「たまもの」はもちろん神さまからのものなのですが・・・。

 

少し余談めいたことですが、平仮名で「たまもの」と記すのと漢字で「賜物」と記すだけでも随分印象が変わります。

 

「命」と「いのち」、「魂」と「たましい」、「心」と「こころ」の違いに通じるものがあります。188番は「きみのたまもの」と平仮名で歌詞が書かれているので好感を持てます。いえ、実はそこには「たまもの」を考える上で深い意味があるのかもと感じるのです。

 

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使徒言行録4章が描くのは初期キリスト教、あるいは、原始キリスト教と呼ばれる時代の「教会」の様子です。

 

ところが、使徒言行録4章の段階では「教会」という言葉はまだ一度も使われないのです。おそらく、この頃から、だんだんと「教会」らしくなり始めたなぁ、ということを著者のルカは(『ルカによる福音書』の著者と同じ人)意識していたと思います。

 

ここには、なんだか、気前よくというか、潔くというのか〈どーーーんと献金している人たち〉の姿が描かれていて、本当にみんながそうだっのかしら、俺にはこんなこと出来ないなぁ、と少し心配になるほどです。

 

さらに、4章の終わりには「慰めの子」として紹介される「バルナバ」と呼ばれていた「ヨセフ」というキプロス島出身の人も、持っていた畑を売り払い、その代金を使徒たちの足もとに置いた、と紹介されます。

 

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わたしがこの場面で一番大切にしたいと考えるのは、【信者の中には、一人も貧しい人がいなかった】という初代教会の人々の様子です。彼らはお金で困ることがなかった、と聖書が伝えているとは思えません。

 

むしろ、そこには、お金とは違う価値観、豊かさがあったのではないでしょうか。しかも、それは共有しやすさがあったり、分かちあいやすいものではなかったかと想像するのです。果たしてそれはどのようなものでしょうか。

 

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成功談というのは、大して人の為にならないものです。ペトロら使徒たちが、積極的に確信をもって語ることができたのは、自分たちのうまくやった経験ではないはずです。彼らの宝は〈挫折であり失敗〉だった。

 

教会は〈失敗という名の「たまもの」〉を抱えながら生きている者たちの集いです。これこそ財産です。失敗したことのない人が身近に居られるでしょうか。いいえ一人も。

 

教会には誰もが証しできる〈失敗という名の「たまもの」〉があり〈貧しい者はない〉という恵みが秘められているのです。end

 


2018年5月27 日(日)三位一体主日の献花と講壇をバックに
2018年5月27 日(日)三位一体主日の献花と講壇をバックに

        《 み言葉 余滴 》   156号
                2018年5月27日

     『 率先される神 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マルコによる福音書 1章14節~17節 
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。

       

マルコによる福音書の1章。

 

そこには、イエスさまがカファルナウムというガリラヤ湖畔の町を舞台にして始められた「み業や教え」が、人々の前で次第に明らかになり、波紋が広がっていく様子が記されています。「イエスさまの公生涯」と呼ばれる場面です。

 

ここでは、イエスさまが宣教の第一声で何をどう語られたのかに注目しましょう。

 

私が特に気になるのは【悔い改めて福音を信じなさい】という呼び掛けです。

これこそ全ての人に向けての告知であり、私たちに対して、イエスさまが具体的な行動を求めておられるメッセージだとつよく感じるのです。

 

                    **************

 

世の中には、「率先」とか「手本」という言葉があります。国語辞典を引いてみると、「率先」とは【上の地位にある人が、先頭に立って物事を行なうこと】です。また、「手本」は【それにならって行動すべき模範】とあります。

 

何かを教えようとする時には、先生みずからが包み隠さず取り組みの姿勢を見せ、真似をしてもらう所から始めるのが〈王道〉です。

 

実は、ここでの「悔い改め」は「後悔」や「反省」とは異なります。聖書の告げようとしている「悔い改め」は、日本語のもっている「悔い改め」の意味合いとは全く違うことに注意が必要です。

 

私流に言い換えてみます。福音書のイエスを通じて示されている「悔い改め」とは、〈視座を変え、大胆に方向転換し、心を定めて神さまの求めておられる道を歩み続けること〉となります。

 

それは、イエスさまに「固着して歩み続けること〉ことであり、〈ピタッとくっついて〉離れない生き方なのです。

 

                    **************

 

大切な独り子を世にお送り下さった神さまは、イエスさまを通じて【悔い改めて福音を信じ】る歩みを始めるために、ちゃんと「お手本」を見せて下さっているのでしょうか。倣うべき姿が見えるのでしょうか。

 

敢えて申します。実に、神さまご自身が率先して「方向と方針大転換」=「悔い改め」をなさったのです。高い所に居られるはずの神さまが、自ら率先してこの世にお出でになり、低きに降られた。それはあり得ない仕方でした。

 

イエスさまは罪人の一人となられました。だからこそイエスさまも洗礼者ヨハネから〈洗礼〉をお受けになります。イエスの洗礼を4つの福音書すべてが記録しているのには理由(わけ)があります。それが極めて重要な事実だからです。

 

                    **************

 

神の愛は時に非常識です。ふつうなら絶対にしないことをなさる。罪人のために十字架でいのちを捨てて、よみがえって罪人をゆるされる。

 

その愛によって、私たちは救われます。

 

それ故に、イエスさまは宣教の第一声として「悔い改め」を告知し、愛を全うするための道を歩み出されました。

 

直後に召し出されたペトロら最初の弟子たちは、【わたしについて来なさい】の招きに、網を捨ててすぐに従います。ところが、弟子たちの本当の意味での「悔い改め」は、もっとずっと後、イエスさまの復活の後に起こります。

 

「悔い改め」は弟子となる条件ではなかった。これも神のみ心なのです。end

 

 



2018年5月20日(日)聖霊降臨日・ペンテコステ 聖餐式の食卓
2018年5月20日(日)聖霊降臨日・ペンテコステ 聖餐式の食卓

   《 み言葉 余滴 》   155号
                2018年5月20日

   『 覚悟を決めさせる 聖霊 』
                              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎使徒言行録 4章8節~13節 8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。・・・・・・ この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
      

聖霊の降臨。それは復活の主イエスが弟子たちに約束されたものでした。『使徒言行録』において聖霊の力と働きは徐々に明らかになります。突き詰めて申し上げるならば、聖霊は教会の誕生に結び付いています。

 

聖霊が降(くだ)ったのは主の約束の言葉を信頼し、祈りながら待ち続けていた12人の弟子たちと、その周囲に居た人々に対してでした。祈りと聖霊は、切っても切れない関係があります。これは見落としてはならない肝心なことです。

 

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生まれてから40年というもの。歩くことが出来なかった人を起き上がらせ、その人が神殿で主を賛美しながら飛び跳ねる切っ掛けを与えたのはペトロとヨハネでした。二人は、自らの力によって癒しをなしたのではなく、〈イエスのみ名によるもの〉であることをハッキリと語ります。

 

しかし、ペトロとヨハネが〈イエスのみ名による力〉を確信を持って語れば語るほど、敵対する当時の権力者は〈イエスのみ名〉を恐れ始めたのです。二人は牢屋に入れられてひと晩を過ごします。

 

二人が敵対したのはファリサイ派やサドカイ派という信仰を持つ人々でしたが、二人はもの怖じすることなく堂々と渡り合うのです。聖霊はすでに彼らを新しい人に変えていました。

 

                    **************

 

ふたりの〈人となり〉を伝える言葉として【13 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き】とあります。

 

そんな二人が【12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか与えられていないのです】と大胆に言い切るようになったのです。

 

覚悟の決まっている人には力が宿ります。

 

イエスさまは、かつてこう語られました。【11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。】(ルカ福音書12:11-12)と。

 

このお言葉がペトロとヨハネを通して実現していることに気付きます。

 

キリスト教に馴染みのない方は、「聖霊」と聞くと、死者の霊魂を意味する「精霊」をイメージするものです。

 

でも、そういうものとは全く異質のものが弟子たちに降(くだ)って来ました。〈イエスの名〉によって二度と語るなと脅(おど)された二人ですが、彼らには恐れがありません。

 

イエスの姿は見えなくなったのに、ますます恐れを抱き始めたのはユダヤ人の熱心な宗教家たちでした。

 

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聖霊は超人的な何かや神秘的なことを引き起こすためのものではありません。

 

パウロは【聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。】(第一コリント書12:3)と語っています。これは今を生きる我々にとって縁遠いことでしょうか。

 

いいえ、違います。

 

聖霊は私たちにも確実に働いています。だからこそ、イエスがキリスト=救い主であると告白しながら、恐れることなく、教会づくりに励んでいるのです。end

 

 


2018年5月20日(日)聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝にて 聖餐式の中でエピクレーシス=聖霊を求める祈りの場面
2018年5月20日(日)聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝にて 聖餐式の中でエピクレーシス=聖霊を求める祈りの場面

   《 み言葉 余滴 》   154号
                2018年5月13日
           『 ヤコブはつわものか 』
              牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)
◎創世記 29章20節~30節 20 ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。21 ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」22 ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、23 夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。・・・・・・25 ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」・・・30 こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。

 

人はある時を境にして見違えることがあります。生まれ育った地を離れ、遠く、母リベカの故郷ハランに辿り着いたヤコブはハランで変わります。ヤコブは新しくなるのです。その様子が創世記29章に描かれます。

 

父イサクと兄エサウをだましたとしか言いようのない行動によって、一族に約束された祝福の継承を勝ち取ったヤコブですが、彼のあと押しをしてくれていたのは母リベカでした。

 

父イサクの言うことを聞かなかったわけではないと思われますが、父はヤコブに対して愛情を注いでくれなかったのです。

 

                    **************

 

ハランでヤコブを受け入れてくれた母の兄ラバンは、母親から伝え聞いていたような信頼とか尊敬ということから掛け離れた態度をとり続ける人間でした。

 

がんばって・頑張って・ガンバリ続けてやっと迎えた約束の7年目のラケルとの婚宴の日の夜、伯父ラバンの計画が明らかになりました。ヤコブは罠にはめられたような仕方で裏切られるのです。

 

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ひと目惚れしたラケルと夫婦となって一つになれると信じていたヤコブ。彼の待つ天幕にベールを被って入って来て床に迎えた女性は、意中の人ラケルではなく姉のレアでした。その事実に気付いたのは翌朝です。

 

まるで、兄エサウになりきって父を欺いた時のしっぺ返しのような事態が起こりました。ただし、伯父のラバンは一つの条件を付けて妹のラケルとの一週間後の結婚を認めました。それは、更に7年の間、自分のもとでヤコブが再び無償で働き続けるならば、という条件だったのです。

 

ヤコブはかつての父や兄への罪滅ぼしをするかのように、それから7年、身を粉にして働き続けるのです。実は、14年を経てからも、ヤコブは更に6年間働かされることになります。

 

何という忍耐が求められることでしょう。

 

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ヤコブには人並み以上の根性があり忍耐強かったのでしょうか。彼はいつしか強者(つわもの)になっていたのでしょうか。確かに、彼は試練の中で忍耐し、決して希望を失わない逞しさを自分のものにします。

 

けれども、敢えて申しましょう。彼は強者(つわもの)ではありません。ヤコブは、根性も忍耐も意志も人一番強い人としてここに居るのでもないのです。聖書は私たちに対して強い人間になりなさい、と語っているわけでもない。

 

ここにあるのは神の忍耐です。生まれる前から約束されていた祝福の継承者となることを実現しようとされているお方の強い意志がある。

 

おぼろげではあるけれど、ヤコブはその事実を感じ始めていました。頼りになるのは、母でも伯父でもない。ましてや自分でもない。神であるということを。

 

その事実は、私たちの人生において、折に触れて示されていることなのです。end

 

 


2018年5月6日(日)の夕刻、森牧師が兼務する十文字平和教会の礼拝後のお茶のひととき 正子さん手作りの「うぐいす餅」をいただきました。目、見えますか(^^♪
2018年5月6日(日)の夕刻、森牧師が兼務する十文字平和教会の礼拝後のお茶のひととき 正子さん手作りの「うぐいす餅」をいただきました。目、見えますか(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 153

    2018年5月6  主日礼拝からの"余滴" 

     『  逃げ出した人よ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 28章10節~12節 10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

 

聖書が我々の暮らしに実感をもって迫ってくるのには理由(わけ)があります。

 

それは実にしばしば、今ここに居る自分自身の姿を鏡に写し出しているかのような、そんなリアリティーが聖書にはあるからです。

 

とりわけ、どこかに逃げ出すような事態を引き起こしてしまった人物と出会うときに、私たちは、その姿に自分を重ね合わせながら聖書を読み進めます。

 

聖書の中で逃亡者の筆頭はアダムとエバです。彼らは神の目を避けるようにして身を隠します。出エジプトの民を40年にわたって率いたモーセも、それ以前の40年間は逃亡者として身を隠していた人でした。新約ではペトロをはじめとする12弟子たちも逃げ出した者たちの集団です。

 

しかし、正にそこから、福音の物語は伸展し始める。それが我々の「聖典=聖書」です。

 

                    **************

 

創世記28章。

 

ここで逃亡している人物はヤコブです。元来、ヤコブの名前には、「人の足や踵(かかと)を引っ張って欺(あざむ)く」(創世記25:26、27:36)という不名誉な意味があります。彼は、「引っ張り君」なのです。

 

ところが、時が満ちる時に、ヤコブはみ使いの姿をした神さまとの格闘の後に、【これからは名をイスラエルと呼ばれる】(創世記33:29)と宣言されることになります。

 

それに留まらず、やがて「イスラエル」は12人の息子を部族の父祖とする国民の名を意味するようになるのです。聖書において、「神の民」の総称が「イスラエル」と呼ばれることとも深い繋がりがあります。

 

                    **************

 

兄エサウが自分に対して殺意を抱くような事態を引き起こしたヤコブ。

 

彼は、母親のリベカの後押し、そして、父イサクの同意と祝福の祈りがあったとは言え、住み慣れた地を独り離れ、逃亡者となるのです。

 

ヤコブが母親のリベカの故郷ハランに辿り着くまで直線距離で900㎞もあります。門出を祝うとか、意気揚々というような状況とは正反対のひっそりとした旅立ちです。おそらく、旅立ってからまだ一日か二日目の夜、疲れ果てて石を枕にして横になったヤコブを包んだのは高地の冷気と闇でした。

 

眠り込んだヤコブ。

 

夢の中で、天国からの梯子を上り下りするみ使いの姿を見ます。と、その時、主ご自身が姿を顕され、ヤコブに対して、必ず実現する永遠の祝福と約束を、ていねいに、明確に語り始めたのです。

 

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目を覚ましたヤコブ。

 

その直後、恐れつつ語ります。否、祈った、告白したと言うべきでしょう。【まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。】(16節)【ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。】(17節)と。

 

ヤコブの傍らに立たれた主は、時が満ちた時に、ナザレのイエスとして顕れて、こう語られました。ヨハネ福音書に次のように書き留められています。

 

【わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。】(10:9)と。ヤコブもその門に身を置いたのです。

 

逃亡者ヤコブが、一人の信仰者に変えられたのはこの時でした。主の元に身を置き、約束の言葉を聴くこと。

 

そこにこそ、逃亡者としての過去を持つ私たちの居場所とスタートの場が与えられています。今もその時です。end

 

 


2018年4月30日(月)の午後、教会から車だと7分、緑化プラザの公園にて 水浴びして遊んでいるすずめさん
2018年4月30日(月)の午後、教会から車だと7分、緑化プラザの公園にて 水浴びして遊んでいるすずめさん

          《  み言葉 余滴  》 152

    2018年4月29  主日礼拝からの"余滴" 

    『  求人あります  愛の運び人  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 3章3節~8節

3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

 

皆さんはこれまでのご自身の人生で、どのような「奇跡」に遭遇しているでしょうか。思い当たる節はありますか。いかがでしょう。

 

幾つかの国語辞典で「奇跡」について調べてみました。一番詳しく記していたのは、『スーパー大辞林』で、何だか、キリスト教をかなり勉強している方が執筆したのかな、と思わせるような内容なのです。以下、ご紹介します。

 

「奇跡」=【(1)常識では理解できないような出来事。「―の生還」(2)主にキリスト教で、人々を信仰に導くため神によってなされたと信じられている超自然的現象。聖霊による受胎、病人の治癒、死者の復活など。神道や仏教では同様の現象を「霊験 (れいげん)」と呼んでいる。】とあります。

 

                    **************

 

不思議なことは起こるべくして起きている、というのが、現在の私の「奇跡」に対する思いです。

 

さすがに、「えい、やぁ」とか謎めいた呪文を口にして奇跡を起こせる人と私は出会ったことがありません。でも、私の周囲でも奇跡は起こるのです。

 

振り返ってみると、これって奇跡としか言いようがない、という場合が殆どです。わたしが旭東教会で牧師として仕えていること、否、それ以前に、わたしが牧師であることがそもそも奇跡と思っています。

 

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ただ一つ、どうやら、そうらしいなと感じていることがあります。それは、「イエス・キリストのみ名」に依る〈祈り〉がある所で奇跡は起こるという点です。

 

その祈りも、美しく整った〈祈り〉というわけではありません。呻きだったり、嘆きだったりする場合もあるのです。

 

しかも、自分の〈祈り〉でなくとも、誰かが祈ってくれている時、「イエス・キリストのみ名」による〈祈り〉は聴かれている、と思わずには居れません。

 

                    **************

 

キリスト教やキリスト教会と呼ばれるものがまだ存在しない頃の記事がここにあります。でもこれは、ペトロとヨハネを通して、世界で最初の教会に連なる人びと間で起こっている「奇跡」なのです。

 

生まれてから40年、ただの一歩も歩けない、立ち上がることもできなかった「足萎え」の人の癒しが起こります。

 

ペトロが語った、【わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。】という言葉になぜ力があるのでしょう。

 

それは、ペトロが、目に見えないけれど、イエス・キリストがそこに生きて働かれる、ということを深く信じて【イエス・キリストの名によって】祈ったからです。

 

と同時に、ペトロは言葉だけの人ではなかった。実に小さいけれど確かな行動があったのです。それが「手を差し伸べる」という愛の形でした。

 

                    **************

 

奇跡はどんなにお金を積んでも起こらない。ただ、信頼しての祈り、愛のある小さな行動の先に誰かが立ち上がる奇跡が起こります。

 

神さまはその愛の「運び人」を求めて居られます。キリストの愛の「運び人」として生きる人は、奇跡の証人とされる日を必ず経験します。

 

神さまは、主のみ名によって信頼して祈り、手を差し伸べる人を捜しておられるのです。end

 

 

 


2018年4月22日(日)の夕刻、17時過ぎのこと。市内の病院の一室でお過ごしの望さんのところへ。さんびのときです。夕暮れ時のやさしい陽射しが包んでくれました。
2018年4月22日(日)の夕刻、17時過ぎのこと。市内の病院の一室でお過ごしの望さんのところへ。さんびのときです。夕暮れ時のやさしい陽射しが包んでくれました。

          《  み言葉 余滴  》 151

    2018年4月22  主日礼拝からの"余滴" 

    『  何度でも繰り返されること  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 27章5節~10節

 5 リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、6 リベカは息子のヤコブに言った。「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。7 『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。8 わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。9 家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、10それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」

 

作家・三浦綾子さんは日本キリスト教団旭川六条教会の会員でした。その三浦さん、『聖書における人間の罪』(光文社・1986年)という本の「まえがき」にこう記されています。

 

「聖書は、つまるところ、イエス・キリストをキリストと証ししている本であり、・・・・・・旧約聖書には、特に人間の罪が抉(えぐ)りだされている。人間の罪深い姿を知ることは、神の高い清い愛を知ることでもあるからである」と。

 

私も本当にそうだと思います。己(おのれ)の罪深さと正面から向き合うことなしに、人は救い主であるイエスさまと出会えないからです。

 

                    **************

 

創世記は、他のどんな小説と比べてみても決して負けない程おもしろい物語が連続する書です。天地創造の後(のち)、アダムとエバの物語、カインとアベルの物語、ノアの箱舟の出来事、バベルの塔の物語、アブラハム物語と続きます。

 

そこに共通するのは人間の罪です。そして創世記25章から始まるヤコブ物語においても、赤裸々に人の罪が暴(あば)き出されて行きます。

 

147歳迄生きるヤコブです、彼の生涯の前半部分の頂点とも言えるのが創世記27章なのですが、この時のヤコブの年齢は40歳。常識に従って物事の判断ができる年齢になっていたはずです。分別が付く年齢なのです。

 

信仰の父アブラハムを祖父にもち、その息子・平和の人イサクの次男として生まれたのがヤコブです。

 

やがて、神の民イスラエル民族の生みの親ともいう立場に立つことになるのですから、若い頃から信心深い人として育てられ、それはそれは立派な人だったのだろうなぁ、と考えそうになります。

 

                    **************

 

ところが違うのです。ヤコブは生身の人間です。そしてひとりの罪人でした。何にもまして気になるのはヤコブが神さまのみ心を問わないことです。祈りも礼拝もない。

 

聖書はヤコブが徹底して母親のリベカの言うことを聞く人として描いているのです。〈神不在の章〉、それが創世記27章なのです。

 

母リベカは溺愛していた次男ヤコブに入れ知恵をします。練りに練った策略を、息子ヤコブに仕込み、呪いは私が受ける、とまで言います。

 

ならば、リベカはとんでもない悪人なのか、と言うと実はそうとも言い切れません。聖書の世界の奥深さなのですが、彼女は、まだ双子の息子たち、すなわちエサウとヤコブがお腹のなかにいた時に、神からの不思議な啓示を受けていました。

 

それは、【兄(エサウ)が弟(ヤコブ)に仕えるようになる】(創世記25章23節)という内容でした。母リベカがこの言葉を忘れるとは思えません。

 

リベカは神のみ心の実現のために誠実に生きていた人、という一面を確かに持っています。ただし、冷静にリベカの姿を見渡して見ると、神のみ心から離れてしまっている〈神不在の人〉としてここに存在しているのです。

 

                    **************

 

聖書は〈神不在の人生〉への警笛を鳴らしています。

 

誰のため、何のためか。

 

それは、私とあなたのためです。

 

主イエスが「インマヌエル=神われらと共に」のお方として、神の不在を打ち破るために天の扉を破り、私たちの隣人としてこの世にお出で下さった理由がここにあります。end

 

 

 


2018年4月15日(日)の礼拝説教にて。説教の時に珍しいヨハネによる福音書の翻訳を紹介しているところです。左近義すけ先生の『ヨハネのつたへし福音書』(東京第一書房・昭和17年版)です。味わい深い訳が見られました。「なし」という訳語が素晴らしかった。
2018年4月15日(日)の礼拝説教にて。説教の時に珍しいヨハネによる福音書の翻訳を紹介しているところです。左近義すけ先生の『ヨハネのつたへし福音書』(東京第一書房・昭和17年版)です。味わい深い訳が見られました。「なし」という訳語が素晴らしかった。

          《  み言葉 余滴  》 150

    2018年4月15  主日礼拝からの"余滴" 

       『  二度目も三度目もある  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 21章1節~5節 
 1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

 

舞台はガリラヤ湖半。シモン・ペトロが3年前まで暮らしていたカファルナウムという町だったと思われます。何やら噂話が聞こえて来ます。

 

「シモンが帰って来たらしいぞ。なぁ、言わんこっちゃないさ。何もかも投げ出して〈俺はイエス先生に従って行く〉なんてなぁ。そんなことがあいつに出来るわけがねぇじゃねぇか。初めから分かっとったことさぁ」

 

「見慣れない〈トマ〉やら〈ナタ〉なんて言うやつらも連れてきてるらしいぞ。ほれ、みーんな、都シャレムで、例の十字架に磔にされたイエスの弟子を気取ってたヤツらよ。どの面(つら)さげてやって来たのか、恥ずかしげもなく」

 

                    **************

 

カファルナウムには、シモン・ペトロの実家、いえ、彼の家があったはずです。家族はどうしていたのでしょう。分かりません。意気揚々、目を輝かせていた3年前の彼とは別人のような男の姿が海辺にあります。

 

それにしても、ペトロがガリラヤ湖に漁に出たのは久しぶりのことでした。漁師だった自分がイエス先生に従って歩み出してからというもの、辛いこと、ひもじい思いをしたこともありました。イエスさまから叱られることもよくあったのです。恥もかいた。でも、夢のような日々でもあったのです。

 

いつしか、12人の中の筆頭の弟子と言われるようになり、そのことを自分でも自覚しました。無学な自分が、律法や預言者の書、知恵の書まで学ぶようになることなんて、自分はもちろんのこと、誰も想像できなかったのです。

 

                   **************

 

腕が落ちてしまったのでしょうか。漁の勘がすっかり鈍っていたのでしょうか。漁師の仕事をしたこともない、トマスやナタナエル達が足を引っぱったのか。夜通し漁を続けたのに魚は網に一匹もかかりません。

 

いらだちを超えて、情けなくなってきたペトロ。夜明けが近くなり、疲労の色が濃くなる7人。誰一人しゃべりません。

 

ペトロは漁を続けながら思い出していたかも知れません。初めてお目に掛かったイエスさまが、【わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう】(マルコ福音書1:17)と言われた日のことを。そして「なんで、こうなっちまったんだ」とつぶやくのです。

 

                    **************

 

その日の朝、イエスさまは岸辺から声を掛けられました。「どうだい、漁の具合は」と。ペトロは「けっ、うるせぇヤツがいるもんだ。見りゃ分かるだろ。〈とうしろ〉はこれだからな」と思いながら、「なし、なしだよ旦那」くらいの返事をしたのです。甦りのイエスだと気付かずに。

 

クリスチャン。

 

それは、幾度でも主のお招きを受け、立ち上がる人ではないでしょうか。誰に笑われても構わない。わたしたちにはもう一度があるのです。

 

だからやり直す。いつでも始められる。主の招く声が聞こえて来ます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのみ声が。end

 

 


2018年4月9日(月)の朝、何でもない光景ですが、旭東教会のある西大寺の昔ながらの町並み、五福通りの端っこです。Nikonの看板のもと、眼鏡屋さんはもちろん今はもうありません。
2018年4月9日(月)の朝、何でもない光景ですが、旭東教会のある西大寺の昔ながらの町並み、五福通りの端っこです。Nikonの看板のもと、眼鏡屋さんはもちろん今はもうありません。

       《  み言葉 余滴  》 149

    2018年4月8  主日礼拝からの"余滴" 

       『  お見通しのイエス  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 20章26節~29節 
 26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

復活のイエスさまがエルサレムのとある部屋に身を隠していた弟子たちの前に〈2度目〉に姿を顕(あらわ)された時の様子が描かれています。

 

この場面、イースターのたびに、何度も読んできた良く知られているところです。

 

実はわたくし。今年のイースターに、はじめて気付いたことがありました。それは、イエスさまが弟子たちの心をお見通しだった、ということです。

 

信じることが出来ていなかったのは、疑い深い弟子としてその名が知られている〈トマス〉だけではない、ということです。他の10人も、見ないで信じること、触らないで信じることが出来ていなかったことに気付いたのです。

 

                    **************

 

イエスさまが〈3度〉繰り返されたお言葉があります。それは、【あなたがたに平和があるように】というお言葉です。3度のうち2度は、トマスが一人でどこかに出掛けていて居なかった時でした。今度はトマスが戻って来ている場面で言われたのです。弟子たちみんなも聴いていました。

 

もしも、イエスさまがトマスだけに向かって語りかけられるならば、「トマス、一週間前、、おまえさんだけが居なかったね。だから、お前に伝えるよ。あなたにも平和があるように」と。そう語りかければ事足りたはずです。

 

でも、復活の主は言われたのです、【あながたがたに】と。聖書の原文を確認しても複数形の「あなたがた」となっています。

 

どうして、イエスさまは3度言われたのでしょう。弟子たちには〈平安〉や〈平和〉がなかったからです。甦りの主イエスに再会できた喜びは、本物ではなかったのです。

 

                    **************

 

だからこそ、彼らは一週間が経ってもなお、相も変わらず、家中の戸の鍵をしっかりと掛け続けていました。イエスさまの口から【息】=【聖霊】を吹き注がれてからは、なお一層、怖じ気づいていたのです。

 

息をふーっと吹きかけられたイエスさまは、彼らの前から見えなくなりました。イエスさまの姿が見えなくなって、少し冷静になって思い巡らし、一週の間に考え続けていたはずです。そして、ますます恐くなってしまった。

 

なぜなら、彼らは宣教のためにあなたがたを遣わす、という言葉を復活のイエスさまから受けてしまったからです。これまでは、いつだってイエスさまが矢面に立って下ったのです。そして十字架にも架かられた。

 

                    **************

 

聖書は何と面白い書なのでしょう。イエスさまは何て素晴らしいお方だろう、と思うのです。信じ切れていない者を遣わそうとされる。動揺している様子を悟られないようにしていた弟子たちの心持ちを、イエスさまは全てご存じでした。彼らの心は〈ばればれ〉でした。

 

ゆるしの秘儀がここにあります。奥深い主の愛を垣間見るようです。嘘のような本当の話です。その愛がわたしたちにも注がれています。end

 


2018年4月1日(日)はイースター・復活祭でした。早朝、旭東教会から徒歩8分、観音院のお隣の公園でジュニアサークルのイースター礼拝。たまご探しの頃に、十文字平和教会の皆さんも偶然姿を見せました。このあと、旭東教会で合同礼拝でした(^^♪  ご覧の通り桜はまさに満開!
2018年4月1日(日)はイースター・復活祭でした。早朝、旭東教会から徒歩8分、観音院のお隣の公園でジュニアサークルのイースター礼拝。たまご探しの頃に、十文字平和教会の皆さんも偶然姿を見せました。このあと、旭東教会で合同礼拝でした(^^♪ ご覧の通り桜はまさに満開!

       《  み言葉 余滴  》 148

    2018年4月1  主日礼拝からの"余滴" 

       『  マグダラのマリアによって  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 20章1節~2節
1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。・・・」

 

 聖書には幾人ものマリアが登場します。

 

手元にある『ラクラム版 聖書人物小辞典』(H・シュモルト著・創元社)には【マリア】の項の冒頭に「ヘブライ語のミリアム。イエスの時代のごく一般的な名前」とあります。そして、①~⑥まで6人の【マリア】についての紹介があるのです。

 

実は、イエスさまの「復活」の場面で、4つの福音書すべてに登場するのは、イエスの母マリアではなく【マグダラのマリア】です。

 

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ところが、【マグダラのマリア】という名を聞いて、「この人は本当に立派な女の人でしたね」とか、「私の理想」ですという声は聞かないのです。そのような思いを抱きにくい紹介の言葉が聖書にはあるからです。

 

それは、ルカによる福音書8章冒頭の描写です。イエスさまが12人の弟子たちと共に町や村を巡って神の国の福音を宣べ伝える働きをしている時に、一行に寄り添うようにして従う女性たちが居たのです。その中の一人が【マグダラのマリア】でした。こう紹介されます。

 

【悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。】

 

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彼女の紹介に【七つの悪霊を追い出していただいた】とありますが、「七」という数字は聖書の中では完全数と言われます。良いことでも悪いことでも、もうこれ以上のことは無い、という時に使われる数字です。

 

カトリック教会ではコロサイ書3章5節以下にある「傲慢・物欲・色欲・ねたみ・貪欲・憤怒・怠惰」を〈七つの大罪〉として挙げることがあります(『新キリスト教辞典』いのちのことば社 参照)。

 

つまり、彼女は相当な苦労人、というだけではなく、汚れを身にまとい罪を犯した人として決して消えることのない烙印を押されていた女性の中で、これ以上ひどい人物は居ない、という紹介がなされている人なのです。

 

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クリスマスの出来事、イエスさまのご降誕や誕生の物語は、実は、マルコによる福音書やヨハネによる福音書は直接の関心を示しません。ところが、「十字架と復活の出来事」については、4つの福音書のいずれも、それぞれの仕方でとても丁寧な筆で描きます。

 

そして私たちが注目している【マグダラのマリア】は全部に登場する必要があった人物なのです。何故なのか。

 

答えはハッキリしています。イエスさまを通しての福音を伝える上で、【マグダラのマリア】のような人こそ、絶対に欠かせない重要な存在だったのです。彼女抜きにして十字架と復活の福音を宣べ伝えることなど出来ない。聖書はその事実を、さり気なく読者に伝えてくれています。有り難いことです。

 

あなたにとって、【マグダラのマリア】は遠い人ですか、近い人でしょうか。私は【マグダラのマリア】が居てくれて本当に助かったと思っている人間です。マリアはイエスさま信じ、仕え、従い続けた人でした。end

 

 


2018年3月25日(日)受難節・レント第6 棕梠の主日の夕刻・18時前でしょうか 礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の玄関口より 満さんが「たいへんです、太陽が二つ出てます」とみんなに声掛けしてくださった時の一枚です。 
2018年3月25日(日)受難節・レント第6 棕梠の主日の夕刻・18時前でしょうか 礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の玄関口より 満さんが「たいへんです、太陽が二つ出てます」とみんなに声掛けしてくださった時の一枚です。 

       《  み言葉 余滴  》 147号

    2018年3月25  主日礼拝からの"余滴" 

       『  借金帳消しの福音  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 19章28節~30節
28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

最近参加したある研修会でのことです。実に恥ずかしい話ですが、『十戒』の有り難みが初めてわかった瞬間がありました。

 

「〇〇してはならない」という禁止の言葉が続くのが『十戒』です。これまでの私。神さまからの「掟」や「戒め」は必要かも知れないけれど、いささか厳しすぎるのではないか、と感じていました。ところが、その研修会に参加されていた方のひと言に触れて、ストンと心に落ちて来たのです。

 

それは「十戒は神さまの愛なのだと考えています」という言葉でした。私は何だか急に嬉しくなりました。そうか、そうだったのかと合点がいきました。神さまの禁止命令には理由(わけ)があったのです。神さまが私たちを愛して下さっているからこその厳しさだと遅ればせながら気が付いたのです。すると、『十戒』に対するイメージが、全く違うものになったのですから不思議です。

 

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ヨハネによる福音書では、十字架の上で死を遂げられる直前にイエスさまが発せられたお言葉が全部で4つ記録されていますが、そのうちの2つがここにあります。先ず【渇く】という叫びを思い巡らしましょう。

イエスさまの〈渇き〉がその究極に於いて意味していること。それはこれから先、私たちの魂の渇きがどんな形で襲って来たとしても大丈夫。あなたがたが二度と渇き切った状態のまま放り出されることはない、という宣言です。

 

なぜなら、イエスさまは私たちの魂の〈渇き〉を完全に身に帯びて下さるからです。イエスさまは私たちの代わりに渇ききって下さる。ご自分を信じる者に対して、永遠に至るいのちの水を与え続けるための〈渇き〉です。

 

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もう一つの【成し遂げられた】という最期の言葉も、イエスさまの〈渇き〉と深い結び付きがあります。これは決して「万事休す」「あー、これで終わってしまった」というようなものではありません。

 

【成し遂げられた】というイエスさまの最期のお言葉が力を帯びているのにも理由があります。イエスさまのお言葉は口先だけのものではないからです。そのご生涯全体を通じて紡ぎ出されたもの。イエスさまの全生涯を通じての一刻も休むことのない、その歩みがあってこその力あるお言葉なのです。

 

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実は、【成し遂げられた】という言葉の意味の中には、〈税金〉を「納める、支払い尽くす」という意味があるのです。

 

英語の聖書ではどう表現されるのだろう、と気になって調べてみました。多くの英語の聖書で、【成し遂げられた】は【It is finished(イト イス フィニイッシュド)!】となっています。

 

わたし流に思いきって意訳すると「もう何も心配しなくて大丈夫、終わったよ」となります。

 

十字架のイエスは、私たちの支払うべき神さまに対する「返済不能な巨額な借金」=「罪」を贖(あがな)って下さったのです。

 

そう考える道筋に気づく時、【成し遂げられた】というお言葉は、「あなたの莫大な借金は、我がいのちをもって、肩代わりして支払い済み」という愛ゆえの宣言だということに気付きます。

 

ここには、み子を世に賜り、十字架で磔(はりつけ)にされた神の愛があります。end

 

 


2018年3月18日(日)受難節・レント第5主日 礼拝堂前方に置かれた受難節の象徴です
2018年3月18日(日)受難節・レント第5主日 礼拝堂前方に置かれた受難節の象徴です

       《  み言葉 余滴  》 146

    2018年3月18  主日礼拝からの"余滴" 

       『  三本の十字架  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 19章16節~18節
16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

 

イエスさまの時代。十字架刑が行われる場所は【ゴルゴタ】と呼ばれていました。【ゴルゴタ】は、当時のユダヤの人々が使っていたアラム語という言葉で「グルゴーダー」だっただろうと想像されます。

 

何とその意味は「頭蓋骨」・「されこうべ」という気味悪い場所です。そこには、処刑された後、埋葬されなかった人の骸骨が散らばっていたそうです。

 

福音書記者ヨハネは、【イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」・・・・・へ向かわれた。】(17節)と記録します。

 

キリストであるイエスさまは、ゴルゴタの丘の上に立てられた十字架の苦しみから逃げようとはなさらない。深い覚悟をもって総督ピラトの官邸から歩き出されました。

 

                    **************

 

かつて、12弟子の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスさまにあるお願いをしたことを思い起こします。

 

【何をしてほしいのか】とイエスさまに言われた二人はこう言います。【栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。】と。マルコ福音書10章35節以下の描写です。

 

直後にイエスさまがお答えになります。【わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか】というお言葉は十字架上の死の預言とも言うべきものです。

 

これは、イエスさまの弟子たる者の条件とも言える【わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。】(マルコ福音書8章34節ほか)にも通ずるお言葉なのです。

 

その日、ゴルゴタの丘の上には〈三本の十字架〉が立てられていました。

 

そこにイエスさま以外の人が磔(はりつけ)にされる十字架が、他に二本あることは重要な意味があります。死刑に処されるべき重い罪を犯した者、即ち、罪人の中の罪人が、イエスさまと時を同じくして磔(はりつけ)にされるのです。

 

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昨年夏、ある研修会のために出掛けた福岡市の中心街・天神のはずれに、九州キリスト教会館という建物があります。

 

そこは1996年から5年の間、私が九州教区の主事としても仕えていた言わば通いなれた場所です。4階に礼拝堂がありますが、その正面の壁には十字架が3つあるのです。

 

三本の十字架の下に、【わたしは復活であり、命である(*「EGO SUM RESURRECTIO ET VITA」)】というヨハネによる福音書11章25節のみ言葉が「ラテン語」で書かれています。

 

25節は【わたしは復活であり、命である】に続けて【わたしを信じる者は、死んでも生きる。】とあるのです。

 

これは、キリスト者にとって重要なひと言です。

 

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恥ずかしいことに、私は3本の十字架の有り難さにこれまで気付いていませんでした。

 

何度もなんども3本の十字架を見ていたのです。しかしあまりに鈍感でした。

 

イエスさまの両脇で、磔(はりつけ)にされる罪人は、私とは縁遠い悪人だと思っていたのです。何と鈍い人間なのでしょうか。

 

でも、ようやく気が付きました。

 

罪人である私がイエスさまの隣で磔(はりつけ)にされている。その私を、イエスさまは、さいごまで見捨てないためにも、ゴルゴタの丘を目指して自ら進んで十字架を担って下さっていたのです。

 

私は今、あらためて、その十字架のイエスを救い主だと信じて生き始めています。end

 

 


2018年3月11日(日)礼拝直後 十文字平和教会の布下満兄(画家です)をお迎えして上演した手作り紙芝居『幸福な王子』の終幕近く。音楽も手作り編集朗読が流れます。全てが美しかった、ほんとうに!
2018年3月11日(日)礼拝直後 十文字平和教会の布下満兄(画家です)をお迎えして上演した手作り紙芝居『幸福な王子』の終幕近く。音楽も手作り編集朗読が流れます。全てが美しかった、ほんとうに!

       《  み言葉 余滴  》 145

    2018年3月11  主日礼拝からの"余滴" 

       『  私もあなたも そこにいる  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

ヨハネによる福音書 19章1節~6節

1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」

 

ドイツアルプスの村・オーバーアマガウ。その野外劇場で行われる世界最大のキリスト〈受難劇〉は広く知られています。1634年が初上演という歴史あるもので、現在は10年に一度開催されているようです。

 

俳優はもちろんのこと、オーケストラや聖歌隊、演出・大道具など、劇に関わる全てが村人によってとり行われる壮大なもの。5月から9月までの間に100回以上の上演があります。次回は2020年という旅行案内を見ました。

 

キリスト降誕劇は幼稚園などでよく行われます。でも〈受難劇〉は教会でこそ行うべきではないかと私は思います。衣装など無くても構わない。配役を決め、『聖書』をみんなで演じるのです。いや、イエスさまの茨の冠と紫色の衣くらいは必要かも知れません。その時、我々は何を思うのでしょう。

 

                    **************

 

兵士たちは鉛(なまり)が編み込まれた鞭(むち)でイエスを打ち続けます。肉が裂け、呻(うめ)き声を上げ、血を流し始めるイエスが居るのです。兵士たちは顔を見合わせながら近づいて来て言います。【ユダヤ人の王、万歳】と。

 

さらに彼らは、イエスを平手打ちします。「王さま、万歳」と言うときは、本当ならば口づけをする場面なのです。その代わりの平手打ちです。〈受難劇〉では、他の誰かではなく、あなたが、平手打ちをする兵士になるのです。

 

ローマの総督ポンテオ・ピラトはイエスが「無罪」だと気付いていました。「何て運の悪いことだ」と苛立(いらだ)っていたかも知れません。ピラトが言います。【あの男をお前たちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけがわかる・・・】と。さらに、【茨の冠をかぶり、紫の服を着けた】イエスを見ながらピラトは言います。【見よ、この男だ】と。

 

                    **************

 

讃美歌280番『馬槽(まぶね)のなかに』の4節。【この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】の【この人を見よ】の原典はこの場面です。私たちは〈受難劇〉の中で、馴染みのある賛美歌を新たな思いでかみ締めながら歌うのです。この惨めなお方こそが「活ける神」なのだと。

 

ユダヤ人の役を演じる人たちは隣に居合わせた者同士、顔を見合わせながら【十字架につけろ、十字架につけろ】と叫びます。その声は連呼となります。〈受難劇〉に参加している者は皆、取り憑(つ)かれたように叫び続けるのです。

 

                    **************

 

毎週の礼拝で告白する「使徒信条」の中にポンテオ・ピラトの名があります。そのピラトの傍らには、呻き苦しんでおられるイエスさまが居られます。誰がそうしたのか。私であり、あなたなのです。犯人捜しの必要は微塵もありません。「罪人の頭たち」が集まった所に教会が生まれます。

 

今年も、無惨に傷つき十字架を背負わされてゴルゴタの丘に向かうイエス・キリストのみ苦しみを思い巡らす「レント・受難節」を迎えています。end

 

 


2018年3月4日(日)集会室にて ステンドグラスと相まって本当にきれいでした(^^♪
2018年3月4日(日)集会室にて ステンドグラスと相まって本当にきれいでした(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 144

      2018年3月4  主日礼拝からの"余滴" 

        『  何もわかっていない  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 18章10節~11節

10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
   

12人の弟子たちの中で、常に筆頭の立場に居たのがペトロでした。彼はのちのカトリック教会の初代教皇です。

 

ペトロは数時間前、【主よ、なぜ今ついて行けないのですか、あなたのためなら命を捨てます】(ヨハネ福音書13:37)と言い切ったことを忘れるわけがありません。

 

その言葉は彼の本心だったと思います。たとえ、ほかの仲間たちがどうであれ、俺だけは絶対にどんなことがあってもと考えていたのです。サタンに取りこまれたイスカリオテのユダに引き連れられ、やって来た一団を見たペトロは、高ぶりを感じていたことでしょう。既に冷静さを失っていました。

 

                    **************

 

どんなおっちょこちょいをしても、いつも寛容に見守ってくれたのがイエスさまでした。

 

この時のペトロは、自分たちがイエスさまに守られてきた立場にあることを、すっかり忘れています。逆に、自分たちがイエスさまをお守りしなければ、という思いで剣(つるぎ)を振り上げたのです。

 

他の弟子たちは当てにならないと思ったのでしょう。彼の行動は一面から見れば、イエスさまを守ろうとする熱心さの現れと言えなくもありません。

 

けれども、イエスさまが人を傷つけるような武器としての剣(つるぎ)をもつこと、それを使うことを認めることなど、どう考えてもあり得ません。ペトロは主の目を盗んで短刀を手に入れ隠し持っていたのです。

 

                    **************

 

ユダに案内され、イエスさまを捕らえるためにやって来たのは祭司長、神殿守衛長、長老たちの一団でした。イエスさまは彼らに向かって【まるで強盗にでも向かうように、剣(つるぎ)や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに・・・】(ルカ福音書22:53)と言われます。

 

敵には逃げも隠れもしないイエスの姿を想像できなかったのです。

 

一団に向かってペトロは短刀を振りかざして襲いかかりました。この時、ペトロによって耳を切り落とされ人が居ましたが、イエスさまは即座に【剣(つるぎ)をさやに納めなさい。父がお与えになった杯(さかずき)は、飲むべきではないか】とペトロを戒められます。もちろんこれは、十字架を覚悟されたお言葉です。

 

ペトロがとった行動は、闇に乗じて敵の軍団がなすことと何ら変わらないのです。主イエスのみ心が何もわかっていない弟子の姿がここにあります。

 

                    **************

 

キリストが進んで行こうとされている〈道〉があります。それは、武力も権力も必要としない〈道〉なのです。イエスさまは、敵を傷つけるような仕方でそれが成就することなど、少しも望んでおられません。

 

マタイによる福音書では【剣をさやに納めなさい】というお言葉に続いて、【剣で滅びる者は皆、剣で滅びる】(26章53節)と続いていることを思い起こしましょう。ペトロの熱心さは見当外れ、的外れなものでした。主イエスのみ心との間に大きなズレがあるのです。

 

私たち、ペトロはしょうもないヤツだと軽蔑することは決してできません。み言葉は警告しているのです。あなたも私も、ペトロと同じように、み言葉よりも世の力の象徴である【剣】を頼りにしているのではないか、と。end

 

 


2018年2月26日(月)旭東教会の近くの西大寺緑化プラザの公園にて 梅が見頃になりました
2018年2月26日(月)旭東教会の近くの西大寺緑化プラザの公園にて 梅が見頃になりました

          《  み言葉 余滴  》 144

      2018年2月25  主日礼拝からの"余滴" 

       『  〈掟〉はもう要りませんか?  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 13章31節~35節

31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。・・・・34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
  

掟というもの。今時はやりません。何しろ「掟」は人を縛り付けるものです。

 

『新明解国語辞典』に依れば、「所属する社会や組織の中でそうするように(そうしてはいけない)と定められているきまり。」とあります。

 

ところが、罪からの解放、真(まこと)の自由を与えるためにこの世にお出でになったイエスさまが、【新しい掟を与える】と語られます。

 

「掟」とか「戒め」と聞いて思い出すのはモーセの「十戒」ですが、一体どういうことでしょう。

 

                    **************

 

注目したいのは35節の【互いに愛し合うならば】という箇所です。〈新共同訳〉は少し意訳気味で、行動的な愛が必要かのように見えます。

 

ところが、原文に忠実に訳されている〈永井直治先生〉の翻訳では【汝(なんじ)ら もし互いの間に愛あらば】とあります。

 

あるいはまた、先頃、毎日出版文化賞を受賞された〈田川建三先生〉の最新の訳では【もしもあなた方が互いにおいて愛を持つならば】とあります。

 

イエスさまは私たちに、愛し合うという自発的・能動的な動き以前に、互いの間に愛を置きなさい、と命じておられる、と読めるのです。

 

                    **************

 

自分自身に対して、「私はいつも、どんな時でも、愛をもって生きているだろうか」と自問する時、「大丈夫です。いつも、しっかりと愛を持って生きています」と言える自信があるでしょうか。

 

復活のイエスさまが、ティベリアス湖畔にお姿を顕(あらわ)され、ご自身を裏切り逃げ出してしまったペトロに対して問われた場面を思い起こします。

 

【私を愛するか】と訊ねながら、同時に、【私の羊の世話をしなさい】【私の羊を飼いなさい】と言われたヨハネによる福音書21章15節以下のあの場面です。

 

                    **************

 

私が神学校入学時に出会い、今でも折々に思い出す言葉を神学校の講義の中で語られた大沢務先生という隠退された牧師が、東京都の端っこに位置する町にお暮らしです。神学校で宣教論や牧会学、旧約学入門を教えて下さいました。

 

大沢先生、ご自身にも神学生にも厳しい方でしたが、時々授業の本筋からそれて、ご自身の弱さを語られるひと時がありました。

 

私が旭東教会に赴任する際、ご挨拶に伺った時に仰った言葉を鮮明に覚えています。「教会の方を愛して下さい」と言われたのです。

 

今思い巡らして見ると、先生にとっても、現役時代にむつかしいことだったのかなと感じます。

 

                    **************

 

自分の中の愛は小さく弱いものに過ぎません。

 

ところが、愛そのものであるイエスさまが、人と人との間にいつも居られる。そう信じる生き方をするならば、不思議なことに何かが変わり始めます。

 

縛られたり束縛されるのは不自由で嫌なものです。でも、主イエスが語られる「新しい掟」として愛の縛り。実は、なくてはならないものなのです。end

 

 


2018年2月18日(日)新教出版社の今年のカレンダーにあったイエスの洗足の絵です
2018年2月18日(日)新教出版社の今年のカレンダーにあったイエスの洗足の絵です

          《  み言葉 余滴  》 143

      2018年2月18  主日礼拝からの"余滴" 

           『  極みまでの愛  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ヨハネによる福音書 13章1節~5節
1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。3 イエスは ・・・・・・4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

 

福音書記者ヨハネが描いたイエスさまのお言葉と行動には、構成がたいへんよく似ている共観(きょうかん)福音書と呼ばれる「マタイ・マルコ・ルカによる福音書」には見られない美しいもの、忘れられない場面があります。

 

その代表的な箇所のひとつが、ゴルゴタの丘の上に十字架が待ち受けるエルサレムのとある部屋でのイエスさまによる〈洗足(せんぞく)〉です。

 

ヨハネという人は【イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。】という言葉でその時の様子を伝え始めます。

 

                    **************

 

大正6年=1917年に世に生まれた、いわゆる『〈文語訳〉の新約聖書』ではこの箇所は次のように訳されています。

 

【イエスこの世を去りて父に往(い)くべき己(おの)が時の來(きた)れるを知り、世に在る己(おのれ)の者を愛して、極(きはみ)みまで之(これ)を愛し給へり】と。

 

文字が少し大きめで読みやすいために愛用する『明鏡国語辞典』によれば、【極みまで】とは「物事が行きつく極限のところ」と解説されています。

 

つまり、イエスさまがなさろうとしていることは、愛の実践を示す上で、これ以上には表現のしようのないもの、ということになります。

 

踏み込んで申し上げるならば、イエスさまは命懸けでことをなそうとされているのです。

 

                    **************

 

ひざまづき足を洗い始めたイエスさまの前に居るのは12人の弟子たちです。とりわけ、筆頭の弟子を自認していたであろうペトロ。彼は、自分たちの貴い先生であるイエスさまが奴隷と同じ仕事をなさるなんてとんでもない、と考えました。

 

ペトロは、ここでの〈洗足(せんぞく)〉というイエスさまの行為が、このあとの、十字架の上で全ての人の罪を洗い清めるための贖罪(しょくざい)の死の意味が込められているなど、思いもしないのです。

 

       **************

 

しかし少し想い巡らしてみる必要があります。鈍感なのは彼らだけでしょうか。私たちは大丈夫でしょうか。

 

イエスさまの洗足(せんぞく)とは、私たちが誰かの足を洗って差し上げることと同様の行為でありながら、実は、意味が根本的に異なるものなのです。私たちは誰かの足を洗うときに【極み】を想い描くことなどあり得ません。

 

                    **************

 

実にしばしば、出し惜しみすることがあるのが、われわれ凡人です。そのケチ臭さは、恥ずかしくて他人様(ひとさま)に決して見せられません。

 

しかし、神のみ子イエス・キリストは、愛の出し惜しみはなさいません。惜しみなく愛を注ぎだしてくださる理由(わけ)があります。

 

【極みまで】の愛を受けなければ生きて行けない事情を抱えている私たちがここに居るからです。

その事情についての封印はもう終わりにしましょう。

 

時は満ちました。キリストによるあなたのための「洗足(せんぞく)=十字架の時」が来たのです。end

 

 


2018年2月11日(日)表通りに掲げるポスターが完成 紹介する森牧師です 
2018年2月11日(日)表通りに掲げるポスターが完成 紹介する森牧師です 

          《  み言葉 余滴  》 142

      2018年2月11  主日礼拝からの"余滴" 

         『  ご飯に生玉子の交わり  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 2章42節~18節

42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。

 

聖霊の降臨によって生まれたもの。

 

それは教会でした。しかし、その教会とは十字架がかかげられた建物としての教会ではありません。

 

初期のキリスト教徒たちにとってクリスチャンとしての自覚が生まれてくるために大切にしていたのは、聖書の説きあかしを聴き、交わりを持つこと、パンを裂くこと、祈ることでした。それが行われていた場所は「家の教会」だったのです。

 

教会というものは、会堂が立って生まれるのではありません。つらいことも、悲しいことも分かちあえる交わりがあるかないか。いつでもそこに帰って来られると思えるかどうか。

 

そのことがクリスチャンにとって肝心なのです。

 

                    **************

 

初期のキリスト教会が生まれようとしていた時、たくさんの受洗者が与えられていたことが記録されています。

 

【ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。】というのです。

 

けれども、冷静に考える必要があります。【三千人】の人々がクリスチャンとなったからと言って、一同が集まって一緒に過ごすことなど出来ません。

 

だからこそ、少人数の家庭的な交わりというものがとても大事なひと単位となるのです。

 

私の想像ですが、ひとつのグループの集まりは10人前後だっただろうと思います。それ以上の人数では、心を開いた交わりは持ちにくいのです。心の通い合う小さな交わりは信仰の深まりの鍵なのです。

 

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振り返ってみると、私が20代の半ば頃に洗礼を受け、クリスチャンとしての成長の場が与えられた場所となったのは、母教会である東京の銀座教会での毎週火曜・朝7時から行われていた「早天祈祷会」でした。

〈証し〉が毎週あったのも本当に貴重な経験となりました。

 

さらに楽しみだったのは、聖書の学びとお祈りが終わったあと、場所を移して、10人と少しの方たちとテーブルを囲んで頂いていた朝食です。6畳ひと間の独り暮しの身に、その家庭的な空気はとても心地よい時間でした。

 

ご馳走が並んでいたわけではありません。おみそ汁だって、チューブの味噌を絞り出しお湯を注ぐ永谷園のものでした。ご飯に生卵や納豆。そんな食事だったのです。不思議なことに、その時の余韻は今でも思い起こせます。

 

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銀座教会の礼拝出席は300人を少し超えるほどの日本基督教団では大規模な教会の一つです。わたしはその数を自慢したいのではありません。

 

大切な分かち合いが、早天祈祷会の中に、そして、その後の食卓の小さな交わりにありました。いのちの言葉を語って下さるキリストを中心とする交わりには、自ずと力とぬくもりが生まれてくるのです。

 

そのような分かち合いの場を産み出し続ける努力。心底、やり甲斐があると思うのです。end

 

 


2018年2月4日(日)午後3時からの礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の聖餐の器 
2018年2月4日(日)午後3時からの礼拝応援に出掛けた十文字平和教会の聖餐の器 

          《  み言葉 余滴  》 141

      2018年2月4  主日礼拝からの"余滴" 

      『  イサクさん ありがとう  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 26章15節~18節

15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。16 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。

 

イサク。

 

彼は父アブラハムと比べてみると、その存在は全く目立ちません。いわゆる『アブラハム物語』の中で、年老いた夫婦の間に「笑い」をもたらす子として生まれ来た所からイサクの人生は始まっていますが、彼は常に脇役なのです。

 

アブラハムが神さまからモリヤの地においてイサクを焼き尽くす献げ物としてささげよ、と命じられた場面。あの時もスポットライトが当たっているのは父アブラハムです。

 

イサクがリベカと結婚して20年を経て、ようやくエサウとヤコブという双子の男の子が与えられたのは60歳の時のことでした。

 

しかし、二人の息子のことは印象に残っていても、イサクの影は不思議なほど薄いのです。

 

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ところが、少なくとも創世記26章だけは地味なイサクにスポットライトが当たります。イサクが主語となる話が続きます。

 

聖書はイサクの姿を通して何かを伝えたいのです。それはいったい何だったのか。イサクを巡る〈ドラマ〉はあるのか。じっくりと創世記26章を読んでみました。

 

残念ながら、「聖書物語」に取りあげられるような、こどもたちに読み聞かせて喜ばれるような特別な話はありません。

 

飢饉の話、妻を妹と偽る話、神さまの祝福の約束が聞こえて来る場面、種を蒔いて祝福を受けた話、ペリシテ人に意地悪されても移動しながら、挫けることなく井戸を掘り続ける様子。ペリシテ人の王アビメレクとの和解の話が続くに過ぎないのです。

 

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絵筆を口にして詩歌を創り続ける星野富弘さんの作品・『日日草』が私は好きです。

 

ホテルや結婚式場で結婚式の司式のお仕事をお引き受けしていた頃、数分の式辞の中で、新郎新婦への祝福の思いを込めて紹介していました。

 

「結婚式のきょう以上に大切な日があるよ」という祈りを込めて。

 

                  今日もまた一つ 悲しいことがあった
                今日もまた一つ うれしいことがあった
                                 
              笑ったり泣いたり 望んだり あきらめたり
                  にくんだり あいしたり ・・・・・・・・
                                 
            そして これら一つ一つを 柔らかく包んでくれた
              数え切れないほど沢山の 平凡なことがあった

 

                    **************

 

古来、日本では普段通りのありふれた日常を「ケ」の日。祭礼や年中行事などを行う日を「ハレ」の日と呼んで来ました。

 

でも、人生の晴れ舞台というような日は、時々しかありません。多くは平凡な毎日です。

 

創世記26章はその時その時のイサクの精一杯を伝えています。

 

彼は失敗もします。神さまの声も聞きます。笑顔も見えます。戸惑いの表情があります。しかしドラマティックではありません。

 

でも、イサクはいつも誠実に真面目に生きました。神の国には、イサクのような人がどうしても必要なのです。end

 


2018年1月28日(日)は特別伝道礼拝の日曜日でした。雅代さん、そんなことも心に留めて下さった。そんな気がしてなりません。きれい、そして可憐です。
2018年1月28日(日)は特別伝道礼拝の日曜日でした。雅代さん、そんなことも心に留めて下さった。そんな気がしてなりません。きれい、そして可憐です。

          《  み言葉 余滴  》 139

      2018年1月28  主日礼拝からの"余滴" 

      『  大切なことを 向こう岸で学ぶ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 5章15節~20節
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。・・・・・・6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。

 

前日の夕方。

 

湖畔から向こう岸にある異邦人の地に向けて船に乗り込んだイエスさまと弟子たち一行。湖上の猛烈な嵐がおさまったと思ったのも束の間、向こう岸で彼らを待っていたのは悪霊に取り憑(つ)かれた人でした。

 

同行していた弟子たちはひと言も発しませんが、墓を住まいとする人の姿を固唾をのんで見守っていたはずです。

 

鎖に繋がれ、石で自分を傷つけ、大声を上げる異様な男がそこに居ます。イエスさまはどうなさるのでしょう。

                    **************

 

この時、弟子たちのためにイエスさまが始めておられたことがあります。

 

彼らが救いを宣べ伝える働きのために必要なこと。宣教の現場での〈訓練〉でした。イエスさまが進もうとされていた道を知るためです。

 

程なく彼らは二人ひと組となり、汚れた霊に対する〈権能〉を授けられて旅に出ます。杖一本の他には何も持たないで旅立つのです。

 

イエスさまは、私たちのためにも、形は違っても訓練の計画を持っておられることを思います。

 

息をひそめ、身を縮めるようにして見守り続ける弟子たち。彼らの喉はカラカラになっていたことでしょう。イエスの一挙手一投足を見つめています。

 

                    **************

 

彼らが学んだのは、癒しや救いのテクニックだったのでしょうか。それとも、悪霊を追い出すための特別な呪文のような言葉でしょうか。

 

少し前に、12人が呼び集められ〈使徒〉として立てられた時に授けることが約束されていた〈権能〉というものがあります。

 

イエスさまによってその〈権能〉が行使される決定的なことが、ここで起こったのでしょうか。

 

                    **************

 

イエスさまがなさったこと。

 

それは苦しみ続けてきた者との真正面からの出会いでした。差し伸べられる手、背中、横顔、沈黙。その距離感や温度は机の上では学べません。

 

イエスさまは救い主であるがゆえに、友なき者の友となろうとされます。汚れた霊に取り憑かれた人の悲しみと怒り、傷みと涙、そして息遣いに直(じか)に触れられたのです。

 

さらに、男が閉ざしていた心の扉を開き始めるために呼びかけたひと言があります。

 

それが、【名は何というのか】というお言葉でした。

 

                    **************

 

神の〈権能〉を身につけること。

 

それは特殊な技術を習得することではありません。生身の人間との人格的な出会いを、いとわずに生きようとする時、主は私たちを助けて下さるお方です。

 

その働きに仕えようとする覚悟をもった者に対して〈権能〉は自ずと備えられるのです。

 

       **************

 

主は伝道の労苦を見過ごしにはなさいません。

 

我々の痛みや挫折を引き受けて下さるお方だからです。気の進まない異邦人の地での伝道でした。

 

弟子たちは一人ひとり感じるものがあったことでしょう。

 

私たちも今、弟子としての招きを受けています。そこには道がある。だから進んで行くのです。end

 

 


2018年1月21日(日)雅代さんのご奉仕による献花の中に見つけた春(^^♪ やさしい気持ちになりました。
2018年1月21日(日)雅代さんのご奉仕による献花の中に見つけた春(^^♪ やさしい気持ちになりました。

          《  み言葉 余滴  》 138

      2018年1月21  主日礼拝からの"余滴" 

      『  はじめての説教  ペトロの場合  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 2章14節~36節
14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた・・・・・・23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。・・・・・・36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

 

上のみ言葉。ペトロが最初にした説教を250字に要約したものです。

 

ペトロほど多くの人に愛されている弟子は居ません。なぜだか親近感が湧くところがあるのです。

 

その名前の意味は日本語にするなら〈岩男〉です。岩は固いものですが、ペトロは粉々に砕け散る岩でした。

 

使徒言行録を記したのは福音書記者でもあるルカです。彼が記したルカによる福音書22章32節に、勇ましく確信をもって語るペトロの姿がありました。

 

【主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております】と。しかし、ペトロのこの覚悟が無残にも砕け散ったのです。

 

                    **************

 

イエスさまはご自身を見捨てて大祭司の家の中庭から出ていくペトロを振り向いて見つめられました。その場面を記録したのはルカだけです。

 

憂いに満ちた主のまなざしに気付いたペトロ。激しく泣き崩れました。いいえ、それどころではなく、ペトロはその後の人生において、その時の主のまなざしを忘れるわけがなかったはずです。ペトロの十字架でした。

 

                    **************

 

果たして何によってペトロは立ち直る切っ掛けを得たのでしょう。

 

その立ち直りは我々の立ち直りにも通じるものであるはずです。イエスさまのお言葉の中に、そのヒントを探してみました。

 

ヨハネによる福音書20章21節には【「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」】というイエスさまのお言葉。

 

また、ルカによる福音書22章32節には【あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてなりやさい】とあります。

 

そのいずれもが〈ゆるし〉が前提となっていることは明らかです。〈ゆるし〉が明らかになるのが【聖霊】の注ぎであり最大の贈り物だったのです。人は【聖霊】を受けることによってあたらしい人となっていきます。

 

                    **************

 

ゆるされていることを知ったペトロ。彼は立ち上がります。いいえ、彼だけではなく11人も一緒に立ち上がります。

 

この時、弟子たちが生きて行く上での明確な使命、目標が与えられました。

 

ペトロ以後に登場する〈パウロ〉という伝道者が居ます。パウロが使徒言行録20章24節で語った言葉は、聖霊を受けたペトロや11人の弟子たちの思いに通ずるものです。

 

【しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。】。

 

        **************

 

立ち上がって語り始めたペトロにも覚悟があったことを想います。

 

十字架と復活のキリストを宣べ伝えることは、自分自身の恥と破れ、その罪深さを告白することと表裏一体です。

 

今を生きる私たちの伝道の在り方と違いがあるはずがありません。誰もがその破片を抱えて生きています。end

 

 


2018年1月14日(日)雅代さんのご奉仕による献花です。春をどこかに見つけられるかな?
2018年1月14日(日)雅代さんのご奉仕による献花です。春をどこかに見つけられるかな?

          《  み言葉 余滴  》 137

      2018年1月14  主日礼拝からの"余滴" 

       『  壊れていても大丈夫  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 1章14節~18節

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18 二人はすぐに網を捨てて従った。

 

イエスさまが人々の前に姿を現し宣教を始められた時、最初に何を語られたのか。知っているのと、知らないのとでは大違いです。

 

マルコによる福音書によれば、イエスさまの宣教の第一声は【悔い改めて福音を信じなさい】というお言葉でした。

 

ここには深いメッセージがあります。

 

「悔い改め」と「福音を信じる」という二つのことは簡単そうでなかなか難しいもの。

まずここでは「悔い改め」について考えていきます。

 

そうすることを通して、「福音を信じる」ことの本質がより明確に見えて来るからです。

 

                    **************

 

国語辞典を幾つか調べてみました。中でも『精選版 日本国語大辞典』(小学館)では、「悔い改め」について次のように解説します。

 

「① 以前に悪かった点を反省して、改めること。後悔。②キリスト教で、神の恵みにより、罪の許しを得るために、自分の罪を認め、それを詫びて心を神に向きかえること。悔悛(かいしゅん)。」

 

なるほど。さすが詳しい、と思う部分もあります。でも、鵜呑みにしてはいけないなぁと感じるのです。

 

イエスさまが語られる「悔い改め」。「反省」はもちろんのこと、「詫びる」ということとも本質的に違っているからです。

 

                    **************

 

カトリックの信者さんで芥川賞作家の重兼芳子さん。〈悔い改め〉に関連して『癒しは沈黙の中で』(春秋社刊)という本の中で、実にわかりやすい言葉で記しておられます。共感することの多い言葉を紹介します。

 

「イエスが〈悔い改めよ〉と言われたのは、人間は神を越えることは絶対にできないこと、自分は神の前には壊れた存在であることを認めるように、ということなのである。」

 

「あなたの前で、私はまったく不完全です、と神に告白すること。自分が壊れて不完全な人間だ、と認めることはかなり決心が必要だろう。だが、一度そう認めてしまうと、その後の人生がぐっと気楽になる。」

 

                    **************

 

壊れた私を、神のみ前で素直に認めることが出来るとしたら・・・・・・。私たちは新しくなれます。変わることが出来ます。

 

イエスさまは【悔い改めて福音を信じ】ることで、〈新しいいのち〉を生きて行く道があると宣言しておられるのです。

 

そのためには、単純・素朴に、イエスさまのお言葉を信じることが肝心です。イエスさまに自分の人生を完全に委ねるのです。

 

        **************

 

もしも、私たちに必要な努力があるとしたら、ふっと力を抜く決心をする。自力を手放すという努力です。自力を手放すのに、うまいも下手もありません。身を任せるということは、その人を信頼することに他なりません。

 

パウロは確信をもって語りました。彼は悔い改めた人。新しくされた人です。

 

【だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。】(第二コリント書 5:17)。end

 

 

 


2017年12月31日(日) 大晦日の礼拝にて スクリーン投写はジュニアサークルの「モーセ物語」
2017年12月31日(日) 大晦日の礼拝にて スクリーン投写はジュニアサークルの「モーセ物語」

          《  み言葉 余滴  》 135

      2017年12月31  主日礼拝からの"余滴" 

       『  愚か者をおわりまで貫く生き方  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 2章13節~15節
13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 

イエスの母マリアに比べて印象の薄い感のあるのが父ヨセフです。彼は大工さんでした。

 

マタイによる福音書13章55節に【この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。】とあります。

 

私は教会のさまざまな場で、大工さんと出会うとがありましたが、いつもどこかに親しみを覚えて来ました。おそらくヨセフだけではなく、イエスさまが父親の元で成長し、宣教の開始までの間、ナザレの地において、大工さんとして働いていたことが想像できるからかも知れません。

 

ヨセフの発した言葉は聖書には記録されていません。彼は無言を貫くのです。おそらくマタイは、そんなヨセフの姿を通して、メッセージを託しているのです。冗舌は程々に。主の言葉に黙って従ってご覧なさいという促しです。

 

                    **************

 

神さまからのメッセージがヨセフに伝えられるのはいつも夢の中でのことでした。しかも、主の天使が必ず登場します。

 

ヨセフの立場で考え、少し自由に思い巡らしてみるならば、彼は夢にみ使いが現れることを楽しみにしていったのではないだろうかと思います。

 

ヨセフはみ使いが去って行ったのち、「眠りから覚め」「起きる」のですが、マタイはそこで「甦り」「復活」と同じ言葉を敢えて使っています。

 

ヨセフはいつもムクッと起き上がるのです。そこにも福音が秘められています。ヨセフはみ使いの言葉を聴いて、眠りから起き上がるときに、いつも、新しい人として歩み続けていったのです。

 

                    **************

 

エジプトへのマリアと幼子イエスを連れての避難の旅路は、私たちの想像を遥かに超える困難なものだったはずです。移動の手段に車を使うことができる現代とは異なります。しかも、エジプトに出掛けたところで、彼らを守ってくれるという保証があったわけではありません。

 

しかし、ヨセフは黙って従いました。この並大抵ではないほど苦労の多い旅路は、イスラエルの民が40年間さまよった荒野の行軍=出エジプトの記憶に重なるものでした。

 

出エジプトの民はつぶやき嘆きましたが、ヨセフはあることを支えとして、それを忍耐・練達・希望に変えたのです。

 

                    **************

 

ヨセフが頼りにしたのは神さまの約束の言葉でしたが、明確な徴として与えられていたのは、幼子イエスの存在そのものでした。

 

彼らは、幼子をしっかりと胸に抱きしめ、その命と一つになっていったのです。結果的に彼らは、救いのみ言葉=キリストを抱きしめる旅を続けました。

 

み言葉は頼りないものに感じることが多いのです。

 

しかし私たちは、たとえ馬鹿だと言われても信頼し続けましょう。パウロが語ったように、【十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力】(第一コリント書1:18)なのですから。end 

 

 


2017年12月24日(日) クリスマスイブ賛美礼拝でのアドヴェントクランツの灯です。素敵です。
2017年12月24日(日) クリスマスイブ賛美礼拝でのアドヴェントクランツの灯です。素敵です。

          《  み言葉 余滴  》 134

      2017年12月24  主日礼拝からの"余滴" 

       『  無口な男を支えた永遠の言葉  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 1章22節~25節
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

正しい人ヨセフ。聖書はヨセフについてそう伝えます。

 

【正しい人】(マタイ 1:19)というのは、当時の社会では最大級のほめ言葉です。

 

『ケセン語訳聖書』の翻訳で知られる〈山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)先生〉による『ガリラヤのイェシュー』という「福音書」の翻訳ではこう紹介されています。

 

【おっととなるべきヨセフというお人はまことに侠気(おとこぎ)のある心やさしい男でござった】と。

 

少しヘソを曲げて考えるなら、融通がきかない人でもあるかも知れません。

 

でも、神さまはヨセフという人を通して私たちにメッセージを託すのです。

 

                    **************

 

まず、ヨセフはどんな時に神さまからのメッセージを伝えられたのかに注目します。それは深い眠りの中にいる時でした。

 

眠っていたというのは、人がもっとも無防備で、丸裸同然の状態だったことを意味します。

 

眠りの中にあったからでしょうか。ヨセフは言葉を発しません。でも夢にうなされるわけでもないのです。

 

いいえ、それでなくとも、まるで高倉健さんのように、無駄な言葉は口しない。彼は寡黙です。

 

      **************

 

再び、山浦先生の『ガリラヤのイェシュー』を見てみました。

 

イエスの母マリアがみ使いガブリエルに対して、【わたくしはまだ男の方と枕を交わしたこともござりませぬ。それなのに、なぜそのようなことになるのでござりまするか?】(ルカ福音書 1:34)と語ったりしたのと比べると対照的です。

 

                    **************

 

確かに、人間にはこういう潔さも必要なのだなぁ、と教えられているようにも思えます。

 

あれやこれやの場面で、不平や不満、言葉数が多すぎるのが私たちですから、なおのことです。

 

でも、ちょっと立ち止まってみましょう。我々にとって、ヨセフは立派な人だったのだ、ということを知ることがここで一番大事なことなのでしょうか。

 

理不尽なこと、納得できないこと、苦しみ悩みをもすべて受け入れ抱えながら生きて行く事を見倣うことが、本当に福音に生きることなのでしょうか。

 

                    **************

 

私たち、とりわけクリスチャンの人生。勇気とか、時には思い切ってジャンプする、ということだけで何かを成し遂げられるほど甘いものではありません。

 

どんなことがあっても変わらないものが必要なのです。

 

『ペトロの手紙 一』の1章の終わりにあるみ言葉を思い起こします。

 

【「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。】

 

み使いを通じて約束された【インマヌエル=神我らと共に】の一語。

 

それがヨセフの生涯を支え続けました。

 

永遠、それは変わらないものなのです。end

 

 

 


2017年12月17日(日) アドヴェント第3主日のクランツ 礼拝堂の空調の関係か蜜蝋のローソクがとてもよく燃えます。
2017年12月17日(日) アドヴェント第3主日のクランツ 礼拝堂の空調の関係か蜜蝋のローソクがとてもよく燃えます。

          《  み言葉 余滴  》 133

      2017年12月17  主日礼拝からの"余滴" 

           『  新生の老人  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章67節~80節
67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。・・・・・・76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。・・・・・・80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

ザカリア。

 

その名前の意味は、新約聖書の舞台であるユダヤ地方で使われていたヘブライ語で「主は覚えていたもう」という意味です。

 

ザカリアは老人でした。もちろん、妻のエリサベトも。

 

しかし、神さまは、祭司であるザカリア、そして、妻の祈りを覚えていて下さいました。「わたしたちに祝福を。どうか、子どもを与えたまえ」。

 

当人たちが、そう祈っていたことすら忘れてしまってもなお、神さまはみ心に留めておられたのです。

 

                    **************

 

彼らはついに我が子を腕に抱きます。

 

それが、後に、イエスさまの先駆者として荒れ野に立つ、〈洗礼者・ヨハネ〉でした。祭司の家庭に生まれてくる子どもなのです。本来ならば、〈祭司・ヨハネ〉としてエルサレム神殿で聖職に仕えるようになることが周囲の人々の期待でもありました。

 

しかし、ザカリアは、彼らに与えられた幼子が生まれ来る理由について、み使いガブリエルからこう伝えられていました。

 

【1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。・・・・・・16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。】(ルカ福音書1:14以下)と。そのように伝えられていたザカリアはどうしたのでしょう。

 

                    **************

 

福音書を記したルカは、ザカリアとエリサベトの話を閉じるにあたり、さり気なくこう記しています。

 

【80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。】と。

 

何でもないことのように置かれているこの一節ですが、私はたいへん興味深いものだと思います。なぜならば、ザカリアとエリサベト夫妻は、彼らが胸に抱いたヨハネを、神さまのご用のために実質手放しているからです。

 

ザカリアはアビヤ組と呼ばれる伝統あるグループの祭司です。

 

人間、欲があります。自分勝手なところがあります。我が子を胸に抱いたならば「やっぱり、祭司として跡を継いでほしいなぁ」と考えても不思議ではありません。

 

ところが、ザカリアとエリサベトは、息子がエルサレム神殿の〈祭司・ヨハネ〉となることは望まず、主のみ心のままに育つことを求めていったのです。

 

                    **************

 

神のみ子イエス・キリストのご降誕に備えるアドヴェントの期節を生きる途上で、私たちに神さまが求められていることは何であるか。

 

それは、新しい人として歩み出すことなのです。昔ながらの言葉で言うならば〈悔い改め〉です。しかし、〈悔い改め〉では言葉足らずだな、と思います。

 

生き方の方向転換。人生の目標や目的の転換と言えます。

 

ザカリアとエリサベトにかかわる最後の描写が【80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。】です。

 

二人はヨハネを神さまに捧げ、我が子が荒野に進み出で、そこに立つことをみ心と信じたのです。

 

新しい人として生き始めるお手本がここにあります。新生の老人がここにおります。さぁ、私たちはどうしましょう。end

 


2017年12月14日(木)に開催された、DVDコンサート「メサイア」のチラシです。作者のお人柄ゆえ、目立たないところにこっそり貼られていてご紹介が遅れました。
2017年12月14日(木)に開催された、DVDコンサート「メサイア」のチラシです。作者のお人柄ゆえ、目立たないところにこっそり貼られていてご紹介が遅れました。

          《  み言葉 余滴  》 132

      2017年12月10  主日礼拝からの"余滴" 

        『  太鼓になった人 マリア  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章46節~48節、51節~53節
46 そこで、マリアは言った。47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48 身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、・・・51 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

 

 

受胎告知の場面に続くのは「マリアの賛歌」です。

 

マリアは親戚のおばさん・エリサベトを訪問します。この時、既にエリサベトは老婦人です。洗礼者ヨハネの母となるために神さまが選ばれたおばあちゃんでした。

 

マリアの訪問。それは「ちょっと遊びに」というような滞在ではなく、【三ヶ月ほど】(ルカ1:56)の長期滞在です。

 

3ヶ月の間に、マリアはわが身に起こった不思議なことをエリサベトに聴いてもらいました。同時に、エリサベトの身に起こっている思いがけない出来事について確かに聴いたのです。

 

二人はその〈時〉を共有することによって、人知を越えた神のみ業が動き始めていることを実感。互いに安心し、感謝して励まし合うことができました。

 

                    **************

 

思いがけない妊娠をしたという点では、似た点のあるマリアとエリサベトですが、二人の生い立ちは全く違います。

 

マリアは無名の人です。出身地ナザレは旧約聖書に一度も出て来ません。エリサベトが【アロン家の娘のひとり】(ルカ1:5)と紹介されているのとは対照的です。

 

マリアがどんな生い立ちの娘であり、同じ村や周囲の人たちからどう評価されていたかについて、聖書はひと言も触れません。そこには意味があります。

 

救いのみ子を宿すその胎が、どこの誰だか分からない娘(=どこの「馬の骨とも知れぬ」ということ)に宿るという不思議。その事実を通して、キリストの福音の始まりを告げようとしているのです。

 

                    **************

 

マリアの賛歌には幾つものメッセージが込められています。

 

【身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったから】(ルカ1:48)という言葉からは、マリアが抱いている自画像が伝わってきます。

 

マリアは、自分が平凡で取るに足らない娘に過ぎないことを知っていましたし、この告白には、神の選びのみ業に対する深い喜びが秘められています。

 

                    **************

 

更に不思議なことがあります。まだ、10代だったであろう田舎の娘マリアが、当時の権力者をも恐れない歌を力強く歌うのです。

 

【主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・・】と。

 

新聞もラジオもない時代です。マリアが社会問題に特別な関心をもって育った娘なのかと言えばそんなことはあり得ません。でも、マリアは歌いました。

 

                      *************

 

マリアは自分の言いたいことを主張しているのではありません。彼女は神さまのお言葉を響き渡らせるための「太鼓」なのです。

 

神さまからの使命を託された器として、マリアは誠実に生き始めています。

 

【わたしの魂は主をあがめ】と歌い始めたマリア。

 

【あがめ】は拡声する為の道具、〈メガフォン〉と語源が同じです。私たちは、「太鼓」となったマリアの姿をただ眺めていてはなりません。

 

これは他人事(ひとごと)ではない。あなたも、神さまのみ心を響き渡らせる「太鼓」となることが求められ

ています。end

 

 


2017年12月3日(日)は待降節・アドヴェント第一主日でした。ロウソクに1本目の灯りがともされました(^^♪
2017年12月3日(日)は待降節・アドヴェント第一主日でした。ロウソクに1本目の灯りがともされました(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 131

      2017年12月3  主日礼拝からの"余滴" 

      『  神のみ業に乗った人 マリア  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 1章34節~38節 

34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37 神にできないことは何一つない。」38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

受胎告知の場面として知られる箇所です。世の多くの画家たちが何とかして描こうとした名場面と言えます。

 

この時のマリアはパニック起こす寸前だったかも知れません。神のみ使いガブリエルがマリアに伝えた内容は、あまりに突拍子もないものだったからです。

 

来たるべき晴れの日に、花嫁として大工のヨセフさんの元に嫁いでいく準備をしていたマリアにとって、み使いが運んで来たその話は、良き知らせどころか、スキャンダル以外のなにものでもありませんでした。

 

**************

 

天使ガブリエルが伝えた数多くの言葉、情報の中で、何としてでもマリアが応答、否、反論しておかなければならなかったことがあります。

 

それが、【どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。】という言葉にあらわれています。

 

これをわたし流に超(ちょう)・意訳するならば、「なんですってぇ。こっ、このわたしが、そんな話を受け入れられるわけないじゃないのよ。いったいあんたは何者。馬鹿も休み休みにしてちょうだい。いい加減にしてよ!」となります。

 

**************

 

そんなマリアに対して、天使ガブリエルは言いました。

 

【聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む】と。

 

マリアは間違いなく、そのひと言を耳にしました。そして受け入れてしまいます。

 

理解できたかといえば、理解できなかったと思います。マリアは納得したわけでもありません。それでもマリアは、神さまが備えられた道があることに気付き、自分自身の力は抜いて、神さまのご計画に身を委ねたのです。

 

【聖霊】はそのような決心を促す不思議な力を持っています。

 

                                                                 **************

 

 

藤木正三先生という牧師が『断想 神の風景』(ヨルダン社)という書の中で、「使命」というエッセイでこう語ります。

 

【使命というものは、自ら買って出て担うものではありません。・・・それは何かをするというよりは、担わされる受け身のことであり、避けてはならないとする誠実のことです。簡単にいえば、今あるさまを誠実に引き受けて逃げないことです。】と。

 

マリアはこの誠実さを生き抜こうとし始めたのです。

 

                                                                  **************

 

神さまは、聖霊の力をマリアだけに注いでいたのではありません。

 

聖霊は、マリアの親戚筋にあたる老婦人・エリサベトおばさんにも既に降り、洗礼者ヨハネとして生まれ来る命が宿っていました。マリアの知っているエリサベトは、もう、白髪もシワも隠せない年齢のおばあさんでした。

 

幼子イエスを通して明らかにされようとしている神さまの救いの出来事は、人の常識を越えた聖霊によって導かれます。

 

人の努力や計画、人生設計とは異なる力が世には存在するのです。乗るか降りるか。マリアは乗りました。end

 

 

 

 


2017年の旭東教会の聖霊降臨日・ペンテコステの飾り付けです(^^♪
2017年の旭東教会の聖霊降臨日・ペンテコステの飾り付けです(^^♪

          《  み言葉 余滴  》 130

      2017年11月19  主日礼拝からの"余滴" 

           『  聖霊 ゆたかに  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 2章1節~4節 

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

使徒言行録の著者である〈ルカ〉という人は、イエスさまの生涯を独自の視点で書き記した『ルカによる福音書』の冒頭の1章~2章でも、「聖霊」による救いの導きを徹底して描いています。

 

イエスさまの先駈けとなる洗礼者ヨハネは【母の胎にいるときから聖霊に満たされて】(ルカ1:15)います。

 

イエスの母となるマリアは【聖霊があなたに降り、・・・・・・あなたを包む】(ルカ1:35)とみ使いからお告げを受けます。

 

                    **************

 

マリアの挨拶を受けたエリサベトおばさんは【聖霊に満たされ】ます(ルカ1:41)。洗礼者ヨハネの父・祭司ザカリアはイエスさまの誕生直前に【聖霊に満たされ】預言したのです(ルカ1:67)。

 

幼子イエスを神殿で抱き上げることになる老シメオン。彼は【イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまって】(ルカ2:25)いたと紹介されます。

 

さらに、シメオンは、【メシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて】(ルカ2:26)いました。

 

                    **************

 

ルカによる福音書に続いて記された『使徒言行録』では、イエスさまが【使徒たちに聖霊を通して指図を与え】られたという序言があります(使徒1:1-2)。

 

そして、【あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる】(使徒1:5)とのイエスさまのお言葉が続きます。

 

その後、弟子たちに対して、イエスさまが昇天の直前に語りかけた言葉として【あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。・・・・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる】(使徒1:8)と記録されているのです。

 

                    **************

 

それらに続いて起きたのが、使徒言行録2章に記される「聖霊降臨」の出来事でした。私たちはそれを「ペンテコステ」と呼びます。

 

主イエス・キリストが復活されてから50日目に、イエスさまが約束された不思議な風が吹き降りてきました。神さまの息が風となって降ったのです。

 

                    **************

 

しかし、今度の聖霊の降り方は、その規模が違いました。弟子たちだけという限定はなく、その広がりが大きいのです。

 

なぜでしょう。何が「聖霊降臨」の目的なのでしょう。

 

それは〈教会を産み出すため〉でした。炎のような風を受け、燃える力を受け着火された人々は大胆に語り始めます。そして動きだす。聖霊によって新しくされた人々を用いて福音を宣べ伝えることこそが目的であり、世界の各地での教会づくりが、神さまのみ心なのです。

 

                    **************

 

聖霊は今も吹き続けています。私たちがその聖霊を見失うことがないようにするためにはどうしたらよいでしょうか。

 

答えは身近な所にあります。それは「賛美と祈り」です。「賛美と祈り」には、神さまとの密接な〈あうんの呼吸〉がいつもあります。「賛美と祈り」はキリスト者にとっての命綱なのです。

 

だからこそ、私たちは、教会のひと枝として、これからも、いつまでも、歌い、祈り続けるのです。end

 

 


2017年11月12日(日)こども祝福礼拝の中で、一歳の女の子への祝福のひとこま。
2017年11月12日(日)こども祝福礼拝の中で、一歳の女の子への祝福のひとこま。

          《  み言葉 余滴  》 129

      2017年11月12  主日礼拝からの"余滴" 

    『  イエスさまに見えているもの 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マルコによる福音書 2章1節~5節 

1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

 

4人の人と、一人の【中風】で苦しんでいる人、合計5人の熱心を切っ掛けとする〈信仰の物語〉が展開します。

 

「中風」は〈脳卒中発作の後で現われる半身不随のこと〉と言われます。詳細はわかりませんが、病気の性格上、中風の人は若者ではなかったのは確かだと思います。

 

ただし、この人は重い病気で苦しんではいましたが、孤独ではありませんでした。4人の人が担いでくれる担架に乗る彼には仲間が居たからです。

 

イエスさまの元へ、4人の仲間によって担架に乗せてもらい、運ばれることになった時から、彼の内側にはぬくもりがありました。彼らは教会のひな型です。

 

                    **************

 

すし詰め状態の家の入口は群衆に阻まれますが彼らは諦めません。一人ではないからです。

 

直後に彼らは屋上に上り、力を合わせて屋根を引っ剥がし、そこから担架を吊り降ろします。

 

当時の社会にも警察があったならば、直ちに通報されてもおかしくありません。

 

     **************

 

イエスさまはこの〈暴挙〉をどんな気持ちでご覧になったのでしょう。

 

玄関付近に近づいていた彼らが、家の内側の人々の壁に阻まれ、立ち往生していたことは当然ご存知だったでしょう。イエスさまには全てが見えるからです。

 

天上から〈みしみし〉と音がし、ホコリが舞い始め、人々が唖(あ)然(ぜん)とする中、担架が吊り降ろされ始めた時。

 

イエスさまは心の内で仰ったのではないでしょうか。「よくやったぞ。あとは私に任せなさい」と。

 

                    **************

 

どうやら、救い主であるイエスさまがご覧になるものは、私たちの常識や物事を判断する尺度と、まったく違うようです。

 

聖書にはイエスさまが【彼らの信仰】を見たとあります。

 

一人の信仰ではありません。イエスさまは5人の信仰をそこに見いだしてくださったのです。

 

しかも、イエスさまは、神さま以外には語り得ない言葉を口にされます。【子よ、いまあなたの罪は赦された】(塚本虎二訳)と。

 

一見すると〈いやし〉が中心主題に見える場面ですが、イエスさまが見て居られたのはその先にある問題でした。まさに、神の領域にあることに、イエスさまは真正面から向き合われるお方なのです。その宣言がここにあります。

 

                    **************

 

中風の人は起き上がり、仲間たちと共に直ぐに担架を担いで皆の前を出ていきます。

 

病人はいやされました。喜びと共に賛美をします。

 

しかし5人の人たちの頭の中では、一つの問いが、グルグルと回り始めていたはずです。

 

【子よ、いまあなたの罪は赦された】という宣言のお言葉は、果たして「何だったのだろう。どうしてだろう」と。

 

5人の存在。それは教会のひな型です。

 

だからこそこの宣言は、聖書を飛び出し、今を生きる我々が受けるべき、主の救いのお言葉なのだと気付きます。主イエスは、私たちのひたむきで一途な熱心さを待っておられるのです。end

 

 

 


2017年11月5日(日) 聖徒の日・召天者記念礼拝の日曜日の献花です。
2017年11月5日(日) 聖徒の日・召天者記念礼拝の日曜日の献花です。

          《  み言葉 余滴  》 128

      2017年11月5  主日礼拝からの"余滴" 

       『  常識破りの愛 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎ルカによる福音書 10章30節、33節~34節

 30 ・・・・・・ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。・・・・・・33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。・・・・・・37 イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

常識って何なのでしょう。

 

ある国語辞典では、まず【一般の人が持つべき知識や思慮分別】とあります。

 

驚かれるかも知れませんが、実はイエスさまという方は、【常識破りの教えをされ、行動を取るお方】なのです。そんなイエスさまの真似をしても大丈夫でしょうか。心配になります。

 

                    **************

 

月に一度、木曜日の祈祷会で、イエスさまによる〈譬え話〉を丁寧に学び始めてわかってきたことがあります。

 

イエスさまが〈譬え話〉の中でしばしば非常識なことを語られるお方なのだ、ということです。

 

「そんな馬鹿なことがあるものですか」「幾らなんでも、気前よすぎ」と感じるようなことを、特に、〈譬え話〉の中で語られるのです。

 

                    **************

 

ここでご紹介する「善きサマリア人(じん)」の〈譬え話〉も例外ではありません。

 

半殺しの目にあって倒れている人がいます。倒れている人の正体はわかりません。敢えて言えば〈どこの馬の骨〉かもわからないのです。

 

まず通り掛かるのは、律法をしっかりと学び、イエスさまの時代の良識人であり、常識を弁(わきま)えていたはずの【祭司】と【レビ人】です。

 

彼らは倒れている人を放ったまま通り過ぎていきます。 彼らはこの譬え話をイエスさまが話し始める切っ掛けとなる質問をした【律法の専門家】に近い人たちです。

 

                    **************

 

一方、そのあとに通り掛かった【サマリア人(じん)】が大胆な行動を取り始めます。

 

当時の社会では、そもそも、その存在自体が〈非常識なやつら〉と思われていた人です。でも【サマリア人(じん)】は道端に倒れていた瀕死の状態の人を見捨てたりしませんでした。

 

これ以上の手当はないだろうと思われることが連続しています。

 

【見て】【憐れに思い】【近寄って】【注ぎ】【包帯をし】【ろばに乗せ】【宿屋に連れて行って】【介抱した】とあるのです。

 

これこそ非常識とも言える行動です。

 

そんなことをしている間に、【サマリア人(じん)】も、追い剥ぎに命を狙われるかも知れませんし、〈穢(けが)れ〉を身に負う可能性だって十分あったのです。けれども、誰に何と言われようと、この人はそれでも構わなかった。

 

そうです。この【サマリア人(じん)】こそ、イエスさまのお姿に他なりません。

 

                    **************

 

救われた人は誰であるのか。

 

聖書には記されていません。なぜなら、身動きできなくなって死にそうだったこの人は、特定の誰かではなく、この譬え話にふれた〈あなた〉であり〈私〉だからです。

 

主イエス・キリストの十字架の愛によって私は救われたと確信し、信じている人は、自分を愛するようになります。そして、隣り人を愛する力を得ます。

 

「あなたは非常識だ」と言われようとも、誰に何と言われようとも、自信を持って、キリストに倣う生き方を始める人に変えられていくのです。end

 


2017年10月15日(日)の礼拝堂献花です。雅代さんありがとうございました。なんとも素朴に今週も美しい!あっ、講壇の位置が変わり、お花の撮影の角度も変わってます。
2017年10月15日(日)の礼拝堂献花です。雅代さんありがとうございました。なんとも素朴に今週も美しい!あっ、講壇の位置が変わり、お花の撮影の角度も変わってます。

          《  み言葉 余滴  》 125

      2017年10月15  主日礼拝からの"余滴" 

       『  ユダを忘れない 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 1章14節~16節 14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。

 

イスカリオテのユダ。

 

その名は一般の人たちにも知られています。国語辞典のひとつ『広辞苑』では、さいごに【裏切者。背教者の意味で使われる。】と説明される人です。

 

当然ユダは、イエスさまが約束された聖霊降臨を待つ人々の中には居ません。でも、私はユダのことがすごく気になります。イスカリオテのユダは、過去の人として終わってよいのだろうか、と。ご一緒に考えてみましょう。

 

                    **************

 

約束された聖霊の降臨を待つ11人の弟子たち。

 

彼らはこの先、エルサレムで教会の土台を築いて行くことになる大切なメンバーです。彼らはイエスの母マリアや婦人たち、イエスの兄弟たちと共に、熱心に一つになって祈っていました。

 

以前の私は、彼らの心の中には将来の希望が満ち溢れ、熱狂しているのだろうなと感じていました。でも、実情は違うのではないかと考え始めたのです。

 

     **************

 

ルカによる福音書の22章32節で、イエスさまから【シモン、シモン・・・・・・あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい】と言われていたペトロ。

 

彼は大勢の人々の前で立ち上がって説教し始めます。

 

その説教の内容は決して恵みあふれるメッセージではありません。むしろ、居合わせた人たちからすると思いがけない内容でした。イエスを裏切り、最期は自ら命を絶ってしまったユダをめぐっての説教だったからです。

 

                    **************

 

弟子たちのリーダーペトロ。

 

彼は聖霊の降臨を待つ祈りの中で、ユダの死を〈無駄死〉にしてしまってはならないことに気付いたのです。

 

イエスさまを敵対する者たちに売ってしまったユダが、自らの愚かさに気付いたのちに、仲間の11人のところへ帰って来る前に自ら命を絶ってしまったことに責任を感じていたのです。

 

取り返しのつかないことをしてしまった者を迎えてあげられない空気が、弟子たちの中にあったからです。

 

だからこそペトロは、イスカリオテのユダとはいったい何者であったのかについて『聖書』をひもとき求めました。

 

そしてわかったのです。ユダは己の罪深さを自覚し、本当は、悔い改めてやり直したかったのだということが。

 

                    **************

 

イエスさまの宣教の第一声は【悔い改めて福音を信じなさい】(マルコ福音書1章15節)でした。

 

11人の弟子たち、そして聖霊を待ち望む人々にも〈悔い改め〉が必要でした。彼らの〈悔い改め〉は、まだまだ不十分であったかも知れません。

 

でも、初めの一歩は誰でも大差ないのです。

 

私たちもイスカリオテのユダのことを忘れません。聖霊はどこに降り、キリスト教会はどのようにして誕生するのかを知っているからです。

 

〈悔い改めて福音を信じる〉ことの大切は、昔も今も変わっていないのです。end

 

 


2017年10月8日(日)の礼拝堂献花です。なんとも美しい。本格的な秋の始まりだなぁと感動です!
2017年10月8日(日)の礼拝堂献花です。なんとも美しい。本格的な秋の始まりだなぁと感動です!

          《  み言葉 余滴  》 124

      2017年10月8  主日礼拝からの"余滴" 

     『  神の秘儀によって 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎使徒言行録 1章6節~9節 6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

 

ゴルゴタの丘の十字架の上で無残な死を遂げられたイエスさま。人々は「これですべてがおわった」と思ったはずです。

 

逃げ出した11人の弟子たちも「万事休す」と覚悟したのではないでしょうか。

 

一方、イエスさまに敵対していた人々は「一安心」と考えたのだろうと思います。

 

     **************

 

ところが、思いがけないことが展開し始めます。

 

まず第一に起こったのはイエスさまの復活でした。主イエスは死を打ち破り甦られます。

 

しかも、復活の主は「先生、それだけは、やめておいた方がよろしいのでは」と忠告したくなるようなことを、弟子たちに命じられたのです。

 

                    **************

 

かつては、腰巾着のようにイエスさまに張りついて過ごしていた弟子たち。「オレたちには、イエスさまという凄い親分が居られるんだぜ」というような顔をしていた弟子たち。

 

何とイエスさまは、弟子たちもびっくりの大胆なことを命じられたのです。イスカリオテのユダ亡き後の11人を〈使徒〉と認め、重要な使命のために遣わすというものです。

 

この世の言葉で言えば驚くべき大胆な〈人事案〉です。だって、彼らは裏切り者です。信用して大丈夫なのでしょうか。大事なことを託せる人たちでしょうか。

 

                    **************

 

使徒言行録1章8節には、今日に至るまでのキリスト教の歴史を決定づけるイエスさまの重要なお言葉があります。

 

それが【あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」でした。

 

イエスさまがこのお言葉を弟子たちに向けてハッキリと語られなかったら、日本はおろか、米国にも英国にもキリスト教会は生まれなかったのです。

 

大切なつとめを任ぜられた11人の弟子たち。一人前の〈使徒〉になったわけでもないのです。それなのに、イエスさまは彼らを用いられました。

 

                    **************

 

 

果たして、彼らに信仰があったのでしょうか。伝道者として用いられるに値する器だと言えるのでしょうか。

 

私は思います。弟子たちには、彼らがまだ自覚していない信仰の〈かけら〉があったのだと。彼らの信仰は、まだ〈断片〉に過ぎないほどのものだったはずです。

 

でも、イエスさまは、彼らの魂の奥深くに在る信仰の〈かけら〉に気付かせようとされた。ここには、神さまが聖霊降臨を通じてなさろうとしている〈神の秘儀〉があります。

 

思い巡らして見ましょう。『使徒言行録』の始まりにある希望の〈かけら〉は、私たちの生きる力だということを。未熟で不完全な〈使徒〉たちの新しい旅が始まろうとしています。end

 

 


2017年10月1日(日)は世界聖餐日でした。備前焼の作家である明美さんの作品にパンが置かれています。
2017年10月1日(日)は世界聖餐日でした。備前焼の作家である明美さんの作品にパンが置かれています。

          《  み言葉 余滴  》 123

      2017年10月1  主日礼拝からの"余滴" 

     『  愛されているのだから 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 22章1節~3節 1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

 

世の中、耳を疑うような知らせを受けることがあります。多くの場合は悪い知らせが届いた時に言うものであって、「娘が目標にしていた会社の内定を受け、耳を疑いました」というような使い方は稀です。

 

だいたいは、非常に大きな驚きを伴うものですし、その知らせが自分自身に関係することであるとしたら・・・・・・心穏やかではありません。

 

聞き違いではないかと思ったり、聞き違いであって欲しい、ということが多いものです。

 

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創世記12章から始まった「アブラハム物語」の終盤の頂点と言えるのが22章のこの箇所です。アブラハムが110歳位の頃と思われます。

 

75歳の時、神さまから召し出された時に聴いた【あなたは生まれ故郷父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい】(創世記12:1)というお言葉にも、彼は驚いたかも知れませんが、さらに驚くべきお言葉を耳にするのです。

 

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行け」というだけなら何でもありません。

 

神さまは「わたしが命じる山の一つに登り、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげよ」と言われたのです。

 

【神はアブラハムを試され】たのです。いいえ、神さまはアブラハムだけを試されるのではありません。ここに居る私たちも、時に神さまからの信仰のチャレンジ=試練を受けることがあります。思い巡らしてみましょう。

 

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アブラハムはどうしたのかが気になります。のちの時代に「信仰の父」「全ての人の父」と呼ばれるようになるアブラハムです。

 

新約聖書のヤコブの手紙の2章21節以下に、アブラハムの信仰がこう表現されます。

 

【21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された・・・】

 

アブラハムは、もっとも大切な跡取り息子のイサクを自らの手から手放すのです。イサクは全世界の祝福の基として子孫を増やしていくべき存在です。

 

その独り子を、「行って、こうしなさい」と命じられた山の上で、アブラハムが覚悟を決めて屠ろうとしたその時に、身代わりの雄羊が姿を現しました。

 

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神さまからのチャレンジを受けたアブラハム。

 

彼は黙して従いました。アブラハムは昔のアブラハムではありません。そのことを神さまは〈よし〉とされました。それは「義(よし)」であり、「善(よ)し」でもあり、さらには「吉(よし)」でした。そして「very good(よし)」だったのです。

 

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口数ばかり多い自分に気が付くことがあります。つぶやきも、ため息も多い私たちです。

 

だからこそ、アブラハムの姿勢から学び直しましょう。

 

神さまの呼びかけに対して「はい、ここにおります」と逃げないで応えたい。

 

神さまはご計画をお持ちです。あなたを必要として居られるのです。end

 

 


2017年9月24日(日)の献花 備前焼きの花器に、白色、ほのかなピンク色が美しいです。雅代さんのご奉仕に感謝。
2017年9月24日(日)の献花 備前焼きの花器に、白色、ほのかなピンク色が美しいです。雅代さんのご奉仕に感謝。

          《  み言葉 余滴  》 122

       2017年9月24  主日礼拝からの"余滴" 

     『  分かってない〈わたし〉を 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 18章23節~27節 

23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。・・・・・26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 

借りたものは返す。それが世の常識です。親からも、学校の先生からも、当たり前のこととして教えられました。

 

ところが、聖書の教えは何だか変です。【一万タラントン】という大変な額の借金が免除される、というのです。この額、他の聖書では「1兆円」(本多哲郎神父訳・新世社)と訳すものもあるほどです。

 

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イエスさまが語られたこの譬え話。私たちが読む新共同訳の小見出しは「仲間をゆるさない家来のたとえ」となっています。

 

でも、フランシスコ会訳聖書では、たったひと言「赦し」という小見出しなのです。私はこの小見出しの方が適切だと思います。

 

何しろ、この譬え話が語られ始めるきっかけは、筆頭の弟子であるペトロがイエスさまのところにやって来て【主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか】と先ず尋ねるところからでした。

 

つまり、ここでの本題は〈赦し〉の問題なのです。

 

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ここで【借金】と約されている言葉。訳し方によって印象が随分変わります。

 

マタイによる福音書で【借金】と訳されたのと同じ言葉が最初に出てくるのは、イエスさまが「主の祈り」を教えて下さった場面です。

 

6章12節に【わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように】とあります。

 

【借金】は【負い目】と訳されています。

 

更に同じ言葉が、かつて慣れ親しんだ口語訳聖書では【わたしたちの負債をおゆるしください】となっています。

 

極めつけは塚本虎二先生の訳語です。【罪をゆるしてください】となっています。実に興味深いことです。

 

     **************

 

最も重大な問題。

 

それは〈主君〉の姿で登場している〈神〉による「罪の赦し」です。計り知れないほど膨大な「罪」を背負っていた人が〈無償=ただ〉で赦されている。

 

天の国では、そのような思いがけない事態が生じるのです。

 

                    **************

 

私は思います。

 

借金を免除されたこの人は、〈自分のことが分かってい口から出任せを言うそぶりなど、これっぽっちもありません。ない人〉だったということを。

 

しかもこの人は、罪の大きさが1兆円という膨大な借金で表現されているのに、待ってくれるなら、【全部お返しします】と語っています。口から出任せを言うそぶりなど、これっぽっちもありません。

 

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不思議なことに神さまは分かっていない罪人を憐れまれます。

 

それにとどまらず、罪を帳消しにすると教えて下さるのです。世にも不思議なこの赦しの愛は、キリストの十字架と復活を抜きにしては理解できません。

 

今、私たちの生き方が問われています。み恵みを受けた人として、長い眠りからそろそろ目覚めるようにと。

 

だから、『わかってない〈わたし〉』も、赦しと復活の命を生き始めるのです。end

 


2017年9月18日(月・休日)親しい交わりがあり、森牧師が礼拝応援に定期的に伺う十文字平和教会での野外バーベキュー開始の挨拶場面。
2017年9月18日(月・休日)親しい交わりがあり、森牧師が礼拝応援に定期的に伺う十文字平和教会での野外バーベキュー開始の挨拶場面。

          《  み言葉 余滴  》 121

       2017年9月17  主日礼拝からの"余滴" 

       『  罪人の烙印 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 18章15節~17節

15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 

30年近く前、私が神学校で卒論のテーマに選んだのは「パウロの教会論 ―キリストの体―」をめぐるものでした。

 

当時の私にとって〈教会〉の存在は、〈み言葉〉そのものよりも大きな意味があるもので、教会の現場に出る前に、一度はじっくり考えてみたい。そう思っていました。

 

マタイによる福音書を書いたマタイという人は、〈教会〉について深く考えていた人のようです。実は、新約聖書の中に4つある福音書の中で、〈教会〉という言葉を明確に書き記しているのはマタイだけなのです。

 

                    **************

 

イエスさまがここで語られた、【17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】というお言葉。

 

かなり長い間、私にとって躓き(つまずき)となるみ言葉でした。

 

心からの忠告を受けたにもかかわらず、その言葉を受け容れようとしない人に対してのイエスさまの態度。

 

ずいぶん冷たいじゃないか。そんな風に感じていたのです。何度読んでも、最後通告のようにしか聴き取れません。説教するときには深入りせず、見て見ぬ振りをして通り過ぎる箇所でした。

 

                    **************

 

使徒パウロが〈教会〉とはどういうところなのかを語っている手紙のひとつ『エフェソの信徒への手紙』があります。

 

4章では「キリストの体」である〈教会〉がどのように立ち上げられて行くべきかが記されます。

 

私の特愛の箇所である4章15節にこうあります。【むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。】と。

 

自分もこのみ言葉のように生きる者になりたい。そう願い、微力ながら努力もしてきたました。けれどもムツカシイのです。

 

でも、ただ一人のお方、主イエス・キリストこそが「愛に根ざして真理を語る」ことが出来るお方なのだと気付いた時に、私は少し安心しました。

 

                    **************

 

福音書記者マタイが紹介するイエスさまのお言葉。【それでも聞き入れなければ、・・・・・・その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】。

 

このお言葉。言う事を聞かない者は罪人と定めなさい、という内容です。果たしてこのお言葉のどこに福音があるのでしょうか。

 

       **************

 

ハッとしたのは正にこの箇所です。

 

間違いなくここには、イエスさまの「愛に根ざして真理を語る」お姿があります。

 

なぜそう言えるのか。救いを必要とするのは《罪人》以外にないからです。イエスさまは「私は罪人の頭です」と認めることが出来ない私たちのために罪人の烙印を押して下さるのです。

 

ここには、思いも寄らぬ逆説の愛、罪人であることを喜べる〈教会〉の不思議があります。神がみ子イエス・キリストを世に遣わされたのは、み子によって私たちが救われるためだからです。end

 

 


2017年9月10日(日)は恵老祝福礼拝でした。礼拝後、80歳以上の方々で礼拝に出席された皆さんと記念撮影です。
2017年9月10日(日)は恵老祝福礼拝でした。礼拝後、80歳以上の方々で礼拝に出席された皆さんと記念撮影です。

          《  み言葉 余滴  》 120

       2017年9月10  主日礼拝からの"余滴" 

     『  彼女は井戸を見つけた 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 21章17節~19節 17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。

 

ハガル。彼女は族長アブラハムの側女(そばめ)でした。

 

ハガルという名前の語源には「捨てる、退く、移住する」という意味があります。彼女の人生に不思議と重なってくる名前なのです。

 

もともとハガルは、エジプト出身の女で、アブラハムの妻サラに仕える女奴隷でした。子どもが与えられなかった女主人サラの命令で、アブラハムの二番目の妻になった人です。

 

程なく、サラの希望通りハガルは子を宿しました。

 

                    **************

 

女主人サラは、ハガルが夫アブラハムの子を宿すと同時にハガルに辛くあたり始めます。

 

いじめでした。耐えきれなくなったハガルは、お腹の中の子どもと共に死を覚悟し、荒野に逃げ出したのです。

 

ところが、故郷のエジプトに向かう街道沿いの泉に身を置いていたハガルは、「女主人の元へ帰り仕えなさい」という主のみ使いの声を聴くのです。

 

ハガルはその声に従い子どもを産みます。その子がイシュマエルでした。

 

      **************

 

時が流れました。

 

石女(うまずめ)だったアブラハムとサラの間に「イサク」が生まれます。

 

しかし、イサクの誕生によって、女奴隷ハガルとイシュマエルは、サラにとって再び邪魔な存在となりました。

 

居場所を失った結果、ハガルとイシュマエルは、荒れ野をさまよいます。程なく革袋の水も尽きたハガルは、死に瀕した息子を木の木陰に休ませました。

 

自らの死も覚悟していたハガルでしたが、それ以上に、我が子が目の前で死んでいくのを見ることができません。彼女は息子を置いて逃げ出します。

 

                    **************

 

不思議なことがここでも起こります。

 

人生の行き詰まりは神さまの出番です。神さまは再びみ使いを通して、荒れ野で涙を流していたハガルに対して語るのです。「立ち上がれ、そして、あの子を腕に抱きなさい」と。

 

み声を聴いたハガルに変化が起こります。目が開かれたのです。

 

そして、その目に見出したのが〈井戸〉でした。ハガルは立ち上がり、行って革袋に水を満たし、息子に飲ませたのです。二人は救われました。

 

                    **************

 

息子を潅木(かんぼく)の元に置き去りにした時点で、ハガルは逃げ出した人でした。ところが、神さまはそれをゆるさず連れ戻されました。

 

神さまはハガルに対して、「あそこに井戸がある」とは言われません。

 

語りかけ、目を開いて下さっただけです。

 

生けるいのちの水が湧きでる井戸がすぐそこにあるのを見つけたのは、ハガルが神の声を聴き、従ったからです。

 

      **************

 

私たちも生ける水の湧き出る井戸を見いだす旅を始めましょう。

 

たとえ苦難の中、絶望のただ中であっても、み声に聴き従う。それこそが信仰です。end

 

 


2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。
2017年9月1日(金)の夜 教会の呼び鈴の向こうに徹さん。奥さまとご一緒に来会。徹さん、久しぶりに礼拝堂のオルガンに座り、いい音だなぁ、と慈しみ深き、きよしこのよる、を弾かれました。いい夜でした。

          《  み言葉 余滴  》 119

       2017年9月3  主日礼拝からの"余滴" 

     『  毒麦も大切な理由(わけ) 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 13章28節~30節 
28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 

 

芸能界には〈毒舌タレント〉と呼ばれる方たちがいます。最近ではマツコ・デラックスさん、松本人志さんなどがそうかも知れません。

 

番組を見ている人たちが、「いやぁねぇ」「まったく」等と思いながらも、彼らの〈毒舌〉は“視聴者が言いたいことをズバリ言ってくれる”から人気なのです。

 

でも、少なくともわたしは、彼らの言葉に隠された愛を感じます。

 

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イエスさまはここで「毒麦」の譬えを語られます。

 

譬え話とはいえ〈毒〉が出てくるなんて穏やかではありません。「毒水」「毒米」だったら少しは緊張するかも知れません。

 

イエスさまのお言葉それ自体に〈毒〉はなく、むしろ〈毒〉に触れつつ、おわりまでの愛を語ろうとされるのです。

 

聖書の中で「毒麦」はサタン=悪魔の働きによるもの。反対に「良い麦」はイエスさまが蒔かれた種から育ったものとして読むべきものです。

 

                    **************

 

実は、わたしたちキリスト者も、時に〈毒〉のある言葉を語ることがあります。

 

神を賛美するその口から〈毒〉を発する。それが人間です。

 

イエスさまによる「毒麦」の譬え話とは、そのような〈この世〉の実情が前提になって語られる〈天の国〉の譬え話であることを心にとめましょう。

 

肉の思いに満ちた〈この世〉と、イエスさまが指し示したいと願っておられる〈天の国〉とは違うのです。

 

ですから、ここで示される譬えの真理というものは、世間一般に通用する倫理的な教えではありません。

 

                    **************

 

わたしたちは「善は急げ」という言葉を知っています。

 

「よいことをするのに躊躇するな、機会を逃さず直ちに実行すべし」ということです。いかがでしょう。

 

「善は急げ」に反対する方は稀ではないでしょうか。

 

譬え話の中の僕(しもべ)たちも「善は急げ」と考え、直ぐに行動に移そうとします。

 

【行って毒麦を抜き集めておきましょうか】と。しかし主人は言うのです。【(良い麦も毒麦も)両方とも育つままにしておきなさい】と。

 

                    **************

 

人が生きて行く途上で起こる〈人生=畑〉での難題、課題というもの。

 

その根の深さに驚くことがあります。実に複雑に絡み合っています。表面的なことだけを片付けても、根本的な解決策にならないことばかりです。

 

イエスさまの示された仕方は、〈毒〉のあるものだけを直ちに抜き取るような方法ではありませんでした。

 

なぜなら、わたしたちが育てようとしている何かは、根っこの部分で良い部分と悪い部分が絡みついているからです。

 

       **************

 

ここでの良い麦・悪い麦と同じように、我々の信仰も本物と偽物が表裏一体になっていことを認めざるをえません。

 

だからこそイエスさまは仰います。

 

「あなたが慌てて解決しようとするのではなく、信じる者として、わたしにさいごまで任せよ」と。

 

謙遜と柔和、悔い改めの心をもって、その時に備える生き方を始めましょう。明日からでありません。

 

今、直ぐにです。end

 

 


2017年8月20日(日)の献花 雅代姉が祈りつつ 夏から秋への季節の変化を届けてくれています。虫の音が聞こえて来ませんか?
2017年8月20日(日)の献花 雅代姉が祈りつつ 夏から秋への季節の変化を届けてくれています。虫の音が聞こえて来ませんか?

          《  み言葉 余滴  》 117

       2017年8月20  主日礼拝からの"余滴" 

   『 〈コンパッシヨン〉そして〈ミッション〉 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 9章35節~38節 35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

ここで特に心をとめたいのは「憐れまれた」と記されているイエスさまの〈心情〉です。

 

〈心情〉は『新明解国語辞典』(第七版)によればこう解説されます。

 

「人が何か出来事にあった時に起こる喜怒哀楽の情が、まだ言葉になって表出されていないもの。特に、抑えきれない悲しみや苦しみなど。ある人の心中の葛藤に対し、他の人が同情・共感・理解する場面で使われることが多い。」

 

と。

 

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上と同じマタイによる福音書9章36節を、原文に忠実に訳すことよりも、読みやすさ理解のしやすさを大切にする『リビングバイブル』は次のように訳します。

 

わたしは名訳だと思っています。

 

「・・・ご自分のところにやって来る群衆をごらんになって、イエスの心は深く痛みました。彼らは、抱えている問題が非常に大きいのに、どうしたらよいか、どこへ助けを求めたら良いかわからないのです。ちょうど、羊飼いのいない羊のようでした。」

 

                    **************

 

ルカによる福音書6章36節に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。

 

イエスさまは、わたしたちにご自身の心を自分の心として生きる生き方を願われます。

 

福音書記者マタイもルカと同様、それに気が付いていました。

 

だから12人の弟子たちをお立てになり、苦悩も経験するであろう宣教の旅の始まりの前に、どうしても、イエスさまの〈心情〉を伝えたかったのです。

 

                    **************

 

わたしたち「皆さんの声をお聴かせ下さい」と案内を聞くことがあります。最近では、テレビやラジオの生番組の中で、「ツイッターでの投稿お願いします」とか、「テレビのリモコン操作であなたのお声が届きます」という場合すらあります。今、即時に声を聞きたいというのです。

 

わたしも、牧師として仕える日々の中で、〈声を聴かせてほしい〉と思うことがあります。感じていることを、魂の叫びを聴かせてほしいと感じることがあります。

 

しかし、そう簡単には人の思いを聴き受けることは出来ません。

 

       **************

 

人間というもの。抱えている〈心情〉を直ちに表現することが出来ないことの方が多いものです。

 

イエスさまは、言葉に出来ない切なる祈りを抱えている人の心を、その人の存在を、まるごと受けとめることが出来るお方でした。

 

そのことが、「憐れまれた」という言葉によって表現されています。

 

                    **************

 

ペルーの民衆と共に聖書を読み、人々の救いのために生涯を賭けたグスダボ・グティエレスという神父さまが居られます。

 

グティエレス神父さまは「憐れみ」を「コンパシオン」(ペルー語)と表現しました。

 

「コンパシオンはただ気の毒に思うことではない。…それは、わかちあうこと、他者の苦しみと切望を、自分の苦しみと切望にすること。共に苦しむことは、ひとつになって生きることである」(『み国のわかちあい』より・一部もりが意訳)。

 

共に黙想してみましょう、わたしたちが生涯を賭けられるミッション(宣教・伝道・使命)について。end

 

 


2017年8月13日(日)主日礼拝にて 神戸からの里帰りのご家族と最年少のぼく スクリーンに写し出される出エジプトの紅海の奇跡の紙芝居に身を乗り出した
2017年8月13日(日)主日礼拝にて 神戸からの里帰りのご家族と最年少のぼく スクリーンに写し出される出エジプトの紅海の奇跡の紙芝居に身を乗り出した

          《  み言葉 余滴  》 116

       2017年8月13  主日礼拝からの"余滴" 

    『  信仰のないわたしを ロトの場合 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎創世記 19章16節~18節

16 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。17 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」18 ロトは言った。「主よ、できません。・・・・・・

 

愛読書のひとつに『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(千代崎秀雄)があります。

 

「アブラハム」「メルキゼデク」「サラ」「ハガル」の次に、創世記19章でスポットライトがあたる「ロト」が登場します。一部をご紹介します。

 

【ロトはソドムの町の豊かさに魅かれて、罪深い町と知りつつ、あえてその近くに天幕を張り、・・・その後もソドムに住み続けて、19章の出来事の頃には町の門に座るほどの有力者になっていた。】

**************

 

当時のロトは、もはや若者ではありません。

 

ソドムの滅亡後、二人の娘と山の中に暮らしていた頃には、長女が「父も年老いてきました・・・」というような言葉を口にするような年代に入っているのです。

 

よそ者ではあったけれども、様々な努力を続け、おそらくソドムの長老格として認められるような立場になって町の門に座っていたロト。果たして、神さまを信じる人としての、信仰の深まり具合はどうだったのでしょうか。

 

**************

 

旅人の姿をした二人のみ使いがやって来てロトに告げたのは、神さまによる裁きがソドムに襲いかかる、という恐ろしい内容でした。

 

しかし、知らせを受けた直後にとったロトの態度はチグハグでした。

 

娘の婿たちに対しては「さあ早くここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされる」と促します。

 

しかし、主からロトに対して語られた「命がけで逃れよ」「後ろを振り返るな」「山へ逃げよ」というお言葉に対しては、「主よ、できません」と言ってしまうのです。

 

そもそもロトは「ためらって」いました。

 

この場面で露わになっていることがあります。それは信じきれていないロトの姿です。肝心なときに、主のお言葉どおりに従えない人間の弱さです。

 

**************

 

あー、ロトは何と愚かしく情けない人間なのか。これ程まで神さまがあなたを心に留めて下さっているのに。

 

少なくとも我々は、ロトのような人にだけはならないようにしましょう、という教訓が創世記19章の主題でしょうか。

 

私は違うと思います。

 

ロトは私自身であり、あなたではないか。胸に手を当てて、目を閉じて沈黙し、考えてご覧なさい。そう言われているのです。

 

*************

 

実は、ロトの不信仰以上に浮き彫りになっていることがあります。

 

それは、〈ためらい〉〈できません〉と言ってしまうロトを、深い憐れみをもって導き出そうとしておられる、微動だにしない主の愛に他なりません。

 

堅い信仰を持つ自分を誇ることよりもたいせつなことがあります。

 

それは、「できません。どうかこのような私を、憐れみ=愛をもってお支え下さい」と認めることです。この告白が出来るとほんとうに楽になります。

 

「主よ憐れみたまえ」と祈る時にこそ、主が弱く愚かな私と共に居られ、祈り支えて下さっていることに気付かされる恵みの時となるはずです。end

 

 


2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで
2017年8月6日(日)午後3時からの十文字平和教会の礼拝応援に向かったおり、教会から1キロ程の田んぼで

          《  み言葉 余滴  》 115

       2017年8月6  主日礼拝からの"余滴" 

    『  立ち上がって従った人 マタイ 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 

◎マタイによる福音書 9章1節~2節、13節後半
9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。13・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 

人間、複雑な存在だなぁと思うことがあります。いろいろとややこしいのです。

 

好きなのに嫌い、嫌いなのに好き、ということだってあります。最近、「面従腹背」という言葉を語った、元・高級官僚も居られました。

 

その一方で、誰しも不思議なほど単純な心をもっているのも事実です。あれやこれや気を遣っていたのが馬鹿みたいだった、ということが起こります。

 

ここに登場する、徴税人マタイをとらえたイエスさまのお言葉。それはたった一言【わたしに従いなさい】というものでした。彼の人生を変えます。

 

                    **************

 

世の中に溢れているものがります。新聞にも様々な〈声〉があります。テレビやラジオからも様々な〈声〉が聞こえて来ます。今ではインターネットの時代になって、興味あることを調べようとすると、それはそれは驚くほど便利な〈情報〉が簡単に得られます。

 

しかし、わたしたちに必要なのは〈情報〉ではありません。真実な人生を生きていくために、クリスチャンが大切にすべきは、ただひと言の、神のみ子イエス・キリストの〈お言葉〉なのだと示されています。

 

                    **************

 

マタイによる福音書の著者マタイは、ここで、立ち上がってイエスさまに従った人ではないか、と言われることがあります。そうかも知れません。もしも違っていたとしても、それでも構いません。

 

わたしたちは、今、これからを、果たして誰の〈言葉〉に従って生きて行こうとしているのかが〈み言葉〉から問われます。

 

     **************

 

徴税人マタイは、イエスさまのことについて多少の〈情報〉はもっていたかも知れません。けれども、知り尽くしていたわけでも何でもないのです。

 

しかし、マタイはこの呼びかけの〈お言葉〉が真実なものだ、と直感しました。

 

そして程なく、マタイは、イエスさまがどんなお気持ちで自分に声掛けして下さったかを知ります。【わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである】と語られるイエスさまの〈お言葉〉を聴いた時、彼の心は熱くなったはずです。人知れず涙したかも知れません。

 

「イエスさま、あなたの仰る通り、わたしは罪深いものです」とこれまた正直に認めることが出来たのです。

 

                    **************

 

罪の問題はわたしたちの人生のもっとも解決のむつかしい課題です。

 

しかし、聖書はわたしたちに告げています。イエスさまは、あなたの人生のいっさいを新しくして下さるお方なのですよ、全てを委ねて、決して後悔することなどないお方ですよ、と。

 

ここに福音があります。

 

もう、これ以上迷ったり、他のどこかに捜し求める必要もありません。ただ〈ひと言〉を語って下さるお方が、このわたしのために呼びかけて下さっている、と信じて立ち上がりましょう。そして、従うのです。

 

わたしたちは、決して後悔することのない人生を歩み通せます。end
 


2017年7月23日(日)のファミリー礼拝でのひとこま 5つのパンをイエスさまが祝して割いて という場面を紙芝居と共に実演
2017年7月23日(日)のファミリー礼拝でのひとこま 5つのパンをイエスさまが祝して割いて という場面を紙芝居と共に実演

          《  み言葉 余滴  》 113

       2017年7月23  主日礼拝からの"余滴" 

        『  尽きぬパンの出どころ 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)


 ◎ヨハネによる福音書 6章8節~11節a
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。

 

旭東教会の近くにあるスーパーのレジ近くに〈アンパンマン〉関連のドリンクの自動販売機があります。近くを通ると何やら歌が始まったり、お誘いの声が聞こえますのでいつも気になります。

 

〈アンパンマン〉の作者〈やなせたかしさん〉は相当骨のあるクリスチャンでした。やなせさんが69歳の時、1988年からTVのアニメで大人気になった〈アンパンマン〉ですが、実はそのモデルはイエス・キリストなのです。

 

〈バイキンマン〉を「あんパーンチ」と言いながらやっつける場面等が知られています。

 

も、原作では、〈アンパンマン〉は悲しんでいる人、苦しんでいる人、涙している人を見つけると、自分の顔をちぎって差し出すのです。

 

「さぁ、僕の顔をお食べ、元気出して」と。

 

**************

 

男の数だけでも5000人という給食の奇跡の場面として知られるお話。

 

イエスさまの元に人々が押し寄せる切っ掛けとなったのは、【大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである】(ヨハネ福音書6:2)と記録されています。

 

イエスさまの元に集まって来たのは、いつも満腹するまで食べることが出来たり、健康で心配事もない、という人たちではありません。

 

悩みに押し潰され、食べることにも事欠いている状況の人たちが押し寄せて来たのです。

 

**************

 

多くの人々に笑顔が広がり、お腹も心も満腹し、安心して家路に就く切っ掛けをつくったのは何によってだったのか。それは数にも入らない、一人の〈ちいさな少年〉が差し出した「5つのパンと2匹の魚」でした。

 

5000人を遥かに越える人々が、苛立ちや不安を抱えていました。お腹を空かしているときにイエスさまの前に届けられたものは、「たったこれぽっちのパンと魚で、一体、何の足しになるの!」と考えるのが世の常識です。

 

ところがイエスさまは、少年からのパンを祝福して祈り、ちぎって分け始めたときに、神のみ業が起こりました。配

 

られたパンによって、みんなが満腹したのです。人々はこの出来事を生涯忘れることがなかったはずです。

 

**************

 

イエスは永遠に渇くことのない〈水〉を求める者に私の元に来なさいと言われます。(ヨハネ福音書4章 サマリアの女の物語)

 

また、朽ちることのない永遠の命に至る〈パン〉を求める者に、「私が命のパン。私の元に来る者は決して飢えず、私を信じる者は決して渇かない」(ヨハネ福音書6:26~27)ことを教えようとされました。

 

**************

 

なぜ、命のパンは分けてもわけても尽きないのか。

 

なぜ、イエスさまがちぎり分けて下さったパンによって、人は、心も体も満たされるのでしょう。

 

実に、イエスさまはここで、ご自身の命を、生きていくための命の言葉を、すべての人に分けてあげようとされたのです。私から受けよと言われている。

 

神のみ子のみ体は十字架の上で、切り刻まれることになります。

 

さあ、共に生きよう。

主は飢えた者に

その身をパンとして

与えてくださる。

アーメン

『讃美歌21-419 4節より』

 

ともに歌い、祈りましょう。end

 

 

 


2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。
2017年7月9日(日)午後5時過ぎ、7月23日(日)のファミリー礼拝で上演予定の紙芝居『5つのパンと2ひきのさかな』のお稽古でスクリーンに映し出された一場面。

          《  み言葉 余滴  》 111

       2017年7月9  主日礼拝からの"余滴" 

        『  丸太はどこへ行ったのか  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ルカによる福音書 6章41節~42節前半
41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

 

私が二歳の頃から小学校6年生の頃まで「わが家」として暮らしていた家は、〈梁・はり〉がむき出しの〈納屋〉を改造したものでした。

 

『新明解国語辞典』で〈梁・はり〉という語を調べてみました。「

 

屋根をささえるために横に渡した、太くて長い材木」とあります。まさに剥き出しの〈梁〉が、わたしの育った家の一階にも二階にもあった記憶は鮮明です。

 

                    **************

 

このみ言葉が語られている箇所を注意深く読んでみると、このお話はイエスさまに依る〈譬え話〉として語られています。

 

そもそも、人の目の中にある「おが屑」を見つけることすら普通はできません。それなのに、イエスさまはここで、深く、切実な祈りのこころをもって、【まず自分の目から丸太を取り除け】とおっしゃるのです。

 

我が子や教え子が〈可愛くて、かわいくて、たまらないさま、溺愛するさま〉を言う時に、「目に入れても痛くない」と言うことを思い出します。

 

                    **************

 

自分の目の中にある〈丸太〉とは何なのだろうかと、私たちは考える必要があります。

 

他の聖書の多くで、〈丸太〉は〈梁・はり〉と訳されています。日本の昔ながらの家には〈大黒柱〉と呼ばれる特別な柱がありましたが、〈大黒柱〉は象徴的な意味合いをもたせている柱に過ぎません。

 

それに比べると、〈丸太〉や〈梁・はり〉というものは、実質的に私たちが雨風をしのぎ、何があっても安心して暮らしていけるようにするための骨格です。人生の骨組みをなすものと言えます。

 

この〈譬え話〉を読む時、〈丸太〉や〈梁〉には、そのような意味が隠されていることを知りたいのです。

 

                    **************

 

パウロという人が回心し、キリスト教の伝道者として歩み出すその直前に、あるものが目から落ちた、と記録されています。

 

それは【うろこ】です。使徒言行録9章18節に【すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち】とあります。

 

正確には【うろこのようなもの】とあります。

 

人間の目にはうろこがあるはずがありません。

 

                    **************

 

では、【のようなもの】とは何だったのか。

 

英語の聖書では「うろこ」は「scales」が使われることがあります。「scales」にはもちろん「うろこ」の意味もありますが、それ以外に、「物差し・定規」という意味があります。

 

パウロは、彼のこれまでの「価値観」「人生の尺度」を神さまによって振るい落とされ、新しい人に変えられ、伝道者として用いられていったのです。

 

                    **************

 

イエスさまは【まず自分の目から丸太を取り除け】と語られますが、丸太を自力で動かすことなど、私たちはどう頑張っても出来ません。

 

唯一それが可能な道。それは、イエスさまによって〈丸太〉を取り去って頂く方法です。イエスさまが磔(はりつけ)にされた十字架を思い起こしましょう。

 

あの十字架は、私たちの目の中の〈丸太〉。

 

いえ、私たち罪人の人生の骨格をなしていた〈丸太〉であり〈梁・はり〉だったからです。end

 

 


2017年4月24日(月)旭東教会から歩いて10分。サイの像がある公園をお散歩。新緑と青空が眩しかった。西大寺の公会堂が後方にあります。
2017年4月24日(月)旭東教会から歩いて10分。サイの像がある公園をお散歩。新緑と青空が眩しかった。西大寺の公会堂が後方にあります。

         《  み言葉 余滴  》 100

      2017年4月23 主日礼拝からの"余滴" 

       『  わたしも疑っていました  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 ◎マタイによる福音書 28章16節~20節
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

新約聖書のいちばん初めに置かれているのが『マタイによる福音書』です。福音書の中では一番長い28章。60㌻に及ぶ長編です。

 

この福音書が書き上げられ、各地の教会で読まれるようになったのはいつ頃か。諸説ありますが、完成はどんなに早くても西暦70年過ぎと言われます。

 

イエスさまの活動舞台であるユダヤ近隣以外にも、現代のトルコとかヨーロッパやアフリカの各地の異邦人の地に教会が誕生しました。

 

しかし福音が広がり始める一方で、困難な課題に直面し、元気を失いそうになっていた教会の人々を勇気づけようとした内容がここにはある。

 

わたしはそう読みました。

 

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マタイ福音書の最後にはイエスさまの約束のお言葉があります。何と書かれているのか。見過ごしてはもったいない。

 

【いつもあなたがたと共にいる】。

 

イエスさまはこのひと言をどうしても伝えたかったのです。

 

初代キリスト教会の人々はこの言葉をみんなで聴きました。何かしらの疑いや不安を持ち始めていた各地の教会の人たちは、最後のこの言葉をかみ締めます。

 

もう一度、ひとりのクリスチャンとして、信じる者たちの群れとしての姿勢を整えていきました。頑張れると感じたのです。

 

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あれ? これってどこかで聴いたことがあるような気がする。そう思われる方が居られるかも知れません。

 

実は、クリスマス物語として知られるマタイ福音書1章で、イエスさまのお父さんになるヨセフに対して、み使いが語り伝えている言葉にそっくりです。

 

【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(1:23)とあります。

 

福音書記者マタイは、初めにもおわりにも、【いつもあなたがたと共にいる】と記して、念押ししているのです。

 

これこそわたしたちへのメッセージです。

 

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疑いを持っている弟子たちがその時にいたと記されています。

 

【イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。】とある通りです。

 

ある英語の聖書では「疑いに満ちていた」をあらわす語が使われています。約束されていたガリラヤでイエスさまと再会した11人の弟子たちのうち、複数名がひれ伏しながら疑っていたのです。

 

      **************

 

これは、けしからんことでしょうか。

 

いいえ、ここにこそ福音があります。信じ切れない者を、信仰がすぐに萎(な)えてしまうような者を、イエスさまは信頼して下さる。不思議です。あり得ません。

 

でもこれこそが、神さまのなさり方。ここに神の愛があります。

 

キリストの愛に応えたい。その心が伝道の第一歩です。end

 

 


2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪
2017年4月2日(日) 洗礼式を執り行いました。寿子さんおめでとう。神さまのご計画です(^^♪

         《  み言葉 余滴  》 97

      2017年4月2 主日礼拝からの"余滴" 

       『  ごめんね ユダ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 27章3節~5節
3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

 

北島三郎さんが歌った『帰ろかな』という歌があります。永六輔さん作詞、中村八大さん作曲です。久しぶりに聴いてみました。

 

昭和40年・1965年の歌ですから、私が幼稚園児の頃です。

 

そんな私ですら、「帰ろかな 帰るのよそうかな」の繰り返しの部分をハッキリ覚えています。

 

                    **************

 

イスカリオテのユダ。裏切り者の代名詞です。

 

この人さえいなければ、イエスさまのご受難の頂点、十字架の死はなかったのでしょうか。

 

私は、「ユダさん、あなたは確かにイエスを引き渡した張本人だよね。サタンがあなたに狙いを定めて入りこんだんだ。でも、でも、でもね、あんただけが悪者じゃないよ」と言いたくなってしまいます。

 

蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げて行ったほかの弟子たちはどうなのよ。奴らは何をしていたんだ、と思わないではいられません。

 

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パウロは〈神の家族〉という言葉を『エフェソの信徒への手紙』で語っています。

 

【あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり・・・そのかなめ石はキリスト・イエスご自身】(エフェソ書 2:19-20)

 

〈神の家族〉。教会生活を続ける私たちにとって鍵になる語の一つです。

 

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ユダの裏切りやイエスさまのご受難に直面した時、共に歩んできた弟子たちの心には、〈神の家族〉としての〈アイデンティティー〉は無かったのでしょうか。

 

〈アイデンティティー〉という言葉。

 

少しむつかしいですが、たとえば『新明解国語辞典』では、「自分という存在の独自性についての自覚」と説明されています。

 

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神に選ばれ、イエスさまに召し出され、世にはない特別な恵みとあわれみに生かされて来た弟子としての自覚はどこに?

 

助け合い、赦し合い、認め合いながら生きるのが主の僕だったのでは? と問いたくなります。

 

ユダは祭司長たちの処(ところ)ではなく、まず、労苦を共にしてきた〈神の家族〉である弟子たちの処(ところ)に戻ることは出来なかったのでしょうか。

 

                    **************

 

悲しいかな、弟子たちは世にある生身の人間でした。

 

彼らにはまだ〈神の家族〉の自覚を持てず、自分のことだけしか考えられなかった。取り返しの付かないことをしたユダが、帰る場所をつくり出せなかったのです。

 

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でも、そんな彼らが、主イエス・キリストの十字架と復活、そして約束の聖霊の出来事を経て、初めて「お帰り、ユダ」「つらかったな。本当にごめんな」と言える人に変えられて行く。

 

そこに〈神の家族〉は誕生するのです。

 

私たちも〈神の家族〉としてゆっくりと深まって行きたい。

 

そのためには、互いの弱さと罪人としての自覚、告白が求められるのです。end

 

 


2017年3月12日(日)の献花。亮子さんが正面からでは見えないところに生けておられたのがこの〈紫色〉のお花。「そして、イエスに紫色の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王、万歳と言って敬礼し始めた」(マルコ福音書14:17)に通じるレント・受難節の色です。
2017年3月12日(日)の献花。亮子さんが正面からでは見えないところに生けておられたのがこの〈紫色〉のお花。「そして、イエスに紫色の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王、万歳と言って敬礼し始めた」(マルコ福音書14:17)に通じるレント・受難節の色です。

         《  み言葉 余滴  》 94

      2017年3月12 主日礼拝からの"余滴" 

    『 〈最初(さいしょ)〉の晩餐 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 26章26節~28節
26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

 

食べることを大切にされていた大先輩牧師の思い出があります。

 

残念ながら70歳そこそこで天国へ召された、藤原亨(とおる)先生という方です。

 

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私が神学生になる前は鹿児島加治屋町(かじやちょう)教会の牧師でした。奄美大島のハンセン病の療園教会訪問の中継点として銀座教会の先輩方と共に伺った折り、礼拝で証しの機会を頂きました。

 

その後、神学生時代に、転任された富山県砺波(となみ)市にある出町(でまち)教会で再会します。夏期伝道実習生としてお世話になったのです。牧師館で食卓の祈りもご一緒したのは懐かしい思い出です。

 

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藤原先生。私が新潟県上越市の高田教会に着任したことを知ると「これ、日本一のお焼きだよ」と言いながら、信州名産のお焼きを、袋いっぱいに抱えて来て下さいました。

 

そんなこともあって、隠退後は、私が兼務していた妙高市・新井教会の礼拝応援に二ヵ月に1度は、富山県から改造した車に寝泊まりして駆けつけて下さるなどして、本当に熱いこころをもってご指導下さった方でした。

 

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そんな藤原先生がこう言われたのです。「人は、他のことは忘れても、誰とどこで、何を食べたかを忘れないもの。食べることは大切なんだよ」と。

 

私の場合、幼い頃の朝食は忘れられません。味噌汁は豆腐と油揚、ワカメ、ナス、キャベツ等。魚系では、目刺し、アジのみりん干し、焼きたらこ等。他には、鯖の味噌漬けがよく出たことを直ぐに思い出せます。

 

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世界の多くの画家たちが、聖書から何かを描こうとする時に欠かせないのが「最後の晩餐」という名で知られるようになったこの場面です。正式には「過越の食事」というものです。

 

聖書の中に登場する古い人々は、過去の恵みを振り返り、苦難から救いだして下さった神さまの愛を忘れないようにするために、様々な工夫をしました。

 

それが春先の「過越の食事」です。

 

出エジプト記12章24節 に【あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。】と教えられている通りにです

 

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ところが、イエスさまは、当時の人々からすると「えっ、何?ちがうよ」と思うような仕方で「過越(すぎこし)の食事」を終えられるのです。

 

実にこの晩餐は〈最後〉ではなく〈始まり〉の合図でした。イエスさまは新しい道を、深い祈りをもって踏みだされたのです。

 

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主が裂いて分かたれたパンを食べること。イエスさまが祝福されたぶどう酒を飲むことの意味に気付いた最初のクリスチャンたち。

 

彼らは「過越(すぎこし)の食事」はもうやめにしました。そして、新しい道へと踏みだすのです。

 

そして私たちも、イエスさまがこの時になさった「最初(さいしょ)の晩餐」の仕方を、日曜日の礼拝で大切にしています。ずーっと、これからも、とこしえに。end

 


2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。
2017年3月5日(日)の献花。亮子さんのご奉仕です。受難節・レントに相応しい色合いです。素敵です。

        《  み言葉 余滴  》 93

     2017年3月5 主日礼拝からの"余滴" 

      『  誰がユダでないのか

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

 ◎マタイによる福音書 26章20節~22節、25節
20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。・・・・・・25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 

幾つもの国語辞典で「裏切り者の意味の代名詞」とまで解説される人がイエスさまによって召し出された12人の弟子の中に居ました。

 

イスカリオテのユダです。

 

〈イスカリオテ〉は旧約聖書に3度出てくるケリヨトという地名と関係しているようです。〈ユダ〉という名前は聖書の中の中心的な民であるユダ族、そして、ユダヤ人とも深い繋がりがあります。皮肉なものです。

 

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ガリラヤで漁師をしていたペトロら4人や、徴税人だったマタイなどに比べると、イスカリオテのユダは、12人の中でも異質の人だったと想像できます。

 

ヨハネによる福音書12章6節では【彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた】とまで言われているのです。

 

会計係を仰せつかるという位に12弟子たちの中では信頼の厚い存在だった。

 

そのユダが、イエスを抹殺しようと策略を練っていた祭司長たちに対して、僅か銀貨30枚で掛け替えのないお方を売り渡すのです。サタンの働きです。魔がさすとはこのことでしょう。

 

**************

 

なるほど、裏切り者の代名詞、と言われるのも無理もないかも知れません。言い換えれば、罪人なのです。

 

更にユダの印象が悪いのは、彼の最期と無関係ではありません。マタイによる福音書では27章にこうあります。

 

【3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。】

 

**************

 

わたしは、イスカリオテのユダのことを、自分とは縁遠い人物とどうしても思えません。聖書の文面には出てこない、ユダにはユダの言い知れない悲しみがある。そう思えてならないからです。

 

ただ一点、ユダの悲劇と結び付くのではと感じるイエスさまの宣教の第一声があります。マタイ福音書4章17節です。主イエスは【悔い改めよ。天の国は近づいた】と言って、私たちも含むこの世への宣教を開始されました。


ユダに必要だったのは、単に「後悔する」ことではなく、「帰るべき場所に立ち帰ること=悔い改め」だったのです。

 

彼は帰る場所、方向を間違っていた。

 

わたしたちは本当に大丈夫でしょうか。end

 

 

 

 


2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。
2016年11月27(日)旭東教会の玄関に飾られた、クリスマスリースの仲間のスワッグと呼ばれる飾りです。

        《  み言葉 余滴  》 80号

        2016年11月27 主日礼拝からの"余滴" 

      『 スキャンダラスな人々 』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎マタイによる福音書 1章1節~3節、6節
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、・・・・・・6 エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、

 

新約聖書の冒頭にあるマタイによる福音書の系図。聖書を手にする多くの人が、なんてつまらない話だろう。読み飛ばしたいと思う箇所です。

 

「悪魔が、私たちに神の言葉を読ませないように、眠くならせるための仕業なんですよ」というジョークがある程です。

 

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イエスさまの生涯が描かれている4つの福音書の中でも、マタイ福音書は旧約聖書からの引用が飛び抜けて多いのです。ここには福音書記者マタイの明確な意図があります。

 

彼はある人々に狙いを定めてこの福音書を書き始めたのです。それは系図から話を始めるスタイルに慣れているユダヤの人々です。

 

「ほぅー、系図から始まるのか。こりゃ面白そうだ」と感じるタイプの人たちでした。

 

聖書の舞台であるユダヤの人たちは、自分たちこそ神に選ばれた特別な民なのだ、ということが系図で確認されると嬉しくなるのです。

 

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マタイによる福音書が読まれ始めた西暦70年~80年頃は、もちろん印刷技術などありません。聖書は朗読されるものでした。

 

やがてこの福音書も多くのユダヤ教徒の耳に届くようになります。

 

そこから、波紋が広がり始めるのです。波紋はすぐに大波に変わります。確かにこの系図には、イスラエルの民としての誇り高い歴史を築いて来た人々の名前もありますが、見過ごすことが出来ない人たちのことが含まれているからです。

 

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見過ごすことが出来ない人々とは、恥や破れをさらけ出した人たちのことです。ソロモン以降には、主の目に適(かな)わないことを繰り返したユダヤの王たちの名も続きます。

 

さらに、当時の常識では考えられないことですが、系図にはタマル、ラハブ、ルツなど女性の名があるのです。ダビデと姦淫の関係を持つバト・シェバのことも記録されています。

 

無名の人たちも、後半には多数記されています。もちろん、イエスの母となるマリアもです。

 

この系図に救い主であるイエスさまが繋がっている!躓(つまず)きに満ちたあの人この人。世にあって小さくされた人々が、イエス・キリストの先祖なのです。

 

しかしこのような系図は、選ばれた民としての誇り高きユダヤ人には、スキャンダルに満ちた価値のないものであり腹立たしいものでした。

 

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後ろ指を指されても仕方ない何かを抱えながら私たちは生きています。穴があっても隠れようがない、破れかぶれな過去や現在もあります。

 

そのことを神のみ前で正直に認めることが出来る時、マタイによる福音書1章の系図は、決して読み飛ばすことが出来ない宝物に変わり始めます。

 

だって、私たちの名前も行間から浮かび上がって来るのですから。end

 


2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場
2016 年5月に行った教会ピクニックにて ラザロ登場

           《  み言葉 余滴  》 73号

         2016年10月2 主日礼拝からの"余滴" 

         『   待ち続けた人 ラザロ  』

牧師 森 言一郎(モリ ゲンイチロウ)

◎ヨハネによる福音書 11章43節~44節
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

ラザロの復活の物語。

 

ヨハネによる福音書のひとつのクライマックスを迎える場面です。

 

続く12章から、イエスさまはエルサレムに入場され、弟子たちの裏切り、裁判、十字架刑、そして復活と続くのです。

 

ラザロはエルサレムまで3㎞程のところにあるベタニアに暮らしていました。マルタとマリアという姉妹がいます。

 

ラザロの復活が語られる場面であるにもかかわらず、物語はマルタとマリア、そして弟子たち、さらには群衆を中心に展開します。

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イエスさまとラザロ、そしてその姉妹との関係について福音書記者ヨハネはこう伝えています。

 

【イエスは、マルタとその姉妹(=マリア)とラザロのことを愛しておられた】(11:5)。

 

【わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。】(11:12)。

 

主に〈愛され〉、〈友と呼ばれる〉親しい交わりの中にあることがハッキリと伝えられているのです。

 

ところが、イエスさまは【主よ、あなたの愛しておられる者(=ラザロ)が病気なのです】(11:3)と伝えられても直ぐに行動なさいません。その理由は不明です。

 

とにかく、神の時が来るまで待たせるのです。時間にして96時間。丸4日でした。

 

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聖書が伝えるラザロという人は、ひと言も口を開かない人です。

 

ラザロの役割は、徹頭徹尾、受け身です。彼は登場した時に、既に重病で床にあり、自分では何もできず、マルタとマリアの看護、あるいは介護を受けるだけでした。

 

死んでしまった後はなおさらです。布に包まれ葬られます。そしてラザロは、復活の時にも何も言葉を発しない。彼の体をグルグル巻きにしていた布をほどいたのも周囲の人たちでした。

 

つまりラザロは完全に受け身の人なのです。もっと言うならば、彼は受け身であるところから出発する以外にはない、無力な存在でした。

 

よくよく考えてみると、彼は信じて待ち続け、任せて委ねるしかないのです。

 

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自らの力や思いから弱さゆえに自由になり、イエスさまに信頼し、待ち続けるところから信仰を持つ人になった。

 

それがラザロでした。神さまはラザロのような存在を通して復活の出来事を起こされたのです。

 

これこそ神さまのご計画です。

 

わたしたちにもラザロに倣う道があります。力を抜いてラザロに学びましょう。

 

やがてラザロはイエスに敵対する人々から命をねらわれる程に、その存在を通して証しを始めるのです(12:10)。end